ア ル ブス 山 とチ ンギ ス・ ハ ー ン ーー学術研究と文化復興運動の相互作用――
目 次
はじめに
一、チンギス・ ハーン昇天の地 とその祭殿 の起源 1.1 年代記の記述
1.2 モ ンゴル人研究者の新説
1.2.1 ナ・ バ トジャラガル氏の説 1.2.2 オ トゴン氏 の学説
1.2.3 ナ・ バ トジャラガル氏 とオ トゴン氏説の影響 1.2.4 ケシク トク トホ氏の説
1.2.5 ケシク トク トホ氏説の問題点 二、考古学資料の発見 とその解釈
2.1 アル ジャイ石窟の概況
2.2 壁画「チ ンギス・ ハーンとその妃たち、子息たちをまつる絵」
2.3 壁画「モ ンゴルの葬送図」
2.4 チ ンギス・ ハーンはアルブス山中に眠 る ? 三、スゥルデ と馬乳酒 に託 した願い
3.1 歴史 を集約 したス ゥルデ村 3.1.1 ス ゥルデ とは何か
3.1.2 「部爾多斯第一門」内のス ゥルデ
3.2 アラク・ ス ゥルデの血祭 の復活
3.3 「アルブス山に九×九の馬乳を捧げよう」一四十年ぶりに復活した馬乳酒祭 3.3.1 馬乳酒祭の二つの側面
3.3.2 四十年ぶ りの馬乳酒祭 四、おわ りに
英
は じめ に
モ ンゴルにとってチンギス・ ハーンは民族の創造者であ り、統合の象徴であ る。今 はモ ンゴルではないが、歴史上モ ンゴル と称 し、モ ンゴル と政治的にも 文化的にもきわめて近い関係 にあるウズベ ク族、キルギス族、カザフ族 など ト ル コ系の諸集団 も、チンギス・ ハー ンー族 に出自をもつ優越 クラン (白い骨)
に支配 されていた。そのため、彼 らもまた民族統合 をチ ンギス・ ハー ンとむす びつけることがある。
イデオロギーにそまった二十世紀 において、モ ンゴル系諸集団は中華人民共 和国 とソビエ ト連邦 とい う二つの社会主義国に編入 された り、あるいはその衛 生国に格づけられた りした。長いあいだ「 タタールの くびき」にあえいだすえ、
対外拡張 に成功 したロシアは、社会主義 に変身 したあ ともチンギス・ ハーンを 敵視す る意識 は変わ らなかった。チ ンギス・ ハー ンを大侵略者 として位置付 け る政策 は、チンギス・ ハー ンの子孫たるモ ンゴルにもその実行が強要 された。
そのため、世界で二番 目の社会主義国家 となったモ ンゴル人民共和国七十年の 歴史のなかで、チ ンギス・ ハー ン評価 に大 きな動揺があった。チンギス・ ハー ンに対す る肯定的な言論 は、すべて弾圧の対象 とされた。一九六二年 はチンギ ス・ ハー ン生誕八百周年 にあたる。モ ンゴル国ヘ ンティ県タグル村 はその生 ま れ故郷 とされる(地図参照)。 その故郷 にチ ンギス・ ハー ン記念碑 をたてた政治 家がいたが、のちに暗殺 されている。 この ような動揺 は一九九〇年代 の民主化 運動が起 こるまでつづいた。
一方、中華人民共和国の場合 は、 まった く異なるチンギス 0ハ ー ン評価が下 された。中・ ソ対決、 さらには中・ 蒙対決 もかさな り、中国はチンギス・ ハー ンを「中華民族の英雄」として もちあげ、モンゴルを「中国の北方民族の一員」
と位置づけた。民族政策の一環 として うちだされた中国のチンギス・ ハー ン評 価 は、国内のモ ンゴル族 を懐柔す るためであった ことはい うまで もない。
中国は現在、国内の五十 い くつ もの民族 を統括 して「中華民族」 と定義づ け ようとしている(費孝通 1989:1‑19)。 アンダー ソンの説 にしたが えば(アン ダーソン 1994)、 いわゆる「中華民族」とはまさに「想像の共同体」にすぎな い。当然、チンギス・ハー ンも「想像の共同体」の枠組 みを打破する存在 になっ てはな らない。 そのため、九十年代以降に相互交流が増 えた内モンゴル自治区
とモ ンゴル国のモンゴル族 に対 し、中国の警戒 はゆるんでいない。
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ロシア と同 じように、漢族 も元朝の ときにモンゴルの支配 を経験 した。その ためではなかろうが、従来、社会主義中国におけるチンギス・ ハーン研究、モ ンゴル研究 は、決 して広い視野 に立脚 した ものではなかった。モンゴルの活動 した地域 は広 く、複数の言語資料の駆使が欠かせない。 にもかかわ らず、中国 のチンギス・ ハー ン研究 は、漢文 を玩賞す る文人の自己満足の域 を出るものは 少 ない。漢族研究者 は、モ ンゴル文資料 をよもうとす る努力す らしなかった。
当のモ ンゴル族の場合 は、事情が違 う。内モンゴル 自治区のモ ンゴル人研究 者たちは、外国の研究者たち と自由に交流で きない とい う制約 をうけなが らも、
長 いあいだ辛抱づ よく地道 な研究活動 をつづ けてきた。外部の資料が手 に入 ら ない とい う不禾Jな点 を、かれ らは域内での実地調査の徹底 とモ ンゴル文年代記 の研究 に集中することでおぎなお うとした。 このような努力 は大 きな成果 をう み、世界のモ ンゴル研究 に寄与 している。
モ ンゴルにはまた学問研究 を盛んにする土壌がある。人があつまれば、 日常 の出来事や過去の伝間 を くりか えし語 りあう習慣がモンゴルにある。語 るとき に格言や典籍の ことばを加 えて韻文化 した りする。 とりあげられた話題 は、場 合 によっては歌謡 として も広 まる。か くして叙事詩が誕生 し、年代記が生 まれ る。文字化 された年代記 はさまざまな手写本 に変化 して広 くよまれ、ひ とつの 共通 の認識 として定着 していき、巨大 な思想 になる。
なぜ、 これほど学術研究 に関心が高いのか。 それにはつぎのような背景が考 えられ よう。中国はチンギス・ハー ンを「中華民族の英雄」 と評価 しなが らも、
モ ンゴル族 の伝統文化の発展には制約 をもうけてきた。伝統文化の維持 は民族 主義 につなが るとの視点で、遊牧民 を定住 させ、同化・ 融合 を積極的にすすめ て きた。伝統文化が 目にみえるかたちで維持できな くなった ときに、人び とは それ を「活字化 された過去」、すなわち各種雑誌や新聞 に求めているのではなか ろうか。
学術研究 の成果が さまざまなルー トを とお してす ぐに民族全体 に伝 わ るの も、モンゴルの特徴のひ とつである。た とえば、内モンゴル社会科学院が編集 発行 している『内モンゴル社会科学』 とい う学術誌 を定期購読 しているモンゴ ル人牧民が非常に多い。その他 にも、各大学、各行政機関が発行する雑誌、新 聞の読者 も多数存在する。 これは私が以前 に も指摘 した、学問をこのむモ ンゴ ルの風土のひ とつである(楊 1998:3;1999a:488)。 研究者たちは新たな発 見 を求めて現地 に入 り、被調査者側 は伝統文化の活字化 を望む。両者の願望が 統合 して、民族文化の復興 とい う新 しい現象がお こる。
本研究は上述の背景のもと、近年の学術研究の新 しい成果がいかに一般の人 びとに理解され、同時に人びとの反応がふたたび学界にどのような反射作用を およぼしているかを紹介する。学術成果の消化 と深化の一環 として、文化復興 運動がある。文化復興運動は学術研究の成果を理論的な武器 とする。新 しい文 化はさらに学界の関心を引 く。 このような相互作用的な現象を、内モンゴル自 治区西部、オル ドスの事例 をとおして報告する。
一、チンギス・ハーン昇天の地とその祭殿の起源
内モ ンゴル 自治区中部か ら西部 にか けて横たわ る山脈 をモ ンゴル人 はムナ ン 山 (Mun―a―yin aγul一a陰山)とよぶ。ムナン山の南、黄河の大湾曲地帯内は オル ドスである。平均標高約一五〇〇メー トルのオル ドス高原の北西部 にアル ブス (Arbus)山 地があ り、その最高峰 ウランデシは標高約二一四九メー トルに 達する。オル ドスか ら黄河 を西 に渡れば、寧夏回族 自治区に入 る。オル ドス西 部 と寧夏 は西夏 ことタングー トの故地で、首府銀川市付近 に西夏の都、興慶府 があった (地図参照)。 一三二七年八月、西夏征服 を最後 に、チンギス・ハー ン は昇天する。逝去 した具体的な地点 については諸説があるが、アルブス山周辺 もその最後の活動地域 としてみ られている。生涯最後の活動地域 に関す る新 し い論考 を紹介 し、葬送儀礼 と関連 させてチ ンギス・ ハーン祭殿 の起源 を検討す る。
‑30‑
モ ン ゴ ル 国
ご、ゴv…D゛、。ぶ
ウムヌゴピ
ドルノゴビ/¨`ヽもごグ〜`ノ`5
ヽ
;;"-,-i"',*;.-'.-..;"/-uJ
内 モ ン ゴ ル 自 治 区
北 京
地 図 現代 内モ ンゴル 自治 区 にお ける文化復興運動 に関連 す る諸地域
1.1 年代記の記述
まず、 チンギス・ ハーン最後の活動 となる西夏征服 と、逝去 に関する年代記 の記述 を整理 してお こう。
Fモンゴル秘史』第265節 (Eldengtei&Ardttab 1986:880)にはつ ぎの ようにある。
Noqai Jil namur ёinggiS Qaγan Tangγud irgen―dtlr morilaba:qatun―daこa Yisui 戌年の秋、チンギス・ ハーンはタングートの民 を征服 しに出陣 した。諸妃のなかからイェスゥイ Qatun―i abこu odba:Jaγur―a6bill Ar Buq―a―yin olon qulad― i abalabasu・・¨・・こOγurqad 妃 を随伴 させた。途 中、冬 にアル ブハで多数の野生 ロバ を狩 り……チ ョールハ ト baγuba.
に駐営 した。
また、第268節 (Eldengtei&ArdaJab 1986:890)では以下のように述べ ている。
γaqai JilこinggiS Qaγ an tngn―dtlr γarba 亥年にチンギス・ハーン天に昇 りたり。
一方、 ロブサ ンダ ンジンの 『黄金史』第267節で はつ ぎの ように書 いてい る (LubsangdanJin 1990:126‑127)。
・・・・¨ulaγaこin γaqai Jil―dtlr Jiran Jirγ uγan nasun―tur―iyan doluγan sarayin arban
……丁亥年、六十六才のときに七月の十
qoyar―a tngn bolba:
̲日に天 に昇 りた り。
チ ンギス・ ハ ー ンの逝去後、モ ンゴル軍 は、ハ ー ンの「黄金 の遺体 」 (altan k∝世 )を 馬車 にのせ てモ ンゴル高原 の生誕 の地 を目指 した。ムナ ンの クー ブル (Mun―a―yin kёge―ber)に つ いた とき、車軸が泥沼 には ま り、五色 の駿馬 たち で牽 いて も動 かず、 あ まね く大 国が悲 しみ におちいった とき、 スニ ト部 のギル
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グ ダイ・ バー トルが か の有 名 な挽 歌 を霊 前 で よみ あ げた (LubsangdanJin 1990:126‑127)。 この挽歌 については数種の和訳がある。 ここでは原山爆氏の 訳 (1995:78‑80)を引用す るが、誤訳 と思われる部分 はそのつ ど指示す る。モ ンゴルの葬送儀ネL、 チンギス・ ハー ン祭祀の起源 を考 えるうえできわめて重要 であるため、あえて全文 を呈示する。
蒼 き永生の上天 よ り、運命 にて生 まれたる駿馬の ごとき我が主 よ。
あまね き大国をなげうちて至れ り君 は。
貴 き部族 を安 らけ く建 てた る君の政治 よ。
崇貴 なるみずか らの更生 に到達せ る君が国 よ。
生 まれ させたる君の后妃御子 よ。
生 まれた る「(大いなる)地」1、 水、か しこにあ り。
美 しくも建 てた まえる君の国 よ。
課税 して建 てたる君の国 よ。
親愛 なる君の后妃御子 よ。
君の黄金の宮殿、か しこにあ り。
巧みに建 てたまえる君の政治 よ。
会いた まえる妃たち と御子たち2君があまたの国 よ。
君の一族、か しこにあ り。
君が成長する国 よ3。
君が沐浴 したまい し水、雪 よ。
君が多 くのモンゴルの民 よ。
オノンのデ リグン・ ボルダクに生 まれたる君の地水、か しこにあ り。
茶褐色の4種馬のたてがみにて編 みてつ くりた る君の憲施 (旗)よ。 君の太鼓、 ラッパ、笛 よ。
語 る君のあまね き黎民 よ。
ケル レンのクデー・ アラル、ハー ン位 に即 した地5、 か しこにあ り。
成就 の前 に会いた まえる君の妃、 ブルテル ジン=セチェンよ。
1原山は「ハーン、君の地水」 としている (原山 1995:78)。
2原山は「曇み経略 したまいし」 としている (原山 1995178)。
3原山は「降国の黎民 (庶民)よ」 としている(原山 1995:79)。
4原山は「広野の」 としている (原山 1995:79)。
5原山は「ケルレンの草原、アルラン=ハ ンの住みたまいし君の地」としている(原山 1995:79)。
幸 ある「(大いなる)地」、君の故郷 よ6
ボオルチュとムハ リ、二人の君の親 しき友 よ。
全 き君の大政礼、か しこにあ り。
神力 によりて会 いた まえる君の妃、ホランよ。
君の胡琴、胡筋、楽器 よ。
君のあまね き大国 よ。
幸 ある「(大いなる)地」7、 か しこにあ り。
ハ ラグナ山を暖か しとして、
妃 グルベルジンを美 しとして、帰属せ るタングー トの民 を多 しとて、
古 きモ ンゴル を捨てた まうや君 よ。
我が主上 よ、惜 じむべ き君が黄金の命 を出さば、
玉宝のごとき君が遺骸 をとりて帰 らん。
君が妃 ブルテルジンに見せばや。
君があまね き邦民 に贈 らばや。
挽歌 の朗頌が功 を奏 したのか、馬車がふたたび動 きだ した。「あまね く人 び と
ハン●イケ●ガジャル
が安堵 し大いなる地、かしこに届けた」(qamuγ ulus bayasqulang―tu bolbai.
qan yeke γaJar―a tende kurgebei) と2らる (LubsangdanJin 1990:127)。 記 述はさらにつづき、遺体埋葬の地 と祭殿についても述べている(LubsangdanJin 1990:127‑128)。
Qamuγ―un mёngke ktir(kegur)tendeこe ttsこu:
あまね く「永遠なる霊柩」はかしこから生成 し、
Qan Jayisang―ud―un tulγ―a bottu:
ハ ン、宰相たちの鼎足 となった。
Qamuγ ulus―url sittigen boluγad:
全邦民の守護神 とな り、
Qalnuγ―un rnёngke qadasun Naiman Caγ an Ger b01bai―J―a・:・
全 (帝国)の永遠なる支柱たる八白宮になった。
Eien endeこ eeこikui―tur baγarγan Jarliγ b01uγsan― u siltalγabar 主 は故郷か ら出師 した ときに、途中 (ムナ ン山で)仰せ られた ことか ら、
6原山は「ボラク ト=ハン、君の地水、遊牧地よ」 としている (原山 1995:79)。
7原山は「フ トク ト=ハーン、君の地水」 としている (原山 1995:79)。
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Edtige duγ ar qasaγ terge buluこinegen sigedbei:
この度馬車の車軸が陥没 した。
Eng yeke ulus― tu qudal tungqaγ ё帥 大いなる全帝国に虚偽なる知 らせを広げ、
Ernusugsenこamこa.orgilge ger.oriyasun oyimasun― i tende ongγulaba:
着ていたシャツ、宮帳、はいていた靴下 をその地にまつらせた。
Unen kegur―i inu Jariln―ud lBurqan γaldun―a―tur ongγulaba gekil:
真 の遺体 は、 ある者 はブルハ ン・ ガル ドンに埋 めた とい う。
JariFn―ud Altai Qan―u aru―tu:Kentei Qan―u ebur―tu yeke ёdeg 別のある者は、アルタイ0ハンの北、ヘンティ・ハン山の南にあるイケ・ ウデク Neretti γゴar―a ongγulaba gekti buyu.
という名の地に埋めたという。
以上 にあげた『モ ンゴル秘史』 と『黄金史』の記述 を要約すれば、つぎのよ うになろう。
チ ンギス・ ハー ンは一三二六 (丙戌)年秋 に西夏征服 に出発 し、冬 にアルブ ハ (Arbuq―a)でクランの巻狩で落馬 し、チ ョールハ ト にoγurqad)に駐 屯 し た。一三二七(丁亥)年七月十二 日に、六十六才で昇天す る。「黄金の遺体」(altan kegtir)を北へ はこぶ途中、ムナ ン山のクーブル とい う地で泥沼 にはま り、葬列 に参カロした人 び とを悲 しませた。 ギルグダイ・ バー トルが挽歌 をよみあげた こ とでふたたび動 きだ したが、それは大ハー ンが生前 にムナン山あた りを称賛 し
ハン●イケ●ガジャル
たことが原因ではないか。一同は「黄金の遺体」を「大いなる地」(qan yeke γttar)すなわち歴代祖先が眠 る地 に届 け、埋葬 した。
つづいて、「永遠 なる霊柩」(mёngke keg世)も発案 され、あまね く国 ぐにの 守護神 (situgen)た る八 白宮 (Naimanこaγan Ger)とい う祭殿が誕生 した。
ムナ ンのクーブル にはシャツ、宮帳 (ёEtte ger)、 靴下 な どを まつ らせ た (ongγulaba)。「真の遺体」enen kettr)すなわち「黄金の遺体」(altan kettr) は、アルタイ山の南、ヘ ンティ山の1いこ埋葬 した とい うことである。
従来か ら、上の記述 をめ ぐってさまざまな説が出されてきた。以下では、一 九九〇年代 に入 って以来、主 として内モ ンゴルのモンゴル人研究者たちの新 し い説 を紹介 し、私 自身の考 えを明示す る。
1.2 モ ンゴル人研究者の新説
周知の とお り、『モ ンゴル秘史』はモ ンゴル語 を漢字音写 した書物である。上 記チンギス・ ハーンが落馬 した とされ るアルブハ は、「阿児不合」、チ ョールハ トは「捌斡児合賜」と表記 されている。従来、諸研究者 はこの二つの地名 につい て とくにこまかい特定作業 をしなかった。エルデンタイ とアルダジャブはその 校注本のなかで、「現在のアルブス山か」と(Eldengtei&Ardゴab 1986:882)
と示唆 しただけに とどまっている。
1.2.1 ナ0バ トジャラガルの説
先鞭 をうったのは、内モ ンゴル社会科学院の言語学者、オル ドス地域オ トク 旗出身のナ0バ トジャラガル (BatuJirγal,Na)氏である。ナ・ バ トジャラガ ル氏 は1990年に『内蒙古社会科学』(蒙文版)に論文 をのせ、つぎの ような見 解 をあきらかにした。
ナ・ バ トジャラガル氏 は地名 を分析するとき、 まず十二世紀のモンゴル語の 言語学的特徴 を考慮 しなければな らない と主張 した。十三世紀 においては、語 頭、語 中の子音bのあ とにはo、 uがつ くのが一般的で、「阿児不合」 は当然 Arbuq―aとつづるべ きである。現在Arbas、 Arbaγ と発音す ることばで も、十
一世糸己にはArbus、 Arbuγ としていた とい う (Batttirγa1 1990:42‑43)。
私 はナ・ バ トジャラガル氏 の説 は正 しく、かつ一般的にもみ とめ られている 理論 に合致 した観点であるとみている。言語学者の指摘 した とお り、オル ドス・
モ ンゴル語 は非常 に保守的で(Mostaert 1937:10)、「『モ ンゴル秘史』時代 の モ ンゴル語」の特徴 をもつ方言 として認知 されている。実際、1740年代 に描か れた『オル ドス七旗地図』には、アルブス山をArbusと表記 している(Mostaert
1956)。
アルブスとはアルブハスの複数形であるとしたうえで、ナ・バ トジャラガル 氏はまた「棚斡児合賜」をこoγurqadとっづり、これを洞窟、石窟を意味する こOγurγ―aの 複数形であるとした。つまり、こoγurqadと は「多数の洞窟」(olan
こoγuluγdaγsan aγuyis)の意味であるという(Batttirγa1 1990:43‑47)。
さらにナ・ バ トジャラガル氏は、ペルシアの歴史家ラシー ド・ ウッディンの
『集 史』の なか に登場 す るこnqun―talan一qこdttkと い う地名 は、現在 で は Ongγun Tal―a―yin Qudduγ (「オンゴン平野の井戸」の意)あるいはOngγun Dalan Qudduγ (「オンゴンの七十の井戸」の意)とつづるべきだと主張 した
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(Batttirγa1 1990:48‑50)。 『集史』ではチンギス・ハー ンは西夏征服途中に この地で夢 をみて、死期の到来 を感知 した とある (拉施特 1986:318)。
最後 に、チンギス・ ハー ンの行軍路線 を考証するかたちで、ナ・ バ トジャラ ガル氏 はつぎのように結論づけている。つ まり、一三二五年冬、チンギス・ハー ンはモ ンゴル高原の根拠地 をあとにして、ムナン山を通過 した。アルブハ山中 で巻狩中に落馬 し、チ ョールハ トで しば らく療養 した。その後そこか らオンゴ ン0タ ライン・ ホ ドクヘ進軍 した ところで夢 による死兆 を感 じ、昇天 した。ア ルブハ とは現在のオル ドス北西部のアルブス山、チ ョールハ トはアルジャイ石 窟 (百眼窟、写真1)、 オ ンゴン・ タライン0ホ ドクはアルジャイ石窟の南東約 二十キロメー トルにあるオロン・ ノホイン 0ホ ドク (百眼井、写真2)である
としている (Batttirγa1 1990:4853)。
オ トク旗で生 まれ育ち、現地の一山一水 を詳 しく把握 している研究者である だけに、ナ0バ
トジャラガル氏の説 は興味深い。オル ドス北西部のアルブス山 は広 い といえど、 もし「棚斡児合1易」を「多数の洞窟」、qttdikを 「井戸」 と解 す るな らば、それぞれがアルジャイ石窟 (百眼窟)、 オ ロン・ ノハイン・ ホ ドク (百眼井)にあた ることは、疑 いの余地がない ことになる。それ ら以外 に該当 す る場所が他 にないか らである。
写真 1 アルジャイ石窟遠望。平 らな草原に石窟のある紅岩 山だけが突出している。
写真2 オロン・ノホイン・ホドク。モンゴル語では「た くさんの犬の井戸」との 意味で、その昔チンギス・ハーンの猟犬のために掘つた井戸だと伝承さ れている。南北に流れる尻無し河の河床に約八十の井戸が並ぶ。中国の 考古学者は漢代のものと見ている。一部の井戸は現在 も使われている。
1.2.2 オ トゴン氏の学説
内モ ンゴルの研究者オ トゴン(Odγon)氏は1991年に『内蒙古社会科学』に
「ムナン山におけるチ ンギス・ ハー ン」(Cinggis Qaγan Munan Aγulan―du) と題す る論文 を発表 した。オ トゴン氏 はまず『モ ンゴル秘史』の地名「阿児不 合」 をArbus山 と特定 したナ・バ トジャラガル氏の説 を全面的に支持 した うえ で (Odγon 1991:47)、 チ ンギス・ハー ンがアルブス山へ進軍す る前 に滞在 し たムナン・ ホシュー、遺体 をはこぶ馬車がはまったムナン山のクーブル とい う 地点について考察 した。
『黄金史』第266節には、チンギス・ ハーンが西夏征服 に向か う途中にムナ ン・ホシューをとおった とき、「崩壊 した王朝が再興 し、太平の世の基盤 とな り、
老いた鹿の隠遁の地だ」(ebderegsen tёru一dur qorγ ulaltai:engke tё ru tur otoγlaltai:ёteku buγu ёtegleltei)との ことばを述べ、ムナ ン山の風景 にみ と れた (Lubsangdattin 1990:122)。 オ トゴン氏 によると、『黄金史』のムナ ン・
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ホシュー とい う地名 は、現在 もムナ ン山の西麓 にある とい う。ホシュー とは
「嘴」、「山脈の突端」 を意味 し、ムナン山脈 の西部 を「ムナン・ ホシュー」 と する呼称 は、十三世紀か ら現在 に至 るまで、 まった く変わっていない と主張 し た (Odγon 1991:45‑46)。
オ トゴン氏 によると、 クーブル(kёgebur)と は泥沼があ り、紅柳 などの潅木 が生い茂 る湿地帯 の ことであるという。夏は蚊虫が多 く、人畜近寄 りがたいが、
冬 は暖か く、遊牧民 はその ような地帯 を冬営地 として利用す る。ムナン山の南 北両側 にこのようなクーブル地帯が多い とい う。ムナン山の地理的特徴 を分析
した うえで、オ トゴン氏 はつぎのように推察 している。
一三二六年秋、チンギス・ ハー ンは行軍 をはじめ、西夏に近いムナン山麓の クーブル地帯で越冬 した。大量の戦馬 を携 えたモンゴル軍 にとっては、当然の 戦略的な選択 であ る。 その後一三二七年春 に黄河 を南へ渡 ってアルブス山に 入 った、 とい うことである (Odγon 1991:45‑46)。
では、西夏征服後 に「黄金の遺体」 をはこぶ馬車が泥 にはまった とされるム ナン山のクーブル とは具体的にどこにあったのだろうか。
『黄金史』 にあるギルグダイ・ バー トルが よみあげた挽歌 に「ハルグナ・ ハ ン山 (Qariγun―a Qan)を暖か しとして、妃 グルベル ジン (Qatun Gtirbettin) を美 しとて、帰属せ るタングー トの民 を多 しとして、古 きモンゴルを捨てたま うや君 よ」 との一句 (Lubsangdattin 1990:127)が ある。オ トゴン氏 はこの 一旬 に注 目している。 ここでみ られるハルグナ・ ハ ン山 と妃グルベルジンはた だ単 に頭韻 をあわせた表現ではない。あまね く国 ぐにが悲 しみにおちいった と きにそんな余裕 はな く、ハルグナ・ ハ ン山が馬車が動かな くなった地点ではな いか、 とみている (Odγon 1991:48‑49)。
ムナン山の西部、クンデレン河 (kёndelen)あ た りでムナン山 とハルグナ・
ハ ン山 という二つの山が合流する。地理学的にはハルグナ・ ハン山はムナン山 脈 の一支脈であるが、モ ンゴル人 はこれ らを二つの山脈 として認識 している。
クンデレン河の西 はムナン山、東 はハルグナ・ハ ン山である。前年にチンギス・
ハー ンがムナン山、ハルグナ・ ハ ン山で越冬 して、ハルグナ山の暖かさを知っ ていることか ら、「ハルグナ・ ハ ン山を暖か しとして」 との表現があらわれた。
クンデレン河周辺 は大規模 な湿地帯で、「黄金の遺体」をのせた馬車 は、 このあ た りではまったのではないか、 との説である (Odγon 1991:48‑49)。
1.2.3 ナ・ バ トジャラガル氏 とオ トゴン氏説の影響
オル ドス・ モ ンゴル族 は古 くか ら学問 をこのみ、歴史著述 に熱心である。 そ のためか、モンゴルの数多い年代記の著者 も、オル ドス部出身が大半 を占める。
このような伝統 は今で もかわ らない。
アルブス山を現在漢字では阿爾巴斯 と書 き、一時 は新聞や ラジオ、テレビで もArbasと発音 していた。一九八六年 に出版 された『内蒙古 自治 区地名誌・伊 克昭盟分冊』では、アルバス (Arbas)と は豹 を意味す るイル ビス (irbis)の変 音であるとしている (内蒙古 自治区地名委員会 1986:358)。 しか し、 この説 はモ ンゴル人のあいだでは否定的にうけとめられて きた。民間において誰 もオ ル ドスゴヒ西部の山をイル ビス とよばないか らである。ナ0バ トジャラガル氏 の 説が発表 されてか ら、 もはや「豹の山」としてのアルブス山ではな く、『モ ンゴ ル秘史』に由来 し、由緒 ある歴史の名勝であるとの見方が強 まっている。『モ ン ゴル秘史』 に登場す る地名 は多数あるが、アルブス (阿児不合)山とチ ョール ホ ト(棚斡児合↑易)は普通の地名で はない。チ ンギス・ハー ンの最後の活動 を銘 記 した記念碑的な名称である、 と理解 されている。
それだ けではない。ムナン・ ホシュー (ムナ ン0クーブル)やアルブス山中
でのチ ンギス・ ハー ンの活動やその死 は、直接オル ドス・ モ ンゴル とい う部族 の形成 にかかわっているか らである。
オル ドとは宮帳や祭殿 を意味する。遊牧社会 において、君主の死後 に生前の 宮帳が祭殿 に変身す る伝統がある。モンゴル も例外ではない。オル ドスはオル ドの複数形で、チンギス・ハーンとその一族 を対象 とする数多い祭殿群 を指す。
これ らの祭殿群 の祭祀活動 を七百数十年間にわたって運営、維持 してきたのは、
オル ドス・ モ ンゴル部である(楊 1995;1998)。換言すれば、オル ドス・モ ンゴ ル部 はチ ンギス・ハーンの死 を契機 に、祭殿群の成立 とともに形成 された集団で ある。このように、ムナン・ ホシューやアルブス山に注 目をつづけることは、す なわち自分たちの由来 と形成過程 に関心 を示すの と同 じだ、とい うことである。
つづいて、チ ンギス・ ハー ンの祭殿がいかに創出されたかに関す る新 しい説 を紹介 しよう。
1.2.4 ケシク トク トホ氏の説
ナ・ バ トジャラガル氏 とオ トゴン氏の研究 をうけて、北京中央民族大学のケ シク トク トホ (Kesigtoγtaqu)教授 は、チ ンギス・ハー ンの逝去 に ともなって 出現 した埋葬地、記念施設オ ンゴン(ongγun)に関す る学説 を公表 した。ケシ
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ク トク トホ氏 は一九九九年 に『内蒙古社会科学』に発表 した「<チンギス・ハー ン挽歌>とチ ンギス・ ハー ンの二つのオ ンゴン」 と題する論文のなかで、チン ギス・ ハー ンを対象 としたオ ンゴンは三 つあった と主張 した (Kesigtoγtaqu 1999:28‑45)。 それは以下三つのオ ンゴンである。
1.記念祭殿:Durasqal― ur1 0ngγun
2.守護神殿 :Sittten Ongγun
3.陵 墓:こ indar―un Ongγurl
上記「二つのオ ンゴン」 とい う概念 は、いずれ もケシク トク トホ氏が『黄金 史』収録の「チ ンギス・ ハーン挽歌」 を基本資料 として分析 し、抽出 した もの である。従来か ら一部の歴史研究家 は、挽歌の表現 に懐疑的な態度 をとってき たが、一般的 にモ ンゴルの年代記 には文学的な表現 と歴史記述 とが同時に存在 するとい う特徴があ り、疑 うよ りもむ しろ真剣に再検討 した方が よい と主張 し た。つ まり、た とえ「チンギス・ ハー ン挽歌」は文学的な作品であって も、そ れにはモ ンゴル固有の風俗習慣や当時の歴史が反映 されているということであ る (Kesigtoγtaqu 1999:28‑45)。
チンギス・ ハーンの祭殿八 白宮の成立、埋葬地などを考察するには、 まずモ ンゴルの葬送儀礼の分析か ら着手 しなければならない、 とケシク トク トホ氏 は 強調 している。 そこで、近年各地 (各部族)から出版 された民族誌 をもとに、
ケシク トク トホ氏 は葬送儀ネLの以下のプロセスに注 目している(Kesigtoγtaqu 1999:30)。
モ ンゴルにおいて、野辺送 りの際に遺体 をはこぶ家畜や車 は、予定地に到着
する前に途中でとまってはいけないとされる。もしとまったらその地を埋葬地 としなければならない。チンギス・ ハーンの遺体をのせた馬車が泥沼にはまっ た とき、モンゴル軍に大 きな悲 しみが生 じたのはまちがいない。普通の人なら
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モンゴル古来の伝統 とときの政治判断が衝突 したのである。スニ ト部のギルグ ダイ・ バー トルは、全モンゴルの悲 しみの気持ちを挽歌 にこめていたにちがい ない (Kesigtoγtaqu 1999:30)。
実際に、なん らかの原因で遺体 をはこぶ家畜や車が途中で とまらぎるを得ず、
それで も遺族 が前進するな らば、死者が生前につかっていた ものや金銭類 をと
まった地 に残 さなければな らない (Sonom&sOdnamdotti 1991:196)。 ケ シク トク トホ氏 はこの風習 にも注 目している。チンギス 0ハ ー ンの遺体 をはこ ぶ馬車が動かな くなった とき、シャツや宮帳、靴下 な どを埋 めるしかなかろう。
遺品を残 しただけで、「ハー ンの遺体 も埋 めた」とい う「虚偽 なる知 らせ」を広 げたので はないか。ここで、ムナンのクーブル とい う地で、遺品 をまつった「記 念祭殿」(Durasqal―un Ongγlln)が 誕生す る (Kesigtoγtaqu 1999:30)。 ム
ナ ンのクーブルで泥沼 にはまった こと以外、モ ンゴル軍の葬列 は とまることな
ハン●イケ●ガジャル
く、 まっす ぐチンギス・ ハー ンの歴代祖先が眠 る「大 いなる地」に向かったに ちがいない。一時的にとまらぎるを得なかった地 には、モンゴルの伝統 にのつ
とって、「記念祭殿」が出現 した との説である。
ムナン山の山麓か らオノン河のほ とりのブルハ ン・ ガル ドンまで、直線距離 にして約一千キロメー トルはある。五色の駿馬が牽 く馬車の速度 を一 日五十 キ ロ としよう。昼夜強行軍 して も、ゆうに十五 日間はかかる。
ケシク トク トホ氏 はさらに「qamuγ―un―mёngke keg世」 とい う表現 を分析 した うえ、「永遠なる遺体」(mёngke ke」r)をブルハ ン・ガル ドン山の「大い なる地」に埋葬 し、その遺体埋葬地 は当然陵墓 (こindar―ur1 0ngγun)となる。
同時に、チ ンギス・ハー ン崇拝 を目的 とす る守護神殿 (Sittilgen Ongγ
罪 》ジ金自 宮)も成立 した。つ ま り陵墓 と守護神殿 (八白宮)は二つ とも「大いなる地」
において成立 した とい う (Kesigtoγtaqu 1999:32)。
守護神殿 (八白宮)はモ ンゴル高原のブルハ ン・ ガル ドンで成立 した、 と主 張 した以上、のちになぜオル ドス地域 にうつったか をケシク トク トホ氏 は説明 しなければな らない。『集史』では、チ ンギス・ハー ンが眠 る「大禁地」 をウ リ ヤンハ ト部が守 つている としている (拉施特 1986:321‑323)。『アルタン・ハ ン伝』 には、一五四四年 にアルタン・ ハ ンがウリヤンハ ンに出征 し、八 白宮 を ウ リヤ ンハ ン部のマ ンハイ・シギジン(Mangqai sigttin)に 守 らせた とい う(珠 栄唄 1991:213)。 ケシク トク トホ氏 は上記二つの記録 をむすびつけて、アル タン・ ハ ンの ときのマ ンハイ・ シギジンは『集史』 に登場す る「森林 ウ リヤン ハイ」の子孫であるか もしれない と推測 している (Kesigtoγtaqu 1999:35)。
ケシク トク トホ氏 は年代記 を整理 した結果、一三六八年か ら一四二五年のあ いだ、チ ンギス Dハ ー ンの祭殿八 白宮 に関する記録 は、年代記 にない とい う。
一四二六年か ら一六三四年 までは記録がみ られ る。おそらく一三六八年あた り か ら約百年のあいだ、八 白宮 はモンゴル高原の どこかにあった。のちにモンゴ ルの政治勢力の南下 にともない、モ ンゴル高原 をはなれてゴビ南部 にうつった。
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十五世紀 のダヤン・ ハー ンの ときか ら右翼のジノンが八 白宮祭祀 を主宰するよ うになるが、いつオル ドス地域 に入 ったかは不明である、という(Kesigtoγtaqu 1999:35)。
以上三つの埋葬、記念施設オ ンゴンであるが、ケシク トク トホ氏の結論 はつ ぎの ようになっている。
第一、ムナ ンのクーブルにあった「記念祭殿」(Durasqal― ur1 0ngγlln)は、 モ ンゴル固有のシャマニズムの伝統 にもとづいて創 られた ものである。そこに は若干の遺品があ り、祭殿 も秘密の ものではなかった。後 日、その祭祀活動 は 途絶 えた (Kesigtoγtaqu 1999:43)。
第二、「守護神殿」(Sittigen Ongγun)すなわち八 白宮 は、公開的な存在で、
全モ ンゴルの崇拝 をあつめていた。八 白宮はハー ンもしくはジノンに追随 し、
各地 に駐営 した (Kesigtoγtaqu 1999:43)。
第二、陵墓Cindar―un ongγlln)は秘密の存在で、「大いなる地」 (qan yeke γttar)にあ り、その具体的な場所 は決 して人 び とに知 らされ るものではなかっ た (Kesigtoγtaqu 1999:43)。
1.2.5 ケシク トク トホ氏説の問題点
チンギス・ ハー ンを対象 とした埋葬、祭祀施設オ ンゴンは、三つあった とい うケシク トク トホ氏の仮説 に、私 も基本的に同意するが、氏の説 はさらなる補 足が必要であろう。以下では、ケシク トク トホ氏の説 に依拠 し、仮 に三つのオ
ンゴンが存在 した という前提で議論 をすすめる。
ここでふたたびモンゴルの葬送儀礼 に視点 を向けてみよう。モンゴルには、こ の世 を去 ってい く人の鼻 にラクダの毛(u7buγ、ラクダの額の上の毛)をおき、
「最後の息」を毛 に とめてお く習慣がある。子孫たちは息が宿 る毛 を守護神 とし て まつる(Narasun 1989:341)。 チ ンギス・ハー ン祭殿八 白宮 にもこのような ラクダの毛が保存 され、神聖視 されていた。研究者のなかには、八 白宮のラクダ の毛 はチ ンギス・ ハー ンの息 を宿 らせた ものではないか と示唆す る人 もいる (Narasur1 1989:341;Qurこ a 1992a:99‑109)。 ラクダの毛だけでな く、八 白宮 には弓矢、鞍、馬乳酒の桶 な どさまざまな遺品が保存 されている。 また、
八 自宮の起源 について は、チ ンギス・ ハー ンの遺体 をは こんだ馬車が泥沼 に はまった場所 に、祭殿が成立 した とい う伝説がオル ドスにある(Sayittirγal&
Saraldai 1983:3‑5)。
チンギス・ハーンとその一族が生前 に使 っていた遺品や、チンギス・ハー ンの
死去 と葬送 に関わるラクダの毛が保存 されていた こと、チンギス・ ハーンー族 の祖先祭祀 (楊 1996)が古 くか ら機能 していた ことか ら考 えれば、八 自宮 は ケシク トク トホ氏の主張す る「記念祭殿」(Durasqal―llr1 0ngγun)と共通 した 特徴 をおびているといえよう。
まず、「記念祭殿」(Durasqal― lln Ongγun)を みてみよう。ムナン山のクーブ ルあた り、すなわち馬車が はまった場所 に、何 らかの記念施設 は一時的に存在 した と考 える方が、モ ンゴルの葬送儀礼の伝統 に合致す る。非常時であ り、秘 密 を厳守するため、「虚偽なる知 らせ」(qudaltangqaγ)を暫時広 げた ことも不 思議ではない。
つ ぎに、陵墓(こindar―lln Ongγun)の存在である。後世の年代記 ははっき り と書いているし、歴代祖先が眠 る「大いなる地」にあるのは明白なことである。
いわゆる「虚偽 なる知 らせ」 もさほ ど長 くはもたない。
第二、「守護神殿」(Sittten ongγlln)の 成立 についての説 も正 しい。『黄金 史』 にある「ハ ンや宰相たちの鼎足 となった」 とい うのは、側近や高官 らの子 孫 を祭祀者集団に編成 した ことをいっているのではないか。 この記述 は、八 白 宮の祭祀者 グルハ ト(Darqad)は現在 もチ ンギス・ハーンの側近や大臣 らに由 来する系譜 をもち、親衛軍 ケシクの子孫 と自称す ることと一致す る。
ケシク トク トホ氏の仮説の問題点 を指摘 してお きたい。それは論文の後半 に おいて、「陵墓オ ンゴン」と「守護神殿」(Si■gen ongγun)とを混同 している ことである。『集史』のウ リヤンハ ン部が守 つていたのは、「守護神殿」ではな
く、陵墓Cindar―un ongγuFl)の方である。ウリヤンハン部は「守護神殿」あ
るいは八白宮 とはあまり直接的なむすびつきがないはずである。『アルタン・ハ ン伝』にみられるマンハイ・ シギジンは、おそらくアルタン0ハンによってあ らたに祭祀者ダルハ トに任命 された人物であろう。祭祀者集団グルハ トは、万 世不変の組織ではない。歴代のハーンたちによって度々再編 されていた。そう
したなかで、ウリヤンハン部の人が加わっても不思議ではない。
三つの埋葬、祭祀施設オ ンゴンの相互関係 をみてみ よう。陵墓 Cindar―tln Ongγtm)は、ブルハ ン・ガル ドン山の「大いなる地」にあ り、秘密の存在であっ た ことにはまった く異論 はない。の こりの二つのオ ンゴン、すなわち「記念祭 殿」 と「守護神殿」 は、かな り早い段階で合併 されて、八 自宮になったのでは ないか と私 は想像 している。 そのように考 える根拠 は二つある。
第一、八 白宮の移転か ら考 える。八 自宮 は清代 に入 ってか ら、 ジュンフン旗 (現エ ジン・ ホロー旗)領内で まつるようになった。清代以前 は、黄河のほ と
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りに建つワンギンジョー (イケ・ ジ ョー、広慧寺)とい う寺の近 くにあった。
ワンギンジ ョー周辺 は八 白宮の主宰者 ジノンの駐営地で もあった。
ワンギンジ ョー寺の近 くでかな り長いあいだ まつ られていたが、 さらにそれ 以前の古い時代 は、オル ドス北西部のアルブス山中にあった と伝 えられている
(Narasun&Vangこuγ 1998:3)。
清代以前の北元時代 に八 白宮がアルブス山中に駐営 し、 まつ られていた とい う伝承 は、アルブス山中におけるチンギス・ ハーンの最後 の活動地、ムナン山 クーブル にあったか もしれない「記念祭殿」(Durasqal― un Ongγun)と無関係 であるとはいいきれない。「八 白宮 はオル ドス地域か らでてはな らない」という 固い信仰がある。モンゴル最後の大ハー ン、 リクダン・ ハーンが八 白宮 を移動 させたか ら、北元が後金国にほろぼされた とい う見方 も、オル ドス・ モンゴル 族のあいだでは一般的である。一九二九年 に日本軍の手 に八 自宮が落ちないよ うにするため、甘粛省 に移動 させた ときも、オル ドス・ モ ンゴル族 に大 きな衝 撃 を与 えた (Sayittirγal&Saraldai 1983:347‑375)。 これ も「八 白宮はオ ル ドスをはなれない」 という信仰 を示す ものである。
第二、オル ドス0モンゴルの形成か ら考 える。元朝が中原か ら撤退 したあと、
オル ドス地域すなわち漢文でい う河套 にモ ンゴル人 はいな くなった と多 くの歴 史研究家が主張する。 これ らの歴史研究家 は、例外な く十五世紀か らのモンゴ ル諸部の「入套」 に重点 をおき、それによって河套におけるオル ドス・ モンゴ ル部の出現 をさ ぐろうとす る (陳 1989:58‑65)。
このような研究 は根本的にみなおす必要がある。明が成立 したあ とに、最初 か ら黄河以南の地 に興味がな く、「河套」のはるか南部 に今 にの こる明長城 を築 いている。 もし、河套 にモ ンゴルがいな くなっていた ら、それ こそ秦の始皇帝 にな らって、黄河以北 に長城 をつ くった方が防衛上 にも合理的ではなかったか。
元が中原 をはなれたあ とも、河套すなわちオル ドス地域でモンゴル族がずっと 遊牧 していたか ら、明 はオル ドス地域の南部 に防衛 ラインをひ くしかなかった。
周知 の とお り、オル ドス西部 はタングー ト (西夏)の故地であ り、タングー ト人 もた くさん居住 していたにち力ヽゝない。モンゴル に征服 されたあ と、 これ らのタングー ト人 はどこへ行 ったのであろう。Fモンゴル秘史』第268節では、
チ ンギス・ ハー ンの妃の一人、イェス ゥイ 0ハ トンにタングー トの遺民 を多 く 分配 した とある (Eldengtei&Ardttab 1986:890)。 その後 タングー トの遺 民 は、モ ンゴルの「タングー ト部」 (Tangγud Oboγ)になったのであろう。森 川氏の研究では北元の とき、タングー ト部 はウラ ト部 とともにオル ドス万戸十
ニオ トクの うち右翼六オ トクのひ とつであった(森川 1973:32‑60)。 かれ ら はまたチンギス・ハー ンの祭殿八 白宮に一定の義務(alba)を負 っていたのを《金 書》が示 している(Rintchen 1959:91‑92:楊 1998:127‑128)。 和 田清氏 は、
一六世紀後半の ころ、ノヤングラ・ ジノンの息子バイサ ンホル・ ランタイジは タングー ト部 とシブーチ ン部 を統率 し、甘州か らオル ドス北西部 にかけて遊牧 していた ことをつ きとめている (和田 1959:741)。 清朝が成立 した とき、タ ングー ト部 はオル ドスの右翼中旗 (オ トク)に編入 された。現在で も、オ トク 旗西部 には大勢のタングー ト部 (Tangγud Oboγ)の人 び とが居住 している。
おそ くとも一六世紀 ころか らオル ドス地域 にタングー ト部がひんぱんに登場 していることか ら、私 は西夏滅亡後 にその遺民が多少将官たちに分配 されて も、
基本的にもとの国土か ら動かなかったのではないか とみている。 もちろん、北 元の混乱期 には、多 くの集団が河套 に進出 し、再編 を くりかえしていた ことも 否定で きない。 またオル ドス部 も青海や中央アジアの トクマクまで遠征 した こ とがある。オル ドス部の広範囲にわたる活動 とそのなかにタングー ト部が編入 された こととは矛盾 しない。
以上 を総括すると、私 はモ ンゴル高原東部のチ ンギス・ ハー ンの故郷で設置 された「守護神殿」 は、非常 に早い時期 にムナン山にあった「記念祭殿」 と合 流 して、八 白宮 になったのではないか と想像する。八 白宮 はさらに黄河以南 の アルブス山に入 る。八 白宮祭祀 を運営 し、維持する祭祀者集団はタングー トの 遺民 も受 け入れ、 さまざまな集団 と接触 し再編成 を くりか えしなが らも、オル
ドス地域 を拠点 とすることは変わ らずに今 日に至 ると推測 している。
二 、考古学資料 の発 見 とその解釈
オル ドスの地名が『モ ンゴル秘史』 にも登場 し、かつチ ンギス・ ハー ンの活 動 と関連 していることに、オル ドス 0モ ンゴル人 は誇 りをもって きた。 その う えで近年、アルブス山中のアルジャイ石窟 い可ai A7ui)が学術研究上注 目さ れ るようになるにつれ、チンギス・ ハー ンとオル ドスの結びつ きは一層強 まっ た。具体的には、石窟内の「チ ンギス・ハー ンと妃、子息たちをまつ る絵」、「モ
ンゴルの葬送図」 とい う二つの壁画の解釈 に集約 されている。
私 は一九九九年十二月にアルジャイ石窟 を訪れ、絵画 を観察 し、地元の考古 学者、年代史研究家お よび周辺住民 にインタビューをお こなった。以下では、
彼 らの見解 を紹介す る。
一‑46‑―
2.1 アルジャイ石窟の概況
アルジャイ石窟は、オ トク後旗の政府所在地ウラーンバラガスから北西ヘー 三〇キロメー トルはなれた、オル ドス北西部オ トク後旗アルブス郷の北に位置 する。およそ北緯三十九.七、東経百七.三の地点にある。現地の人びとはこの 地を「アルジャイ0ウラーン0ウス」(Aゴai Ulaγan Usu)、 アルジャイ・ ウリ ヤス(Attai Uliyasu)、 アルジャイ・アグイ(Attai Aγ ui)な どとよぶ(Qaserdeni 他 1997:1‑2)。 アルジャイとは、モンゴル語で「つきでた」、「突出した」 と
の意味である。確かに石窟のある紅岩は、平 らな地帯に突如 として隆起 し、数 十キロはなれたところからでもみえる (写真1)。
石窟のある山の南 をチャハル・ゴル (こaqar一un γool、「チ ャハルの河」の意)
とい う尻無 し河が流れる。地元オ トク後旗の歴史研究家 リンチン ドルジは、『い に しえの王統 を記 した歴史』(Dttπ―″ ″″α働 物 ―ι %″〃 ―′ b効慶′π
″源の とい う年代記 (内モ ンゴル社会科学院蔵)や民間伝承 にもとづいて研究 し、アルジャイ石窟の寺院 は、一六三二年 に リクダン0ハー ンがオル ドスを通 っ て 青 海 に す す む 際 に破 壊 され た とみ て い る (RinこindorJi&Batttirγal 1998:229‑240)。 その とき、一部のチャハル人がオル ドスに居残 った ことか ら、
チャハル とい う地名があ らわれた。私 も現地でチャハルに出自をもつ という人 び とに出あった。
オ トク後旗文物管理所所長バ トジャラガル氏 は、歴史研究家 リンチン ドルジ 氏 との共編書 『オ トク旗文物誌』のなかで、アルジャイ石窟 に対する調査史 を つぎのように述べている。
内モ ンゴルの考古学者 は、一九五六年か らアル ジャイ石窟の存在 に注意 をは らっていた。 その後、一九八九年か ら一九九〇年 にかけて、内モンゴル社会科 学院、中央民族大学、内モンゴル大学、内モンゴル師範大学 らが合同調査 をお こなった。 このような調査 は一九九二年 に再開され、当時の関心は主 としてウ イグル文字モ ンゴル文榜題 に集中 していた(Rinこindotti&Batttirγal 1998:
189‑190)。 その成果の一環 として、一九九七年 に『アル ジャイ石窟回鵠蒙古文 榜題研究』 物 ′α″ グリ勿 の物 Z昭駒α bグζ4″sクリ物s%滋励′)とい う 大作が、遼寧民族出版社 より上梓 されている (Qaserdeni他 1997)。
バ トジャラガル氏 によると、アルジャイ石窟群 には合計六十五窟があるとい う。 その うち比較的大 きい石窟が四十三窟、倒壊 もし くは沙 に埋 もれているの が十八窟、途中 まで掘 った未完成の ものが四窟ある。これ らの石窟のなかで もっ