八六
民 族 集 團 に 於 け る 統 一 の 概 念
中 野 清
一如何なる種類の集團であるにせよ︑それが集團である限り︑何等かの意味での﹁統一﹂を示現してゐない様
なものはない筈である︒}定種類の集團がそこにあるといふことは一定の様相の統一がそこにあると廓ふご乏
であつ︑この種類の集團が解饅七つ玉あるといふことはこの種類の統一が崩潰しつ︑ある乏いふ之とである︒﹁
民族と呼ぜれゐ適の蚤又一つの集團の種類を現してゐる︒若しそうであるならば民族集團も叉何等かの意味で
の統一を示現してゐる筈でなければならぬ︒ではて曳拡いふ銃一乏臓民族集團の場合如何なる事情によつて成
立せ←められ︑かつどれほ芝の具髄的内容をもつものなのかη
一一
めビ民族の本質が何であるかの詮明に關して客観主義的立場と呼ばれる一群の見方がある︒この立場にたつ限り
民族忙おける統一が何において存してゐるかの問題は比較的容易に答へられる︒例へば等しく客観主義的立場
を乏るもの﹂声にあつて最も簡明直載なものとみちれる血統共同艦読についてみる︒そこでは民族の本質が血
統を共同にするといふ事情のうちに求められてゐるρ若しこの見方にして正しいとするなちば民族における統
轟とは血統の共同に他ならないと簡軍に答へられる︒しかtこの見方には数々の難融が含まれてゐる︒﹁第一に
血統の共同とめふ概念自艘は自然科學的に見て嚴密なものではない︒第二によし自然科學的に見て嚴密な概念
であつたとしたところで血統の共同の存するところ恒に必すしも民族集團が成立するわけではなく︑叉その反
封に血統の共同なき範園にわたつて民族集團が成立する場合があるといふ現實を読明することができない・︒第
三に今一度血統の共同といふことが嚴密な概念であ勢︑かつはこの嚴密な概念をもつて現實に存在するすべて
の民族集周を'要當に説明←うると許したところで噛そこに成立してゐる集團は實は車なる血統共同集團にすぎ
す民族集團そのものではないρ一定群の人々に血統の共同といふ事情があると﹂いふだけでは客観的にみて一括
しで考へらる一定群の人々の範園がそこにあると肋ふに北る︒か様な範園としてはいくつかのものが指定せち
れよう︒この場合血統の共伺といふ事情があくまでも客観的な︑自然科學的にみて嚴密なものとして眺められ
てゐる限り︑こ︑に措定せられた払鴎つかの︑一定群の人々の範園は相互に唯匠別せられるにすぎぬ︒匠別せ
もれたもの依唯客観的にそう匠別せられてあるだけであρてその間︑債値禮統の上での差別が存してゐるわけ
民族集團に於ける統一の概念(中野)入七
;)拙 稿 、民族及國民 の本質(小 樽 高商二十五 周年 記念論丈集)、II5頁 以下 謬照o
艦
F・・︑亀咽・﹂・ご.罵炉・八P入
・ではない︒血統の共同といふ概念を自然科學的に嚴密なもの乏霞て把持していく限り︑存在面での匝別は與ぺ
ちれるであちうが︑如何なる意味でかの債値に關係七ての差別は施されえない筈である︒しかもこの債値上の
差別を施しうゐ様な事情が現れてこない限少︑さきに一括もて眺められた一定群の人々の範園は民族集團と呼
ばれうるための基本的な資格を未だ備へてはゐない︒︒挙面上の輩なる匠劃が債値髄統上の上下差別にまで推移
するのでなければ民族集團はか曳るものとしてその存立に入つてこない︒而してこの様な推移を促す事情は唯
客観的な血統の共同といふ事情だけでは與へられ℃さない︒血統を共同にするとみられる憎定群の人々の間
に︑.この血統の共同といふ事情についての一定の心構へが成立してくるのでなければ平面上の琶劃は腿統上の
差別にまで推移せしめられない︒若しこの推移なくして民族集團は成立しえないものであるとするならば︑こ
の必要な推移をもたらす事情の申にこそ民族集團の本質契機が求めらるべきでなければならぬゆ第四にご玉に
いふ血統の共同といふ事情が自然科學的概念として璽はなく象徴的意義に用ひられてゐるにすぎぬとみるごと
を許す老してもな鷹次の様な難瓢を指摘することができる︒・象徴的意義に用ひられるといつても二つの場合が
旺別せられうる︒一つは血統の共同といふ言葉が他の事情しかも專らその客観的なるもの︑ 例ぺば傳統の共同
めといふ事情を象徴してゐるといふ様な場合であ少︑他はこの言葉において他の事情しかも專らその主観的なる
もの︑例へばこ︑にあくまでその存立嚢展が希求せらるべき集團範園があるといふ心構への共同といふ事情が
あ
象 徴 せ ら れ て ゐ る と い ふ 場 合 で あ る ︒ 若 し 前 者 の 場 合 で あ る な ち ば こ れ に 封 し て わ れ わ れ は 既 に 記 し た 様 な 第
2) 3)
Jo砿scohnに こ う 考 へSう ど し て ゐ る;Dersi㎜dergegenwgrtigenI〈ultur‑;
1914,S.Ig9.
F.Hertzは こ う 考 へ よ う と し て ゐ7こ 檬 に み へ ろ;ZurSoziologiedesNation unddesNationalbewutzseins(Archivf'Sozialw.u.SozialpoL,Bd.65,Ig31),
S.5f.
三の難鮎を指摘することができる︒叉若し後の場合であるならばそれは既に血統の共同をもつて民族の本質を
読明しようとする立場を放棄したことを意味するものである︒若し血統共同禮読にしで以上に列記してきた様
な難鮎をもつものとすれば民族における統一を極めて簡軍に血統の共同に求めるといふことは許されない筈で
あるo若し血統の共同が嚴密な概念でないとすればこの事情のうちに統一のあり場所を求めることは無理であ
るし︑又よし血統の共同が嚴密な概念であることを許すとしたところでこ玉に與へられてくる統一は唯干面上
匿劃せられた民族ならざる他の集團の統一であつて民族そのもの曳統一であるとはいへない︒
}般に客観主義的立場の致命的な難顯は︑それが如何なる種類のものであるにせよ客観的な事情は唯一定群
の人々を平面上において匠劃しうるに止りそれ以上の契機ではありえないといふことである︒そ︑の限り何等か
の客観的事情の存在のうちに求められた統一とは民族集團そのもの﹂統一ではなくして︑これに似て非なる集
團そのもの﹂統一にすぎない︒客観主義的立場にたつ限り民族における統一の問題は比較的容易に答へられる
とさきに記したが︑問題が容易に答ぺられてゐるのは固有の問題がとらへられてゐ・ず︑實は似て非なる問題が
とらへられてゐたがためにすぎない︒:
等しく客観主義立場に属しながらも特異なる一つの見方がある︒バゥエルによつて読かれた様な形での蓮命
り共同禮読であるρこの見方が特異であるといふのは他の種の客観主義的立場に封して自ら綜合的であらうする
立場にたつてゐるからであるゆバゥエルは運命の共同といふ事情こそ民族概念の掴軸をなすものであつて︑他
民族集團に於けろ統一の概念(中野)・入九
4)Otto.Bauer,1)ieNationalitatenfrageunddieNationaldemokratie.1924.『 な ほ Bauerの 民 族 理 論 に 關 し てlt拙 稿 、 民 族=蓮 命 共 同 髄 説 の 吟 味(「 商 學 討 究J、
第 十 巻 中 冊)、 謬 照o
読・・:.,九〇
め種の客観附事情例へば血統︑言語.}佳居︑道徳及慣習︑法律及宗敏等における共同といふ事情は何れも蓮命
の共同といふ究極事情が作用していくに當つての︑或は﹁作用の條件﹂を提供する慰の︑或は作用の手段たり
道具たるにすぎないものと見微もていくゆこの考へ方を今民族における統一の問題に關聯せしめるとこの瓢に
ついてのバゥニル的な理解はおそらく次の如くであらう◎蓮命の共同といふ事情以外に指摘せられる一切の事
の惰において假りに統一が求め得られたとしでもこの種の統﹂は︑蓮命の共同といふ事情のうちに見出される統
﹂が示現してゆくための手掛ゆ的な意味しか竜つてゐない︒・假妙に運命の共同における統一を固有なる統,一.ど
呼ぶことが許されるなら︑これ以外の事惰において求められた統一.はζの固有なる統一に樹しで唯機縁的意義
しか有せぬ様な統一にすぎぬといはれうる︒
われわれはか﹄るバゥエル的理解に封して次の様に嚢言する︒機縁的意義における統一からこれこそ固有な
る統一として指摘ぜられたところの︑運命の共同といふ事情のうちに求められた統一はそれ自罷叉實は固有な
る統一を現すものではなくして唯機縁的意義を有するものにすぎぬと考ふべきである︒,では何に封しての機縁
的意義であらうか︒よつてもつてその上に一定の主観的心構へにおける共同が加はるに當つての機縁的意義で
ある︒この心構へが加はるのでなければ民族集團は成立しない︒この意味において民族概念の福軸である乏こ
ろのゾ定の主観的態度の成立に封して︑蓮命の共同といふ事情は機縁的意義しかもつてゐないとわれわれはみ
てゆくρ
5)こ=で に勿論客観的事情 のみ彪指 して ゐ る。
瓢
一一 一
・ 民 族 の 本 質 に 關 す る 客 観 主 義 的 立 場 に 封 立 す る も の は い ふ ま で も な く 主 観 主 義 的 立 場 で あ る ︒ わ れ わ れ が と
めらうとする立場はこの系統に所屡してゐるが︑・ひと度立場を主観主義的なものに構へると民族における統憎の
態様及び根挨如何の問題は著しく困難なる問題として眼前にたちはだかつてくる︒何故に著しく困難であるか
についてはこ︑では特別に燭れない︒以下の行論のうちに自ら理解せられてゆくであらうからである︒
民族の本質をわれわれが理解する様な意味で主観主義的に規定して行かうとする場合︑不断に念頭からはな
してはならぬ一つの基本的なる事柄がある◎勘くともわれわれのこの歴史的段階に於ては民族と呼ばれる集團
は私のいふ限界集團に所周してゐるといふ事實である︒その範園を超へる時︑最早や積極的にして統一的な秩
わ 序が見出しえない様な種類の集團を私は限界集團と名づけたのであつた︒換言すれば積極的にして統一的な秩
序なり叉はか﹂る秩序への強き可能性が見出されうる最後の限界を自らの集團範園において與へでゐる様な種
類の集團の謂に他ならない︒この基本的な事柄を念頭にしながらわれわれは次の檬に民族の本質を求めようと
した︒等しく限界集團と呼ばれるもの玉うちにも例へば國家の様なものがある︒この種類のものでは集團存立
の基礎があくまで現實的である︒これに反して限界集團にしてしかもその存立の基礎を一定の主観的心構への
うちにもつてゐる様な種類のものがある︒特定の人々の示す限界圏を或ひはそれが傳統的に成立して來たと債
民族集團に於ける統̀一の概念(中野)九一
1)拙 稿 、 民 族 及 國 民 の 本 質 峯 照0 2)同 上 。
︑ 九二
値評債的に確信し︑或ひはそれが理念的に確保進展せしめらるべき存在であると観念的に把持したりする心構
への共同のうちに集團としての存立根擦をもつてゐる様な種類の限界集團である︒この種類の集團こそわれわ
れが民族と呼ばうとするものに他ならない︒この意味でわれわれは民族は観念的なる限界集團であると呼
んだ︒
さてこれだけのことを記憶にょびおこしながらこの意味での民族概念における統一の態様なり根擦なり如何
の問題に直面してみよう︒
四
民族集團はなによりもまつ限界集團に所屡してゐる︒ところで限界集團における限界性が限界性として規定
せられるためにはそれとの關聯において始めてか様な規定作業がなしえらる︑様な二つの方向叉は側面が與へ
られてゐなければならぬ︒その一は内への方向叉は内的な側面であり︑その二は外への方向叉は外的な側面で
あるゆこの二つの方向又は側面に關聯せられてのみ限界性は限界性としてうきあがつてくる︒限界といへば恒
に何かの限界であると共に何かに封つての限界である筈だからである︒,今民族集團を唯限界集團に所屡するも
のとして︑唯これだけのことを念頭におく限の(といふのは限界集團内にあつて民族のみに固有する凝念性と
いふ契機を今姑く考慮の外におくといふことである︒これを考慮のうちにいれてゆくといふことはやがて後に
なされる︒)そヒにも二つの方向叉は側面が考へられなければならぬ︒それは何か︒︑︑︑:〜'
先づ内的側面から考へてみる︒この方向に於て檬々な集團が存在する︒そのすべてが所謂組織を備へてゐる
わけではない︒又集團範園の廣狭の鮎からみても様みなものが存在してゐるであらう9結合の事惰も結束の張
度も種々雑多なものであるに違ひない︒今こ﹂ではその一々に立入つてゐる必要は存Lない︒こへでの限り必
要なことはこれらの考へ得られるすべての集團にわたつて若干の共通なる約束を抽出七てくるこ乏であるコニ
つの事情が注目すべきものとして存在するっこれらのすべての集團は各々の集團を中心としてみる限り相互的
秩序系列を示してゐない︒なるほどある部分を限つてみるならば水亭的な蓮絡關係なり垂直的な膣統關係なり
がみられるであらうし︑叉場合にょつて同一.個人叉は同一機能をめぐつて各々の集團圏が交錯することから自
ら招來せられてくる如き相互索蓮の關係を存してゐることであらう︒しかしこれらの形での相五的秩序の檬式
は部分的であるし︑よし或場合には全般的なものであ勿えたとしてもあくまでいはΨ微分的なもの︑しかもた
えす何時でも解盤の危瞼にさらされてゐる如き動揺的なそれでしかないに違ひない︒この鐵が注目さるべき共
通なる約束の第一のものである︒さらに進んで考へる︒これちのものは何れもこれらを組成してゐる個人に封
する關係において全面性を主張しうる如き事情にあるものは一つもない︒個人生活の全領域に封して各々の集
團は部分的機能を通して部分的に接燭してゐるにすぎない︒この鮎が注目さるべき共通なる約束の第二のもの
である9上に述べた様な二つの事情を共通にもつてゐる雑多なる集團が存在するところこれらのすべての集團
民族集團に於ける統一の概念(中野)九三
﹁九四
を何等かの意昧において或は統一せしめ麟一せしめてゆく蹄着顯としての限界集團が自ら要求せられて︽る筈
である︒各種の雑多なる集團が統一的な相互的秩序系列をそのま玉の形では示してゐないといふ現實から﹂
セ︑かへる秩序系列を有するものにまで整列せ七めようとするところに自ら限界集團が存在に入つてくる止考
ぺられるし︑叉亡れらの雑多なる集團が何れも部分性tかもつてゐないとすればこの側からも全面性を有する
ものとしての限界集團への要求が自ら嚢せちれでくるに違ぴない︒勿論限界集團への要求の淵源たる事情は冷
ソよし着眼をその内的側面に限つてみたにもたところで︑勿論以上述べたものだけに限られでゐるわけではな
い︒何がそれ以外に考へちれるかにりいては後に鰯れること︑してこ︑では姑く.看過したいが︑以上に述べた
様な事情の存在に注目七てお︽といふことは民族における統一のよりどころを指摘しでゆく場合に極めて必要
なことなのであるゆこういふことの意味は後に自ち明ちかになるであらう︒
次いで外的側面について考へてみよう︒限界集團と呼ばれるもの亀外に存在する集團としては三種類のもの
が考へられる9第一は所謂世界集團である︒第二は國際的性質をもつ集團である︒第三は他の限界集團であ
る︒第一のものと第二のものとの匠別はこ玉では唯一方は全包括的であり他方は部分的であるといふ鮎にある
と言つておけば足りよう︒さてこれらの三者に封する如何なる關係によつて限界集團の限界性は如何に規定せ
られてゐるとみるべきであちうか︒世界集團との關係かち考へてみる︒世界集團は全艦としての統一的積極的
秩序をもつてゐない︒その限り全盟としては人々の生活の維持進展を保誰しうる費格をもつてはゐない︒こう
・いふ現實にあるといぶことから限界集團はこの世界集團の範園にま窓援大せられすその中にあつての}定範園
に隈定せられてゆく結果が招來せられてくる︒形式的にはこれだけのことがいはれうる︒しかし一歩をす諏め
て之玉に形式的に指摘したにすぎないζとがらの現實的な具艘的な内容に立入つて考へてみるのに︑世界集團
の側からこの様な規定づけをうけつへあるといふことはとむもなほさす他の限界集團の存立から上の如き規定
をうけてゐるといふことに他ならない︒何故ならば世界集團が全膿として統一的積極的秩序をもつてゐないと
いふことは結局か︑るものを與へる悉のとしていくつかの限界集團に分岐してゐるといふ現實内容をもつてゐ
る乏いふことだからである︒い次に國際的な性質をもつ集團からの規定づけについて考へてみよう汐先づこの集
團はわれわれの時代の歴史的段階を念頭にする限り統一的積極的秩序を有するものではなく︑從つてそれ自盟
一個の限界集團をなしうるものではない亡乏が充分に注意されてよい︒ところでか玉る性質をもつこの種の集
'團なか玉る集團の存在するといふこと自罷が限界集團の恨界性を危ふからしめるといふ形で限界性に規定を及
ぼしてゐるし︑叉この種の集團はそれぞれの限界集團によつて各々の勢力行使の手段として利用せられ易い關
係にたつともみられる︒前の場合には猫立な規定作用を示してゐるし後の場合にはそれは結局他の限界集團よ
りする規定づけのうちに含ましめて考へられる方が便宜であらう︒最後に他の限界集團に封する關係かち招來
せられる規定作用について考へてみよう︒他の限界集團がそこにあるといふことはそれだけ積極的にか消極的
にか自らの限界集團の限界性が危ふかちしめちれてゐるといふことに他ならないゆこういふ形で限界性が規定
民族集團に於けろ統一の概念(中野)九五
九六
せられてゐる︒しかもこの場合か玉る限界性の規定づけが相互に交換ぜられるといふ事情がみられるところこ
の側から來る規定作用は他の場合に比して甚しく強烈なものとならざるを得ないに違びない︒こう考へてくる
ヒとが許されるならば結局限界集團が外に封する關係からして自らの限界性の上に蒙りつ︑ある規定作用は二
鮎に齢着する︒その一は國際的性質の集團の存立それ自艦から獲ぜられてくる様なものバ他は他の限界集團の
存立から護せちれてくる様なものである︒}﹂
限界性を限界性としてうきあがらしめてゆくと考へられる契機を内と外とに匿別しながら考へて來た︒こ︑
をで考へが進められてくるとそこには今一つの考へらるべき事柄が既に眼前に横なつてゐる︒この二つの方向
かちの規定作用は各々直接に規定作用を及ぼしてゐる許りではなくして︑か襲る規定作用が相互に索聯し合ふ
といふ過程を通もて各々の規定作用を進めるといふ事柄が考へられてよい︒さをにみた檬な場合を︑それが内
的側面からであるにせよ叉は外的側面からであるにせよ直接なる規定作用の姿と名づけておくことができるな
ちば令新だに注月←つ︑ある場合はその間接的なる規定のそれであると呼ぶ七とができよう︒内的側面におけ
る例へば雑多なる各種集團の全般にわたつて秩序系列をもたしめようとする要求は自ら他の範團における限界
集團の限界性をいは穿刺戟するであらうし︑ζの刺戟がそのま︑自らの限界集囲の範園内にあつての雑多なる
集園の存在に齢趨するところを與へようとする努力となつて現れてくるであらうしこ︑を通して限界性を愈々
うきあがらせてゆくζとが考へられる︒函際的集團の存在する事實からくる限界性への刺戟はそのまへ一限界匿
集團内にある雑多集團の間の無秩序的な存在にも作用してゆ︽事情であり漁かムる作用のみられるとこ6愈乏
雑多集團の聞に秩序を施さうとする動きとなつて現れ︑それはそれだけ限界性を彊固なるものに響で推しす忘
めてゆく事情どなつでゆぐ鷹違ひない︒これらは思ひつく=一の例を學げたにすぎないが同様の事は他の場合
についても,叉言はれうるであらう◎今こ玉では繁雑をおそれて一々・の場合には立入らない︒ー・・.〜毎
五
・民族集團はた讐に限界集團であるにと讐まちすその申でも槻念的なる限界集團であるっこの事實から数考の
著七い特徴をひきだLてくることができる︒こ︑では民族における統一の問題を考へてゆくに當つて直接に關
聯があると思はれる典の一鮎のみを摘記しておきたい⑩r̀・己ひ︑
〆民族が観念的な限界集團であるといつたζとの意味はこの集團が限界集團として存立してゐることの根本の
事情がか瓜る限界集團を限界集團とむて或ひはその傳統的連綾性を確信し或はその課題的進展性を意慾するこ
とにおける共同といふヒとのうちにひそんでゐるといふことを指してゐる︒こ︑ではあくまでも観念的に一定
群の人々がか曳る限界集團に所属するものとして把束せられてゐる︒このことからして民族集團の場合にあう
ではハさをにみた如き限界性への︑内からと外かちとの︾規定作用は︑他の種の限界集團の場合に惹らべて著
もく強からざるをえぬといふ特徴が招來ぜられ曜てゐ5ると思はれる︒こう考へうることの理由は次の通りであ
民族集團に於ける統一の概念(中野)九七
筆,㌦聖九八
る ︒ 観 念 的 で は な く L て 現 實 的 な 限 界 集 團 の 場 合 に あ つ て は 限 界 集 團 で あ る こ と の 基 礎 が 現 實 的 な ︑ 客 観 的 に
そ れ 乏 指 示 し う る 如 き 事 情 の う ち に 存 し て ゐ る ︒ ﹁今 か & る 事 情 が 具 農 的 に は 何 を 指 し て ゐ る か の 吟 味 に は こ 玉
で は 立 入 ら な く と も よ い σ 現 實 的 な 客 観 的 な 事 情 の 上 に 限 界 集 團 の 存 立 が か 玉 つ て ゐ る 限 ウ ︑ ヒ の 種 の 限 界 集
團 に は 自 ら 一 定 の 現 實 的 盟 統 が 備 は つ て ゐ る ︒ 一 定 の 具 膣 的 な る 就 會 秩 序 が 客 観 的 に 與 へ ら れ て ゐ る と い つ て
・も よ い ゆ か ︑ る 艦 統 な 診 秩 序 な り が 具 禮 的 に ど れ ほ ど の こ と を 指 し た も の で あ る か も こ 玉 で は そ の 吟 味 に 立 入
ら な い ︒ 何 れ に せ よ 一 定 の 現 實 的 に し て 具 髄 的 な 腱 統 を 有 し て ゐ る 限 り ︑ さ き に 述 べ た 様 な 限 界 性 へ の 規 定 作
用 に 關 聯 し て 次 の 様 な 事 態 が 結 果 せ ら れ て く る ︒ 先 づ そ の 内 的 側 面 か ら の 規 定 作 用 に 關 聯 し て 考 へ る ︒ こ の 側
面 が ら の 規 定 作 用 は 主 と し て は 雑 多 な る 各 種 集 團 を 秩 序 的 に 系 列 づ け る こ と へ の 要 求 及 び 何 れ も の 各 種 集 團 に
ょ つ て は 與 へ ら れ う べ く も な い と こ ろ の 全 面 性 へ の 要 求 と い 添 具 禮 的 な 過 程 の 形 を と つ て 作 用 す る こ と は 既 に
の べ た 如 く で あ ゐ コ 現 實 的 な 限 界 集 團 は そ れ が あ く ま で 現 實 的 な 基 礎 の 上 に た ち ︑ か つ は 現 實 的 な 一 定 の 腿 統
を 有 せ ね ば な ら ぬ と い ふ 基 本 的 な 事 情 か ら し て ︑ か ﹂ る 具 髄 的 要 求 の 形 で の 限 界 性 へ の 規 定 作 用 を 有 効 に 受 容
し う る 地 位 に は ゐ な い ︒ よ し 現 實 的 な 基 礎 が い か に 全 包 括 的 な 性 質 の も の で あ り ︑ か つ は そ の も つ 現 實 的 な 饅
統 が い か に 全 面 的 に 愛 當 な も の と し て 存 し て ゐ よ う と も ゐ そ れ ら が 現 實 的 な も の で あ る 限 り 内 か ら の 現 實 的 要
求 を 現 實 に 満 し つ ﹂ あ る 姿 に あ り と は い へ な い o そ の 間 に 恒 に 一 定 の 距 離 が あ る ︒ 溝 渠 が あ る 心 距 離 が せ ば め
ち れ た 最 後 の 限 界 を 考 へ た と し た と こ ろ で 現 實 的 な も の を 現 實 的 な も の が 充 分 に 包 撮 し 能 は ぬ と い ふ 最 後 の 事
情はな鷹最後的な距離として與へられてゐる︒・現實的な限界集團ががくの如く内的側面よりする限界性への規
定作用を充分な形において受容しえない様な事情にあるξいふことはやがで叉限界集團たることの意義がそ轟
だけ薄めちれ麿ゆくことを意味してゐるであらうρこの事情はさらに叉外的側面がら來る規定作用をよわめる
といふ形を通しても叉作用しておる︒本來なぢば外的側面から來る規定作用はある場合においては限界性をゆ
るめる様な形で働きもするが概して限界性をうきあがらしむる様に働きかける筈のるのであるのに上に述べた
様な内からの働きかけの姿と關聯せしめられると外からのこの積極的な働きかけば却うて限界性をゆなめる様
な風に現れてくるとみてよいであ・ちう鐙さてかやうな現實的限界集團における限界性の強度如何にりいでの見
通しは唯それだけでも観念的な限界集團における限界性の強度についての見通しを與へてくれる︒現實的な限
界集團における限界性への要求において満されえなかつた塗けのものが︑唯こムでこの要求が満されえなかつ
たといふそれだけの理由で︑そのま≦観,念的な限界集團のうちに満されうるといふ風に推移してゆくことが考
へられ︑それはそれだけこの後の種類の集團の限界性の強度を加重してゆく結果を生むとみることができよ
う︒しかし唯これだけの事情にと野まつてはゐない︒.いなむしろ一歩を進めて考へてみるならばこれだけの事
情がこれだけの効果を招來しうるのにはこれを可能にするだけの積極的な事情が観念的な限界集團そのものム
側に存してゐるからであると思はれる︒'それはこうであるρこの種の限界集團は観念的のものであることの當
然の結果としで内から來る要求をくまなく満してゐるかの様にみちれ︑叉それだけ忙外から促されてくお限界
民族集團に於けろ統一の概念(中野)・九九
芳な乳・㌧・∴︑∴累・∴一QO
性 へQ規定作用が活澄にうけ︑とられでゆく様な感受性を彊からじめるといふご とを維過して愈客もつて外が.ら
の規定.作用の彊さそのものを壇したと同じ結果に導いてゆく冊而してζのこどは叉それだけ限界性の張度を爺
惹︑張からしめ.る結果にもなつでゐると考へられるρ,︑︑'︑,ゴ月ン鴨ρ請︑・
六ー
.観念的な限界集團としての民族㊧この限界性を規定してゆく事情としてふ様々な方向からの働きかけにづ魯
で大艦の瞥見を絡へた︒これに直績してなさるべきことはこれだけのことを念頭にしながら民族犀為ゆる統}
の態様を指示してゆくごとである︒.逆にいふと民族集團のうちに窺はれる統一の態様を見でゆぐためには乙れ
だけの準備が必要であつたのである︒而じてこ箪で3さきざきへ行つて始めで明らかになるであらケζとの.7
部を豫め摘記しでおくことが許遷れるならば︑これだけの準備が要求されるだけ民挨における統一の態様は∵
・つなるも倣ではなぐ實に多種多襟なをのなのである︒民挨における統"の問題をその抽象的な形式的な姿にお
いて讐はなくいか程がでも具艦的に現實的にみてゆかうとすると︑こ曳で現れてゐる統一の姿が決して一つの
一義的な意味内容しかもつてゐない様なものではなく實に檬女な意味内容を合せ含んでゐる事實にきつかすに
はおれないのである︒而してζれだけの事實に能ふ限聾忠實である様に陽題の吟味をす︑めてゆくためには限
界性への規定作用についてのあれだけの見通しが必要であつたのである︒・〜・:'レ︑::5
,内面的な方向かちの限界性甑の規定作用遷關聯させながら︑宅れと關聯する限りで注目のうちに入つて嘘る
統.曽の態様をみてゆくことかち始めよう︒,︑・︑6︑・・'︑㌧︑搾̀︑誌
〜内かちの規定作用は二つの姿をもうてねた︒'その一は雑多なる集團の秩序的系列を施さうとする要求老い癌
姿傷・その二は何れの集團にも望みえなかつ潅全面性への要求といふ姿であつた︒か匁る姿をと訟ながらの自ふ
の限界性への規定をうけつ〜ある民族集團にとつてはそこに意昧せられつ玉ある統一の姿は自ら次の如篭もの
とならざるをえないに違ひない︒先づ雑多な形で並存交錯する各種集團の全艦的秩序をその具艦的内容とする
統一︑の姿が望まれてゐる︒こ製に唯輩に雑多なる各種集團と呼びρ曳あるものは私がさをに第二家的な郡分集
め團と名づけたものに他ならないが為してみればこ玉に望まれつ玉ある統一の姿といふのは第二次的部分集團の
整序檬式をその具罷的な内容としてもりてゐるといふことになる︒第二次的な部分集團がた§雑然と存在して
ゐるβその全髄を把束すべき共同の何等かの事情が與へちれてゐない︒こういふ現實から︑こ玉に欠け︽ゐる
だけの・ものを充填した姿のものへの要求が嚢せられてくる︒これがこ玉に望まれO玉ある統一.の具鎧的な内容
なのである︒しかしこれだけの叙述では︑ととがらの唯形式論理的な面だけがふれられてゐるにすぎない感が
ある︒︑今一歩立入つてこ凋で形式的にぶれたにすぎないところの︑あの現實からこの要求への推移が何によつ
て促されてゐるか讐明らかにされボなくてはならない︒第二次の部分集團が雑然と秩序なきまぶに存在ゆてゐ
る︒こ②現實からこれちの︑集團φ整序された.姿を具艦的な内容とする統一への要求が襲足しできたき記しだ
民族集團に於ける統一の概念(中野)一〇一
i)前 掲 拙 稿 、 民 族 及 國 民 の 本 質 、rIo頁 。
讐・︑.︑.﹄べ,5︑園・:亙∴窪㍉一〇二
が︑がをる現實から︑eか風る要求べ6推移は何をその原動力としてのことであつたのか讐問はれでよい︒第二
次の部分集團が雑然として存しでゐるこどそれ自髄は別に一義的な秩序様式への要求と︑まし論理的には一義
的な蓮絡關係にあることが認められなければならぬとしても︑そのま塞現實的にはつちなつてゐるものではな
い︒唯論理的にだけではなぐ現實的にもにの聞の蓮絡が望まれてゆくためには何等かの現實的な作因が介在し
でこなければならぬ︒私はか玉る作因のうち最悉基本的なものともて集團生活の多岐化に伴ふ個人圏の分散の
傾向といふ事情をあげてみたい︒それはこれだけのことを意昧してゐる︒肚會の生活が進展してゆくといふこ
とは個人相互の接燭がそれだけ繁くなつてゆくといふことである︒接鰯が多面化してゆぐ老いふζとは個人の
慾望増加の結果矯あると共にやがて又薪たなる慾望増加の原因でもあるに蓮ひない9慾望の壇加はそれだけ叉
新たなる接濁面を要求させてゆく︒この檬な過程の進行するとヒるに結果されてくる︑肱注目をひき易い第一の
事實は所謂就會の分散といふことであらう︒接鰯面が多岐となるにつれて接鰯面の交錯が考へられ︑この交錯
の事實によつで︑恥それまでは等質的であ墾えた一つの集團生活が分散せられてゆぐ︒ところで集團生活が多岐
になつてきたといふご乏は二つの結果を一は集團それ自膿の﹁地位﹂た他は個人それ自らの﹁地位﹂に及ぼし
てぐる︒集團生活が釜々分岐してゆくといふこと嫁集團の地位をそれだけ相封的のものにしてゆくといふ一つ
の結果を招致した︒相蜀的になつてゆくといふことはそれだけ各種の集團が相互の聞に規制すべき積極的秩序
の存するものな遷ま︑雑然と存在するといふことを意味する︒今一つの結果は次の様な形で個人の上匹及ぼさ
れる︒・接燭面の増加してゆくと栖ふことはなるほど所謂個性的機能の一々についてだけいふならばそれが釜々
特殊してゆくといふことである︒しかしこれをその個人の生活の全艦ilこれを私はさきに個人圏と呼んでお
いたートと關聯さして考へてみると之の全饅が分散せられてゆくといふことであるし︑・又この事實を他の個人
生活の全艦と關聯さして考へてみると相互の相封的地位がいよいよ標準型化されてゆくといふこと紅他ならな
わい︒肚會の分化は個性の分化と相俘ふと普通にはいはれるけれどもこ︑にいふ個性の分化は決して個人葡地位
の増九を意味するものではなく却つてその反封によつてもつて個人の地位の具罷的内容をなす竜のが一つ岬つ
統一的把束から分離してゆくといふといふことであり︑これだけでも個人圏の存立が次第に輩一艦としての意
味を失つてゆぐことを示してゐるのに︑之に加へて︑統一的把束から分離してゆく一々の内容が他の個人圏に
おける同一の分離内容と似通ふてゆく機會がふえると魎ふことによつて相封的地位の共同の高上︑叉は低下が
めみられ︑そのためにもいよいよ個人圏の存立が動揺してゆく︒それのみではない︒さきに記した様な︑集圏生
括の分岐から集團自盟の上に招來された結果であるところの集團の相樹化の事實自罷がまた既に動掘を示しつ
玉ある個人圏の存立を釜々不安定にしてゆくし︑逆に叉この後の事情が集團の地位の相封化の傾向を促してゆ
くといふことも考へられる︒さて宅れだけの過程分析を念頭にしながら私はさきに個人圏の分散といふ事實を
かき記したのであつたが∂か︑る結果が集團生活の分岐から招來せられてくればこそ︑伺じく集團生活分岐が
招いた他の結果であると亡ろの集團の相封的地位の釜々の湘封化が示す各種集團の無秩序的混齪の現實からそ
民族集團に於けろ統一の概念(申野)一〇三
2) 3) 4)
拙 稿 、、民 族 と」辻會 的 分 化 の 傾 向(「 商 學 討 究J、',第十=巻 下 冊)謬 照 。 Durkheimで もSimme1で も こ うい ふ 風1こ事 柄 た 理 解 して ゐ7;と 思 ふ 。・
蓮 つ7こ表 現 形 式 に お い て で に あ るカ;EHertz及 び 瓦Kohnlこ よ つ て も着 眼 ぜ られ て ゐ ろo
け:'も駁‑冠 ∴.踊〇四
れらの秩序づけられた姿をその具饅的内容としてもつ様な統︑一が希求せられてくるのである毒理解する︒若し
との理解にして庄七恥とすち・ならばt←に希求されてある限りでの統﹄の態檬は個人圏め分散に確固たる
曽晋趨彗恩を興へ得葛檬な形での︑吃各種第二次部分集團の整序檬式を意味してゐるといふことになるであら
う︒こムでは個人圏の分散に確固たる限界黙を示すといふ様な言ひ現しを用ひてみたが︑これをある學者が表
め現してゐる様に個人生活において失はれた全禮性を代替的に民族の統一において求めようとすると理解してゆ
くこと噛許されるであちう︒次に内的側面からの今一つの規定作用の姿に關聯して考へてみよう︒何れの第二次
的部分集團も全面性をもつてなゐない︒この之とから全面性を表現する集團が希求せられてくる︒こういふ形
で限界性への規定作用が存してゐることは既に記し拠通りである︒この檬な規定作用と關聯さして考へる限り
民族における統一の態様は全面的集團生活の姿乏いふご乏になつてくるにちがひない︒この場合にもか︑る姿
の統一へ︑何れもの部分集團も全面性をもつてゐないといふ現實から趨伺せしめてゆく原動力が何であるか浬
/問題となることは前忽見売第一の場合と同檬であらう︒こ墨でも依然としてさきに記した意味での個人糊の分
散の事實を主なゐ作因としてあげて訟きたい︒若し︑集團生活の分岐に伴ふ集團の全面性の喪失が個人生活に
蔚けるその統一,の分散と相伴.つてゆかないものとすれば限界集團に向つて全面性を希求してゆくといふ事態な
誘致せられなかり潅にちがひないと考へちれる︒この事理は比較的簡軍に理解せられると思ふからこれ以上に
立入つた読明は差控へる9こ︑で立入つて読明しておきたやと思ふのはこ志での統一の態檬であるところの詩
5)K耐S伽e血agen,DasWesenderNation,1934,S・202f.;
0.,S.40.・
F.Herti,a.a.
全面的集團生活の姿乏いふのは今少しく具盟的にいつてどれ程のことを意味してゐるかについて窒ある︒,一禮
その集團が個人の生活に封して全面性をもつてゐるどいふのは︑・その集團が螢む生活のうちに個人の生活の÷
切が含まれてゐる姿を指してゐる︒その集團の誉む生活を外にしては個人の生活は存してゐないといふ様な姿
のものを意味する︒しかもこの場合個人が個人として螢むならばみられたであらう生活部分を何等かの意味に
蔚いて減殺するといふ形で個人の生活が集團め全面的といはれうる生活のうちに包撮せられてゆくのであつて
はならない︒砂くとも個人圏の分散とい轟事情に促されてうかびあがつて來た統一と矯ふ概念の具艦的内容を
なす限りでの全面的な集團生活を念頭にする限瀕はこの全面性は個人生活のいかなる部分をもそのま︑包擬し
てゆく姿にあるものと七て思念されてゐるとみなくてはならない︒若しこう理解することが可能であゐとする
とこ︑でも叉個人圏の分散に封する︒︒慈言宕ロぼが希求せられてゐるといふことが容易に首肯せられるであらう
ξ考へる︒
内的な側面から嚢せられてくる二種類の規定作用に關聯せしめつ玉︑希求された二種類の統一の態檬につい
て略蓮を絡へた︒今後々の便宜のためにこの二種類の統一︑の檬式にそれぞれ名稻を興へておかう︒先づ第一︑種
類の如き統一の様式を整序的統一と名づけるゆ吹いで第二種類のそれを全面的統一と呼んでおく︒
・ところでこ瓦で考へておくべき一つの問題があゐ︒一般に何等かの統一が希求せられると込ろ.バこの希求と
俘つてこの希求實現のための手掛りについてのある程度の理解が既にこの希求を窓つ人々の側において與へら
民族集團に於けろ統一の概念(中野)一〇五 擾
一〇六
れてゐる筈である︒目標が浮べられてゐるその反面には必すやある程度までこの目標によつてもつて辿塾つき
うる手掛りがそれとして思ひ浮べられてゐる筈である︒ではか髭る手掛少として何が思ひ浮ぺられてゐるかゆ
考へてみるべき問題はこの形で存在してゐる︒﹂.‑:,賊.'〜
'先づ整序的統一が希求せられてゐる場合︑その手掛りは﹁前進的﹂にも叉﹁同顧的﹂にも捉へちれてゐる塘
あらう︒さきの場合は一定の(これからその實現がめざさる玉べき理念の角度から統一が施されてゆぺ場合で
あるし︑後の場合は一定の︑すでに與へられてある﹁基本的事實﹂にまで多岐に分化してやまないものを饒着
せしめてゆかうとする場合に現れてくる︒一言にして鑑せばさきの場合には理念が︑あとの場合には傳統が︑
それぞれ希求された統}實現の手掛りとして思ひ浮べられてゐる︒而してさきの手掛りのみが思ひ浮べられて
ゐる場合には次に述べようとする全面的統.一の場合には伺様なものとなつてくるが︑整序的統一のための手掛
りとしてはより強く後の方の手掛りの思念されてゐるとみるべき事情が考へられる︒癒ぜならこの場合目標と
して思念されてゐる統一の姿は整序的なるそれである︒しかし雑多なる集團的分岐を一つの方向に前進的に齢
一せしめてゆかうとすることはこの分岐が必然的なものであつたとすると著しく困難なセ乏がらにみえてく
る︒いそれよりも遙かに手近な整序の手がかりは分岐する以前の歌態︑若しくはこの分岐がそこから磯是した共
同の地盤に露り着かしめることのうちに與へられてゐる様に思はれてくるであちうかちである︒かくの如く多
破に分化すゐ以前に,叉なこの分岐④全禮控通ゼて蒲例へば共同なる慣習の把持︑共同な喝地域への居住,洪
同なる言語の存在等がある︒これらの事情と關聯を保艶しめることによつて︑︑希求せられり︑玉ある統一爵鳶整序
的なる統一.が施されてゆぐと思はれてぐるであらう︒蓋しこう考へることが許される︑占,するとこへに要求され
? あ る 統 .δ 態 檬 は ︑ 廣 蓉 民 族 概 禽 う ち 特 に 狭 義 の 民 族 主 ,盤 呼 ば れ ・毬 自 ら 傳 統 的 民 警 名 づ け 編
種類の民族概念におげるそれであるといふことができるであらうρ勿論理念を手掛りとしての整序的統一一の姿
が全然この場合思ぴ浮べられてゐないといふわけではな窃からっ整序的統一の態檬は專ら傳統的民族集團にお
けるそれであるとはいへないが︑主要なる場合だけを念頭にするとすれば傅統的民族集團におけるそれである
とはいへると考へられる9次に全面的統一が希求せられてゐる場合についてみるのにこの目標への手掛りと七
て一定の理念と一定の傳統との二つのものが思ひ浮べら耗てゐるであらうことは整序的統雫の場合に同じから
お5︒しかしこの場合にはさきの場合とは反封に一定の理念を手掛りとして思ひ浮べる乏いふζ乏の方がよ塾デ
般的であるとみることができる︒既に與へられてある何等かの事情のうちに全面的統﹄を可能挺してくれる様
バなものを求めるといふことは全く不可能なことではないとしても著しく困難であると感ぜられてゆ4にちが鉢
ないからである︒若しさうであるとすればこの場合の統一の態様ぼより多く︑廣義の民族概念の中でも特に近
代民族と呼ばれ︑私が課題的叉は理念的民族と名づけてゐ勧様な種類のものと密接な關聯にあることが注目せ
られてくる︒かくして全面的統一といふ統一の態様は全くとはいへないまでも專ら理念的民族のうちに見出さ
れるものであるとやふことにならう︒︑丁一ヤ︑︑b﹂・.⁝︑'一.・∴
民族集團に於けろ統一の概念(中野)﹄〇七
6)前 掲拙稿 ら民族及 び國良の本質 ピ」32頁以下0 7)前 掲 拙 稿 、 民 族 及 國 民 の 本 質 、132頁 以 下 。
ひ㌦︑ヤ﹁︑︑固‑'︑学は'︑一〇ム
暇︑門吟味の順序は韓修て外的側面から來るところの限界性への規定作用と關聯せしめつ﹂統一の態様を案じてみ
るといふ淺された問題に及ぶ道︑と≦なつだ︒項を薪たにしたい◎.,.・〜..一・ピ雪濃∵4
5七D︑:三二輻︾\・▼}・⁝ご
'︑外からくる限界性への規定作用のうち︑'世界集團からのそれは内容的にみれば結局他の限界集團かちの規定
作用のうに含ましめて考へられると既に記した︒今實質的にみてのこの様な理解を姑くさしお透ノ↑鷹世界集
團そのものからくる規定作用を形式的に考へ︑一これとの關聯において浮んでくる統憎の態檬を指摘してみよ
6
うゆ世界集團とは"つでもそこにはその全般にわたつて統山的積極的秩序のみるべきものが存してゐない︒'︑盗
ういふ事情からいくつかの限界集團が要求せられてくる︒この事情だけを念頭にすると︑との限むでか幾る限
界集團に希求されてゐる統一︑の態様は抽象的統一︑のそれに非すして具膿的統一のそれであることが容易に理解
せられてくるにちがひない9チ鑓グラーガ︑,人穫といふ観念のうちに含まれてゐる人類集團の概念に現實的に
呼磨するものとして現れたものが︑︑民族主権といふ観念のうちにその前提として含まれてゐる様な︑民族集團
りの概念に他ならないごとを指摘してゐるのは同一の事理を看破したものに他なちぬβ同檬な理解の仕方が尋へ
つズゆアルフレッ下ダゥエバアの場合にも見出されるこどについては既に他の機會に紹介しておい潅通ψであ
為 9 ど ご ろ で ⁝ で 問 題 に さ れ て い あ は 民 族 と い ふ 限 界 集 團 に 溶 る 統 一 の を で の 態 檬 と し て 指 蓼 ち れ
・)H.O,Zi・gl・r,Z・ ・S・uve・ ・nitatd・ ・N。ti伽 仙 差St正 ・g3。),S.・49.
i)拙 稿 、 民 族 と 傳 統(「 商 學 討 究 第 十 二 巻 止 冊)s・,十 ≒ ・頁 以 下o、 、三
走具膣的統一といふ場倉︑との具膣的といふ言葉がどれほ'どのことを意味してみるかといふこと怨あらうゆ若
4はどれだけの事情において具饅的といふことが主張されうるかといふ聞題である︒.ごの鮎については後にふ
れること瓦してこ︑では問題だけをかき記すに止めでおく︒︑︑・'︑,・ビ
〜次に考へねばならぬことは國際的性質の集團から4る規定作用と關聯しつy現れてぐる統÷の態様を案じで
み葛といふご左であるゆ既に述べた様にこの側からの規定作用のうちにも他め限界集團から惹る第三種類の規
定作用のうちに含逢しめて考へられでいへ一面があるが︑こ玉で問題になるのはこの一面を除外しさつた他の
孚面であるっこの残された牛面に於て現れる規定作用と關聯もて考︑へらるべき統噌の姿は今姑く求心的なるそ
れといふ風に表現しでお惹遷とができると思はれる︒國際的性質の集團はか︑る集團が存在することそれ自腿
が限界集團の限界性を危ふからしめるといふ形で限界性を規定してゐること既述の如くであるとするならば﹂
この規定作用を蒙るきころに希求されてくる統りの姿が︑この統一を分解せしめてゆかうとするものに拮抗し
ての統一のそれであり︑かくして遠心的傾向に抗してたつ様相においての求心的統一の姿であることが容易に
理解せられてくるにちがひなやコζの場合この求心的統一のよりどころが主として何において求められるか恕
問題とならねばならぬがこの鮎もこ︑では問題のみを記すに止め﹂後にふれることを約しておきたいゆ
‑更に外かち來る規定作用め第三のもの︑即ち他の限界集團から來るそれとの關聯において思ひ浮べちれてく
る統一の態檬が如何なるものであるかについて考へてみよう︒'既にのべた様に他の限界集團がそこに存在し応
民族集團に於ける統一の概念(中野)一〇九
啄乱,鳶'・を日↓0
ゐるといふζとは積極的にか消極的にか自らの限界集團の限界性が危ふからしめられてゐるといふ乙とを意味
するといふ形で限界性への規定作用が現れてゐ.る︒︑若し然りどすればか︑る規定作用と關聯しつ︑現れてくる
統一の姿は消極的に知へば抽抗的な統一のそれであゆ︑L積極的にいへ.ば誇示的な統一のそれであるといふこと
沈なちう︒こ玉でもか4る種類の統一のよりどころが何において見出されるかについては後にふれることを約
束するに止める︒︑^・罵・.︑噂: ・♂・∵︑
.外かちの規定作用に關聯←て考へられる統一態檬の三種のものについて概観を絡へた︒次いでなさるべきこ
とは之の三種のものム戸汝にふれてゆく聞に問題としてその所在を指摘するに止めその考察について後にゆつ
つて蔚肋瀧様なことがちについて考へてみる乏いふことに他ならないゆ︒'二ー・
・抽象的ではなく迄て具盟的な統一の態様といふ場合︑.こムでの統一の手ががりは︑既に述ぺた様な整序的統
一めうち別Lて傅統的なるものに訴へてのそれのうちに與へられてゐるといふ蓮絡が嚢見ぜられるゆ傅統的な
事情に蔚ける共通性こそはその範園に於て始めて抽象的には非ナして具饅的なる統一︑態様が具現せられてゐる
ものとみられてゆく︒︑若しこの理解にして凪しいとすれば具艦的統一に最も關聯し易い地位にあるものはわけ
ても所謂狭義の民族叉は傳統的民族の概念であるこどが理解せられるであらう︒けだし傳統的なる事情に手が
か診を求めてゆくといふ整序的統一の檬式は既に記した如くこの種の民族概念と一義的な蓮絡にたつてゐるが
ためであるゆ勿論整序的統・一♂わけても傳統的民挨と關聯してのそれのみが具饅的統幽の唯一の手がかりであ
戸るとはいへなからう︒理念にょる整序的統一も叉手がかりとして考へられてゐるのであらうが︑こ︑で求めら
れてゐるものが具艘的統一である自然の結果として主要なる手がかりとしては整序的統一のうち傳統的なるも
のが考へられてゐるものとみたい︒進みて考へる︒か﹂るものを手がかりとしての具燈的統一はやがて叉全面
的統一とさきに呼んだもの玉存立を促してゆく事情となつてはゐないであらうか︒若しさうだとすれば︑この
杢面的統一の態様が民族概念のうち主として所謂近代民族と呼ばれるもの︑私のいふ課題的民族と島義的に連
絡してゐる事を念頭におく限夢︑Fこ義にいふ具膣的統一は傳統的民族の概念によつて背景づけらる之とを通し
て理念的民族の概念内容の申に⁝織診こまれてゆくといふ過程が窺はれるのではないであらうか︒∵塁・::
求心的統一の場合求めちれてゐる手がかりは大膣前述の具膣的統一の場合に同じであるといつてよいゆ唯こ
の場合には若干乏も理念的民族と關聯する様な全面的統一・の参與する地位が比較的にみてや玉重いといふ相蓮
が嚢見せられるかとも思ふがこ玉では繁雑にわたることをおそれてこれ以上立入らない︒
も
'拮抗的統一蝋叉は誇示的統一の場合は如何︒拮抗的である場合には手がかりは專ら整序的統﹂︑わけてもその
うちの傅統に導かれてのそれであらうし︑誇示的統一の場合には手がか砂とLては主に理念牝導かれての整序
的統一が思ひ浮べちれてゐるであらうことは容易に察知しえられるが︑この場合には問題の統一が直接に他の
限界集團に面接してゐるといふ事情からして︑以上にのべ來つた様なすべての種類の統一が背景として豫想せ
ちれてゐるt︑かつ﹄歩を進めて考へてみると︑こ︑でいふ拮抗的統一叉は誇示的統一がやがて叉他の種類の
民族集團に於けろ続一の概念(申野)一一一
一一二
統動を希求せ七めてゆくと塾ふ蓮絡にあることも看過してはならないであらうゆ
八
f以上め叙述のうちに次麦に學げられた統一の態様には五種類のものがあつたσ整序的統一舟全面的統一・︑具
艦的統一.︑求心的統滴﹂持抗的叉は誇示的統一即ちこれである漕これらの統一の諸様式が相互に如何なる關係
範拠ρか萱いふ宅ともその都度關読Lてきた汐民族集團の概念が極めて複維な形象であるといはれることの重
大な僚因は︑℃れらの各様式の統﹂が相互に絡み合ひつム︑場合場合毎に強調面を異にするとやふ檬な姿で︑
民族における統一といふ・曽見簡明なものであるかにみべる概念のうちに合せ含められてゐるといふご乏のうち
にこそひそんでゐると思はれる9若し民族の概念が︑̀その外かあ來る限界性への規定作用と内から來るそれと
の相合するとζろに定まるとみちことが許されるならばう民族における統一の概念も叉外から來る規定作用と
伸ぶ統一の様相と内かち來るそれとの相會ふとヒろに措定せられてくるとみるこ乏もできるであらう︒
軸K一・・5.㌦﹃,̀真﹂ら沸ド
一九三入・五・二二
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