アフリカに於ける民族意識と教育
古 川 原
1 世代をつなぐもの
アフリカ人の詩は﹁母よ﹂という呼びかけではじまるものが多く︑ヴィエトナム人の詩は﹁妹よ﹂からはじまるも
のが多い︒
文学︑特に新しい詩については︑しろうとというよりは︑ほとんど興味を持つたことのないものが︑大胆にも乱暴
にも︑おそろしく断定的に感想をもらす嫌らしさを好むものではないけれども︑いったい教育研究のデータのとりか
たということは常に乱暴極まるもので︑しかもその意味を考えることが極めて少い︒意味もなく就学年齢を比較して
みたり︑義務教育の長さをくらべたり︑公私立学校の比率を考えたりすることがどういう意味で教育を研究すること
になるか︑を問えばたじたじとなる教育研究者が多すぎると思う︒
アフリカも︑ヴィェトナムも︑第二次世界大戦終了をきっかけとして︑必死になって統一と独立とを求めていると
いう点では共通している︒アフリカ人の多くは︑旧植民地本国のことば︑イギリス︑フランス︑イスパニア︑ポルト
ガルなどのことばで詩をつくる︒ここ数年間︑スワヒリ語で書かれた詩が出版されるというけれども︑私は見ていな
アフリカに於ける民族意識と教育 一
●
アフリカに於ける民族意識と教育 二
いし︑見ても読めない︒ヴィェトナム人はもちろんヴィエトナム語で詩を作り︑私たちの手に入るのは仏英訳のもの
である︒ 分割と従属に悩む青年たちがまず真黒な﹁母﹂を目に浮べて鎖を解こうともがく姿と︑十七度線に沿って流れるあ
の急流のかなたで︑銃を背負いながら鍬をふるっている﹁妹﹂を心にひめて︑独立の科学を学んでいる姿とを思いく
らべる方が︑六三三制と四四四制とを空しく比較するよりは︑いくらか確かな教育研究だと考えざるる得ない︒
さて︑なぜアフリカ人の﹁母﹂に着目するかと言えば︑ここにもアフリカ社会の世代重要視の特色があらわれてい
るのではないか︑と考えるからである︒
母とは何か︑妹とは何か︒
ヴィエトナムでもアフリカでも︑特にアフリカでは︑ものを書き︑それが活字になる機会は男の方に圧倒的に多い
から︑母も妹も︑先ず異性である︒同じ社会に生きるもうひとりの人間ということである︒この場合︑血がつながっ
ているということは﹁同じ社会に生きる﹂ということの強調であろう︒
ところで妹は明らかに同世代の人間だが︑母は通常一つ前の世代の人間と考えられる︒しかし︑一つ前の世代を代
表するものは父である︒父でなく母であるということは何なのだろうか︒
およそ人間にとって︑分娩と授乳ということが続く限り︑自己は母の分身である︒数千年︑おそらく数万年︑人間
はこの意識を消すことはできなかった︒母は子を自己の分身と思い︑子は母の分身と思いつずけてきた︒厳密に言え
ば子は同時に父の分身のはずであるし︑特に父は子を自己の分身と考えたいのだけれども︑哺乳という仕事のない差
異はどうしても消し去りがたい︒そこで父は観念的分身に止らざるを得ず︑前の世代を代表して︑制度としての父権
を強調することになる︒
こういう次第で︑母は父と子との両世代をつなぐ連結器の役割をもつ︒
アフリカ人にとって独立とは︑全く別の社会への転化ではない︒祖先の時代には独立していたからである︒父の世
代は最も悲惨な従属の社会であった︒祖父の世代も植民地になっていた︒曽祖父の時代にアフリカはヨーロッパによ
って分割され︑植民地であることが確定した︒その前に侵略︑植民地化は進められていたろうけれども︑ずっと前に
はみな輝かしい独立の歴史を持っている︒
しかし︑その独立と︑一九五七年以後の独立とは同じものではない︒たとえば一九五七年三月︑イギリス領黄金海
岸植民地は独立してガーナ共和国になったが︑イギリス領になる前にガーナ国が存在したわけではない︒
ガーナ王国は八︑九世紀のころから史上に名をとどめているが︑その位置は現在のギネア共和国の東部からマリ共
和国の西南部にかけてであった︒ガーナ王国がマリ王国に代わるとき︑多くのガーナ住民が逃げて︑シエラ レオネ
から︑リベリア︑コート ディヴォワル︑ガーナ︑トーゴ︑ダオメを経てナイジェリアに至る大密林帯をこえて︑海
岸に達したという伝説を︑ガーナは国名の由来としている︒またガーナ王国が王宮の前庭に馬つなぎ用に重さ一トン
の金塊をおいたと伝えられるくらい黄金の国であったことと︑黄金海岸という地名とをつないでいるとも考えられ
る︒しかしこの密林帯はツェツェ蝿が多くて︑古来サハラ沙漠を越えるよりも困離だと言われたところで︑マリ王国
がソンガイに滅されたときも︑ここはこえられなかったと伝えられている︒ソンガイがモロッコに攻められたとき
も︑密林をこえては逃げられなかった︒
つまり︑どう考えても︑ガーナ共和国にガーナという名の社会は無かったのである︒あったのはたとえばアシャン
ティという大部族の社会であった︒これは輝かしい歴史を持つ独立の王国であったろう︒しかし今アシャンティはガ
ーナの一部にすぎないばかりでなく︑アシャンティ自身が東西真二つに分割され︑ガーナに属しているのはその東半
アフリカに於ける民族意識と教育 三
アフリカに於ける民旅意識と教育 四
部にすぎず︑西半部はコート ディヴォワルに属している︒
ナイジェリアに行けば︑アフリカ史に一番輝かしい歴史を残しているフラニが︑隣の新興部族ハウザによって︑決
定的に敗かされた直後に︑その地帯がイギリス領奴隷海岸植民地にされてしまった︒そうして今はナイジェリア共和
国である︒ハウザも︑フラニも︑海岸地帯のヨルバも︑イポも︑かってその名の大部族として独立していたけれど
も︑ナイジェリアという独立社会は存在したことはなかった︒
ケニァのキクユやマサイ︑ギネアのフーラ︑マリンケ︑スースー等々︑部族として輝かしい独立の歴史を持ってい
ても︑現在の国名による社会は︑かって独立したことも︑統一したこともなかったのである︒
自分たちの独立社会といういみでは一つのものでありながら︑実は全くちがう新しいものである︒このままで︑統
一と独立とが可能であるか︑或いは望ましいのか︑という問題を︑別にたな上げしておくとしても︑昔と今とを継ぐ︑
何かの連結器がどうしても必.要なのであろう︒
それが︑あの真黒で︑無智で︑愛情深く︑忍耐強く︑おそろしく勤勉な︑ ﹁母﹂でなければならないのである︒理
屈をこえたものでなければならないのである︒
ただし︑現在の国名による統一と独立とが可能なのか︑望ましいのか︑という疑問が強く残るとともに︑家族の世
代を連ぐ母が︑八十年百年の独立の空白をも埋める象徴でありうるか︑という疑問は︑おそらく純粋に文学の︑問題
としても強く残るであろう︒なぜならばその﹁母﹂の詩は︑文学にずぶのシロウトである私に︑かなり空しくひびく
からである︒
2 児童観人類学
ずぶのしろうとが文学に脱線した勢で︑もう一つ社会学について︑脱線的しろうと論議を許していただきたい︒
マリノウスキーにはじまり︑エヴアンス ブリチャード︑ラドクリフ ブラウン︑マックス グルックマン︑或い
はディ トリッヒーヴエスターマン︑バウマン︑ロベール コルヌマンなどによって論じられるいわゆる社会人類学
の基本的なテーマは︑さまざまな社会の構造とその歴史的変遷であると考えるのだが︑さてその構造という概念は︑
社会のどの部分成員が社会を指導し︑支配し︑どの部分が︑どのように指導され︑支配されるかということなのだ︑
と解釈することは乱暴すぎるのだろうか︒
また歴史的変遷ということは︑個々の時代の社会構造を瞬間的︑静的にとらえて︑その変化を︑論理的に説明して
いることではないだろうか︒
社会が自らを自覚するとき︑個々の成員は自分が支配している︑支配されている︑生産している︑消費していると
だけ意識するものだろうか︒別にどの社会にも子どもというものがあり︑育てるものと育つものという﹁構造﹂があ
ると考えることは乱暴だろうか︒
それが許されるならば︑育てるということをどう自覚しているのか︑育つということをどう考えるのか︑というこ
とを比較したり︑系譜をしらべたりする︑いわば児童観人類学のような学問を構想することはできないだろうか︒育
てるものと育つものという構造は︑各時点に於て︑即ち瞬間的に動的なものである︒子どもは刻々に生れ︑刻々に育
ち︑おとなは刻々に老朽ち︑そうして死んで行く︒支配とか︑被支配とか︑生産とか︑消費とか︑資本とか︑労働と
か︑技術とか︑文化とか︑どういう構造を他の一方の軸にあてはめて見ても︑一方の軸におとなと子ども︑生と死︑
そうして成長と養育の軸をたてて考えなければ社会は静止して︑死んだものとしか考えられないのではないだろう
か︒
アフリカに於ける民旅意識と教育 五
アフリカに於ける民旅意識と教育 六
たとえば社会を支配と被支配の二階級にわけて考えるとしても︑支配階級が子どもをどう考え︑被支配階級が子ど
もをどう育てているか︑という点を考慮すれば︑次の瞬間の社会構造は全く別のものと予想することができる︒とい
うよりも予想しなければならない︒
このあえて乱暴な児童観人類学を︑比較教育学と呼ぶことは許されていいと考える︒しかし︑現状の比較教育学は
敢えて歴史を避けようとしている︒比較教育史学と呼ばれることを恐れている︒理由は知らない︒多分研究者たちの
怯堕か︑怠堕の故であろう︒
怠堕は許されないが︑卑怯であることは同情される理由がある︒クリークだ︑デューイだ︑ランジュヴァンだと追
いまわしてきた教育研究者たちが︑今からバントウー語やズールー語を学んだり︑ティペットやニューギニァのいわ
ゆる蛮地に五年十年と住みこむことは︑到底体力︑気力が伴わないのである︒
しかし︑とりあえず︑児童観人類学を学ぼうとすれば︑社会人類学者のまねをして︑いわゆる蛮地を追いまわす必
要はない︒
たとえば︑まず子どもを発見したのは誰だったかという問題で考えてみよう︒居ながらにして︑日本語で考えられ
る日本の問題として考えてみよう︒
日本で子どもを歌った最初の詩人は山上憶良である︒有名な子宝の歌﹁しろがねも︑こがねも︑玉も﹂は実は﹁爪
はめば子ともし思ほゆ︑栗はめばましてしぬばゆ いつこより来りしものか︑まなかひにもとなかかりて云々﹂の本
歌の反歌である︒有名度に反比例して︑本歌の方がずっと身にしみて子どもを歌っている︒
山上憶良はあきらかに貴族だけれども︑どの位えらい貴族なのか私は知らない︒瓜は当時の庶民がよくたべたもの
かどうか︑これもうっかり言えば無教養の告白になってしまうけれども︑憶良が特に﹁まして﹂とことわっている栗
の方はせまく奈良の都内に限ればいざ知らず︑日本全国的に言えば少くとも珍しい食物ではなかったろう︒反歌の方
が著しく貴族的なのに︑本歌の方はむしろ庶民的な感情を強調したのではないだろうか︒
やはり子どもや妻の出てくる憶良の﹁宴を辞する歌﹂では憶良は身分の低い貴族であることを強調している︒有名
な﹁貧窮問答歌﹂には︑憶良は貴族の身分を全くはなれて︑都会に住む貧しい庶民の立場で歌っている︒むしろキザ
だと言いたいほど︑憶良という人は庶民的立場に立ちたがる︒
これは何をいみするのだろうか︒日本の社会では子どもを最初に見つけたのは庶民なのだという証拠にはならない
だろうか︒なぜならば社会を動的に捉えざるを得なかったのは庶民たちだからである︒動いてくれなければ生きる瀬
がないからである︒たよりになるのは子どもたちだけだからである︒
貴族の立場では紫式部が源氏物語で紫之上という少女を描いているけれども︑それはおとなの描きかたにくらべて
極めて部分的なもので︑もっと庶民的な催馬楽の﹁遊びをせんとて生れけむ﹂や﹁総角を小田にやりてや﹂のよう
な︑憧憬にくらべては甚だ微視的と言わざるを得ない︒
新興武士をうたった軍記物語は武将の幼時や︑その教育を語るけれども︑没落貴族の作と考えられる鏡物には︑子
どもは怪奇物語の種としてしか登場しない︒
近世の武士と庶民との文学として登場する狂言とお伽草紙を比較してみることはさらに重要だと思われる︒ともに
作者は不詳で︑狂言は十四五世紀︑お伽草紙は十五六世紀に成立したと伝えられているけれども︑お伽草紙は没落し
てしまった貴族がひがみを失地恢復に托して述べたという色彩がこい︒お伽草紙にある反武士的色彩を︑後世の富裕
な町人たちが好んだというべきであろう︒
ところで︑狂言には︑はとえば﹁縄なひ﹂に見るような子どもの見事な写実的描写があり︑ ﹁鬼のまま子﹂のよう
アフリカに於ける民旅意識と教育 七
アフリカに於ける民旅意識と教育 八
な︑すばらしい乳児礼讃があるのに︑お伽草紙は︑現代人が題名から想像するような子どもは︑全くひとりも出てこ
ないのである︒
さらにここで注目したいことは︑狂言はたとえば﹁唐相撲﹂のように︑民族意識がはっきりしていることである︒
ここで民族意識とは︑日本人と中国人とは︑人間として理解しあえる共通の感情をもっているけれども︑用いる言語
は全くちがっていて︑通辞の助けを借りなければ︑互に情意を理解しえないこと︑日本一の力士は︑中国に行っても
やはり選手権を握るに足ることなのである︒
これを十三世紀の水鏡では︑日本で空前絶後の大魔術士であった役小角は︑中国に渡ったら当代第三位にランクさ
れたと︑さも誇らしげに書いているのにくらべるとたいへんな相違である︒
お伽草紙の作者は外国の風物については︑砂漠の情景を見事に描くほど詳知しているが︑日本語は万国の共通語と
信ずるらしく︑日本の親皇が︑砂漠の遠く離れた国へ行って︑そこの王妃と新古今調の和歌を贈答している︒そうし
て﹁日本は小国なり︑虎はふさわしからず︑猫こそふさわしけれ﹂だの︑ ﹁日本は盗人の国なり︑その心がねじけて
誠にあらず﹂などと︑はげしい劣等感を持っている︒
注目点をくりかえして言えば︑児童を発見した庶民は︑また民族をも発見したのではないか︑ということである︒
もちろんここでは大正︑昭和に強調される天皇制支持と混合した奇妙な民族意識は別のこととして考えるのである︒
つまり庶民たちは︑子ども以外にたよるものがないと同時に︑向三軒両隣の世間様以外にたよるものがないからで
ある︒社会的存在としての自覚ということは︑そういうことでしかありえないのではないだろうか︒
3 アフリカ人の民族意識
アフリカの民族意識をここに問題にしてみようと思うのは︑私たちにとって︑たいへん縁遠く︑しらべて見ようと
する手懸りの手懸りさえも︑つかもうとする勇気をおこしにくい未知の社会の児童観教育観にここからくいついて見
られはしないか︑というのが︑まず第一の動機である︒
第二に日本に限るのか︑国際的にか知らないけれども︑無責任なジャーナリズムが﹁黒いナショナリズムの嵐﹂な
どと騒ぎたてるけれども︑おととしはそのアフリカの黒い新独立国に軍部クー デ タがつずき︑さすが無責任なジ
ャーナリズムもあわてたのがおもしろかったのである︒アルジェリアなり︑ガーナなり︑或はトーゴー︑ナイジェリ
ァなど︑これらはどうしてネーションなのだろうか︒ナショナリズムを国家主義と訳すならば︑国土︑国民︑主権と
そろっている独立国だからナショナリズムもありうるだろうが︑国家が国家になってから五六年前後のことで︑ナシ
ョナリズムがどうしてできあがるのだろうか︒
ナシ・ナリズムを民族主義と訳すならば︑常識的に言って︑ガーナ民族というのはないし︑ナイジェリア民族とい
うものもない︒先に述べたように︑ナイジェリアは︑ハウザ︑フラニ︑ヨルバ︑イポなどを先頭に三百余の部族があ
る︒部族又は種族と呼ばれるものは︑人口から言えば数千から数百万に至るものがあって︑個有の言語︑文化︑伝
統︑組織をもち︑近代国家の組織さえ持てば民族と呼ばれて少しもさしつかえないものである︒たとえば中国東北辺
境にいるチョーサ族は今民族とよばれているけれども︑満洲国時代には主として日本軍の圧迫を受けて三百人前後ま
で人口がへったことがあるという︒今は人口数千で小さな自治区を形成している︒
これにくらべるまでもなく︑ハウザにせよ︑マリンケにせよ︑フーラにせよ︑みんな民族とよばれるにふさわしい
歴史︑伝統︑規模を持っている︒ナイジェリアが三百余の部族をもち︑コンゴは二百余の部族をもつ︒ギネァのよう
な小さな国でも十二の部族があり︑ガーナには約二十の部族がある︒そうしてその居住地と︑現在のアフリカ諸国の
アフリカに於ける民旅意識と教育 一〇
国境線とは無関係であることは︑先きに述べたガーナとコート ディヴォワルにまたがるアシャンティ族のことであ
きらかである︒
つまり︑一度たいへん不自然な天皇制国家を経験した日本では︑ナショナリズムを国家主義と民族主義と︑たいへ
ん異った意味をもつ二つのことばに訳さなければならないように︑アフリカでも︑国家と民族とは全く別ないみをも
つことになる︒
それならば︑現在のアフリカの諸国にとって統一と独立とは何なのか︒
カメルーンの独立運動家で︑政治亡命者であったムーミエ博士は一九六〇年七月スイスで暗殺されたが︑その未亡
人が来日されたとき︑おそろしく単純な質問をしてみた︒つまりカメルーンという国名の綴りが︑KAMERUN︑
CAMEROUN︑CAMEROONと︑独︑仏︑英の三つの綴りがあり︑ムーミエ派がだしているフランス語のパ
ンフレットにも︑この三つの綴りが︑どうも無原則に使われているが︑どれが一ばん正しいのかという質問である・
ムーミエ夫人は言下に︑ ﹁それはKAMERUNが正しい︒なぜならばその国名のとき民族が一番大きく統一されて
いたからです﹂と言われた︒
カメルーンは十五世紀にポルトガル人フェルナンド ポーがヨーロッパ人としてはじめて到達したが︑そのとき河
口湾のあたりにカニが多かったので︑その河をリォ ドス カメロエスと名づけ︑それがヨーロッパ人から見た附近
の地名となり︑殖民地獲得競争に立遅れたドイツは十九世紀の終りに近くなってここに進出した︒
そうして一八八四年から五年にかけて開かれたベルリン会議︵アフルカ分割会議︶で︑ドイツ領であることが認め
られた︒この会議にはアフリカ人はもちろん参加して居らず︑ヨーロッパの外交官がアフリカ白地図にかってに線を
ひっぱってアフリカを分割したわけだから︑前述のアシャンティなどは何も知らぬまにその居住地のまん中に南北の
線が引かれて東西に分けられ︑東半分は英領︑西半分は仏領に入れられてしまったのである︒
第一次世界大戦が終ると︑敗戦国ドイツはその殖民地をとりあげられ︑カメルーンの大部分はフランス領となり︑
西の一部はイギリスの委任統治となった︒仏領カメルーンは一九六〇年一月︑国際連合監視のもとに住民投票を行っ
てフランス共同体の一国として独立したのだが︑その投票の不正や︑仏共同体に止ることなどがムーミエ博士を党首
とした人民党を満足させることができず︑ムーミエ氏はギネァに亡命していたのである︒
イギリス委任統治の下にあった西部カメルーンは同年十月ナイジェリァが独立したとき︑その大部分がナイジェリ
ァに入り︑一部はカメルーンに入った︒ナイジェリァに入った部分は︑その住民がナイジェリア南東部に住むイボ族
に近しかったからである︒
つまりムーミェ夫人のいうKAMERUN時代に民族が一番大きく統一されていた︑というのは︑その地名の版図
が一番大きかったというにすぎない︒民族問題︑部族問題とは無関係なのである︒
カメルーンなどはかなり曲折を経ているけれども︑一九五七年後のアフリカ独立国の大部分は一八八五年に確定し
た殖民地の境界線をそのまま国境としている︒ということは︑一九六〇年を中心とし︑ブラック ナショナリズムの
大波と誇称された独立は︑実は民族の独立ではなくて︑殖民地の独立にすぎなかったのである︒七十余年つづいた殖
民地というのは︑それなりに本国による政治と経済の統一があり︑行政のために公用語の統一があった︒
しかし︑殖民地行政としての政治と経済の統一︑その一現象としての公用語の統一は民族の統一とはなしえないで
あろう︒文化の統一とは決していえないであろう︒
公用語の統一は︑アジァに於けるヨーロッパの殖民地︑インドの英語や︑ヴィェトナムのフランス語︑インドネシ
ァのオランダ語にくらべて︑距離的にヨーロッパに近いこと︑言語を異にする部族の複雑な混合などによって︑アフ
アフリカに於ける民旅意識と教育 一一
アフリカに於ける民旅意識と塾同 三
リカの方がずっと並日及していたと考えられる.ハノイでも︑サイゴンでも︑市場や商店での売買は私は越南語以外で
行われるのをきいた.﹂とは無かったが︑三クリのバザ←でも︑アクラ三・・→了ケ・トでも・黒い現地人は
フランス語や英語で値切ったり︑註文したりしあっていて︑じょうだんを言いあうのまで︑外国人である私にわかる
のであった︒コナクリの小学生たちはセクー トゥーレ大統領のフランス語による演説の方が︑大統領自身によるス
ースー語の要約よりもよくわかるらしく反応を一︑不していた︒
にもかかわらず︑ギネァ人はマリンケはマリンケの︑フ⊥フはフ⊥フの︑ゲルゼはゲルゼの生活様式や・伝統文化
や︑部族の歴史に誇りを持ち︑それを維持することが︑国の独立と竺に邪魔にならないことを主張していた・
セクートゥ|レはギネァの憲法を2フンス語で作り︑国語を暫定的にもフランス語にしなければならないことを
残念がり奈ら︑二︑三+年の間におそら阜ネァ禺では経済的蓮由で︑二魏の部族語が有力となり・その後
どちらか;にきめるというより他はあるまいと述べている.その二つを了ンケと7スーと予想しているのか・
了ンケとフ⊥フを考えているのか知らないけれどもそのころは同時に︑ガーナとお互の主権を制約しながら合邦と
いう計票あったわけである.その場△口の国語の問題をセ7トゥ←も︑ンクル←もどう考えていたのかは知
らない︒
そうして︑.ら黒い独立運動のすぐれたふたりの指導者たちは︑両国にはさまれるような形の〒トディヴォワ
ルの指薯ボワニら煮えきらない楚にいじを焼きながら激励をつづけていた.おそら≦天の間では・いつか将
来︑.ら三国の△口邦が心の中にあったのではないだろうか.そ すればアシ・ンテ・は竺の悲願が実現されること
になるだろうし︑この三国に︑あるいはマリも加わるということになっても.︑合は別として歴史的にマリンケとア
シャンティとが.あ三国または四国の連邦組織の袋的部族ということになるだろうし︑そこで国語がきまるとすれ
ば︑この部族語のどちらか︑ということになったろう︒そこで注目しておかなければならないことは︑セクー トゥ
ーレも︑ンクルーマも︑ポワニーも︑三人ともマリソケでもなければアシャンティでもないということである︒マリ
が加わるとすれば︑マリの現大統領ケイタ氏だけが︑その名前からマリンケ族のひとりだということになる︒
つまり︑くだくだと妙なデータをあげていることは︑通常民族というばあいに︑言語︑文化︑経済︑政治の統一と
いうことと︑人種的血縁ということが主たる要素にあげられるのだけれども︑事アフリカに関しては︑これらの事情
が︑アジァやヨーロッパなどの常識では考えられないほど複雑で怪奇だいうことなのである︒
4 アフリカ人意識
さて︑ここで思い起さなければならないことは民族意識の成立は︑少くとも日本では︑被支配階級である庶民たち
であった︑ということである︒
アフリカではどうであろうか︒
あるいはアフリカ人とは何であったのだろうか︒
アフリカの部族社会にも支配者はいた︒その支配者は酋長と呼ばれ︑酋長は世襲制だと日本では考えられている︒
しかし世襲と言っても︑それは男系であるのか︑女系であるのか︑たとえば酋長は︑酋長の娘の夫がなるのだという
世襲もあるし︑酋長の姉妹の息子がなるのだという世襲もある︒酋長の娘が何人かあれば︑どの娘の夫がなるべきか
について議論がありうる︒必ず姉の夫がなるのだときめることもできるだろうが︑妹の夫の方が姉の夫よりも年長と
いうこともありうるし︑財力︑武力︑人望︑教養などが物をいうばあいも考えられるし︑多妻の習慣を少しとしない
アフリカだから︑酋長の娘だが︑妻としては二号であるということもあろう︒このようなばあいには新酋長の決定
アフリカに於ける民旅意識と教育 =ご
アフリカに於ける民旅意識と教育 一四
は︑結局部族民の総意できまることになる︒
男系嫡出長男とぎまっているような部族でも︑酋長の就任には︑必ず部族の長老会議の同意承認を必要とするとい
う習慣が圧倒的に多いといわれる︒
そうして見ると︑部族生活に於ける階級差別は日本でかってに想像するほど厳密ではないとしても︑支配階級が存
在したことは否定できない︒ところでその酋長も︑或いは大部族の大酋長も︑殖民地本国の出先官憲や︑守備隊の白
人下士官兵の前には全く被支配者にすぎない︒その出先官憲や守備隊員が︑殖民地の首都へ行ってみると︑総督や殖
民地軍司令官の前では︑吹けばとぶような被支配階級に属する人たちであることを︑アフリカ人たちはその目で見る
のである︒その大帝王の如き総督や司令官が︑たまたま本国首都を訪れたアフリカが見ると︑まさに一地方官であり
︑一部将にすぎない︒つくづく上には上があるものだと思わされ︑帰国の後にはこれを得意になって語るであろう︒
本国朝貢者の帰朝談をきけば︑アフリカ人たちは自分たちが︑いったい上から何番目の階層に属するのか︑おそら
く数えるのも気が遠くなるほど︑下のどん底にいることを悟ったであろう︒
その点で︑アフリカの農民たちは︑十四︑五世紀の日本の庶民たちよりも︑ずっと深い悲しみとたよりなさとを二
世紀以上に渡って感じさせられてきたのである︒
日本の庶民たちが︑たよりは向三軒両隣︑即ち世間様と直接感ずるようにはいかなかったのかも知れない︒むしろ
向三軒両隣りこそたよりにならないものと感じたかも知れない︒或いは別の理由が主であるかも知れないけれども・
アフリカ人の一つの大きな特色といえる宗教心︑その多くを私たちは冷淡に迷信と呼ぶような︑超自然に極めて単純
卒直にたよるような心情の一つの原因はアフリカ人の社会の弱少さによるのではないだろうか︒
私たちが簡単に迷信と呼べないキリスト教やモスレム教が︑アフリカでは今も人々の心を強くとらえている︒モス
レムのばあい︑十世紀ごろから西アフリカを訪れた︑あるいは西アフリカからの巡礼者を迎えたメッカやカイロの︑
いわば本山の神学者たちが︑最も純粋なモスレム信仰はアラビァでもなく︑アジァでもなく︑まさに地の涯のような
西アフリカにあると︑しばしば詠嘆しているのである︒
ただ・ここでどうしても心を向けずにいられないことは︑モスレムの純真な信者たちが︑捉えられて奴隷船にのせ
られると︑きれいさっぱりモスレムを忘れ去って︑さてアメリカ大陸につくと︑じきに立派な純粋なキリスト教従に
かわるという事実である︒無教養な私は︑この間の事情を説明してくれる人を知らない︒むしろそれを問題にした人
を知らない︒
ナイジェリアのヴァーンという人は︑アメリカで解放されたもと奴隷の孫だそうだが︑この人に︑アフリカ人はな
ぜ奴隷船の中へ︑アメリカの土地へ︑モスレム信仰を持って行かなかったのか︑ときいてみた︒彼は﹁奴隷たちは奴
隷だから︑心の中に何も持たなかった︑ただ深い悲しみだけを持って行った﹂と詩的に答えた︒この詩は詩としてわ
かるようにも思えるけれども︑凡人の疑問を解く答にはなっていない︒彼らが信仰を棄てたときが捉えられたときな
のか︑奴隷船にのせられたときなのか︑航海の途中なのか︑新世界に上陸したときなのか︑私は知りたいと思う︒誰
もそれを記録していないように思う︒
またアメリカの黒人たちの中にはアフリカに帰えりたいと希望するものもいることはいるのだが︑あの広いアフリ
カ︑三千万平方キロに近い大陸の︑だいたいどの辺りで自分の先祖が生れたのかを知る方法がない︒連れてこられた
その当人たちが︑自分の生れた土地がアフリカのどの部分であったかを知らなかったからである︒
そういういみでアフリカ人は私たちから見て︑未知なる社会であったばかりでなく︑無知の社会であったことも私
たちは渋々ながら認めざるを得ない︒
アフリカに於ける民旅意識と教育 一五
アフリカに於ける民旅意識と教育 一六
しかし︑ケニアの大統領ジョモ ケニヤッタは︑ヨーロッパ人はアフリカの特に医療手術などに滅菌の手段が施さ
れていないから︑たいそう不潔であるというけれども︑アフリカ人はその手術に︑聖なる種目に属する植物を︑聖と
された斧で切り︑聖なる水で洗って古い伝統の方式に厳密に従って使うのだから清潔であると信ずるのだ︑と反論し
ている︒もし科学的に滅菌してあるメスを使ったとしても︑その材質なり︑形なり︑あるいは執刀の方法に︑アフリ
カ人の心が汚れと感ずることがあれば︑それは不潔であると言わざるを得まい︒そのケニヤッタも青少年時代にイギ
リス政府の牧畜試験所に勤めていて︑牛乳の検査などもしていたのだから︑彼の心の中には︑滅菌的清潔さと︑宗教
的清潔さと︑二つの系統の清潔を希求する心情が平行して育ったと考えられる︒二つの系統はともに重要︑あるいは
必要として育つにちがいない︒
ヨーロッパ人や日本人はこのアフリカ的宗教心に未知であったが︑アフリカ人は︑特にケニヤッタは滅菌の科学に
無知であったことを自覚したにちがいない︒未知の自覚と無知の自覚とは人生観︑世界観をたいへん異質的に育成す
るであろう︒
黒いアフリカ人たちは貧困︑無知︑無力︵特に武力に於て︶を共有の感情として︑現代世界に対面することにな
る︒その共感は部族を超え︑殖民地としての境界線を越えることになるであろう︒
ここにアフリカ連邦とか︑黒アフリカ連盟とかいう政治思想の基本が生れると考えられる︒完全独立の代表選手で
あったギネァ共和国のセクー トゥーレ大統領が奇妙にもエティオピァ皇帝ハイレ セラシエと結んでアフリカ連合
に狂奔する理由がここにあると思われる︒
5 ネグリテユード
しかし︑貧困︑無知︑弱小というような消極的共通感情から︑直接新しい動きがそのまま生れるとは考えられない︒
それを︑直ちに黒いアフリカの人口の八十%以上を占めるモスレムだとするならば二つの困難が目前にはっぎりし
ている・一つはハイレ セラシエがキリスト教従であるし︑今は亡命中であってもンクルーマがキリスト教の牧師さ
んであったし︑ローデシアのシトーレも牧師さんである︒二つにはモスレムの保護者をもって任ずるアラブ連合や︑
北阿のアラブ諸国が直ちに宗主づらをさらけだすであろう︒アラブ人たちは千年以上に渡って黒人を奴隷として所有
したのだし︑近世になってアメリカに黒人奴隷が売られるようになっても︑黒人をつかまえて海岸の港までつれて行
き︑ヨーロッパ人の奴隷商人に売りわたしたのはアラブ人か︑アラブ系の黒人であったと黒人たちは信じているので
ある︒だからアフリカ侵略者第一号はアラブ人であり︑第二号がヨーロッパ人であった︒第二号が憎いからと言って
第一号は好いとする論理はアフリカにはない︒
こうして黒いアフリカ人は想像以上にアラブ連合に対して警戒的である︒黒いアフリカの指導者のなかで︑最も親
アラブ連合的であったンクルーマも︑多分に政略的なにおいをもってアラブ連合国民のひとりと結婚したけれども︑
意識的にアラブ民族の婦人をさけてキリスト教徒であるコプト族の婦人と結婚したのであった︒
モスレム以外に︑黒アフリカの共通の基盤を発見しようとすれば︑セネガルの大統領レオボルド セダール サン
ゴールのネグリテユード論をあげなければなるまい︒
サンゴールは一九〇六年八月︑ダカールの南百キロのジョオルという小さな町で二十四人きょうだいの長男として
生れた︒アフリカ的に母が何人もいたからである︒
小学校をダカールで︑高校大学をパリで卒業し︑彼はフランスではじめて黒人でリセー教授になった︒そうして文
学評論家︑語学者としていくつかの労作を出し︑同時に詩人として名をあげる︒ ﹁影の歌﹂﹁エティオピック﹂等の
アフリカに於ける民旅意識と教育 一七
アフリカに於ける民旅意識と教育 一八
詩集はその書名だけは日本にも屡々紹介され二三の詩は日本語にも訳されている︒一九五九年マリ連邦の成立ととも
に彼は大統領の閣僚にえらばれ︑一九六〇年八月一九日︑マリ共和国とセネガル共和国が分離したとき︑セネガル大
統領に選ばれてダカールに帰えった︒
ネグリテユード︵黒人性︶ということばは一九五六年パリで出版された詩集エティオピックのあとがきからあらわ
れるのだそうだけれども︑やはり大きく注目をあつめたのは︑一九六三年三月末ダカール大学で開かれたフランス語
アフリカ文学者会議の記念講演として行った﹁黒人性と普辺的文明﹂という論策であろう︒これはブレザンス アフ
リケーヌ︵アフリカ人ここに在り︶誌︑一九六三年第二四半期号の冒頭論文としてのせられている︒
この論文は丁寧に訳しても十三︑四枚の短いものだが︑大体三段に分れている︒第一段は︑﹁四方の風のふき通す
ダカール﹂集ったアフリカ人たちが︑なぜフランス語で普遍的文明に寄与するのか︑ということ︑それはフランス革
命を成就したことばだからと弁じている︒第二段は黒人文化と普遍文化とは対立するものではなく︑ヨーロッパとア
ジアの文化をあわせただけでは三分の二文化にすぎず︑黒人文化をあわせてはじめて普遍文化と言えることを論じて
いる︒第三段はヨーロッパ文化の特質を進歩だと規定すれば︑黒人文化は不変を特質とする︑またヨーロッパ芸術を
感情と理性の働きだとすれば︑黒人芸術の感情と理性の達したものを表現することだと述べて︑ヨーロッパと黒人と
の共存の必要を主張している︒
この芸術の不変性のあらわれとして︑やはり黒人たちが残したエジプトの壁画に見られる人物の類型性と無表情と
をあげ︑それよりもさらに黒人性のたしかな人々が西歴紀元前の八十世紀にわたって残したタッシリ遺跡のふしぎな
壁画のテーマの一貫性をあげている︒私はこの論文に接したとき︑まだタッシリ遺跡について全く無知であったが︑
六四年の春に︑タッシリ調査団の団長アンリ ロートが来日し︑壁画の摸写の重要な一部が東京その他で展示された
のを見て︑サンゴールの所説︑すくなくとも黒人芸術の不変性ということについては強い疑問を持たざるを得なくな
った︒
サンゴールは六十五年にもブラジルで再びネグリテユードルについての講演を行い︑これもプレザンス アフリケ
ーヌに撃載されている︒
それはともあれ︑サンゴールのネグリテユード論が︑アフリカ人一般︑特にフランス語を公用語にしない連中にど
う受取られているのだろうか︒あるいはフランス語を公用語としているギネァのセクー トウーレの仲まや︑コー
ト ディヴォワルのボワニーの仲まやカメルーン︑コンゴの人々にどう影響しているのだろうか︒ことに隣のケイタ
たちの︑マリ共和国ではどうなのだろうか︒北京で去年あったマリの人たちは﹁サンゴールのネグリテユード論は知
らない﹂と言った︒もちろん経済使節団か何かの︑元宮様みたいな人だから︑文化論争などに興味はないのであろ
う︒
しかし︑不勉強な私は︑黒人の反響ということを一つも見たことがないのである︒
掲載された雑誌はパリ発行のインテリ向四季刊誌であり︑論者はヨーロッパ寄り右翼としての評判のよくないセネ
ガルの大統領で︑白人と結婚しているカトリック教徒セーダル サンゴールでは︑まじめなアフリカ人は問題にしな
いのがあたりまえかも知れない︒
事実この論文は﹁ヘルメットをかぶり︑半ズボン姿で︑サングラスをかけた観光旅客の立場ではない﹂とことわり
ながら︑どうもエキゾテイシスム趣味の欧米人の︑しゃれのめした随筆・のようなにおいがないでもない︒少くともタ
ッシリ遣跡は現地を訪れたことはもちろん無いとしても︑パリ人数博物館所蔵のあの有名な摸写をも︑十分には見て
いないと考えられる︒
アフリカに於ける民旅意識と教育 一九
アフリカに於ける民旅意識と教育 二〇
それよりも私は︑この論文が圧迫されつくした︑従属︑隷属の涙と汗と血にまみれたアフリカ人の立場に立ってい
ないと考える︒なぜならば子どもが出てこない︑児童観が芽をふいてもいなければ︑においすらさせていないと感ず
る︒