日光院 ・清宝院所蔵資料解説
村 中 健大
1 、平内御領社 堂之開基 (日光院佐 々木慶紀氏所蔵)・・・・・・・・・・ 8 9 頁
2 、平内御領村 々社 堂開基 (日光院佐 々木慶紀氏所蔵)・・・・・・・・・ 96 頁
3 、神社記録 (日光院佐 々木慶紀氏所蔵)・・・・・・・・・・・・・・・ 1 02 頁
4 、控 (日光院佐 々木慶紀氏所蔵)・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1 38 頁
5 、系譜今 田家 (日光院佐 々木慶紀氏所蔵)・・・・・・・・・・・・・・ 1 42 頁
6 、松野木村深 山宮棟 札 ( 清宝院佐 々木光晴氏所蔵 )・・・・・・・・・・ 1 45 頁
7 、補任 状 ( 清宝院佐 々木 光晴氏所蔵)・・・・・・・・・・・・・・・・ 1 46 頁
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本稿 で は、 平内町 の佐 々木慶紀氏 な らび に佐 々木 光清氏 が保 管 してい る宗教 関係 資料 を 解 説 し、紹 介す る。 両家 は、近 世期 か ら、 l 勺人 」 にお いて 活 動 を していた 里修 験 の後 宙で あ り、
明治以 降 は神職 と して、町 内の 多 くの神 社 の祭配 に 与ってい る
。現在 、 両 家 は近 l I リ 鋸 こ用 いていた修験 の院 引 こ基づ き、それ ぞれ 日光院 、清 宝院 と称 してい るた め、本稿 にお いて は便 宜 上、佐 々木慶 紀家 を 日 光院佐 々木家 、佐 々木 光清家 を清 ノ 緋完佐 々木家 と表 記 してい
くこととす る
。文書の翻 刻 は筆者 の責任 で行 った もので あ る。 表記 は以 卜の よ うに統 一した。
・本稿 で紹 介す る資料 の原本 はすべ て縦 書 きだが、 ここで は横 書 きに改 めた。
・字体 は原則 と して常用漢字 を用 いた。 ただ し人名 な どの固有名詞 で、特 に必 要 と認 め ら れ る もの は原 資料 に則 した。
・異体字 ・合字 は原則 と して用 いなか った。 「 GJ は 「よ り」 と直 したo
・変 体仮 名 は原 則 と して使 わず 、 ひ らが な に直 した。 た だ し助 詞 と して使 われ る 「 江」
( え)、 「 而」 ( て)、 「 者 」 ( は) はそ の まま用 いた。
・繰 返 し記 号 はその まま用 いた。
・筆者 の判 断 に よ り、適 宜読点 を付 した。 地名や 人名 な どを列 挙す る場合 は並列 点 (・) を付 した。
・判 読不能 部分 は、字数 が判 明す る場 合 は 口で、判 明 しない場合 は [ ] で示 した。
・筆者 に よる傍 註 は ( ) 書 きで示 した。 記述 内容 が疑 わ しい場 合 は ( ‑ カ)、誤 字 が あ る場 合 は ( 一 脱 力)、 文意 が通 じな い場合 は傍 註 で ( ママ) と表記 した。 頻 出す る場 合 は
( 〇 、以 下同) と表示 し、繰 り返 しを避 けた。
・資料 の表紙 の部分 は、そ の文 言を 「 」 で囲んだ上 で、左 上 に ( 表紙 ) と表示 した
。・資料本 文 の欠損 は ( 欠損 ) ( 前欠 ) ( 後欠) と表示 した。
・資料本 文の省 略 は ( 略) な どと表示 した。
・差 出人 ・宛 名 の位 置は、筆者 の判 断 に よ り適 宜配 置 したO
・印 ・花押 ・焚字 はそれ ぞれ ( 印) ( 花押 ) ( 焚字) と表示 した。
・資料 の表 裏を表す場 合 には、各 冒頭 に ≪表 ≫≪裏 ≫ と表 して 区 別 した
。・便宜 上 の必要性 が認 め られ る ときには、 ≪ ≫書きで番 片を付 したO
原 資料 所蔵者 の佐 々木慶 紀氏 と佐 々木 光清氏 には、民俗調 査 も含 めて 5 年 もの間、格別 の ご配慮 を賜 った。 翻 刻 と解 説 にあた って は、石塚雄 士氏 ・岩森譲 氏 ・小 池淳 ‑ 氏 ・長 谷 川成 一氏 ・福 邑瞳城 氏 ・山 田厳 f 一 氏 らか ら多 くの ご助 言を賜 った。本稿 は、諸 氏 の協力が
なけれ ば ま とめ る こ とが で きなか った。記 して 礼 を 申 し 上げ る。
1 、平内御領 社 堂之 開基
O解 説
原 木 は 日光院佐 々木家所 蔵 で あ る
。本 資料 の成 立 につ いて 、本 文末尾 で 「 右者 正 徳 元辛卯年 三月晦 日二江戸表 ヨ リ被仰 付 、 社 蛍 支配 両御 領 内共 二罷 蒙 り相 改帳 面 、相 認右 之通奉 指 上 者 也 」 と説 明 して い る
。「 江戸 表」 とは 、黒 石津軽 氏 の江 戸屋 敷 こ とで あ り、 両御 領 とはその知行 地 で あ る黒石領 ・平 内 領 の こ と と考 え られ る
。つ ま り正徳 元年 ( 1 71 1 ) の段 階 で黒石津軽家 が、そ の所領 ( 黒石
・平内) の堂社 の縁 起 につ いて書 き上 げ る よ うに命 令 を発 した ので あ る
。本 資料 はそ の う ち平 内領 分 につ い て ま とめ られ た もの を、寛保 3 年 ( 1 7 4 3) に書 き写 した もの と考 え られ る ( 注 1)
。以 下便 宜 L、正徳年 間 に作成 され た もの を正徳本 と表記 して い くこ ととす る
。さて正徳 年 間 には 平内の堂杜 支配 に関す る重 大 な事件 が起 きて い る。 これ に関 して は、
後掲 資料 3 「 神 社記録 」 中の 「 黒石 小野河 遠 江 卜取合 ‑乱 之事 」 の項 が詳 しい。
あ ら. ま Lは次 の通 りで あ る
。日光院 6 世 ( 〜宝永 3 年 [1 706]) の姪 婿 で あ る佐 々木 吉宮 ( 義 宮 とも表 記) は、平 内領 にあ る神 明宮 ・稲 荷 宮 ・愛宕 宮 ・藤 沢村 八幡宮 の 4 杜 を 日光 院 か ら預 か って いた。 しか し酒 を飲 ん で は よ く暴れ るので 、 日光院 (7世 か。 〜延享 元年 [ 1 7 4 4 ]) は 4 社 を と り上 げて吉宮 を勘 当す る
。吉宮 は黒石 領 の小 野河 遠 江 の弟子 とな って 宇 太 夫 と名 乗 る よ うにな る。 1 、 2 年 後 、遠 江 は 日光 院 に、吉宮 の勘 当を許す よ うに願 い 出 る
。日光院 は これ を承 知 し、 吉富 に再び 4 社 を預 け る
。す る と吉宮 の預 か る神 明宮 に遠 江 が来 て神 楽 を行 うよ うにな る
。また正徳 3 年 ( 1 71 3) 、黒石 津軽 家 か ら、遠 江 を平 内 3 5 社 の宮頭 とす る命 が 下 され る
。日光院 は黒石津軽 家 に対 して度 々修験 道 の筋合 を 申 し上 げ て抗 議 す るが 、認 め られ ない。 享 保 7 年 ( 1 7 2 2) 、 日光院 は この件 を本 山聖護 院 と江 戸触 頭 とに訴 え出た い と して、 黒石津軽 家 に対 して 8 、 90 日の暇 を乞 う
。す る と同家 よ りもっ て の ほか で あ る と叱 られ 、 4月 3日か ら 6月 まで遠 慮 を申 し付 け られ る
。しか し 6月 1 0
日には遠 慮 が許 され 、 また先例 の如 く、平 内 中の堂社 執行 が認 め られ る
。黒石 津軽 家 の命 に よ り、正徳 元年 に黒石 ・平 内両領 の堂社 書 上作成 が命 じられ た こ とと、
その 2 年 後 に黒 石 の神 明宮神 主 で あ る小野河 遠 江 が平 内 3 5 杜 の宮頭 とされ た こ とは無 関 係 とは考 え られ ない。 恐 らく堂 杜調 査 の結果 を も とに して、 この よ うな平 内堂 社政策 を実 施 したの で あろ う。 さらに資料 本 文 と照 ら し合 わせ てみ る と、正徳本 の成 立年 は、正徳 2 午 ( 1 71 2) か 3 年 ( 1 71 3) で あ る と判 断 で き る
。本 資料本 文 にお け る堂社 の掲 載順 序 をみ て い くと、佐 々木 吉宮 の管轄す る 4 社 が最 初 に、
次 に 日光院 分院 の清 宝院 の管轄 社 が記 され てお り、 日光院 管轄 社 はず いぶ ん後 方 にあ る こ とが わか る
。日光院 が平内 の堂 社 につ いて書 き上げ て い くな らば、分 家や 分院 の もの よ り 先 に 自 らの管轄 社 につ いて載せ る と考 え られ るので、正徳 本 の作成者 は 日光院 で はない。
上述 の 「 黒 石小野 河 遠 江 卜取 合 ‑ 一 一 乱 之 事」 の経 緯 か ら考 え る と、 これ を作成 し、黒石津軽
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家‑提 出 したのは小野河遠江 で ある と推 定 され る
。無論黒石領 内に住む遠江 に とって、飛 び地平内領 の、かつ 実際 に祭紀 に与 っていない堂社 については よ くわか らなか ったで あろ
うか ら、記述内容 の調査 には吉宮が関わった もの と考 え られ る
。この小野河家 は 「 黒石藩 の神 官 の取締 りを兼 ね る惣社神 主で もあった 」 ( 注 2) とい う 伝承 もあ り、 当初黒石津軽家 は、遠江 を頂点 として領 内 ( 黒石 ・平内)堂社支配宗教者 を 統制 してい こ うとい う構想 を持 っていた と考 え られ る
。これ に対 して、平内領 か らは先 に 述べ た よ うな 日光院 に よる抗議 があったの に対 し、黒石領 か らは反発 が生 じた形跡 が認 め られ ないのは ど うい うこ とだ ろ うか。時代 が下 るが、宝暦 9 年 ( 1 7 5 9 ) の 「 黒石神 社書上 帳 」 ( 弘前市立図書館所蔵 ) に よる と、黒石領 の堂社 は小野 ( 河)遠江 以 下神職 のみ 、平 内領 の堂社 は 日光院以下修験者 のみ が管轄 していた こ ととなってい る
。黒石領 は神職 、平 内領 は修験者 とい うこの傾 向は、恐 らく正徳段 階で も概 ね違 わなかったであろ う。 平 内で 日光院が、修験者 は神職 の支配 下に置 かれ ることはあ りえない と訴 えた こ とに対比す るよ うに、黒石領 の神職 た ちに とって遠江 の下につ くことは比較的抵抗 がなか ったのだ ろ う。
む しろ、黒石領 の神職 た ちの間 に遠江体制 が成 立 も しくは成立 しつつ あった状況 にお いて、
正徳 元年 の黒石津軽家 か らの命令 に応 じて遠江 が黒石 ・平内各領 の堂社書 上 を作成提 出 し、
それ に基づ いて正徳 3 年 に遠江 を平内領 堂社 の宮頭 とす る命令 がな され た と考 えたほ うが 自然 であろ う
。以 上、正徳本 の成 立 につ いて考察 したが、寛保 3 年 ( 1 7 4 3 ) の写本 であ る本 資料 の成 立 と、 日光 院 佐 々 木 家 が 入 手 した 経 緯 に つ い て は よ くわ か らな い
。た だ し明 治 36年 ( 1 9 0 3 )、 日光院佐 々木家 は農 商務省 に本 資料 を差 し出 して検 閲 を受 けてお り、その頃 に は既 に同家 が所蔵 していた らしい。
資料 の内容 は、平 内中にあ る 35 の堂社 につ いてそれ ぞれ項 目を設 け、社名 、所在地、
社殿建 立年お よび施 主、黒石津軽家 か らの寄附 の有無 、祭神 の神名 、管轄者 につ いて記述 した もので ある。 ただ し後 ほ ど紹介す る、正徳 以降 に 日光院 に よって作成 され た平内堂社 書上 と比較す る と、各堂社 に関す る具体的 な由来縁 起 につ いてはほ とん ど記 され てお らず 、 記述 の薄 さが歴然 としてい る
。その原 因には、上述 した正徳本成 立の経緯 が あ るのだ ろ う。
注釈
(1 )なお正徳 の命令 で作成 され た黒石領 につ いての堂社書 上の存在 は未確認 であ る
。(2 )黒石市編 『黒石市史』通史編 Ⅰ、黒石市 、昭和 6 2 年 ( 1 9 8 7 ) 、 3 31 頁。
○本 文
1 ,Ai 机 l
「 寛保 三突亥年六月
平内御領 社堂之開基
平内御領 社堂之開基 神 明宮 但沼舘 二有
延 宝 甲寅暦 建 立師 泉屋彦兵衛
凡昔年 由緒不祥 、 即 其頃 よ り為御供 田三人役寄附有之、亦其後正徳 五乙未年私義御 目見 之為仰付罷登 申候 処二、折節 三月 八 目二市川 茂左工 門殿 以之仰 出候 二者 、此度論 山御利 運 二付而 平内於神 明二何 そ之御寄進被遊度 由依之如何様 二致 可然哉 と御 申被遊候 二付 、
( ‑ /‑ /)
私 中上候 二、其外 二御 寄進 と申儀 もよ り古来 よ り在建 立二有之間、此度別 而御改永 々御 建立之場所被仰付御重畳 之御儀 と申上候得者 、 早速此地之御役 人 中被仰遣大 工 も大勢罷 越御繕成仕候 、剰御遷 宮迄 も江戸表 二 両被仰付御物入 二 上遷宮 二相勤 申候 、亦 々仰 出候 ニハ従往 古平内陰気深 故 五穀 も成就成兼 申由、依之 当年 よ り永 々罷越 陰陽和潤 五穀成就 之御祈祷 無断絶相務 可 申由被仰付候 、 則 此年 よ り此御宮新開発 二罷成勤来候、於此御宮 二江戸表 二面永帳 二御留置被遊候 二付御 大切成御事 二御座候 佐 々木義宮預 り
八幡宮 但藤 揮村 二有
宝永七庚 寅 村 中建立
昔年不祥 、元禄 十
一年 よ り為御神楽料御米壱表御 寄附、此年 よ り無断絶 八月十 五 日御神 楽相勤来 由、正徳 二年 よ り義宮預 り居 中候於其以後‑ ロ之者預 り申由二承候
稲荷宮 但御屋敷 之内二有 宝永 四千亥年 御建 立
此徳宮 古来 よ り御館神 二御尊敬 、元禄十一年 よ り為御祈祷料御 米壱表御 寄附 、惣 而稲荷
(神 脱 カ )
大明‑三社也 、含稲魂命 中尊左ハ大宮姫命右‑大 田命是三社也 、委敷書記二不及 、佐 々 木義宮預 り
愛宕宮 但小湊 二有 建 立師
元禄九丙子年 泉屋彦兵衛
此宮 古来社跡 計御座候所 二此年始而建立、此御尊体ハ加遇津知之命 と中也
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雷電宮 但海 辺二有
延宝元突丑年 日光院 預 り 御建 立
此宮古跡伝 承得 共由緒不祥 、御 尊体ハ藷神 と申而愛宕之御尊 子也 、委敷ハ 加 茂大明神 二 坐 故伝 来 記ニハ委 見足五穀豊穣之内二坐 五 社 之太神也、 則 其頃 よ り為御神 楽料御米 五表 御寄附之被仰付候
都波岐大明神 但 田沢村 二有 元禄 十
一一 戊子年
御建 立
此神勢州 之鎮守 二両猿 田彦 ノ命 二面坐給 、椿数多依 有之椿大 明神 と申ニハ無御座候 、段 々様子探 キ太神坐也 、為御祈祷御米壱表御寄附被遊候
新 山大権現 但松木村二有 元禄 二 己巳年 村 中建 立
此太神者伊佐奈岐尊二坐 、熊野御 同体之神也 、 由緒深 、元禄十一一 年 よ り為御神楽料御 米 壱表御寄附年 々無断絶御祈祷執行 申上候
不動尊 但 口広村 二有 之処只助 白井村へ 引越 此所 二有之 元禄 卜丁丑年
御建 立
則 自同年 為御祈祷料御 米壱表被仰 付相務 申候 松木村 清宝院
山崎 大明神 但 山 口村 二有
寛文十三突丑年 村 中建立 元禄五壬 申年 右 同断
則 元禄十 一年 よ り為御神 楽料御米壱表被仰付 、此神 山城 国 山崎 之鎮守 二而由緒不委
観音堂 但小湊 二有 建 立師 元禄 二 己巳年
右者 元禄 十 一 年 よ り為御祈祷料御米壱表被仰付務 来候
月山官 但山 口 村 二有
寛文十 三栗 托年 村 中造 立 此神‑ 由緒不祥 、月 弓之御魂 之太神也
薬師宮 但 同村 二有 同年 同断ナ リ
惣 而 日本之医祖ハ少彦名 ノ命 と申、難病 を治候 事之守護神也
蔵 王権現 但小豆沢二有
不動尊 同所
昔年建 立年 号不祥 、此神 此神 和州吉野鎮守 二坐 て木花 開耶姫 ノ命也
熊野宮 同所 二有
右 同断、此御神尊ハ伊佐奈幾尊二坐 、弓 日本 随一 乃太神也
山神 宮 同所 二有 古来‑右 同断 、 此神 大 山祇 ノ命也
観音 堂 但茂浦村 二有 日光院預 り 延 宝二 甲寅年 村 中建 立
観音 堂 但馬屋尻 二有 野 内村剣蔵院預 り 天和三業 亥年 二立 施 主不知
石動宮 但稲 生村 二有 同人預 り 天和 二壬成年 村 中造立
右 此末社 両所 有二所共 同年建 立 と申稲荷弁天也 、石堂之神‑能州一 国之御神魂也
観音堂 但久慈浜 二有 同人預 り 宝永六 己丑年 右 同断
薬師堂 但浦 田村 二有 同人預 り 元禄 四辛末年 村 中造 立
稲荷宮 同所 二有
宝 永六 己丑年 右 同断
同人預 り
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観音堂 但 田沢村 二有 同人預 り 貞享三丙寅年 右 同断
弁財天 但大嶋二有 宮造 由伝承
山神 宮 但 白砂 二有 右 同断
宝留宮 但福 嶋二有 右 同断
観音堂 但童子村 二有 松木村 ノ清宝院預 り 元禄 元戊辰年 村 中造 立
貴布禰宮 但 田茂木村有 同人預 り 元禄 六突酉年 右 同断
惣テ ロ此神輸遇突智御子 二坐テ闇蕎 卜申水徳 乃神 二坐 スナ リ
滝之宮 童子村 二有
元禄十三庚辰年 村 中造立
清宝院預 り
此神勢州 五 □河之地主二両大 田命 是也
熊野宮
天満 宮 両社共狩場沢村 二有 宝永七庚 寅年 村 中造立
同人預 り
諏訪 大明神 但 口広村 二有
錐為近年建立様子委敷相知不 申故不祥
八幡宮 但清水河村 二有
薬師宮 同所 二有 由緒不委
白山宮 但 土屋村 二有 剣 蔵院預 り
社堂合三十五 ヶ所
右者正徳 元辛卯年 三月晦 日二江戸表 ヨ リ被仰付 、社堂支配 両御領 内共 二罷蒙 り相改帳 面、
相認 右之通奉指上者也
寛保 三突亥年 六月吉 当□ ( 花押)
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2 、平 内御領村 々社 堂開基
○解説
原本 は 日光院佐 々木家所蔵 である
。作成年 は表紙お よび本 文末尾 にある通 り享保 1 0 年 ( 1 7 2 5 ) で ある
。ただ し本 文 中には 後年記述 が加 え られ てい る箇所 がい くつか ある
。作成者 は 日光院 で ある
。なお本 文 中の雷電 宮お よび小湊 山館観 音堂の項 か ら、 「 祖 父延 明院」が元和 7 年 ( 1 6 2 1 ) に生 まれ 、元禄 9 年 ( 1 6 9 6) 、 「 私」が 1 9 歳 の ときに没 した と い う記述 内容 をみつ ける ことがで きる
。後掲 資料 3 「 神 社記録」 に記載 され てい る 日光院 各代 の経歴 と照 らし合わせ る と、 この延 明院 は 日光院 5 世 ( 延名) に 当てはま り、 よって 本資料の作成者 であ る 「 私 」 は 日光院 7 世 ( 延 通) に当てはまる
。作者 の生年 は延 宝 6 年 ( 1 6 7 8) と考 え られ る
。また 「 神 社記録 」 に よる と、同人 は正徳 元年 ( 1 71 1 ) に本 山か ら修験者 と しての補任 を得 、延享 元年 ( 1 7 4 4) に没 してい る。本資 料 は、同人 が 4 3 歳 の ときに書いた ものなのであ る
。さて前掲 資 料 1 「平 内御 領 社 堂 之 開基 」 の解 説 の ところで既 に述 べ た が 、正 徳 3 年 ( 1 71 3) か ら享保 7 年 ( 1 7 2 2 ) までの間、黒石領 の神職 で ある小野河遠江 が平 内 3 5 社 の 宮頭 として、平内の堂社お よびその管轄宗教者 (日光院 ら修験者) を支配 していた。 日光 院 7 世は、 この よ うな命令 を Fした黒石津軽家 に対 して 「 修験道 之筋合」 を訴 えて抗議 し、
享保 7 年 ( 1 7 2 2) に よ うや く 「 先格 之通 り」平内中の堂社執行 を認 め られ てい る
。本資料 は、その 3 年後 に 日光院 に よって作成 され た平 内の堂社書上なのであ る
。これ は 日光院が、
小野河遠江 に代 わ る平内の堂社 の支配頭 と して、黒石津軽家 の請求 に応 じて作成 し、提 出 した もの と考 え られ る
。当時の平内の堂杜お よび宗教者 の動 向 を把握 す る上で、 また黒石 津軽 家 に よる初期 の宗教者 統制 につ いてみ てい く上 で も、 「 平 内御領社 堂之開基 」 ととも に重要 な資料 で ある と言 うこ とがで きるだ ろ う
。資料 の内容 は、 平内 中にあ る 35 の堂社 につ いてそれ ぞれ項 目を設 け、社名 、所在 地、
管轄署 (「 別 当 」 「 下別 当 」 「 社 師」)、社地や社殿 に関す る由来縁 起 、黒石津軽家 か らの寄 附 の有無 、現社殿 が建立 され てか らの年数 につ いて記述 した ものである
。特 に堂社の建 立 に関 しては、神体 ・仏像 の発 見や 「 御 無想 」 な どを契機 に してな され た り、またそ こに修 験者 と思 しき者 が 「 改 元 」 ( 開眼供養 の意か) な どとい った形 で関わった りす る当時 の様 子が伺 え、興味深 い。
また、 日光院 の系譜 関係 につ いて ま とめ られ た後年 の 「 神 社記録 」 ( 後掲 資料 3) には
掲載 され ていない、つ ま り日光院 との本末 関係 が認 め られ ない修験者 が 当時 の 平内に数 多
くいた こ とがわかる
。例 えば剣蔵 院 は、平 内西方の野 内村 ( 弘前津軽 家所領 ) に住む修験
者 であ り、 日光院 との系譜 関係 はない もの と考 え られ る
。これ らの管轄す る堂社 について
も書 き 上 げ るこ とがで きた こ とは、 日光院 が平内中の堂社 の支配 につ いて 、 自 らの末院以
外 の宗教者 に対 して も正 当性 を主張 し得 るよ うになった とい うことを表 してい る
。この背 景 には、黒石津軽家 によってな され た、平内中の堂社執行 の承認 があるのだ ろ う
。つ ま り 小野川 遠江 との一件 ( 享保 7[1 722]) 以後、平内の堂社支配 あ り方は 「 先格之通 り」 に戻
され たのではな く、新 たな状況 に移行 したのだ と言 うことがで きる。
○本 文
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