〈論文〉聞き書き 竹島の記憶
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(2) 第 2号 総合社会学部紀要 第 3巻. 日 本. 〆 寺. 図 1 竹島の位置. 写真 1 竹島全景(右が西島、左が束島). 〔出所〕ウイキベデイアの「竹島」の項より転載。. e. ?Llr. ad. v. wh. G. ⋮. 犠 47守J. 持拡. j、! 守口向暴露肝絞っ話時⋮壁際誇雲随一段‘リ 詰ば綾瀬笹原燃がやい竹 作品葉響ぽ益金. 々土浦一滞め地出場甲道矛山山. 制い脳同緩和科目戎織と虫記してい飽付ほむ℃いいおゴ. Um滋吋 Hh逐確制叫したふじ発表. 隣け. ⋮行為市中品川金総局や泊四同学者が作ヲ ,八 ?80ザ品年オな世︺ほん. ぷ ゐ織 明⋮一昨⋮定品川主も審議翠 の写実逗慣れ. w u J 一伊送時ゆ仲滅品岳部づ辺一﹁総. 泌討持絵師桝府知識叫んが竹島務開門 ジマじ々とい 3た喪記台⋮点. mw総選一編淑吋宝仙甘か⑪. n u w d. 伴ね怒. い⋮占じでいるベマザ叫色付けしでいる叩利品昨. φ. 以洗辺聖護 Uτ翠空長⋮薬会選志. hM. P. 日飼いに霊李とみまま⋮ 孟三郎事主流. ψ. ⋮ 々 : ⋮⋮. -2ー. 申込山時打電政呂町時 )eの 刊悶駒市内韓国・欝附腕嗣悶も円本掘削と. にじ一刈益級生鮫円一線綾田酌給人じでいいる. 写真 2 久見の集落. 写真 3 冬の強風への防風垣を備えた家. 資料 1 I 華夷一覧図」を紹介した記事 日本経済新聞 J2014年 1月 22日付 〔出所) I けによる。. 鮮半島貿易における中継地となった。江戸幕府 の命によって書かれた「会桑竺量画 J(1806 年)には、隠岐平、長崎県の長長.f.t嵐と同様 に日本領として明瞭に着色されている(資料. 1)。穆陵島が「竹島」であり、現在の竹島は 「松島」であったことがわかる九 当時、「竹島J(管陵島)が竹島と呼称された わけは、そこで竹を多く産したからのようであ.
(3) 聞き書き. 竹島の記憶. るが、「松島 J(竹島)がなぜ松島とよばれたか は定かではない。あるいは単に「松・竹」の縁 起かつぎの語日合わせであったのかもしれない し、島に生える松の木が航行の目印にでもされ たのかもしれない。しかし、明治大正期、識 民たちのあいだでは「松島」なる名称はまった , ) と く使われておらず、もっぱら「リャンコ J 通称されていた。 両島が松竹一対をなして認識されたあたり、 資料 lが雄弁に語っているように、竹島ばかり でなく穆陵島さえも当時は実際上の日本領で あったことを示唆している。しかし明治以降、 距離的に遠い穆陵島はしだい日本人の意識から は疎んじられていき、日本政府は 1905 (明治 3 8 ) 年、国際法の慣例に則って竹島についての み日本領であることを宣言した。以後、 1952 (昭和 2 1 ) 年 1月にいわゆる「李承晩ライン」 が引かれ、韓国が一方的に島を奪取するまで、 竹島は隠岐漁民にとってかけがえのない漁場で ありつづけた。 「聞き書き 竹島の記憶」と題する本稿は、 以上の歴史的経緯をもっ竹島が、今日、隠岐島 民によってどのように記憶されているかという ことを聞き書きによって記録しようとするもの である。その記憶は、直接・間接に竹島とのか かわりを示す確かな証拠ではあるが、現在では 再ぴ訪れることのかなわぬ遠い過去の遺産と なって久しい。今日、竹島が日本領であるとす る固の主張.)は知られていても、かつてそこで 人々の生活が営まれたことを具体的な事実とし て知る日本人は多くないのではあるまいか。 本稿はそのような人たちに向け、竹島と隠岐 島民とのかかわりを伝えるとともに、失われつ つあるその記憶を後世に語り継ごうとするもの である。. 2 聞き書曹の方法 竹島に関 L、「李承晩ライン」以前に置接的 な経験をもっ人は、現在では概ね 8 0代以上の 高齢者にかぎられる。そのうえ、竹島に実際に 渡航したことのある人は漁業権をもっ一部の漁. 写真 4 八幡昭三さん 民や、船を所有した船主、船主等の募集に応じ た漁労乗組員などであったため、現在、竹島で の漁業体験を語ることのできる人はきわめて少 数になっている。このため、本稿における聞き 書きでは、残念ながら、そのような置接体験を もっ人からは話を聞くことができなかった。 やわた 本稿の記録は、その多くを久見在住の八幡 Lょうぎ 昭三さん(昭和 3年生まれ) (写真 4 )の語り によっている。しかし、その体験は彼が竹島に 実際赴いてのものでなく、たびたび出漁してい た叔父の供三訴さん(明治 33年生まれ)から の伝聞によるものである。昭三さん自身、竹島 に行ったことは一度もない。 0年ごろより、ここ久見 昭三さんは、昭和 4 で島後特産の黒曜石の加工販売を手がけてき た九その加工場に昭和 52年 3月、伊三郎さ んが訪ねてきたが、この時、昭三さんは、「い ま、竹島のことは航空写真で見ればわかる。で も、叔父さんでないとわからんこともあろうか ら、この際ぜひ教えてください」とお願いし、 思い出話を聞かせてもらった。叔父 いろいろと J 4歳の時である。伊三郎さんは自分が竹 さん 8 3年ごろ 島に出漁した当時の、昭和 8年から 1 の記憶を、確かな記憶とともに語ってくれた。 図 2は、その際に伊三郎さんが書いた竹島の見 取り図である。 伊三郎さんはこの見取り図を、畳一畳大にも 5分とかからずに書 近い大きな紙に、ものの 1 、 き上げてしまった(写真 5)。また資料 2は. -3ー.
(4) 総合社会学節紀要第 3巻 第 2号. 4. 81叩 ー す 7d え JJ. dja匂/時. 4AT4/多j トf. 、 I f l v a ,. オ. 1-. . . ¥ 、 J ! -. MMt l告メヂ/ ,- I. -4-. f . 'J ' え 古 : 、.
(5) 聞き書き. 竹島の記憶. 写真 5 ( ( C '0 ; ジ. ﹁. グハグ. LM仏 、. mL!-JJA対共﹁1. 4Lb. 19 3 5年 写真 6 竹島漁師と朝鮮人海女(右) ( 撮影) 〔出所〕隠岐の島町教育委員会提供。. 在住の M . Mさん(昭和 3 9年生まれ女性)) からも、簡単にではあるが話を聞いた。これら ご人も竹島の直接体験はないが、夫が竹島漁師. m. 占 1. VL/ザ爪川汁4m 主 L J 6 叫 e. 寸. l L ノすペ母、. γL13. 、 #. irl活 こ こ 〆 4引 介乳夫、. 〆 A. 連. h1 JL1 1 4 741. 十 イ. 14と み. J 年. ぽ骨代凶. す. tJ自主円ゆ一本品. か. L 内内山ノd 切局者括円ソ引如何. i. 、 塚. 千 令. hNYJ¥. キ. ザ/朴. 号ふゑ. 臥?っ. ξ. ﹂仇ノ山町i M. 子誌を系. で 、 豆 ぎ JA A / f )〈. 臼︿、クゑ. アぷ. ぷ/わ定fh珂 t d JJ TKの1 2イ 人 仕 込れ払えん人ず hLA. ヨ. 活. であったり、家族からアシカ猟のことを聞いて. 資料 2 図 2を説明した八幡伊三郎さんのメモ. いたりする伝承者である。なお、これらの聞き. (八幡昭三さん提供). 0 1 0年 1 1月におこなった。 書きは 2 さらに本稿では、以上の聞き害きを補充する. 図 2の要所を説明した文である。両者には 1-. ため、昭三さんからいただいた資料や、既刊行. 9の番号がふられており、番号には丸数字に. 物からの資料、記録写真等を利用させていただ. なっているものとそうでないものとがあるが、. いたが、出所についてはそれぞれ文中に示して いる。. 双方の番号はそれぞれに対応している(つま り、丸のあるなしに特別な意味はなく、番号ど. E 竹島の概要. うしが対応している)。昭三さんはパネルに加 工したそれらの図を掲げながら、筆者に話を聞. 0 1 0年 1 1月と かせてくれた。聞き害きは 2 2 0 1 3年 1 2月の 2度にわたっておこなった。. 以下の聞き書きは久見在住の八幡昭三さん (昭和 3年生まれ)からのもの。. また、本稿ではこのほか、二人の話者(一人 は員各.茜議在住の H ・Y さん(大正 6年生. 島の呼び名 まず竹島の呼び名だが、当時は「竹島」と言. まれ・女性)、もう一人は量前・西ノ島町三麗. わず、「リャンコ」もしくは「ランコ」と言っ. 民u.
(6) 総合社会学部紀要第 3巻 第 2号. た。「ウツリョウ J(軍事陵)とよぶこともあっ た。リヤンコには朝鮮人たちがサザエキアワピ を採りにくることがあったが、日本人がいつも 追い返していた。ただ、朝鮮人の海女を雇うこ とはあり(写真 6)、その意味で両者は共生し ていたともいえようか。ともかくも、リャンコ はもっぱら日本の島であり、朝鮮人も当然のこ と、そのように思っていた。 島の地形 図 2で、西ノ島と東ノ島的、それに多くの岩 山があり、そのまわりを線で囲っているが、線 00m 、 の全体が竹島である。だいたい東西が 5 00mぐらいあり、外側は急に深い海へ 南北が 3 と落ち込んでいる。全体として島は深海からの 台地状をなし、その中に西ノ島と束ノ島という 二つの高く、大きな岩塊がある。 台地状の竹島には、海の深いところからたく さんの養分が湧き上がってくる。その豊富な養 分が海草を育てるのか、二つの島のあいだにあ る 「 箱 約 晶」勺こは海草が密生している。海 草はどれも、隠岐の海で見るものの倍ほどもあ る大きさで、その海草を餌にしてアワピキサザ エが豊かに育ち、そこにたくさんの小魚が集 まってくる。そしてまた、その小魚を求めて大 魚がやってきでは、それらを追ってアシカ 8)が. i. 北の海から下りてくる。竹島はアシカにとって 格好の住みかであり、繁殖の場となっていた。 竹島が豊かな漁場であるわけは、本を正せ ば、こうした島の地形が関係している。竹島は まずもってアシカ猟の島であり、そしてアワピ やサザエ、海草の採取がきかんにおこなわれ 戸. ι. 。. 小屋揖け 0-40 一回の出漁に要する日数はだいたい 3 日といったところで、年に 2度出漁するのがふ つうだった。識のあいだは簡易な漁師小屋(写 真 7) に寝泊まりし、そこでいろいろの作業も したが、その小屋は東ノ島のほうに建ててあっ 6 Jの場所)。西ノ島・東ノ島 た(図 2中の i とも地形は険しいが、男島である西ノ島はいつ そう切り立っている。そこで、ややなだらかな 東ノ島の、海岸部のわずかばかりの平地に小屋. 写真 7 竹島の潰師小屋(奥) 〔出所〕隠岐の島町教育委員会提供。 をつくった。 漁に行く都度、屋根など簡単な補修をおこな う。その資材として杉皮や竹材などを船に積ん でいった。 水の確保 竹島には、たくさんの水をもっていった。も Lもの時の備えであるが、西ノ島の洞窟の一つ に天井からぽたりぽたりと水がしたたり落ちる ものがあり(図 2中の「①」の場所)、その下 に桶を置いておいておけば必要な水は確保でき. ん 。 戸. 小屋は束ノ島にあるので、海が荒れると水を 取りに行けないこともあったが、そうでなけれ ば毎日洞窟に入って桶の水を回収した。竹島漁 にはだいたい十数人で出かけたが、全員分の飲 み水が十分に取得でき、時には風呂に入ること も可能だった。 東ノ島の上には小さな柴木や小松、カヤなど が茂っている。しかし、西ノ島のほうには植物 らしきものはほとんどなく、わずかにグミの木 が 2、 3本あるだけである。草も生えていない のにどうして水が絶えないのか不思議だった が、おかげで水に困ることはまずなかった。. E 出満の記憶. -6ー. 1.竹島のアシカ猟 引き続き八幡昭三さんからの聞き書き。 竹島には年に 2度ほど出漁した。 1固の漁に.
(7) 聞き書き. 要する日数は 30-40日で、春から初夏にかけ てが 1回目、夏から秋にかけでが 2回目だっ た。竹島瀬は命がけなので、年がら年中出かけ ているわけでない。冬の日本海は荒れるので、 11-3月の竹島への出瀬は無理だった。 出航 もとは帆船だったが、明治の終わりごろ焼玉 エンジンに代わった。俗に言うボンボン船とい うやつである。ここらでは「発動機船」とよん でいた。ただ、最初のうちはとても高価だった ので、その数は少なかった。しかし、しだいに 焼玉エンジンが安〈手に入るようになり、終戦 0馬力の焼玉エンジンを積んだ 7、 の時点では 3 8トンの船がある程度の数になっていた。 出漁は命がけである。海が荒れればもちろん 50kmの荒 だが、そうでなくとも小さな船で 1 海を行かねばならない。たまに簡易なコンパス が手に入ることがあったが、それほど正確とい うわけでもなく、結局は星が頼りの航海だっ た。そのため、港をでるのは必ず晩と決まって なぎ おり、凪の日を見計らって竹島へと向かった。 出航前、まずは神社でお酸いを受けて身を清 め、御神酒をいただいてから出帆する。コンパ 3 4 3 "Jに合わせ、全速力で北西へと スの針を 1 疾走する。正しく進路を取りつづければ明け方 には島影が見えるはずだが、少しでも狂ってい れば小さな島を容易に見つけ出すことはできな い。時に翌日一日中探し回ることもあり、日が 暮れるころやっと島にたどり着いた。 甑師の募集 久見に橋岡忠重さんという人がおり、竹島で アシカ猟を手がけていた。その橋岡さんが船員 2 、 を募集していたが、一回の航海でだいたい 1 3人が集められた。命がけの漁ということもあ り、応募者には独身者も多かった。久見の者が 多かったが、久見だけというわけでなく、西郷 や、時に島前の人たちなども応じていた。治は 1、2人がチー アシカ猟がメインで、だいたい 1 ムを組んでアシカを捕る(アシカ猟の詳細は後 述)。これにアワピ・サザエ採り専門の乗組員 2、3人というわけ が 1、 2名おり、合わせて 1 である。. 竹島の記憶. 伊三郎さんはカナギ"の名人だったが、アワ ピ採りはその腕が良くないと務まらない仕事 で、伊三郎さんは橋聞きんに頼まれて竹島漁に 参加していた。アワピ採りには伊三郎さんのほ か、昭三さんの兄(故人)も参加したことがあ る 。 漁業権 竹島の漁には漁業権があり、橋岡さんが中心 になったのはその権利をもっていたからであ る。資料 3のような鑑札が島根県から交付され ており、その人たちに漁の権利が与えられてい た。橋岡さんがもっていたのは「海撞J(アシ カ)の権利だったことが鑑札からわかる。 アシカ猟の権利は漁業権の一種だが、アワ ピ・サザエ採りは地先権に属する。地先権と 00mまでの は、陸地に付随する海(水際から 5 浅海)を利用する権利のことで、この権利を久 見の漁協がもっていて、アワピやサザエ、海草 類を採取していた。このほか肥料となるうrイ7 ン採取の権利などもあり、浜田さんという人が その権利をもっていた。 0年ごとの更新が必要である。 以上の権利は 1 余談になるが、地先権はその後もずっと更新を つづけており、現在も島根県から鑑札を受けて いる 10)。 アシカ狐の方法 西ノ島(男島)の北西岸に洞窟が三つあり、 一つは前述の水を取得する穴だが、あとのこつ が雌のアシカがお産をする穴になっていた(図 2中の「②」の場所)。ちなみに、図中の注記 にもあるように、アシカのことを「アシカ」と 言わずに「トド」と言った。 この洞窟の入り口に前の晩のうちに網を張っ ておき、翌日明るくなってからアシカを追い出 して網にからめて捕獲した。追い出し役、追い 込み役、からめ取り役がいて、それぞれが連携 してアシカに向かった。アワピと違い、アシカ 猟には特別の技量がいるわけでなく、チームプ レーが肝心だった。 アシカの用途 アシカは日に 1頭くらいずつ捕っていく。生 け捕りにして持ち帰り、サーカスや動物園に売. -7ー.
(8) 総合社会学節紀要 第 3巻 第 2号. 一やすいえ¥一. 幡向。悌岬安一一. -H. 一z一 争 JF 消極命訟マ一札 一. d. 日. ejw E. 一. 一 一. -8-. il?J 閥抗日同一一一. 刊 一 、. lJ. r. 探勝一以一一 ?PErt台 柑. 昭和. J JL. i t. 了一二予 ー ﹄. 一 r u一一 一 j. 一一川県官四五 務 住所 # 一一 寛子 よ♂ /. 川船長虚 。 4. ヂな 一. 一 説 明叩 一. 11J刈 k. 資料 3 Yシカ猟の鑑札 [出所) 竹島日誌」より転歳。. 一~.~<<~.
(9) 聞き書き. 竹島の記憶. 連れ帰ったアシカの子は、ひもで脇と肩とを くくって棒木につなぎ止め、しばらくのあいだ (だいたい 3か月から半年くらい)久見の川 (写真 8) で飼育した。小さいうちは移送時な どに死にやすいので、丈夫に育ててから確実に 売るためである。たまに大人のアシカを連れて. 0日 くることもあったが、餌代がかさむので 1 もすればすぐに売った。 これは昭三さん自身の思い出だが、毎日のよ うに子アシカと遊ぶのが楽しかった。魚を釣っ てきて与えると、子アシカは喜んで食べてい た。昭三きんを知っていて、昭三さんには甘え. 写真 8 子アシカをしばし育てた川. るが、友達には甘えない。犬より賢いと思った ることもあったが、だいたいは現地で殺し、そ. し、それはかわいがったものである。たまに赤. の日のうちに解体する。アシカの用途は第一に. ちゃんアシカが来ることがあり、自分の後をつ. 毛皮で、肉は脂を搾ってランプの泊に使った. いて回った。「プー」という名を付けてやった. り、石けんなどに加工して、残った肉カスを畑. こともある。大人のアシカには手をかまれるお. の金肥とした。最後に残る骨は海岸に埋めてし. それがあり、近づかないように注意された。. まう。肉は食べられないことはないが、うまく ないのでふつうは食べない。. 忠さんの困層面録(昭和 5 7年)から 楠岡重J 以下は、隠岐の島町教育委員会がまとめた. 昭三さんが子供のころ、家にアシカの毛皮が. " )からの引用である。前述のよ 『ふるさと隠岐1. カーペット代わりに敷いてあった。短い毛が. うに、橋岡さんはアシカ猟の鑑札をもっ漁師. ぴっしりと生えており、すべすべした心地よい. だったが、この回顧録から竹島のアシカ猟の様. 感触を憶えている。おまけに冬などとても暖か. 0 )。上にまとめた 子がよくわかる(写真 9 ・1. くて具合がよい。ふつうの家にはゴザしかない. 入幡昭三さんからの聞き書きと一部に旭鷲があ. 時代、友達からとてもうらやましがられた逸品. るが、そのまま転載させていただく。. である。 の号. 明治の話になるが、アシカの毛皮は軍人の背. 嚢の材料にされた。日露戦争では非常に多くの 需要があり、当時、アシカの毛皮は塩漬けにし て出荷され、加工場で塩抜きしてから縫製され 戸. ι. 竹島に一番最初に行った人は、私にはわか 6( 1 9 0 3 )年 りませんが、話によれば明治 3 ごろに久見の石橋松太郎や中村の井口という. 。. 人や吉田屋主人、泉屋主人等であったと聞い ております。その当時は他の地区より人夫を. アシカの子 アシカの子を生け捕りにし、だいたい 5、 6. 頼み、アシカから脂を取っているところを見 たこと由雪ありました。. 頭を箱に入れて連れ帰る。サーカスや動物園に. 明治 3 7( 1 9 0 4 ) 年ごろから西郷町の中井. 0 0円 売るためだが、当時は需要が多く、 l頭 3. 養三郎様が「竹島漁猟合資会社」を設立され. くらいの高値で売れた。連れてくるのはだいた. 0( 19 0 7 ) 年ごろまでは て、私の父も明治 4 その会社の社員で働いていたそうです。その. い 1歳くらいの子アシカで、もっと小さい 3、. 4か月の赤ちゃんアシカは体が弱くて死にやす い。それで l歳くらいにねらいをつけるが、. 後、アシカが大変少なくなって会社は閉鎖さ れたとのことです。大正 1 3年に八幡長四郎、. ちょうどよいのは 2頭か、せいぜい 5頭ほどし. 池田幸一、それに私の 3人が中井様から竹島. かいなかった。. の権利をゆずりうけましたが、その後惨陵島. -9ー.
(10) 総合社会学部紀要第 3巻 第 2号. 1 9 3 5年撮影) 写真 9 竹島アシカ猟の様子 (. 写真 1 0 生け捕りにされたアシカ ( 1 9 3 5年撮影). 〔出所〕隠岐の島町教育委員会提供。. 〔出所〕隠岐の島町教育委員会提供。. の奥村平太郎氏に昭和 6年までの期間で権利 を売却しました。 1 9 3 3 ) 年から生きたアシカを売る 昭和 8 ( ことができるようになり、神戸の商人、中田 0頭くらい捕 忠ーという人の出資によって 3 まえる目標で出漁しましたが、アシカが死亡 してわずかばかりしか残らず大変な損をしま 1 9 3 4 ) 年ごろよりよう した。だが、昭和 9 ( やく軌道に乗りだし損をしなくなりました。 0( 1 9 3 5 ) 年から 1 6( 1 9 41)年まで 昭和 1 毎年 2回春と秋に出甑しました。春はアシカ の親を捕り、秋はアシカの子を捕って帰りま した。そして、岡山の木下サーカスや高松の 矢野サーカスに売ったのでその聞は相当の利 益を得ました。 0日ご 竹島の出漁期は、春の事業は 5月 1 0日ごろとなり、 ろから出港して帰りは 6月 2 5日ごろに出て 1 0月 1 5日ごろに 秋は 9月 1 帰ることにしておりました。 出漁期の発動機船は西郷町の治船で、 7 -. 8トンの 2 0馬力船と、 1 3トンの 3 0馬力船 を借りて出たが、久見港から竹島までの所要 0馬力船で 13-14時間、 3 0馬力船 時間は 2 2時間ぐらいでありました。 で1 アシカ捕りに雇った漁夫 7-8人はほとん ど西郷の漁師たちで、カナギ潟師 3-4人は 久見、意戸、蛸木の漁師たちで、手伝いのモ グリ人は皆朝鮮のアマを連れていきました。. 2 . アワビ満 再び久見の八幡昭三さんからの聞き書き。 写真 5では読み取れないが、図中の説明書き 貫取リマシ に「竿取リデアワピ一日ニー 0 0 タ」と注記されている。このように、伊三郎さ んはカナギの名人とまでいわれる人だったが、 0 0貫もアワピを採っていたことがわか 日に 1 0 0貫といえば 400kgにも近い重量で、特 る 。 1 0 0個は軽く越える大漁である。 大アワピでも 3 0 0個採るのも大変だが、翌日も、そのま 日に 3 た翌日も、採ろうと思えば同じだけのアワピが 採れたというから竹島の海は大したものであ る 。 ただし、あまり多く採りすぎて種を絶やして しまっては元も子もない。それで頃合いを見計 らって採っていかなければならないのと、保存 するため塩漬けにしたり、加工したりする技術 も必要である。そのためカナギ漁師はアシカ猟 師よりも専門性が高〈、誰でも簡単に務まると いうものではなかった。カナギ漁師はアワピの しけ ほかサザエなども採り、時化て仕事ができない 日にはアシカ捕りの手伝いもした。. 3 ケイフン採取 H.Yさん(大正 6年生まれ・女性)の家は 西郷市街地の外れで旅館業を営んでいる。この 5年生まれ)が 旅館は夫の H.Sさん(明治 4 3年に始めたもので、当初は小さな民宿 昭和 4 だったが、その後建て直して現在ではやや大き. -10ー.
(11) 聞き書き. 竹島の記憶. な旅館となっている。以下に記す話は、すべて. に密生するワカメで、柔らかくておいしいのが. 竹島に出議していた夫から H'Yさんが聞い. たくさん採れた。しかし、それはケイフン採り. たものである。. の従となる仕事であって、ワカメ採りは土産づ. 1年 、 6 5歳の なお、夫の H'Sさんは昭和 5. くり程度のものだったと言っても差し支えな. ときに他界している。こんな時代(韓国による. い。サザエキアワピは採らなかったが、ほかに. 竹島の実力支配が強まっていく剛't)が来ると わかっていれば、生前もっと話を聞いておくん. スッポンなども多くいて、「宝の島」だと言っ. だったと、妻の H.Yさんは後悔している。. ていた。 このほか、アシカも捕ったと聞いている。脂 を取って売るのだと言っていた。. 経歴. 現在は西郷で旅館をやっているが、夫も私も 久見の出である。昭和 7年に結婚し、その後、 昭和 14年にシナ事変で徴兵されるまで、夫は 竹島に出漁していた。島の権利をもっていると 言っていたが、どういう権利なのか詳しいこと は聞いていない。ただ、久見の橋岡さんが「海. 使用する船 戦後、船大工となる夫は、自分の造った船で 竹島へと向かった。その際、船の両脇に何本か ずつ竹竿をくくりつけていた。そうしておけ ば、ちょっとやそっとの荒波で船が沈むことは ないのだと言っていた。. の権利」をもっていたので、夫は「島の権利」 をもっているのだというような話だった。第二. 4 . 隠岐島前のアシカ郷. 次世界大戦後、しばらくは腕の良い船大工とし. 竹島はアシカ猟のメッカのようなところだ. 3年の民宿開業に て島中に知られたが、昭和 4. が、隠岐にもアシカはやってきていた。こと に、島昔は西ノ島の、三涯の集落はアシカ猟で. あわせて西郷に移り住んだ。 竹島の呼び名 4年までの数年問、夫は竹 徴兵される昭和 1. l )。本稿はタイト J レに 有名な所だった(写真 l. 島に何度か行ったが、その際いつも、「ランコ. は主題からそれるが、ここでのアシカ猟につい. に行く」と言って出かけていった o つまり、竹. てもみておこう。. 「竹島」を冠しているので、隠岐でのアシカ猟. 島は「ランコ J(あるいは「リャンコ」だった 以下は三度在住の M ・M さん(昭和 39年生. かもしれない)で、「竹島」というのは惨陵島 のことだった。隠岐(久見)は欝陵島とも関係. まれ・女性)から聞いた話。. が深く、その「竹島 J(欝陵島)から移り住ん だ人が久見の実家のすぐ近くにいた。. 三度の集落の北の外れの海岸に長主の洞窟が. ケイ 7ン採り 島へ行くのはケイフンを採るためで、 2、 3. 0あまりの穴 ある。「矢走二十六穴」といって 2 があり、現在は島の観光船が困っている。ここ. 三度のアシカ線. 人手伝いを雇っていった。ケイ 7 ンは烏の糞の. 8 0年ほど前)アシカが住み着い にはかつて (. ことだが、栄養価の商いすぐれた畑の肥料であ る。竹島には島一面に海鳥がいて、島中にケイ. ていて、「カンコ舟 J(通称「カンコ J ) とよば れる手こぎの舟で捕りに行っていた。おじいさ. フンが積もっている。そのケイフンを持ち帰る. んの代のことである。. のを農民が心待ちにしていて、金肥としての需. 洞穴の奥まったところが砂浜になっていて、. 要は高かった。袋からこぼれ落ちたわずかなケ. そこでアシカが暮らしていた。アシカがいるの. イ7ンも、お百姓にとっては大事なもので、か. は奥がそれほど深い穴ではないので、竹ぎおを. き集めては使っていた。. 何本か継ぎ足して、奥をつついてアシカを追い. 海草採り 竹島では海草採りもしていたが、その権利も もっていると言っていた。ねらいはおもに浅海. 出した。穴の入り口に網を張っておき、アシカ をその網に絡めてつかまえた。そんな感じの猟 だったと聞いている。. -11ー.
(12) 総合社会学部紀要第 3巻 第 2号. 写真 1 1 三度のトド塚. 写真 1 2 ト1 ' (アシカ)を解体した三度の海岸. アシカのことを「トド」と言って、「トドの. が、アシカの骨はまったく出なかった。以前と. 親方」とよばれる山西さんという人がいた。親 方はカンコ舟と漁具一式を所有しており、賃雇. は浜の地形が変わってしまい、潮に流されたも のと思われる。この調査は 2週間くらいつづい. いで漁師を雇ってはトド猟をしていた。たいそ. たと記憶している。 藤井弘章氏の報告 ( 2 0 1 1年)から. う儲かったらしく、お屋敷も建てたようだが、. 以下は、近畿大学民俗学研究所が発行する. 今ではその家もなく、一家は島にも住んでいな し ミ 。. 『民俗文化』に藤井弘章氏が寄稿した論文「聞 き書き 隠岐・竹島のアシカ猟 J 1 2 )からの引用. アシカの利用 アシカは肉の脂を搾ってランプの泊として使. である。これは、主として竹島におけるアシカ. い、毛皮は高値で取り引きしていた。搾りかす. 猟の様子を、丹念な聞き書きによって記録した. の肉は肥料として畑にまき、肉を食べることは. 貴重な資料である。三度においても聞き取りが. しなかった。. なされ、次のように報告されている。上述の筆. みたペ. アシカの解体は浜でして、骨などそこに捨て ていた(写真 1 2 )。その場所は村のゴミ捨て場. 者の聞き書きとは若干違っているが、そのまま 引用させていただく。. にもなっており、残飯なども捨てていた。 アシカ孤の終湾 村の漁師はアシカ以外の魚も獲ったが、カン. 今回の調査では、三度を訪れ、アシカ猟に関 する聞き取りをおこなった。しかし、実際にア. コ舟の時代には沖まで出ることは難ししそれ. シカを捕獲した経験者はすでにおらず、捕獲に. でアシカに頼ることが多かった。やがて動力船. ついては間接的な語りしか聞くことができな. ができ、沖へ出られるようになるとしだいに魚. かった。以下は、三度の小出重治氏(昭和二年. 獲りがきかんになって、アシカ識は衰退した。. 生まれ)からうかがった話である。. アシカの数が減ったことも原因と思う。 学術調査 平成 5年だったか、 6年だったか、鳥取大と 三度自然館合同のアシカ猟調査がおこなわれ た。当時 6 0代後半の人に聞き取りをおこない、 その内容をピデオにまとめて、町が全戸に配布 した。 また、骨捨て場の発掘調査もおこなわれた. -12ー. アシカのことはd 、さいころにもト. Fといっ. ていた。 トドは見たことはない。親は見たという。 親は捕ったかどうかは聞いていない。北に師 がある。聞の裏側の矢走(やはし)というと ころに、二六、七個、海岸に穴が聞いてい る。奥行きは深くはない。そこにト Fがおっ.
(13) 聞き書き. 竹島の記憶. 出子. 一ー守---,. 写真 1 3 奪取されてのちの竹島上陸(19 5 3年) 〔出所〕隠岐の島町教育委員会提供。. 写真 1 4 I 島風号」での竹島視察 ( 1 9 5 4年) 〔出所〕島根県提供。. たという。 網で捕ったらしい。入口に網を仕掛けて 捕ったという。時期は知らない。満ち潮にな ると、穴がふさがる。トモドという手漕ぎの 小さな船で出かけた。石を積んで、船を少し 沈めて穴へ入ったという o U 嶋後の竹島. 隠岐漁民が久しく漁をおこなってきた竹島 は、戦後、サンフランシスコ講和条約の発効 ( 1 9 5 2年 4月)を目前にした同年 1月、いわゆ る「李承晩ライン」の設定によって韓国に奪取 された(写真 1 3 )。韓国大統領によるこの宣言 以来、 1 9 6 5年(昭和 4 0年)の日韓基本条約の 締結までに、韓国軍はライン越境を理由に日本 漁船 3 2 8隻を拳晶し、日本人 4 4人を死傷(う , 9 2 9人を抑留した 13)。 ち 5人が死亡)させ、 3 その後、島は険しい地形であるにもかかわら ず、韓国はそこに基地を建設し、やがて軍隊を 駐留させるまでになっていく。 そうする中、ライン設定の初期段階にあっ て、海上保安庁の護衛のもとに竹島への渡航が おこなわれた(写真 1 4 ) 01 9 5 4 (昭和 2 9 )年 6 月のことである。そのときのことを、同行した 入幡昭三さんの父、才太郎さんが「竹島日 誌」凶として綴っているので、日誌からその様 子を引用させていただく。. -13ー. 其の後、竹島視察は昭和二十九年六月十二 日未明の事でした。 島根県監察船「島風号」が久見漁業組合に 来訪し、同船には島根県水産課次長がご乗船 しておられました。 これより竹島視察に行きたいので、若布刈 りの人夫と小舟の準備を依頼されたとの事 で、当時の組合長脇田敏氏が私の宅へ協議の 為来訪されました。私も同行するから組合長 も同道せられたしと申し入れました。 組合長も同行、一行十一名小舟六隻を「島 風号」に積載し、午前八時久見港を出航いた しました。 中には海上保安庁の「へくら号」が 五筒港f 待機していました。 「へくら」と連絡を終わり島前の別府港に 直行しました。 別府港には保安庁監視船「くずりゅう」他 一隻が待機して居りましたが、十二日は大風 の為一日延期して十三日夜、別府へ買い物に 上陸しました。 この時、別府港には保安庁の船が五隻停泊 して居りまして、村民の中には異様に感じる 人もあり警察署に問い合わせした人もあった 様でした。 そして十三日正午出航いたしました。 十四日未明には先導の船艦より無線で韓国 人は居ない、急いで航行せよとの連絡で全速 力で竹島に着きました。.
(14) 総合社会学部紀要第 3巻 第 2号. 人影は無かった。日本領土と大害した標柱 は破損せられ、朝鮮領土と書き換えられてあ りました。これを日本困島根県と書いてきた 次第です。 次に若布を採り、午前中収穫分を「島風」 に積載、午後一回若布を収穫いたしました。 そして午後三時より若布刈りは打ち切りまし た 。 自由時間で二組に分かれ一組は島の頂上に 登り、日露戦争当時の監視所を見に行き、カ モメの卵を数百個採りました。 別の一組は飽採り、これも多収穫で喜ぴ合 いました。飽は内地産と比べると肉は非常に 大きく、肉の目方は二倍もあります。美味で す 。 午後五時竹島を打ち切り帰省の途に着きま した。保安庁監視船困隻は支那方面に航行、 「おき号」は護衛して帰途に着きました。 十五日は、波風が強く久見に着きにくく五 箇村福浦港に入港し、翌十六日久見港に帰省 いたしました。. 9 5 4 (昭和 2 9 ) 年 6月であっ この竹島視察は 1 9 5 3年 2月以降、韓国軍による銃 た。前年の 1 撃や漁船の掌捕が頻発していたから、緊張感を ともなったものだったことがうかがえる。その 後、韓国は東島(女島)に警備隊の宿泊施設を 建設し、事実上の軍を常駐させている。このと きの視察が日本人が竹島に上陸した最後となっ てしまった。 V おわりに トンヘ. 現在、韓国は日本海を「東海」と名称変更さ せようとする運動をアメリカ合衆国を始め、世 界各国で展開しているが、この運動は竹島が自 国領だと主張する根拠とも密接につながってい ょう。すなわち、今日「日本海」が世界でそう よばれているのも、日本が「竹島」の領有を主 張するのも、韓国が主権をもたなかった日韓併. よる仕業であり、その歴史に通てを打ち込むのは 自国のもつ当然の権利であると。そもそも「独 島J(竹島の韓困名)が日本海にあったのでは、 自国領を主張するのに何かと具合が悪いのだ と 。 1 8 0 6年)ほか、あ しかし、「会桑竺屋歯 J( またの資料が示唆するように、竹島(旧松島) は近世以来実質的な日本の領土であった。隠岐 漁民が恒常的に操業をおこなうとともに、正式 な手続きによって、いち早い領有を宣言したの も日本であった。本稿でみた「竹島の記憶」 は、そのあり様、その歴史的事実を如実に誇っ ている。そうした既得権益が実力行使によって 奪取されたことに、はたして隠岐漁民はどれほ どの苦痛を味わってきただろうか。 また、韓国の東の海である日本海を「東海」 と呼称させようとすることは、ひとえに自己中 心的な発想に基づいているといえる。韓国に とって本来、黄海は「西海」、東シナ海は「南 海」であるにもかかわらず、ひとり日本海のみ を取り上げて「東海」と呼称することに強い恋 意を感じぎるをえない。言うまでもなく、日本 にとっての東の海は太平洋であり、その太平洋 を「東海」、反対の日本海を「西海」などとよ ぶことは感覚的にもありえないことである。 韓国の「東海」にもこれと同じことがいえ る。仮にも「朝鮮海」との主張であればまだし も、「東海」では我田引水のそしりを免れるこ とはできないであろう。 本稿は、日本の領土である竹島で隠岐漁民が いかに生計を立ててきたか、島とどうかかわり をもって生きてきたかを、聞き書きを中心に記 録しようとしたものである。とはいえ、調査が まったく不十分であり、ごく少数の話者から話 を聞けているにすぎない。もとより、今後の補 充調査が必要であるが、現時点で知りえた竹島 の記憶を文字にとどめることで、この記憶が少 しでも人々の日にふれ、後世に伝えられること を願っている。. 910-1945年、日韓議定 合時代(日韓併合は 1 書の締結が 1 9 0 4年)に引き起こされた日帝に. -14ー.
(15) 聞き書き. 竹島の記憶. 付肥 本稿の作成にあたっては、本文中に記した話. たのは、父の才太郎さん(明治 2 2年生まれ) であった。実際にそれを手がけたのは昭三さ. 者の方々にお礼申しあげます。ことに、八幡昭. んだったが、現在は息子の浩二さん(昭和. 三氏にはたびたびの取材に快く応じていただい. 2 9年生まれ)古切日工販売の跡を継いでいる。. たばかりでなく、数々の資料をご提供いただき. 余談になるが、 2 0 1 3年 9月、隠岐諸島は. ました。深く感謝いたします。また、島根県お. 「隠岐ジオパーク」として日本で 6番目とな. よび隠岐の島町教育委員会からは貴重な写真を. る「世界ジオパーク」に認定された。息子の. ど提:供いただきました。記してお礼申しあげま. 浩二さんはその戦略会議の会長として認定の. す 。. 取り付けに尽力したが、それへの思いは、大. なお、近議大学文芸学部の藤井弘章准教授に. 地の産物である黒曜石との深いかかわりが. は 、 2 0 1 0年 1 1月における八幡氏の黒曜石作業 場での聞き書きに際してご同行いただいた上、. あったろうと推測される。なお、「ジオパー ク」とは「大地の公園」と訳される世界遺産. 氏が独自に入手した資料類の提供を受けまし. の一種で、同年同月現在、世界 2 9か園 100 地域で認定されている。拙稿「隠岐の自然と. た。記して感謝いたします。. 生業J( r 民俗文化』、第 2 3号、近畿大学民俗 学研究所、 2011年 、 p p . 1 0 9 1 7 1 ) を参照。. 注. r. 1 ) 日本離島センター編集・発行 rSHIMADASUJ 2 0 0 7年 、 p . 6 1 4による。. 6 ) 現在の表記では「西島 J 東島」と「ノ」 の字を挿入していないが、かつての資料には ほとんどで挿入されている。そこで、話者か. r. らの聞き書きの中においては「西ノ島 J 東 ノ島」と、それ以外の一般的な記述の中にお. 2 ) 前掲1)は、「この島名の逆転現象などが. 後年の日韓問題にも影響を与えた J( p . 6 1 4 ) と述べ、韓国が自閏領の穆陵島と、本来日本 領であるはずの竹島を混同した結呆、「李承 晩ライン」が竹島を取り込んだ形で誤って引. r. いては「西島 J 東島」と表記することにす る 。 じきめ. 7 ) 和布とは、ワカメなど柔らかい海草類全般. かれる一因になったのではないかと示唆して いる。. 8 ) 厳密にはアシカでなく、「ニホンアシカ」. 3 ) 外務省は、竹島の歴史的経緯を解説したパ. のこと。ニホンアシカは日本沿岸・近海に生. をさす言葉。. ンフレットで、「りゃんこ島」という呼称を. 息したアシカの一種で、体型は一般のアシカ. 紹介し、それが洋名である「リアンクール」 のなまった俗称であると解説している。パン. よりも大きし俗に「トド」とよばれること もある。回遊性はなく、周年生息するとされ. フレット『竹島』外務省、 2 0 0 8年 、 p . 8,. る。現在では数が激減し、絶滅した可能性が. 4 ) 島根県は 2 0 0 5 (平成 1 7 ) 年、「竹島の日を 定める条例」を制定し、 2月 2 2日を「竹島 の日」とした。また、文部科学省は 2 0 1 4( 平 成2 6 ) 年 1月、中学校と高校の学習指導要. あるという。 9 ) カナギとは「かなぎ漁」を略した言葉で、. 小船に乗り、水中をメガネでのぞきながらヤ ス(長い柄の先端に、数本の尖った鉄製の突. 領解説書の改訂をおこない、竹島を「我が固. き刺し具が付けられている漁具)でサザエや. 固有の領土」と明記するよう全国の教育委員. アワピなどを突いて採る漁法のこと。カナギ. 会に通知した。 5 ) 入幡昭三さん宅の裏山から、ひづめのよう. 1 0 )久見の漁協が取得した竹島の地先権は、八. に簡単に割れることから地元では「馬蹄石」. 幡昭三さんの父、才太郎さんが久見漁協員お. とよぷ、黒曜石を産出する。それに細工をほ どこし、土産物にでもしてはどうかと着想し. よそ 3 0名の代表者となって取得したもので. は「金木」で、ヤスのことだと思われる。. -15ー. ある。何度も島根県庁に足を運び、昭和 4年.
(16) 総合社会学部紀要第 3巻 第 2号. 4月に交付された。才太郎さんは五箇村会議 員、久見区長、久見議協長ほかを歴任してお り、取りまとめ役として頼られていた。 1 0年ごとに必要な更新申請を、昭三さん も漁協長のときに一度経験したことがある。 更新はその後もずっと継続され、直近では 2 0 1 2年に最後の更新がおこなわれている。 その鑑札は現在、治協合併後の隠岐の島町西 郷漁協の金庫に保管されているという。 l l ) 隠岐の島町ふるさと教育副教材編集委員会 、隠岐の島町教育委員会、 編 『 ふるさと隠岐l 2 0 0 7年 、 1 3 1 p 。 1 2 ) 藤井弘章「聞き書き 隠岐・竹島のアシカ 猟」、『民俗文化』、第 2 3号、近畿大学民俗学 0 1 1年 、 p p . 2 4 5 . 2 6 9 0 研究所、 2 1 3 ) 韓国は 1 9 5 3年 1月、「李承晩ライン」内に 出漁した日本漁船の徹底掌捕を指示し、同年 2月 4日、船長が韓国軍から銃撃を受けて死 亡するという「第一大邦丸事件」が発生し た。なお、死傷者・抑留者等の数字の出典は ウイキベデイアの「竹島」の項による。 1 4 )I 竹島日誌」は才太郎さんが 7 0年あまりに わたって書きつづけた日誌の一部であり、隠 岐漁民が竹島で安心して操業ができるよう、 竹下畳官房長官(当時)に宛てた陳情書であ 0ページほどの資料 る 。 A 4判に換算して 2 2月、才太郎さんが 8 2歳の で、昭和 46年 1 8年 l月、昭三 ときまとめたものを、平成 1 さんが編集したものである。. -16ー.
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