心理学的力学の段階性
一正木教授などのレヴイソ批判を中心にして一
浦 武
人間の心理学的研究に於て最も根本的な問題の一つは,了解的研究法と実験 的研究法との対立であろう。この点に関して元京都大学教授,正木正氏がレヴ ィソ(K.Lewin)の研究方法について批判を加えているものがあるので,(正 木正:行動の心理,昭和19年11月,河出書房発行の第5章「行動の分析」及び 第14章「自我について」)それを材料として吟味検討してみようと思う。
〔1〕葛藤の問題(現実的内容の必要性)
多くの顕型的現象から元型を把握することは大事なことである。しかし我々 が日常生活の心理の問題を解決するには具体的事変についての説明と予測が要 求される。それには大雑把な元型的寂述だけでは役に立たない。それには具体 的事変に於ける条件と結果との間の関係の多くの知見一一人間知・人生学一 が必要とされる。未だ体系化されていない個々の場合に関するRege1(洞察,
知見,経験的知識等)も利用されねばならない。要求そのものの意識の層や生 活的意味等の問題を内観や観察や論理的洞察によって体系的に纒めようとする 時,それにはレヴイン流のトポロギー(topology)やベクター(vector)であ る程度迄進むことは出来るが,複雑な具体的内容になると・その表現の手段と しての価値は少い。言語的表現でなければ微妙な所は表現出来ないだろう。
道徳的行為に於ては,意識の上では比較的微弱なる道徳的情操からの動力が,
意識の上では比較的強力なる本能的衝動力を支配することが出来る。この所謂
道徳的行為に関する難問 もレヴインでは問題にされない。マクドウーガル
(Mc Douga11)の如きは之を情操の一一つとしての 自尊心 或は自負的情操
の働きに帰着せしめている。情操とは慾望が固定せられて,そこに努力的感情
的傾性を構成する場合に名付けられる。かかる情操の体系乃至欲求の体系のよ
うなものを考えないことには,複雑なる問題の詳細なる敲述は出来ないのでは あるまいか。葛藤の例で考えるならば葛藤する二つのvectorが倫理的動機か
ら来たものか身体的動機から来たものかにより葛藤の状態は異なっている。そ こから葛藤の性質上の分類が可能である。然しレヴインはそういう点は問題に していない。従ってレヴイソ的概念構成は基礎学として必要であるが,同時に その骨格に肉をつけるべき具体的内容の心理学も必要であるということにな
る。正木教授の「行動の心理」の中の「動機について」「情動一情念につい て」などの諸章に述べられていること,殊に哲人,文人の名言を引用し,それ を敷衛,補足して人間知的なものを述べている所は,レヴインの心理学と共に 存在の理由がある。
正木氏はフロイド(Freud)的なものから出発し,方法は経験的(empirical)
で,行動の根源として本能を考え,自我に関しては純粋主観を考え,体験の人 生的意味を考える時,それは価値的なものを考えているのであり,一見class−−
theory的色彩を感ずるけれど,勿論レヴイン,ブラウン(J.F. Brown)等の 影響も受けており,本能は実体的なものとして考えているわけではなく,力動 的構想も場の構想も取り入れている。殊に白鼠を使っての行動の変容過程の研 究では 展開的条件発生法 を提唱したりした。
しかし正木教授は科学的構成概念(construct)のなし得る心理学の分野のみ では満足出来ない。もっと現実の日常生活的心理現象の機微の問題についての 解答を要求した。そういう研究対象に対しては内省と観察と論理と洞察とによ
って答えるしかない。そこにPascal, Hilty, Montaigne, Simmel等々の Menschenkennerの言葉が引用せられる必要があった。そういう領域に於て
は・ 内観主義者は仮説を立てるが,それを実証しようとしない・・。(K6hler:
Gestalt Psychology・τ929・佐久間訳, P,82.)という非難が起らざるを得ない。
それは現実に忠実ならんとして理論の科学性,厳密性,実証性を犠牲にせざる を得なくなったものである。
正木氏の言う 現実性 とは何を指しているのか? この点についてもう少
し考えてみようと思う。心理現象として心理学が対象とするものは一定の瞬間
に於ける意識の複雑なる内容と,それの時間の経過に伴う変遷であると考える 人もある。それを客観的に行動に現われたものでなければ対象としないとか,
操作の出来ないものは取り上げても意味がないとか,逆に無意識の領域も含ま せるべきだとか,色々云われる。そういう心理現象に対して心理学のなすべき
ことは2つ以上の事象の間に関係(函数関係等)をつけ,一般法則を作り出し,
更に逆に一定の瞬間に於ける生活空間の基本的特性を知ることにより,その将 来に於ける行動を予測することであろう。
法則は一般化され,抽象化されたものである以上,実際の具体的心理状態全 部に関して云うものではない。力動的観点に立った法則では2つの事象間の因 果力動的関係に関係のあることだけしか云わない。そういう法則によって予測 が云われる限り,その予測の内容はやはり力動的変化の本筋に関係したことだ けしか云わないことになる。例えば葛藤の問題にしても先ず心理現象として葛 藤と名付けられる多くの現象の構造を分析し,2つの相等しい力が正反対の方 向に働く時起るという法則を見出したとする。そういう結論に至る迄には,任 意の個々の葛藤現象を考察し,その現象の現われ方に関係ある要因を探し当て,
それが多くの葛藤現象に共通のものであることを確かめねばならない。その過 程に於て,個々の特殊の葛藤現象だけに関係を持っていた要因は,法則化に対 しては除外,廃棄せられる。例えば大人が義理と人情の板挾みになっている場 合も,子供が菓子を取りたいがそれを食べてはいけないと親に云われている場 合も,共に第1図の如くに図示され,一括して葛藤現象と云われる。
此の2つの例に於て目指されている目標 の内容は違っている。前者では義理の実行 という倫理的善である。(それは準社会的 乃至準概念的な生活空間に於ける事象であ る。)そこではその人のもつ世界の価値ずけ
第1図
の体系(之は又欲求の体系でもあるが)が
事象に深い関係をもち,自我核(Kern)に触れる現象である。後者の例では目
標は菓子であり,それは身体的動機(レヴィン的に云えぽ真の欲求)に発する
行動である。衝動は現象的には強いが,極めて単純である。親に叱られるとい う消極的誘意性(negative valence)は意識的には菓子の誘意性より弱い時も,
往々にして強い身体的衝動を抑える程の実質的支配力をもつ。此の2つの例で は問題になっている人が大人と子供であり,誘意性の内容が違う。事象の力動 的本筋は同様であり,事象の推移の本筋も同様であるが,前者では後者よりず っと複雑な意識内容をもち,葛藤の振子連動は不規則であり,外界からの影響 も微妙に事象に変化を与え,葛藤の期間も概して永く,解決は容易につかず,
事象が一応経過して,葛藤が解消して後もその人の痕跡体系に大きな位置を占 め,人の構造を変化せしめ,或はコンプレックスとなり或は代償満足に誘い,
昇華作用となり,後々の行動に迄影響を及ぼす。之に対し後者の例ではそれは 一過性のものであり,すぐ忘れられてしまう。振子運動は規則的で単純だ。
かくの如く一口に葛藤として言われる事象の中にも,細かく見れば非常に現 象的差異が存在する。現実の吾々の生活上からすると,かかる差異は大きな意 味をもっている。後者の如き例は生活的意味は少いが,前者の如き葛藤は我々 の生活の中枢部を支配し,日々を懊悩に過し,或は思い余って自殺をしたり,
そこ迄行かなくとも性格的に変人化したり,或は発狂するに至るかも知れな い。生命も財産も名誉も葛藤の振子連動の如何によっては何の意味も価値も持 たなくなる。然るにその 力動 という見地からすれば元型的には2つの葛藤 の例では同じものと見てよい。元型とは因果力動的法則を直観的に示す如き典 型(ldeal−Typus)である。その場合の因果力動関係というのは,抽象の程度に 従って,極めて大雑把な関係から極めて微細な事象相互の関係に至る迄,多く の層をなしていると考えられる。葛藤の問題から例を取るならば相等しい力が 反対方向に働く時葛藤が生ずるというのは最も根本的な力動関係である。更に レヴインが分けている如く葛藤を3種類に分けて考え,第2図の如く考えると それも力動的関係を示したものであり,対象の誘意性の性質と位置の関係が考 慮に入れられたものであり,多少具体化してきたわけである。
之よりも更に具体化された場合,どうなるかは,現在の所はっきりいうこと
は出来ない。しかしベクターの振子運動の性質,(単純か複雑かなど)目標の
第2図
性質或は動機の種類などによって,葛藤を幾つかの類型に分けることは可能で あるように思う。それがやはり力学的見地に立って分類されたものであれぽ元 型といってよいであろう。かくして次第に具体的な層における元型に進み得
る。顕型の細かい点までもそれにはそれぞれの発生の因果関係があるはずであ る。しかしそういう具体的な細かな問題になると,未発達なる心理学体系の現 状では説明が与えられないことが多い。義理と人情の葛藤でも,そういう色々
の葛藤状態の特性は倫理的なものの葛藤だからそうなるのだと説明をすれば,
それはclass−theoy的であり,一向に事態は明かにはなっていない。われわれ は根本的なことで明かにせねばならぬことが山程ある。そういうものの一つ一 つの知識を積み上げて行ってこそ,具体的な細かな問題にも進み得るのであ
る。レヴインは具体的な細かい問題は一応後廻しにして,基礎を確実なものに 築き上げようとしているのである。 ・
〔2〕 レヴインの論理第1主義
正木教授は心理学の任務は行動,意識過程,精神生活の様式,文化の諸形態 などを記述し,その構造を明かにし,生の表現における一般的法則及び類型を 樹てることにあるといっている。(正木:心理学,昭和16年。p.3.)生の表現を 記述するには一義的表現方法が採られねばならない。行動や意識過程の構造を
明かにし,法則性を把えるには,どうしても事実を分析し要因を見付け出し,
要因間の関連を体系的に構成しなければならない。かかる概念構成,概念的操
作は,論理によって行うものである以上,正木教授も心理学において論理を重 視することを勿論否定するわけではない。ただ,論理的構成一点張りで行く点 に物足りなさを覚えるのである。心理現象には曰くいい難いもやもやしたもの がついている。それを正木氏はニュアンス(nuance)とよぶ。そういうものが 生活的意味においてはかなり重要な作用を行っていて,到底無視出来ない。そ こで正木氏は論理第一主義に対し,現実像第一主義を唱えるのである。実際の 所,概念構成はそう簡単に行くものではないから,現在の所,それは極く大雑 把なことしか纒められてはいない。従って心理の現実の姿からは遠いといわれ ても仕方はない。そこで現在の段階では折衷案として,論理的概念構成への方 向を推進させると同時に,心理現象の現実像の把握にも何等かの手が打たれね ばならないとすべきだろう。現実像把握の方法としては,日常経験に対する内 省や観察や洞察などが差し当って考えられよう。そうして得られたものはいわ ゆる人間知といわれるものである。なお具体的には後の問題の所で述べるつも
りである。
〔3〕 レヴイン的な概念的表現では行動の生々しい把握がなされないというこ と。(倦怠状態について。)
体験として極めて自明な事をレヴィンが一つ一つ記号に書き直すのは意味が ないと正木氏はいう。
しかしそれはもともと体験を基礎としてその対位的構成としてトポロギー,
ベクター心理学を作るのであるから, わかり切ったことを殊更に示す よう に見えるのは止むを得ない。しかしそうすることにより,正木氏も認めている ように表現は厳密になり論理的になり明確になる。なお重要なことは,それは 即事的表現であり,従って科学的であることである。
正木氏のいう 与えられた行動の,内容ある姿の生々した把握 とはどうい
うものであろうか? レヴイン的表現のdA,−Aが無味乾燥だと正木氏はいう
が, 自分は今の状態から逃れたい。だが目標が明かでないのだ。 という正木
式の表現はdA,−Aに内容的に殆ど何も加っていない。生々したものになるた
めにはその場面の状況,環境を構成する諸々のfactorがつけ加わらねばなら
ないであろう。例えば,何か悪い評判が立ったので,現在の土地には住んでい・
られなくなったから,何処でもよいから何処かよその土地へ行って住みたいと か,或はもっと簡単に,もう本を読むのはいやになったから,何か他のことを
したい,ということでもよいであろう。後者ではdA,−Aに伴う行動は単に 書斎を出て散歩に出ることであるかも知れない。しかるに前者では,遠い異境 に移り,周囲には誰も知っている人もいない淋しい生活に入り,世棄て人のよ うな生活を始める行動のdA,−Aという方向であるかも知れない。 dA,−Aに こめられた当人の感情,情緒の複雑さ,単純さを見,またそれに伴う行動の,
人生における意義の重大さを考える時,両者を単にdA,−Aとして概括してし まうのは余りに 無味乾燥 な表現だといいたくもなろう。
しかし現状を離れるということに関する限りでは両者共通であり,それを表 現する限りdA,−Aで事足りるわけである。そして現在の所,それより先の細 かい行動の予測は生活空間の諸要因の一層詳しい知見を以て補足するより他は ない。力学的にも異なった場の構造が与えられれば行動が異なって現われるこ とはいえると思う。それにしてもそういう条件の下におけるdA,−Aというも のから数学的に演繹出来るものは知れている。前者の例(世棄て人)において その入を永く知っている友人,あるいは誰かMenschenkennerが,その人を 見て,その将来の生活の運命を予測することの深いのとは比較にならないであ ろう。正木式心理学においては,そういう場合に一般に人はどういう行動をと り,一般にその後の運命はどうなるかというようなことを述べるかも知れな い。しかしレヴインの心理学では,そんな内面的な問題にまでは全然触れてい・
ない。
次にパスカルの引用句に就て考えてみよう。それは人間が現状に満足出来な くて他の事物へ欲求を起すから諸々の不幸の種子が出来るというのであるが,
それを 人間のあらゆる不幸が一室に安静に留っていられないというこの一事
から起るのを発見した。 とPasca1は表現する。問題になっている状況の中
の一つの、典型的な面を取り出して,全般を表現する所に,幾分の逆説的な味い
や奇抜さなどが出てきて,面白い表現になっているのである。しかし力動的に一
考えるならば,やはりdA,−Aに変りはない。 人間の不幸がdArAにあ
る。 といっても僕には少しも変には聞こえない。ただその命題の内容には疑 問がある。dA,−Aならば必ず幸福というわけには行かないであろう。現状が 快なるものであればよいが,中性的なものであったら,それは無記状態であり,
特に 幸福 というには当らないであろう。即ちdA,−A・・一不幸の逆は必ずし も真でない。またdA,−Aも必ずしも不幸の原因とばかりもいえない。希望,
あこがれ,向上への努力など,生命に満ちた精神現象はdA,−Aから出てくるよ うに思う。dA,−Aの行動の過程にこそ現象的幸福があるのではなかろうか。
パスカルの言葉は不幸についての一面の真理を述べているに過ぎない。そう いう名言とか警句とかいうものは,ニュアソスのある面白い表現ではあるが,
体系的真理を述べているものではない。dA,−Aだけで不幸の原因を述べ尽そ うとすることは無理であるが,パスカルの言葉の内容に関する限りではdA,−A で十分表現出来るように思う。この言葉におけるニュアンスは文学の問題であ り,心理学の問題ではないように思う。しかし幸福の感情を表現するというよ うな仕事は,トポロギー,ベクター的には不可能である。例えぽ 幸福は起伏 し,流動するごとき感情ではなくして,静かな穏やかな感情である。しかしそ れは自我の全面に深く拡りながら,絶えず内に向っては平和を,外に向っては 力を命ずる感情である。 (正木:心理学,p.242.)というごとき複雑な意識内 容は,レヴインでは手がつけられないであろう。幸福なる時に人はどういう行 動をとるかは,かかる敲述から多少とも推測することは出来る。レヴイン流の やり方ではニュアンスが表現出来ない,ということを,かかる複雑な問題は取 扱えない,という意味に解するならば,正木氏の説は受取らねばならないであ ろう。ただレヴイン的やり方で進んでゆく時,将来そういう問題を扱えるよう になり得ないということは断言出来ない。
正木氏はHilty, Pasca1, Montaigne等々の随想的文章をしばしば引用して
氏の心理学を豊富なものにしている。如何なる事態においては如何なる行動を
するか,という微妙な人間知は,かかるMenschenkennerの言によく現わさ
れているといえる。しかしそれらの名言は体系立ったものではない。整然たる
概念構成をもたない。それをなすことこそ心理学者の仕事である。しかし心理 学者が無力にして現在の状態ではその任務を十分に果していない。そこで生の ままで哲人の言葉を引用せざるを得ないわけである。正木氏がレヴイソを却 け,哲人の心理学に頼っているのもそのためである。
参考までに正木氏の引用文の一例をあげておこう。人が勝負事を好むという 点に関して註記して次のごとく述べている。「これらは生活の緊張から吾人を 解放し,一時的にしても慰安を与えるものである。しかしパスカルはこれらが 有する気晴らしの性質について,人間学的意味を洞見した。 惨めな状態にあ るわれわれを慰めてくれる唯一・のものは気晴らしである。しかしながらこれは われわれの惨めさの最大なるものに外ならない。何故なら,これこそわれわれ が自己を省みるのを殊更に妨げ,われわれを知らず識らず滅亡させるものだか らである。これがなければわれわれは倦怠に陥ったであろうし,この倦怠はわ れわれを駆って,そこから逃れ出ずべきさらに堅実なる方法を求めさせたであ ろう。だが気晴らしはわれわれを楽しませ,知らず識らず死に至らしめるので ある。 (Pascal冥想録171)(正木:心理学, p.109−110.)」これもレヴィンで はdA,−Aという以外に手は出ないのであろうが,パスカルにおいては,気晴ら
しについて人間学的洞察をしており,われわれにとって有益なる命題を与えて くれるのである。
〔4〕 レヴインの表現は現実の人間知の事実によって補われねばならぬこと。
(歓楽と悲哀との関係。)
歓楽が峠に達した時悲哀が既に始っている。
このGeorg Simmelの言葉を中心にして正木氏は論を進めた。これを←う所 与の組織Sは周囲の諸組織S、,S2, S3, S4……の状態と同質にならんとする仕 方において変化せんと試みるものである。⇔緊張中の該組織の境界において力 を含むものである。という2つの命題により力学的に説明しbs・bs ≠0によ
り歓楽と悲哀は峠で接することを表現することは出来る。しかしそれはまだ極 めて一般的,概括的表現に止っている。歓楽がどうして怒りや恐れと関連せず
して,悲哀と関連するか,というような問題についてはレヴイン的方法による
説明はまだない。正木氏の叙述を参考にしつつ,差当って僕が答を作ってみる と,大体次のようにいったらよいのではないでしょうか。
①官能的歓楽に飽和すると,他の領域に移りたくなる。
②喜びの情は現存の状況をそのまま保持しようとする傾向をもつ。しかし喜 びは力動的発展過程として生ずるものであるから,何時までも喜びにふけるわ けにはいかない。しかも喜びが現状維持を欲する時,そこに意識に間隙が生じ てくる。喜びに永く留る時,既にそれは喜びを止めて,空虚なあるいは悲哀的 な情動へ移行する。それは精神の力動につれて自己充実感が喪失してゆくから である。ここに我執煩悩のもつ悲哀性が考えられる。(正木:行動の心理,p.
298.)
③さらに喜びが先行していると悲しみは一層増加する傾向がある。また喜び
の明かな追憶に比例する。(op. cit. p.292.)
④歓楽は外面的なものの追求である。しかしそれの頂上までゆくと価値の転 換が起る。内面的なものへの追求へ変化する。すると従来の自己は全く価値を 喪失する。そこに悲哀が感ぜられる。(悲哀とは人間存在の価値喪失,自己限定 の認容の場合に感ぜられるものだから。)
⑤金と暇の自由で余裕のある人は,快楽には恵まれる。しかし快楽は一時的,
局部的であり,広く深く全体自我にまで融合することはできない。従って喜び のごとき,深くして平和な充実せる力の感情はもち得ない。(p.299.)
⑥正木氏は,ここに問題になるような快楽に対立するものとして幸福感を挙 げ, 幸福感は所与の状況の構造を起えた,普遍的世界への関わりの内に成立 してくる。即ちかかる絶対的秩序への確信,信仰によって現存在における自己 存在の充実感をもつのである。絶対的世界より迎え来る恩籠の力に恵まれるこ
とによって,自己の弱さの中に偉大なる力を感後し得るのである、かくして環
境や状況の変化にも拘わらず,常に平和と力と充実を体験し得るのである。喜
びは現象的の状況に依存するのに,幸福はそれを超えた一般者への信念的係わ
り方において,自我に力を与える所のものである。幸福は起伏し流動するごと
き情動ではなくして,静かな穏やかな感情である。しかしそれは自我の全面に
深く拡りながら,絶えず内に向っては平和を,外に向っては力を命ずる感情で ある。ヒルテイは次のごとくいう。「幸福の第1の必要欠くべからざる条件は,
倫理的世界秩序に対する正しき信仰である。」(op. cit. p.300.)
⑦歓楽の峠にまで行ったのだから歓楽的欲求に対する要求水準は極めて高く なっている。それ以上は一寸望み得られない所まで行っている。しかも何かの 事情で今までのごとく歓楽的欲求の満足が自由にならない時は,要求水準の低 下を余儀なくされる。要求水準の低下は自我水準の低下を意味し,それは不快 なものであり,悲哀に満ちたものであろう。
⑧目標はそれへの道程にある間は,好ましいものとして目指されるのである が,一旦その領域に入るならば,既知のものとなり,新鮮味はなくなり,刺激 には慣れてしまい,誘意性を喪失する。そこに幻滅の悲哀が感ぜられる。
⑨歓楽を尽せば人間社会においては経済的破綻を来すか,対人関係に何か問 題が起るかなど,いろいろ外的環境の変化が生じ,そこから生活空間の構造の 変化を余儀なくされるに至ることもありうる。などの事情が考えられる。
以上のごとき説明で,何故歓楽が悲哀と関連するかの問題に一応の解答を与 え得られよう。ところどころレヴイン的用語も用いたけれど,大局から見て,
かかる叙述はレヴイン的方式からはまだやれないものである。しかしてかかる 問題を正木氏は重要視しているのである。
〔5〕デンボー(Dembo)の怒りの実験に対する批評
矢田部達郎教授は Francis Baconの心理学 に就て述べている所で(矢田 部:「言葉と心」p.91−2) ベーコンは経験科学の祖といわれるけれども,遂に 経験的な心理学に触れることがなかった。 といっている。ベーコンの興味は 人性哲学であり,それは人間の本性を論ずるもので,主として人間の不幸と特 権,倫理などが興味の中心に置かれた。彼の発問の仕方は全く功利的であっ
て,いわゆる科学的興味から出発したものではなかった。しかし彼の Essays の中の 怒りに就て を読んでみると,次の3つの問題を扱っている。{ベーコ ン著,神吉三郎訳:ベーコン随筆集(岩波文庫)p.253.}
①怒るという自然の傾向と習慣を和らげ鎮める方法
②個々の怒りの爆発を抑圧する方法。あるいは少くとも害をなさないように 制止する方法。
③ 他人の怒りを招くようにする方法とこれを宥め鎮める方法。
以上の3つの点に就て述べられている。これに対し正木氏の「怒りについて」
なる項(行動の心理,第13章 情動一情念について,の最初の項目)では
①怒りの身体的表出,表情
②怒りの現われ……対象の征服,対象の破壊,自己の防禦,復讐など。
③怒った時の心理過程……意識の原始状態化など。
④怒りの条件発生的構造……自己の低下の意識自己意識の過敏性,自己意 識の防衛性,自己意識の解釈性
⑤憤り,公憤,共同体的怒り
⑥運命への憤激……天災への怒り。……神の怒りとして諦める。
⑦ 怒りの消失過程……コンプレックスの形成,昇華作用。
⑧怒りの場面の社会性……親和の方向でなく,離反,争闘の方向にある。怒 る者は孤独だ。
ベーコソの叙述は元来概論的なものではなく,随筆である。それで特に興味
のある,また実用性のある④の怒りの条件発生的構造に関連したことを述べて
いるわけである。そしてその限りでは正木氏とベーコンでは殆ど変っていな
い。全般としても正木氏は比較的網羅的に怒りの色々な面を枚挙して,それぞ
れに説明を加えたに止り,説明の方法はベーコンと大して異なるところはな
い。そういう意味からすれば,正木氏はデソボーの研究がベーコソ以上の事を
述べていないとしてデソボーの価値を疑っておられるが,そうすることは正木
氏には出来ないわけである。デンボーは従来の平均観察による研究には満足出
来ず,怒りの条件発生的研究により,法則を見付けようとしたが,怒りの勃発
するに至るまでの発展過程,中間位相が日常生活の怒りの観察では十分に得ら
れないから,実験によらねばならぬとした。しかし実際彼女がやった実験から
得られた記録は,結局のところ人間学的洞察をもった哲人の言葉以上には出て
いないようである。彼女が拒ける 平均観察法 も因果関係,条件発生的関係
に関する観察を含み得る。怒りの中間位相としても,注意深い観察者には日常 経験の間に看取せられることは可能である。結論としてここでも次のようにい わねばならない。即わち,実験的研究はわれわれの法則的命題を確実性あるも のとなし得るし,公共的なものとなし得る。しかし現在までの実験技術の発達 段階では,微妙なる点の条件発生的研究にまでは進んでいない。それで,現在 までの成果は哲人の洞察以上に出ていないことを認めねばならぬが,今後の発 展を考える時,哲人の洞察はなおその断片的知識を体系的に纒めるべき仕事は 残されているとはいうものの,大局から観れば既に行き詰っているのに,実験 的研究には洋々たる前途が拓けているといえよう。ただし一般に心理学の問題 がそうであるように,全く新しい発見というようなものは滅多にあり得ない。
II]常生活上の経験において,多少とも知識を持たない心理現象はないから,怒 りの条件発生的構造に関しても, ある意欲,意図の実現に対し妨害を受けた 時または好ましからざる状況に刺激する時,その相手,対象に対し,または状 況に対して一種の感情的興奮が生じ,強い緊張を醸してその妨害物や刺激の克 服に積極的な圧力の発動するところに怒りの情動発現の構造がある。(op. cit.
p.276.)とか 自己の低下の意識 が怒りの発生の主要因子であるとか述べる
(op. cit. p.277.)段になるとそれは必ずしも実験を要しないで明かである。
障壁が存する時,どうして障壁打破への緊張が生ずるか? その時どうして 感情的興奮が伴うのか? などの問題はレヴイン心理学に特に期待出来る問題 ではないであろう。ただ如何なる障壁の時,如何なる自我の状態の時,怒りが 発生するに至り,どういう条件の時怒りが発生しないかの具体的な細かい条件 を精密に探るには,やはり実験的研究に侯たねばならないであろう。レヴイソ は実験の必要性を説いて次のようにいっている。 ただ1回の実験あるいは全
く僅か2,3回の実験によって,数千回の日常生活の経験に基いて樹立するこ とが出来るであろうと信じられているような法則を,証明力を以て否定するこ とが出来るということも起るのである。 (後藤岩男訳:心理学における法則と
実験,P.93.)
その1例として,連合説並びに通俗の習慣理論の誤謬発見のことを述べてい
るが,その場合でも,ポストに手紙を投函するような日常生活の事例をよく考 察するならば,そして力動的な観察眼を以て見,例外的なものを残すことなく 考察するならば,何も実験に訴えるまでもなく,緊張理論へと移行することが 出来るであろう。実験はその仮説に対し異議が申出られた場合の証明の手段と して使えばよいだけである。あるいは力動的事実に就て考察する場合,もし事 実に対し曖昧さが感じられる時には,実験的事実を生起せしめ,その確実なる 事実の基礎の上に考察するという事も考えられよう。何れにしても大綱は日常 生活の考察によって指示され,実験はその補助手段としての価値をもつわけで ある。レヴインも次のごとく言っている。 実験心理学の中には,余り根の深く ない研究が沢山あるということは,勿論私の見逃さないところである。そして 同様に医師の経験や日常生活の経験がわれわれに与えてくれる設計や洞察の大 部分を何れにせよ少く見つもるべきではない。将来においてもまたここに心理 学的研究と心理学的認識の本質的な源泉が存在するであろう。 (レヴイソ著後 藤訳:心理学における法則と実験,p.420.)さらに彼は語をついで, 現在既 に知覚心理学においては実験的研究そのものから由来した諸問題が問題提出に 対してますます本質的になっているごとく,「高等」精神生活の心理学において
もまた実験的事実の比較的な重要さが漸次に増加しつつある。 (op. cit. p.420)
心理学的力学ではニュアンスの表現に乏しく,従ってデンボーの実験だけで は物足りないという点に関しては,関計夫教授も次のごとく述べている。
現象の条件発生はどの程度まで行われ得るものであろうか。例えばわれわ れは条件発生的考察によって,怒りの一つ一つの細かいニュアンスを説明し得 るであろうか。それは結局デンボー女史の劃期的実験に見られるごとく,怒り の大体の生起の説明に終るのではなかろうか。もしこれが心理学が若少科学で あるためであるならば幸である。しかしわれわれはデユルケイム(DUrkheim)
流の条件発生的社会学が現代人の不安煩悶を十分に説明し得ないところから,
多少社会学においては現象学的傾向が存する事を見逃すわけには行かない。よ
く顕型と元型の区別として,子供がチ・コレートを取らんとするのと大人が名
誉を求めるのとは顕型的に異なるも元型的に同一であるといわれる。しかしわt
れわれは果してこのような粗雑な元型に満足し得るであろうか。それは単なる 外的理解(条件発生的,原因的理解)に止るのではなかろうか? われわれは 寧ろ力学的理解は,現象学的理解を深めれば深める程益々その本領を発揮し得
ると考えたい。 (関計夫:ゲシュタルト心理学研究,昭和19年,第2章,力学
と現象学,p.122・)
関氏も正木氏と同じくレヴイン心理学への不満足さを感じつつも,現象的学 理解は条件発生的,外的理解への手段という位置に考えている。
さらに心理学的力学には 味がない 点に関しては関教授は次のごとく述べ
ている。
「力学の法則はすべて知的である。知覚に就ても感情に就ても意志に就ても この点に変りはない。例えば感情のごときもan sichには感情であるが,感情 のfUr sichの力学は知的である。
感情の力学とは,感情の知的了解以外のものではない。感情を研究する手掛 りとしてはこれを現象学的に考察することがあっても,それは飽くまで手掛り であって,結局は感情の力学,即ち知的了解を目指すのである。それは芸術家
や小説家が,感情を感情として描き出すのとは根本的に相違する。これは力学 がともすれば 味がない という感じを抱かせる理由である。しかしこれは心 理学が一つの学として,知識の体系として止まる限り,避け得られない限界で ある。もしそうでないなら,われわれは心理学を止めるより以外に仕方はな い。しかし学問は要するに実在の真相を伝えるのが目的である。従って実在の 知的側面のみに拘泥することは,決して学問のために歓迎すべきことではない
であろう。」(関,OP. cit. P.126−7)
ここでも関教授は正木教授のいうような力学の欠点乃至限界を認めると同時 に,しかし力学第1主義を棄ててはいない。
(6〕 人の構造 についてのレヴインの理論への正木教授の批判について 正木教授の「自我」に対する考えは大体ミード(C.D. Mead)のものを受け
継いでいるようであるから,まずそのミードの自我説から考えていく。ミード
は自我(Self)を 1 と me とに分ける。1は常に行為しつつ行く進行的
の自我であり,行為の純粋な主体である。これに対しmeは他人の反応を自ら に含み,1を包み,それを周辺より支配してゆくものであり,意識された行為 的主体である。他我に対立するものとして認められる自我である。すなわち,
他人の態度 を取ることにより見られる自我がmeである。人間の生活史的 所産として,含蓄ある自我の内容を構成しているものである。ウィリアム・ジ
ェームスの自我説において純粋我(pure ego or I or the self as knower)と
いわれるものはミードの1に当り,ウィリアム・ジェームスが経験我(empirical ego or me or the selfas known)と呼んでいるのは,ミードのいうmeに当
る。経験我には物質我,社会我,精神我が分けられる。
ミードの理論から正木教授はさらに細かく進んで,meに周辺部と中枢部と を分けている。周辺部のmeは長い生活史の規定でもって固定化し,習慣化し それぞれの社会的状況に応じてある方向への活動を導くように傾向ずけられた
もので,日常の社会的交渉はかかる周辺部のmeの下に行われゆくものである。
社会的儀礼,行儀作法,体面などはこういうmeの下で行われる。 meは保守 的順応的妥協的で,その意味で社会に捉われている自我の姿といえる。
中核的meは1に直接帰属して,1のまさに実現し行かんとする意図,動機 を直接内容として現われ,また周辺的meとの関係において,1の方向を直i接 規定する自我領域として現われるものである。 自我が反省または自覚的決意 過程において直接現われてくる自我の姿ということが出来る。だから1の絶え ず行動してゆく過程の直接感情を内容として農開してゆくものである。(正木:
行動の心理,p.343.)
1が順調に活動してゆく時には,中核的meには 力の感情 が起る。自惚 れも中核的meに起る感情である。困難や打撃の体験は周辺的meの意味を変 え,従って中核的meの内容もまた移動する。周辺的me,中核的meは従来 の構造連関を変革し,従って1の実現行動もまた変らざるを得ないのである。
悩みとは周辺的meと中核的meとの葛藤,不安,対立の中に,1の営みゆく
現実である。
以上で正木氏の懐く自我の構造を概観したのであるが,こういう構想はレヴ
インの 人の構造 とどういう異同があるのであろうか。
レヴインでは1に相当する純粋の行為の主体は特に考えられていないが,彼 が核(Kern)と呼んでいるものはこういう特性をもっているようである。これ に対しmeに当るものはレヴインが人と呼んでいるもの全部に相当すると考え
られる。
周辺的meはやはり内部領域中の周辺部に対応すると一応考えられる。レヴ ィンの自我核という概念ははっきりは述べられていないが,中核的meと1と の併ったような機能を営むものと考えてよかろう。所が正木氏自身では初めに 述べたように1を自我核としmeを周辺領域(Peripheral region)として表現 するような位相心理学的(topological)な表現方法を拒否して,それを 立場 が全然異なるのである。 と説明している。正木氏自身既に 中核的me とか
周辺的me とかの語を使う時は,何等か空間的なものを考えているのであ る。それを単に模型乃至比喩として使うにしても,レヴインのやった程度まで 細かく進めても差支えはないのではなかろうか?
人を非計量的空間としてトポロギー的に表現し,対位的定義によって,類 推して,概念の明噺性を救わんとしてゆこうとするトポロギー心理学には,初 めから自我そのものの現実性への洞察がないのではなかろうか。……トポロギ ー的にいかに自我の構造を分析しても,自我は現われないであろう。(op. cit.
p.341−2)
レヴィソに対するこういう非難は一体どういう点を具体的に捉えて言ってい るのか了解が困難である。さらにミード的自我の構造観がレヴインのに比し,
どれ程現実に近いのかもよくわからない。ただ考えられるのは,正木氏は意識 事実を中心にして考えてゆくのに対し,レヴイソは客観的行動に見られるもの
を中心にして考えてゆこうとする点である。しかし正木氏とても客観的行動を 無視することは勿論あるはずはなく,・レヴィンにしても意識事実を全然無視す
るわけでもないと思う。ここにおいても目指すところは同じで,ただ出発点と して選ぶものの比重が違うという結論に落付くようである。
レヴィンの人の構造の構想は非常に簡単なものであり,そこから演繹できる
ものは乏しいことは確かである。また領域の位置の関係だけでは,自我の現実 像を示し得ないのは明かだが,それを基礎として,領域の意味内容(meaningfuI content)を盛り,領域相互間の力動的関係や領域の境界線の機能などを附加 して構成してゆくならば,かなり精密なところまで表現できるのではなかろう か。そして結果においては正木教授が目ざしたところに近ずき得て,しかも対 位的定義により概念の明析性,一義性を保持し得るから,かなり科学的,公共 的なものになり得るのではなかろうか。
(7〕 殼力sSミり現象
正木教授のいう中核的meの存在は認めなけれぼならない。精神分裂病の作 為思考,作為行為といわれる症状(自分の思考や行為が自分でやるのでなく,
他人によって操られているごとく感ずる現象)は自己所属感の喪失であり,心 的能動性の減退として解されるようである。これは正木教授に従い,中核的me の喪失として解釈してよいと思う。
「自分を如何にして表現するか,如何なる価値を自分は保有しているか,如 何なる価値を追及するものであるかとして他我の態度を背景にして展開する自 我」としての中核的meは,独特の機能として認めねばならない。レヴインの
いう内部領域の中枢部と周辺部は周辺的meの二重構造に過ぎないと正木氏は いう。殻かぶり現象は,周辺的meの形成されゆく過程であり,自閉症も周辺 的meの一つの極端な現われ方に過ぎぬとする説は一応うなずくことが出来 る。しかし殻をかぶった場合,その厚い隔壁の内と外とは一応異なる領域とし て区別した方が便利である。その性質は大部異なっているから。結局私は正木 説とレヴイン説とは綜合され,自我の構造としては1,中核的me,中間的me,
周辺的me,運動感覚領域などに分けて考えるのが適当ではないかと思う。しか
しこれではかかる構造を考える根本的立場が曖昧であるといわれるかも知れな
い。しかし, 科学的,客観的 を標榜するレヴィンも,内部領域の中枢部と
周辺部とを分けて考えるべき科学的根拠としてはカールステン(Karsten)の実
験やデンボー(Dembo)の実験結果を使っているに過ぎない。カールステンで
は興味あるものは中性的なものより却って早く飽和するという結果が出た。そ
の結果を解釈する際,興味あるものは自我核に近い領域が緊張するのであり,
中性的なものは周辺部のsystmが緊張するのだと考える。その辺の手続は多 分に従来の心理学の真似であり,いわば意識主義的考え方である。ここでも心 理学の問題を現実の姿を掴む点にあるとするならば,折衷的であっても色々な 視点からの概念構成によって具体的なものに近ずく事は無意味ではないと思
う。