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時宗総本山清浄光寺所蔵史料について

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Academic year: 2021

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〔駒沢女子大学   研究紀要   第二〇号   p一~一三 ・ 二〇一三〕 時宗総本山清浄光寺所蔵史料 に つ い て 遠   山   元   浩 *   皆   川   義   孝

About the Head temple Ji-sect Syoujoukou-ji Holding Historical Records. Motohiro TOOYAMA*     Yoshitaka MINAGAWA**

要約

  本 稿は、時宗総本山清浄光寺所蔵史料を新出中近世史料と共に概説的に紹介。史料群より室町幕府が発給した二点の過所を取り上げ、その分 析を通じて、関東拠点寺院としての清浄光寺が軸となり構築された、人とモノの交流史に対する可能性を論考する。なお本研究はJSPS科 研 費 2 5 3 7 0 8 0 1 基 盤 研 究( C )「 清 浄 光 寺 新 出 史 料 を 中 心 と し た 関 東 拠 点 寺 院 に お け る 中 近 世 移 行 期 交 流 史 の 基 礎 的 研 究 」 の 研 究 成 果 の 一部である。

*駒沢学園寺院資料研究センター主任専門調査員・遊行寺宝物館館長    * *人文学部 日本文化学科   清浄光寺所蔵新出中近世史料とその可能性

はじめに

  平 安 時 代 後 期、 浄 土 信 仰 は、 来 世 利 益 を 求 め る 人 々 に 受 け 入 れ ら れ 全 国 展 開 す る。 こ れ は 自 力 本 願 系 仏 教 に お け る 現 世 利 益 と 共 存 し 成 立 し て い る。 平 安 末 期 か ら 鎌 倉 時 代 に な る と 阿 弥 陀 仏 へ の 帰 依 と 共 に 専 修 念 仏 を 突 き 詰 め る こ と に よ っ て 民 衆 を 導 く 形 式 が 確 立 し、 浄 土 門 の 法 然 に よ る 浄 土 宗、 親 鸞 に よ る 浄 土 真 宗 が 誕 生 す る。 そ し て 浄 土 宗 西 山 派 の 祖、 証 空 門 下 の 聖 達 の 弟 子 と な る 一 遍( 注 1) が 誕 生。 そ の 念 仏 勧 進 の 姿 は 遊 行・ 賦 算・ 踊 り 念 仏 に 集 約 す る。 一 人 の 念 仏 行 者 と し て の 生 涯 は 兵 庫 観 音 堂( 現 在 の 兵 庫 県 神 戸 市 真 光 寺 ) に 於 い て 入 寂 す る が、 そ の 意 思 は 真 教( 注 2) に よ り 引 き 継 が れ、 念 仏 教 団 と し て 成

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立 さ せ る。 真 教 は 遊 行 の 後 に 相 模 国 当 麻 に 無 量 光 寺( 現 在 の 神 奈 川 県 相 模 原 市 ) を 嘉 元 二 年( 一 三 〇 四 ) に 建 立。 三 代 智 得( 注 3) へ と 遊 行 を 相 続 し た 後 に 独 住 す る。 智 得 か ら 四 代 呑 海( 注 4) へ の 遊 行 相 続 後 に 内 部 対 立 が 発 生、 呑 海 は 教 団 維 持 の 為 に 無 量 光 寺 の 一 時 的 な 切 り 離 し を 決 断。 実 兄、 俣 野 五 郎 景 平 が 治 め る 俣 野 荘 に 身 を 寄 せ、 正 中 二 年( 一 三 二 五 ) 景 平 の 帰 依 を も っ て 清 浄 光 院( 注 5) を 建 立 す る。 こ れ が、 現 在 に お け る 時 宗 総 本 山 清 浄 光 寺 の 始 ま り で あ る。 呑 海 以 降 の 歴 代 遊 行 上 人 は、 遊 行 相 続 し た 後 に 清 浄 光 寺 に 入 り 藤 沢 上 人 と な っ た。 そ の た め 清 浄 光 寺 は、 遊 行 上 人 の い る 寺「 遊 行 寺 」 と し て 親 し ま れ、 記 録 上 で も「 遊 行 寺 」 と し て 記 載 さ れ る 事 と な る。 清 浄 光 寺 に 残 る 記 録 に 関 し て は『 藤 澤 山 日 鑑 』 な ど 一 部 の 史 料 を 除 き、 現 代 に 至 る 迄 に 戦 火・ 火 災・ 天 災 な ど に 伴 い、 そ の 多 く が 消 失 し て い る と さ れ て き た。 し か し、 清 浄 光 寺 が 設 立 母 体 で あ る 遊 行 寺 宝 物 館 に お け る 近 年 の 調 査 に よ り、 予 想 以 上 の 史 料 が 残 存 し 伝 え ら れ て き た こ と が 判 明 し た。 こ の 度、 こ の 清 浄 光 寺 に 伝 わ る 史 料 を 元 に 平 成 二 十 五 年 度 科 学 研 究 費 助 成 事 業「 清 浄 光 寺 新 出 史 料 を 中 心 と し た 関 東 拠 点 寺 院 に お け る 中 近 世 移 行 期 交 流 史 の 基 礎 的 研 究 」( 平 成 二 十 五 年 度 ~ 平 成 二 十 七 年 度・ 基 盤 研 究 C ) を 獲 得 し 寺 院 史 料 を 用 い た 交 流 史 の 一 端 を 解 明 す る 事となった。

(1)   研究にあたっての基礎的情報

  東 海 道 の 古 刹 と し て 親 し ま れ 藤 沢 道 場 と 称 さ れ た、 神 奈 川 県 藤 沢 市 に あ る 時 宗 総 本 山 清 浄 光 寺 は、 正 中 二 年( 一 三 二 五 ) の 創 建 以 来、 約 七 百 年 の 歴 史 を も っ た 全 国 時 宗 教 団 の 中 心 で あ り、 関 東 に お け る 拠 点 寺 院 の 一 つ で あ る。 総 本 山 で あ る 清 浄 光 寺 の 住 職 は 時 宗 教 団 の 法 主 で あ り 統 率 者 で あ る。 そ の た め 清 浄 光 寺 に は 全 国 時 宗 寺 院 は も と よ り、 中 近 世 に お け る 武 家・ 公 家・ 寺 社 と の 交 流 を 示 し た 史 料 な ど が 保 管 さ れ て い る。 こ れ ら の 史 料 を 扱 う に あ た り、 押 さ え て お き た い 事 柄 が 幾 つ か あ る 為、 こ こ に 記 載 す る。 ま ず 基 礎 的 な こ と と な る が、 浄 土 門 で あ る 時 宗 の 本 尊 は 阿 弥 陀 仏 で あ る。 同 時 に 六 字 名 号( 南 無 阿 弥 陀 仏 ) そ の も の が 本 尊 で あ る と す る。 こ れ は 遊 行 の 精 神 と 行 体 を 主 と す る 時 宗 ら し い と こ ろ で も あ り、 旅 先 に お い て 本 尊 と な る 阿 弥 陀 仏 像 が 無 い 場 合 で も、 遊 行 上 人 が そ の 場 で 書 い た 名 号 を 本 尊 と し て 掲 げ ら れ る の で あ る。 そ し て 所 依 の 経 典 は 浄 土 三 部 経( 無 量 寿 経、 観 無 量 寿 経、 阿 弥陀経)であり、特に阿弥陀経を正所依とする。   次 に、 こ の「 時 宗 」 と い う 宗 門 名 称 で あ る。 こ の「 時 宗 」 と 表 記 し た 場 合 に は 近 世 以 降 の 教 団 を 表 現 す る 際 に 使 用 す べ き で あ る。 時 宗 は も と も と「 時 衆 」 と 表 記 さ れ て お り、 「 昼 夜 六 時 に 一 堂 に 会 し て、 阿 弥 陀 仏 を 拝 み、 西 方 往 生 を 願 う 僧 尼 集 団 の 構 成 者 た ち 」 の 事 を 指 し て い た。 後 に 一 遍 を 開 祖 と す る 遊 行 上 人 を 指 導 者 と 仰 ぐ 僧 尼 の 集 団「 時 衆 」 の 事 を 示 す よ う に な る。 な お「 時 衆 」 の「 時 」 と は、 六 時( 晨 朝、 日 中、 日 没、 初 夜、 中 夜、 後 夜 ) の「 時 」 の 事 で あ る。 「 衆 」 と は 和 合 衆 団 の 事。 語 源 は 善 導 著『 觀 經 玄 義 分 』 巻 第 一「 道 俗 時 衆 等   各 発 無上心   生死甚難厭   佛法復難欣」 この中の 「道俗時衆等」 が 「時衆」 の 語 源 と し て い る。 言 葉 と し て の「 時 宗 」 は、 徳 川 幕 府 が 行 っ た 仏 教 教 団 統 制 の 中 で 定 め ら れ た 名 称 で あ り、 時 衆 が 寛 永 十 年( 一 六 三 三 )

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幕 府 に 提 出 し た 末 寺 帳( 内 閣 文 庫・ 国 立 公 文 書 館 蔵 ) の 表 題 に、 『 時 宗   藤 沢 遊 行   末 寺 帳 』 と あ る。 こ れ が「 時 宗 」 と 表 記 さ れ た 最 古 の 記 録 と な る。 そ の 為、 中 世 に お け る 時 宗 を 表 す 場 合 に は「 時 衆 」 と す るべきである。

  次 に 遊 行 上 人 と 藤 沢 上 人 で あ る。 こ の 区 別 と 解 釈 が で き な け れ ば、 残 さ れ た 史 料 を 正 確 に 読 み 取 る 事 が で き な く な る。 教 団 内 に お け る 法 主 と は 遊 行 の 法 燈 相 続 者 の 事 で、 遊 行 上 人 と 言 う。 こ の 遊 行 の 法 燈 相 続 と は、 一 遍 を 始 祖 と す る 遊 行 の 精 神 と 行 体 を 相 続 す る こ と で あ り、 遊 行 上 人 と な れ ば、 諸 国 を 遊 行 し、 賦 算 を 行 い、 浄 土 信 仰 の 教 化 を お こ な う。 併 せ て 宗 門 と し て の 傳 宗 傳 戒 の 伝 燈 師 と し て 法 要 儀 式 を 執 行 す る( 『 宗 教 法 人「 時 宗 」 宗 制 並 宗 規 』) 。 そ し て 遊 行 行 為 を 次 世 代 に 相 続 し た 後 に 藤 沢 上 人 を 名 乗 り 独 住 す る。 真 教・ 智 得 ま で の 独 住 場 所 は 当 麻 山 無 量 光 寺 で あ っ た が、 呑 海 以 降 の 独 住 場 所 は 本 山 清 浄 光 寺 と な っ た。 な お、 遊 行 上 人 は 遷 化 し た 場 合 を 除 き、 遊 行 相 続 し た 後 に 藤 沢 上 人 と な り 独 住 を す る。 こ れ ら の 事 よ り、 独 住 し た 上 人 を「 藤 沢 上 人・ 住 山 の 本 主 」、 遊 行 相 続 し た 上 人 を「 遊 行 上 人・ 遊 行 の 本 主 」 と も 称 す る。 藤 沢 上 人 は 遊 行 上 人 で あ っ た こ と に よ り 上 位 と さ れ る。 ま た、 遊 行 相 続 の タ イ ミ ン グ や 諸 事 情 に よ り 遊 行 上 人 号 の み、 藤 沢 上 人 号 の み を 名 乗 っ た 上 人 も い る。 そ し て、 明 治 十 八 年( 一 八 八 五 ) 遊 行 六 十 代 藤 沢 四 十 三 世 一 真 以 降 は、 遊 行 上 人 と 藤 沢 上 人 を 同 時 に 相 続 す る形となる。

  以上のような注意点をふまえたうえで、 遊行上人のいる寺「遊行寺」 と し て の 清 浄 光 寺 を 精 査 す べ き で あ る。 遊 行 上 人 は、 各 地 の 武 家・ 公 家・ 寺 社 と の 交 流 を 行 い、 そ の 史 料 は 本 山 で あ る 清 浄 光 寺 に い る 藤 沢 上人の元に集約されてきたと考えられる。 しかし、 度重なる戦火 ・ 火災 ・ 天 災 な ど に よ り、 そ の 多 く は 失 わ れ、 現 存 す る 史 料 は 僅 か も の の み で あ る と さ れ て き た。 そ の 為『 藤 澤 山 日 鑑 』 な ど 一 部 史 料 の 目 録・ 翻 刻 に伴う考察以外は、対象とされる事は希であった。 (2)   交流によって形成されたもの

  清 浄 光 寺 の 歴 史 を 概 観 す る と、 古 東 海 道 沿 い の 拠 点 寺 院 と し て の 位 置 づ け と 共 に、 清 浄 光 寺 の 門 前 町 と し て 形 成 さ れ た 藤 沢 を 含 め た 交 通 や 文 化 の 要 衝 と し て 発 展 し た 事 が 分 か る。 そ こ で、 清 浄 光 寺 に 残 さ れ た 史 料 か ら 周 辺 地 域 と の 交 流 を う か が い 知 る こ と が で き る 事 象 を 幾 つ か上げてみることにする。

  応 永 二 十 三 年( 一 四 一 六 ) か ら 同 二 十 四 年 に か け て、 前 関 東 管 領 上 杉 氏 憲 と 鎌 倉 公 方 足 利 持 氏 の 対 立 に よ っ て 生 じ た 上 杉 禅 秀 の 乱 で は、 鎌 倉 公 方 足 利 持 氏 に 属 し た 上 杉 氏 定 が 禅 秀 方 に 敗 れ て 清 浄 光 寺 で 自 害 し、 禅 秀 方 の 部 将・ 岩 松 満 純 は 清 浄 光 寺 に 葬 ら れ た と さ れ る。 そ の 際、 遊 行 十 四 代 太 空 が 怨 親 平 等 碑( 国 指 定 史 跡『 藤 沢 敵 御 方 供 養 塔 』) を 建 立 し て い る。 こ れ は 戦 場 な ど で 死 ん だ 敵 味 方 の 死 者 の 霊 が 弔 わ れ な い ま ま に 放 置 さ れ た 事 を 憂 い、 念 仏 に よ っ て 救 済 し た 鎮 魂 行 為 で あ り、 恩 讐 を 越 え て 平 等 に 極 楽 往 生 さ せ る こ と を 目 的 と し て い る。 碑 文 に は 「 戦 火 で 落 命 し た 敵 味 方 の 人 畜 の 往 生 浄 土 を 祈 願 し、 碑 の 前 で 僧 俗 が 十 念 を 称 名 す べ し( 原 漢 文 )」 と あ る。 こ れ よ り、 疫 病 の 流 行 や 不 吉 な 事 件 を す べ て 政 治 抗 争 に 敗 れ て 世 を 去 っ た 者 の 怨 霊 の 祟 り を 畏 れ る

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御霊信仰的要素も入り込む。この事が後に 『小栗実記』 『小栗外伝』 『小 栗 判 官 照 手 姫 』 な ど の 舞 台 と し て の 清 浄 光 寺 へ と 繋 が る の で あ る。 こ れ ら「 お ぐ り 」 と は、 一 般 的 に は 浄 瑠 璃 や 説 経 節 な ど 物 語 の 題 材 で あ り、 清 浄 光 寺 塔 頭 寺 院 の 長 生 院 が 発 行 し た『 小 栗 略 縁 起 』 で は、 史 実 と し て の「 お ぐ り 」 が 今 に 伝 え ら れ て い る。 物 語 と し て の「 お ぐ り 」 に は 常 陸 国( 現 在 の 茨 城 県 ) の 判 官 小 栗 満 重( 又 は、 そ の 子、 助 重 ) と 相 模 国 藤 沢 宿 の 近 く の 豪 族 横 山 大 膳( 盗 賊 の 説 も ) の 家 に 故 あ っ て 身 を 寄 せ て い た 照 手 姫 の 二 人 が 中 心 と な る。 二 人 の 間 を 取 り 持 つ 人 物 と し て「 遊 行 上 人 」 が 登 場 す る。 物 語 中、 小 栗 満 重 は 地 獄 に 落 ち、 閻 魔 か ら 餓 鬼 阿 弥 と し て 遊 行 上 人 に 託 さ れ、 土 車 に 乗 り、 復 活 を と げ る 為 に 向 か っ た 場 所 が 熊 野 で あ っ た。 こ の 熊 野 は、 一 遍 が 熊 野 本 宮 証 誠 殿 の 前 に て、 熊 野 権 現 よ り 神 託 を う け 立 教 開 宗 し た 地 で も あ る。 中 世 に お い て も 時 衆 の 存 在 が 重 要 視 さ れ て い た 聖 地 で あ り、 現 在 に お い て も 熊 野 本 宮 と 清 浄 光 寺 の 繋 が り は 深 く 常 に 交 流 が 行 わ れ て い る。 こ れ が『 小 栗 実 記 』 に は 遊 行 十 四 代 太 空 の 慈 悲 に よ り 蘇 生 し、 熊 野 湯 ノ 峰 に て 湯 治 し 復 活 す る 内 容 が 書 か れ、 一 部 事 実 と は 異 な る が、 湯 ノ 峰 温 泉 が 一 遍 に よ っ て 開 か れ た と も さ れ て い る。 ま た 長 生 院 に は、 太 空 に 帰 依 し 長 生 尼 と 称 し た 照 手 姫 が、 小 栗 満 重 主 従 を 供 養 し た 伝 承 が あ り 「 照 手 姫 」 と「 満 重 お よ び 十 勇 士 」 の 墓 が 安 置 さ れ、 参 る 人 々 が 絶 え ない。 このように史実と物語が融合し、 それを人々の往来が広めていっ た事実が重要なのである。

  ま た 中 世 に 於 け る 清 浄 光 寺 は、 室 町 時 代 以 降、 鎌 倉 府 に よ り 鶴 岡 八 幡 宮 に 並 ぶ 寺 院 と し て 遇 さ れ て お り、 永 享 七 年( 一 四 三 五 ) に 足 利 持 氏 は 百 二 十 坪 の 仏 殿 を 清 浄 光 寺 に 造 営 し て い る。 室 町 幕 府 と の 化 側 割 は、 室 町 幕 府 四 代 将 軍 の 足 利 義 持 が 清 浄 光 寺( 藤 沢 道 場 ) お よ び 遊 行 金 光 寺( 七 条 道 場 ) の 時 衆 に よ る 遊 行 に 際 し て、 諸 国 関 所 の 関 銭 免 除 を 全 国 の 守 護 に 命 じ る 過 所 を 発 給 す る 等 厚 遇 を し て い る( 応 永 二 十 三 年 〈一四一六〉 四月三日および応永二十六年 〈一四一九〉 十月廿日 『足 利 義 持 御 教 書 』) 。 し か し 鎌 倉 公 方 の 古 河 移 転 後、 清 浄 光 寺 は 外 護 者 を 喪 失 し、 永 正 十 年( 一 五 一 三 ) 三 浦 義 同 と 伊 勢 宗 瑞 ( 後 の 北 条 早 雲 ) の 戦 火 を う け て、 ほ ぼ 全 焼 す る。 そ の 後、 慶 長 十 二 年( 一 六 〇 七 ) 遊 行 三 十 二 代 普 光 の 代 に い た る 迄 の 九 十 四 年 間、 清 浄 光 寺 は 堂 宇 を 再 建 す る こ と が で き ず、 遊 行 上 人 は 藤 沢 上 人 と し て 独 住 す る こ と が 叶 わ な か っ た。 こ の と き の 遊 行 上 人 は 二 十 二 代 意 楽 で あ り、 藤 沢 上 人 は 欠 位 す る 事 と な っ た。 そ の た め 本 来 清 浄 光 寺 に 独 住 す べ き 処、 永 正 十 一 年 ( 一 五 一 四 ) 江 州 上 坂 乗 台 寺 に 独 住 す る。 そ れ 以 降、 遊 行 二 十 四 代 不 外 は 豊 後 西 教 寺 で 独 住、 遊 行 二 十 五 代 仏 天 は 敦 賀 新 善 光 寺 で 独 住、 遊 行 三 十 代 有 三 は 敦 賀 西 方 寺 で 独 住、 遊 行 三 十 一 代 同 念 は 日 向 光 照 寺 で 独住、遊行三十二代普光は水戸神応寺で独住する事となった。   遊 行 三 十 二 代 普 光 は 駿 府 に て 徳 川 家 康 と 謁 見 後、 家 康 か ら の 寄 進 ( 天 正 十 九 年〈 一 五 九 一 〉 十 一 月『 徳 川 家 康 寺 領 寄 進 状 写 』) な ど も あ り、 堂 宇 が 復 活 し、 慶 長 十 二 年( 一 六 〇 七 ) 本 来 の 藤 沢 上 人 と し て 独 住 す る。 江 戸 期 に 於 い て は 落 ち 着 い た 清 浄 光 寺 と 思 わ れ た が、 火 災 に 悩 ま さ れ る。 ま ず 寛 文 元 年( 一 六 六 一 ) 四 月 に 本 堂、 客 殿、 庫 裏 を 焼 失 し て い る。 寛 文 四 年( 一 六 六 四 ) 六 月 に は 尾 張 前 大 納 言 光 友 が 木 曽 山 中 の 材 木 数 千 株 を 寄 進 し て、 天 和 元 年( 一 六 八 一 ) に 本 堂 の 落 慶 法

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要 を 営 ん で い る。 ま た 寛 政 六 年( 一 七 九 四 ) 一 月 に は 方 丈 一 宇 残 ら ず 焼失。同十一年 (一七九九) に再建された。さらに天保二年 (一八三一) 十二月には、藤沢宿茅場で発生した火災のため、仏殿 ・ 日供堂 ・ 惣門 ・ 仁 王 門 な ど を 除 き、 の こ り す べ て の 伽 藍 が 焼 失 し て お り、 そ の 後、 天 保 四 年( 一 八 三 三 ) よ り 十 年 に わ た っ て 再 建 さ れ て い る。 近 代 以 降 は、 明 治 十 三 年( 一 八 八 〇 ) 十 一 月 の 藤 沢 宿 の 大 火 に よ り、 中 雀 門・ 土 蔵 な ど 三 棟 を 除 く す べ て が 類 焼 し、 明 治 三 十 年( 一 八 九 七 ) に 入 っ て 再 建 さ れ た。 し か し 大 正 十 二 年( 一 九 二 三 ) 九 月 一 日 の 関 東 大 震 災 に よ り、 ほ と ん ど の 伽 藍 は 再 び 崩 壊 し て い る。 現 在 の 伽 藍 は 昭 和 十 二 年 (一九三七)に再建されたものである。

  度 重 な る 災 害 等 に よ り、 交 流 史 を 紐 解 く だ け の 史 料 は 無 い と さ れ て き た 清 浄 光 寺 で あ っ た が、 か ろ う じ て 残 っ た 裏 山 の 土 蔵 に は 近 世 文 書 を 中 心 と し た 史 料 群 が 残 さ れ て い た。 こ れ ら は 藤 沢 市 文 書 館 に よ る 概 要 調 査 と 共 に 目 録 が 作 成 さ れ た が、 そ の 内 容 は 表 題 の み の 目 録 で あ っ た。 ま た 翻 刻 ま で 到 っ た 例 と し て は、 藤 沢 市 文 書 館 が 編 纂 し た『 藤 沢 山 日 鑑 』( 現 在 二 十 八 巻 迄 刊 行 ) が あ る。 こ れ は 清 浄 光 寺 の 公 用 記 録 と し て 正 徳 二 年( 一 七 一 二 ) よ り 現 在 ま で 書 き 継 が れ て い る も の で あ り、 年 中 行 事・ 本 山 の 宗 務・ 末 寺 と の 交 渉・ 旅 先 の 遊 行 上 人 と の 連 絡 記 事 や 宿 場 町 藤 沢 の 動 向 ま で も が、 詳 細 に 記 述 さ れ て い る。 し か し、 そ れ 以 外 の 史 料 に 関 す る 調 査 は、 表 題 の 採 録 で あ り、 史 料 の 内 容 や 体 裁、 法 量 な ど の 詳 細 調 査 は 行 わ れ て い な い。 ま た 調 査 は ほ ぼ 文 献 史 料 の み に と ど ま っ て お り、 寺 院 の 活 動 を 豊 か に 伝 え る 絵 画・ 彫 刻・ 工 芸 などの史料との関わりについては、言及されていないのが現状である。 (3)   研究対象史料と方針

  近 年、 清 浄 光 寺 が 設 立 母 体 で あ る 遊 行 寺 宝 物 館 の 再 整 備 に よ り、 中 近 世 移 行 期 の 史 料 が 多 数 発 見 さ れ た。 こ れ ら 史 料 群 か ら、 関 連 す る 既 存 文 書 と の 比 較 研 究 が 迅 速 に 行 わ れ、 中 近 世 移 行 期 に お け る 関 東 拠 点 寺 院 が、 ど の よ う な 形 で 武 家・ 公 家 や 周 辺 寺 社 と 関 係 を 持 ち、 拠 点 と し て の 地 位 を 確 立 し て い っ た の か を 歴 史 的・ 仏 教 史 的 に 把 握 し、 そ の 交 流 史 を 紐 解 き、 点 と し て の 寺 院 に 人 物 が 重 な り 線 と な っ て 地 域 を 繋 い て ゆ く 基 礎 を 見 い だ す 試 み が、 こ の 度 開 始 さ れ た J S P S 科 研 費 2 5 3 7 0 8 0 1 基 盤 研 究( C )「 清 浄 光 寺 新 出 史 料 を 中 心 と し た 関 東 拠 点 寺 院 に お け る 中 近 世 移 行 期 交 流 史 の 基 礎 的 研 究 」 で あ る。 こ の 研 究 は 新 出 中 近 世 史 料 を 中 心 に、 原 本 調 査・ 整 理・ 翻 刻・ 公 開 を お こ な い、 中 近 世 移 行 期 に お け る 関 東 拠 点 寺 院 を 中 心 と し た 人・ モ ノ の 交 流史を解明する為の基礎的研究を目的としている。

  こ れ ま で の 清 浄 光 寺 に 関 す る 中 近 世 史 料 は、 一 九 七 〇 年 代 に 行 わ れ た 調 査 研 究 に よ り、 藤 沢 市 史 や 神 奈 川 県 史 な ど で 目 録 化 と 共 に 公 表 さ れ て き た。 こ の 結 果、 公 的 機 関 が 概 要 調 査 に 関 わ り 全 て を 確 認 で き、 概 ね 成 果 は 出 尽 く し た と 認 識 さ れ て い た。 こ れ は、 度 重 な る 清 浄 光 寺 焼 失 と い う 出 来 事 か ら「 清 浄 光 寺 は、 あ ま り 史 料 が 無 い 寺 」 と み な さ れ て き た こ と 等 が 理 由 と い え る。 以 上 の こ と か ら、 関 東 拠 点 寺 院 の 中 で も 本 山 格 の 寺 院 で あ り な が ら、 本 格 的 な 調 査 が 行 わ れ て い な か っ た と い え る。 今 回、 清 浄 光 寺 新 出 中 近 世 史 料 を 中 心 に 調 査・ 翻 刻 す る こ と は、 関 東 拠 点 寺 院 が 持 つ 人 お よ び モ ノ の 交 流 を 解 明 す る た め の 基 礎 データを構築する事でもある。ここでの「人」とは朝廷 ・ 公家 ・ 武家 ・

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僧 で あ り、 「 モ ノ 」 と は 贈 答 儀 礼・ 土 地・ 法 式 な ど、 物 質 的・ 精 神 的 な も の も 含 ま れ て い る。 そ こ に は 儀 礼 を 介 し て の 金 銭 授 受 な ど の「 交 流 」 が 生 ま れ る。 こ の 交 流 記 録 が 文 書 を 含 め た 史 料 群 と し て 現 在 に 伝 え ら れ た の で あ る。 こ れ ら の 史 料 を 元 に、 過 去 実 施 さ れ た 調 査 の 成 果 を 集 約 し、 比 較 検 討 で き る 環 境 を 整 え な け れ ば な ら な い。 そ こ で 確 認 で き て い る 中 近 世 史 料 の 詳 細 な 調 査 を 行 い、 同 時 に そ の 成 果 を も と に デ ー タ ベ ー ス 化 し、 比 較 検 討 で き る 土 台 を 作 成 す れ ば、 関 東 拠 点 寺 院 に 於 け る 交 流 史 を 解 明 す る 研 究 へ と つ な げ る こ と が で き る の で あ る。 中 近 世 移 行 期 に お け る 寺 を 中 心 と し た 人 的 交 流 は、 点 と し て の 寺 院 に 人 物 が 重 な り 線 と な っ て 地 域 を 繋 ぐ。 本 研 究 は、 拠 点 寺 院 が 構 築 し た、 人 と モ ノ の 交 流 を 解 明 す る た め の 基 礎 を 見 い だ す 事 が で き、 拠 点 寺 院 であるからこそ行える交流の意義を明らかにする事ができる。

  そ こ で 本 研 究 の 研 究 対 象 と な る 清 浄 光 寺 新 出 中 近 世 史 料 と 関 連 史 料 で あ る。 清 浄 光 寺 中 世 史 料 は 先 行 研 究 の 報 告 例 と し て『 改 訂 新 編 相 州古文書 第五巻』 (一九七〇) 、藤沢市発行『藤沢市史 第一巻 資料編』 ( 同 年 )、 『 神 奈 川 県 史 資 料 編 3 古 代・ 中 世( 3 上 )』 ( 一 九 七 五 ) の 中 に 写 真 と 共 に 翻 刻 紹 介 さ れ て い る。 ま た、 こ れ ら を 元 に し て 高 野 修 氏 が『 時 宗 中 世 文 書 資 料 集 』( 一 九 七 八 ) を 編 纂 し て い る。 こ の 段 階 で 清 浄 光 寺 が 保 持 し て き た 中 世 文 書 は 概 ね 解 明 さ れ た と さ れ、 そ の 後 は 本 格 的 な 調 査 が 入 る こ と は な か っ た。 こ の 事 が、 今 日 の 清 浄 光 寺 中 近 世 史 料 の 研 究 を 停 滞 さ せ て い た 原 因 と な っ て い る。 ま た、 市 史 や 県 史 に 翻 刻 さ れ た 清 浄 光 寺 中 世 史 料 は、 す べ て 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 所 蔵 の 影 写 本 を 底 本 に 編 纂 さ れ、 掲 載 さ れ て い る 史 料 写 真 も 影 写 本 の 画 像 で あ っ た。 そ の 為、 原 本 は 失 わ れ 影 写 本 が 唯 一 の よ う な 扱 い を さ れ て い た の で あ る。 だ か ら こ そ 内 容 の 信 憑 性 に 関 し て は 疑 問 視 さ れ て い た 点もあった。   今 回 研 究 対 象 と な る 中 近 世 史 料 の 中 に は、 先 に 記 載 し た 疑 問 点 を 払 拭 す る 多 く の 原 本 が 確 認 で き た。 こ れ ら は 天 皇 や 公 家・ 将 軍 を は じ め と す る 武 家・ 各 地 の 寺 社 と の 交 流 に 関 す る も の で あ り、 清 浄 光 寺 が 拠 点 寺 院 で あ っ た こ と を 物 語 る 史 料 群 で あ る。 こ こ で 先 行 研 究 と 比 較 対 象 と な り 得 る 史 料 や 新 出 史 料 の 一 部 を 列 記 し て お く。 な お 史 料 名 は 清 浄光寺の史料リストによる。    史   料   名    年   月   日

  時阿土地売券 応安五年八月十六日(一三七二)

  足利義持御教書 応永二十三年四月三日(一四一六)

  足利義持御教書 応永二十六年十月二十日(一四一九)

  足利持氏書状 三月十日(室町時代)

  畠山ト山書状 二月二十九日(室町時代)

  足利義澄御内書 四月二十七日(室町時代)

  足利義澄御内書 五月十四日(室町時代)

  三浦義綱書状 五月十日(室町時代)

  武田信虎書状 十二月五日(室町時代)

  大内義隆書状 九月二十八日(室町時代)

  今川義元書状 十二月十三日(室町時代)

  武田信玄判物 元亀二年七月十六日(一五七一)

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  足利義昭御内書 五月十七日(室町時代)

  足利義昭御内書 六月二日(室町時代)

  足利義昭御内書 七月十九日(室町時代)

  佐竹義重判物 九月三日(室町時代)

  佐竹義久判物 一月八日(室町時代)

  柳原資定書状 八月四日(天文十三年 ・一五四四)

  徳川家康寺領寄進状写 天正十九年十一月日(一五九一)

  伝馬朱印状 寛永十八年八月二日(一六四一)

  伝馬朱印状 慶長十八年丑三月十一日(一六一三)

  南門上人和歌 貞享四年(一六八七)

  宇賀神再建書状 寛政十二年二月二十四日(一八〇〇)

  霊元天皇宣旨 寛文十二年八月十日(一六七二)

  後水尾天皇宣旨 寛永六年八月廿三日(一六二九)

  後水尾天皇宣旨 寛永六年八月廿三日(一六二九)

  正親町天皇宣旨 天正十四年四月五日(一五八六)

  正親町天皇宣旨 天正七年九月十二日(一五七九)

  後奈良天皇宣旨 天文六年十月二日(一五三七)

  後柏原天皇宣旨 大永二年九月十四日(一五二二)

  後柏原天皇宣旨 永正十年三月四日(一五一三)

  後土御門天皇宣旨 明応六年六月七日(一四九七)

  後土御門天皇宣旨 文明十六年十月七日(一四八四)

  後土御門天皇宣旨 応仁元年五月廿日(一四六七)

  後小松天皇宣旨 応永十九年四月七日(一四一二)   長慶天皇宣旨 康暦二年二月十一日(一三八〇)

    こ れ ら 以 外 に も 女 房 奉 書 な ど を 含 む 多 数 の 史 料 が あ る。 そ の 中 に は、 清 浄 光 寺 所 蔵 史 料 と 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 所 蔵 の 影 写 本 と の 相 違 点 も 確 認 さ れ る。 こ の 事 は 清 浄 光 寺 所 蔵 史 料・ 影 写 本 以 外 の 存 在 を も 想 像 さ せ る 発 見 と な っ た。 こ こ に 記 載 し て い な い 新 出 史 料 等 は、 今 後 随 時 公 表してゆく予定である。

おわりに

  清 浄 光 寺 所 蔵 の 中 近 世 史 料 は、 再 調 査 に よ っ て 一 万 件 近 い 中 近 世 文 書 な ど が 残 さ れ て い る 事 が 確 認 で き た。 清 浄 光 寺 に 関 わ っ た 人 と モ ノ の 交 流 に、 新 し い 見 解 を 見 い だ せ る だ け の 貴 重 な 史 料 群 で あ る 事 は 間 違 い な く、 過 去 の 調 査 報 告 書 を 含 め て 新 出 中 近 世 史 料 を 調 査・ 整 理・ 翻 刻 す る こ と は、 今 後 の 時 宗 研 究 お よ び 寺 院 交 流 史 研 究 に 於 け る 重 要 な 基 盤 と な る と い っ て も 過 言 で は な い。 比 較 精 査 が 進 め ば、 先 行 研 究 の 狭 間 を 埋 め る こ と が で き、 多 角 的 な 内 容 分 析 を 行 な う 環 境 が 整 う の で あ る。 本 研 究 は 中 近 世 移 行 期 に お け る 関 東 拠 点 寺 院 の 交 流 史 を 紐 解 く 為 の 基 礎 を 構 築 す る も の で あ り、 そ の 成 果 は 出 版 な ど し か る べ き 方 法 で 公 表 す る こ と を 目 標 に す る。 こ れ が 本 研 究 の 主 た る 対 象 で あ る 清 浄 光 寺 新 出 中 近 世 史 料 お よ び 関 連 史 料 の 調 査・ 整 理・ 翻 刻 の 成 果 を 世 に 示 す 事 の 意 義 で あ る。 本 研 究 に よ っ て 得 ら れ る 成 果 と し て は、 史 料 本 文 や 宛 所 と し て 登 場 す る 武 家・ 公 家・ 寺 社 な ど の 人 物・ 組 織 を 軸 に、 点 と し て の 寺 院 に 人 物 が 重 な り 線 と な っ て 地 域 を 繋 ぐ。 関 東 拠 点 寺 院

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の 一 つ で あ る 清 浄 光 寺 が、 中 近 世 移 行 期 に お い て ど の よ う な 人 物 と 交 流 し て い っ た の か を 解 明 す る 手 が か り と な り 得 る。 そ し て 詳 細 な 分 析 が 行 わ れ る こ と に よ り、 関 東 拠 点 寺 院 と し て の 清 浄 光 寺 に お け る 交 流 史を解明する事ができる。 (遠山)

  室町幕府と時衆   こ こ で は、 清 浄 光 寺 所 蔵 の 新 出 中 世 史 料 の 中 で、 室 町 幕 府 と 時 衆 の 交流を考える上で重要な史料について、紹介しておきたい。

  今 回 紹 介 す る 史 料 は、 応 永 二 十 三 年( 一 四 一 六 ) 四 月 三 日・ 応 永 二 十 六 年( 一 四 一 九 ) 十 月 二 十 日『 足 利 義 持 御 教 書 』 で あ る。 こ の 二 点 は、 既 に『 改 訂 新 編 相 州 古 文 書 第 五 巻 』( 一 九 七 〇 )、 『 藤 沢 市 史 第一巻 資料編』 (一九七〇) 、『神奈川県史 資料編3 古代 ・ 中世 (3上) 』 ( 一 九 五 七 )、 『 時 宗 中 世 文 書 史 料 集 』( 一 九 七 八 ) な ど で 紹 介 さ れ て い るが、全て東京大学史料編纂所所蔵の影写本が底本となっている。

  清 浄 光 寺 に は、 こ の 二 点 の 案 文 が 伝 来 し、 原 本 が 確 認 さ れ て い な い。 ま た、 原 本 が 確 認 さ れ な い 理 由 は 関 連 史 料 も な く 詳 細 な こ と は 分 か ら な い が、 こ れ ま で の 清 浄 光 寺 の 火 災 な ど に よ り、 失 わ れ て し ま っ た 可 能性が高いと思われる。

  こ の 二 点 は、 室 町 幕 府 四 代 将 軍 の 足 利 義 持 の 意 を 奉 じ て、 管 領 細 川 満元が発給した過所であり、両者とも『室町将軍家御教書案』とした。

  応永二十三年のものには宛所はないが、 応永二十六年のものには 「当 寺 」 と し て 宛 所 が 出 て く る。 こ の「 当 寺 」 と は 清 浄 光 寺 の こ と を 指 し ていよう。   次 に、 過 所 と は 諸 国 に あ っ た 関 所 通 行 に 際 し、 関 銭 等 の 免 除 を す る 関所通行許可証である。過所は、 至徳 (一三八四 ~ 七) ・ 明徳 (一三九〇 ~ 九 四 ) 年 間 以 降、 室 町 幕 府 の 将 軍、 管 領、 あ る い は 奉 行 人 に よ っ て 発 給 さ れ た。 こ の 過 所 発 給 権 は、 幕 府 の 将 軍 に 帰 属 す る 重 要 な 権 限 の 一 つ で あ っ た。 建 武 四 年( 一 三 三 七 ) か ら 文 正 元 年( 一 四 六 六 ) ま で に 室 町 幕 府 が 発 給 し た 過 所 の 宛 所 と し て 登 場 す る 寺 社 は、 京 都 の 離 宮 八 幡 宮、 鴨 社、 臨 川 寺、 南 禅 寺、 東 福 寺、 天 龍 寺、 近 江 の 園 城 寺、 奈 良 の 興 福 寺、 東 大 寺 で あ り、 関 東 の 寺 社 と し て は 清 浄 光 寺 が 唯 一 で あ る( 注 7) 。 こ の 点 は、 清 浄 光 寺 が 室 町 幕 府 か ら 厚 遇 さ れ て い た 寺 院 であったことをよく示している。   で は、 清 浄 光 寺 で 所 蔵 す る 二 点 に つ い て、 そ れ ぞ れ の 史 料 本 文、 読 み 下 し、 史 料 写 真 等 を 紹 介 し て お く。 な お 史 料 翻 刻 に あ た り、 文 字 は すべて新字体に改めたことをお断りしておく。

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史料一   応永二十三年四月三日付

  『室町将軍家御教書案』

清浄光寺

藤沢道場

・ 遊行金

光寺

七条道場

時衆人夫・馬・輿已下、諸国上下向 事、関々渡以押手・判形、無其煩 可勘過之旨、所被仰付国々守護 人也、若違犯之在所者、就注進 可処罪科之由被仰下也、 仍執達如件   応永廿三年四月三日   沙

弥在判 御教書案文   奉行斎藤加

賀守印判

【読み下し】      清浄光寺藤沢道場・遊行金光寺七条道場の時衆の人夫・馬・輿已下、

  諸国上下向の事、関々の渡、押手・判形を以って、その煩いなく、

  勘過すべきの旨、国々の守護人に仰せ付けらるる所なり。もし違犯   の在所は、注進に就いて罪科に処すべきの由、仰せ下さるるなり。

  よって執達件の如し。

 

応永二十三年(一四一六)四月三日 『室町将軍家御教書案』

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史料二   応永二十六年十月二十日付

  『室町将軍家御教書案』

清浄光寺

藤沢道場

・ 遊行金光寺

七条道場

幷諸末寺時衆往反人夫・輿・ 馬・雑駄以下、上下向事、諸国 関々渡以印・判形、無其煩之処、 於三井寺関所、動及異儀之条 太招其咎歟、猶以令違犯者、可処 罪科之由重所被仰下也、仍下知 如件   応永廿六年十月廿日   沙

(管領細川満元)

在判

  当寺

【読み下し】

  清浄光寺藤沢道場・遊行金光寺七条道場ならびに諸末寺の時衆の往   反の人夫・輿・馬・雑駄以下の上下向の事、諸国関々渡、印・判形   を以って、その煩いなきの処、なお三井寺の関所に於いて、ややも   すれば異儀に及ぶの条、はなはだその咎を招くか。なおもって違犯   せしめば、罪科に処すべきの由、かさねて仰せ下さるるところなり。

  よって下知件の如し。

応永二十六年(一四一九)十月二十日 『室町将軍家御教書案』

(11)

  史 料 一 の 発 給 者 の 細 川 満 元 は、 応 永 十 九 年( 一 四 一 二 ) 三 月 十 六 日 か ら 同 二 十 八 年( 一 四 二 一 ) 七 月 二 十 九 日 ま で 管 領 職 に あ り、 と き に 入 道 し て 道 観 と い っ た。 本 史 料 の 差 出 に「 沙 弥 」 と あ る こ と か ら、 細 川満元が道観といっていたときのものと考えられる。

  史 料 一 の 内 容 は、 管 領 細 川 満 元 が 将 軍 義 持 の 意 を 奉 じ て、 清 浄 光 寺 ( 藤 沢 道 場 )、 京 都 の 金 光 寺( 七 条 道 場 ) の 時 衆 の 人 夫・ 馬・ 輿 な ど が、 諸 国 関 所 の 関 銭 免 除 な ど を 諸 国 の 守 護 に 命 じ た も の で あ る。 ま た、 発 給 年 月 日 の 次 の 行 に「 御 教 書 案 文 」 と あ る。 こ の 文 言 は、 史 料 一 が 作 成 さ れ た 当 時、 清 浄 光 寺 や 七 条 金 光 寺 に お い て、 史 料 一 が 将 軍 足 利 義 持 か ら 発 給 さ れ た 御 教 書 の 案 文 と し て 機 能 し て い た こ と が 考 え ら れ る。 このため、 史料一の史料名を写ではなく、 『室町将軍家教書案』とした。

  こ の 時 の 藤 沢 上 人 は 七 代 尊 明 で あ っ た。 尊 明 は 京 都 の 七 条 金 光 寺 七 世 を 経 て、 応 永 八 年( 一 四 〇 一 ) 一 月 十 四 日 藤 沢 道 場 で 遊 行 上 人 を 相 続 し、 賦 算・ 遊 行 す る こ と 十 二 年 に 及 ん だ。 室 町 幕 府 三 代 将 軍 義 満 夫 人 や 四 代 将 軍 義 持 か ら 帰 依 を 受 け、 長 く 京 都 の 七 条 道 場 に と ど ま っ た。 こ の 後、 応 永 十 九 年( 一 四 一 二 ) 三 月 に 遊 行 十 一 代 藤 沢 六 世 自 空 の 入 寂 に 伴 い、 尊 明 は 清 浄 光 寺 に 入 り、 遊 行 十 四 代 太 空 に 遊 行 相 続 し 藤 沢 上 人 と な っ た。 そ の 後、 鎌 倉 公 方 の 足 利 持 氏 の 帰 依 を 受 け た。 応 永 二 十 四 年( 一 四 一 七 ) 四 月 十 日、 清 浄 光 寺 で 入 寂 し た。 す な わ ち、 尊 明 は 史 料 一 の 過 所 の 発 給 の 主 体 で あ る 足 利 義 持 と 親 密 な 関 係 に あ っ た といえる。 この点は、 史料一が発給される上で重要な人間関係といえる。

  次 に、 「 遊 行 金 光 寺 七 条 道 場 」 で あ る。 金 光 寺 は、 京 都 七 条 河 原 口 塩 小 路 に あ っ た。 正 安 三 年( 一 三 〇 一 )、 遊 行 二 代 真 教( 一 二 三 七 ~ 一 三 一 九 ) が 弟 子 の 呑 海( 後 の 遊 行 四 代 ) に 命 じ て 仏 師 康 弁 法 橋 の 喜 捨 し た 京 都 七 条 河 原 口 の 邸 宅 に 金 光 寺 を 建 立 し た と い う。 史 料 一 の 当 時、 金 光 寺 は 遊 行 上 人 が 住 職 の 寺 で あ る た め、 遊 行 金 光 寺 と 併 記 さ れ て い た。 こ の 時 の 遊 行 上 人 は、 十 四 代 の 太 空 で あ っ た。 太 空 は、 応 永 十 九 年( 一 四 一 二 ) 三 月 二 十 六 日 に 七 条 道 場 で 遊 行 相 続 し、 応 永 二 十 四 年( 一 四 一 七 ) の 遊 行 十 三 代 藤 沢 七 世 尊 明 の 死 去 に と も な い、 藤 沢 上 人 と な っ た。 す な わ ち、 「 遊 行 金 光 寺 七 条 道 場 」 と は 遊 行 十 四 代太空を指していよう。   最 後 に 史 料 一 で 確 認 し て お き た い の が、 最 後 に 記 さ れ た「 奉 行 斎 藤 加賀守印判」の部分である。斎藤加賀守とは、 応永十七年(一四一〇) か ら 応 永 二 十 九 年( 一 四 二 二 ) ま で 室 町 幕 府 の 奉 行 人 で あ っ た 斎 藤 基 喜 で あ る。 斎 藤 基 喜 は、 応 永 二 十 五 年( 一 四 一 八 ) 六 月 二 十 日 に 興 福 寺 に 対 し て、 同 寺 塔 婆 材 木 の 運 搬 に 関 す る 過 所 を 下 知 状 形 式 で 発 給 し て い る( 注 8) 。 こ の 点 か ら す れ ば、 史 料 一 と と も に、 清 浄 光 寺 宛 の 奉 行 人 の 斎 藤 基 喜 か ら 発 給 さ れ た 過 書 が あ っ た こ と が 想 像 さ れ る。 こ の点については、今後の課題としておきたい。   史 料 二 で あ る が、 応 永 二 十 六 年( 一 四 一 九 ) 十 月 二 十 日 付 け で、 将 軍 足 利 義 持 の 意 を 奉 じ て、 管 領 細 川 満 元 が 発 給 し た 過 所 で あ る。 「 沙 弥」 とあるのは、 管領細川満元のことである。こちらも史料一と同様に、 足 利 義 持 か ら 発 給 さ れ た 御 教 書 の 案 文 と し て 機 能 し て い た と 考 え ら れ る。したがって、史料二の史料名も、 『室町将軍家御教書案』とした。

  史 料 二 の 内 容 は、 清 浄 光 寺( 藤 沢 道 場 )、 遊 行 金 光 寺( 七 条 道 場 )、 全 国 の 末 寺 の 時 衆 の 人 夫・ 輿・ 馬 等 が、 三 井 寺 の 関 所 に お い て 不 都 合

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が あ っ た た め、 そ れ を 止 め る よ う 命 じ た も の で あ る。 三 井 寺 は、 現 在 の 滋 賀 県 に あ る 天 台 宗 寺 門 派 の 本 山 で あ る。 史 料 二 は 史 料 一 か ら 三 年 後 に 発 給 さ れ た も の で あ る が、 史 料 一 が 発 給 さ れ た 後、 三 井 寺 の 関 所 に お い て、 関 銭 免 除 な ど に 於 い て 不 都 合 が あ っ た と い え る。 そ の よ う な 事 情 が あ り、 清 浄 光 寺 側 か ら 申 請 が あ り、 史 料 二 が 発 給 さ れ た も の と 考 え ら れ る。 こ の 時 の 藤 沢 上 人 は 遊 行 十 四 代 藤 沢 八 世 太 空 で、 遊 行 上人は遊行十五代尊恵である。

  清 浄 光 寺 に は、 現 存 し な い が、 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 所 蔵 の 影 写 本 に は、 も う 一 点、 永 享 八 年( 一 四 三 六 ) 十 二 月 五 日『 室 町 幕 府 管 領 細 川 持 之 奉 書 写 』( 史 料 名 は『 神 奈 川 県 史 資 料 編 3 古 代・ 中 世( 3 上 )』 に よ っ た。 先 の 史 料 一 ・ 二 の 史 料 名 に 準 じ れ ば『 室 町 将 軍 家 御 教 書 写 』 と な る。 ) の 過 所 が あ る。 こ の 過 所 は、 八 代 将 軍 の 足 利 義 教 の 意 を 奉 じ て、 管 領 細 川 持 之 に よ り 発 給 さ れ て い る。 当 時 の 藤 沢 上 人 は 遊 行 十 四 代 藤 沢 八 世 太 空 で、 遊 行 上 人 は 遊 行 十 六 代 藤 沢 九 代 南 要 で あ っ た。 こ の 過 所 は 原 本 な ど は 確 認 さ れ て い な い が、 史 料 一 ・ 二 と と も に、 清 浄 光 寺 と 室 町 幕 府 と の 交 流 の 歴 史、 さ ら に 過 所 に 基 づ き 行 わ れ た 時 衆 と 各 地 の 人・ モ ノ と の 交 流 の 歴 史 を ひ も 解 く 重 要 な 史 料 で あ る。 今 回、 清 浄 光 寺 で 所 蔵 す る 二 点 の 過 所 を 中 心 に 解 説 し て き た が、 今 後 他 の 史 料も含め、総合的に分析を進めていきたいと思う。 (皆川) 注 1   一 遍   延 応 元 年( 一 二 三 九 ) ~ 正 応 二 年( 一 二 八 九 ) 伊 予 国 豪 族 河 野 通

信の五男である道広の二男として生まれる。諱は智真、 幼名を松寿丸という。 宝 治 二 年( 一 二 四 八 ) 十 歳 に て 出 家、 随 縁 と 改 め る。 建 長 三 年( 一 二 五 一 ) 太 宰 府 に て、 法 然 門 下、 浄 土 宗 西 山 派 の 祖、 証 空 の 弟 子、 聖 達 お よ び 肥 前 清 水 寺 の 華 台 の 下 で 十 二 年 間 浄 土 教 を 学 ぶ。 正 応 二 年 八 月 二 十 三 日、 兵 庫 観音堂(現在の神戸真光寺)にて入寂。 注 2   二 祖 他 阿 真 教   嘉 禎 三 年( 一 二 三 七 ) ~ 文 保 三 年( 一 三 一 九 ) 京 都 の 人 と さ れ る。 建 治 三 年( 一 一 七 七 ) 一 遍 九 州 修 行 の 際、 大 友 兵 庫 頭 頼 泰 の 元 に 滞 在 中、 一 遍 と の 一 夜 の 法 談 に よ り 感 動、 た だ ち に 一 遍 の 同 行 相 親( 同 じ く 行 を す る 者 ) と な る。 そ の 際 真 教 に 対 し て 命 名 し た 阿 号 が「 他 阿 弥 陀 仏 」 で あ る。 こ れ は「 自 も 阿 弥 陀 仏、 他 も 阿 弥 陀 仏 」 し た 事 か ら で あ る。 一 遍 の 死 後、 法 燈 を 継 ぎ、 全 国 を 遊 行 し つ つ 時 衆 教 団 を 形 成。 兵 庫 真 光 寺 を 大 道場とし、 京都 ( 下京区) に金光寺 (七条道場) を建立。嘉元元年 (一三〇三) 無量光寺 (当麻道場) を建立。なお 「他阿」 とは 「他阿弥陀仏」 のことであり、 『他阿上人法語』 に 「知識のくらゐになりては、 衆生の呼ぶところの名なれば、 自 今 巳 後 は 量 阿 弥 陀 仏 を 捨 て、 他 阿 弥 陀 仏 と 号 せ ら る べ し、 こ の 名 は 一 代 の み な ら ず、 代 々 み な 遊 行 か た に う け つ ぐ べ き な り 」 と あ り、 真 教 以 降 の 遊行上人はすべて「他阿」を名乗っている。 注3   遊行三代智得   弘長元年 (一二六一) ~ 元応二年 (一三二〇) 量阿。中上人。 加賀堅田で出生。嘉元二年(一三〇四)一月十日真教より法燈相続。 注 4   遊 行 四 代 呑 海   文 永 二 年( 一 二 六 五 ) ~ 嘉 暦 二 年( 一 三 二 七 ) 相 模 国 俣 野 庄 地 頭、 俣 野 五 郎 景 平 の 弟。 有 阿 弥 陀 仏。 正 安 三 年( 一 三 〇 一 ) 京 都 七 条 道場金光寺創建開山 (七条仏所より定朝の邸跡を寄進) 文保三年 (一三一九) 四 月 六 日 因 幡 国( 鳥 取 ) 味 野 西 光 寺 に て 智 得 よ り 法 燈 相 続。 遊 行 廻 国 中 に 三 代 智 得 が 入 寂。 そ の 時、 智 得 の 側 近 に あ っ た 内 阿 真 光 が 智 得 の 遺 言 で あ る と 称 し て 自 ら 遊 行 上 人 で あ る と し て 他 阿 を 名 乗 り 対 抗 し た。 そ の 為、 呑 海は無量光寺に入ることができず、清浄光寺を建立する事となる。 注5   延文元年 (一三五六) 銘のある清浄光寺梵鐘 (神奈川県指定重要文化財) に「清

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浄 光 院 」 と あ り、 ま た 清 浄 光 寺 本 堂 に は 後 光 厳 天 皇 に よ る「 清 浄 光 寺 」 の 勅額がある。この事から、 延文元年から後光厳天皇の没年である建徳二年

/

応 安 四 年 三 月 二 十 三 日( 一 三 七 一 ) ま で の 十 五 年 間 に 寺 号 が 付 け ら れ た と 推測できる。 注 6   遊 行 十 四 代 藤 沢 八 世 太 空   永 和 元 年( 一 三 七 五 ) ~ 永 享 十 一 年( 一 四 三 九 ) 駿 河( 静 岡 ) 足 洗 氏 よ り 出 る。 応 永 十 九 年( 一 四 一 二 ) 三 月 二 六 日 金 光 寺 (七条道場) にて尊明より法燈相続。応永二十五年 (一四一八) 十月六日 『敵 御方供養塔建立』 注 7   小 林 保 夫「 四 南 北 朝・ 室 町 期 の 過 所 発 給 に つ い て ー 室 町 幕 府 職 制 史 の 基 礎 的考察ー」 (『日本古文書学論集 8 中世Ⅳ』吉川弘文館、一九八七年) 注 8   応 永 二 十 五 年( 一 四 一 八 ) 六 月 二 十 日 付『 室 町 幕 府 下 知 状 』( 『 尼 崎 市 史 第 四巻』 、一九七三年)

参考文献   『遊行系図』原本

江戸時代 清浄光寺蔵

  『予章記』原本

室町時代 清浄光寺蔵

  『小栗実記』

『小栗外伝』 『小栗判官照手姫』 『小栗略縁起』共に江戸期版本

  『定本時宗宗典』上下

時宗開宗七百年記念宗典編集委員会編 時宗宗務所発行

  『時宗辞典』時宗宗務所教学部(一九八九)

  『時宗入門』時宗宗務所発行(一九九七)

  『改訂新編

相州古文書 第五巻』 (一九七〇)

  『藤沢市史

第一巻 資料編』藤沢市発行(一九七〇)

  『神奈川県史

資料編3 古代・中世(3上) 』神奈川県発行

  (一九七五)

  『藤沢山日鑑』全二十八巻

藤沢市文書館編

  『遊行・藤沢歴代上人史』祢宜田修然・高野修   『時宗中世文書資料集』高野修編   『時宗近世史料集』第一

~ 第三   高野修編

  『宗教法人「時宗」宗制並宗規』時宗宗務所編   『遊行寺』遠山元浩・高野修著

  遊行寺発行

  『日本古文書学論集

8 中世Ⅳ』日本古文書学会編(一九八七)

  『尼崎市史

第四巻』 (一九七三)

   ※本論文の「一清浄光寺所蔵新出中近世史料とその可能性」は遠山元浩が、

    「二室町幕府と時衆」は皆川義孝がそれぞれ担当した。

本 研 究 は J S P S 科 研 費 2 5 3 7 0 8 0 1 基 盤 研 究( C ) 「 清 浄 光 寺 新 出 史 料 を 中 心 と し た 関 東 拠 点 寺 院 に お け る 中 近 世 移 行 期 交 流 史 の 基 礎 的 研 究 」 の 研 究 成 果 の一部である。

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(てらつ まりえ 生活機構研究科生活文化研究専攻修了生) (せきぐち

山居 好山似画在門外 流水如琴響屋辺 谿畔野花開口 笑  前烟柳掃眉鮮 漁父 釣舟自背夕陽還 流入前江第幾湾 竹笛吹残新月 出 酔来帰臥芦華間