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D ・ ヒ ュ ー ム の 経 験 論

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D

・ヒュームの経験論

ーヒュ:ムの知覚論一 的人間学の研究︵三︶

     目 次

    第二章 ヒューム体系の哲学的基礎

     第一節 ヒュームの知覚論

      ω 観念の起源      ㈹ 二つの関係      ㎜実体と因果性

      ㈲ 抽象観念について︵以上本号︶

     第二節 ヒュームの因果論︵以下次号︶

     第三節 ヒュームの方法論

    第二章 ヒューム体系の哲学的基礎

ヒュームは早くからキリスト教神学に関心を持ち︑既に十八歳の頃には︑

古賀勝次郎

それまでの︑あるいは当時盛んに行われ

239 早稲田社会科学研究 第43号  91(H3).10

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ていた神の存在に関する様々な証明について疑問を抱くようになっていた︒ヒュームに全く新しい因果論が芽生え︑

それが神の存在証明に対する疑問を呼び起したのである︒そしてそれは︑キリスト教神学批判までいかざるを得なか

った︒こうした問題を扱ったのが第一章であった︒本来ならぽ先ず︑ヒュームが展開した新しい因果論を取り挙げ︑

その後︑彼のキリスト教神学批判へと進むべきだったかもしれない︒しかし︑ヒュームのキリスト教神学批判の中に

は︑単に彼の因果論のキリスト教神学への適用が見られるだけでなく︑第一章で述べたように︑ヒューム体系全体に

関わる新しい思考様式︑即ち︑自然1生成1作為という三分法的思考様式が展開されていた︒本研究の主題の一つ

が︑ヒュームのそうした思考様式の展開を論述することにあれぽ︑第一章と︑ヒュームの因果論を扱う第二章とが︑

本来の順序と逆になっても読者の納得は得られるであろう︒

 既に述べたように︑ヒュームの経験論的人間学は︑中世のキリスト教神学とデカルトに由来する近代の合理論的人

間学の両者に対する批判を通じて形成された︒そしてこれ等両者に対する批判と︑経験論的人間学形成の土台となっ

たのが︑実に彼の因果論︵O学士ω9一一け︽︶であった︒ヒュームの因果論は︑既に二十代の前半には︑麗々完成されてい

たといって間違いない︒その哲学主著﹃人性論﹄の第一篇﹁知性について﹂︵Ohgoq巳︒房欝削ぎoq︶において展開

されている因果論がそれである︒ヒュームは後に︑同書第一篇を書き直し︑ ﹃人間知性研究﹄を出したが︑細い点を

除けば︑両者における因果論に異動はない︒ただ︑最初﹃人性論﹄に入れる予定であった﹁奇蹟について﹂が﹃人間

知性研究﹄に収められたこと︑また︑ ﹁特殊的摂理と未来︵来世︶の状態について﹂も同著に収められたことによっ

て︑ ﹃人性論﹄第一篇における因果論が︑専ら合理論的人間学の因果論批判に向けられているのに対して︑ ﹃人間知

性研究﹄のそれが︑合理論的人間学の因果論だけでなく︑いやより強く︑キリスト教神学のそれに︑批判の矢が向け

240

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調

られており︑この点は注意しておく必要があろう︒また︑ヒュームは︑ ﹃人性論﹄第一篇︑第二篇を刊行した後︑そ

れを要約した﹃人性論摘要﹄︵︾§︾O絵ミ9ミト↓遷ミ賎器ミ鴫裳§§≧ミ賦鳶噛H設O︶を出している︒これは︑輝く

短いパンフレットながら︑ ﹃人性論﹄で展開されている因果論が簡潔に要約されており︑ヒュームの因果論のエッセ

ンスを知る上の格好の文献である︒

 本章は三つの節から成っている︒第一節では︑ヒュームの因果論の前提となる知覚論を︑そして第二節で︑ヒュー

ム体系の中心をなす因果論を︑それぞれ扱う︒第三節は︑ヒュームの経験論的人間学の方法論を扱うが︑自然主義︑

あるいは懐疑主義といわれるヒューム哲学の性格についても論じてみたい︒

第一節 ヒェームの知覚論

D.ヒュームの経験論的人間学の研究(三)

 ヒュームの因果論はその知覚論と密接不可分に結びついている︒主著﹃人性論﹄第一篇﹁知性について﹂は︑知覚

論から始まっているが︑これは︑ロックによって開かれ︑パークリを経由してヒュームに流れ込んだ経験主義の伝統

よりして当然である︒しかし︑ロックやバークリにおける知覚論と因果論の関係は︑ヒュームにおける程︑密接では

なかった︒寧ろ︑ロックやバ!クリにおいては︑知覚論が主であり︑因果論は︑いわばそれから派生的に論じられて

いるように見うけられる︒だがヒュームにおいては︑どちらかというと︑因果論を展開するために知覚論が論じられ

ているといってもよい程︑因果論のウェイトが極めて高い︒つまり︑上述したように︑ヒュームの知覚論は︑その因

果論と密接不可分に論じられているのである︒      鋤 さて︑ヒュームの知覚論は︑主に︑ ﹃人性論﹄第一篇第一部と﹃人間知性研究﹄の第二章︑第三章において論じら

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7

れている︒当然ながら︑両著が知覚論の最初においている﹁観念の起源﹂から見ることにしよう︒      躍①観念の起源

 ヒュ⁝ムは︑人間の心に現れる一切のものを知覚︵O①﹁oo℃一6つ︶と呼ぶ︒どのような形で心に現れるか︑その様

式は問わない︒感官︵ω①昌︒︒o︶を通して︑あるいは情念︵℃9︒ωω凶︒昌︶に動かされて現われるかもしれないし︑思惟

︵昏︒轟長け︶や省察︵器自06二8︶を働かせた結果として現われるかもしれない︒ともかくどのようにしてであれ︑

心に現われるもの一切が︑ヒュームにとって知覚である︒そしてヒュームはこの知覚を二つに分ける︒即ち︑知覚を

﹁印象﹂︵凶ヨ嘆①ωω凶︒昌ω︶と﹁観念﹂︵ご$ω︶の二つに区別する︒

 さて︑印象と観念は︑心に現れる時の勢い︵ho﹁8︶と生気︵︻ぞ︒剛言︒ωω︶の違いによって区別される︒印象は︑勢

いよく生気に富んで心に現れる︒ ヒュームは︑感覚︵ooO昌ω鋤け一〇コω︶︑情念︑情感︵o∋〇二8ω︶などを印象の中に含め

る︒これら感覚︑情念︑情感は思考や推理においては︑淡い薄い反映︵一∋鋤αq①ω︶しか示さないが︑ヒュームのいう観

念はそのような反映である︒簡単に言えば︑印象と観念の違いは︑一般に人々が﹁感じる﹂︵h①①=轟︶と﹁考える﹂       ︵1︶

 また︑ヒュームは︑知覚にいま一つの区分を設ける︒即ち︑知覚を﹁単純﹂︵ω凶ヨ豆︒︶か﹁複雑﹂︵ooヨ℃帯×︶かで        ︵2︶ (けSーコ昇一昌σq︶との間に看取する違いと同じだといって略々間違いない︒

区分する︒そしてそれは︑印象と観念にも適用されるので︑単純印象︑単純観念︑複雑印象︑複雑観念の四つの知覚

が存在することになる︒単純な知覚︑即ち︑単純印象と単純観念は︑区別あるいは分離を少しも許さぬものであり︑

これに対し︑複雑な知覚︑即ち複雑印象と複雑観念は︑部分に区別︑分離できる︑つまり単純な知覚が合成されてで

きたものである︒ヒュ.ームは例としてある特定の色︑味︵匂いなどの単純観念から合成されたリンゴの複雑観念を挙

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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(三)

げる︒ ヒュームは︑勢いと生気の強弱によって︑印象と観念を区別するが︑この点を除けば︑両者の間には大きな類似が

認められる︒観念は言わば印象の反映である︒これは︑単純印象と単純観念との間においてよりょく妥当する︒複雑

印象と複雑観念との間には妥当しない場合も存在する︒

 またヒュームは︑印象を二つに分ける︒即ち︑ ﹁感覚の印象﹂ ︵凶ヨ讐①ω臨8ωohωΦ昌ω鋤菖︒ロ︶と﹁反省の印象﹂      ︵3︶

(一ホ燈円①ωω一〇づω Oh 目①h一①×一〇口︶である︒前者は︑未知の原因から最初に心に生じる印象である︒そして後者は︑概し

て観念よりくる印象である︒またヒュームによれぽ︑はじめ︑印象として心に出現したものは︑その後観念として現

われるが︑その現われ方には二通りある︒一つは︑記憶︵ヨ①日︒蔓︶で︑最初の印象を反復する機能を果たす︒いま

一つが想像︵冨鋤σq①葛二8︶で︑そうした機能は持たないが︑観念を自由に変形させたり置き換えさせることができ

る︒ ヒュームは︑以上のように︑知覚を構成する印象と観念を詳しく分析したが︑次に彼は︑それを一つの因果連鎖の

       ヘ   へ中で検討する︒既に述べたように︑勢いと生気の程度を除いて︑印象と観念は類似する︒そして単純印象には常に単

      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ純観念が︑また︑単純観念には常に単純印象が︑伴っている︒二つの知覚の恒常的連接は︑両者の間に因果関係の存

       ヘ   へ在を推理させる︒そして経験によってわれわれは︑印象が原因で観念がその結果であることを知る︒いま少し詳しく

述べると次のようになる︒

 先ず最初に心に現われるのが感覚の印象である︒即ち︑印象が感官に刺激を与えて︑寒熱や快苦などを知覚させ      43る︒この印象は心.に模写︵60冒①ω︶され︑印象が消えた後もその模写は残る︒これが観念である︒ところで︑寒熱な 2

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どの観念が心に再び現れると︑欲望や嫌悪︑希望や恐怖などといった新しい印象1これが上述したところの反省の 44       2印象一を生む︒この新しい内省の印象は更に︑記憶や想像によって模写されて観念となり︑そしてこの観念が今度

は他の印象や観念を起こさせるであろう︒

 ヒュームは︑印象と観念の因果連鎖を益々以上のように述べる︒そして感覚の分析は専ら解剖学者・自然科学者の

仕事だとして︑以下︑観念のより詳しい検討を行うと予告する︒

 ところで︑観念のより詳細な検討に入る前に︑一つ述べておきたいことがある︒それは︑ ﹃人間知性研究﹄第二章

に加えられている注の周延ついてであ裾そこには・三ームの印象観念の原因であるという考えとの関連で︑

ロックの生得観念否定説が取り挙げられている︒先ず︑ヒュームは︑生得観念否定説は︑すべての観念が印象の模写

であるという考えを一歩も出るものではないだろう︑という︒このヒュームの指摘は︑生得観念否定説が︑経験主義

に立って唱えられたことを考えれば︑当然のことである︒しかしヒュームは生得的︵一言碧①︶という用語の曖昧さを

衝く︒そしてこの曖昧さが取り除かれないとすれぽ︑この説がヒュームの考え1印象が観念の原因であるという考

え一と抵触する場合が出てくる︒

 問題は生得的という用語がどういう意味で使われているのか︑というところにある︒それは︑ ﹁出生と同時﹂とい

う意味であるか︒もしそうであれば︑取るに足らぬ議論である︒それは︑﹁原初的﹂︵oユαq営巴︶という意味であるか︒

もしそうだとすれぽ︑印象は生得的であるが︑観念は生得的でないといわねばならない︒しかし︑これは︑ヒューム

の用語法ーヒュームの印象及び観念の定義一に従った場合そういえるということである︒ヒュームも指摘してい

るように︑βックの﹁観念﹂は︑ヒュームの知覚︑即ち印象と観念を合わせたもの︑を意味する︒それ故︑ロックの

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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(三)

生得的を原初的の意味とすれば︑上のような矛盾が出てくるのを避けられない︒

 では︑生得的は﹁自然的﹂︵画道霞巴︶という意味か︒ヒュームは︑自然的を異常な︑作︵人︶為的︑奇蹟的などの

対立語として使う︒そして︑もし生得的が自然的の意味であれぽ︑あらゆる知覚・観念は自然的︑つまり生得的であ

ることが認められなければならない︑とヒュームはいう︒要するにこの場合︑生得観念否定説自体が意味を持たなく

なる︒ ヒュームは︑以上のように︑生得的の語義を検討した後︑ ﹁ロックは定義されていない用語を使用し︑問題の核心       ︵5︶に触れることなく︑ いたずらに議論を長引かせるスコラ学派によってこの問題に引き込まれた﹂︑という結論を下し

ている︒このヒュームの結論の当否は別として1恐らくかなり高い確率で当っていると思うが一︑ロックの議論

一般にいえることは︑作為的なものに高い価値が置かれているため︑自然的なもの︑あるいは生成的なものへの視角

が殆ど見られない︑ということである︒上の例でいえば︑生得的を自然的の意味に解した時iそう解釈することは

決して無理なことではない一︑ロヅクの議論が直ちに成り立ち得なくなるといったことが起るのは︑そのためでは

ないだろうか︒ロックの思想は︑基本的には︑自然−作為という二分法的思考様式をしている︒そして︑自然より作

為を優位とする点では︑キリスト教神学︑合理論的人間学と考えを同じくしていて︑ロックの経験論的人間学が斉合

性を欠くことになった最も根本の理由は︑多分こういつたロヅクの思考様式やその性格にあると思われるが︑これは

極めて大きな問題であり︑以下においてもヒュームとの比較の中で︑少しでも関連あれぽその都度取り挙げていくと

して︑ここではこの程度の指摘に止め︑先に進むことにする︒

245

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恥二つの関係       46. ︵      2 上述したように︑想像によって観念は自由に変形されたり置換されたりする︒つまり︑あらゆる単純観念は想像に

よって自由に分離されたり接合されたりする︒従って︑単純観念が規則的に複雑観念になるには︑そこに︑観念を結

びつける原理がなけれぽならない︒ヒュームは﹁関係﹂や﹁実体﹂という複雑観念を検討することによってこの問題

への接近を試みる︒先ず︑前者からみることにする︒

 ヒュ:ムによれば︑﹁関係﹂︵お冨寓8︶は︑二つの意味に使われる︒一つは︑経験的一主観的︑心理的といって

もよい一に使われる揚合である︒それは︑︺⁝つの観念を想像で結合し且つ一方の観念をして自然に他方の観念を      ︵6︶導出させる性質Lを意味する︒ヒュームはこのような意味の関係を自然的関係︵昌鉾ξ9お冨自︒口︶と呼ぶ︒ いま一

つは︑論理的・客観的に使われる場合で︑関係は︑ ﹁二つの観念を空想に於て恣に接合する時すら依って以て両観念

を比較するに適すると考え得るような特殊な事情﹂を意味する︒これが︑哲学的関係︵づ匡δω8ぼ︒巴円①冨二〇昌︶と

呼ばれる関係である︒

 ヒュームは︑自然的関係に三つ認める︒﹁類似﹂︵HΦωΦ5P一︾一昌昌OΦ︶︑時間的・空間的﹁接近﹂︵︒8二αq巳昌︶︑﹁原因及

び結果﹂︵O鋤⊆ωΦ 僧昌仙 OhhΦ〇一︶︑あるいは因果性︵o砦ω帥二〇昌︶の三つである︒これが一般にヒュームの﹁観念の連合﹂

︵簿ωωOO一曽け一〇H戸 Oh 一傷①Ωoω︶と呼ばれているもので︑ヒューム自身自らの独創としているものである︒      ヘ   ヘ ビュ⁝ムによれぽ︑思考を進めていく場合︑想像は︑ある観念からこれと類似した別の観念へと容易に動く︑この

      ︵7︶       ︑ ︑性質だけでも想像にとって十分な絆である︒また︑感官は対象を変える時︑規則的に変え︑互いに接近する対象を取      ︵8︶        ︵9︶るが︑想像も習慣によって同じ思考方法を身につけ︑対象を考える時︑時間や空間に沿って進む︒そして因果性だ

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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(三)

が︑これがヒュームの因果論の中心を占めるものである︒従ってこれについては次節で詳しく見ることにするが︑こ

こでは次の二つだけを指摘しておく︒一つは︑因果性ほど︑想像において強い連合を生むものは外にはないというこ

と︑そしていま一つは︑因果性の作用範囲が最も広いということである︒

 上に︑ヒュームは﹁観念の連合﹂を自らの独創として自負した︑といったが︑また彼は︑それを自己の体系の中で

いかに重要な位置を占めるものと見倣していたかは︑それを︑自然界における﹁引力﹂に準え︑心の世界における引      ︵10︶力としたことからも窺える︒       ︵11︶ 次に︑ヒュームは哲学的関係の検討に進み︑七つを挙げる︒即ち︑一︑﹁類似﹂︵﹃ΦωO巴Pび一母野OΦ︶︑二︑﹁同一﹂︵置Φ弓

一詳網︶︑三︑﹁空間と時間の関係﹂︵お冨底8ωohωBoΦ碧qけ冒Φ︶︑四︑﹁量あるいは数﹂︵ρ§口葺ざ早目ロヨσ霞︶︑

五︑﹁程度﹂︵α①σq﹁①①ω︶1ある二つの事物が同じ性質を共有する時︒六︑﹁反対関係﹂︵︒8霞9︒二①ξ︶︑七︑﹁因果

関係﹂ ︵円O一m一一〇昌 Oh O9二ω① 裏口O ①h︷OO一︶︑の七つがそれである︒この哲学的関係は︑次節の因果論の最初のところで

詳しく扱うので︑ここではただこの関係に以上の七種類あることを示すに止める︒

 以上でヒュームは因果論の予備的枠組みを作った︒それで︑何時でも因果論へと進むことができるのであるが︑ヒ

ュームはその前に実体と抽象的観念の検討を行なう︒

勒実体と因果性 ︵ ヒュームが︑最初に実体︵ω⊆げωけ90昌OO︶について扱っているのは︑﹃人性論﹄第一篇第一部第六節﹁様相と実体とに

ついて﹂においてであるが︑しかしそこでは︑実体は簡単にしか論じられていない︒実体について本格的に論じられ       47ているのは︑同学第四部第三節﹁古代哲学について﹂と︑第五節﹁精神の非物質性について﹂︑においてである︒   2

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 実体という概念は︑言うまでもなく︑ギリシア哲学以来︑中世を支配したキリスト教神学においても︑また︑デカ

ルトに始まる近代合理主義思想においても︑極めて重要な位置を占めてきた︒ヒュームは︑以下に述べるように︑西

洋思想史上重要な位置を占めるこの実体の概念を詳細且つ厳格に検討し︑実体について否定的な結論を導いた︒この

ことは︑ヒュームの体系が︑近代以前の哲学ーヒュームの言い方で言えば︑古代哲学1とも︑また近代の合理主

義思想とも異ったものであることを意味する︒もっとも︑ ヒュームの体系が︑近代以前の哲学︑特にキリスト教神

学︑そして近代の合理主義思想を批判し︑近代社会により相応しい体系の樹立を目指したものであることを考えれ

ば︑当然のことではある︒

 ヒュームの実体概念の批判は︑ロックに始まる経験主義の立場からなされている︒勿論︑ロックも︑またロックを

継承したバークリも実体を批判した︒だが彼等の実体批判は不十分であった︒ヒュームは︑彼等の実体批判を批判的

に受け入れつつ︑それを徹底させた︒

 ロックは﹃人間知性論﹄第一十年四章の中で次のように言う︒ ﹁私は認めるが︑いま一つ人類がもっているかのよ

うに一般に語られるので︑もっていれぽ人類に有用だろうと思われる観念がある︒すなわち︑実体の観念である︒

が︑私たちは感覚によっても内省によってもこの観念をもたないし︑またもつことができないのである︒⁝⁝実体と

いうことばで私たちの意味表示するところは︑私たちが自分の知る観念の基体ないし支持体とするなにかわからない

      ︵12︶もの⁝⁝である﹂︒ここでは実体は︑生得観念批判の中で批判されている︒ここで重要なのは︑実体が観念として把

捉されていることである︒ギリシア以来︑実在とされていた実体をロックは観念と考えた︒それは︑感覚や反省によ

って捉えられないもの︑即ち経験を超えたものは哲学の対象とはなり得ないというロヅクの経験主義の必然的帰結で

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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(三)

あった︒しかしそれほ︑ギリシア以来の哲学史に︑新しい別の道を拓くものであった︒だがロックは他方で︑基体      ︵13︶︵ω自げωけ鴇鋤ゴ﹂ヨ︶を実体と同じものとする︒とすれぽロックは実在としての実体を認めたことになる︒この点でロッ

クの実体批判は不十分であった︒但しそういう実体も︑経験的に知り得ないのであるから︑﹁なにかわからないもの﹂

というのである︒

 ロックは︑実体を観念としながらも︑実在としての実体は認めた︒当然︑物的実体だけでなく心的実体も認めてい

たはずである︒ロックを継いだバークリは︑ロックの実体論を一歩進めた︒バークリの基本的考えは︑ ﹁存在すると

は知覚されることである﹂ ︵国ωωΦ一ω需容一且︶という文の中に示されている︒即ち︑存在するものは観念だけであ

り︑観念以外のどんなものも実在しない︑というのである︒であれぽ︑当然そこから︑ ﹁実体﹂という概念は不合理

であり不必要である︑といった結論が導かれるであろう︒確かにバークリは︑物的実体という概念はこれを完全に排

除した︒しかしそのバークリも︑心的実体はこれを承認した︒バークリにとって﹁精神﹂が実体であった︒もし精神

がなけれぽ︑知覚もなくそれ故観念もなく︑終には世界も無くなるからである︒ヒュームは︑バークリが認めた心的

実体も追放したのである︒

 ヒュームは先ず﹁様相と実体について﹂の中で︑基体としての観念をわれわれが持ち得ないことを指摘する︒とい

うのは︑実体の観念が︑感覚の印象からも︑内省の印象からも出てこないからである︒しかしにも拘らず︑多くの哲

学者が実体を信じている︒実体の観念が存在しなけれぽ︑実体に対する信念もないはずだが︑何故このようなことに       ヘ  ヘ  ヘ  へなるのか︒ ﹁実体を形造る個々の性質は普通には未知の或るものに属するとされ︑その未知な薫るものに内属すると      即想定される︒⁝⁝少なくとも接近及び因果性の関係によって緊密且つ不可分法的に結合されていると想定される﹂︒

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問題は︑このような想定が何に由来しているか︑またその想定は果たして正当化できるか︑にある︒ヒュームはこれ       50       2等の問題を﹁古代哲学について﹂という節で行なう︒

 ヒュームは先ず物体の観念について次のようにいう︒それは︑ ﹁事物を構成する・換言すれば相互間に恒常的接合       ︵14︶の見出される・若干の別個な旧辞的性質の観念を心が蒐集して造ったものに他ならない﹂︒これについては説明する      ︵15︶までもなかろう︒ヒュームによれぽ︑あらゆる単純観念は印象の模写であり︑複雑観念は複雑印象の模写である︒人

間の持つ観念は厳密に人間の経験に制約される︑従って︑物体に関する経験も物体の性質の印象に制約されるので︑

物体の観念はその性質の集合の観念に制約されざるを得ない︒にも拘らず︑ ﹁我々は普通には確かに︑それらの性質      ︵16︶が造る複合体を﹃一﹄物と見敬し︑非常に著しい変更を通じて﹃同じ﹄であり続けると見敬す﹂︒だがここに想定さ

れている単純性︵ω一ヨb一一9蔓︶︑同一性︵置︒昌葺楓︶は︑先に述べた物体の構成︑変化と明らかに矛盾する︒

 観念の中に認められる各性質は一つ一つ異なるにも拘らず︑人々は一般にその複合体を一物と考え︑単純な事物と

見倣す︒また︑諸性質の集合からなる観念も︑時間の経過と共に変化するにも拘らず︑人々はこれらの諸性質と同じ

事物の性質と信じる︒そうしたことから人々は実体といった概念を想定するようになるのである︒しかしそうした想

定が誤りであることをヒュームは﹁観念の連合﹂によって説明する︒       ︵17︶ われわれの心は︑事物の性質の観念が﹁甚だ緊密な関係﹂によって接合されている時︑いかに事物に可変的継起が

あってもそれに同一性を帰せしめる︒これは︑自然的関係の結果︑いや本質である︑とヒュームはいう︒しかし︑わ

れわれが同一性を帰せるのは︑ ﹁継起する時間点を通じて漸次に辿る﹂からであり︑もし﹁時間持続の二つの任意な

別個の時期を同時に眺めて︑継起する性質の異なる状態を比較すれば﹂︑かつて気付かなかった変化を認め.るように

(13)

D.ヒュームの経験論的人間学の研究(三)

なる︒ヒュームは.この二つの矛盾を巧みに調和させるために︑実体といった概念を案出したのだという︒ ﹁事物の継

起する変化に漸次に随伴する時は︑思惟の円滑な進行が継起に同一性を帰せしめる︒⁝⁝然るに︑事物の状況をその

著しい変化ののちに﹁︹以前の状況と︺比較すれば︑思惟の進行は中絶する︒従って︑不同性の観念が顕れる︒ここに

於いて︑この矛盾を和解するため︑想像はともすれば不知・不可視の罷る物を捏造する︒そして︑この或る物があら       ︑ ︑   ︵18︶ゆる変動を通じて引き続き同じであると仮定し︑この不可解な計る物を呼んで実体とする︒﹂︵︹︺は訳者の補足的挿入︒

以下同じ︶

       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ ヒュームは﹁単純性﹂についても同じような議論をする︒いま︑ ﹁同時に存在する部分が強い関係﹂によって結合

されている事物を仮定する︒すると︑部分間の結合が強いため︑いかなる空想も︑一部から他の部分へ移る場合︑推

移を感じないほどである︒だから例えば︑桃や瓜の中に集合されている色︑味︑形︑固性などの性質は﹁一物﹂を形

造ると考えられる︒これ等の性質の間の強い関係が︑完全に非複合的な場合と同じような影響を思惟に及ぼすからで

ある︒.だが︑心はここに止まってはいない︒ ﹁蓋し心は︑この︹複合的な︺事物を他の見地から視るとき常に︑かよ

うな性質のすべてが相互に異り区別でき分離できることを見出す︒そして︑物のこのような視方は︑ ︹⁝⁝複合事物      ヘ   へを単純と思う︺本原的な一そう自然な思念を破壊する︒ここに於いて︑想像は余儀なくも不知の或る物を︑即ち根原

へ   へ的実体⁝・:を︑捏造する︒そしてこれを以て︑上記の性質問の接合原理⁝⁝として︑複合的な事物にその不同と構成      ︵19︶とにも拘らず一物と呼ばれる資格を与え得るものとするのである︒﹂

 ヒュームは以上のように︑その印象先行説および観念の連合の考えに基づいて︑物的実体論を批判した︒ヒューム      51は次いで﹁精神の非物質性について﹂において︑心的実体を批判するのであるが︑それはデカルトの実体論︑あるい 2

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はその系譜にあるスピノザの実体論を批判する一つまり︑近代合理主義の実体論を批判する一ことによって︑彼

等の実体論に対する批判が︑心的実体の批判にも同じく妥当するという仕方で行われている︒      ︵20︶ 哲学史の教えるところに従えば︑デカルトの世界は三者から成っている︒神と精神と物質がそれである︒このう

ち︑神は創造老で︑世界の究極的根拠であって︑精神と物質がこの世界を構成している︒そしてデカルトは︑精神と

物質を共に﹁実体﹂とし︑精神の属性を﹁思考﹂︑物質の属性を﹁延長﹂とした︒しかしそこには一つの重大な問題

があった︒それは︑精神と物質を共に実体としたため︑両老の間に因果的な関係が存しないということになって︑現

実に見られる両者の間の関係を説明し得ない︑という問題である︒こうした問題が起こらないように議論を進めたの

がスピノザである︒スピノザは︑神i但しこの神は︑ユダヤ・キリスト教でいうような人格神ではない︑神即自然

の意味での神︑つまり汎神論的な神一のみを唯一絶対の実体とし︑精神︵思考︶と物質︵11延長︶を実体として

の神の属性と見倣した︒そしてこの二つの属性にはそれぞれ無限数の﹁様相﹂ ︵変容︶があるとしたのである︒しか

しヒュームは︑こうしたデカルトーースピノザの実体論を批判する︒そしてそれと同じ批判が心的実体にも妥当すると

いう︒ ヒュームは︑物的実体批判を行なった時と同じように︑先ず印象先行説に従って︑心的実体論を責めていく︒すべ

ての観念は先行印象に由来する︒︻それ故︑もし心的実体の観念が存在するならぽ︑その先行印象がなけれぽならな

い︒だが︑そのような印象があることを想定することは不可能でないにしても非常に難しい︒というのは︑印象が実

体を表わす方法としては︑印象が実体に類似することを措いて他にない︒心的実体を説く哲学によれば︑印象は実体

でなく︑実体の特徴を持たない︒であれば︑どうして印象が実体に類似できるだろうか︒

252

(15)

D.ヒュームの経験論的人間学の研究(三)

 だがデカルトやスピノザはこうした考えと違った考えを提出している︒      ︵21︶ フレーグによれば︑デカルトの実体論は次の三つから成っている︒一︑実体は独立して︑それ自身で存在し得るも

のである︒二︑実体と属性の間の唯一の区別は理知的区別である︒また属性と様相の区別を前者のより大きな一般性

に求める︒三︑物的実体と心的実体は︑それぞれの実体に本質的な属性によって区別される︒即ち︑物的実体の属性

は延長であり︑心的実体のそれは思考である︒       ︵22︶ またヒュームは︑スピノザの実体論を次のように要約する︒スピノザによれぽ︑ ﹁世界には只一つの実体がある︒

そして︑この実体は完全に単純不可分で︑且つ︑至るところに存在しながら局所的には少しも顕れない︒感覚によっ

て外的に見出されるもの︑内省によって内的に感じられるもの︑それらすべては︑この一つの単純で必然的に存在す      ︵23︶るものの変容に外ならない︒﹂

 そしてヒュームは︑デカルトやスピノザに見られる実体論の不合理性が︑心的実体を説く神学者にも等しく見られ

  へ     るとしう       へ 先ずヒュームは︑デカルト・スピノザ的な実体の定義について批判する︒デカルト︑スピノザなどは︑実体を﹁そ

︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑︵24︶れ自身で存在できるもの﹂と定義するが︑この定義は﹁筍くも想うことのできる一切の物に該当し︑従って︑実体を

偶然から︑或は精神をその知覚から︑区別する役に決して立たない﹂という︒そしてヒュームは︑その知覚論から次

のような結論を導く︒あらゆる心的知覚は互いに︑また宇宙のどんな物とも異っているので︑別個に分離でき︑分離

して存在している︒従って︑分離して存在でき︑存在する物は何も必要でない︒それ故︑心的知覚は︑上の定義が実       鵬体を説明する限り︑実体ということになって︑心的実体を知覚の他に求める最初の考えと矛盾することになる︒こう

(16)

してヒュームはデカルト・スピノザ的な実体の定義に反対する︒そしてヒュームは︑この点では︑ ﹁スピノザ的仮説

       ︵ゐ︶       脳

も神学者の仮説も⁝⁝同じ難点に悩﹂んでいるという︒

 デカルトによれぽ︑実体と属性の間の唯一の区別は理性的区別だというが︑薫りにそうだとしてもぞうした区別を       ︵%︶させる理由は何か︒理性的区別︵自脈ωけ一昌〇一一〇コ O︷ H①曽ωO昌︶についてはヒュームも抽象的観念を扱ったところの最後で

肯定的に論じている︒例えば︑ヒュームは次のようにいう︒ ﹁我々は︑先には完全に不可分離と思えた:::ものの中

に二つの分離された類似を見出す︒そして︑更に少しくこの種のことを実行するとき︑我々は理知的区別によって色       ︵π︶彩と形状とを区別し始める︒﹂つまり︑ヒュームは︑類似に基づけばそのような区別が可能だというのである︒そし

てこのような理由づけは︑実体や属性にも拡大適用できるだろう︒実体の属性も互いに類似するし︑実体もそれが独

立して存在し得る限り相互に類似する︒だが︑ヒュームは︑心的実体の様相︑即ち知覚は独立して存在することがで

きるので︑実体とその属性あるいは様相との問を区別する理由はない︑と論ずる︒即ち︑実体の独立して存在すると

いうことが受け容れられるならぽ︑心的実体とその様相との区別はなくなるし︑拒否されれぽ︑実体とその属性ある

いは様相と区別する理由はなくなる︒要するに︑何れにしても︑実体とその属性あるいは様相との間には理性的区別

さえない︑ということになる︒      ︵認︶ またヒュームは次のようにいう︒ ﹁スピノザに対して︑⁝⁝次のような批難がこれまで浴びせられている︒その批

難によれぽ︑様相は決して︹実体より︺別個な即ち分離した存在でない︒故に︑様相とその属する実体とは全く同じ

でなければならない︒従って︑宇宙の延長と宇宙が内属すると仮定される単純且つ非複合的な本体とは︑謂わぽ同一

視されなければならない︒然るにかような同一︑視は︑不可分な実体が膨張して延長に対応するようになるか︑又は逆

(17)

D.ヒュームの経験論的人間学の研究(三)

に縮小して不可分な実体に応ずるようになるか︑そのいずれかでない限り︑絶対に不可能であ﹂る︒

 ヒュームは︑延長の観念を検討して︑本来的に複雑なものと考える︒それ故︑実体の性質としての延長も複雑でな

くてはならない︒しかしこの考えは︑延長は単純な属性というデカルト的主張と相容れない︒このようにヒューム

は︑実体の単純性という考えを批判する︒またヒュームは︑心的実体を思考するもので延長するものではないとする

考えも批判する︒ヒュ⁝ムによれぽ︑ある知覚i視覚や触覚によって惹き起される複雑な知覚1は延長する︒知

覚が心的実体の様相で︑実体がその様相である知覚と質的に同一のものと仮定されるならぽ︑視覚や触覚である様相

を伴う心的実体は延長する︑従って単純ではない︒更に︑もし心的実体が延長する様相と質的に同じであり︑しかし

一方︑仮定によって︑心的実体は非延長的となれぽ︑心的実体に関するデカルト的根拠づけは矛盾することになる︒

更に三去は次のようにい癖﹁宇宙に;の単純な実体があると説く体系に対して・れまで次のような反対が

ある︒それによれぽ︑この単純な一実体は万物の支持者である︒即ち基体である︒それ故︑全く同じ刹那に種々の形

態に変容しなけれぽならない︒然るにその形態には︑互いに反対な両立しない形態がある︒例えば円形と四角形と

は︑同時に同一実体に於いて両立することができない︒然らば︑同一実体が変容して四角な卓子になると同時に円卓

にもなることは如何にして可能であるか︒﹂

 フレーグはこの部分を以下のように説明する︒もし︑実体と様相とが同一のもので︑円卓と四角な卓子の知覚を同

時に持ち得るならば︑このような様相を持つ実体は︑円くて同時に四角であるということになる︒だが︑実体が単純

で円と四角が両立不可能な性質のものであれぽ︑実体は円くて同時に四角であるということはできない︒要するに︑       漏人々が円卓と四角な卓子を同時に知覚する時︑心的実体は円くて同時に四角でなくてはならない︑ということを︑デ

(18)

カルト的実体論は要求しているのであ・て︑.﹂れは矛盾だとヒュームは批判するのである︒     56       2 実体の本質的性質と実体の様相の性質とが同一と仮定されるならぽ︑ヒュームのような結論が導かれるが︑しか

し︑デカルトは︑この同一視を様相のレベルでは多分拒否するであろうと︑フレーグはいう︒円も四角も延長という

属性に入れられる︒だが︑円卓と四角な卓子が同時に知覚されるならぽ︑円と四角は延長の様相であるので︑延長と

いう属性は精神に適用され︑従って精神は延長する︑という結論になる︒これは︑デカルトの心的実体論に対する決

定的批判となる︒何故なら︑デカルトは︑精神は︑非物質的で︑本質的に非延長的だと仮定しているからである︒

 またヒュームは︑上にも述べたように︑視覚や触覚は延長しない︑と説く︒フレーグはそこから重要な帰結が導か

れるという︒即ち︑ ﹁実体の性質がその属性と同一であると主張することは︑もし︑例えばリンゴの形と香りを同時

に知覚するならば︑精神は延長すると同時に延長しないということになる︒このような主張は︑実体はただ一つの本      ︵30︶質的な属性しか持たないので単純である︑というデカルト的主張と両立し得ない︒﹂と︒

次に・知覚と実体との﹁場所的麹﹂︵§一般§三暑§︶について︑三遷の批判を見てみよう︒・︑−

ムは︑果実とその特定の味といった関係でもってこの議論を行っている︒果実は延長を有する事物であるが︑その特

定の味は延長を持たない︒しかも果実の味は︑果実の他の性質︑例えば色や手触りと分離できない︒そして何れが原

因あるいは結果であるにせよ︑これらの性質は常に同時に存在しており︑心に出現する時間も同時である︒延長を有

する事物と延長を持たない事物との間のこのような﹁因果性﹂と﹁時間的接近﹂は︑心に大きな影響を及ぼさざるを

得ない︒そして心は︑両老の結合を更に強めるため︑いま一つの新しい関係︑即ち︑場所的関係を捏造する︑とヒュ

ームはいう︒

(19)

D,ヒュームの経験論的人間学の研究(三)

 しかし︑ヒュームによれば︑この場所的連結という関係は︑極めて混乱した思念である︒即ちそこには︑重大な疑

問︑つまり︑果実の内部に含まれると思われる味は果実のあらゆる部分にあるのか︑あるいはただ一つの部分にのみ

あるのか︑という疑問が起こる︒だがこの疑問に答えることは甚だ難しい︒前者が正しいとすれば︑味は延長を有す

るとしなければならないし︑後者を正しいとすれぽ︑それは経験に反する︒そこには︑二つの相反する原理が作用し

 ︵詔︶ている︒一つは︑空想の傾性︵冒︒一一冨鉱︒ロoho霞富旨︒矯︶で︑それによってわれわれは︑延長を有する果実と︑それ

を持たない味とを合体するよう限定される︒いま一つは︑理性︵門$ωo⇒︶で︑これはそうした合体が不可能であるこ

とを示す︒しかし心はこの二つの原理を廃棄しない︒即ち︑味は果実の内に存在するが︑その存在の仕方は︑全体を

満たして延長なく︑分離することなくあらゆる部分に存在している︑と考える︒だが︑ヒュームによれば︑このよう

な考え方は︑スコラ的原理︑即ち︑ ﹁全部に全部が︑しかもあらゆる部分に全部が﹂︵8εヨ言88讐①一8ε活量      ︵33︶      ︵鈎︶      即ち︑﹁宇宙の単純性及び実体の単一性﹂とρ§一貯雲O碧8︶という原理と同じである︒いやそれはスピノザ的原理︑

いう原理とも同じである︒

 以上のように︑ヒュームは馬場所的連結の考え方を批判し︑スコラ哲学ばかりでなく︑近代の合理主義哲学の中に

       ヘ   ヘ   へ   た   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へもこのような考えが見られると指摘する︒そしてヒュームは︑このような考えに対して︑ ﹁事物は何処に居なくとも

︑ ︑ ︑ ︑ ︑︵35︶存在できる﹂という原理を提出する︒そしてヒュームは︑この原理の説くところは︑単に可能というだけでなく︑事

物の大半がこのように存在しているし︑またそう存在しなければならない︑という︒というのは︑ ﹁事物の部分相互

のあいだに於ける位置の取︐方が或︒形状ない︒︹空間︺髪旭︑ない︑ミ又塗物除の他物体に対す︒位置の駆       2取り方が接近或は距離の念に応じないとき︑該事物は何処にも居ないということができる﹂からである︒

(20)

 以上がヒュームの実体概念に対する批判である︒物的実体の概念は﹁不可能な妖怪﹂であり︑他方︑心的実体も      ︵訂︶﹁絶対に不可解﹂なもの︑というのがその重要な結論であった︒また︑ ヒュームは︑心的知覚には延長を有するも

のと有さないものとがあるので︑すべての知覚がそれらの何れか一方と場所的に連結されることはできない︑と論じ

た︒ところで︑・ヒュームの実体論批判の持つ意義は︑アリストテレスの哲学以来︑中世のキリスト教神学において︑

そして近代の合理主義において︑重要な位置を占めてきた実体の概念を︑その知覚論︑広く言えば経験主義の立場か

ら︑従って同じ理由によって︑批判したところにある︒アリストテレスの哲学︑キリスト教神学︑近代の合理主義哲

学は︑人間の知覚や経験を超えたもの一それはそれぞれにおいて異なるが一を想定している点で共通している︒

それでもって︑知覚や経験によっては把捉し得ないものを理解しようとする︒その過程で︑実体といった概念が捏造

された︒だが︑この実体という概念によって︑世界に存在する事物の︑あるいは事物間の︑因果関係は実に一義的に

説明される︒そこに実体の大きな魅力−説得力︑あるいは利用価値一があった︒実体という不可解な概念が︑長

い西洋思想史において︑重要な位置を占め得てきた理由の一つはそこにあると思う︒

 ヒュームはそのような実体の概念を徹底的に批判した︒それは︑ヒューム体系の骨格をなす因果論を展開するため

の前提として必要不可欠な作業であった︒

 切 抽象観念について ︵ ﹃人性論﹄第一篇第一部は︑抽象︵一般︶観念論で締め括られている︒周知のように︑抽象観念の問題は︑ギリシ

ア哲学以来の西洋哲学における大きな問題であった︒とりわけ︑中世において実念論者︑概念論者︑唯名論者の間で       ︵38︶行われだ普遍論争では︑﹁インクばかりでなく血までが流された﹂︒こめ論争は︑.イギリスの経験主義哲学にも受け継

258

(21)

D.ヒュームの経験論的人間学の研究(三)

がれ︑ロック︑バークリ︑そしてヒュームもそれぞれの立場から抽象的観念について論じた︒それは基本的には︑オ

ッカムの唯名論をより徹底させる方向に進めるものであった︒

 ロックは﹃人間知性論﹄の第三秘戯三章で抽象観念について論じているが︑例えば次のように述べている︒ ﹁およ

そことぽは一般観念の記号とされることによって一般的となる︒また︑観念はその観念から時間や場所の事情やその

他この観念をあれこれの特殊な存在に限定できるなにかの観念を分離することによって一般的になるのである︒で︑

こうした抽象という仕方で︑観念は一つ以上の個物を代表できるようにさせられ︑おのおのの個物はその内にこの抽      ︵39︶象観念と合致するところをもつので︑その種のもの︵私たちはそう呼ぶ︶なのである︒﹂

 ロヅクにおいては︑実念論︵お巴一ω旨︶は拒否されているが︑しかし︑明確な唯名論は示されていない︒その不徹

底さを批判して︑より唯名論の立場に沿って︑抽象的観念論を展開したのがバークリであった︒バークリはその﹃人

知原理論﹄の﹁序論﹂の中で次のように言っている︒先ず上のロックの議論に対して︒ ﹁しかしながら︑言葉が一般

的となるのは︑悟る一つの抽象一般観念の記号とさせられることによるのでなく︑いくつかの特殊観念の記号とさせ       ︵40︶られ︑かつそれら特殊観念のどれをも無差別に心へ示唆することによるように思われるのである﹂︵=︶︒また︑バ

ークリは次のようにも言う︒ ﹁あらゆる名前はただ一つの精密で定まった意義を有する︑もしくは有すべきである︒      ヘ  へそして︑このたあ人々は︑或る抽象的な一定限の観念が各々の一般的な名前の真にしてかつ唯一の直接な意義を組成

する︑と考える気になる︒⁝⁝が︑真実は︑一般的な名前はすべて多数の特殊観念を無差別に標示して︑従って︑一      ︵41︶般的な名前に添えられた一つの精密で限られた意義のようなものはないのである︒﹂︵一八︶

 さてヒュームは︑バークリのこのような抽象観念論を︑ ﹁学界に於て最近なされた最も偉大にして最も価値ある発

259

(22)

見の一つ﹂と称讃して︑バークリの議論を受け入れつつ︑その改善︑発展を試みた︒       脚 抽象観念は︑特定の質や量を﹁悉く一時に表すか﹂︑あるいは︑いかなる特定の質や量も﹁全然表さないか﹂︑どち      ︵42︶らかであると考えられる︒しかしこれまで︑前者は﹁心の無限能力を含意﹂するので不合理だと見倣されてきた︒従

って普通︑後者の考えが支持されてきた︒だが︑この考えは誤りだ︑とヒュームはいう︒何故なら︑eどのような量

も質も︑その程度について精密な思念を作らずには思うことはできない︑国︑心の能力は無限ではないとはいえ︑内

省や他人との会話には不完全ながらも役立ち得る程度の思念を一時に作ることができる︑からである︒

 ヒュームはHについて︑以下のように三つの証明を示している︒ω およそ異なる事物同士は区別でき︑区別でき

る事物同士は思惟または想像によって分離でき︑またその逆も真である︒この考えによれぽ︑抽象が分離を含むか否

かを知るには︑一般観念において捨象された事情が︑その本質的部分として保留された事情と区別でぎ︑従って異な

る事情であるか否かを知ればよい︒ところが︑一つの線の精密な長さは線そのものと異なりもせず︑また区別もでき

ない︒それ故︑線とその長さの観念や性質とその程度の観念は区別できないと同時に分離できない︒従って︑そのよ

うな観念は︑それを思う時相互に連結されている︒㈹ どんな事物も量および質の程度が限定されていなければ感官

に現われることができない︑この限定なくしてはいかなる印象も心に現れ得ない︒心に何らかの特殊な能力があっ

て︑特定の程度も割合も持たずに何らかの印象が生ずるというのは言葉の矛盾である︒㈹ およそ自然の万物は個別

的である︒それ故︑個別的でないものが事実界において存在するならぽ不合理である︒だとすれば︑観念界において

個別的なものが存在することは不合理である︒ヒュームはいう︒ ﹁抽象観念は︑他を代表する点に於てどれほど一般

的になれぽとて︑それ自身には個別的であるのである︒心に現れる心象は飽くまで個別的な心象に過ぎない︒ただ︑.

(23)

D.ヒュームの経験論的人間学の研究(三)

       ︵43︶推理に於て恰も普遍的とした時と同じように適用されるだけである︒﹂

 以上が︑eの証明であるが︑しかしそれ程厳密ではないがバークリも大体同じような議論をしていた︒だが︑以下

に述べる国の証明は︑ロックはもとよりバークリにも見られない︑ヒューム独自の議論である︒

 問題はこのように︑本来個別的な観念がその本性を超えて適用されるのは何故か︒それは︑われわれの能力が不完

全であっても︑人生の目的に役立ち得る程度には︑観念の量および質のあらゆる可能な程度を収集し得るからであ

る︑とヒュームはいう︒何故なら︑われわれはいくつかの事物の間にひとたび﹁類似﹂を見出してしまうと︑量およ

び質の程度にどれほど差異を見ようと︑すべての事物に同じ名前を宛てがう︒そしてこのような﹁習慣﹂を獲得した

後は︑おれわれはこの名前を聞けば同じ名前を持つ事物中の一つの観念が蘇り︑ ﹁想像﹂によって特殊な量および質

を与えられた観念を持つようになる︒この言葉は︑いま心に現れている観念と多くの点で異なる他の個物に頻繁に適

用されてきたと仮定されている︒だが︑この言葉は︑それら個物の観念をすべて蘇らすことはできない︒しかし︑言

葉は︑あらゆる個物に適用されたことから得た習慣を伴っているので︑それによって不便を見ることは殆どない︒      ヘ  へ 以上からヒュームは次のようにいう︒ ﹁我々は如何なる一般名辞を用いる時も常に個物の観念を造ること︑これら

       ヘ  への個別を悉く挙げるのは殆ど或は全く不可能であること︑残りのものは習癖によって⁝⁝代表されるのみであること︑

      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へこれらは絶対確実である︒然らばこれこそ︑抽象観念及び一般名辞の本性である︒またかくして︑⁝⁝或る観念は本

へ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ性上特殊であるが他を代表する点に湿て一般的にあるという逆説が︑説明されるのである︒ ︹繰返して言えば︺特殊

観念が一般的となるのは一般名辞に結びつけられるからである︒即ち︑習慣的連結によって当該特殊観念の他に種々      捌数多い特殊観念と︹連合︺関係を持ち且つ想像に於てそれら諸観念を即座に思い出すような図る名辞︑に結びつけら

(24)

      ︵必︶れるからである︒﹂      蹴 中世以来の普遍論争に対するイギリス経験主義の対応は以上のごとくであった︒それは︑オッカムの唯名論を徹底

させる方向に進み︑ヒュームにおいて頂点に達した︒しかし︑ロック︑バークリ︑ヒューム︑それぞれの体系におけ

る抽象観念論の占める位置は︑バークリにおいて最も高く︑ロックがそれに次ぎ︑ヒュームにおいてはそれ程高い位

置を占めていない︑少なくともそのように解釈されている︒ヒュームの抽象観念論は︑彼の知覚論の当然の帰結であ

った︒その徹底した唯名論は︑ヒュームの期待通り︑中世以来の普遍論争に結着をつけた︒このように︑ヒュームの

抽象観念論は︑哲学史的に極めて大きな意義があった︒だが︑上述のように︑ヒュームの抽象観念論は︑彼の体系の

中では︑それ程重要な地位は占めていない︒少なくとも表面的にはそう見える︒しかしヒュームの抽象観念論は︑そ      ︵45︶の後二百年を経て︑つまり今世紀になって︑ハイエクなどによって発展せられ︑新たな展開を見ることになった︒ハ

イエクよりすれぽ︑ヒュームの社会理論は︑そのより発展した抽象理論なくしては十分理解できない︒要するに︑ヒ

ューム体系においても︑その抽象観念論は︑表面上思われているより︑重要な位置を占めているのである︒

 注

 ︵1︶ 印象と観念に関するこのような定義は︑ヒューム自身注意しているように︑普通の意味と異なる︒しかしヒュームは次の

   ように言う︒即ち︑かつてロックは観念を以て一切の知覚としたが︑これに較べれば︑上のような観念の定義は︑その原義

   に戻したといえる︑と︵∪.出賃ヨρ﹄↓まミ詠馬ミミミ§き聾ミ♪戸bっ●︶︒

 ︵2︶出⊆日Φ曽U●弘玄3署・b︒山・

 ︵3︶ 出ロ目︒サU.︑ び置﹂唱や●刈1◎︒・

 ︵4︶国信旨oL︶﹂肉ミミミいごや面悼・

 ︵5︶ D・ヒ昌ーム﹃人間知性の研究・情念論﹄︵渡辺峻明訳︑哲書房︶二八頁︒

(25)

D.ヒュームの経験論的人間学の研究(三)

︵6︶ ==ヨP⇔・℃﹄↓憶§︑︑鷲ミミミ§書︑ミ3℃﹂Q︒・大槻春彦訳﹃人性論﹄6四三頁︒次の引用文も同じ︒

︵7︶ ヒュームは次のような例を挙げる︒﹁︸枚の絵は自然に私の思惟を元のものに導く﹂ ︵U・国ロヨρ尉ミミ︑§・・噂●漣.前掲

  邦訳︑三〇頁︒︶.

︵8︶ ヒュームは次のような例を挙げる︒ ﹁一つの建物の一室に関する言及は自然に他の部屋についての質問あるいは談話を手

  引きずる﹂ ︵同右︶

︵9︶ ヒュームは次のような例を挙げる︒ ﹁もしも我々が傷について考えるならば︑それに伴う苦痛を省みないということはほ

  とんどできない﹂ ︵同右︶

︵10︶ 出ロヨ︒ごUご﹄↓こミ奮ミミミ§き蛛ミ♪署﹂bっIQ︒・

︵11︶ ヒュームの自然的関係と哲学的関係の関係については︑例えば︑神野慧一郎﹃ヒューム研究﹄ ︵ミネルヴァ書房︶第十一

  章など参照︒

︵12︶ ピ︒舞ρ匂●︑両鈎亀8§ミミ薦ぎ§§qミミ累§ミ轟・娼.⑩㎝・前掲邦訳H一一九頁︒

︵13︶ ︵12︶の引用文の後半からもこのことは分かるが︑より明白な論処として次の文章を掲げておく︒ ﹁複雑体を構成する単純  観念が自存できるようすは想像されないので︑私たちはある基体があって︑そのうちにそれら単純観念が存立し︑それから

  結果すると︑そう想定するように習慣づけられるのであり︑そこで︑この基体を実体と呼ぶのである︒﹂︵﹄●冒︒吋ρ守置ご

  唱﹄㊤9前掲邦訳口二四二頁︒︶ロックの実体論について︑比較的よくまとまっているのは︑ ∪・いO.8目︒ご智§トミ奮噛

  ℃①ロ9q巳曽︒犀ω.巳Ob︒噸である︒詳しくは同著︑第四章参照︒

︵14︶ 出賃ヨρ∪・嚇︑↓蓋ミ噺器ミミミ﹁篭き隷︑♪O﹄HO.前掲邦訳口五八頁︒

︵15︶ヒュームの実体論批判については︑U国9︒αqρbミミミミ馬.防↓ミ︒遷ミミ§3閑︒信昌︒傷咀︒曽H㊤09琶・窪1︒︒b︒・参照︒以

  下の議論も美事に負うところが多い︒ヒュームの実体論批判が︑心を﹁知覚の束﹂とする彼の心の理論を導いていくことは

  周知の通りである︒

︵16︶ 出ロヨρ∪ごH三9戸曽㊤・.前掲邦訳口五八頁︒

︵17︶ 躍5ヨρ∪ご 玄P℃●b︒b︒O・前掲邦訳口五八頁︒      63      2︵18︶ 国ロ旨ρ︐り冒神皇戸b︒bo9前掲邦訳目五九頁︒

(26)

︵91︶ 国=ヨO讐一︶ご一σ凶匹噛.卜Q卜0一・前掲邦訳口六〇頁︒

︵20︶ 近代合理主義者︵デカルト︑スピノザ︑ライプニッツなど︶の実体論については︑ い9け島口oq冨ヨ.﹃ミ沁ミご蓉︑篤箕∫

  O×hoad置く・勺δ霧●一り巡り︒﹃①戸も︒・参照︒コッテングアムは同章の冒頭で次のように述べている︒﹁実体の概念は︑合理

  主義的形而上学の中心に置かれている︒実体という用語はやや古めかしい響きを持っていて︑現代の哲学研究書の中で実体

  について議論がなされていることは殆どなく︑同概念は︑最早や科学においていかなる役割も演じていない︒⁝⁝しかし︑

  十七世紀においては︑実体に関する悶題は︑宇宙の究極的構成要素︑あるいは実在の究極的性質についての問題であった︒

  実体という用語はその魅力を失っているが︑これらの問題は明らかにまだ魅力を失ってはいない﹂︵︸・9三ロoq冨∋.一げ一F

  噂.δ.︶

︵21︶ コ9︒㎎①.ρ・ぎ置ご唱.お●

︵22︶ ヒュームはスピノザをP・ベールを通して知ったといわれる︒前掲邦訳﹃人性論﹄口一七二頁︑注︵二八︶参照︒

︵23︶ 躍ヨ①噛一︶こぎ置.U.前掲邦訳口八六頁︒

︵24︶ 躍信ヨ︒●U●.ぎ一食質卜︒ωし︒●前掲邦訳口七六頁︒

︵25︶ 鵠ロヨΦ.U●.一三昏ロ﹄註.前掲邦訳口九一頁︒

︵26︶ 以下はフレーグの議論に依っている︵固9︒㎎①讐U・し三二.讐℃P刈①山・︶︒

︵27︶ 出ロヨ①.U●﹂三食弓﹄窃.前掲邦訳口五九頁︒

︵28︶ 出仁∋ρU・噛ぎ凶住●Uロ﹄心ω誌.前掲邦訳口九〇1一頁︒

︵29︶ 踏=∋Φ糟∪・・一σ一F噛やト︒念.前掲邦訳口九一頁︒

︵30︶ コ9︒ηo鱒O●国︒噂一ぴ達.O︒刈oQ・

︵31︶ 出ロ∋①嘘Uご︾↓ミミ冴馬︒︑ミミ§≧械︑ミ♪P卜∂ω刈・

︵32︶ 躍窟∋①.∪ご一σ置﹂b.bo9︒Qc●

︵33︶ 出二∋o讐U・讐一げ置;づ.トっω︒︒︒

︵34︶国賃§①﹂︶・.やト︒P上の注︵23︶の引用文参照︒

︵35︶出β30.O・・ 三昏︒.唱・器9前掲邦訳⇔七九頁︒

2

(27)

D.ヒュームの経験論的人間学の研究(三)

︵36︶ 鴇置ヨ︒︑∪層悔ぎ達.︑℃恒卜09︒守9前掲邦訳口七九頁︒

︵37︶ 9臨昌︒窺冨β旨9P鳩一三山ご噂.蕊・

︵38︶ 旨ρoβ帥げダ∪O.Oごb§ミミミ♪ミ⇔↓ミミヒミ.さ︒ミ①ミ蝸︒な①8口畠①住ごbdpω強国mo評≦o戸H㊤①9℃◎ωω噂マクナブは︑

  実念論と概念論の抱える問題点︑あるいは危険性について︑次のように述べている︒﹁実念論︑また概念論の持つ危険性は︑

  経験論者が見抜いているように︑次のところにある︒先ず︑実念論者は︑自ら普遍に精通していると考えているので︑その

  普遍に精通していることを︑感官による実験や観察とは異なった実在に関する知識の源泉として︑あるいは︑実験や観察よ

  りも優れているとして︑見倣す傾向があり︑そこに危険性がある︒︸方︑概念論老は︑自ら﹃抽象﹄観念を有していると考

  えるので︑それを思い得られる事物の代表と見倣す傾向があり︑そこに危険性がある︒﹂︵︼︶畢∩甲︒轟q●り肖gρO昌99げび・雪げ一畠ご娼専ωoo︶

︵39︶ ピ◎o閃︒匂︸¢Hげ崔.bOや・畦Oード幽削掲邦訳日九五頁︒ ロヅグの抽象観念論については︑図・目・︾費︒戸智ぎト︒簿♪O×hoa

  舞尋ΦΩ母Φ民︒昌午︒ω︒︒噛ωΦ8巳Φ鎚・HO密o冨Oσ参照︒

︵40︶ バークリ︑前掲邦訳二四一五頁︒バークリの抽象観念については︑国・勺.芝ぎ置①♪笥ミぎ隷ざ﹄誌冒鷺愚見欝欺§﹁Ω碧05・

  住︒づ中窪ω●O臥︒乙.μO︒︒ρ第二章参照︒

︵14︶  パークリ︑ 必剛惧測甜邦甜訳一二﹁二⁝囲H百ハ︒

︵42︶ 寓βヨρU・目び崔ごOレ○︒.

︵43︶ =ロ日①噛∪こ一三F輸戸鱒9前掲邦訳H五二頁︒

︵44︶ 属ロヨ︒噛∪●.一玄住ご弓﹄b◎.前掲邦訳H五五頁︒

︵45︶ ハイエクの抽象論については︑さしあたり拙著﹃ハイエクの政治経済学﹄︵新評論︶︑第二章参照︒また︑ハイエクのヒュ

  ーム論としては︑︒ハ日げOピ①鴫9ρ一き画℃呂二〇巴℃ず離88ゲ鴇OhU働く筐属竃鑓Φ岡.︑貯吻ミミ題ミぎ篭寓魯ξ層ぎ︑ミ窮§窺肉亀§−

  蓬62目ロOq巳4臼ω︷ξOhO窪09︒oqO頃8ωジHゆΦドがある︒

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