トルコ民族と教育について
古 川 原
1 トルコへの関心
私たちはトルコということばをきくとき,まず奇妙なという形容詞のかわりで あるように感じてしまう。おそらく一一tsはじめにそのような感覚を持たせたの は,アメリカで七面鳥のことをターキーと呼んだからであろう。七面鳥がヨーロ ヅパに紹介されたのはアフリカからであって,ギネア鳥と呼ばれた。古代ギリシ アに七面鳥が入ったのは小アジアを通ってであったからそのころはアナトリア家 禽と呼ばれたらしい。近代のヨt・一・一ロッパへはポルトガル人がギネアから運んだの
でギネア鳥とよばれた。この奇妙な容姿の鳥をヨーロヅパ人は旧世界の遺物とし て珍重したという。
もう一つ日本人にトルコと奇妙さとを結びつけることは,ベートー一フェンやシ
・パンやその他の人々の手になるトルコ行進曲という題名のピアノ曲である。他 の行進曲とちがってリズムが軽く,華麗であってしかも形がきちんとととのい,
四角の色板がおどりまわるような固さを持っている。日本人には奇妙としか言い
ようがない。
第三に第一次大戦のあと,革命でロシアを逐われたと称する異人たちが,肩に 大きな包を背負ってラシャの行商にあるいた。不自由な片言の口本語で,無器用 に一軒一軒たずねては紺や黒のラシャを売ってあるいたが,ある人は思いがけず やすい買物をしたとよろこび,ある人は開いて見せない反物の奥の端に大きな痕 があったと怒った。新聞にも,この種の行商人に痕物を売りつける者が多いと警 告の記事がでたことがある。私たち子どもは大きな体格とひげづらに興味をもっ て,あとについてあるき「おじさん,どこから来たの」ときくと,毛深い手を振 って日本語がわからないというジェスチェアを示す。おっかけて「おじさんロス
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ケ?」「共産党?」とからかうと,きっとなって「ちがう,nスケない。共産党 ない。トルコ人!」とどなる。われらはワッと逃げて「ワーイ,トルコ人だっ て」とさわいだ。そうして改めてトルコは奇妙な国だと思い知ったのであった。
中学生になって,多分関東大震災のころ,同級生の小野君というのに「オノパ シャ」という仇名がついた。小野君は小柄だが色が白く,なかなかハンサム・ボ ーイで,図画が特別にうまく,剣道も上手な方であったほかは何も特色のない人 であった。もう忘れてしまったが,先生が地理の時間に,ケマルの革命をとき,
ケマル・パシャのパシャは階級をあらわす敬称で,たとえば小野(クラスの中で 一番発音の簡単な姓)がその階級に生れたら小野パシャと呼ばれたであろう,と でも説明されたのであろう。そこで頭の単純な連中がそれを仇名に短絡させてし
まった。その証拠に,同級生で,後に教育学者になった宗像誠也君や勝田守一君 はオノパシャという仇名をおぼえていない。オノパシャをおぼえているのは当時 のミソッカス階級の一一部だけである。だから多分私たちの地理の先生はりっぱな 方であったから,ケマルの改革を正しく教えて下さったのだろうけれども,私た
ちはそれをおぼえないで,奇妙な感じの仇名だけをおぼえた。しかしそのとき,
ドイツがベルリンとバクダードをつなぐ鉄道を布いたことや,その関係で大戦中 トルコはドイツ側についたことはおぼえた。小学校の低学年から,エムデンびい き,したがってドイツびいきだった私はトルコを味方だと知った。そうして「ロ スケない,トルコ人!」とどなったヒゲの大男をなつかしく思いだした。
星移り,物変って第二次大戦になったとき,すでにおとなであった私は,また 奇妙な性癖をだして,盟邦ドイツ嫌いに変貌していた。そうして戦争にまけた。
日本に原水禁運動がおこり,その世界大会の最初の時であったかトルコの詩人ヒ クメットという人が「盲の少女」という詩をささげた。私は日本訳しか読むこと ができないが「10年前に恐しい火が私の目をやき,手足をやいて,私は父母兄妹
を見ることもできず,人形を抱くこともできない。私はお菓子もいらない,玩具 もいりません,どうぞ署名をしてください」という文句が印象的であった。
そのヒクメットは祖国トルコを遂われ,ワルシャワに行き,そこにも永住でき なくてモスクワに行き,その後日本の大衆からは消息を絶っている。やはりトル
コは奇妙な国である。
アメリカの黒いジエット機がソヴ/エト領内を偵察して撃墜されたとき,その 基地はトルコにあり,フルシチョはその基地に対して原水爆を見舞うかも知れな いと怒り,首脳会談をこわしてしまった。
その直後に私はギネアのコナクリに開かれたアジア,アフリカ諸国民会議に出 席したがトルコからは出席がなかった。アメリカの基地のあるタイからも,台湾 からも出席者は無かった。その帰途アフリカを旅行中,韓国で李承晩政権が倒 れ,トルコではメンデレス内閣が倒れてイノヌエ内閣ができたことをきいた。日 本に帰えると安保闘争が高潮していた。
その後イノヌエは基地問題を解決すると公約して政権を握ったのに,基地は微 動だにしないではないか,という理由で,トルコ再動乱のきぎしがあると新聞に 小さく報道されたことはあるが,発展を見せたことを知らない。やはりトルコは 奇妙な国であるらしい。
奇妙だと思うのは,私たちが何かトルコにひかれるものがあるからである。30 年以上前に,国会で野党の議員が,時の首相を激励するつもりで,「首相は,ヒ ットラーの如く,ケマルパシャの如く,スターリンの如く,勇敢に,積極的にお やりなさい」と演説して懲罰動議にかけられた。当時ヒットラーは盟邦の独裁者 であり,スターリンは公然たる仮想敵国の独裁者であると思われていたから,こ れを並べたのはよくないと叱られたのであった。私はそれよりも,この議員が,
ケマルの名を知っており,それを賞揚する側にならべ,懲罰委員たちも,名も知 らぬ未開国の大統領を,自国の首相や盟邦の総統とならべたのは怪しからぬとは 言わなかったことに興味をおぼえた。単に独裁的傾向のある積極的な政治家とい
えば,すぐにイタリアのムソリー二や,イスパニアのフランコが思い起されるは ずだったからである。
そうして,トルコ人もまた日本に無関心ではなかった。トルコ人を常に北から 圧迫したロシア帝国を打ちまかした極東の小国として彼らは日本の名を知り,そ の戦争の英雄としてトーゴー一はトルコ人にとってもアイドルであったことは日本
にも知られていた。
4 トルコ民族と教育について
気がついて見れば,日本とトルコとは同じアジアの内陸に誕生し,なぜか一方 は東へ志して,遂に海をわたりアジア洲の東の涯の列島に定住し,他方は内陸の 長い旅路のはてにアジア大陸の最西端,アナトリア(小アジア)に定住し,さら に海峡をこえてヨーロッパ大陸の一角,東ヨー・・一ロヅパ文明の拠点を領有し,北に 西にしばしば大規模な侵略遠征を試みたという点でも,奇妙に対比しうる基本的
な類似点があるのである。
2 特に興味のある諸点
第一はトルコ語というものである。市河三喜編の世界言語概説によれば,トル コ語はしばしばその表記法を改めながら,そうして長い民族の旅路の中で,他民 族に接し,他の文化に接し,単語の数をふやしながら,約2000年の間にその純粋
さを失わず,その本質を変えていない。たとえばトルコ語の最古の文献といわれ るオルホン碑文は,ウイグル文字で彫られているが,その発音と文法とは現代ト ルコ語として解読できるという。その後トルコはアラビア文字を用いて長い間自 国語を表記し,近代にはロシア文字を用いて表音化を試み,最近約半世紀はロー マ字を国字と定めているが,この間文法の基本や発音に変化がないというのは驚 くべきことであろう。日本語は漢字を借りて表記してきたが,文法もずいぶん変 わり,発音もある音は消滅し,変化した。古事記や万葉集はカナに書きあらため ても,日本人の大部分は読めない。インテリを自認する私たちでも,古事記万葉 を全くカナだけ,またはローマ字で書かれたら,ほとんど読めないであろう。単 語を漢字で書かれることによって,いみを察しながら読むにすぎないからであ
る。
第二に,トルコ人はその長い旅路のうちに多くの異民族に接し,異文化に接し た。まずイスラムに出会い,これを嫌ってアフガニスタンの山奥まで逃げようと するが,いつのまにか,忠実なモスレムに化してしまう。
私たちがトルコを奇妙の代容詞にするのは長い間,トルコ領内にイスラム文化 の重要な中心地の一つバクダードがあったからであろう。バクダードの盗賊など で代表されるアラビア夜話は,即ちトルコの物語と私たちが少年時代に受取って
いたのは,全く正しくはなかったが,ひどくまちがってはいなかった。トルコの 皇帝はイスラムの護教者をもって自ら任じていた。
イランの北をかすめて旅する間にトルコ人は建築その他ペルシャの文化を吸収 する。トルコ人の残した建築に,ペルシャ人以上にペルシャ的と称えられるもの が今も残っているそうである。
アナトリア進入の前後に,トルコ人は東方に移住していkギリシア人,ローマ 人に接し,その文化を吸収する。ことに興味のあることは,すぐれた技術,異っ た文化の所有者を専門家として終身雇傭するのではなくて,外国人を貴族に列 し,封土を与え,自国民をその農奴にして,支配を委ねてしまうことである。
このような外国人,異文化に対する寛容さは,外来文化接取の天才を以て任ず る日本人も,いくらかひけめをかくし得ない。
明治のはじめ,日本の若き指導者,西園寺公望と伊藤博文とはパリでリストの ピアノ演奏をきき・感動して何が何だかわからないけれども,彼を日本に招聰し て,日本に何事かを貢献させようとした。これは成功しなかった。リストはその 前にトルコ皇太子のピァノ教師として何年かをコンスタンティノポリスに過して いる。距離の遠近もあるだろうけれども,基本的には異文化受容の態度に,従っ てその指導者の所遇に,日土の差がありすぎたのではないだろうか。
まさに奇妙なことに・オスマン帝室の正妃にも,後宮にも,ヨーロッパの白婦 人が入っている。正妃にはヨーロッパ式宮廷外交で迎えられたり,迎えたりの例 はありうるだろうが,進んで後宮に入るヨーロッパ婦人の気持はどういうもので あろうか。このような婦人がいわば暴君をあやつって,暴政を行なわせたという 例も無いことはないのである。
このような異文化受容の態度というものは一つの特異例として,私たちの興味 をひくに足るであろう。
第三に,このような異文化受容の態度から派生して,保守主義とナシオナリズ ムとが,奇妙な緊張関係を持っている。
ケマルはケマル アタ テェルク(トルコ人の父ケマル)と呼ばれ,本来ナシ オナリストであると思われる。ナシオナリストであるから,オスマン帝国を滅
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し,そのささえであるイスラムに改革を加えようとする。具体的にはアラビア文 字を廃してロt−・一・マ字を国字としたり,婦人のヴェールを廃して近代化に努力す
る。特にエタティスムと呼ばれる経済政策を強行して,封建制度に対抗しようと する。エタティスムと明治維新の諸政策とは対比して考えるいみがあると思われ
るが,トルコの保守主義者たちは,ケマルがイスラムに対して非保守的であるが 故に,彼を非ナシオナリストと呼ぼうとする。メンデレスはこのような保守反動 の勢力にささえられて政権をとり,政権を保ち得たのであろう。イノヌエが政権 を奪っても,公約を果し得ないのはこのような勢力に妨げられてであろう。
このことはちょうど日本の民族主義と,儒教を修正してこれにしがみつこうと する保守主義との緊張関係に似ている。つまり,もともと反儒教で出発した真淵 から篤胤に至る古神道が民族主義に発展することを恐れて,修正儒教を民族精神 だとしい,これを国家主義と名付けて国民をだまらせたのが,教育勅語の起草者 元田永孚であった。元田永孚を起用し,その草稿を自らの名に於て勅語とした明 治天皇もその責任は逃れ得ない。
ケマルはナシオナリストとして出発し,経済政策を中心としてエタテ/スム
(国家主義)を唱導したが,それは政策であって思想を前面に押立てはしなかっ た。おそらくトルコ人は教育勅語程度の修辞法で,信念を修正するほど甘っちょ ろくはなかったのであろう。
そのためにトルコには現在までも,封建制度にささえられたオスマン帝国から 国民が独立することと,イスラムを純粋に宗教として信抑することとの間に根深 い緊張関係がわだかまり,それがエタティスムの破壊者アメリカと結ぶことと,
国民の独立を達成することの矛盾にまで解き難くからまりあっている。そのこと は恐らく,アラブ諸国の民族主義者たちの矛盾でもあり,アラブ民族主義乃至は
イスラムの同情者であろうとする中・ソ2国との関係をも,いよいよ複雑なもの にしているにちがいない。
イスラム自体に重ねて宗教改革が行われることを期待しながら,どの民族にも 安易な教育勅語の出現しないことを切願したいのである。
第四に,第三の問題に深い根をおきながら,トルコは日本とともにアメリカの
大きな軍事基地をかかえこみ,事実上の独立を不完全なものにされている,とい う点で,共通の課題を持っている。
他国の軍事基地を国民が喜んで導入するということはありうるはずがない。日 土両国といえどもその例外ではない。一方には第三にのべたナシオナリズム発展 に於ける障害を共通にし,他面両国とも国内資源に乏しく,近代的科学技術の発 展に遅れをとり,日本は19世紀から経済に於て常にアメリカの下風に立ち,トル コは今世紀前半に於てエタティスムを破綻せしめられ,経済的に次第にアメリカ の支配下に立たされた。
アメリカを資本主義の国と呼ぶことはアメリカの政治家たちは嫌うそうだけれ ども,常識的にはアメリカは資本主義国の自他共に疑わない代表選手であろう。
資本主義者が社会主義者を嫌うのは極めて当然のことであろうが,どういうわけ か,アメリカはアジア人の社会主義化に対しては,異常な嫌悪感を露骨に表明す る。米中関係,米朝関係,米越関係,どれ一つとって見ても,それは異常にヒス テリヅクである。
おそらくそのはしりが1930年前後の米ト関係であったのではないだろうか。そ の少し前くらいから,日米関係も悪化し,排日移民法の制定から,日本のアジア 発展阻止の一連の政策は,日本の動向に国家社会主義のにおいをかぎつけていた ものと思われる。日本のアジア政策には,アメリカは終始反対したが,第二次大 戦後のアメリカのアジア政策は反共のための防壁である大東亜共栄圏構想とどれ
ほどもかわってはいない。同じ政策を自分で肩代りするために,莫大な国費と人 命とを犠牲にしたことになる。そうして日本と同じ失敗をくりかえし,より以上 の困難に直面し,同じように敗退しようとしている。第三者的に見れば愚劣この 上ないことだけれども,アメリカの立場から言えば,そのような計画的なことは
アジア人の手でさせてはならないことなのではないだろうか。
このような観点で見ればアメリカ入こそはトルコ人のはるかに及ばない奇妙な 国民だということになるけれども,対米関係という点で・日土両国民は共通した 宿命的課題を背負っていると言えよう。
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3 二,三の参考書
ジ・一ジ・オレンとアンウィン出版社からMフィリップス・プライスという人 が「トルコの歴史 帝国から共和国まで」という書物を出している。プライスと いう人はすでに相等の年輩の人らしい。ca−一次大戦前からいわゆるトルコ青年党 の人たちと親しく,大戦前にアナトリアの奥地まで,多く騎馬で旅行した。ee−一 次大戦中はマンチェスター・ガーデaアンの特派記者としてロシアに居り,一度 ならず東部戦線の従軍記者になっている。第二次大戦後は数回トルコを訪問し,
ソ土国境附近を視察した数少い外国人のひとりである。彼は学者というよりはジ
・v 一ナリストだがその歴史研究は正統的で,上原専録先生のような方でも,トル コ問題にはまずこの書物を参考書としてあげられる。
一見目立つことは,プライスという人はロシア人を嫌いらしい。トルコ青年党 員と親しかったから古くからトルコを旅行したと言うけれども,この書物にはロ
シア人が嫌だからロシア人にいじめられたトルコ人を好きになった,というにお いがかぎつけられる。上原先生にそう申し上げたら「あなたもあの本を読みまし たか,プライスはマンチェスター・ガーディアンの寄稿者ですからね。保守派の チャンピオンですよ」と仰有った。
このロシア嫌い,保守派というのは多分私のねじくれた主観で,この書物はお そらく一般のトルコ人以上にトルコを愛する愛情でつらぬかれていて,心を打た れる文章が多い。
同じ書店がアメリカのウィスコンシン大学教授アンドレアス・M・カザミアス の「トルコに於ける教育と近代化の課題」という書物をだしている。これはシカ ゴ大学に本部をもつ比較教育センターに棒げられた仕事であるらしい。
カザミアスはアメリカ生れのトルコ系二世であろうか,或いは自ら移住帰化し た人であろうか,それは知らないが,トルコ語を自由に読み書き話すアメリカ入 学者である。比較教育を専攻してトルコと中東を担当している。トルコ語をよく するのはよいが,書中しばしば1iseということぼが,外国語としてでなく使われ ている。外国語に弱い私はいくら英和辞書をひいてもラィズということばが見つ
からない。思いきって土英辞典をひいたらフランス語のlyc6eの音訳であること がわかった。この書物はこのようにトルコにのめりこんでいて,トルコを浮彫り
にすることに失敗している。のめりこんでいるためにトルコへの愛情が感じられ ない。近代化は西欧化なのだときめこんでいるが,なぜトルコが西欧化の道を選 んだのかは自明の理であるかの如き態度である。そういういみではトルコにのめ りこんでいるのではなくて,西欧アメリカにのめりこんでいるのかも知れない。
ウィリー・スペルコという人がラテン新出版から「トルコきのうきょう」とい う書物をだしている。スペルコは同じ出版社から「現代トルコの生みの親ムスタ ファ・ケマル・アタテaルク」というもっとまとまった書物もだしている。スペ ルコという人については全く知らない。名前だけからは米英系なのかイタリア系 なのかもわからないが,書物は多くパリから出版され,2,3は/スタンブール から出版されている。ジ・e 一ナリストというべき人であろう,読みもの的筆致は 巧である。トルコ,小アジアに関する10冊程の書物のほかに,ムソリp…二やラマ
ルティ,...ヌに関する著作もある。但しラマルテn一ヌは小アジア支配のことに限 って書いているらしい。さきにあげtaピアノ教師リストのことや後宮に於けるヨ ー一ロッパ婦人のことなどはスペルコの書物から得た断片的知識である。
日本では古く大川周明のケマル研究があるほかに新しく紀伊国産新書に三橋富 治男氏がトルコの歴史を書いている。三橋氏はことし還暦の年齢とおもわれるが 慶応で東洋史を専攻し,現在千葉大学の教授である。トルコ語を自由に読まれる 方で,その点信頼しうる労作だが,なぜかオスマン帝国の未期までで筆をとめて おられる。古い史学の伝統で現代を論じない自制かもしれないけれども,われわ れには困ることである。
4 トルコ民族
トルコ人がはじめてイスラムに接したのはちようどマホメットの死後30年にあ たる692年(日本では持統天皇の世,藤原宮に遷都の2年前,唐は則天武后の世,突契討 伐,ヨーロヅパではコンスタンテaノポリスで教義統一一iのための万国公会議の11年後),ウ
ラル海の南,シルダリア河とオクスス河にはさまさた地帯に於てであった。今の
10 トルコ民族と教育について
地名でいえばウズベキスタン,タシケントの西,サマルカンドの北の草原に於て であった。外豪古の北バイカル湖の両岸あたりから牧草を追って西へ西へとある いて来た遊牧民,シャマニズムと呼ばれる自然宗教を信じてきたトルコ人は,一 部は簡単にイスラムに帰依し,一部はイスラムを嫌いおそれてアフガニスタンを 横切り,ヒンドゥクシェの山中に逃れた。そのときのアラブ側のカリフはコタイ
バといい,逃げたのはコーラヅサンの酋長ニゼクというものであったという。
しかしトルコ人は西への旅をつづけ,旅しながら,クルド人,北アフリカのベ ルベル人,ペルシャ入などとともに,いわゆるイスラム帝国の一員になる。
当時イスラム帝国はウンマヤ王朝で首都はシリアのダマスクスにあったが,ダ マスクスは繁栄の極腐敗し,ウンマヤにかわってアッバス王朝になり,首都はイ
ラクのバクダードに変る。
西への旅の途次・今のトルクメニスタンを過ぎ,アシクババードあたりから,
今のイラン領に入ったトルコ人は,すでにペルシャ文化の影響をうけていた。ヒ ンドゥクシュの山中に逃げたニゼクはコー一・一・ラヅサンの酋長だというが,コーラッ サンはイランの東北部・首都テヘランの東に連る広大な地域の地名である。
ウンマヤ朝がアッバス朝に変り,首都がダマスクスからバクダードに東遷した ことは,イスラム帝国内に於けるトルコ人の地位を重くさせた。トルコ人は自ら その地方の行政官になったのである。
9世紀からトルコ人は再び移動を開始し,ペルシァの北部を通過してヴァン湖 に達する。ヴァン湖はタブリツの西約300百キロにある。11世紀にはアナトリア に入って・はじめてロマヌス皇帝のビザンテaン勢力と接触することになる。こ の移動期間常にトルコ人の先頭に立って西への道をきりひらいたのが,セルジュ ーク族であった。セルジューク族の11世紀に於ける中心はコニア(アンカラの南
100キロ)にあった。
そのころヨーロッパ諸国はいわゆる十字軍をはじめる。十字軍はアナトリアを 通って聖地を志し,恐らく糧抹を現地で徴発したはずだから,アナトリア地方は 慌掠にさらされることになる。セルジュー一一クたちはこれに抵抗しなければならな
い。
余談だけれども,昨年の教育実習で定時制高校に世界史を教えていた本学の実 習生のひとりは「十字軍はセルジューク族の抵抗にあって難渋した」と教えた。
生徒は「セルジェーク族というのはアラビア人ですか」と質問した。実習生は
「アラビア人とはちがうセルジL−・一ク族です」と答えた。生徒は「それではセル ジェーク族は何ですか」と重ねてきいた。実習生は「セルジu.一一一クというゾクで す」とくりかえしたが,このゾクは族ではなくて賊というひびきをもっていた。
あとできいてみるとこの実習生は西洋史を専攻しているという。いわば答えにソ ツはなかったのだけれども,十字軍を妨害した賊という感覚はヨーnッパ中心の 考えかたで,東洋を中心に考えれば十字賊を防衛したセルジェーク人(もしくは
トルコ人)というべきであっkろう。
セルジュ_クはイランからもってきたペルシャ文化と,アナトリアでギリシヤ 人と接触して学んだギリシヤ文化と,アラビア文化とをここでこねあわせ,コニ アを中心にモスク,学校,宮殿,要塞等々を残す。ことにアナトリアにいるギリ シヤ人を支配するためにギリシヤ語を学ぶ。これらの精力的な活動の結果とし て,イスラム百科というべきカシェガリに,マホメッドが「トルコ人のことばを 学べ,彼らの支配は永く続くことになっているから」と言ったということがのせ
られている。
しかし,トルコ人の中では,セルジュークに代ってオスマンリが支配的地位を 獲得することになる。
13世紀はアジアに大変動の起った時代である。いうまでもなくモンゴルの膨張 でバトゥt−一一・カーンがロシアに侵入し,フラグ・カーンがペルシャに侵入してく
る。フラグはバグダードを破壊し,アッバス朝を倒してシリアに入る。トルコ人 の将軍がエジプト人の部隊をひきいて,やっとアフリカへの侵入を防いだ。
トルコ人がオクサス平原を棄てて,アナトリアに移住したのは,やはり西から 次第に伸びてきたモンゴールの圧迫によってであったと思われる。セルジェーク は西漸の先頭にたったために,アナトリア全体を支配するとこになったのだが,
広大な地域を一部族で支配しようとして,力が分散し,稀薄になり,かえって北 辺の地域警備にあたらせたオスマンリに支配権を奪われることになる。1246年,
12 トルコ民族と教育について
セルジュークのスルタン・アラ・エヅディンの死によってオスマンリが支配権を とり・後のオスマン帝国の基がきつかれる。 これが1246年(日本では北条時頼執権 となる・ヨーロッパでは蒙古軍シレジア侵入,ハンザ同盟成立の五年後,ウェストミンスタ ー寺院建築中)のことである。
1272年(日本,文永の後の2年前。ヨーロッパ,ト・一一・一?・ダキノ死の2年後)マルコパ
ウロが小アジアを通過したときの情況はこのようなもので,パウロは小アジアの 支配実権がオスマンリトルコにあることを認めた。
オスマンリの中心はイェニ・シェヒル(イズミトの南,バルサに近いというからマル モラ海に面したあたりであろう)にあったのであろう。 オスマンリは勤勉な人たち であり,イスラムの異教徒に対しても寛容であったから,かえってギリシヤ人が
イスラムに改宗するものがふえたのであった。こうして剛毅一点張りであったト ルコ人が・知的でウィットに富むギリシヤ人ととけあい,まじりあうことにな
る。
オスマン(1290−1326)を首領とするオスマンリたちはアナトリア全土の領主た ちや,特に敵対関係にあったカラマンリをむしろ無視して,その目を専ら西にむ
けていた。
当時,トルコ民族をささえていた二大文化,即ちアラビア文化とビザンティン 文化は・前者はモンゴルの侵入によって破壊され,後者は十字軍によって壊滅さ せられていたので・トルコは独自の立場で国家と文化とを建設しなければならな いことになっていた。
コンスタンテaノポリスは十字軍によって占領され,ギリシヤ正教会がローマ 公教会に屈服した形になったため,正教会員は公教会に改宗を迫られ,バルカン 半島の住民たちは強く圧迫を感じていた。そのために住民たちは,むしろイスラ ムに改宗した方が気安いと思ったり,トルコ人がローマ人を逐って東ヨーロッパ を占有し,寛容な宗教政策をもって臨むことを待望する空気が生れた。
オスマンの子オルカーンは亡父の遺志をついでブルサ地域に進出,ブルサを首 都とし,ビザンティンの皇女と結婚して,一層ギリシヤ文化の吸収につとめた。
この皇女のことはイブン・バヅトゥ・一一 igの三大陸国遊記にもでてくる。
オスマンリは世襲を認めない土地制度をつくりあげた。
ビザンティン皇帝コンタクゼモスは周辺に迫る敵と戦うために,オスマンリを 利用しょうとし,これがオスマンリのギリシヤ文化吸収政策と利害一致するとみ て,両者は手を握ったのである。オルカーンの結婚はこのような利害による政略 結婚の典型的なものであった。
14世紀の半を過ぎるとオルカーンの子ムラードは,コンスタンティノポリスに 次いで重要といわれたアドリアノポリスを奪い,モラヴィア河の上流にあるコヅ ソヴォ(クルソヴォ)あたりからセルビアに圧力を加えはじめた。ムラー一ドはア ナトリアのことは他の種族にまかせ,専ら目をヨーロッパに注いでいたのであ
る。
ムラードは多民族帝国の建設を意図した。イスラムへの改宗者を第一市民と認 め,非改宗者は第二市民として税を高額にした。そうしてローマ帝国の伝統をと りいれた軍隊の改編を行い,トルコ行進曲のもとになる有名なトルコ歩兵の戦術 をつくりあげたのである。この戦力を用いて,ムラードは14世紀の終の4分の1 を,逆転してアナトリア再征服を意図する。バルカンの北はハンガリーにおさえ
られたためもあって,アナトリアを固め,イズミールの南アィディンを納めてエ
ー・ Q海に追出し,エペソをとることで地中海に直面した。ムラードの子バヤジー ドは更に南西へ追出していったが海軍は作り得なかった。
バヤジードはコンスタンティノポリスをも包囲したが,これはジェノア・ヴェ ネテaアの連合艦隊に阻まれて占領できなかった。
15世紀になるとすぐ,トルコはタタt・・…ル人の侵入をうける。首領ティムール・
タメルラーヌは,まず,現在のトルコ共和国のほぼ中央,シバス(アンカラとエル ヅルムと結ぶ線の中程)をとり(1402年),西進してトルコの主力軍とアンカラに遭 過し,トルコ軍の形勢は不利であったが,テaムールは軍をかえしてサマルカン
ドに向い,そこで死んだためにタタールは東へ帰えっていった。
15世紀前半はオスマンリにマホメヅト1世,ムラード2世という名君が出て,
それぞれ20年,30年の治世で,アナトリアの諸領主を完全に縦えた。
コンスタンティノポリスは十字軍に破壊されたままあいまいな位置を保ってい
14 トルコ民族と教育について
たが,そこに止っていたギリシヤ正教の大司教はトルコ皇帝の認可によって載冠 することになったので,コンスタンテaノポリスはトルコに従属していたと考え
られるのであった。
1512年にはトルコはペルシャに軍を進めている。
16世紀もトルコは正義王セリム,法制王スーレイマンの2名君を得て勢力を伸 ばした。ブルガリア,n一ゴースラヴィア,ハンガリーなどに兵を進め,ベルカ
ンの西半部,ダk e一ブ河の下流などがトルコの軍門に降る。1920年代にはさら に軍を進めてヴィエンナを圧迫したが,スーレイマンは補給線が伸びすぎて失敗 したモンゴルの例を考えて,賢明にも徹退してしまった。
スーレイマンの後宮に白人スラヴ族の婦人ロクサラナが居り,その生んだ暗愚 でアル中のセリムを,後継者に指名するために,スーレイマンは前から後継者に 定っていた有望な青年を殺してしまった。
100年来の宿願であった海軍も創設され,世界最強を誇ったが,16世紀後半に は次第に弱体化し,東地中海にとじこめられてしまう。
オスマン帝国はイスラムの護教者を以て任ずるけれども,そのイスラムは民族 の経歴からして独特の性格をもっていたといえる。
即ちトルコ人がイスラム化したのはペルシャ北部に於てであったから,出発に 於てペルシャ的イスラムであった。ペルシャのイスラムは公会議よりは血統を重 んずる,即ちアジア的とか伝統的とか批評されるシt−一一ア派を主流とした。トルコ 人は西漸してダマスクスやバクダードを通り,ここでイスラムの正統派という か,最大の教派であるスンニ派の影響を強く受ける。
そのために聖典として,第一に主として9世紀のペルシャ,イスラムの指導者 の学説集であるボカリを所持していた。第二にイスラム全体の博士たちの法律シ ェリアを受継いでいる。第三にもちろんイスラムの正典コーランを護持してい る。しかもコーランの解釈はスンニ派の解釈を正統として持っていた。
トルコ人の宗教的寛容性は本来草原の遊牧民として大ざっぱな性格を持ってい たということのほかに,自らの信仰についても遍歴があって,寛容性を育てなけ ればならない理由があったと言えよう。
従ってトルコ人は人間を3種類に分ける。即ち第一はイスラム教徒であり,第 二は聖書までを信ずるユダヤ人とキリスト教徒であり,第三に偶像を信ずる異教
徒が入る。
イスラムにはヘジラの時からシェリアの解釈に4人の権威者即ち,イブン・マ リク,アブ・ハニファ,シャフ/エ,イブン・カムバルがいたが,オスマン皇帝 は選挙制を主張した最もリベラルなアブ・ハニファの解釈を正統と主張しつづけ
た。
したがって宗教即ち法制の運営にウレマという長老宗教会議をおき,その中で 指導者たちの委員会をシェイク・ウル・イスラムと称し,さらに直接宗教を離れ た人間の法律を地方毎に護持判断する役人をカディスまたはムフティスと呼ん
だ。
また閣議にあたる政治担当会議をデaヴァンと呼び,いわゆる親任の武将をア ガスと呼んだ。ディヴァンは常に腐敗し,アガスが越権行為をすることが多かっ た。そこで特に皇帝に忠実な青年たちや,占領地の基督教徒のなかから徴集した 青年によって新軍隊を組織し,これをイエニ・セリス(英語でジャニサリーズ)
と呼んだ。
財政の基礎は国有地ミリと,教団用地ワクプと,私有自作地ムルクと,農民税 ラヤの上に立っていた。ラヤは次第に重課税になって,そのために農民が土地を 棄てて都会に出る。即ちプロレタリーア・・一トが発生し,ルンペンもふえることに
なる。
16,17世紀のヨー一一 nヅパは宗教改革をめぐって攻防の戦乱が続き,これが科学 技術の発展を刺戟したが,トルコは繁栄に溺れて安逸を貧り,世界を震憾せしめ
た軍隊の組織を訓練とは,ヨーロッパの新兵器の前に光を失うに至った。
18世紀後半からロシアがしきりに南下をはかってトルコに圧迫を加える。
19世紀になると永い間トルコの下風に甘んじたギリシヤやエジプトが自らの独 立をはかる。トルコはひきつづきロシアの圧迫をうけ,英仏の応援を得て対抗す
るが,旗色はよくない。皇室内には内紛がつづき,皇帝は政治に飽いて,宮廷は 腐敗にあえぐ。
16 トルコ民族と教育について
19世紀後半には青年トルコ党が誕生し,国政の改革を叫ぶが保守的な老人たち に圧迫されて国外に逃れ,多くはフランスのパリに集って新しい学問を学びなが
ら,改革の策をねった。これに常に同情的立場をとってはげましたのはユダヤ人 と,フリー・メーソンの人たちであった。
20世紀になって1908年(明治41年成申詔書の年)7月24日オスマン帝匡1は新憲i 法を制定し,30数年停止されていた人民議会を再開した。その年,25歳以上の男 子による総選挙が行なわれ,280議席の大部分はイスラム教徒であるトルコ人に
よって占められたがキリスト教徒も30議席を獲得し,新憲法によって内閣にはキ リスト教徒も,ユダヤ教徒もその代表を送りこむことになった。
トルコを圧迫しつづけたロシア人は,スラヴ(奴隷)人と呼ばれ,西欧の進歩 におくれたが,国政の改革に西欧化とスラヴの伝統に立脚することとの2本柱を たてて,トルコをおいこして強大になったのに対して,トルコは西欧化一本槍で 立とうとした。日露戦争の成果を見て,日本に目を向けようとしたり,その典型 として東郷之帥を称えたりしたのはこの西欧化一本槍に対する反動批判の少数者 であったのだろう。
こうして,トルコは第一次世界大戦に参戦して,1918年敗者として戦争が終っ
た。
そのことをフaリップス・プライスは
「トルコは帝国を失い,かわりに国民を得た」
と極めて印象的に記述している。
トルコ青年党がパリーに本部をおいて成立したのは1876年(明治9年)であっ た。党員のひとりとしてパリーで学んだケマルはここで帝国を失ったトルコ国民 の再建のために立上る。
5 ケマルの改革
ケマルの改革は日本では異様な婦人の長いヴェールをはずしたこと(宗教改 革)と,ローマ字化の成功(国字改革)の2つが伝えられている。
婦人問題に関して忘れえないのは,ボスフォラス海狭に望むウシキェダール
(スクタリ)にアメリカ系ミヅシ・ンの女子大学が開かれたのが1871年(明治4 年,学制発布の前年)である。戦後日本にはやったウシクダラという妙な歌に「世
にもふしぎなことばかり,これでは男がかわいそう」という文句があるのは,早 くから女子大学を持ったウシキュダールを歌っているのであろう。しかし,1909 年(明治42年)までの約40年聞に,この大学を卒業したトルコ婦人は2人にすぎ なかった。他は全部在士アメリカ人,ギリシャ人,アルメニア人,ブルガリア 人,Zダヤ人等々の非イスラム教徒たちであった。
宗教的寛容を特色とするトルコ人たちも,キリスト教学校に学ぶことには躊躇 したというより以上に,女が高等教育を受けることに抵抗を感じたのであろう。
そのような婦人たちのひたいから爪さきまでを覆うモスレム独特のヴェィルを とってしまうということは,ケマルにとってもずいぶん冒険であったろう。しか し,ともかく日本の明治の未期とはいっても,まだ大逆事件のおこる前に,ふた りだけでもアメリカ系の大学を卒業する婦人はあったのだし,キリスト教国のヨ ーロッパと地続きで境を接しているトルコの婦人たちが,まったくヴェィルの影 に身をひそめていたいと願っていたわけではなかったろう。
ローマ字化の問題もケマルが突然はじめた仕事ではなかった。トルコ人は,モ スレムになってからは,アラビア文字を用いてトルコ語を表記してきた。アラビ ア文字は本来標音文字であったが,ヘプラィ文字と同様・古来子音ばかりで母音 がない。ヘブライ文字と同様に途中から,子音の文字を母音に転用して中世の表 記を満してきた。まさに固有のアラビア語を表記するにも特別の工夫と約束とを 必要としたのである。まして,語学系統,音韻体系の全く異るトルコ語を表記す
るには,ずいぶん不便であったにちがいない。
近代になって表記法を改善する試みがいくつかなされた後,エンヴェル・パシ ャはロシア文字を用いて,トルコ語を表記する試案を発表した。1905年ころ,日 露戦争と前後する時期であった。これはかなりの成功を見,ロシア式ローマ字
(?)による印刷物も姿をあらわした。しかし,完全な成功に至らなかったの は,露土の国交関係,さらに日露戦争の敗北等にあらわれているロシアの国際的 不人気によるものであったろう。
18 トルコ民族と教育について
青年トルコ党員として若き日をパリt・一・に過したケマルは,ラテン文字によるト
ルコ語のローマ字化を試み,これが帝国を失い,国民を得た時期と一致したため に,正式に国字として採用されて,一切の印刷物がローマ字化されるに至った。
戦後日本では国字ローマ字化の成功の典型としてトルコがもてはやされてい る。しかしこれより三百数十年早く,ヴィエトナムのクオックングt−…が作られて おり・印刷ばかりか日刊新聞まで19世紀中に発行されている。ただし,ヴaエト ナムのクオックングーはフランス生れのジェズイット僧アレクサンドル・ロード の手によって創案されているのに,トルコ・ローマ字は正直正銘のトルコ人ケマ ル・アタテユルクによって作られているというちがいがある。
ローマ字化によってトルコには文字が普及し,文盲はいちじるしく減り,就学 率はその後40年間に40倍にのぼった。同じ40年をとってみても,欧米では数%に 満たない増加率で,ことにフランス,アメリカ,日本等では僅々1.何パーセント の増加しかない。つまりオスマン帝国下のトルコ人は2%ほどの就学率にすぎな かったのである。
さてケマル・アタテェルクの改革ということは婦人のヴェイルやロー一マ字の問 題だけではない。それはむしろ現象としてあらわれただけのことで,基本的には
いわゆるエタティスム経済を樹立したことであろう。
エタティスム経済を,これまた現象的に見るならば,それは1933年に創立され た農工銀行シェメルバンクと,1935年に創設された鉱業銀行エティバンクによっ て産業を支配することであった。
シェメル・バンクは1935年度に於て,入絹,製紙,化学肥料等の100%,製 靴,鉄工業の90%,製鋼,サッカリン工業の80%,羊毛,皮革,コークス等の60
〜70%,セメントの550/.を支配下に入れていた。
エティバンクは創立が遅れたが,鉱山物の売買,石油の採屈,電力の開発,鉱 山利権の獲得,電気機械の生産,それらの取引機械の設立をその任務としてい
た。
つまり,ケマルを支持したいわゆるケマリストたちは民族商業資本をその基盤 としていた。この銀行を設立することによって外国資本が直接企業に投下される
ことを妨ぐのが目的なのであった。ソヴィエトは無利子20ケ年賦という寛大な条 件によってトルコの2つの都市に繊維コンビナートを作って与えた。これはトル
コにとっては極めて重要な援助であった。
国立銀行の資本は帝国から受継いだオスマン銀行の100万リラのほかには,イ タリア系の資本が60万リラ,アメリカ系が5万リラ,その他諸国があわせて15万
リラという外資をふくんでいた。
外国の直接投資は2つの国立銀行によって妨いだけれども,もし技術家がすべ て外国人であったり,外国または外国系学校で養成されたトルコ人であった場合 には,企業は再び外国に支配されてしまうであろう。セルジe・一・一クの時代や,オ
スマンの時代のように,外国技術者に対する野放図な寛容性は20世紀に於ては極 めて危険なのであった。
そこで新しい技術者養成のために,よその国ならば国立大学を創建するところ を,両銀行による銀行立大学を創設したのであった。即ちシェメル・バンクは農 工大学を作り,エティ・バンクは鉱工業大学をたてたのである。
ちようど1930年代の日本でも,大学を文部省に支配させることなく,陸海軍の 大学や士官学校が軍のものであるように,各種専問学校や大学は,各省が必要と する技術者を計画的に養成するために経営し,文部省は義務教育諸学校とその教 員養成学校だけを支配経営すべきだという議論がかなり横行していたのであっ
た。トルコのエタティスムと,日本の政治とのちがいであって,教育観はかなり 近いものがあったと考えられる。
エタティスムは,ケマルの死と,金融支配だけでは開発が思うように進まなか ったために,外国資本の攻勢にあって1937年ころについて敗色をこくした。
モスレムとして保守性の強い農民層は,ケマリストが商業資本家色がこいと見 て,これを仇敵視し,反動的色彩を強めた。メンデレスはそのような勢力にささ
えられていたと見ることができる。
戦後メンデレスがBOAC機でロンドンに向ったとき,飛行機事故にあい,他 の来客がほとんど死傷したのにメンデレスとその秘書のふたりだけが無事であっ
た,という事件があった。メンデレスが帰国すると,アンカラの空港から大統領
20 トルコ民族と教育について
の官邸に至る道の両側に,200メートルおきに牡羊をならべ,メンデレスの車が 前を通過する瞬間に,蛮刀をもって羊を斬首する。大統領の車はまさに羊の血し ぶきの中を走って行くという観を呈した。これはイスラムの古式で凱旋将軍を迎 える風習だというが,ここにメンデレスを支持する人たちの性格があらわれてい
ると思われる。
このようなメンデレス政権を,1960年トルコの青年,学生が倒したのであっ
た。
倒してはみたものの,アメリカの基地は厳然として動かず,国勢は依前として 冴えない。問題は2%余りから出発して,40年間で87%をこえた就学率に成長し
たトルコの教育が,どういう国民大衆を育てたのか,ということにあると思われ る。国勢が冴えるか冴えないかは,87%就学した国民が主力になったときに,わ れわれの目に明らかになるのであろう。