七八
人 間 學 に 於 け る 人 間 存 在 の 概 念
佐々木一.義
賑聖
ごコケユロぜもぴノキゲみが劇︑"デー
〜噛ひ︑㍉院×・曹':r∴:r'・・ド・♂'・・"・,入聞に就ては古くギリシヤ時代よレ既に哲學的封象となつてゐる︒ソクラテギスはがの有名なヂ〃スナイ淋
殿の格嘗﹁汝自身を知れ﹂乳を自らの哲學的思索のぞ︾午Lとする事によつて↓入間を哲學研究の申心課題とし
て取扱つた℃彼以前に於て問題となされた悉のは自然鷺あつ挺39ソクラテLスζそば實に入瀞を嚢見じた最初
の哲學者であゐ喝それ以後は人間は如何なる時代に以ても自已自らを問題としたo入間が有しで來た凡ゆる丈
北は驚結局人間の自已把握であ〃鑓自己表現であるに他ならながつたρ人間は如何なる時代に於ても常に︑・程
震の差遣そあれ漕一定の人聞観を需聴欝己自らに於て樹立し︑一共㊨範園内に於で行爲し.観察し 來つたのである・o
然し漕汎聞撃な届ものが哲學的昌醇分科として︑鏡在特に取上げられで論議の封象とされ︑人々⑳關心を惹くに
至つた所以は何虚に在るであら五か︒ゴ赴ち・㍉,︑︑・・,'チ
所謂世紀の輻換期頃よりして人は漸く哲學︑少くとも人聞生活の現實とは全くかけ離れた︑軍に理論の爲の
理論の観ある哲學に封して失望を感じ始めた︒かくて哲學に依つて満たされざる彊き現實への衝動は︑科學に
封する異常なる期待吉なづて現はれた︒自然科學や歴皮とかにごぞ現實なるものが把握せられるものと考へ
た︒然しこの期待も亦室しきものである事が漸く明かになつて來た︒何となれば舟科學は現實の封象化であつ
'ても︑それは生活の根擦とか行爲の指導原理叉は存在そのものにっいて充分な読明を與へてくれるものでもな
く︑へ叉かくの如き何ものをも其虞に見出す事が出來なかつたからである︒それは哲學的思索の任務とするとこ
ちである︒'而竜今日の歴史的批會的現實の生み出す不安と危機とが︑自由放置の樂天的自由主義の無力性を暴
露した結果︑人間め自意識が激しく揺り動かされ︑▼其の内面的矛盾性叉は中聞的存在性が明瞭に意識ざれ殉且
つ現實はか﹂る浩極的目意識への停滞を許容せす︑統一的行動者としてめ前進を容赦なぐ要求してゐる︒かぐ
tて人間の自己自身に關する主題的反省が︑過去の如何なる時代に於けるよりも.畠より激しぐ品揚せられ︑現
實の根源的存在たる人間の根本的究明こそ現代焦眉の問題と考へられるだ至つた心かぐて人聞は哲學より科學
に眼を向け捨而して其の求めつ︑ある現實の根源的なるものをば︑再び哲學に鯖って探すことになつた︒現代
に於ける人間學研究の提唱者の一人として最も重要な位置を占めるマックス・シエラーが﹁吾涛の時代が特に
緊急に解決を要求するが如き哲學的課題があるとすれば︑それは哲學的人間學の課題である﹂と前提して﹁如
何なる時代に在つても沸入間の本質と起源とに關する諸見解が︑我々め時代に於ける以上に不確實であり︑曖
入間學に於ける入間存在の概念(佐々木)七九
メへ︑⁝︑㍉:.︑!﹁︑‑︑.八〇
珠であり滴壕鞄多様で協る事はない︒我々はゼ萬年に亙る歴史の内で戸入聞といふものが︑︒全く且つ淺りなく
周題的になつ光最初の時代に居る︒この時代に在つては失間は人間が何であるかを︑もはや知らぬが︑然し同
め時に叉人間がそれを知らぬ事を知つてゐる﹂︑といつてゐるのもゆ入聞が何故に現代特に問はるべき存在である
かを洞察してゐるものと云へ︑よう︒︑︑:ピ唖︑︑一・一
か鴎して現代に於て入間學が哲學の一つの重要な立場として立てられハそれに於て人間の何であるかを究明
する事が︑重要な課題であるとせられるに至つたのであるが︑それは同時に一面から考へるならば世界観に於
ける貫理を決定する事が︑現代に於ける程緊急にして而も困難な課題である事は曾つてなかつたからだとも義
へる︒ハイデッガーが﹁入聞學といふものは學に氏聞に關する眞理を求めるばかりでな℃由,眞理とは}般に何
めを意味してゐるか侭就いての決定を今では要求するものである﹂といつてゐるのも此の意味である︒かやうに
眞理を決定せんとする事が要望されるりは︑宛かも古代に於ては︑自然の本質規定に依り︑申世に於ては紳の
本質規定によつて,世界観を決定したと同様に︑世界観の眞理性が人聞といふ存在者に何等か制約されるもの
と解される爲であると思はれる︒これば以上述ぺた如く2現代の哲學的傾向が古代申世のそれの有する超越的
盤格を睨却して現實的地盤の上に立つに至つた事の當然なる餓結であらねばならぬ︒
ドごタをしじドドるらドヘニ
ノー曳,︑
1)M.Scheler,MenschundGeschichte・(PhilosophischeWeltanschauung・S・ 巧)
2)M.Heidegger,1〈antunddasProblemderMetaphysik,S.200.
然らばか父の如き人聞學乏は如何なるもの饗あちすか︒今我差演問題としてゐる人聞學が﹂人間穐關する肖
然科學的實護蘭研究であるととろの人類學や﹁大種學の様なもの癒ぱなぐて亀"哲學的人聞學と云はるべき牲質の
ものである事は申すまでもなからう︒從つて哲學的大聞學とは如何なる悉のであるかに就て少し惹読明も尤見
る必要がある︒それが人闇學である以上︑人間の本性に關する限ゑの一切のものを含む事は先づ許容されねば
厳らな.いゆ.從つて動植物と麗別匙れる特定.の種としての人間の明かに確定し得られる諸性質のみならナ舟そ
の隠れたる諸素質︑ノ性格や人種や性に基く差別も人間學の領域に屡するっ然しそれは行爲する人聞が自己を作
り︑また作勿得︑且り作るべきものを悉含まねばならない︒ところで人問の物理的︑化學的︑生理學的簿︑心理
學的︑人類地理學的︑︑更學的.融會學的︑把握︑其等は︑小宇宙とも見ちれる多面的擁造を持つ人間の﹂面を敦
究するもめである︒勿論共等と雌も人聞の一面乃至一特徴を甥象とする學である限り︑人聞學忙屡すると謂な
れ得るであちう︒然しそれ等はブンズベルグの言葉を借りるなちば︑特徴的人間學と云ふべきものであつてや
哲學的人聞學であるのではない℃哲學的λ間學とは自然の諸領域︑(無機物︑植物,動物Y並びに一.切の事物の
基礎に野する人聞の關係に就てめ︑︑人間の形而上學的な本質的起源並.びに世界に於ける人聞の物理的︑心理的
及び精紳的始源に就℃の︑人間を動かし叉人間が動かすところの勢力及び威力に就ての︑・入聞の生物學的︑.心
もヘヤも・理學的︑精榊史的就會的焚展の︑この嚢展の主要な諸可能性並まにこの嚢展の諸現實性に就ての︑基礎科學癒
めあり︑確實な研究臼標を與べるものであるりそしてそれが特に哲學的人問學hと呼ばれる所以のものは︑輩に人
入問學に於ける入間存在の概念(佐々木)入﹄
1)!近,Schele■,藍enschundGeschichte.(Philo翫)ph誌cheWeltImschau加gゼ 鋤5)
掃・︑・・入こ
聞を封象にずるといふ意味からのみでなく︑人間といふ封象.の本質を規定し西本質構造を攻究する所にあるこハ
わ乏を意味するゆ即ちそれは前蓮せる如く人間を封象と影で攻究する凡ゆる特殊科學的な研究︑の内に包含ぜられ
ると云へるにして愚もそれが直ちに哲學的人聞學の内容を爲すものではない︒人間學が哲學的である爲には︑
それは確かに人間の本質を而も形式的ではなく具膿的にその本質を把握する事を主眼とせねばならない︒︑
ところで火間は確かに獲物からは勿論︑動植物からも匠別せちれる存在者である︒が然し一方に於て最高の
稜達を塗げた直立する生物として一種の高等な哺乳動物セあり.︑其の限りに於て生理的な衝動的な存在者であ
る事は否定出來ない汐又他方に於て人間は精神を有ずる存在者として︑心理的精聯的に行動し︑,言語を有し毒瞬
丈化を創造する︒更に人聞は常に集團的存在者としで民族的に團結し︑枇會的に行爲し︑國家的に活動する︒
か︽の如ぐ︑入聞は多面的多角的性質を有し︑それを統一した存在者である︒從つて人間學は人間の一,側面を
樹象とするものではなく︑・其の全盟を問題にするのである︒其虚に於て取扱はれるものは︑人聞存在の部分的
性質乃至部分的要素ではなくて︑まさに︑.それの全盟的性質若しくは全饅的構造そのものである︒換言すれば
哲學的人間學の封象とする人欄は部分的汰間ではなく︑その全饅性に於いて把握せられた人間即ち全盟人間で
あり,全艦人聞の素質並びに本質構造である︒從つて哲學的人間學を標榜しで現はれる學読は︑・何等かの仕方
で奎艦人間を取扱はんとしてゐる︒シェラ﹁が宇宙に於ける入聞に於ける位置を究明するζとを以て人聞畢の
課題と考へ︑.入間存在が小字宙といふ意味に於て︑・宇宙の申心なむとしてゐるが如きそれである︒故に彼にあ
2) .M.S¢h.eler,ebenda.
つでは人間の存在は軍に宇宙に内在する︼つの封象といふのではなくLて︑宇宙に於ける封象的存在を可能な
らしめる作用中心として考へられてゐる迫かくて絶封に封象化され得ない作用申心たる人格性が人間の本質と
されてゐるのである︒ン≧三四︑鷹︑'.z︑﹄ξ
ド然しシェラーの此の考へ方から見るならば︑眞に人聞の存在が全禮として把握されてゐないと云はねばなち
ぬ︒即ち︑彼に於ては全盟人間乏いふイデーは作用申心としての人格性として把握されてはゐるが噛然しそれ
は人間といふ存在者として入聞を考へてゐるのに基いてゐるのである︒だが人聞を封象とする場合には︑入聞
なる存在者と其の存在乃至存在の仕方との爾方面が考慮に入れられねばならない︒存在者としての入聞は一つ
の實膣的なものであるが︑それをして存在者たらしめるものは︑その存在の仕方である︒全艦人間の考察は全
艦人聞の考察であると同時にPこの存在者の存在の仕方の考察であらねばならない︒シ属ラーの様に作用中心
としての人格性を考へるにしても︑その人格の作用の途行實現といふ事を考慮に入れねばなちぬであらうし︑
それは結局人欄存在の存在の仕方に露着する︒即ち彼の企圖するところのものは︑主として存在者としての人
間の考察であり︑彼の哲學的人聞學臓人間なる存在者の存在的研究であつて︑人間なる存在者の存在の存在論
的研究ではないことになる︒'
シェラーがなす様に入間を動植物其の他の存在者の領域から匠別し︑かくすることによつて噛人間なる一定
め領域を有する存在者の特殊的本質構造を摘出しようとすることは︑人間の本質的把握の意味に於ては哲學的
入間學に於ける入間存在の概念(佐々木)八三