日本語日本文学研究 第23巻第2号(通巻第43号)
古事談と古今著聞集Ⅱ――説話集の方法
Kojidan and Kokonchomonsyu II : Methodes of setsuwa-syu
葛綿 正一
KUZUWATA Masakazu
三 『古今著聞集』の世界――絵画・音楽・説話と「ひだ」
1 絵画の役割――画図
源顕兼『古事談』と橘成季『古今著聞集』の相違は後者の序文をみると、よくわかる。「夫著聞集者宇県亜相巧語之遺類江家都督清談之余波也。余稟芳橘之種胤顧璅材樗質而琵琶者賢師之所伝也。儻弁六律六呂之調。図画者愚性之所好也。自養一日一時之心。於戯春鶯之囀花下秋雁之叫月前暗感幽曲之易和。風流之随地勢品物叶天為悉憶彩筆之可写。拠茲或伴伶客潜楽治世之雅音或誂画工略呈振古之勝概。蓋居多暇景以降閑度徂年之故拠勘此両端捜索其庶事。註緝為三十篇。編次二十巻名曰古今著聞集。頗雖為狂簡聊又兼実録。不敢窺漢家経史之中有世風人俗之製矣、只今知日域古今之際有街談巷説之諺焉、猶愧浅見寡聞之疎越。偏招博識宏達之廬胡。努不出蝸廬。謬比鴻宝。于時建長六年応鐘中旬散木士橘南袁恣課小童猥叙大較而已」。
予そのかみ、詩歌管弦のみちみちに、時にとりてすぐれたるものがたりあつめて、絵にかきとどめむがためにと、い た裏側の記事だが、『古今著聞集』の説話は図画の題材となるべき華やかさをもつ。跋文には「この集のおこりは、 所なり」というところは『古事談』にはない『古今著聞集』の特徴である。折れ籠もる『古事談』の説話は閉鎖され 談巷説の諺有り」は両者の共通するところであろう。しかし、「たまたま六律六呂の調べを弁ふ。図画は愚性の好む 「聊かにまた実録を兼ぬ。敢へて窺漢家経史の中を窺はず、世風人俗の製有り。只今、日域古今の際を知つて、街
そのかみふるきむかしのあとより、あさぢがすゑの世のなさけにいたるまで、広く勘へあまねくしるすあまり、他のものがたりにもおよびて、かれこれききすてずかきあつむるほどに、夏野の草ことしげく、もりのおちばかずそひ侍りにけり」と記されている。
取り、耳を驚かすこと有るものなり」とある。 出する。「興言利口」と題された巻一六には、「興言利口は、放遊境を得るの時、談話に虚言を成し、当座殊に笑ひを の機微に触れるテクストの機微を備えている)。『古事談』には開放的な笑いがないが、『古今著聞集』にはそれが頻 説話群はそれに対する反論になっている。『古今著聞集』の性的な説話には優雅な魅力がみられるからである(人生 『古事談』巻二には清少納言に関する不名誉な説話があったが、橘則光の子孫が編纂する『古今著聞集』の華麗な
まず『古今著聞集』の編者が好んだという巻一一「画図」の説話を取り上げてみたい。編者はゆかりの清少納言に言及している。萩の戸のまへなる布障子を荒海の障子と名付けて、手長・足長など書きたり。その北うらは宇治の網代をかけり。清少納言が「枕草子」に、この障子の事も見えたり。一条院以往に書かれたるとこそ。大かた清涼殿の唐絵にもみな書きならはせる事ども侍り。渡殿に跳ね馬・寄せ馬の障子を立てて、またおなじ渡殿の北の辺、朝餉の前に馬形の障子侍り。 (三八四「紫宸殿賢聖障子並びに清涼殿等の障子の画の事」)
馬を繋ぎ止めたり、画中の馬の目を掘り出したりなど馬を制御しようとする話に通じている(三八四、三八五)。 るが(三二五)、巻一四「遊覧」の雪の行幸に通じている(四七五、四七六)。巻一〇「馬芸」の調教説話は、画中の 立てようとしたのが『古今著聞集』だといえる。巻八「好色」には参内の雪景色を絵にして女と結ばれた話が出てく ていたらしい。これは『古今著聞集』の説話配列に符合するだろう。しかし、唐絵ならざるものによって自らを組み 「大かた清涼殿の唐絵にもみな書きならはせる事ども侍り」とあるように、それぞれ絵を配置するべき場所が決まっ
巻一一「画図」で最も印象に残るのは鳥羽僧正や絵難房である。鳥羽僧正は近き世にはならびなき絵書なり。法勝寺の金堂の扉の絵書きたる人なり。いつのほどの事にか、供米の不法の事ありける時、絵にかかれける。辻風の吹きたるに、米の俵をおほく吹き上げたるが、塵灰のごとくに
空にあがるを、大童子・法師原走り散りて、とりとどめんとしたるを、さまざまおもしろう筆をふるひてかかれたりけるを、誰がしたりけん、その絵を院御覧じて、御入興ありけり。(三九五「鳥羽僧正、絵を以て供米の不法を諷する事」)
この鳥羽僧正の挿話からは、絵と同じく説話にも諷刺の機能が備わっていることが示唆される。その絵によって「供米の沙汰」が厳しくなったというからである。同じ御時、絵難房といふもの候ひけり。いかによく書きたる絵にも必ず難を見いだすものなりけり。或る時、ふるき上手どもの書きたる絵本の中に、人の犬を引きたるに、犬すまひてゆかじとしたるてい、まことにいきてはたらく様なり。また男のかたぬぎて、たつぎふりかたげて大木を切りたるあり。法皇の仰せに、これをば絵難房も力及ばじものをとて、即ち召して見せられければ、よくよく見て…
(三九八「絵難房、必ず絵を批難の事」
)
この絵難房の挿話からは、説話にも批評性が必要であることが示唆される。犬が抵抗したとき綱が引っ張られているかどうか、大木が切られたとき木屑が積もっているかどうか、そうした細部が気にかかる。批評こそが細部への視線を鍛えるであろう。だが、絵画に関心をもとうとしない人もいる。東大寺大仏供養の時、鎌倉の右大将上洛ありけるに、法皇より宝蔵の御絵どもを取り出されて、関東にはありがたくこそ侍らめ、見らるべきよし仰せ遣はされたりけるを、幕下申されけるは、「君の御秘蔵候ふ御物に、いかでか頼朝が眼をあて候ふべき」とて、恐れをなして一見もせで返上せられにければ、法皇は定めて興にいらんずらんと思しめしたりけるに、存外にぞ思しめされける。
(四〇〇「右大将頼朝、御宝蔵の絵を拝見せざる事」
)
この頼朝の挿話からは、王朝の宝物に目もくれない武家が独立自尊の存在であることがわかる。「恐れをなして」いるのは武家に対する貴族社会のほうである。後鳥羽院、御幸の供奉人ども誠にえらばせ給ひて、御あらましに、「この定に御幸あらばや」とて、信実朝臣に仰せられて、三巻の絹絵にかかせられけり。八条の左大臣・光明峰寺殿、左右の大臣にて供奉し給へり。めでたき重宝にてぞ侍りし。今は修明門院に侍るとかや。この御幸は御あらましばかりにて、実はなかりけり。(四〇一「後鳥羽院、御あらましの御幸の絵を藤原信実に書かせ給ふ事」)
この挿話からわかるのは、絵が現実そのものではなく、むしろ理想だということである。説話にも同じ側面があるだろう。想像力で「あらまし」を描くのが絵画であり説話である。頼朝は、そうした「あらまし」に興味がなかったのである。だが、絵画が役立つこともある。絵師大輔法眼賢慶が弟子に、なにがしとかやいふ法師ありけり。賢慶逝去の後、後家と不快になりて相論の事ありけり。六波羅に訴へけれども事ゆかで程へければ、この法師、絵もさかしく書けるものにて、件の後家がありさま・ふるまひを、始めより書きあらはしてけり。(四〇五「絵師賢慶が弟子の法師、その絵に依りて勝訴の事」) 仲違いして相論になる挿話からは、絵画が裁判にかかわることがわかる。「えもいはず色どりて詞付けて、六波羅へ持ちて行きて奉行のものどもに見せければ、訴訟をことに執し申さんの心はなかりけれども、絵その興あるによりて、とかくもてさまよふほどに、両国司までも見て、訴訟の旨くはしく心得ほどきにけり。さてつひに勝ちにけり」と続くが、「絵その興あるによりて」という点が重要であろう。題材よりも、表現の面白さが重視されているからである。これは説話に関しても当てはまる。説話もまた題材よりも、表現の面白さが際立つ場合がある。一条前の摂政殿、左大臣におはしましける時、居すゑたてまつらんとて、一条室町の御所を、光明峰寺の入道殿、前の備中の守行範に仰せて修理せられにけり。寛元三年十月二十九日、御わたましありけり。つくりどもも少々あらためられけり。寝殿二棟の障子より、つねの唐絵は無念なりとて、平等院の宝蔵の四季の御屏風を、二条の前の関白殿、長者にておはしましけるに申されて、取り出してうつされにけり。人々の姿もみな昔絵にてぞ侍るなる。いと見所あり。 (四〇六「光明峰寺道家、左大臣実経の為に一条室町の御所修理の事」)
りける、いみじかりけり」と記している(六三五)。 食」にも当てはまるかもしれない。分配という祝宴について「分配、近年たえて侍ることを、邦時おこしおこなひた だろう。説話もまた古い説話の書き直しであり、それによって文化が持続していくからである。これは巻一八の「飲 古いものを模写していることがわかる。音楽は伝授によって絵画は模写によって再生されるが、説話にも当てはまる 「唐絵」から大和の「四季」屏風へという趣味の変化がうかがえるが、絵画は建物とともに作り替えられるものであり、
ちなみに巻一一で「画図」に「蹴鞠」が続くのは、ともに囲まれた空間を扱うからにちがいない。「鞠を好ませ給ふ人は、庭にたたせ給ひぬれば、鞠の事より外に思しめす事なければ、自然に後世の縁となり、功徳すすみ候へば、必ず好ませ給ふべきなり」と鞠の性はいう(四一〇)。
『古今著聞集』の巻一「神祇」巻二「釈教」が興味深いのは、いずれも画図とかかわっているようにみえる点である。三六「当麻寺と当麻曼陀羅の事」はいうまでもない。二〇「後徳大寺実定、昇任祈請のため春日神社・厳島神社に参詣のの事」と春日権現験記絵、六「北野宰相菅原輔正、安楽寺に塔婆造営の時、聖廟託宣の事」、四五「貞崇法師、火雷天神と問答の事」と天神縁起絵巻、五一「永観律師往生極楽の事」と阿弥陀浄土図、五七「西行法師、大峰に入り難行苦行の事」と西行物語絵巻、六三「源空上人念仏往生の事」と法然上人絵伝、六四「高弁上人、例の人に非ざる事」と明恵の華厳縁起、六七「長谷観音、宝珠を准后藤原家実に賜ふ事」と長谷寺縁起など、それぞれ関連性が気にかかる。こうした画図に対する関心はまさに橘成季独自のものであろう。
五四は大原に住む少将の聖について「三十余年常行三昧を行ぜられける間に、毘沙門天形をあらはして上人を守護し給ひけり。御影像を等身に図絵して、いまに勝林院に安置せられたるなり。この上人臨終の時は、勝林院に常行三昧行ひける時、西方より紫雲現じて堂の内へ入ると見るほどに、肉身ながら見えず。即身成仏の人にや」と記す。『古今著聞集』が他の説話集と異なるのは、当麻曼荼羅に言及し浄土教の説話を備えている点であろう。
2 音楽の役割――管絃歌舞
およぶ所には、かならず来侍るなり」とて失せにけり。 顕現しけり。人々おぢ恐れければ、所現の影みづからいはく、「我は唐家の廉承武の霊なり。五常楽の急百反に 貞保親王、桂川の山庄にて放遊し給ひけるに、平調にしらべて五常楽をなす間、ともし火のうしろに天冠の影、 舞」の説話がきわめて多いからである。 『古今著聞集』巻六「管絃歌舞」には音楽説話が収められているが、絵画性の優位を指摘できるように思われる。「歌
(二三一「貞保親王桂川の山庄にて放遊の時、廉承武が霊現はるる事」
)
京極の太政大臣宗輔、内裏よりまかり出で給ひけるに、月おもしろかりければ、心をすまして車の内にて陵王の乱序を吹き給ひけるに、近衛万里小路にて、ちいさき人の陵王の装束をして、車の前にてめでたく舞ふ見えけり。(二六八「京極太政大臣宗輔、陵王の乱序を吹きて神感ある事」)
「誠に優美なりけり」(二七六)、「いみじき御事なれ」(二七七)、「いかに面目に思ひけん」(二八二)などである。 (二六一)、「めづらしく目出たかりける事なり」(二六七)、「いかに目出たかりけん。ありがたきためしなり」(二七四)、 しくやさしくぞ侍りける」(二五九)、「糸竹のしらべ面白かりけり」(二六〇)、「めづらしくいみじかりける事なり」 (二四三)、「時にとりてめづらしくなん侍りける」(二四八)、「なだらかに目出たくぞ侍りける」(二五七)、「めづら 事なり」(二三四)、「ゆかしき事なり」(二三九)、「面白かりける事かな」(二四一)、「いみじくやさしかりける事なり」 の説話群といってもよい。そうした評言が繰り返されている。「ありがたきためしなり」(二三二)、「めでたかりける 『古今著聞集』では音楽説話であるにもかかわらず、イメージが重視されるのである。「ありがたし」「めでたし」
二三八には「琴の武絃たえたりけれど、なほ弾じはて給ひけり」とみえるが、『古今著聞集』は絃が切れても演奏が続くめでたさを備えている。二四四の音楽説話には絵画性が顕著である。明月の夜、暁にのぞみて川霧ふかきうちに、双調の調子をふきて過ぐる舟あり。そのふね、やうやう来たり近づくを聞くに、まことに神妙なり。我が朝に比類なき笛なり。誰人ならんと、人々あやしう思ひあへるに、船は霧こめられて見えず。 (二四四「信義双調の君と呼ばれたる事」)
通過する舟から笛の音が聞こえてくるというのは視覚的なイメージ性を有しており、「感情にたへず」とある通り、心の襞に触れてくる。秘曲伝授の説話も絵画的といってよい。秘曲伝授の場所を必ず描写するからである(二四五、二四七、二四九、二五〇、二五一)。次の秘曲伝授の説話をみてみよう。義光、時秋が思ふところをさとりて、閑所にうちよりて馬よりおりぬ。人を遠くのけて、柴を切りはらひて楯二枚を敷きて一枚には我が身座し、一枚には時秋をすゑけり。(二五五「源義光、足柄山にて笙の秘曲を豊原時秋に授くる事」)
こうした空間的把握は裏書の伝える『台記』の記述にはみられないものである。しかし、『古今著聞集』では秘曲
伝授の空間が特筆されるのである。「もろともにはらひけり。さて帰らんとする時、たまたま一曲を授けけり。ある時はまた、豆を刈る所にいたりて、またこれを刈り、かり終りて後、鎌の柄をもて笛にして教へけり。かくしてその業をなせるものなり」(二六四)。
池の中島で太鼓を打つ場合も空間的配置が重視される。堀河院の御時、六条院に朝覲行幸ありけるに、池の中島に楽屋構へられたりけるに、御所、水をへだててはるかに遠かりけり。博定勅をうけたまはりて太鼓をつかうまつりけるが、壺よりも進めて撥をあてけり。(二五六「藤原博定、池の中島にて太鼓を打ち大神元正感じ入る事」)
音響においては空間的な距離が考慮されるのであって、「遠くて物をうつは、ひびきのおそくきたるなり。されば御前にては、壺にうち入りて、よくぞ聞しめしけん」と語っている。第二五八では「一にはこの院、新造たり。賀殿の儀あひ叶へり」と語るが、音楽は建物との関連性を考慮するべきなのである。
ところで、「箏を聞きて、おほく罪障を滅するに、非管絃者は、嗚呼のおぼえとるべきなり」と後三条院は語っている(二五二)。音楽説話に絵画説話と異なる点があるとすれば、それは激しい精神性であり、狂気に関する側面である。管絃を奏する者は物狂いに似ている。ことに風病おもき人にて、笛のつかにも紙を巻きてぞつかはれける。然ども紫檀の甲の琵琶を、よくさむき時もひかれければ、近習者どもは、「このものはそら風をやみたまふにこそ」などぞいひあへりける。また、「物狂ひの気のおはするにや」などいひけり。 (二五四「琵琶の明匠大納言宗俊の事」)
二六五は忠実が狐の尾を得て出世する話であり、そこには音楽に取り憑かれた男が出てくる。絵画説話においては馬が活躍していたが(三八五)、音楽説話においては狐が活躍する。いかにや、これほどにおもしろき箏をば聞かぬとて、なほひとり心をすましてたちたりけり。さて家に行きつきて、やがて胸をやみ出してあさましく大事なり。そのうへ物狂はしくて、西をさして走りいでむとしければ、したたかなる者ども六人してとりとどめけるに、その力のつよき事いふばかりなし。たかくをどりあがりて、かしらをしもになして肩を板敷につよくなげければ、ただいまに身もくだけぬとぞ見えける。
(二六五「知足院忠実、大権房をして咤祇尼の法を行はしむる事並びに福天神の事」)
管絃の音に取り憑かれると途方もない力を発揮し、身体に変調をきたすのである。続く二六六は今様によって病気を治癒する話である。「これらをうたはれけるに、物の気わたりて、やうやうの事どもいひてその病やみにけり。かならず法験ならねども、通ぜる人の芸には、霊病も恐れをなすにこそ」。これは音声が心の襞に入り込むせいだろうか。絵画の説話が主として外界にかかわるのに対して、音楽説話は内界にかかわっている。
『古事談』には不和や不快の説話が多かった。しかし、
『古今著聞集』には少ない。もちろん不快説話が全くないわけではないが、それは良い方向に導かれる。法深房、そのかみ、父の朝臣と不快の比、譲り得たりける笛を取り返されける時、うれへなげきて詠み侍りける、思ひ出のふしもなぎさにより竹のうきねたえせぬ世をいとふかなやがてその比出家をとげてけり。うきはうれしき善知識となりにけり。(二二三「法深房孝時、父孝道と不快の比、笛を取り返されて出家を遂げる事」)
不仲であった父親に譲られた笛を取り返されるが、それが出家の契機として「善知識」になるのである。「法深房が持仏堂をば楽音寺と号して、管絃の道場として、道をたしなみける輩たえず入り来たる所なり」というのは成季にとっても理想であろう(二九一)。
心し(四二九)、海賊は感涙する(四三〇)。 し」(二五〇)。遠理が篳篥を吹くと雨が降る。秘曲の力はまだ失われていないのである。篳篥のおかげで、盗人は改 社の上におほひて、たちまちに雨下りて洪水に及びにけり。神感のあらたなる事、秘曲の地に落ちざる事かくのごと 『古事談』の陰鬱な音楽説話と異なって、『古今著聞集』では音楽の霊験が強調される。「にはかに唐笠ばかりなる雲、
笙で失敗する話も陽気である。「管中に平蛛のありけるが、喉にのみ入れられにけり。むせてはつきまどひけるほどに、主上・群臣もわらひ給ひて腸を断ちけり」(二四六)。いわば身体の襞に取り込んでしまったわけだが、懸念された「昇殿の沙汰」も後日かなったようである。顕正卿、いまだ殿上人にて、無能にてその座に候ふだにかたはらいたきに、奏して云はく、あれは風の吹き候へ
ば動くに侍りと申したりけるに満座わらひけり。(二六二「堀河院の御時、平調の御遊に非管絃者顕雅笑はるる事」)
音楽で草木が舞うのではなく風で草木が動くだけだという一言で、楽器のできない無能の男でさえ笑いを起こしている。『古今著聞集』の音楽説話ははなはだ陽気にみえる。
たる事」は音楽の説話そのものであろう。 馬の足跡残りたる事」は絵画の説話や蹴鞠の説話に似ているし、五九五「二七日の秘法に依りて、琵琶玄象あらはれ 『古今著聞集』巻一七「変化」もまた絵画説話や音楽説話の延長線上にある。五九四「内裏に群馬の音聞え、鬼と
巻一九「草木」も同様だといえる。歌舞音曲の六四九「殿上残菊合せの事」、六五一「清涼殿西の小庭に前栽を植ゑて管弦の事」は音楽説話であり、蒔絵を施した硯の蓋に菊を下絵にした檀紙を敷く六六三「定家、大蔵卿為長をして残菊を詠ぜしめ給ふ」は絵画説話である。巻一九では草木の移植がしばしば語られるが、それは絵画や音楽の継承に等しい。
巻二〇「魚虫禽獣」でいえば、歌舞音曲の続く六九〇「鵯合せの事」、七一六「飼ひ猿、能く舞ひて纏頭を乞ふ事」などは音楽説話である。それに対して、六九七「高尾にて三匹の猿、烏を捕りて鵜飼を模するを見る事」、七一〇「高陽院の南大路にて蝦合戦の事」は絵画説話にみえる。ほとんど鳥獣戯画の世界に近いからである。
このように『古今著聞集』では絵画や音楽がしかるべき役割を果たす。しかし、もっとも重要なのは「興言利口」であり、絵画や音楽とは異なる説話の役割が注目されなければならない。
3 説話の役割――興言利口
絵画の説話と音楽の説話を比べると、音楽説話のほうが狂気を帯びる。執念を主題とした巻一五「宿執」のほとんどは音楽説話である(四八五、四八六、四八七、四八九、四九〇、四九一、四九三、四九六、四九七、四九八、四九九)。しかし、『古事談』のような陰湿な執念はみられない。むしろ「恨み」を忘れるという点が『古今著聞集』の特徴である。「この左府の入道は、花園の左大臣の御ゆづりにて、右府の入道をこえて大将になり給ひたりしに、その恨みもわすれて、
かやうにとびらひ申されける、あはれにありがたき事なり」と四八八は記している。
四八四では髑髏の読経について「これらみな執のふかき人のいたりなり。善事は執にひかれて善所にまうづ。悪事にふかき執こそよしなき事なれ」と記すが、「宿執」を善事へと導こうとするのが橘成季の志向であろう。音楽への執念が救いをもたらしたりするからである。「妙音院殿は琵琶を弾じ給ひけり。孝博、心神安楽なりとぞ申しける。やや久しくありて妙音院殿はかへらせ給ひにけり。あはれにやさしかりける御わたりなり。孝博、老後に重病をうけては念仏などをこそ申すべきに、宿執にひかれて、楽を聞きたがりけるこそあはれに侍れ」(四八九)。これは重病の孝博入道が妙音院師長の演奏に癒される話である。また、次は忠実の箏への執念を語るが、「哀れにふしぎなる」話になっている。「夜ふくるほどには、時々その御箏の鳴り侍るとかや。入道殿の御宿執にてひかせ給ふにや。物をねぎ申さるなれば、そのことのかなふべきしるしには、必ずまた御箏の音の聞ゆるなり。哀れにふしぎなる事なり」(四九一)。
四九九では秘曲の演奏をめぐって争論となるが、父の喪に服しながら主張したことが認められている。「景基、ゆゆしくぞ侍るりける。申すむね、理なり。神慮重服の御いましめもなし。昇進とどこほりなくして、いまだ家になき五位の将監までのぼりにけるは、めでたき事なり」(四九九)。悪口が「めでたき事」に落ち着くのである。
同じく巻一五「闘諍」もまた陰湿な説話群にはなっていない。「かの犯人等は、大和の国と紀伊の国とのさかひにすみたりけるが、けふはじめて都をば見たりける者なり。さてかかる狼藉をもひきいだしたりけけるにこそ」と五〇三は殺生について情状酌量の由を記しているし、五〇四は殺そうとする男を「功徳に汝が命たすけん」と許し、許された男が出家する発心譚だからである。名高い五〇五の口論をみてみよう。千葉の介胤綱参りたりける、いまだ若者にて侍りけるに、おほくの人を分けすぎて、座上せめたる義村がなほ上にゐてけり。義村、しかるべくもおもはで、いきどほりたる気色にて、「下総犬は臥しどを知らぬぞよ」と云ひたりけるに、胤綱すこしも気色かはらで、とりあへず、「三浦犬は友をくらふなり」といひたりけり。輪田左衛門が合戦の時のことを思ひていへるなり。ゆゆしくとりあへずはいへてける。(五〇五「千葉介胤綱、三浦介義村を罵り返す事」)