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科学的眞理の本性

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Academic year: 2021

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(1)Title. 科学的眞理の本性. Author(s). 山本, 嘉太郎. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 5(2): 34-43. Issue Date. 1954-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3552. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 5乾 第2 号. 北 海道 学 塗 大 学 紀 要 (第一部). 科. 学. 的 山. 理. 員 本. 嘉. 太. の. 昭和29 年12月. 本. 性. 郎. 旭川分校哲学研究室. Katar6 YAMAMOT( ) i i Character i賃c Truth st cs of Sci ent. 員理は科学者達が常にその発見と確立とを目ざしているところのものであるが、 科学哲学の歴史的発展に伴. ってその概 念はさまざまに考えられて来た。 そうしてこの贋理は古来単に科学に於いてばかりではなく、 宗教 や整備に於いても しばしば使用せられた術語であるがために、 多種多様の意味をせおっているのである。 しか. し我々がここで員理と云う時、 それはもっぱら科学的員理を意味する。 そうしてそれは宗教的員理や婆術的員 理と呼を れるものとは混同 してはならないものとして考えるのである。. ところで周知の通りにカントは先験的観念論の立場に立ち、 認識は先験的統覚に依って構成せられるもので. あると考えた。 特に彼は贋理は実質的内容的員理ではなくて形式的先験的員狸であるべきであり、 それは認識 と認識 それ自身とが合一するところに於いて成立するものと考えた。 つまりこの形式的員理は認識と悟性並 び に理性の一般的法則とが合一するところに於いて成立すると考えたのである (「論理学」 第七草認識の特殊的論. 理的完全性) 。 カントは認識についてはどこまでも先験的観念論の立場からこれを見つつ、 同時にまた対象に対 しては経験的実在論の立場からこれを見ることを留保 した。 しかし新カント学派の人々に至っては認識や贋理. をもっぱら先験的観念論の立場から考えることとなったのである。 即ちコヘ ンに於いては認識は先験的な純粋 2 年) 思惟の所産であるとして見られた(「純粋認識の論理学」190 。 またリッケルトに於いてはカ ントの場合と. 同様に認識の主体は先験的な意識一般であり、 贋選は絶対的に妥当する判断の必然性に於いて興えられる優値 「認識の対象」 1892年) として考えられた ( 。 カントが上のように認識の能力を人間自身に内在するものとして 発見し、 この見方に立って科学の基礎づけを試みたことは誠に正 しかった。 ただ しかしカントが認識がもっぱ ら先験的統覚と云った如き主観的なものに依って構成せられるものとして考え、 贋理を単に形式的鱈理として. 規定したことは一面的な判断であった。とくに新カント学派の人々のように認識を全く客観的に実在する対象か ら切り離して、 これを徹底的に純粋認識や意識一般と云う如き先験的なもの主観的なものの 所産と考えること は更に一層一面的な判断であると云わなければならない。 贋理としての科学的知識はそれが人間自身の認識機 官の活動を通 して形成せられるものであると云う意味に於いては 明らかに 主観に依って 構成せられるものであ. り、 且つそれが論理的な言語形式を通して表現せられるものであると云う意味に於いては形式的表現であると 云うことはできる。 けれども科学には必らず自然や人間と云う如き認識の対象があり、 贋理としての経験的 科 学的知識は客 観的に実在するかかる対象の概念的映像 である限り、 その基準を単に主観的なものや形式的なも のの中にのみ求めてはならない。 虞馨の基準は単に主観的概念の中にだけではなくて同時に客観的実在の中に、 単に形式的言語の中にだけでなくて実質的普遍的論理の中に求めなければならないものなのである。. 科学的員選に対する最近の最も詳細な 且つ有効な考察は論理的実証論並びに弁証法的唯物論の立場から試み. られている。 この中で論理的実証論、 特にその最近の段階に属する意味論も しくは言語分析の立場に立つ人々 は言語分析を哲学の任務と見る闇圏から贋理概念について詳論 している。 即ちタルスキーはアリストテ レスの 震理の規定を不十分であると考え、 これを発展させて新しい贋理の規定を試みた。 彼は言語体系を対象言語と - 34 -.

(3) . 科学的贋選の本性 高次言語の階層に分け、 対象言語に属する文章 S を高次言語に於いて示す名称を × とし、 おなじく S を高 次言語に於いて孫訳した表現を P とするとき、 P が成立した時に限り X は虞であるとし、 また X が贋であ るならば X は文章であるとした。 そうしてこの二つの{ 条件がみたされた時に贋理が成立すると規定したのであ. 「形式化された言語に於ける贋理概念」19 る( 35年) ‐従って体系化 。 またカルナップも誰号が Syntax の方法に. され、 続いて記号の指示する対象が決定せられ、記号の一定の組合せから成る命題の指示する事態が成立す る時 「意味論序説」i942年) にその命題は鱈狸であるとした ( 。 このように最近の論理的実証論に於いては贋選が言 語と意味との関係の側面から見られ、 その成立可能のあらゆる場合が詳細に規定せられるのである。 科学的認. 識は必らず認識機官と言語機官の共働を通して行われ、 科学的知識は必らず言語的表現を通して形作られるも のであるが故に、 虞璽を言語分析を通 して規定することはたしかに正しい方法ではある。 近代以来の形式的論. 理学や純粋数学の如き形式的科学に属する諸科学が、 この論理的実証論の贋理論に導かれて飛躍的な発展をと げた事実は一隙その正しさを物語っていると見なければならない。 がしかしすべて形式的に矛盾するところの 無い論理的に撞着するところの無い言語的命題が常に無傭件に科学的員理であると云うことはできない。 即ち 例えば厳密に数学的論理と物理学的推理を通して形作られたところの相対論以前のエーテル説や、 宇宙構造論 を表現した言語的命題が今は塞女となったことからもこのことが知られるのである。 人間はその独特の認識機 官の活動を通してさまざまな概念的世界を考え出し、 これを言語的命題に表現して世界 像を体系化することが. できる。 しかしここに言語的命題 に依って表現せられ形成せられた概念的世界像は常に必らずしも客観的に実 在する世界を意味するものではない。 例えば数学に於いて n 次元空間と云う場合、 そこで直ちに n 種の物理. 的な空間が実在することを云うのではない。 それは二次元、 三次元の室間 から n 次元の寡聞 に至るさまざまな 性質の塞間が思考 し得られると云うことに他ならない。 従ってこのような形式的科学に於いて 思考された諸命 題をその無矛盾性の儀件をもって多贋論理学的に贋理として規約することは不可能なことではない。 しかし自 然や人間と云う如き、 具体的に客観的に実在するものを研究対象とするところの自然科学や社会科学 に於いて 虞理として規定せられる命題は、 どこまでも厳密に対象 的世界を表現し、 これと対醸し合一するものでなけれ. ばならない。 ここでは対象的世界の員選を表現しておらない命題は贋理ではなくて誤謬であるとせられる。 そ. れ故に正確に科学的員璽の概念を規定するとすれば、 単に主観的な形式的な言語的命題の側面からばかりでは なくて、 同時に客観的な実質的な対象的世界の側面からもこれを行うべきである。. 科学的員理をもっぱら客観的実質的な側面から考察し、 これを客観的鱈理であるとして規定するのは弁証法 的唯物論の立場に立 っ学倣である。 周知の通りにこの立場に於いては意識の外にこれと独立して実在するすべ. てのものが物質と名づけられ、 虞理とはかかる物質的外界が意識の中に贋に正しく模写せられ反映せ られたも のであると規定せられる。 即ちここでは贋理の基準は対象としての客観的実在と知識との合一に求められ、 か かる客観的実在と完全に一致する知識が贋理であると規定せられるのである。 そうして虞埋は常にこのような. 客観的実在を正確に反映したところの客観的実質的贋理でなければならないと考えるのである。 ただ しここで 員哩と しての科学的知識は客観的実在の贋正な模写であると云うけれども、 それは過去に於ける素朴実在論や. 機械的唯物論の段階に於ける模写説なのではない。 ミーチンを始めと して多くの人々が論及 して来たように、 ここでは認識は一挙に達成せられ、 完結するものではなくて、 どこまでも弁証法的に発展し行くところの過程 的なものと考えられる。 即ちこの学振に従えば外界の認識は必らず先ず感覚から始まると見 る。 即ち先ずタ ト界. は感覚機官への刺戟を通 して感覚に轄化し、 表象に移行する。 次にこの多種多様な表象は概念、 判断、 推論へ と軸化 しつつやがて統一的な世界映像に移行せしめられる。 そうしてこの映像は外界に向っての検証を通して まずその本質を模写し反映 したところの正確な贋理となると考えられる。 且つこのような認識の発展は人間の 外界に向 って長期にわたる不断の実践を通して始めて達成せられると云うのである (「弁証法的唯物論」 認識の. 過程) 。. 上のようにして虞圏の基準をもっぱら客観的実在の・ 便 りに求め、 これを客観的贋 理と して規定することは客観 的実在としての自然や社会を対象とする自然科学や 社会科学に於ける虞埋の 規定の仕方としては 実に正しいと 云わなければならない。 ただしかしこのように員理を認識のタトに、 客観的に実在する物質的外界の贋正な模写であり反映であるとし て規定する場合、 純粋数学の如き形式的科学と呼ばれるものの贋理の基準をどこに求むべきかが一瞳問題とな 5一 -3.

(4) . 山本嘉太郎 るであろう。 直観主義の段階から公理主義の段階に進んだ現在の純粋数学に於いては、 命題と命題に対照する. 客観的実在との関係は全く問われない。 即ちここでは先ず原始的乃至原理的な命題としての公理が立てられ、 これを前提として形式的論理に従い、 形成可能のあらゆる命題を導き出しつつその全体系が形作られるのであ る。 そうしてこれらの諸 命題の員偏は、 個々の命題自身の中の無矛盾性、 もしくは各命題間の無矛盾性を基準 と して決定せられる。. しかし純粋数学の諸命題も実はその最も原始的な原理的なものにさかのぼって見れば、 それは必らず或る何等か の意味に於いて客観的実在と関連し、 そこに内在する論理と対醸しこれを表現してい. ることが知られる。 即ち数や峯間に関する基礎的な公理が実在する自然や室間の抽象的表現となっている事実 がこの, 例である。 この事実は直観主義の立場から肯定せられることは云うまでもないが、公理主義の立場からも あえて積極的に否定せられるべきことでもない。 数学のあらゆる命題 はこのような基礎的な命題を前提とし、. ここから論理学の示す推論の法則に従って展開せられたものである。 それ故に数学に於ける諸命題の中には客 観的実在の存在の仕方に対臆する段階のものから、 さらにこれを越えた多種多様の段階のものが含まれること となるのでる。 例えば無限次元の峯間についての諸命題の場合、 三次元もしくは四次元空間の命題 は 実 在 案. 間に対臆 しこれを表現することもできるが、 他の諸命題は必らず しもそうではない。 Lかし後者はどこまでも 前者と論理的に連結したものであり、 前者の論理的 発展の結果思考的に形作られたものである。 従って数学に 於ける諸命題は一方に於いては主観的な思考の論理に貫かれているものであると共に、 他方に於いてはまた客 観的な実在の論理と対臆 し得るものであると云うことができる。 即ち数学に於ける贋理としての命題は一面に 於いては人間独自の創造的な思考の論理に従ったところの主観的形式的員理の性質を有すると共に、 他面に於 いてはまた客観的実在の存在の仕方に対礁するところの、 乃至は不断に更新 し発展 し行く客観的実在にも対臆 する可能性を草むところの、 客観的実質的贋理の性質をも有するものである。 このように純粋数学の諸命題と. 云えどもその原始的原理段階に於いて客観的実在と関連し、 また或る命題は常に客観的実在の表現への適用を 通 してその贋理性が保証せられるべきものなのである。 純粋数学に於ける諸命題ばかりでなく、 その他の形式. 的科学に於ける諸命題もまた同様にして主観的形式的員璽の性質と共に、 同時に客観的実質的贋理の性質を有 するものであることが知られる。 如何なる客観的実在とも全く無関係の命題、 そうしてどこまでもこれと対臆 し、 これを表現することのない命題、 も しもこのような諸命題の体系があるとすれば、 それ等はもはや科学的. 命題ではなく、 科学的贋鰹ではないのである。 おしな べて形式的科学と呼ばれる諸命題の贋浬も、 その性質を厳密に分析 して見れば、 必らず或る何等かの 仕方 で客観的実在との対騰関係が発見せられ、客観的鱈理としての性質を含んでいることが知られるのである。. さて以上に於いて逓べたような贋理の概念規定についての諸説を綜合すれば、 科学的員埋とは客観的に実在. する対象的世界の存在の仕方を完全に模写した科学的知識であると云える。 そうして科学的知識は必らず言語. に依る命題と して表現せられるものであり、 常に体系的な世界像として統一せられるものであるが故に、 科学. 的員蓮はまた客観的に実在する対象的世界の存在の仕方を正しく表現した論理的命題であり、 これと完全に対 ′える。 そうしてこのような科学的員理は主観的形式的員理と しての性質をも 隙し合一する世界像 であるとも云 つものであると共に、 必らず客 観的実質的贋理としての性質をももつべきものと云える。 従ってこのような意. 味に於いて科学的員選の基準は単に主観の側からだけではなくて、 同時に必らず客観の側から、 単に思考の側 からばかりではなく同時にまた必らず物質の側からも求められるべきであり、 両者の正確な対聴と完全な合一 の中に求めなければならない。 ・2. ところで我々は尚進んでこの科学的員選の性質に関する重要な問題について考案 しなければならない。 まず. 科学的員選の発展性の問題について考察する。 即ち科学的員理は永久的細対的なものか、 過程的相対的なもの かと云う問題について考える。 周知の通りに形而上学的観念論の立場からは、 しば しば贋理とはどこまでも永久的不変不動のものであり、. 完成 した絶対的なものであることが主張せられて来た。. しか し宗教的贋狸とか墜術的員理とかと呼ばれるもの. についてはそのようなことが云えるかも知れない。 が少くとも上に規定 した科学的員理はこのような性質をも. つものでは決してない。 例えば物理学に於いて確立された近世の古典力学的世界像は近代このかた相対論的世 - 36 -.

(5) . 科学的贋理の本性. 界像や量子力学的世界像へと発展 した事実や、 天女学に於いて達成された近代のノ・← シェルやカプタイ ンの宇 全ける驚倒に値する深大な相対論的膨脹宇宙論へと発展した事実等を見れば、 科学的員理は決 宙論から現代に万 して恒常不変のものではなくて、 科学者達の不断の研究に依って次第に変化 し発展 し行くものであることが知 られる。 これに反 して餅証法的唯物論の立場からは虞埋は何時までも変化 しない永久的贋理とか、 完全に終結 した細. 対的贋理とかと云うようなものでは決 してなく、 それは不断の実践を通 して変化する過程的員埋であり、 個別. 的特殊的段階から普遍的一般的段階に向って発展し行く相対的員埋 であると見られてい る。 このよ 動こ員理を. 無限の発展途上にある過程的員理、 相対的虞埋として考えることは、 人類に依って確立せられて来た現在まで の科学の歴史に照ら して正 しい見方と云わなければならない。 実際に各時代の諸科学に於ける知識体系もしくは世界像 を見れば、 それは常に発展の途上に位置 して過程的. な性質をせおい、 ただそれぞれの段階に於いて相対的に虞理として妥当するものに過ぎない。 例えば物理学に ついて見れば、 十九世紀の終るまで贋理として妥当 していた古典力学的世界像は、 二十世紀 ,の初頭に相対論的 世界像が展開 して以来、 単 に惰性系 的世界に於いてだけ通用するものとして残されることとなった。 しかしこ. の相対論的世界像は徴硯的世界を完全に表現し得 .ないことが知られるようになり、 やがて量子力学的世界像が 展開せられなければならなかった。 しかしこれ等もまた完全な員理として妥当しないところが次第に知られつ. つあり、 二十世紀の後半に入った今日に於いては何か或る新しい世界像の展開が要請せられ且つ試論されても いる。 最近の統一場理論や超多時間理論等の試論がこれである。 また天女学について見ても二十世紀に入って 相対論的膨脹宇宙論が展開せられて以来、 それ以前のハーシェルの宇宙論やカプタイ ンの宇宙論は単に銀河系 内的世界、 しかも正確に云えばその一側面を錯覚的に表現するものと化し去った。 しかしこの相対論的膨脹宇 宙論もまた二十世紀 の後半に入った今日に於いては、 やがてまた新しく発展せしめられるであろうことは必定 である。 最近すでに観測的可硯的宇宙窒間の誤算が発見せられ、 今までの二倍に訂正拡大された事実はこの兆 候を示すものである。 このように科学的世界像は常に過程茎相対的な性質をせおうものであるが、 それが一つの段階へ発展 した場. 合に、 前の段階の世界像を表現するすべての命題が否定し去られ、 抹殺し去 られると云うわけではない。 たし かに時としては或る知識体系のすべての命題が誤謬として否定し去られた場合もなくはない。 例えば絶対塞間 を表現したエーテル説が幻想的室女に化し去ったように。 けれ ども一般には或る一つの段階の世界像から新 し い段階の世界像が展開 した場合には、 前者が員理としての性質を有する限り、 必らず後者の中に包偏せられる。. ただし包続せられると云ってもそのままの段階で生き残ると云うのではなくて、 一段と普遍化され一般化され た世界像、 一段と高次元の世界像の中へ、 その一部分として純生することを意味する。 例えば近世に於いて確 立せられたニュー トンの万有引力論は現代の物理学的世界像の中に生きている。 がそれは百数十年の 時代の経. 過の後に驚くべき高次元の段階に発展した現代の物理学的世界像の中で、 極めて特殊的な部分な惰性系的世界 を表現する贋狸とt て妥当しているのである。. 科学史の各時代に於ける科学的世界像は、 上のようにそれぞれの段階に於いて正 しく当該領域を表 現する一 時的相対的員理と して妥当 しつつ、科学者達の不断の研究の集積を通して、 その都度新しい 閥増へと発展する。 この発展の仕方を見れば、 先ず第一 に確実な贋理としての命題が確立せられる。 しかしこの第一段階の命題は 間も無く、 一方に於いては科学者達の研究を通しての新しい経験的実証的知識の集積に因り、 また他方に於い. ては対象的世界そのものの不断の変化と更新に因って、 対象世界の全過程を十分に完全に表現し得ないものと 化し去る。 ここで科学者達は不可避的に新 しく第二の仮定的命題を立てる。 この仮定的命題は既に確立せられ た贋選としての命題 を前提とし、 その中から論理的推論を通 して導き出されるものであるが、 これはまた必然. 的に確実な論証を要請せられるべきものである。 従ってこの仮定的命題はかかる論証を経て更に新しく第三の 段階の贋理に移行するのである。 ここで達成された新しい贋浬としての命題は、第一段階のそれを止揚しつつ、 それよりも一段と深く 広く対象的世界を表現するものに移行し、 一段と高次元のものに発展する。 贋選として の科学的知識もしくは科学的世界像を表現する命題はこのような段階を通して移行 し、 このような過程の無限 の累進的反復を通して無限に高次元のものへと発展し行くのである。 - 37 -.

(6) . 山本嘉太郎 ところで形而上学的 観念論や機械論的唯物論の立場からは、 人間にとってどこま でも不可知の世界が存在す ること、 そうして人間が形成する科学 的知識もしくは世界像は必らず有限なものであることがしばしば主張せ. られて来た。 例えば神学者や不可知論者達の主張がこれである。 これに反して弁証法的唯物論の立場からは人 間の科学的認識を通 して対象的世界の完全な認識が可能であること、 そうして科学に依って達成せ られる科学 的知識は確実なものであり、 相対的贋理から絶対的員理に向っての無限の発展が可能であることが主張せ られ る。 即ちこの立場に於いては合法則的な物質的世界は科学にとって認識可能のものであり、 そこにはどこま で. も不可知不可思議のものはなく、 未だ認識されなかった世界が存在するだけである。 しかしそれも科学的研究 と実践を通して未来に於いて認識され得るものであるとせ られる。 この立場に於いてしばしば引用せられると ころの 「人間の思惟は相対的贋理の総知か ら組成される絶対的員理を、 その本性上我々に輿える能力があり、. また現に我々に輿えている。 科学の発展に於ける各段階は絶対的員理のこの総和に新たな一粒を加えていく。 しかし各々の科学的命題の贋理の限界は相対的であり、 知識の一層の増大によって伸張したり縮んだりする。」 (レーニ ン著 n唯物論と経験批判論」 第二章) と云う言葉は上の主張を最も能くまとめ表現している。. 人類の努力に依って確立せられて来た二千数百年にわたる輝かしい科学の歴史、 わけても近世以来の科学者 連の研究に依る諸科学の飛躍的な発展の事実を正しく知ったとすれば、 最早人は誰も上述の神学者や不可知論 者のように科学を誤認 したり軽硯 することはできなくなるはずである。 何故ならこの生きた科学史の事実が語 っている如くに、 人間は正確に対象的世界 の存在の理法を認識し、 そこに形成せられつつある科学的知識も し. くは世界像を確実に一歩一歩と前進させ、 一段 一段と発展させていることが、 否定することのできぬ事実だか らである。 これに比して人間の科学的認識能力の及ぶ可能範囲を深く洞察 して正 しくこれを評質し、 科学的知. 識の確実性並びに その無限の発展の可能性を主張する弁証法的唯物論の科学論は一層正しい見解として承認せ られるのである。 ただ しかしこの立場 の論者に依って世界は不断に且つ無限に運動 し発展し行くものであり、 虞厘もまた無限に発展し行くものであると云われる場合、 贋建の無限の発展性の意味 については限定を加えて. おかなければならない。 現在までの科学の成果に依って見れば、 たしかに客観的に実在する対象的世界、 わけ ても物質的自然的世界は、 無姶無終に永劫に無限の弁証法的な運動をつづけ行くものであると云うことはでき. る。 しかし贋選としての科 学的知識も しくは料,学的世界像はもともと人間が形成するものであり、 しかもこの 生ける人間を離れては存在し得ないものなのである。 つまり科学的員理は人間の進化発展と共に発展高揚 しそ の退化滅亡と共に衰亡 し去る べきものである。 それは人類の頭脳の中にその生存活動に於いて生起 し形成され るものであるが故に、 どこまでも人類それ自身の盛衰興亡とその運命を共にするものである。 人類がも しも自 身を包み支えている自然に恵まれ、 強固な生存への絶対意志に従い、 高貴な進 化発展への理想を実現しつつこ. の地上に繁栄し行く限り於いて、 彼等の達成する科学的知識は無限に増加し、 科学的贋理は無限に高次元の段 階に発展 して完縫;な細対的贋理に接近し行くはずである。 これに反してもしも人類が未来に於いて或る何等か. の不可抗的な原因で生存することが不可能な運命に遭遇するとすれば、 科学は人類の生存活動の停滞と共に停 滞し、 贋理もまた人類の滅亡 と共に消滅 し終るはずである。 科学的員蓮は上のように、 どこまでも人類とその存亡を共にし、 人類の進化発展と共に発展するものである. が尚この人類の進化と科学的員璽の発展との関係について少しく考えておかなればならない。 科学的贋理は人 類と共に発展 し行くものであると云っても、 それは全く自然的に発展することを意味するのではない。 それは 前にもしばしば述 べた通りに、 科学者達の純粋にして張園な贋理への意志に基づくところの不断の研究活動を 通して始めて前進 し発展するものである。 しかし科学者も社会的人間であり、 民族や国家や人類社会等に属し、. かかる社会から孤立しては決して生存することのできないものである。 如何なる時代に於いても人類の社会に. 於いては個人は常に自身の自由意志に従いつつ、 同時にまた社会の共働と支援とに依って文化の創造に従事す る。 例えばもろもろの財貨を生産する生産技術者、 法律を制定する立法者、 整備を創作する整備家、 人間を形. 成する教育者、 その他何れの場 合を見ても、 すべて文化を創造する者は必 ,らずその社会の共働と支援を通して. 最も有効にその仕事を成しとげ得ることが知られる。 専門的に直接に対象的世界に立ち向い、 そこから新しい 知識 を発見し、 新 しい科学的世界像を発展させるのは専門科学者ではあるが、 こ ・の専門科学者の研究もまた如 上の文化の創造の仕事と 全く 同様に社会からの多くの共働と支援とが奥えられることなしには十分 に 完 成 さ - 38 -.

(7) . 科学的員理の本性 れ得ない。 則ちここでは諸科学の研究に従事する専門科学者の間の協力、 科学教育者達に依る科学的知識の普 及と科学的能力の増大、 そうして人類の進化の繁栄はその科学の発展を通して始めて可能となると云うことの 人類共通の自覚等々が必要である。 つまり科学はそれぞれが人類の進化と繁栄とを可能にする最も必須のもの として普遍的に承認せられ、 かくしてそれこそが全人類社会共同のしかも最高の課題として研究せられ行く限 りに於いて、 科学的員理はどこまでも発展しつづけることになる。 実際に古来の科学史に於 いても科学の研究 の隆盛と衰退、 科学的員埋の発展と停滞とは、 常に必らずそれぞれの時代の経済的社会構造の進化もしくは退. 化に因って生起して来た。 科学的員理は所詮、 他の財貨や法律や道徳や襲術等々の文化と一般に、 広汎な社会 の共同製作品なの である。 そうしてそれはただ直接的には社会生活に於ける職分に従って一部少数の専門科学 者達に依って発展せしめられるものなのである。 従って今日今後に於いての科学的員理の発展は、 正しい科学 哲学を有する広汎な人類社会の協力的研究の有無にかかっていると云うことができる。 “ 0. 次に科学的知識の普遍妥当性について考察する。 科学的贋理は普遍妥当性を有するものであるか否か、 それ は階級的党源的なものか、 超階級的超党派的なものか。 それは上部構造であり、 イ デオロギーであるか否か、 これ等の問題は近代以来の科学哲学に於いてしばしば研究せられて来たが、 現在に於いても活溌な論議の対象. となっている。 ところ で科学的員理は普遍妥当的知識であると云うことは直接自明のことである。 科学的員理 が客観的に実在する対象的世界の贋正の概念的映像である限り、 それは どこまでも唯一無二のものであり、 如. 何なる時代の、 如何なる社会の、 そうして如何なる階級や党派に震する人々に依っても客観的に普遍的に妥当 する知識として承課せられる べき知識であることは明白なことである。 このように考えるならば科学的員理の. 普遍妥当性、 階級的党派性そうして上部構造的イデオロギー性の有無の如きことは問題とせられる必要がなか ったはずである。 それにも拘 らずこれ等のことがしばしば問題として取り上げられ、 論議が繰り返されて来た ことは実は理由のないことではなかった。 即ち例えば神学的立場に立つ学派もしくは党派に依って、 人間の科. 学的認識能力が極度に過小許贋せられ、 その努力で達成せられる科学的贋選の普遍妥当性及び確実性が否定せ られる場合がしばしば起った。 その都度不可避的に科学的贋理の確実性を論証し、 且つ普遍姿当性を基礎づけ なければならなかった。 また例えば特定の社会的構造に従属する学派や階級に依って、 科学的 世界像が自己の 党瀕の利益のために独断的に作り上げられたり、 詑班的に宣像せられ悪用せられる場合もしば しば起った。 そ うしてその都度このような科学的世界像に常に 関連する階級性や党派性を分析し批判する ・必要が 生 じたのであ る。. ところで客観的に実在する対象的世界の発展の仕方に正確に対臆する知識、これを完全に表現 した世界像は、 それが如何なる社会の如何なる党派の人々に依って形成せられたものであろうとも、 常にその対象的世界への 順隙 や、 その支配のためにすべての人々にとって有効なものであり、 その確実性が承認せられるものである。. 即ち贋正の虞璽であるところの科学的知識乃至科学的世界像は、 民族女化の特殊性や社会的構造に於ける党派. 性を越えて、 全人類にとって共通的に有効なものであり、 普遍的に妥当するものである。 例えば ドイツに於い て1925年にハイ ゼンベルクに依って創始された量子力学はその直後ちに国境を越えて他国の物理学者 蓮に受容. せられ、 そこで共通的に有効性が承認せられ普遍的に姿当」性が保証せられた。 そうしてその協力的研究に依る 展開が続行せられて来た。 科学に国境はないと云う言葉はこのようなことを意味する限り正 しいと云わなけれ ばならない。 ただ しこのように科学的員理は人類にとって普遍的に妥当する知識であると云っても、 或る時代 に確立された或る科学的世界像がそのままの段階に於いて、 恒久不疫に人類にとって承課せられ妥当すると云. う意味ではない。 例えば現在の相対論的世界像や量子力学的世界像は現代の人類に依っては普遍的に妥当する. ものと して承課せられているが、 やがて新 しい時代に進めば、 その一層の発展した段階に於いてのみ普遍的に. 妥当することが出来るのである。 従って長期にわたる人類の科 学史を通して見れば、 個々の具体的科学的員服 は或 る発展段階に於いて或る時代の範囲に限り普遍的に妥当するのにすぎない。 つまり前進の如くに無限の発 展の途上にあるところの贋理としての科学的世界像は、 その発展の各過程に於いてそれぞれの時代の人類にと って共通的に有効でありつつ、 しか しその全過程を通してはその根本的性質に於いて普遍的に妥当するもので 9- -3.

(8) . 山本嘉 太郎 あると云うことがで きる。 科学的員哩がこのよう に人類にとって普遍的に妥当するのは、 それが客観的に実在する対象的世界の贋正な 概念的映像であると云う根本的性質に因るのである。 この本性は科学的員樫が具有すべき絶対不可鉄の鱗件で あること{ ′ ま前にも遁 べた。 この本性を歓如した科学的命題は仮りに或る期間科学的員理と して承認せられ対象. 的世界に対して有効であるかに見えていたとしても、 やがて時代の試錬を通してその誤謬が批判され 科学史 、 の中からその姿を消し去るものである。 しかし従来しばし‘ 士資本主義、 有神論、 観念論を支持する学派は 如 ′ 、. 上の普遍妥当的贋理の名に於いてその独断的な知識体系を提唱し、 その絶対的な妥当性と権威性 超覚恢的な 、 中立性と有効性とを主張して来た。 なかんづく実用主義の立場に立 つ学派は実用的な知識こそ贋理であると云. う詑弁的な命題を立て、 これに依って自己の資本主義的経済的構造並びにその土台に立つ一切の上部構造を支 える思想を普遍化 し絶対化 しようと して来たのである。 ・この学 派のように自己の従属する党派的社会や自己の. 信仰するイ デオロギーの絶対化の目的を掲げて科学の研究に進むならば、 その成果は強く党派性に制約された 知識となり、 歪曲された虞理となることは必定である。 この事実は今世紀前半の ドイ ツや日本に於いて支配し たナチイ ズムや日本主義の立場に立った学風の中に最も生々しく残っている。. 科学の発生発展の歴史的現実を唯物弁証法を適用して分析し、 科学の階級社会に於ける党派性を批判し、 そ. れがイ デオロギーであることを鮮明するのは弁証法的唯物論の立場に立つ学派である 。 即ちこの学派に依れば. 科学は政治や法律や道徳や整備や宗教等と同様に、 生産様式つまり生産力とそれに対臆する生産関係との経済 的土台の上にそびえ立つところの上部構造であり、 イ デオロギ←である それは人類の生活の必要に隠 じて発 。. 生し、 云わゆる原始共産制から奴隷制、 封建制、 資本主義制 社会主義制への生産様式の発展に伴って発展し 、 て来たものである。 上部構造の中で政治や法律や制度等の如きものは直接に上の経済的構造の土台の上に生い 立 つが、 科学は常に必らず しもこの経済的構造に直結するとは限らない が科学は直接的にもしくむ 法間接的に 。. 常に経済的構造の土台の上に発生発展し、 且つ生産力や生産関係に重大な反作用を及ぼすものである。 科学者. はたとい如何なるポー ズをとると しても哲学の支配を免れることはできず、 その知識体系の背後には必らず世 界観の支えがある。 イ デオロギ←である哲学的世界観に支えられた科学的世界像は即ちまたイ デオロギ←でな. ければならない。 そうして今日今後の階級社会 に於いて次第に前進 し行くところのプロ レタリアー トの世界観. である弁証法的唯物論に支えられた科学的世界像こそ対象的世界を最も贋正に反映した客観的員理であり、 次. 第に後退 し行くところのブルジョアジ←の 反弁証法的反唯物論的な世界観に 支えられた ブルジョア科 学は 対象 的世界の発展の仕方を員に正 しく捉え得ないと云うのである。. 如上の科学論は二十世紀の前半に於いては弁証法的唯物論の立場に立つすべての人々に依って支持せられ 展 、. 開せられて来た。 が二十世紀の後半に入った今日に至っては、これに対 して異論を唱える人々が現われ始めた 。 951年の論女集 「スターリンの労作 『マルクス主義と言語学の諸問題』 に於ける弁証法的唯物論と史的唯 即ち 1. 物論」 に於いてア・マクシモフは 「スターリンの労作の自然科学史にとっての意義について」 と云う論文を載せ その中で 「客 観的員理の総体、 理論的科学知識の総体は土台 にも上部榊 溝にも属さない 」 「自然科学 は全体と 。 , して一定の世界観の基礎の上に立てられている。 すなわち自分のなかに科学の態論的発展の方向において決定 的役割をはた し、 科学を一定の上部構造に従属させるところのイ デオロギ←的要素をふくんでいる 」 と述べて 。 いる。 同じく ぺ・エフ・ュ‐ ジ ンは 「スターリンの労作の社会; 科学の発 展にとっての意義」 と云う論文の中で「自. 然科学は、 たんに人間の意識からだけではなく、 それぞれ一定の時代における社会体制の性格からも独立して 存在する客観的発展法則を発見することができる し、 また発見 しつつある。 自然を研究す る諸科学にはもう一. つの特殊性がある。 即ちそれらの科学は原則と して生産と直接むすびついており、 直接生産に奉仕している 」 。 ・ 「かくて自然科学は資本主義社会 にも社会主義社会にも一様に奉, 仕すると云うことになる。」 「上部構造ではな. いこのような自然科学はそのなかに上部構造的なモメ ントを含みうるし、 また上部構造とむす びつくことがで きる。」 「自然科学における世界観的モメ ントはそれを上部構造 に結 びつけるものである。」 と述べている。 そう してまた原光雄氏も1953年の 「思想」(第三号) に登載 した 「自然科学 の階級性」 と云う論文に於いて 、 自然. 科学の知識体系はその対象的自然が常に何等の階級性や党派性を帯びていないのと同様に、 階級性や党振性を 有するものではないことを述 べ、 そこで 「自然科学はいかなる時代においても唯物論 的部 分と唯物論的になり 切っていない部分(すなわち観念論的部分または仮説的部分)とから成りたっている。 弁証法的唯物論の立場に - 40 -.

(9) . 科学的贋理の本性 たつ自然科学と云えどもその例外ではない。 この仮説的部分(観念論的制約をうけた部分) のそのまた一部分は 階級的制約をおびている。」 と運べている。 これ等の人々の見解の間には若干の相異点もあるが、 しかし科学 が、 わけても自然科学が、 その本性に於いては上部構造ではないと考え、 従ってまた階級性を有するものでは ないと考えることについては一致 している。. 上部構造を経済的土台の上に、 かかる土台の変化に即醸 した直ちに変化するところの狭義のものと して考え るならば、 上部構造に園するものは政治、 法律、 道徳、 宗教、 聾術等のイ デオロギーやこれ等に対臆する諸制 度に限られることとなる。 科学はこのような狭義の上部構造にはたしかに入らないかに見える。 何故なら上の. 人々が指示している如くに科学の発展は必らずしも経済的構造の変化に即題 して起らず、 むしろ科学史独自の 発展の仕方で発展して来たかに見えるからである。 しかし科学と云えどもそれが科学者に依って形成せられ発. 展せしめられるものであり、そうして科学者自身が必らず或る社会に従属し、 その社会の支援に依って研究を進 めるものである以上、 科学の発展は どこまでも科学者の従 属する社会の経済的構造と無関係ではあり得ない。 政治、 法律、道徳、 宗教等のイ デオロギーや制度と同様に科学もまた人類の社会生活の歴史に於いて経済的活動 の後に経済的構造の土台の上に発生し発展 して来たものであることは明らかな事実であった。 ただ科学は如上. のイ デオロギーや制度のように常に直接的に経済的構造の土台の上に生い立ち、 その変化に即刻対臆して更新 するものではなくて、 この土台の上に生い立ちつつもその独特の性質の故に土台と極めて複雑な関連を保ち、 独自の発展の相を現わしていたのに過ぎないのである。 ここに科学の独特の性質と云うのは第一に科学的世界 像の唯一無二性のことであり、 第二に同じくその弁証法的発展性のことである。 即ち第一の科学的世界像の唯. 一無二性とは同一の対象的世界に対騰する客観的贋理としての科学的世界像は、 常に必らず唯一つしか無いと 云う性質である。 同一の対象について唯一無二であるこのような科学的世界像は、 人類一般に依って共通的に. 承課せられ、 普遍的に妥当するものである。 一 たび確立された科学的知識はそれが客観的虞理である限り、 社 会のどの党派に属する人々にとっても否定することのできないものであり、 生産様式もしくは経済的構造の変. 化だけに因っては直ちに移行する必要もないものである。 例えば現代の宇宙物理学に依って確立せられた太陽 系運動や銀河回純の理論は プロ レタリアに依っても ブルジョアに依っても 共通的に承認せられる ものであり、. 資本主義制から社会主義制へ移行 した国家に於いても変更せられずに妥当するものである。 また第二の科学的. ・ 像の弁証法的発展性とは、 客観的員選としての科学的世界像が科学者達の不断の研究を通して弁証法的に 世界 発展し行くことである。 前にも述べたように科学的世界. 像は多くの科学者の多年にわたっての研究の集積の後 に、 その都度より高次元の段階へと飛躍的に発展するものであるが、 このような科学的世界像の飛躍的な発展. は一朝一夕にして可能となることではない。 それは政治、 法律、 道徳等のイ デオロギーや諸制度の変革の如く に経済的構造の土台の更新と同時に随時随 意に達成することのできないものなのである。 もちろん経 済的構造. のあれこれの土台は、 それぞれの上に生い立つ上部構造と合して、 科学的世界像の発展を顕著に促進 したり阻 害したりはする。 つまり科学研究のために正しい哲学を支持し、 このための必要にして且つ十分な施設を提供 する種類の経済的構造は顕著に科学的世界像の発展を早め、 そうでない経済的構造はこれをおくらせることは. ある。 が何れにもせよ科学的世界像は多くの科学者連の共同研究を通しての経験的実証的認識並びに理論的思 考的認識の十分な集積をまって、 始めて飛躍的な発展をとげるものなのである。 詳論すれば他 にも理由はある が、 科学は主としてこのような性質を具有するが故に、 経済的構造の移行に即醸 して直ちに更新するとは限ら. ないものなのである。 そう してこのために科学は政治、 法律、 道徳等のイ デオロギーの如くに直接自明の上部 構造として見ない論者も現われるわけである。 しかし上部構造の範囲を狭義に限らず、 或る何等かの仕方で経. 済的構造と関連を保つところの広義の範囲のものにすれば、 科学もまたかかる広義の上部構造の一つとなるの である。 弁証法的唯物論に於いては簿統的に哲学は直接自明の上部構造であり、 従ってまた階級的党瀕的なイ デオロ ギーであると考えられて来た。 そうして諸科学はこのような哲学の基礎の上に立つことに因って間接的に経済 的構造と関連 し合い、 且つ党派的イ デオロギーとなると考えられて来た。 た しかに哲学史に現われているもろ. もろの哲学体系はそれぞれの時代の経済的構造の上に生い立ち、 社会的党派のイデオロギーと して形成せられ ても・る。 例えば中世の神学的哲学は封建主義の、 また近世の観念論的哲学は資本主義の、 そうしてまた近代以 来の唯物論的哲学は社会主義の各イ デオロギーとして形成せられ、 これ等の哲学に基礎づけられた諸津斗学もま.

(10) . 山本嘉太郎 たそれぞれの党恢的イ デオロギーとなっている。 ところで哲学がこのように科学の基礎となり、 これに認識論. や方法論や世界観を提示して来たのであるが、 そこでは哲学者の立つ立場や彼等が園する常源の相異に因って さまざまな体系が形作られた。 今日に於いても弁証法的唯物論を始めとして論理的実証論や実在論や実用主義 等に至るさまざまな科学哲学及びこれ等の基礎の上に立つ諸科学の体系が形成されつつある。 しかし哲学乃至 科等哲学もまた一個の科学である限り、 そこに形成された判断は客観的員狸でなげれるギならず、 従って. また唯. 一無二でなければならない。 それ故に科学哲学の如上の諸. 体系並びにこれ等の支配を受ける諸科学の諸体系が 形成されてある場 合、 ただ一つの体系が贋理であり、 他のす べての体系は誤謬でなければならないはずである。. それでは如上の諸体 系の中で最も贋正なものは何れであるか。 それは今日のところでは弁証法的唯物論の立場. に立つ科学哲学並びにこの基礎の上に立つ自然科学及び社会科学の体系であろうと考えられる。 何故ならこの. 立場に立って試みられる哲学並びに諸科学の研究の成果が、 客観的員理であることがますます確実に実証せら れ て行きつつあるからである。. 弁証法的唯物論に於いては哲学は自然社会及び思考を貫ぬく普遍的な発展の諸法則の発見、 即ち一般的な弁 証法の諸法則の確立を主題とする科学であり、 もろもろの自然科学や社会科学はかかる一般的な弁証法の諸法 則と同時にそれぞれの特定の対象の領域中に固有的に支配する特殊的な弁証法の諸法則を発見し、 これを展開 することを任務とするものと見られる。 ここでは科学者は常に唯物論的立場に立ち、 弁証法 的方法を適用して 対象としての自然や社会の詔扉 識に立ち向うべきものと考えられるのである。 そうしてここでは哲学は常に他の もろもろの個別科学の方法論となり、 これに従事する専門科学者に正しい世界観を奥えるものとなり、 逆にま. た諸科学は哲学を支え発展せ しめるものとなる。 つまり哲学ともろもろの自然科学ならびに社会科学とは常に 必然的に密接不可分の関係を保つべきものとせられるのである。 従って科 学者は常に正 しい哲学の基礎の上に. 立つことに因って、 即ち唯物論的立場に立ち弁証法的方法を適用することに因って、 始めてそれぞれの対象的 世界についての贋正な科学的世界像を形成することができる。 これに反 してもしも科学者が弁証法的唯物論的. 哲学ではないところの誤謬を含んだ他の哲学の基礎の上に立ってその研究を進めるならば、 そこに形成せられ る科学的世界像はやがて誤謬に落ち入り、 確実に客観的贋理に到達することはできないわけである。 この事実. は例えば1930年代の ドイ ツを支配 したナチイ ズム、 日本を支配した神道主義等の誤謬の哲学が、 この国の科学 研究に作用 して、 如何にその知識を歪曲させたかを見れば明らかに知られることである。 如 何なる経済的構造・. 如何なる社会的構造の中で行われた科学研究の場合でも、 もしもその研究の成果が客観的贋理に到達していな かったならば、 それはこの立場に立って研究が行われなかったことを示すものである。 即ち科学者 は現代の社 会主義圏に於いてはもちろん、資本主義国に於いても客観的虞浬と しての科学的世界像を確立する場合には意識 すると否とに拘らず弁証法的唯物論の立場に立っているのである。 このように科学者は最も確実に科学的員狸. を確立し行くためには必然的に弁証法的唯物論の立場に立つ学派に参加しなければならないし、 また階級社会. に於いてこの立場に立つ学派が プロレタリアートの党派に限るのであるならば、 必然的にこの党娠にも従属 し. なければならない。 つまりすべての科学者はこの弁証法的唯物論の立場に立つ学派乃至党派として対象の研究 を行う時にのみその成果が客観的員理となり、 他の学派乃至党派と して対象の研究を行う時にはその成果は独. 断に落ち入る。 科学的贋理の階級性や党汲性の主張はこのような意味で重要なのである。. 上のようにして我々は科学的贋理の二、 三の重要な本性についてあらま しの考察を試みたのであるが、 尚最. 後に一つ人生に於ける科学的贋理の有効性について考えておかなければならない。 科学的員狸が人生にとって 有効なものであると云う判断は必らずしも古来のす べての人々に依って支持 された訳ではなかった。 政治や宗. 教や蔓術の立場からしば しば激 しく否定されることもあったことは周知の通りである。 わけても現代の如くに. 自然科学が飛躍的な発展をとげ張大な原子力をも認識するに至った時代に於いては、 科学的員選は人類の生存 のために一面に於いてはますます有効なものであり償値があるものであると考えられる。 と同時に、 他面に於 いてはそれが恐るべく有害なものであり、 危険なものであるとも考えられて来るのである。 しかし思うに人間. の営みは、 経済活動も社会活動も道徳活動も整備活動も、 す べて生存するためのものであ り、 科学的研究を行 い科学的員理を探究することもこの 例から洩れるものではない。 科学的 鱈狸もまた他の文化財と同様に、 理想. 的な人生を実現するところにその本来の 性質と目的を存ずるものである。 実際に人類はその歴史に於いて科学 一 42 -.

(11) . 科学的贋理の本性 的員理を発見し発展させ、 これを人 生に善用することに因って、 次第に偉大な女化的人間に進化し発展して来 たのである。 現在及び未来に於いても科学的員趣の発展とその善導なくしては人類の理想的生存の実現は不可. 能なことである。 ただ科学的員圏は科学者達の研究に因って今後ますます発 展し、 無限に強 大な力を有するも のになるが故に、 これを善用すれば人類の大なる繁栄と発展がもたらされ、 逆にこれを悪用すれば人類に滅亡 の悲劇をもたらすこととなる。 しかしこのような科学的虞理の主体はどこまでも人間なのである。 科学的員理. を発見する主体は科学者であり、 これを人類の生存のために善意をもって態用する主体も科学者であり、 これ を悪意をもって瞳用する主体も科学者である。 即ち量子力学の虞理を生産や医療に善用するのも、 原爆や水爆 のために悪用するのも物理科学に従事する科学者である。 また進化論の員璽を人類共同体の理論として展開さ せこれを善用するのも、 弱肉強食の資本主義の理論に展開 し、 これを悪用するのも社会科学に従事する科学者 である。 もちろん科学者の科学研究の方向を左右するものとしては科学者の背後に更に社会的構造、 経済的構. 造が控えている。 しかしながらこの科学的員選を人類の理想的生存を可能ならしめる有効な方向に前進させる か、 またはこれを不可能ならしめる有害な方向に前進させるかは、 最後的には主体者たる科学者の人闇観の上. に立つ意志に依って決定せられる。 人間が人間自身をそれ以外のものよりも軽観ずることは古来しば しば起った。 即ち或る時には人間が神と云. うようなものに奉仕させられ、 また或る時には自然の下に徒届せしめられた。 そうしてまた或る時にはそれが 文化よりも軽説せられた。 これ等は何れも人間主義的な人間観ではない。 特に一部少数の人間が他の多数の人 間の生存を圧迫したり、 これを否定したりしたことは最も甚だしい人間軽覗であり、 反人間主義的な人間観で. あった。 これに反して人間主義的人間観とは人間中心的な人間観であり、 世界全体の中で人類こそ最も高貴な 債値ある存在と見、 その地上に生れるすべての人類の共存共栄を至上の理想とする人間観である。 ここでは生産 も政治も法律も道徳も整術もす べて人類の共存共栄のために奉仕す べきものと見られる。 自然さえ人間の主体 的な働きかけに因って人類の共存共栄のために協力せしむ べきものと考えるものである。 科学のための科学、. 員理のための贋理が主張せられたこともあった。 これは科学の自由な研究を要求するものであっても、 贋理の 偉大な慣値を力説するものであっても、 たしかに正 しし・主張ではある。 しかし科学の研究も人類の繁栄と発展 のために必要なのであり、 贋理もこれを可能ならしめるが故に債値があるの である。 縫極に人類 のためを考え ないならば上の主張は贋に正しいとは云えないのであ る。 このように人類を他の何物よりも重親し、 その繁栄 と発展を目ざすのが贋に正しい人間主義であり、 これを至上の当局とするのが員の人間主義者である。 科学者. は通例このような人間主義的人間観をもつ人間主義者である。 たしかに現代の如くに人類が幾十もの国家を作 ってするどく対立し、 それぞれの国家に於いても階級間の激しい斗争が行われている時代に於いては、 科学者 もまた何れかの国家の何れかの階級や党派に回して生きなければならないが故に、 そこで如上の人間主義を貫 き通すことは極めて困難なことではある。 しかし科学の研究が非常な急速度で進み、 そこに展開せられる科学. 的員浬が人類の存亡を決定するほどの偉力をもつに至った新時代に於いては、 科学者はますます強固な意志と. 勇気をもってこの人間主義の立場を貫き通す必要が生じた。 今日今後の科学者がこの人間主義を自覚しつつそ れぞれの研究を進め行く限り、 そこに形成せられる科学的 贋理は人類の繁栄と発展を測り知れず促進するので ある。. 鰍 43 -.

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参照

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