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睡虎地秦墓竹簡釈文註解(三)

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(1)

︹論 文︺

睡虎 地秦墓竹 簡釈 文註一解⇔

     は じ め に

 この拙稿は﹃阪南論集・人文・自然科学編第二十四巻 第四号﹄︑

﹃睡虎地秦墓竹簡釈文註解目﹄につづくものである︒前稿では﹃編

年記﹄の昭王四十五年から今上︵秦始皇︶四年までの註解を試みた

が︑本稿では今上五年から︑この﹃編年記﹄最後の年に当る今上三

十年までの註解を試みた︒写真図版では解読困難な所が多く︑文物

出社刊行の﹃睡虎地秦墓竹簡﹄︵本文中では﹃単行本﹄と略称した︶

の釈文に負う所が多かったという点は︑前稿と同様である︒

       ︽史記︑秦始皇本紀︾など  ︽編年記︾釈文       に於ける同年関係記事

丑年        ○將軍驚攻魏︑定酸棄︑燕︑虚︑長平︑灌

       丘︑山陽城︑皆抜之︑取二十城︒・初置

       東郡︒.a六年︑四月︑爲安陸令史︒○韓︑魏︑超︑衛︑楚共撃秦︑取壽陵︒秦

   睡虎地秦墓竹簡釈文註解目 七年︑

八年︑

九年︑

正月甲寅轟令史︒  橋   庸 一 郎  出兵︑五國兵罷︑披衛︑迫東郡︑其君  角率其支属徒居野王︑阻其山以保魏之  河内︒○魏景潜王二年︑秦抜我朝歌︒  衛徒野王︒O楚考烈王二十二年︑與諸  侯共伐秦︑不利而去︒楚東徒都壽春︑  命日郭︒○將軍驚死︑以攻龍︑孤︑慶都︑還兵攻

  汲︒○魏∴二年︑秦抜我汲︒

○王弟長安君成蜻將軍趨︑反︑死屯留︑軍

  吏皆斬死︑遷其民於臨挑︒絡軍壁死︑

  率屯留︑蒲鵠反︑致其屍︒

○攻魏垣︑蒲陽︒四月︑上宿薙︒己酉︑王

  冠︑幣剣︒長信侯富作馳而費︑矯王御

  璽及太后璽以讃縣卒及衛卒︑官騎︑戒

  葎君公︑舎人︑將欲攻斬年宮爲鼠︒王

  知之︑令相國昌卒君︑昌文君讃卒攻

       −

(2)

   阪南論集 人文・自然科学編 第二五巻第四号

      貫︒戦戒陽︑斬首敷百︑皆舜爵︑及寛

      者皆在戦中︑亦拝爵一級︒富等走︒

      ○魏︑五年︑秦抜我垣︑蒲陽︑術︒

︹十年︺       ○相國呂不章坐膠富冤︒桓騎爲將軍︒齋超

      來置酒︒

十一年︑十一月︑獲産︒○王鶉︑桓騎︑楊端和攻鄭︑臥九城︒王鶉

      攻閥與︑榛楊︑皆井爲一軍︒鶉將十八

      日︑軍廓斗食以下︑什推二人從軍︒取

      鄭安陽︑桓騎將︒○超攻燕︑取狸陽

      城︒兵未罷︑秦攻熱︑抜之︒

十二年︑四月癸丑︑喜治○文信侯不章死︑霜葬︒其舎人臨者︑晋人

獄郡︒      也逐出之︑秦人六百石以上奪爵︑遷︑      ︶      五百石以下不臨︑遷︑勿奪爵︒○楚      ︵      秦︑魏伐楚︒

十三年︑從軍︒    ○桓騎攻超平陽︑殺競將雇軒︑斬首十萬︒      ︶      王之河南︒十月︑桓騎攻撹︒O超︑秦      ︵      攻武城︑雇輯率師救之︑軍敗︑死焉︒

血〇十四年       ○攻描軍於平陽︑取宜安︑破之︑殺其將      ︶      軍︒桓騎定卒陽︑武城︒○超︑秦攻赤      ︵      麗︑宜安︑李牧率師與戦肥下︑都之︒

      封爲武安君︒

十五年︑從卒陽軍︒  ○大興兵︑一軍至鄭︑一軍至太原︑取狼       ︶      孟︒○趨︑秦攻番吾︑李牧與之戦︑都       ︵

      之︒

十六年︑七月丁已︑公終︒〇九月︑讃卒受地韓南陽假守騰︒初令男子

自占年︒        書年︒魏献地於秦︒

十七年︑攻韓︒   .○内史騰攻韓︑得韓王安︑轟納其地︑以其      ︶      地爲郡︑命日顕川︒○韓︑秦虜王安︑      ︵      壷入其地︑爲頴川郡︒韓遂亡︒

皿四十八年︑攻趨︒正月︑ ○大興兵攻超︑王勇將上地︑下井脛︑端和

依生︒         將河内︑莞鹿伐舘︑端和園郁郵城︒

十九年︑□□□□南郡 ○王襲︑莞鹿壷定取趨地東陽︑得超王︒引

備敬︵警︶︒       兵欲攻燕︑屯中山︒秦王之郡郭︑諸嘗

       與王生超時母家有仇怨︑皆防之︒秦王

       還︑從太原︑上郡蹄︒超公子嘉率其宗

       数百人之代︑自立爲代王︑東與燕合       ︶       兵︑軍上谷︒○超︑十月︑郡郵爲秦︒       ︵.蝸廿年︑七月甲寅︑姻終︒○燕太子丹患秦兵至國︑恐︑使剤輌刺秦.

韓王居□山︒      王︒秦王費之︒髄解輌以御︑而使王

       鶉︑辛勝攻燕︑燕︑代讃兵撃秦軍︑秦

       軍破燕易水之西︒

廿一■年︑韓王死︒昌平○王實攻︵翻︶︹荊︺︒乃盆讃卒詣王鶉軍︑途

君居其虚︑有死□属︒   破燕太子軍︑取燕繭城︑得太子丹之

       首︒燕王東収遼東而王之︒新鄭反︒昌       ︶       平君徒於郭︒○楚︑秦使將軍伐楚︑大       ︵      破楚軍︑亡十錐城︒

(3)

血9        ︶廿二年︑攻魏梁梁︒       ︵

09廿三年^興︑

□守陽口死︒

文君死︒

甘四年︑

厘皿廿五年

廿六年 攻荊︑四月︑

□□□王□□︒

廿七年︑八月已亥廷食

時︑産穿耳 ○王實攻魏︑引河溝灌大梁城壊︑其王講      ︶  降︑壷取其地︒○魏︑秦灌大梁︑虜王      ︵  假︑遂滅魏以爲郡縣︒○秦王復召王鶉︑彊起之︑使縛撃荊︒取陳  以南至平輿︑虜剰王︒秦王漉至郭陳︒  荊將項燕立昌平君爲荊王︑反秦於潅南︒   ︶  ○楚︑四年︑秦將王魏破我軍於斬︑而   ︵  殺將軍項燕︒○王魏︑蒙武攻荊︑破荊軍︑昌平君死︑項        ︶  燕途自殺︑○楚︑秦將王鶉︑蒙武逮破        ︵  楚國︑虜楚王負甥︑滅楚名篇郡云︒○大興兵︑使王責將︑攻燕遼東︑得燕王  喜︒還攻代︑虜代王嘉︒王魏途定荊江  南地︑降越君︑置會稽郡︒五月︑天下  大醗︒○齊王建與其相后勝讃兵守其西界︑不通  秦︒秦使持軍王責従燕南攻舜︑得奔王      ︶  建秦初井天下︒○齋秦兵撃齋︒齋王聴      ︵  相后勝計︑不戦︑以兵降秦︒秦虜王  建︑遷之共︒逮滅齋爲郡︒ ︶○表︑更命河爲﹁徳水﹂︒爲金人十二︒命 ︵  民日﹁鈴首﹂︒同天下書︒分爲三十六

  郡︒

睡虎地秦墓竹簡釈文註解目 廿八年︑今過安陸︒

廿九年

升年

一注解一  ︶○表 ︵ ︶○表 ︵  爲阿房官︒之衡山︒治馳遣︒帝之瑛邪︑達南郡入︒爲太極廟︒賜戸三十︑爵一級︒ 郡縣犬索十日︒帝之瑛邪︑遣上黛入︒

ω この簡には年次以外の記述は全くない︒

 五は図版ではXである︒五について﹃説文﹄は︑﹁X五行也︑以

二︑陰陽在天地閲︑交午也︑凡五之属皆以五︑X古文五省﹂とす

 る︒徐鉱は︑﹁臣鉱等日︑二天地也﹂という︒段玉裁の注には︑

 ﹁古之聖人︑知有水火木金土五者而後造此字也﹂︑更に︑﹁二像天

地﹂とし︑また︑﹁此謂X也︑印澤古文之意︑水火木金土相勉相

 生陰陽交午也﹂とある︒段玉裁の﹃説文﹄に於け名注には非常に

 秀れたものが多い︒しかしこの注にはその中であまりに不用意に

 書かれたものと思われるものの一つである︒五は︑甲骨文︑金文

ともにXであり︑Xだけのものの字は今の所見当らない︒陰陽の

 考え方が印五行説に繋るわけではないが︑陰陽の書﹃易﹄が周公

 によるものという伝説に則ったとしても︑﹁古之聖人︑知有水火

 木金土五者而後造此字也﹂とはならない︒まして五行説の成立は

 それからも蓬か後のことである︒白川静﹃説文新義﹄に︑﹁すな

 わち五は防禦の器︒これを敷に用いるのは假借︒金文に字を横視

(4)

阪南論集 人文・自然科学編第二五巻第四号

 の形にかくことが多いのも︑もと器形を示す証であるが︑早くか

 ち敷字の五に専用されて︑他義に用いる例は殆んどない︒卜文に

 吾と五とを通用し︑また酉上に五形を加えた字がある︒吾と立意

 の近い字で︑五形のものは蓋の象である﹂﹁五の古意は御であっ

 たと思われる﹂とあるのは全く当を得た説解であると言える︒御

 と衙が意味的にも音の上からも通じていることがこれで理解され

 よう︒② 本文四年の条を一応︑﹁喜除安陸御史﹂と読んでおいた︒﹃戦國

 策・巻二十八﹄に︑﹁安邑之御吏死︑其次恐不得也︑轍人爲之謂

 安令日︑公孫棊爲人請請御史於王︑王日︑彼固有次乎︑吾難敗其

 法︑因遼置之﹂とあり︑これで見ると御史の存廃を決めるのはや

 はり王であったらしい︒・しかしまた実際に御史をおくかどうかの

 判断は令にゆだねられていたとも考えられる︒﹃飽本﹄の注に︑

﹁令聞王言︑故立其次︑大事記︑前漢百官表︑監御史︑秦官︑掌

監郡︑此策云云︑六國已遣御吏監掌集︑非濁秦也﹂とある︒つま

り御史は本来秦の官位であったが後には六国ともにそれぞれ御史

を置いたらしい︒﹃韓非子・内儲説上・説六﹄に︑﹁ト皮爲縣令︑

其御史汗稜︑而有愛妾︑卜皮乃使少度子倖愛之以知御史陰情﹂と

ある︒即ち御吏は縣令の下の官である︒扱︑いま令史であるが︑

令史は漢代では蘭台尚書の属官で︑居郎の下︑文書事務をつかさ

どった官の名である︒歴代これに依ったのであるが時代が下るに

従ってその官位は低いものとなっていった︒しかし漢以前の令史

がどういったものであったかは甚だはっきりしない︒﹃吏記・項  羽本紀﹄に︑﹁項梁乃以八干人渡江而西︑聞陳嬰已下東陽︑使使 欲與連和倶西︑陳嬰者︑故東陽令史︑居縣中︑素信謹構爲長者︑ 東陽少年殺其令︑﹂とある︒晋灼の集解に︑﹁漢儀注云︑令吏日令 史︑丞吏日丞史﹂とあるが︑令吏は後に下っ端役人としての令史 を言う語となったから︑この場合には当るまい︒また漢代の令吏 にっいては﹃通典・職官典・尚書︑歴代都事主事令史﹄に︑﹁令 史︑漢官也︑後漢尚書令吏十八人︑曹有三人主書︑後増劇曹三 人︑合二十一人︑皆選於蘭蔓符節簡練有吏能者也﹂とある︒これ も﹃漢儀注﹄とともに漢代の令史であるが漢以前の令史の職務も ある程度は表わしていると見てよいであろう︒﹃史記﹄の正義に︑

.﹁楚漢春秋云東陽獄史陳嬰﹂とあり︑また︑﹃項羽本紀﹄に︑﹁居

 縣中︑素信謹稽爲長者﹂とあるところからみると︑令史は縣令の

 下にあって行政の最前線にあり︑裁判官なども兼ねていたようで

 ある︒よって地方官としては相当高い地位であったことは疑いな

 いようである︒喜は二年前に御吏となっている︒これは大いなる

 出世である︒その背景には︑同年韓・魏・競・衡・楚などが一体

 となって秦を攻めた事情があったであろう︒秦が衛を撃つと︑衛

 の君の角は一族を率いて野王にうつったが︑野王はむしろ安陸に

 近く︑秦にとって南方の備えを更に強化しなければならなかった

 のであろう︒多くの軍隊が安陸からも発せられたに違いない︒同

 じ年に秦は魏の朝歌も抜いている︒いよいよ軍務が激しくなる中

 で内政の充実の為に喜の昇格人事も行われたのであろう︒

3 ここには前文の︑﹁爲安陸令吏﹂にある﹁爲﹂の字がない︒簡

(5)

にもその形跡を探ることは出来ない︒しかし後文十二年の条に︑

﹁喜治獄郡﹂とあるから︑それを勘案すればこの文も意味的には

﹁爲郡令史﹂なのであろう︒郵は﹃説文﹄に︑﹁南郡縣︑孝恵三年

改名宜城︑以邑︑焉聲﹂とある︒孝恵三年は︑前漢恵帝三年で︑

恵帝は漢高祖の次の皇帝である︒南郡縣は前の安陸も含んでお

り︑この二地は比較的近い︒隔たること約百五十キロぐらいであ

るbこの二城市はその大きさもほぼ同じぐらいであったろうし︑

縣郡の南郡からもほぼ同距離にある︒しかし瓢は安陸よりも北方

で秦の都戒陽などにはより近接した位置関係にあるから︑安陸よ

ゲは地理的にはより要地であったにちがいない郵の令史となった.

ということは喜にとっては更なる出世であったと思われる︒前年

には︑韓︑魏︑趨︑衛︑楚などが一体となって秦を攻め︑秦がそ

れに反撃すると衛は魏地の河内郡の野王に徒ったのであったが︑

この年秦は汲も攻めている︒汲はその同じ河内郡の地でしかも野

王に頻る近い所である︒この年は秦は魏の朝歌も抜いている︒朝

歌と汲もまた極く近接した地である︒秦は徹底して魏を撃ってお

こうという作戦に出ていたものと思われる︒その為には前年兵を

動かした楚に対して警戒をゆるめる訳にいかず︑南方に於ける人

事も相当綿密に行わねばならなかったであろう︒翻は元来楚地で

あった︒﹃秦本紀﹄︑によれば︑昭王廿四年に秦は楚の頃嚢王と郵

で会している︒そして廿八年には大良造白超が楚を攻めて郡を取

ったのである︒それからは同四十年にして喜がその令史となった

のである︒因みに郵は﹁正義﹂に︑﹁郵︑於建反︑又音優︑括地

睡虎地秦墓竹簡釈文註解目  志云︑故優城在嚢州安養縣北三里︑古邸子之國也﹂とある︒ω この簡は年次が記されているのみで他の記述はない︒この年は 秦王の弟長安君成蠕が超を攻めた後︑秦にそむいた為に長安君を 殺すという謂はば内粉のあった年であり︑対外的に特筆すべき事 はなかった年ではある︒㈲ この簡も八年同様年次のみの記載である︒この年は秦王の母大 后の寵愛を盗にした長信侯擢富が乱を企てたことが最大の紀事で ある︒媛毒は﹃説文﹄の毒の項に︑﹁衰︑人無有也︑以士︑以母︑ 貫侍中説︑秦始皇母與娚毒淫︑坐諌︑故世罵淫日娚嘉︑讃若挨﹂ とその淫名を挙げられている︒しかしこの乱は緒局発覚し︑この ﹃篇年紀﹄にも後文にその各の見える相国の昌平君︑昌文君によ って鎮圧される︒㈲ 写真図版では︑この簡は何等かの記述があったようにも恩われ るが殆んど判然としない︒ただこの年は﹃始皇本紀﹄に︑﹁大索︑ 逐客︑李斯上書説︑乃止逐客令︑李斯因説秦王︑請先取韓以恐他 國︑於是使斯下韓︑韓王患之︑與韓非謀弱秦﹂とあって︑﹃篇年 紀﹄十七年の条の︑﹁攻韓﹂の計画がこの年から始められている ことが解る︒またこの年には大梁の尉綾子が秦に来て︑始皇はそ の計策を採用することになるのである︒また文信侯呂不章の娚寡 に絡んだ失脚もこの年である︒例 ﹁獲産﹂とあるが︑写真図版の獲字は解読困難︑今単行本に依 る︒この年喜は二十六才である︒獲は喜の年令から言って恐らく 喜の長子であろう︒

(6)

阪南論集 人文・自然科学編第二五巻第四号

⑧ 治獄とは治獄吏のことであろう︒﹃始皇本紀﹄三十四年の条に︑

﹁適治獄吏不直者︑築長城及南越地﹂とある︒■これでみると地方■

 の官ではあっても中央の任命権のもとにあったように思われる︒

 しか七この官はあまり高尚な官位とは言えなかったようである︒

 この条の文からみても治獄吏であって不正を為す者が多くその不

 正の程度相当甚しかったものとみられる︒裏をかえせば不正を行

 うことの出来る官位であればある程︑それだけ陰然としてではあ

 っても強大な権力を委ねられていたということでもある︒警察

 権︑検察権︑裁判権を一手に握っていたわけであるから︑その権

 力の強大さも窺い知れよう︒この墓主の喜はこの治獄という官位

 以上の地位についたという形跡はこの﹃篇年紀﹄からは知られな

 い︒にもかかわらず︑その彼の墓は大規模ではないにしろその副

装晶の多さ︑埋葬文書の多様さ等からみて︑その握り得た権力の

強さと︑築き得た財の大きさは︑ただの下級吏のそれではないと

 いうことは言えるであろう︒それらはこの﹃篇年紀﹄から見る限

り︑すべて喜が治獄という官位についたことによって獲得したも

ものなのであろうと思われる︒﹃漢書・刑法志﹄には︑﹁秦有十失︑

其一尚存︑治獄之吏︑是也﹂とあり︑宋の王櫛の撰になる﹃野客

叢書・五﹄には︑﹁漢獄固酷︑獄吏尤不郎﹂とあって以降その極

悪ぷりが数条に亘って列挙してある︒勿論︑だからと言って喜が

 これと一類の悪徳酷吏であったかどうかは知るよしもない︒﹃史

記・項羽本紀﹄に︑﹁項梁嘗有櫟陽逮︑乃請斬獄橡曹各書抵櫟陽獄

橡司馬欣︑以散事得已﹂とある︒この文章は些か解しにくいが︑

 ﹁集解﹂に︑﹁慮勧日︑項梁曾坐事樽繋櫟陽獄︑從斬獄橡曹各取書

 與司馬欣︑低︑蹄︑已︑止也﹂︑﹁章昭日︑抵︑至也︑謂梁嘗被櫟

 陽縣逮捕︑梁乃謂覇獄橡曹答書至櫟陽獄橡司馬欣︑事故得止息      ︑   ︑ 也﹂とあるから大意は知れる︒この場合の橡獄というのは治獄の

 ことであろう︒この文によると獄橡は自己の管轄に栗る案件のみ

 ではなく︑他地の獄橡とそれぞれ連係を保ちながら他の獄橡の管

 轄の案件にまでその力と影響を及ぼしていたということが解る︒

 よって﹃史記・曹相國世家﹄に︑﹁平陽侯曹参者︑柿人也︑秦時

 爲流獄橡︑而齋何爲主吏︑居縣爲豪吏夷・﹂とある記述も︑特に

 ﹁豪吏﹂という言葉の意味が︑この場合の喜にもそのままあては

 まるであろう︒因みにこの﹃睡虎地秦墓竹簡﹄の中にも﹃封診式﹄

 と呼ばれる文書があり︑その中の﹁治獄﹂の項には︑﹁治獄︑能

 以書從述基言︑母浴︵答︶諒︵掠︶而得人請︵情︶爲上︑治︵答︶

 諒︵掠︶爲下︑有恐爲敗﹂とあって︑適正な審理の遂行と法の施

 行を促し︑強引な追査や拷問などを戒めている︒これは所謂秦律

 の基本的な考えを示したものにすぎないであろうが︑その律の枠

 からはずれた所では更に強引で荷酷な﹁法﹂の執行と収奪が行わ

 れていたであろうことは想像に難くない︒

ω ﹁從軍したのは勿論墓主の喜自身である︒前掲﹃曹相国世家﹄の

 平陽侯曹参も流の獄擦であったが︑﹁高祖爲流公而初起也︑参以

 中泪従︑將撃胡陵︑方與︑攻秦監公軍︑大破之﹂とあるように︑

 喜とはその立場は異るが情況はほぽ同じである︒﹃秦始皇本紀﹄

 によれば︑この年秦の栢齢が趨の平陽を攻め︑趨の將息概を殺し

(7)

 て首十万を斬っている︒この戦いは結着がっかず︑十月にまた桓

 齢は超を攻め■ている︒この二回に亘る超への進攻のうちのいづれ

 かに喜も從軍したということであろう︒同年に秦王は河南に巡遊

 しているが︑これには軍の移動は伴はなかったようであるから︑

 恐らくこの巡遊に喜が從ったということではあるまい︒

①① この簡は年次以外に何等かの記事が書かれていたのではないか

 と思わせる痕跡が見られる︒しかしそれが何であったかは︑今と

 なっては全く解らない︒

ω ﹃秦始皇本紀﹄の十三年の条には︑﹁桓齢攻趨平陽︑殺描將雇

 軌︑斬首十萬﹂︑﹁十月︑桓齢攻趨﹂とある︒﹁正義﹂には︑﹁括地

 志云︑平陽故城在相州臨淳縣西二十五里︑又云︑平陽︑戦國時属

 韓︑後属超﹂とあるから︑平陽はもともと韓地であったのが韓の

 勢力後退とともに北方の鑓が侵攻し︑超領となった所である︒こ.の頃即ち戦国末期に於ては最も秦に隣接した地域であった︒この

︑﹃本紀﹄と同年の条を﹃超世家﹄で見ると︑幽謬王遷二年の項に︑

 ﹁秦攻武城︑属概率師救之︑軍敗︑死焉﹂とあり︑秦が攻めたの

は平陽でなくて武城ということになっている︒そこで﹁集解﹂も

 その点に疑問を抱いたと見えて︑﹁徐廣日︑年表云︑秦抜我平陽﹂

とことわっている︒今︑武城が何処の地を指しているか知られな

いが︑﹃本紀﹄十四年に︑﹁桓騎定平陽︑武城﹂という書き方がさ

れている所を見ると︑平陽と武城は極く近隣の地のように思われ

る︒しかし超將雇靱が桓騎によって殺されたのは︑﹃本紀﹄では

平陽︑﹃趨世家﹄では武城ということになって矛盾がある︒いま

睡虎地秦墓竹簡釈文註解目 ﹃篇年紀﹄のこの記事を合せ考えてみるに︑やはりこの時の超への進攻は︑平陽に於ける戦役がその中心であったことが解る︒層概の﹁死焉﹂も平陽であろう︒故に︑﹃超世家﹄に武城と言い︑或いは平陽と武城を並列しているのは︑記述上の誤りか或いは︑武城というのは平陽の別名ということになろう︒恐らく平陽という名は秦領に組み込まれた以降の呼び名であり︑韓や趨にあった頃︑或いはそれ以前は武城といわれていたのであろう︒いづれにしても﹃篇年紀﹄のこの記事は︑﹃超世家﹄の武城が︑﹃本紀﹄の平陽とは全く別の地の名である訳ではないということを裏づける根拠の一つとなりうるかもしれない︒また﹃秦始皇本紀﹄十四年の条には︑﹁攻超軍於平陽︑取宜安︑破之︑殺其絡軍︑桓鯖定平■■陽︑武城﹂とある︒宜安については﹁正義﹂に︑﹁括地志云︑宜安故城在常山稟城縣西南二十五里也﹂とある︒﹃趨世家﹄の幽繧王遷三年には︑﹁秦攻赤麗︑宜安︑李牧率師興戦肥下︑都之︑封牧爲武安君﹂とあり︑宜安について﹁正義﹂は︑﹁括地志云︑宜       ︑         ︑安故城在恒州稟城縣西南二十里也﹂とあって常字と恒字が通用されている︒肥について﹁正義﹂は︑﹁括地志云︑肥繁故城在恒州稟城縣西七里︑春秋時肥子國︑白秋別種也﹂とある︒﹃本紀﹄と﹃世家﹄の記事は互いに矛盾しているかに見るが︑実は﹃本紀﹄の記事が先で︑その後に続くものが﹃世家﹄の記事なのであろう︒即ち秦軍が平陽を改め︑宜安を取ったあと更に肥下に軍を進めようとして︑李牧の反撃に逢ったものと解される︒李牧が封ぜられた武安は︑郁郵の西北約三十キロのあたりである︒﹃舘世家﹄・

(8)

阪南論集 人文・自然科学編第二五巻第四号

によれば︑部郵が秦の領土となるのは遷王八年十月のことであ

る︒この時より五年後ということになる︒しかし遷王七年に李牧

は謙せられているから︑恐らくその時に武安も秦軍の手に落ちた

のであろう︒扱︑﹃篇年紀﹄十五年の条には︑﹁從平陽軍﹂とあ

る︒これは趨を攻める為に平陽に向う秦軍に︑喜も從軍したとい

うことである︒しかし﹃秦始皇本紀﹄によれば︑この年秦は大い

に兵を興してはいるが︑一軍は鄭へ︑一軍は太原へであって︑平

陽ではない︒鄭は那鄭の南約四十キロの所︑太原では狼孟を取っ

ており︑これは太原市の北東約三十キロの所では︑平陽からは更

に北東約二百五十キロで︑両城とも平陽からは遠く隔っている︒

秦が平陽に向って軍を動したのは已に前に見て来た如く︑十三

年︑十四年である︒しかも十四年には已に︑﹁桓鯖定平陽﹂であ

るから︑十五年にはもう軍を平陽へ動かす必要はなくなっている

はずである︒それではこれ等の記述はどのように解釈すればよい

のだろうか︒﹃篇年紀﹄は何と言っても同時代史料というぺきで

あるから︑やはり︑十五年︑秦軍の平陽攻めは最も信頼性のある

記述と言わねばなるまい︒ そうすると﹃本紀﹄﹃世家﹄の記事の

方が史実との間に何かの姐鯖があるものと考えねばならない︒こ

の﹃篇年紀﹄はこれまでにも﹃秦本紀﹄﹃秦始皇本紀﹄との間に︑

その史的記述の年次に於いて一年の差違があるものがいくつかあ

った︒例えば昭王五年の﹁蹄蒲反﹂︑八年﹁新城蹄﹂︑十八年﹁攻

蒲反﹂などがそれである︒この場合も多分それ等に類するもの

で︑何等かの理由によって︑﹃篇年紀﹄の篇年次が︑﹃史記﹄のそ

 れよりも早くなっているのであろう︒

⑫ 公は﹃説文﹄に︑﹁平分也︑以ハ︑瓜ム︑ハ猪背也︑韓非日︑

 背ム爲公﹂とある︒引用された︐韓非子﹄は︑﹁五議第四十九﹂

 の︑﹁古者蒼韻之作書︑自環者謂之私︑背私謂之公︑公私之相背

 也︑.乃蒼韻固以知之夷﹂に依ったものである︒しかし﹃説文﹄の

 この説解は︑公字の来源をあまり明白にしているとは言えない︒

 公はト辞ではM︑八o金文では川一︶︑八Oである︒これは種族的巫祝

 の箱をついたて状のもので外界と庶断して守っているか︑或いは

 金文のものは箱の上に修祓の為のよりしろをつけて︑これもやは

 り固く守っている象形であろう︒つまり公は本来神聖なものとい      ︑ う意味を表わしたものと思われる︒そこから引伸されて公字は多

 様の意味を持つようになった︒そのうちここに当てはまるような

ものは︑﹃史記・外戚世家﹄の︑﹁封公昆弟﹂の索隠に︑﹁公祖也﹂

 か︑﹃廣雅・緯親﹄に︑﹁公父也﹂か︑或いは︑﹃儀禮・既夕檀﹄︑

﹁公國君也﹂の疏にある︑﹁臣皆尊其君呼之日公﹂ぐらいであろう

 か︒この﹃篇年紀﹄は極めてプライペートな年次紀であって︑こ       ︑ れまで喜が事えたであろう公のこと︑或いはその周囲の臣につい

 ては全く触れる所がない︒よってここだけ喜の君公のことと取る

       ︑         ︑       ︑  ︑ ことは出来ない︒また公には祖︑或いは祖父の意味もあるが︑そ

         ︑       ︑ うするとここでは父についての記述がなくなる︒この公はやはり

 ︑      ︑ 父の意に取るべきものと思われる︒占は﹃説文﹄に︑﹁祖兆問也︑

以ト以口﹂とある︒ト辞ではレ山︑旭で表わされ︑ト辞の釈文とし

 ては︑﹁ウラナイミテ﹂と訓じられる︒トは甲骨に表われたひび

(9)

割れ︑卜兆を象したもの︒下の︺はト鑛を表わしたものであろ

う︒それを囲むのはそのト辞の結果を絶対的なものとして固定化

されているということを抽象的にか︑或いは何か箱状のものに入

れて具体的に表わしているのであろう︒﹃説文通訓定声﹄には︑

 ︑占字の意味が敷桁されたものとして︑﹁占︑艮借爲帖︑史記平準

書︑各以其物自占︑索隠︑自隠度也︑漢書注︑各隠度其財物多少

而爲名簿︑邊之干官也︑昭帝紀︑令民得以律占租︑注︑謂自隠度一其實︑定其鮮也︑下又言︑占︑名敷︑其義並同︑今猶謂獄訟之辮

日占︑皆其意也︑宣帝紀︑流民自占八萬鉄口︑注︑謂自隠度其戸

口︑而著名籍也﹂とある︒この記述は︑引用した﹃本紀﹄ の︑      ︑﹁枕令男子書年﹂とほぽ一致する︒即ち占は自署するという意味

であるから︑秦はこの年はじめて男子に甘からその年令を申し出

書かせたのである︒始皇帝は多くの政治上の改革を行った︒例え

ばその中には文字の統一や︑度量衡の統一など︑秦の富国強兵策

を遂行する上で極めて重要な改革が含まれているが︑この﹁自占

年﹂も非常に重要な政令といえる︒つまり男子に年齢を自から申

し出させるということは︑謂ば男子に関する戸籍を作るというこ

とである︒それによって︑秦はいつでも兵役︑労役に使う男子を

徴発することが出来るし︑また税の負担割当て︑徴収もとどこう

りなく遂行出来るようになるのである︒こうした政策も︑以後ま

すます秦が国力を増強させていく原動力となったことは疑いな

い︒こうし九秦史にとってのみならず︑東プジア史全体にとって

の重要な事実が︑この﹃篇年紀﹄によって追確認された意義は極

睡虎地秦墓竹簡釈文註解目  めて大きいと言える︒03 秦が始皇帝の代になってはじめて韓を攻めたのは始皇三年のこ とであった︒﹃秦始皇本紀﹄に︑﹁蒙驚攻韓︑取十三城﹂とあるの がそれである︒しかし秦が本当に韓を亡ぽそうと決めたのは始皇 十年のことである︒時に李斯は秦に︑﹁請先取韓以恐他國﹂と説 き︑秦は︑﹁於是使斯下韓﹂ことをはかりめぐらしはじめたので あった︒﹃秦始皇本紀﹄は︑この後︑﹁韓王患之︑與韓非謀弱秦﹂

と記している︒韓王安も︑韓非もこの時已に李斯の策略を知って

 いたのである︒韓王安にとって頼るべき人物は韓非しかいなかっ

 たようである︒またそれ程韓非が人並み秀れた頭脳を持っていた

ということであろう︒それは現存する﹃韓非子﹄五十五巻を見て   も明かである︒しかし韓王安はどちらかと言えば愚鈍であった為

 に本当に韓非を登用したのは秦へ使いをさせた時のみであった︒

抑々秦王が韓を攻めさせたのはすぐれた韓非に逢いたいと願った

からであり︑そしてその韓非が秦王に会う時はまた韓非の命の尽

きる時でもあったと︑﹃史記・韓非列伝﹄は詳しく述べている︒

﹃秦始皇本紀﹄は︑十四年の条に︑﹁韓使秦︑秦用李斯謀︑留非︑

非死雲陽︑韓王請爲臣﹂と記す︒韓非を失った韓王安はもはや国.

を保つ意志さえもうなかったと思われる︒故に十六年の︑﹁九日︑

讃卒受地韓南陽假守騰﹂というのも︑この南陽は︑韓が戦うこと

なく自発的に差し出したもののようである︒よって十七年の﹁内

史騰攻韓﹂は︑﹃篇年紀﹄の方にも︑﹁攻韓﹂と見えるが︑これは

殆んど韓の低抗を受けることなく行われたのであろう︒その結果

(10)

阪南論集 人文・自然科学編第二五巻第四号

 韓王安は捕虜となり︑﹁得韓王安︑壷納其地︑以其地爲郡︑命日

 顕川﹂と﹃本紀﹄には記されているのである︒韓非について﹃韓.

・世家﹄は︑﹁王安五年︑秦攻韓︑韓急︑使韓非使秦︑秦留非︑因

 殺之﹂とあり︑この王安五年は︑﹃史記・年表﹄によれば︑秦始

 皇十三年に当る︒これは﹃始皇本紀﹄の十四年と一年差異が生じ

 ている︒恐らく︑これは﹃本紀﹄には書かれていないが︑﹃世家﹄

 の︑﹁秦攻韓﹂が十三年で︑それ以下の記述︑即ち韓非が秦に使

 し︑殺害されたのは十四年のことなのであろう︒また﹃韓世家﹄

 は︑その終りを︑﹁九年︑秦虜王安︑轟入其地︑爲頴川郡︑韓遂.

 亡﹂と結んでいる︒因みに頴川郡は︑洛陽をその中心とする三川

 郡の東に隣接する小郡である︒

ω ﹃本紀﹄に︑﹁大興兵攻蛸︑王鶉將上地︑下井脛︑端和將河内︑

 莞魔伐超︑端和園郡邸城﹂とあり︑﹃篇年紀﹄の︑﹁攻趨﹂と一致

 する︒上地は﹁正義﹂によれば︑﹁上郡上縣︑今緩州等是也﹂と

 あるから︑威陽を中心とした内吏の東よりの北の地を指すのであ

 る︒井脛は﹁集解﹂に︑﹁服度日︑山名︑在常山︑今爲縣︑音刑﹂

 とある︒恒山郡︑石家荘の北西四十キロにある︒恢もやはり喜の

 息子であろうか︒前の獲と用字の上で関連がないようであるが︑

 董同稿︑カールグレン周法高による古代復原音は︑それぞれ下段

 の表の如くである︒

  いま秦代の音は全く解らないが右の表から推測すると︑この両       ︑ 字は音的に何かの関係があったものと考えられよう︒生はいまま       ︑ での産と同様な用いられ方である︒生は﹃説文﹄に︑﹁進也︑象  e 開d .m漁高㎝.m法t計周㎝㎝ .帆C n鵬 A e S ed n e .1 t高㎝.㎜法C前周.㎝㎝ ㎞㏄ 加︒ e esd −m漁漢㎝m本t討高㎝㎝ .帆C n鵬 A e S ed n e 一1 t hc漢C㎜本C前高.釧㎝ ㎞㏄ 如︒ e S ed n e 一1 t和㎝㎜同C討董.釦㎝ ・㎝㏄ ル︒ k ・1a ∂u uγkk na jW∂r Wgkkε釦W︐uγkkW︐g

gW

独拓岬W k

獲恢︶ ︶入平︵  ︵        一〇      ︑卿木生出土上︑﹂とある︒生は自動詞にも他動にも使われる︒﹃詩経・小雅・斯干﹄に︑﹁乃生男子︑載寝之状﹂とあり︑﹃禮記・内則﹄に︑﹁妻將生子︑及月辰︑居側室﹂どあるのはいずれも他動詞である︒また﹃廣雅・轟親﹄に︑﹁人十月而生﹂とあり︑﹃書経・発典﹄に︑﹁舜生三十︑徴庸三十︑在位五十載︑      ︑陸方乃死﹂などの例は自動詞である︒産は

﹃説文﹄に︑﹁生也︑以生彦︑省聲﹂とある︒

﹃正字通﹄に︑﹁産︑婦生子日産﹂とある︒

﹃橿記・郷飲酒義﹄に︑﹁産萬物者聖也﹂とあ

る︒これ等は他動詞︒﹃漢書︑宣帝紀﹄に︑

﹁金芝九董︑産干函徳殿銅池中﹂とあるのは.

自動詞である︒この﹃篇年紀﹄では︑今廿七

年の︑﹁産穿耳﹂だけが他動詞として使われ

ている︒ ﹃秦始皇本紀﹄に︑﹁王魏︑莞魔轟定取超地

東陽︑得避王﹂とある︒﹁索隠﹂に︑﹁鎧王遷

也﹂とし︑﹁正義﹂に︑﹁趨幽穆王遷八年︑秦

取超地至平陽︑平陽在貝州歴亭縣界︑遷王於

陵﹂とする︒即ち︑趨王は二年秦軍の捕虜と

なり︑超は亡びたのである︒故に﹁秦王之那

郵﹂とあって︑秦王が撹の都である郁郵へ入

(11)

って幼時の母家の仇怨を晴したのである︒﹃趨世家﹄は簡単に︑幽

繧王遷﹁七年︑秦人攻趨︑超大將李牧︑將軍司馬尚將︑撃之︑李

牧諌︑司馬荷冤︑趨忽及齋将顔聚代之︑超忽軍破︑顔聚亡去︑以

王遷降︑﹂と記しまた︑﹁八年十月︑部郵爲秦﹂とするのみであ

る︒ただ﹁集解﹂には︑﹁准南子云︑錨王遷流於房陵︑思故郷︑

作爲山水之調︑聞之者莫不流涕﹂と︑あまり他の部分の注解には

見られないような注を施しているのは興味深い︒かくして超は滅

びたのであるが︑﹃本紀﹄は更に︑﹁趨公子嘉率其宗数百人之代︑

自立爲代王︑東與燕合兵︑軍上谷︑﹂と記す︒しかしこれはすぐ

に制圧され︑﹃本紀﹄始皇二十六年の秦王の言葉に︑﹁描公子嘉乃

自立爲代王︑故學兵撃滅之﹂とする︒また﹃燕召公世家﹄今王喜

三十三年の条には︑﹁秦抜遼東︑虜燕王喜︑卒減燕︑是歳︑秦將

王責亦虜代王嘉﹂とあって︑超公子である代王嘉も結局は秦の捕

虜となるのである︒いまこの﹃篇年紀﹄はこの年秦は南部に備え

をしたように記されている︒これについては︑始皇二十六年の

﹃本紀﹄に︑﹁秦初井天下︑令丞相︑御史日﹂とし︑その中に︑﹁荊

王献青陽以西︑已而畔約︑撃我南郡︑故讃兵諌︑得其王︑邊定其

荊地﹂とあるのを指していよう︒しかし﹃楚世家﹄はこれについ

て全く触れる所がない︒例えば幽王の十年からの記述をみると︑

﹁十年︑幽王卒︑同母弟猶代立︑是爲哀王︑哀王立二月鎗︑哀王

庶兄負観之徒襲殺哀王而立負拐爲王﹂とあり︑内紛のみにあけく

れている︒こうした楚が秦の南郡を撃する余裕があるとは思われ

ない︒これは多分に秦王の自己正当化の為に脚色が施してあるの

睡虎地秦墓竹簡釈文註解目  であろう︒ただ﹁荊王献青陽以西﹂というのは︑﹃楚世家﹄︑﹁考 列王元年︑納州干案以平︑是時楚盆弱﹂をさしているものと思わ れる︒﹁集解﹂に︑﹁徐廣日︑南郡有州陵縣﹂とあり︑たとえ楚が 本当に秦の郡を侵すことがあったとしても︑もともとそれは楚の 領土であったという意識があったからであろう︒  ︑⑯ 姻は﹃説文﹄に︑﹁母也︑瓜女︑厘聲﹂とある︒喜の母親のこ とであろう︒終は﹃説文﹄に︑﹁練練也︑以糸︑冬聲︑血ハ古文終﹂ とあるが︑段玉裁は︑﹁按︑絃字恐誤︑疑下文繰字之講取其属也︑ 廣詣云︑終極也︑窮也︑寛也︑其義皆當作冬︑冬者四時壷也︑故 其引申之義如此︑俗分別冬爲四時憲︑終爲極也︑窮也︑寛也︑乃 使冬失其引中之義︑終失其本義夷﹂と注している︒これは解釈と しては甚だ楽しいが︑しかし恐らく正しくはあるまい︑血ハが冬の

古文で︑糸を止める為にその先端に作られた糸のタマを象したも

 のであり︑それ自身が終の意味を持つものであろう︒所謂冬︵フ

 ユ︶はその引申された意味である︒﹃輝名・釈喪制﹄に︑﹁終・尽

 也﹂とあるのや︑﹃周禮・疾蟹﹄に︑﹁死終則各書其所以﹂︑﹃橦記      ︑      ︑ ・檀弓﹄に︑﹁君子日終︑小人日死﹂とあるのが︑終の死の意味

 に使われた例である︒ここは︑喜の母親が死んだということを表

 わしている︒次いで﹃篇年紀﹄には︑﹁韓王居口山﹂とあるが︑

 韓については︑十七年に滅んだ以後は﹃史記﹄に全く登場しな

 い︒ただ﹃始皇本紀﹄二十六年の詔辞に︑﹁魏王始約服入秦︑已

 而與韓︑趨謀襲秦︑秦兵吏諜︑遂破之﹂とある︒これは詔辞の記

 述順序から言えば︑趨公子嘉を撃った後︑楚を威ぼす前である︒

(12)

阪南論集 人文・自然科学編第二五巻第四号

 韓王はこの時までどこかに遷されていたのであろう︒趨王は房陵

 にうつされていた︒そこで魏を合せた三者の謀議となったと思わ

 れるが︑所詮は実行に移されることはなく︑単なる謀で終ったの

 ■であり︑またそれを口実として秦玉は韓王を殺したのかもしれな

 い︒それが﹃篇年紀﹄廿一年の︑﹁韓王死﹂であると恩われる︒

 因みにこの年はまた︑﹁風講粛号易水寒︑牡士一去不復還﹂で有

 名な荊輌が︑始皇帝を刺しに出かけたが失敗した年でもある︒そ

 れによって次の年︑燕の太子丹は秦軍によって殺され燕は亡びる

 のである︒

㎝ 昌平君については﹃秦始皇本紀﹂の九年に︑﹁長信侯毒作馳而

 費︑矯王御璽及太后璽以讃縣卒及衛卒︑官騎︑戎覆君公︑舎人︑

 將欲攻斬年宮爲乱︑王知之︑令相國昌平君︑昌文君蟹卒攻富﹂と

 ある︒﹁索隠﹂に︑﹁昌平君︑楚之公子︑立以爲相︑後徒於郭︑項

 燕立爲荊王︑史失其名﹂とある︒昌平君ははじめ秦王に信頼厚

 く︑毒討伐に向かわされる程であった︒この時は多分戚陽に近い.

 所︑即ち︑新鄭あたりに居たのであろうが︑新鄭で乱が起きたの

 で︑昌平君がそれに乗じて力を得ることを恐れた秦王は︑南陽郡

 の郵まで︑昌平君をひき離したのであろう︒郭の地は﹃篇年紀﹄

 の主人公喜の出身地安陸︑或いは令史となっている郡とは比較的

 近い︒喜はこの昌平君と何等の交流があったのかもしれない︒

 ︹史失其名﹂者をわざわざここに書留めたのはそれだけの理由が

 喜にはあったに違いない︒

c副 同年の﹃秦始皇本紀﹄には︑﹁王責攻魏︑引河溝灌大梁城壊︑﹂ 一二

 とある︒大梁とは﹃篇年紀﹄に言う梁であり︑魏の都である︒現       ︑   ︑ 在の河南省開封市である︒河溝と言うのは勿論黄河から直接か或

 いは黄河からの流れである︒所謂水攻めである︒このあと魏王

 は︑﹁講降﹂︑秦は︑﹁壷取其地﹂とある︒﹃魏世家﹄によれば︑﹁秦

 灌大梁︑虜王椴︑遂滅魏以爲郡縣﹂とある︒こび年魏は威亡した

 のである︒このときの魏進攻の理由が︑秦王によれば韓・紺と謀

 って秦を襲うとしたからだといヶことになるのである︒  ︑㈹ 興は﹃説文﹄に︑﹁起也︑以昇︑瓜同︑同力也﹂とある︒﹁大興    ︑兵﹂の興の意味である︒荊は﹃説文﹄に︑﹁楚木也︑瓜岬︑刑聲︑

瀞古文荊﹂とある︒﹃爾雅・澤地﹄に︑﹁漢南日荊州﹂とある︒

 ﹃春秋左伝・荘公十年﹄の︑﹁荊敗察師干華﹂の杜預の注に︑﹁荊︑

楚の本號﹂とある︒また﹃呂氏春秋・初音﹄の︑﹁周昭王親將征

 剰﹂の高誘の注に︑﹁荊︑楚也︑秦荘王講楚︑避之日荊﹂とある︒

 ︑         ︑ 荊とは楚のことである︒後文は︑誰かが陽某という地を守って死

 んだというのであろう︒それは恐らく楚の地であり︑死んだ者は

楚の武將であったにちがいない︒昌文君については昌平君と同

様︑同時に秦の臣となり︑膠寡を攻めるに参預するが︑それ以上

 については︑﹃本紀﹄の﹁索隠﹂に︑﹁昌文君︑亦史失其名﹂とあ

るのみであるoこの年﹃始皇本紀﹄は︑﹁荊將項燕立昌平君爲剰

王︑反秦於准南﹂と記す︒しかし﹃楚世家﹄では︑﹁四年︑秦將

王勢破我軍於覇︑而殺將軍項燕﹂とあって︑その計画はすぐに失

敗し︑項燕は殺されている︒項燕は衰微した楚を︑親族同志の骨

肉の争いに汚れた王負鋼によっ■てではなく︑昌平君によって再興

(13)

 しようとしたのである︒

⑫⑰ ﹃秦始皇本紀﹄は同年の記述に︑﹁王鶉︑蒙武攻荊︑破荊軍︑昌

 平君死︑項燕遼自殺﹂とする︒項燕の死は︑﹃楚世家﹄の記述よ

 り一年後のこととしているばかりでなく自殺とLているのである

 が︑﹃吏記・項羽本紀﹄の冒頭は︑﹁項籍︑下相人也︑字羽︑初起

 時︑年二十四︑其季父項梁︑梁父印楚將項燕︑爲秦將王弱所薮者

 也︑項氏世世爲楚將︑封於項︑故姓項氏﹂とある︒即ち項燕は

 ﹃楚世家﹄と同様殺されたことになっている︒これにっいては

 ﹁索隠﹂が︑﹁此云爲王璃所殺︑典楚漢春秋同︑而姶皇本紀云項燕

 自殺︑不同者︑蓋燕爲王襲所園逼而自殺︑故不同耳﹂と解説して

 いる︒いずれにしてもこの年︑.﹃楚世家﹄に︑﹁秦將王魏︑蒙武途

 破楚国︑虜楚王負鋸︑減楚名爲郡云﹂とあるように楚は亡びたの

 である︒いま﹃篇年紀﹄の記事は全く解らないが︑以上の各文件

 からみて︑恐らく︑﹁攻虜楚王負鋼﹂ぐらいの所ではなかろうか︒

ω⑳ この﹃篇年紀﹂は︑前にも述べた如く極めて私的な大事紀で

 ある︒その意味から︑昌平君も︑昌文君も喜にとっては何等の関

 係があったものと思われる︒昌文君の方はいま何も資料がないか

 ら取り上げないが︑昌平君の方は喜のいた場所σ極く近くの郭で

 荊王となったのである︒喜の立場は相当複雑であったにちがいな

 い︒廿五年︑廿六年の無記述はそのあたりを暗に示しているよう

 でならない︒廿五年には︑王襲は荊︑江南の地を平定している︒

 これは当然様々な余波が喜のポとへ押し寄せたにちがいない︒喜

はそれにも拘わらずただじっと時の流れ︑波のおさまるのを見て

睡虎地秦墓竹簡釈文註解目  いただけなのだろうか︒特に廿六年は︑斉を倒して名実ともに秦 が初めて天下を統一した年である︒これは歴吏的な大事業であ る︒にもかかわらず喜はこれについても全く記する所がない︒何 か身辺の苦痛のようなものが︑この空白の内に読みとれるような 気がする︒㈱ 廷は﹃説文﹄に︑﹁朝中也︑双し︑壬聲﹂とある︒康駿は︑﹁由 銘文﹃中廷⁝・−﹄知廷字指宮廷建築中的某一部分﹂と言ってい る︒しかしこの場合はそこから引申された意味を表しているもの と思われる︒即ち﹃古籍篇﹄に︑﹁人直立地上︑容形端正︑故訓 善也﹂といい︑﹃集韻﹄に︑﹁廷︑正也︑直也﹂とあるのがそれで ある︒﹁食時﹂というのは昭王柑五年の﹁喜産﹂の所に見える﹁鶏

鳴時﹂と同じ言方で︑物を食う時のこと︑﹃左伝・昭公五年﹄に︑

﹁明夷︑日也︑日之敷十︑故有十時︑亦當十位︑自主已下︑其二

爲公︑其三爲卿︑日上其中︑食日爲二︑旦日爲三﹂とあり︑その

 ︑  ︑食目についての杜預の注に︑﹁日中當王︑食時當公︑平旦爲卿︑

鶏鳴爲士﹂とある︒つまり︑食時とは朝食の時間を言っているの

 である︒また﹃詩経・廓風・蝦煉﹄に︑﹁朝瞬干西︑崇朝其雨﹂

とあり︑その伝には︑﹁隣升︑崇終也︑從旦至食時爲終朝︑﹂とあ       ︑  ︑り︑この場合の食時も朝食時の意である︒﹁毛伝﹂は更に続けて︑

﹁嚢云︑朝有升氣於西方︑終其.朝則雨氣鷹︑自然皇言︑婦人生而

有適人之道︑亦性自然﹂とあるoこの﹃篇年紀﹄の場合は︑﹁升

氣﹂﹁雨﹂は関係はないが︑そしてまた﹁穿耳﹂というのが︿睡

虎地秦墓竹簡整理小組﹀が︑﹁當爲女弦名﹂というように女兄の

ニニ

(14)

阪南論集 人文・自然科学編第二五巻第四号

 名であるとすれば︑﹁食事﹂に婦人が生れるということは非常に

 よい事なのであるという俗習があったのかもしれない︒そうすれ

 ば︑今まで何人かの男子が生れているにもかかわらず︑この時だ      ︑ け︑﹁産穿耳﹂というように産字を他動詞として能動的に使った

 意味が汲み取れる︒

侶勘 ﹃始皇本紀﹄によると始皇はこの年︑泰山で封禅を行った他に︑

 ﹁於是乃並勃海以東︑過黄︑睡︑窮成山︑登之禾︑立石頒秦徳焉

 而去︑南登破邪⁝⁝﹂などの東方への巡幸︑また︑﹁乃西南渡准

 水︑之衡山︑南郡︑浮江︑至湘山祠︑逢大風︑幾不得渡︑⁝⁝上

 自南郡由武闘蹄﹂と南郡方面への巡幸を行っている︒いま﹃篇年

 紀﹄に見える︑﹁今過安陸﹂というのはこの南郡から帰る時に安

       ︑       ︑ 陸をよぎったのであろう︒この今の字は今上皇帝の意味の今であ

 って﹁イマ﹂ではない︒時に喜四十三才である︒

㈲ ﹃史記・表﹄に︑﹁郡縣大索十日﹂とあるのは︑﹃本紀﹄の︑﹁始

 皇東澁︑至陽武博狼沙中︑爲盗所驚︑求弗得︑乃令天下大索十

 目﹂のことを言っているのである︒そしてζの盗こそ後に漢祖の

 師となった張子房のことである︒いよいよこのあたりから已に︑

 秦始皇に公然と反意をあからさまにする勢力が動きはじめるので

 ある︒㈱ ﹃始皇本紀﹄も︑﹁三十年︑無事﹂と記するのみで他の記述は全

 くない︒しかしこの年こそ恐らく︑﹃篇年紀﹄の主人公喜の没年

 なのであろう︒﹃篇年紀﹄はこの年でそのすべての記述を終って

 いるからである︒ 一四

︵一九八九年十二月二五日受理︶

(15)

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一五

参照

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