南アフリカにおける人民教育
一NCCの二っの決議とその意味一
柿 沼 秀 雄
はじめに
1976年のソエト蜂起以降南アフリカ黒人の教育をめぐる闘いは,非人種的で 民主的な南アフリカあるいは黒人による多数者支配をめざす反アパルトヘイト 運動のきわめて重要な環を形づくってきた。この10年,人種主義教育に反対す る闘いは,「劣等と野蛮」の「バンッー教育」を強制されてきたアフリカ人生 徒・学生のみならず,カラード居住区の中・高校生やアジア系の学校に通う生 徒・学生をも巻き込んで進められてきた。ごく最近では,1984−85年にかけて1 2万人にのぼる生徒・学生が参加したといわれる大規模な学校ボイコットがあ
り,ソエトでは900人の児童・生徒が一斉に検挙されている。こうした中で The year of no schooling と称される1986年を迎える。ソエト蜂起10周年 のこの年,南アフリカの子供と青年たちは Liberation now, education after
というスローガンを掲げて街頭へ飛び出し,学校はもぬけの空になった。「ま ず解放を,教育はその後」というこのスローガンは,南ア解放闘争史上の画期 をなし,教育意識の上でも重要な転換を導いた1976年の蜂起なしには考えられ ないものである。
1954年に悪名高い「バンッー教育」が実施された時には「奴隷の教育ならば 無教育の方がよい」という考えと「腐りきった教育でも無いよりもましだ」と
いう考えの間で,親たちは揺れ動いていた。その揺れの背後には,「教育は白
人と肩を並べるようになるための手段だ」「教育こそ進歩への道標なのだ」と
いう伝道団教育のなかで培われた信念にも似た思いと教育意識があった。(1)こ
れは自分たちもいわゆる第一世界の一員になりたいという思いや願いに他なら
豊かに見せかけた白人とその文化世界に依存して生きようとするよりも,被抑 圧者の現実世界いわば南アの中の第三世界に留まって人聞としての解放を求め ながら生きる方がいい,と考えるようになったのである。それは被支配と被差 別の歴史を引受け,その変革を求めて歴史的現実の鋭い刃のうえに生きること を意味している。
重要なのは,地殼変動とも言うべきこの生き方と意識の変貌の担い手が,幼 い子供たちであり若者であり学生たちであって,大人ではなかった,というこ とである。ユニセフ報告書はこう書いている。「歴史のどの時代を見ても,変 革のための激烈な最前線で子どもたちがこれほど深くその役割を自覚していた 国は少ないし,またこれほど歴史の重荷がこんなに幼い者の肩にのしかかって いた国も少ない」。(3)この意味で Liberation now, education after は,こ の子どもたちが自らの生の基本形において自己をとらえた用語であり認識なの だ,と言ってよい。そこには制度の網の目による保育器のカプセルのなかで,
一見大事に育てられ管理される子どもの姿のかけらもない。しかし親たちにとっ ては状況は危機的であり,杏定的な意味あいで The year of no schooling
あるいは「教育危機の時代」と映る。この危機をどのように乗り越えて行くか,
この局面で南アの黒人教育史上初めてアパルトヘイト教育に代わる別の教育制 度を築き上げようとする営みが,遅蒔きながら始まっていくのである。
その営みの中から提起されたのが「人民教育」People s Educationである。
この新しい教育の基礎をなす原理はどのようなものであり,内容と方法はいか にあるべきか。組織化の方法はどうか。しかも解放へ向かう闘いの過程で,そ れをいかに実施すべきか。こうした問題に対してある種の回答が出され始めて いる。本稿ではそれを示す「教育危機に関する全国諮問協議会」のふたっの重 要な決議を資料としての意味も込めて全文訳出紹介することとした。大局的に
は,アパルトヘイト体制が崩壊に向かっていることは確かであり,教育の理念
や制度は原理的な転換を余儀なくされているとはいえ,「人民教育」を志向す
る運動や団体が厳しい弾圧にさらされている状況のなかでは,それが現実のも
のとなるにはまだまだ時間を要する。しかもその現実化過程は,様々な変容も 含めて紆余曲折の道を辿ることにもなるであろう。しかしながら激動する現在 でも「形成途上の教育」として様々な論議が重ねられているように,アパルト ヘイト体制が崩壊し新しい南ア社会がっくりだされていく過程では,この「人 民教育」の提起が将来の新しい教育制度を築き上げていく際の,引続き重要な たたき台のひとっであり続けることはまちがいないと思われる。以下「人民教 育」が打ち出されてくる経緯とそのなかでの議論及び問題,そして「人民教育」
の特徴にっいて述べていきたい。
教育危機と「人民教育」の背景
ここに言う「教育危機」とは,直接的には上述の1984−1985年の学校ボイコッ トに伴う学校の機能停止とそれに心を痛める親たち,とくに南ア最大の黒人 居住区ソエトの親たちが1985年に組織した「危機委員会」(Soweto Parents Crisis Comittee以下SPCCと略す)に示される黒人教育の状況とその認識を 指すが,1984年に出版されたP.Kallaway篇『アパルトヘイトと教育』の第4 部の表題「最近の危機」が象徴するように,一般には1980年代に入って顕著に
なる社会・経済及び政治的危機の統合的部分として,より広い文脈で理解され ている。事実84−85年の学校ボイコットも黒人の政治参加を拒否した人種別議 会選挙に端を発しているわけで,教育危機はアパルトヘイトが中心問題である かぎり,現在の南アの政治的社会経済的問題複合と切り離して考えることがで きない。したがってまた,この危機の認識がひとり被抑圧黒人だけのものでな いことは言うまでもない。むしろ白人支配層にとってこそ危機意識は深刻だ,
と言うべきであろう。
その場合ことはアパルトヘイト問題のみならず,南ア資本主義の命脈に関わ る問題として意識されていることに注目しなければならない。一部黒人エリー
ト層の造出と取り込みによって南ア資本主義の保全をはかろうとするかれらの 危機打開策は,すでに1970年代中葉から始まっているのである。それは,教育
の分野に限定するならば,南ア教育史上初めて資本による教育への本格的介入
が行われ,職業・技術教育の拡大がはかられてきたこと,また1980年の全国的
な学校ボイコットのただなかで人間科学研究評議会の教育問題調査委員会
(Human Sciences. Research Council Commission of Inquiry into Education
以下HSRC委員会と略す)が設置され,白人支配層内部に鋭い対立を引き起 こす教育改革案(De Lange reportと通称される)が出されたことに見られる。
独占資本の意を体して設置されたHSRC委員会は,アパルトヘイトの根幹と も言うべき労働関係と流入規制の見直しを目的として設置されたWiehahn and Riekert委員会(1977年)と同様,私的な機関ではなく国家の公的な機関 である。支配層の危機意識の深さを知ることができよう。政治学的には,ここ に1948年以来政権を握ってきた国民党のブルジョア政党への変質が指摘される ことになるのであるが,(4)それを検討することは本稿の課題ではない。問題は その状況の中で,少数の黒人を体制の中に取り込みながら黒人大衆の馴化をは かるという戦略のうえで,黒人教育が決定的に重要だとの認識に立って,独占 資本主導の教育改革が進められようとしていることである。その主たるテーマ は,職業留保制度とリンクしていたバンッー教育(5)の必然的結果である熟練 労働力不足の深刻化に対する対応,および高度技術社会が要請する労働力養成 と再配置の問題である。それは同時に,国家による上からの教育改革の主題で
もある。
教育危機を打開するために,政府は1983年にDe Lange報告書に関する教育
白書をだして,黒人教育の機会を広げる改革の路線を進めようとしてきた。こ
れは一面ではアパルトヘイトの教育体制に風穴が開き,多少なりとも教育論議
の場を開くことを意味した。しかし現実には政府は,黒人学生・生徒の教育と
政治への要求にはまったく目を向けようとしないどころか,逆に黒人高校生の
組織「南ア学生会議」COSASの非合法化(85年8月)や限定的な非常事態宣
言の発動などの強行措置をとることによって,危機状態をさらに深化させる道
を辿った,というのがその後の展開である。そうであるが故に,SPCCが結成
されたわけであるし,そこから生まれたNCCの二っの決議も,まず前提条件
として,生じている事態へのきわめて具体的な告発と要求から始めざるをえな
かったのである。その意味でまさに「人民教育」の提起は一層深まる教育危機
への対応にほかならなかったのであるが,他方上述のように国家の教育政策そ
のものが南アの今後の教育をめぐる独占資本主導の改革の道へ歩みだしている 以上,それに対抗するポスト・アパルトヘイトの教育への社会主義的要素を伴っ たシナリオを提示するという意味も含みもっことになる。もっともそのような 二重性は国家による上からの改革があることにのみよっているわけではない。
そこには当然教育闘争の主体の成長がある。1976年以来の黒人生徒・学生の闘 い自体が,その目標を当初の「バンツー教育」とアパルトヘイトに据えっっ,
次第に資本主義をも射程にいれるようになってきていたのである。
76年当時「ソエト学生代表会議」は,労働者にクリスマス期間中の在宅スト や商品ボイコットその他の行動をとってくれるよう求めていたから,兆しはす でにその頃からあるのであるが,それが80年に入ると,はっきり労働者との提 携あるいは同盟の形をとるようになった,と言われる。(6)たとえばこの年,ケー
プタウンの生徒・学生達は,「労働者は強い,我々の親である労働者は強い,
労働者を支持することによってのみ我々の闘いは勝利するだろう」とのスロー ガンを掲げて,労働者の闘いに連帯する行動をとった。(7)その背景には高揚す る黒人労働運動があることはいうまでもない。公式統計によれば,ストライキ と労働争議は1973年に激増し,以後それが常態化する。70−72年の争議件数が 70前後であるのに対し,73年は370件98029人,75年は274件23103人,82年には 394件141571人という具合いで,86年のメーデーでは,前年に結成された最大 の黒人労組COSATUの一斉職場放棄の指令のもとでゼネスト状況までっくり だされた。(8)後にもふれることになるが,「教育危機委員会」NECCは父母,
学生,労働者を中心とする様々な組識から構成されているわけで,こうした一 連の流れの中で「人民教育」なる用語が価値的に選び取られていくことに注目 すべきであろう。
「人民教育」論登場の経過
中等学校の生徒・学生を中心とする教育・政治闘争のたかまりの中で,教育・
訓練局DETは都市部の黒人学校を統制・管理する能力を失ってしまった。(9)
1985年末までにあらわになった事態がそれである。この間の学校ボイコット闘
争の中で学生達が出した要求は,実に率直で明快なものである。拘留された学
生の釈放,学生代表会議SRCの認知,壊れた学校の再建学校の設備の充実,
教科書の無償化,COSASの禁止解除,解雇された教員の復職 バンッー教育 の完全廃棄。これらの要求に対する国家の解答は,問題地域への非常事態宣言 の布告であり,武力による弾圧であった。学校には軍隊が常駐して子供や教師 を徹底して取締る体制がしかれ,機能停止したり破壊された学校はDETによっ て,次々に閉校に追い込まれていった。たくさんの生徒が学校の場で狙撃され 殺されて,拘留される学生・生徒の数は激増した。COSASの非合法化によっ
て,闘いの戦略を調整することもできなくなるなかでは,怒れる生徒達が,た とえばダンカン・ビレッジの場合のように,居住区中の学校という学校を破壊 して回るような事態が出現したとて何の不思議もない。㈹もはや学年末試験な ど壊滅状態になることは目に見えていた。ソエトの親達が行動を起こしたのは このような時点であった。1985年10月,SPCCの結成である。
SPCCにとってのこの時点での中心問題は,学校ボイコットを継続すること ができるのかどうか,また継続していていいのかどうかであった。子供達の犠 牲をこれ以上だすことには耐えられない,という親たちの苦渋に満ちた思いが そこにはある。しかも既にこの問題は様々な組織のなかで論議の的になってお り,学校へ戻れという呼掛けも出されっっあった。85年末のケープタウンのあ る教員グループの中では,ボイコットの意義を認めっっも,その終結にっいて 議論がなされていた。
「学生達の政治的寄与とは,社会の中で有益な役割を果たすために教育を 通じて自らを準備することだ。学生達が教育を犠牲にしてこの積極的寄与を
果たすことはできない。」(11)
またこれまでの闘いの成果をしっかり固める必要を呼びかける学生達もいた。
西ケー・.プの学生のパンフレットは次のように訴えていた。
「学校ボイコットという闘いの特定の段階は既に終わっており,学校の中 で勝利を打ち固める闘いという新しい段階を開始しなければならない。我々 の闘いはこの認識から始めなければならない。」(12)
こうした中でSPCCはザンビアのルサカに在外本部を置く「アフリカ民族会
議」ANCに代表を派遣して協議することを決定し,アパルトヘイトを廃絶す
る闘いを止めずに,若者達が教育を継続することが大事だ,との見解を持ち帰っ た。このこともあってSPCC結成以後の教育闘争の流れは,ボイコットの政治 学からその姿勢と戦略を変えていくことになる。支配的な状況を正確に捉えな がら,学生達の教育要求と政治的要求にかなう建設的戦略を見いだす必要があ る,との主張が主流を占めるようになり,「人民権力のための人民教育」とい うスローガンが初めて打ち出されてくるのである。そしてそれを現行の教育制 度及び国家による改革への対案に練り上げるべく,SPCCは全国諮問協議会N CCの開催を呼び掛けていくのである。
協議会は,学生達の協力も得て,85年12月28−29日,145組織の代表を集めて ウイットウオーターズランド大学で開かれた。(13)参加団体は,大きく親と教師 と学生のブロックに分類されるが,そこには思想的には「自由の憲章」の系譜 をひく「統一民主戦線」UDFとその傘下にある労働組合や教育組織だけでな
く,それとは立場を異にし黒人意識運動の系譜にたっ「アザニア人民機構」A ZAPOとその関係組織も出席していた。この協議会での優先議題は,言うまで もなく学校ボイコット問題の解決である。この点では,前述の学生・生徒の要 求が非常事態宣言の解除及び学年末試験の延期を加えて追認され,それらの要 求が3カ月のうちに満たされるという条件をっけて,生徒の学校への復帰の方 針が決定された。っまりこの要求に政府がまともに応じなければ,ボイコット
を再開するという戦術である。こうして一応学校への復帰が決定されはしたが,
生徒の動きは鈍く,86年に入っても学校の状況は不安定で混乱が続いた。しか も教育開発相は,出された要求の中で,COSASの禁止だけは絶対に受け入れ られない,という立場を崩さなかったし,それ以外の要求にっいても現実的な 対応をしようとはしなかった。(14)COSASの問題にたいする政府の態度の頑な
さにはもちろん理由がある。それは,学校内に民主的に選出された学生代表会 議SRCを組織する運動を始めたのはCOSASであるからだ。それは,学校を 内部から作り変えていこうとする動きにほかならない。その意味でNCCが掲
げた当面の要求の中で,学生代表会議の公認の問題こそ最も重要で決定的な問
題であった,と言ってよい。それはこの協議会が提示した「人民教育」の基本
原理及び枠組みとも密接に関係していたのである。
「人民教育」論の骨格にっいては後述することにして,85年12月の協議会以 後の展開を見ていくことにしたい。協議会の決議に示されたNCCの基本的な 立場は,ボイコットの中で学校に見切りをっけるのではなく,学校を作り変え
「人民教育」を発展させる基地として使っていこう,とするものである。そう であるが故に上述した政府の対応や学校及び生徒の状況を見ながら,NCCは 86年3月を待って12月の決議を実行する機関として「全国教育危機委員会」
NECCを組織する。このNECCが,「人民教育」を定式化し実行に移す中心的 役割を負っていくことになり,第2回諮問協議会もNECCによって開催され
ることになる。
「人民教育」論の骨格
収録した二っの決議及び「人民教育」をめぐるその間の諸議論を踏まえなが らG.Krussは,その特徴と概要を次の10点にまとめている。(15)
1.教育に対する何十年ものレジスタンスに基礎を置く以上,人民教育は支 配のための教育であるアパルトヘイト教育の拒絶である。
2.それは,教育と政治とは密接に結びっいていること,したがって別の教 育制度を求める闘いと切り離すことができない,という仮説をもっている。
3.「人民権力のための人民教育」は,したがって教育戦略であると同時に 政治戦略でもある。人民教育を通して人民は,非人種的で民主的な南アフリ
カという目標へ向けて動員・組織されるだろう。しかし同時に,この教育を 通して人民は,将来の教育制度を創り出し始めるだろう。
4.人民教育の成功にとって中心的な問題は,教育と国民生活をコントロー ルすべく,あらゆる層の国民を組織することである。学生,教師,親は活動 の強力な提携と相互理解を築き上げると同時に,自分達の持ち場で民主的な 組織をっくりあげる必要がある。
5.教育制度としての人民教育は,国民大衆の利益に照らして統制され前進 させられなければならない。
6.教育危機の中から生い立ったので,人民教育は学校を基本とする定型的
教育の問題にまず取り組んだ,しかし人民教育は,学生だけではなく,すべ
ての人を教育の対象とし,すべての人の能力を高めることを意図している。
7.人民教育は,協動や積極的参加といった民主的な価値一現在の学校を支 配している権威主義的で個人主義的な価値とは反対の一を教えるものでなけ ればならない。
8.それは,創造性と批判的思考を刺激し,学生を将来に備えさせるもので なければならない。
9.これらの諸原理を実行する教育実践が,とりわけ教師によって進められ なければならない。
10.人民教育は形成途上にあり,それが完全に実現されるのはアパルトヘイ トが廃絶されるときである。さしあたり人民教育は,これらの指針に従って 形づくられ発展させられていくだろう。したがってそれは,絶えず変化して いくダイナミックなものである。
「人民教育」の原理的な基礎に関する現段階での整理としては,妥当なとこ
ろであろう。二っの決議に盛られた理念を見ると,資本主義社会の学校および
教育を否定して,人民権力のための教育と学校が模索されており,その意味で
違いははっきりしていると言うべきであるが,「人民教育」の思想は,非人種
主義的で民主的な教育を南アフリカのすべての国民を対象にして構想している
という点で,1950年代の「会議運動」の中で採択された「自由の憲章」の延長
上にある,と言ってよい。㈹同時にこの点が「人民教育」の概念をめぐって様々
な議論を呼ぶことになるのだが,「形成途上の教育」としてそれが提起されて
きたことに留意しなければならない。それは諮問協議会が,現行の教育に対す
る反発的抗議を越えて,独占資本主導の教育改革をも視野に入れながら,カウ
ンター・ヘゲモニックな教育戦略を発展させ,アパルトヘイト以後の教育の基
礎を据えることに貢献しようとする試みに歩を進めた,その脈絡の中で捉える
べき問題である。稿を改めて検討しなければならないが,M.Gardinerによれ
ば「人民教育」の概念に関して特に強調されるのはprocessとconsultationで
あるという。(17)この点は,NECCの下位組織である地域の教育危機委員会と現
行の父母委員会(DETの学校における代行機関)に代わる「父母・教師・学
生協会」PTSAを,新しい教育構造の基礎に据える考え方と密接に関係する。
この基礎をどのように創り出していくか,その組織論としてprocessがあり,
協議 consultationはそのprocess概念の中心をなす,というわけである。
形成途上の「人民教育」一むすびにかえて
結びにかえて86年3月以降のいわゆる形成途上の「人民教育」の実際と問題 にっいて若干言及しておくことにしたい。ひとっは,上述の新しい教育構造の 基礎を創り出す問題と関わる教育統制の問題である。この問題は,第1回諮問 協議会以来続いてきた,学校のコミュニティー・コントロールがどこまで可能
なのか,という議論の延長上にある。これは,84年以来まともに機能している 学校がなく,DETが黒人学校の統制・管理能力を失っている事態に対応して,
DETに代わる別の統制機関を地域に確立しうる,あるいはそうすることによっ て学校の中に二重権力状況をっくれるという見通しに立った議論であった。確 かにいくっかの地域では,それを可能にするかのような当該地域の教育に責任 を負い,学校経営に影響を及ぼす決定に参加しているケースがあった。イース ト・ロンドンのダンカン・ビレッジの状況などがそれである。しかしそれは親 と教師の集団が法定団体であるか,あるいは例外的な黙認団体になっている場 合に限って生じたケースであるから,正常に機能していない学校は閉鎖すると
いった新たな抑圧装置を国家が作動させれば不可能になってしまう。(18)86年6 月の全国非常事態宣言の布告以降の状況はまさにそうなったのであり,それを 境に別の教育統制機関という考え方は変更を余儀なくされ,当面はコミュニティ
ーに基礎を置いた私立学校を設立して,そこで「人民教育」を実行する方向で 議論が進められることになっていく。この問題では,NECC指導部の状況認識
の甘さが指摘されるのであるが,現在の闘いの中で未来の教育の基礎構造の萌 芽を創り出そうとする試み自体は誤りではないし,教育危機委員会とPTSA を基礎に据えて未来の教育を構想したこと自体積極的意味をもっ,と言えるだ ろう。またここでのコミュニティー・コントロールの考え方が,一般には専門 家支配に終わるほかなかったブルジョア的レイマン・コントロールの域を越え
ている可能性のあること,換言すれば本来的な意味での人民統制の今日的なあ
り方を示唆しているのかも知れないことも指摘しておきたい。(19)
ふたっめの問題は新しい教育プログラム,あるいはオールターナティヴ・カ リキュラムの開発である。哲学や目標,教育の構造や統制の問題は確かに重要 ではある,しかしそれらが変われば必然的に教育の民主化が実現するのか,と いう問いに発する問題であるが,それは「人民教育」の様式を特徴づけるとさ れるprocessの概念とも深く関係している。つまりprocessを「人民教育」の 中心に据えるということは,教育のありかた全般の再検討を意味する,という 議論である。したがって,教育者の役割と機能及びかれらと学習者の関係,教 育方法,教材作りへの学習者の参加,教科の内容およびカリキュラムとの関係,
評価と方法や資格認定の制度などの問題が,検討課題として差し出されてくる わけである。(2°)こうした課題に取り組むために,NECCは86年3月の協議会が 終わってすぐ「人民教育事務局」をっくり,その下に専門ごとの「人民教育委 員会」を組織して活動を開始した。
この活動も同年6月の非常事態宣言による弾圧のため困難を極めるが,それ でも歴史委員会や英語委員会,数学委員会による教材開発の活動など,数はま だ少ないが大事な仕事が行われており,教育のありかたをめぐる「人民教育」
の種は蒔かれたといえるだろう。
第3は,「人民教育」の運動論的性格に関わる組織化の問題である。「人民教 育」は,アパルトヘイト体制を倒すことに寄与する政治的戦略の構成部分であ
るから,非人種主義的で民主的な南アフリカをっくるための基本的要求を支持 する生徒・学生,教師,学者の組織化を運動の重要な側面としている。特に,
「決議」に見られる通り,教員の役割は極めて重視されており「南アフリカ全 国教育組合」NEUSAの拡大強化を中心にして進歩的で民主的な教員の組織化 を進める一方で,教員ワークショップや教育研究集会も各地で開催されてきた。
こうした中で「人民教育」の全国的な調整組織づくりにも着手するのだが,ま だ実現されてはいない。
最後に「人民教育」の構想は,学校教育に限定されたものではなく,労働者
教育や識字教育などを重要な要素として立てられていることの指摘だけしてお
きたい。その背後に,特に70年代以降の多面的で創造的な社会教育の活動と実
践があることはいうまでもない。
〈注〉
(1)拙稿「南アフリカのアフリカ人教育」(「人文学報」82号 1971年3月)参照
(2) ソエト蜂起に関しては,拙稿「南アフリカ・1976一アフリカの子どもの素顔」
(「国民教育」別冊3 1979月5月)参照
(3)「世界政治」1988年2月下旬号
(4) Linda Chisholm, Refinding Skills:Black Education in South Africa in the 1980 s , in P.Kallaway (ed), Apartheid and Education (1984)
p.388
(5)拙稿「人種差別と教育一南アフリカの場合一」(「教育」273号 1972年2月)
参照
(6)L.Chisholm, op. cit. p.394
(7)LChisholm, op. cit. p.394−5
(8) M.Hartwig&RSharp, The State and Reproduction of Labour Power
in South Africa ,in P.Kallaway, op. cit. p,327及びL.Chisholm, op. cit.
p.388
(9) G.Krussは, People s Education:An Examination of the Concept (1988.2)の注でV.d.Bosの論文からDETが公表したボイコット学校数を引用 している。それによると,時期による違いはあるが全体7500校のうちその数は 210から450にのぼる。少ないように見えるが,ボイコットは主に都市部の中等学 校で行われたことに注意する必要がある。都市部の学校総数は1964校であり,そ のうち中等学校は328校にすぎないから,ほとんどすべての中等学校がボイコッ トに関わったことになる。
(10) Zwelakhe Sisulu, People s Education for people s Power(Keynotes Address, National Education Crisis Committee,29 March 1986)
(11),(12) G.Kruss, op. cit. p.7
(13)160団体という数字もあるが,ここではJ.Muller, People s Education for people s Power and the National Education Crisis Comittee:The Choreography of Educational Struggleによった。
(14)J.Muller, op. cit.
(15) G.Kruss, op. cit. p.19
(16)「会議運動」及び「自由の憲章」にっいては,野間寛二郎『差別と反逆の原点』
(理論社 1969年)参照。なお「自由の憲章」はアフリカ民族会議ANCの綱領的 文書になっている。
(17)MGardiner, Liberating Language:People s English for the Future
(18)J,Muller, op. cit.によれば権力による都市部の学校閉鎖が続き,1986年度
に関しては全体で73校,そのうち60はイースタンケープ,10はソエトである。こ
うした中でNECCは不登校を呼掛け, DET管轄の中等学校の70%(230/328)
が機能停止に陥った。
(19)ちなみに西ケープの「教育危機委員会」が設立されたときの構成団体を挙げて みると次のようになっている。UDF, COSATU, United Women s Congress,
Cape Areas Housing Action Committee,Western Cape Civic Association,
Joint PTSA s, Athlone Education Crisis Committee, WPCC, YCS,
Cape Youth Congress, NUSAS, South African Natiorlal Student Cong−
ress, WECSCO, Pupi1 s awareness Action Group,Democratic Teachers Union, Education for an Aware South Africa,Western Cape Teachers
Union, NEUSA, CALL OF ISLAM, ERIC, LEARNING ROOTS
GRASSROOTS, Adult Literacy Project
PTSAの場合でもそうであるが,生徒・学生を重要な構成要素としていることに 注目しておきたい。教育闘争の中心的主体が中等学校の生徒・学生であることが,
「人民教育」の基礎構造をっくる際にも重要な意味をもってくる。
(20)M.Gardiner, op. cit.
資料
(1)教育に関する全国諮問協議会NCCの決議 1985年12月 くバンッースタン教育にっいて〉
本協議会は次のような事実に注目する。
1 モウツェMoutse地区の何千人もの南アフリカ人が,かれらの意志に反してクワン デベレKwandebeleバンツースタンに今にも強制的に統合されようとしていること
2 モウツェの教員たちは命令に従わぬ場合には解雇あるいは配転という条件のもとで 強制的にクワンデベレ教育当局との契約書にサインさせられっっあること
それ故本協議会は
1 この強制的統合とそれに反対するモウッェの教員たちへの弾圧victimisationを非
難し,
2 バンッースタン教育局departmentsに反対して闘い,これらアパルトヘイトの代 行機関agentsに対する教員の闘いを支持することを決議する。
〈法的に認定された学校委員会にっいて〉
本協議会は次のことに注目する。
学校での法的に認定された父母の委員会は国家の代行機関であり,南アフリカ中で抑圧 的なアパルトヘイト教育制度の仕事に加担している。
それ故本協議会は次のように決議する。
1 父母は学校における法定の父母委員会のメンバーになるべきではなy、。
2 すべての学校で進歩的な父母一教師一学生の緯織structureが形成されるべきであ る。それは ・ I
a)父母,教師,学生が互いの要求と問題を理解し合えるようになること
b)教育闘争をより高度に発展させるために学校間の相互交流を行えるようにする ためである。
〈教師の役割にっいて〉
本協議会は以下のように決議する。
1 教師は民主的に選出された学生代表会議 SRC sの結成に向かって学生と一緒になっ て積極的に活動すべきである。
2 教師は現在の教育危機の解決にあたって,学生及び父母と緊密に結びっいて活動す べきである。
3 教師は地域の諸闘争に参加してすべての学校に父母と教師の会PTA sを設立する 手助けをすべきである。
4 進歩的な教師の戦いの歴史を明らかにする教師のための教育プログラム,地域社会 における教師の役割,そして教師というものの真の役割が遂行されるべきである。
5 教師はすべての教師を単一の進歩的教員団体に統一させるために活動すべきである。
6 学生及び父母の組織に教育危機に関するかれらの意見を表明する機会を与えるため に,すべての地域で教師の集会をもつように呼掛けが行われるべきである。
〈拘禁にっいて〉
私たちは,我国における人民教育のための闘いのなかで拘禁されたすべての学生,父 母,教師を即時無条件で釈放するように要求する。
〈授業料について〉
本協議会は以下の点に注目する。
1 労働者つまり学生たちの父母の入員削減がますます進められていること 2 我国の被抑圧人民に経済危機の矛先がかわされていること
3 国の資金を,私たちの居住区を占拠している軍隊SADFにではなく,わが人民の 教育の方に振り向けるべきである。
それ故次のように決議する。
父母は1986年度の授業料の支払いを拒否すべきである。
〈教科書について〉
本協議会は次のように要求する。
すべての学校の私たちの学生に対して教科書及び他の教材を無償で提供すること。
〈学生組織にっいて〉
本協議会は以下の点に注目する。
1 南ア学生会議COSASの非合法化は学生の組織化,統一,動員に対する国家の攻撃
である。
2 非人種的で民主的な単線型unitaryの教育を求める闘いは抑圧も搾取もない単一の unitary非人種的で民主的な社会を求める闘いの欠かせない構成部分である。
3 民主的なSRC sのための闘いは学校内の民主主義の闘いの本質的な部分である。
それ故次のように決議する。
1 COSASの禁止解除の運動を強化すること。
2 すべての学校と第三段階の教育機関で民主的に選出されたSRC sを実現すること。
3 学生と労働者及び地域社会諸組織との間の緊密な結びっきをっくり上げ,これらの 異った領域areasでの行動の調整をはかること。
4 学生の闘いにおける地域的regiona1全国的な連携co−ordinationを打ち立てるよ うに努めること。
5 学生の正当で民主的な要求を宣伝する運動を調整co−ordinateするよう努めること。
6 非人種的で民主的な南アフリカを求める闘いをすべての学校及びすべての家庭に持 ち込むように努力すること。
7 人工的に作られた人種の障壁を取り壊すよう意識的に努めること。
8 異なる学生組織に統一して行動できるよう促すこと。
〈全国父母危機委員会の結成にっいて〉
本協議会は以下の点に注目する。
1 ソエト親の危機委員会SPCCによってなされた優れた仕事,特にこの諮問協議i会開 催の呼掛け。
それ故以下のように決議する。
SPCCの三人のメンバー及びナタール;オレンジ自由州,西ケープ,東ケープ,北ケー プ,国境地域Border,トランスバールの各地域region代表一人によって全国父母危 機委員会NRCCの準備委員会ad−hoc Comitteeが構成される。 NRCCは本協議会の 決定を実行するに当たって地域の10cal and regiona1諸組織を結びっけるとともにそ れらの諸組織と一緒になって活動する。
<入民教育にっいて その1>
本協議会はアパルトヘイトの教育にっいて以下の点に注目する。それは 1 被抑圧人民にとっては全面的に承認しがたい教育である。
2 人民を階級と民族集団ethnic groupsに分断している。
3 本質的に卑屈でおとなしい人民を造出するための支配の手段である。
4 教化と飼い慣らしの教育である。
5 アパルトヘイトと資本主義の固守を目的にしている。
それ故私たちは,我が人民のあらゆるセクションにかなった新しい教育形態としての 人民教育のために積極的な努力を払うことを決議し,入民教育とは次のような教育であ
ることを宣言する。人民教育は
1 被抑圧者にアパルトヘイトーシステムの害悪を理解させることができ,非人種的で 民主的なシステムにかれらを参加させることができる教育である。
2 競争と個人主義及び阻止された知的発達という資本主義的基準を取り除き,批判的 な思考と分析を刺激すると同時に,集団的叡智と力の結集inputおよびすべての入の 積極的参加を奨励する教育である。
3 非識字と無知及び入による人の搾取をなくす教育である。
4 非人種的で民主的な南アフリカを確立するために,わが入民のすべての分野の人々 を,人民の権力を獲得する闘いに積極的かっ創造的に参加するように準備し訓練する 教育である。
5 学生,父母,教師,労働者が人民の権力を求める闘いの質を高め,あらゆる形態で の人民教育の創始と運営に積極的に関わることを可能にするような組織体に,かれら を導き入れる教育である。
6 労働者が自らの現場で搾取と抑圧に抵抗することを可能にする教育である。
<人民教育にっいて その2>
本協議会は,人民教育を促進させるプログラムの実行が緊急の問題であることに注目 し,次のように考える。
1 すべての学生一教師一父母と地域に根ざした諸組織は精力的に活動して,人民教育 を促進しなければならない。
2 すべてのプログラムは,場所の如何を問わず,わが人民のすべその分野の組織的力 量を高めるものでなければならない。
3 プログラムは批判的創造的思考と活動方法を励ますものでなければならない。
4 プログラムは民主主義非人種主義,集団的活動及び積極的参加を促すものでなけ ればならない。
それ故次のように決議する。
1 人民教育に関する委員会の勧告は,その後の委員会が人民教育をあらゆるレヴェル で促進するためのプログラムを案出する際の指針として使える内容のものでなければ ならない。
2 地域10cal and regiona1及び全国レヴェルのすべての組織体は,必要な人的物的 資源をなによりもまずコミュニティーや地域regionの中から,そして次に他の資源 から動員すべきである。
〈1986年度における学校への出席について〉
南アフリカの抑圧され搾取された人民の学生たちが学校に戻るべきかどうか,戻るべ きであるとすればいかなる条件の下でか,という問題を細部にわたって考えたうえで,
本全国諮問協議会は
1 学生とその組織が劣等の人種主義的民族教育に反対する闘いで見せた規律と勇気に 満ちた行動姿勢に賞賛の言葉を贈る。
2 国中のわが学生たちによって払われた英雄的犠牲に対し心からの敬意を表す。
3 ボイコット運動は,学生たちに多くの問題を経験させることになったとはいえ,基 本的には政治的組織的教育的成果をもたらしたこと,しかもそれは同時に他の分野の
抑圧され搾取された人々の意識水準と組織的力量をも引き上げたことをよく承知して
いる。
それ故以下のように決議する。
1 1986年1月28日を期して(全国の)すべての学生に学校に戻るよう呼びかける。
2 1986年3月末までに以下の要求がかなえられないときには,再び協議会を開いてと るべき行動にっいて考える。
a.一部ないし全部が破損した学校の建物の再建 b.すべての試験を1986年3月まで延期すること c.拘留中の学生及び教師全員の釈放
d.解雇や強制配転ないし停職処分を受けた教師全員の復職
e.軍隊SADFと警察SAPのタウンシップからの,兵隊の学校からの退去 f.COSASの禁止解除
9.民主的に選出されたSRC sの公認
h.全国すべての場所での非常事態宣言の解除
3 関係するすべての学生組織,父母組織教員組織に対して以下のことを求める闘い の継続を呼びかけること。
a.すべての学校における体罰の禁止 b.女子学生を性暴力から守るための規制 c.あらゆる形態の入種主義教育の廃止 d.私たちの学校における人民教育の実行
4 上記の条件に基づいて学校へ戻るよう説得するように,すべての民主的組織に勤告
すること。
(2)教育危機に関する合国諮問協議会NCCの決議 1986年3月 ダーバン 決議1 メーデーの祝日にっいて
第2回教育危機全国諮問協議会は以下のことに注目している。
1 この日は働くものの日として世界的に祝われるメーデーの100周年記念日である。
2 南ア労働組合会議COSATUと南ア労働組合評議会CUSAは労働者に,メーデー
を祝日として宣言するように呼びかけてきた。
それ故次のように決議する。
全国の学生に,メーデーの祭典を最もふさわしい形で支持するように呼びかけること。
決議2 1NKATHA(民族文化解放運動 ズル民族の族長ブテレジが造った組織一 訳注)にっいて
本協議会は以下のことに注目している。
1 1nkathaは,アパルトヘイト体制に反対して闘っているすべての民主勢力を攻撃し てきた。
2 1nkathaは,本協議会のオルガナイザーと代表の命や手足や財産を攻撃した。
それ故次のように断言する。
Inkathaは入民の敵であり,完全に国民党政府と結託している。
そして,このファッシスト組織の姿を暴露し,孤立させ,これに反対して闘うことを決
議する。
さらに,我が人民に対するInkathaの犯罪的活動を唆し援助しているかどでPutoko
を告発する。
決議3 教師に対する弾圧行為について 本協議会は以下のことに注目している。
1 進歩的な教員諸組織が教師を動員。組織する際に経験する苦難。
2 ある種の教員たちと妨害的行動をとるかれらの教員組織の否定的で利敵的役割。
そして以下のように考えている。
統一一した民主的で全国的教員組織が緊急に必要とされていること,誰一人として教員の 間での統一の発展を妨げるべきでないこと。
それ故次のように決議する。
1 教師に対するあらゆる弾圧行為(たとえば解雇)を厳しく非難すること。
2 すべての妨害的組織と教師を説得して,その否定的で抑圧的役割を止めさせ,民主 的教師に敵対する当局との協力行為を止めさせること。
決議4 6月16日の記念日休日について 本協議会は次のことに注目している。
1 1986年6月16日はソエト蜂起10周年にあたる。
2 我が同志数千人の尊い命をかけた基本的要求のどのひとっもいまだ実現されていな い。
そして以下のように考える。
われわれは自らの教育およびその他の要求を支持する大衆的統一行動に積極的に参加し なければならない。
われわれは次のように呼びかける。
我が人民のすべての層sectionが,6月16,17,18日に全国的在宅ストを展開しよう。
そしてわれわれは宣言する。
6月16日は全国青年の日である。
決議5 COSASの禁止解除にっいて
NECCのこの第2回諮問協議会は以下のことに注目している。
1 COSASの禁止解除を求めるわれわれの訴え 2 この要求に応えようとしない政府の頑なな態度 それ故次のように宣言する。
COSASの禁止は即時解除されるべきである。
そして次のように決議する。
この宣言を実行するための全国統一一行動を計画するよう,すべての学生に呼びかけるこ
と。