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雲南少数民族におけるキリスト教の民族教育史的位置

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Academic year: 2021

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(1)雲南少数民族におけるキリスト教の民族教育史的位置 斧 原 孝 守. 1,はじめに  中国は56の民族からなる多民族国家であるが、それぞれ文化、伝統を異にする諸民族 のあいだに、近代的な学校教育がどのように浸透していったのかという問題は、中国教育 史のきわめて興味ある一部門をなしている。.  なかでも中国西南部に位置する雲南省は、24の少数民族が居住する中国でも最も複雑 な民族相をもつ地域である。雲南省はミャンマー、ラオス、ベトナムと国境を接するとこ ろがら、この地に住む諸民族の動向は安全保障の上からも重要な意味を帯びていた。従っ て清朝末期から民国時代にかけて、政府はこの地の少数民族にさまざまな同化政策を行っ てきたが、その根幹には少数民族子弟に漢語を修得させ、近代的な学校教育を施す「少数 民族教育」があった。しかしながら、この地の少数民族のあいだにおける近代的教育の普 及を考える場合、それが決して政府の「少数民族教育」のみによって担われたのではなか ったことに注意する必要がある。すなわち、そこには欧米のキリスト教宣教師たちによる 「教育」が、政府による教育とは全く次元を異にしたかたちで着々と進行していたからで ある。これら宣教師による「教育」は、政府の「民族教育」とは理念的に背馳するもので あったがゆえに、従来、中国の民族教育史の中では充分に評価されることがなかった。だ が、個々の民族文化の内面から、その近代化の過程、逆に言えば伝統的な民族文化の変容 過程を見る時、そこにキリスト教の果たした役割は決して無視することのできない意味を もっているのである。.  本稿は、主に50年代以降に公刊された調査資料に拠りながら、キリスト教が雲南少数 民族において果たした民族教育史的な意味を問い直そうとするものである。 2、教会教育の評価  近代中国において、ローマ・カトリック、プロテスタント各派の教会が早くから活発な 宣教活動を行っていたことは周知のことである。それが教育史的に大きな意味をもつのは、 教会が教会学校とでも称すべき教育施設を建設したことにある。このような教育施設は幼 稚園から大学にまで及び、併せて職業教育、師範教育などの既存の教育領域のほとんどを 覆っていだ。これらの教会学校では、西洋の先進的な近代教育が移入され、教師の資質 も高く、女子教育にも力を注いでいた。その意味では、教会学校は、まさに中国における 欧米近代教育の見事な「移植」であったのである。中国では従来、教会学校を列強の帝国 主義的侵略の一環として否定的に捉えてきたが、近年ではむしろその肯定的な面が取りあ げられており、例えば高史良の編にかかる『中国教会学校史』では、教会学校の「歴史作 用」として「中国と西洋の文化交流の促進」「先進科学技術、知識の輸入ユ「女子教育」「近. 一51一.

(2) 代学校教育のモデルを移入」「厳格な学校管理体制」の5点を高く評価しているη。.  宣教師の活動は、西南辺境に位置する雲南にあっても早くから行われていた。すでに康 煕35年(1696)にフランスのカトリック教は雲南教区を設定していたが、アヘン戦争以 降、カトリック宣教師は陸続とこの地域を訪れ、その足跡は今世紀の初頭には易門、陸良 等32県に及び、教徒数3万人、外国人宣教師も百余人を数えるに至った彗。1877年から は、プロテスタント諸会派もまた雲南全域に勢力を伸ばしつつあり、1900年の統計に拠 れば、省都昆明だけで17ヶ所の教会、1万2千人の教徒を擁iしていた材。  宣教師たちは少数民族地帯においても布教と同時に活発な教育活動を行っていたが、先 述したように、彼等の教育活動が中国では必ずしも正当に評価されているとは言い難い。 例えば雲南省の解放までの教育について最も簡明な見通しを与える劉光智『雲南教育叢誌』 は、次のように述べている (教会は)確かに当地の少数民族のあいだに教育ある人間を養成し、防疫治病という. すばらしい行為を行った。しかし、その教育の趣旨と開学の目的は中国の国力を強め るところには無く、それ故、多くの少数民族、とりわけ青少年が害毒を受けた。つま り、まず当地の各族人民の教徒と非教徒との間に信仰上の矛盾を産みだし、次いで彼 らの祖国観念を弱めて離反の傾向を生みだし、帝国主義がわが国辺境を侵略する際に、 警戒心と外国の圧迫に抵抗する緊迫感を失わせた朽。  また、雲南西北にすむ独竜族におけるキリスト教の布教について、張橋貴は次のように いう。. 宗教教育の普及と聖書を読む行為には、客観的にいって文盲を一掃する作用がある。. しかし宗教は畢寛唯物史観と対立する唯心主義的世界観であって、宗教が信徒の中に 引き起こす反作用も疎かにしてはならない。辺境の少数民族がキリスト教や外来宗教 を信仰することは、中華民族の凝集力の増強に不利にはたらき、それは独三族におい ても例外ではない。キリスト教の信仰は、人民に対する唯物史観の教育に直接的干渉 し、さらに当地の義務教育にも干渉する。青少年は信教後、往々にして科学文化を学 ぶ機会を失うことになる妬。.  ここで二人の論者が「彼らの祖国観念を弱めて離反の傾向を生みだし」、「中華民族の凝. 集力の増強に不利にはたらき」と述べているのは、明らかにキリスト教が中国の民族工作 にとって障碍になったことを示している。言うならば彼等が批判の矛先を向けているのは、 キリスト教の普遍性であった。これを先の高史良による中国の教会教育に対する見解と対 比してみれば、そこに漢人に対する教会学校は評価するが、少数民族における教育活動は 国家統合の理念に反するがゆえに評価し得ないという、中国近代教育史のひとつの矛盾を 見ることは容易であろう。.  たしかに民族教育なるものを民族政策の枠内で捉える限り、多民族国家中国の新たな建. 一52一.

(3) 設に決して有利にはたらかなかったキリスト教が、新中国の民族教育史の中で肯定的に評 価されることは難しいであろう。しかし以下に述べるごとく、キリスト教がその社会、文 化に与えた影響を、個々の民族文化の内側から虚心に見た場合、その影響力は民国政府の 「漢化政策」「漢語教育」などをはるかに凌駕するものであったのである。. 3,雲南少数民族におけるキリスト教の布教  それでは、雲南少数民族地帯におけるキリスト教布教の実態について、比較的資料がま とまって残っている三つの地域に焦点をしぼって述べることにしよう。 ①怒江流域地帯  怒江地区へのキリスト教の宣教は、清朝の光緒15年(1889)、フランス人によるカトリ ック教の宣教に始まる。この時、宣教師はヌー、リス、チベット族に布教しつつこれらの 諸民族を分裂させようとしたため、同34年(1909)になって徳欽、中旬、菖蒲桶などの チベット族ラマ教徒の暴動が起こり、5人のフランス人宣教師が殺されるという事件が起 こった㌔その後、光緒末年までに丙華洛の教会に夜学を開き、小学を付設して蔵文を教 授したというから、それがこの地域の教会学校の噛矢であろゲ8。しかしながら、その後 カトリック教の勢力はあまり発展せず、1924年の段階で、ようやく600余響、1016人の 信徒を得ただけであった粉。.  これに対してプロテスタント諸派は活発な宣教活動を繰り広げた。まずプロテスタント 諸派の布教は、1913年、ビルマのパモ内地会教会がパシュというビルマ人宣教師を騰沖 に派遣したことに始まる。雲南少数民族地帯に最:も大きな影響力をもった内地会は、1865 年に成立し、ロンドンに本部を置く組織で、所属する宣教師は英国教会、長老派教会など 様々な会派からなり、いわば中国での布教を行うための連合体というべき組織であっだ垂e。. 続いて1920年には英国内地会の楊志英が湯江に至り、翌1921年には米国籍の楊思惑牧師 が碧江県のヌー族村落で布教に当たった。さらに1930年掛は米国斎蔵キリスト教会のモ ールス牧師がビルマより郡山に来て、1936年には鉢開で教会を建設している。この時、 雲南省政府民政庁の貢山官員であった楊紹忠は、米国の宣教師に30年契約で土地を貸し 与えたため、彼らは維西リス族の教徒であったヤザパをして臓早、普克勒などの土地に布 教せしめ、これらの地に前後して20余の簡素な教会が建設されるに至った。  これより早く1929年には、米国神召会牧師のカナダ人馬導民が蘭坪から貢山に至り、 1932年には福貢に入って教会を建設したほか、木皆様などのヌー族地区にも宣教した。 また同時にスイスやドイツからの牧師も前後して怒江地区で宣教活動を行った、、.  かくして1957年には、怒江地区の教会は207を数え、神職員916人、教徒数21062人 を数えた。中でも最も信徒が多い碧江、福貢両県は、実に人口の9割以上がキリスト教徒 であったといデ正。まさに西北僻遠の地にクリスチャンの村が出現していたことになる。  このような情況は、碧江の南の濾水でも同様であった。濾水県は人口の8割がリス族で あるが、その8割にあたる9000人がキリスト教徒であった。この地に布教した内地会系 宣教師である米国人、楊志遠の人望は絶大で、彼は「大大人」と呼ばれ、国民党の脚質局 が集会を開いてもやって来ないリス族の老若男女が、クリスマスともなると何百里の遠方. 一53一.

(4) から彼のもとへやって来た。楊は共産党の活動に対しては批判的で、1949年に共産党系 の組織に入ったために教会を破門された信徒の青年は、泣いて詫びたといゲ2。  ただ雲南西北部への布教がすべてうまくいったとは言えない。貢山北西の奥地、雪虫江 流域に住む独竜車は、度重なるモールス牧師の命を受けた宣教師による布教にもかかわら ず、ついにごく僅かな村人が入信しただけであったといゲ’3。これと同じことは碧世説に 住む白蓮支系の勒墨人についても言え、そこでは周辺のリス族、ヌー族が入信し、多くの 教会が建てられたにもかかわらず、解放前までほとんどキリスト教を拒否していた。老人 たちが言うには、キリスト教を信じると酒や煙草を飲めず、祖先を祭祀できず、死者を盆 祭できないのでキリスト教には興味がないのだという*14。同系統の民族のあいだにおいて、. キリスト教の受容についてこのような差があるのは面白いことである。. ②西南部地帯  遍身流域地帯と並んで、雲南西南部を流れる瀾澹江流域の山地に住む諸族のあいだにも キリスト教の影響はかなり及んでいる。チベット・ビルマ語族に属するラフ族には、19B 年に米国人の永偉里父子が宣教し、多くの教会を建てた。このうち中心地の儒福塞では大 人の95%が信者であったといゲ15。東回地区もキリスト教に拠点の一つであったが、解 放後、そこには7つの教会があり、12人の宣教師がいた。ラフ族の教徒はみな従順で、 教会費の一切を負担していたといゲ16。リス族地区と同じように、ここでもラテン字母に よるラフ文が布教に用いられたが、東回区のラフ族のあいだにはこの文字は普及しなかっ たらしい。解放直後の段階でラフ文宇を弄る者は人口の1%にも及ばなかったといゲ17。  ただ、民国時代の民族学者であった茜逸夫は、あるラフ族の村を訪れた時のことを次の ように回想している。「その村にはキリスト教会があった。村人の多くは既に教会の教育 を受けていた。彼らは西洋の宣教師が彼らのために編んだラフ語の聖書を読み、ラフ語の 聖歌を歌うことができるだけではなく、教会の門に掛かった額に書かれた英文を読むこと ができ、正確に発音することができた。私が彼らに『それは宣教師が教えたんだね』と言 うと、あるラフ族は、『宣教師は聖書と聖歌を教えただけだ。しかしラフ文字を知れば、 自然に額の文字は読むことはできる』と答えた。」常【8。彼が訪ねたラフ族の村がどこであ るのかは分からないが、怒江のリス族と同じように、ラフ族のあいだにもローマナイズさ れた民族文字が相応に広まっていたことは明らかであろう。  キリスト教は、さらにビルマ国境の奥地に住むモン・クメール語族のワ族のあいだにも. 浸透している。ワ族にキリスト教をもたらしたのは、ラフ族と同じ永偉功で、彼は1912 年、ワ族、ラフ族の信徒80余人を召集して訓練班を作り、半年で信徒を150人に増やし た。その後、1915年には岩師、動省、釦角、永和区にそれぞれ教会を建て、布教に努め た。解放後の調査によると、愴源区五区のうち、キリスト教徒は23、2%で人口のほぼ4 分の1を占めている。ここでもラテン化されたワ文が作られたというが、解放面これを識 っている者は、亡師区の65人のみというから、ワ族のあいだには表音文字はそれほど普 及しなかったことになる囎。また同じ槍源県でも、タイ族は熱心な小乗仏教教徒で、ほと んどキリスト教を受容しなかったといゲ20。. 一54一.

(5)  ワ族のなかでも、やや遅れてキリスト教が入った双江県のワ族の方が布教率が高い。双 江県には1936年に初めてキリスト教が伝わり、1939年に南協弄影回子塞に教会ができ、 教会は1954年まで活動した。全県3000余人のワ族が入信したというが、双江県のワ族人 口は約6000人だから、約半数が改宗したことになる素2’。.  これらは解放後、共産党が調査した資料だが、民国23年(1934)、雲南省教育庁長であ った張自知が教育部に差し出した文書は、この地域のキリスト教布教の情況を、次のよう に活写している。. 省都(昆明)から2000余里離れた瀾濾県では、英国籍の牧師永偉里父子が伝教す ること30余年に及ぶ。辛瓦山一帯には学堂17ヶ所、福音宣講所90ヶ所を設け、 教徒は1500余人に及ぶ。羅黒山一帯の地方では、学校14ヶ所、福音宣講所136ヶ所 を設け、教徒は2300余人。その中の儒佛1校は、男女学生200余人、他校は10余人 から数十人である。みな衣食住と書籍、文具を供給される。また省都から2500余里 離れた車里県(現在の憂事県)では英人教士、古徳諾らが病院、教堂、学校を開いて いる。彼らはビルマ文に通暁し、聖書をビルマ文に翻訳し、絵付きの美しい冊子を印 刷して、それは広く流布している。その教本は均しくローマ字で薇夷文、または羅黒 文を綴ったものである。その科目は聖書、ビルマ語、算術、地理、音楽の五科目。授 業時間は毎日3時間から5、6時間に及ぶ。教授する場所は決まった寺院や教会、小 屋以外にも、随時、林間或いは広野で行う。教師は教育を受けた土人が教育を受けて いない土人を組分けして教える。その教本教具はみなビルマなどからもたらされたも のである。その経費の出処は審らかではない常22。.  辛飯山は海砂ワ族の本拠地である。今世紀の初期に英国籍(共産党の調査では米国籍) の永偉里によってこの地にもたらされたキリスト教が、解放後の調査によって知る以上に、. ワ族のあいだに広められていたことがわかる。首里の古徳諾はおそらく英領ビルマからの 宣教師であろうが、ここでもほとんど教会学校というべき組織がしっかりと根を下ろして いる様を見て取ることができよう。 ③昆明周辺部  昆明に古くからキリスト教の宣教師が活動していたことは先にも述べたが、その活動は 周辺のイ族、その支系であるサニ人、苗族などにも及んでいた。ただ、この地域における 布教は、今までにみた北西部、西南部の少数民族地帯とは自ずと様相を異にしていた。  昆明北西の武定地区は、漢族の他、イ族、嶺町、苗族、リス族、白墨など複雑な民族組 成をもつ地域であるが、この地方には早くからプロテスタント諸会派が伝道を行っていた。 まず最も少数民族に影響力のあった内地会がある。次いで中華基督教会があり、自立、自 伝、自養を旨として苗族地区で活動を行っていた。さらに安息日会があり、安寧で伝道師 を養成する三育研究社という学校を持っていだ23。  昆明北方に位置する富民県では、教会活動の中心地は第三区大竜潭にある。そこには教. 一55一.

(6) 会の小学一校があり、高級、初等ニクラス40人の生徒がいる。すべて苗族である。経費 は全て教会によって賄われており、教育の趣旨は文化学習と宗教教育の両立である。この 地域では苗族に最もキリスト教徒が多く、全県苗族の8割が信徒であった、  富民県のさらに北に位置する禄勧県には、1915年、内地会系のオーストラリア人張爾 昌夫婦が宣教した。当時、この地区に住むイ族は貧しく病人も多かったが、夫婦は病人の 治療を行いながら伝導に努めた。彼らは総教会を 老烏に建て、各地に支部教会を建てて イ族の中に信徒を増やした。総教会には2クラスからなる小学校を建て、支部にも初級小 学を作った。生徒数は4∼500人を数えるに至ったが、経済困難のため民国14年(1925) 年には閉校を余儀なくされた。ちなみにこの教会は民国34年に中華基督教と改名し、解 放直後の段階で撒老烏の総教会のもとに10の大分教会、26の小分教会を有し、全県のイ 族の6割が信徒であるというη5。.  別の報告によると、この地域の教会は教会学校を有することが多かったようで、禄勧町 営盤の黒イ(イ族の支配階級)の教会は、小学と神学院をそれぞれ持っていたといい、ま た武定谷のリス族の村の教会は中学と神学院をもち、さらに苗族の教会では聖書研究班 と高級小学を持っていたという。また各地の分教会もみな初級小学を有し、解放後、それ らの初級小学を卒業した生徒たちは、洒普由の高級小学へ行き、卒業時に1万人の大運動 会を挙行したというη6。.  一方、昆明東南にあたる路南岬山は、イ族の支系、サニ人が住んでいるが、この地方へ のキリスト教の布教は19世紀末にまで遡る。すなわち1880年に仏人、ヌF明徳神父がカト リック教をこの地に伝え、青山口、海郵、尾則などに学校を開いた。1909年、神父は華 印闘なる男を連れて香港へ行き、国際音標を用いてサニ語字典を編んだ。神父はまた、自 ら作った表音文字を用いて問答冊子を作ったといデ7。プロテスタント諸派ばかりではな く、カトリック神父も自ら民族文字を作成し、普及させようとしていたことがわかる。解 放直後、尾則村のカトリック教徒は49戸、住民のほぼ3分の1であっだ’8。  このようなキリスト教の浸透が、伝統的な習俗に相応の変化をもたらしたのは当然であ ろう。武定区に住む苗族は、リス族の公房のごとく、青年男女の交際の場として「花房」 という施設をもっていた。青年たちは夜毎花房に集まって歌舞を楽しみ、また愛を語った のである。だが教会はこのような習慣を許さなかった。花房は教会になり、また村内の男 女同士を結婚させないような条例が出されたのである。このため苗族青年に心中する者が 絶えなかったといゲ29。.  以上の記述は、概ね教会の活動を否定的にとらえていた共産党の記録に拠り、部分的に 民国期の史料によって補足した。従ってこれを協会側の史料から見れば、また違った布教 像を描きだせるのであろうが、ここで注意したいのは教会に好意的ではなかった共産党の 調査資料によっても、1当時の教会の少数民族に対する影響力が少なくないという事実であ る。おそらく民国期における布教は、上述した以上に深く進行していたものであろう。. 4,怒江リス族社会の変化. 一56一.

(7)  次に問題となるのは、キリスト教が少数民族の伝統的な社会をどのように変化させてい ったかという点である。ただ、この教育史的に最も重要な問題については共産党の社会調 査資料は多くを語らない。ここでは断片的なものながら比較的まとまった記載が見られる 怒江流域のリス族の事例を中心に述べることにしよう。  ①生活の変化  怒江流域に住む民族のあいだでは、欧米の牧師はまず村落の頭人(村長)を改宗させ、. 彼らを宗教的な責任者に据えたらしい。碧江県の俄科羅郷リス族における14人のミシバ (教会責任者)のうち、6人が氏族の頭人であったというのは、この間の事情を物語る珊。. 頭人は村落を構成する最大の氏族の長がなり、また宗教的な祭祀も司ったというから、頭 人の改宗は村落全体の改宗を引き起こしたであろう。同時にそのことはリス族固有の宗教 とキリスト教が併存しえたことも示している。  また一般の村人にも改宗すべき理由があった。俄科羅村での調査によると、村人は改宗 の理由としてギ病が多いが伝統的な祭鬼では治らず、上帝(キリスト)の保護を求めたい から」といい、また「結婚に際して多額の婚資を払う必要がないから欄」と述べている。  実際、リス族の伝統的な方法では、病に罹ると巫女を呼んで鬼を祭るが、この際膨大な 家畜の供犠が必要であった。碧江県干本村は、わずか24戸からなるリス族の村であるが、 解放後4年の問に全村で耕牛12頭、豚70余響を鬼を祭るために屠った槻。また貧困のた め婚資が払えず、結婚できなかった村人もいたが、改宗すれば婚資に関係なく結婚が許さ れたというのも、貧しい若者にとっては大きな魅力であったのであろう。キリスト教はこ のような貧困層の支持を受けていたものと思われる。  キリスト教の普及はそれまでの伝統的な社会のありようを、かなり大きく変革した。1951 年に行われた少数民族調査は、内地会系のキリスト教が碧江県に及ぼした影響として、婚 資が不要になったこと、離婚や売買婚が無くなったこと、並びに祭鬼の時に家畜を屠る必 要がなくなったという3点を指摘している黙33。.  また、改宗は衛生観念にも大きな変化を与えた。福貢県には神召会系の教会が布教した が、布教前の住民は一生のうち顔を洗うのは3回にすぎず、布団のある者も少なかった。 しかし布教後は洗面、うがい、歯磨き、櫛を知り、ハンカチも用いるようになった楓。  さらに伝統的な習俗も変化した。リス族には公房なるものがあり、15、6才に達した子 どもたちは、夜は両親の家を離れ公房に泊まった。公房は新婚夫婦の家か、あるいは分家 のために作られた部屋である獅。青年男女は夜はそこで暮らし自由な交際を楽しんだが、 キリスト教はこれを禁止した。  このようにキリスト教の浸透は、怒江流域のヌー族、リス族の伝統的な社会習慣、生活 倫理に大きな影響を与えた。それは宗教的価値観といよりも、近代社会の倫理の導入であ り、その意味でキリスト教は社会教育機関であったともいえるだろう。 ②リス文の創製と普及  キリスト教が怒江流域の民族のあいだに大きな影響を与えたことは上に見たとおりであ. 一57一.

(8) るが、民族教育史的にみて最も重要なことは、彼らに文字を伝えたことである。リス文は、. 1920年代に英国の宣教師、伝能によって作成されたものである。11の母音と29の子音か らなるラテン化表音文字で、リス族の間に広く通用したほか、ヌー族もまたこれを読むこ とができたという。リス文は学ぶのが易しく、2、3ヶ月で読み書きができるようになり、 解放直後の段階で文字を読める者7万人、怒江地区だけで3万人に及んだといデ6。濾水 地区ではリス文字による新約聖書と賛美詩289首、福音問答本が流布しており、『福音精 華』、『衛生課本』なども出版されていた。またリス語のレコードも4、50種類あって、宣 教師はレコードを神の声であるとしていたといゲ37。.  ではリス文はどのようにしてリス族のあいだに普及していったのか、そしてどのような 場でリス文は学ばれたのか。この問題については必ずしも明らかではない。しかし碧江玄 理悟底村の保長の娘は、学校に通ったことはなかったが、リス文に精通していた。彼女は 次のように言っている。自分は老母幡羅の教会にある短期の「唱詩班」に通った。そこに は小屋があり、一人の教師がいるだけだが、生徒は洋装本で賛美詩をよんでいた㎎と。こ の地の教会は概ねこのような小屋であった都、そこではリス文で賛美詩をよむ会が組織さ れており、信仰心、向学心に満ちた青年は、村外からもやって来てこれを学んでいたこと がわかる。リス文は本来キリスト教徒のためのものであり、宣教師からすれば布教の道具 であったが、福貢県ではすでに解放前後には、教徒以外でもリス文を読むことができたと いデ’。リス族は教会用の文字を越えて自らの言語を表現する手段を手に入れつつあった ことになる。彼等にとって、教会は何よりも学校であったのであろう。. 5,おわりに  中国が自国の教育史の一部分として雲南少数民族の教育史を編む場合、どうしても教育 政策史、すなわち漢族による少数民族に対する「啓蒙史」になりがちである。しかし彼ら の社会の内部から教育を考えた場合、伝統的な文化の授受のありようを本質的に変化させ たものとして、時の政府の漢化政策とともにキリスト教の布教があったことは否定できな い。教会による教育は、政府による民族教育とは次元を異にするものであったが、民族に よっては、その全面性においてキリスト教のほうがはるかに強い影響力をもっていたので ある。ただ、白旗やタイ族のごとく、キリスト教をあまり受容しなかった民族もあったこ とを忘れてはならないが4D、雲南少数民族社会に与えたキリスト教の影響は過小に評価さ れるべきではないであろう。.  いまだ近代教育が進展していない段階の少数民族社会においては、連綿と受け継がれて きた民族文化を次世代に授けていくシステムこそ、彼らじしんの伝統的教育制度であった。 万物の起源を教える神話や民族の歴史、そして重要な生活知識は記憶のみによって次世代 に伝達され、成年に達した少年は青年たちと共に夜を過ごすことによって多くの知識を得 た。それは確かに一つの教育であり、教育の場であった。だがそこにキリスト教は文字を 伝え、聖書が世界の秩序を説明しなおした。青年たちが愛を語る場であり、また少年にと っては教育の場でもあった「公房」も廃止され、新たな倫理秩序が教えられた。それは彼 らにとって、最初の大きな教育制度の変革といってもよいのではないだろうか。まして全. 一58一.

(9) ての少数民族にとってそうではなかったにしても、布教率の高かった地域での民族表音文 字の普及は、文盲率を著しく低下させている。複雑な漢字を用いるしかない当時の一般的 な漢族よりも、むしろ識字率は圧倒的に高かったとすら言えるだろう。漢文の教科書をも って宣教師の表音文字に対抗することは、当時の漢人をして「牛車で自動車を追うような ものゴ皿と言わしめたぐらいであった。このような意味において、雲南の少数民族地帯に おけるキリスト教は、たとえ明確な教会学校という形をとっていないとしても、それは問 違いなく大きな教育機関であったのである。. *1日時良[主編]『中国教会学校史』湖南教育出版社 1994 1頁。. *2同上、293∼298頁。 *3劉光町『雲南教育簡史』貴州人民出版社 1993 153頁。 *4劉、前掲書 153頁。 *5劉、前掲書 154頁。. *6張橋貴「独竜族近期宗教情況及有関習俗考察研究」何大明(主編)『高山峡谷山地複合系統的演  進』雲南民族出版社 1995 131頁。 *7張文照「怒族宗教情況」民族問題五種叢書雲南省編輯委員会[編]『繋辞社会歴史調査』雲南人.  民出版社:1981117頁。 *8戸井常ほか「貢山県一区怒族情況」、同上 83頁。 *9「基督教野天主教在怒江地区伝播簡況」、民族問題五種叢書雲南省編輯委員会[編]『礫像族社会.  歴史調査』雲南人民出版社 1981重66頁。 *10曽子才「西南中国の少数民族社会におけるキリスト教の受容」『季刊中国研究』10 量98940頁 *ll張文照「三族宗教情況」、民族問題五種叢書雲南省編輯委員会[編]『怒族社会歴史調査』 雲.   南人民出版社 1981117∼118頁。 *12 「保山区罪種民族的文化、宗教的習俗」雲南編輯組[編]『中央訪問団第二分団 雲南民族情況.   置集(上)』雲南民族出版社 1986174頁。 *13「雲南省貢山県第四三三三族社会経済調査報告」、雲南編輯組[編]『独二二社会歴史調査   (二)』雲南民族出版社 198530頁。 *14「怒江州碧江県洛本卓区勒墨人(白族支系)的社会歴史調査」雲南編輯組[編]『白族社会歴史   調査(三)』雲南人民出版社 199197頁。 *15「瀾澹平々福区拉 西社会経済調査」、民族問題五種叢書雲南省編輯委員会[編]『拉箱族社会歴   史調査(一)』雲南一二出版社 1982 33頁。 *16「瀾濾県東回区班利塞拉勅族社会経済調査」同上、77頁。 *17同上。. *18街逸夫「西南民族的語言問題」『民族学研究集刊』第3期、1943[初出]、李紹明、程賢敏[編]   『西南民族研究論文選』四川大学出版社 19男 40頁。. *19「愴瀬高宗教情況」、民族問題五種叢書雲南省編輯委員会[編]血族社会歴史調査(三)』雲南.  人民出版社 1983 54∼55頁。 *20「濾源県宗教情況」同、77頁。. 一59一.

(10) *21「双江県像族社会経済調査」、前掲縢族社会歴史調査(三)』121頁。 *22最自知「上教育部請補助経費実施辺教文」、劉、前掲書 211∼212頁所引。 *23「基督教在武定区的情況」雲南編輯組[編]『中央訪問団第二分団 雲南民族情況瞬集(上)』雲.   南民族出版社 1986 16∼18頁。 *24「富民県訪問材料」、同上 48頁。. *25「禄勧県訪問材料」、同上 56∼57頁。 *26「基督教在武定区的情況」、同上 17頁。 *27「尾則村調査報告」同上、70頁。 *28同上。. *29「基督教在武定区的情況」、同上17頁。. *30嗜確族社会状況」、前掲『揉蘇族社会歴史調査』8頁。 *31「碧江県二区俄科羅村社会歴史調査」、雲南省編輯組〔編]聯蘇族、怒族、勒墨人(白族支.  系)社会歴史調査』雲南人民出版社 198530頁。 *32「碧江県干本村社会調査」同上、3頁。 *33「三江区宗教情況」前掲『匪集く上)』21∼22頁。 *34「怒江区文教衛生情況」同、15頁。. *35「橡像族社会概況」、前掲『糠埠族社会歴史調査』9∼10頁。 *36「怒江区概況」前掲『匿集(上)』3頁。 *37「怒江区宗教情況」同上、22頁。. *38「怒江区文教衛生情況」同上d4∼15頁。. *39同上、24頁 *40殊族人民的反帝闘争」民族問題五種叢書雲南省編輯委員会[編]『西双版納疎族社会総合調査  (一)』雲南民族出版社 1983114頁。 *41呉宗斉哺音文字與西南邊民教育」、『西南邊彊』第2期 193855頁。. 一60一.

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参照

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