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ヒ ュームの経験論的人間学の研究︵十︶

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D

ヒ ュームの経験論的人間学の研究︵十︶

情念について︵二︶

古賀 勝次郎

序文

第一章 ヒュームのキリスト教神学批判︵第四十一

第二章 ヒューム体系の哲学的基礎

 第一節 ヒュームの知覚論︵第四十三号︶

 第二節 ヒュームの因果論︵第四十四・五号︶

第三章 ヒュームの方法論

 第一節

 第二節

  ︵i︶

  ︵11︶

  ︵︐−︶

  ︵■W︶

第四章

 第一節

 第二節 ・二号︶

.懐疑主義と自然主義︵第四十六号︶

 ヒュームの道徳哲学方法論

 近代自然科学の方法論

 ヒュームの実験的・経験的方法論︵以上第四十七号︶

 ヒュームの歴史的方法論︵第四十八号︶

 ﹁存在﹂と﹁当為﹂の問題

情念について

 同一性の関係

 ﹁知覚の束﹂としての心︵以上第四十九号︶

早稲田社会科学研究 第50号  95(H.7).3

3

(2)

第三節

第四節

第五節 ︵iV

 ︵11︶

 ︵⁝m︶ 情念の分類間接的情念と直接的情念必然と自由について自由意志論争両立説︵oo日層β︒ユげ葭ωヨ︶︵以上本号︑

必然と自由と人間の責任 以下続く︶

4

第四章 情念について

第三節 情念の分類

 上述したように︑﹃人性論﹄第一篇本文最後の節﹁人格の同一性について﹂は︑第一篇知性論とその応用である第

二篇情念論とを直接架橋する節と理解される︒ヒュームの方法論的立場である懐疑主義は︑知性に関わる領域では

厳しく適用されるが︑そうでないところでは自然主義が頭をもたげ︑かなり緩やかに適用される︒第一篇本文最後

の節で取り挙げられた人格︑自我もその例にもれず︑デカルト的自我は否定されたけれども︑具体的な経験として

の人格︑自我は﹁知覚の束﹂と解釈され︑第二編の議論の前提になっており︑第二編において︑自我は直ちに間接

的情念である自負と自卑の対象として扱われる︒

 ところで︑ヒュームの情念論は︑﹃人性論﹄第一篇知性論の応用として︑また第三同道徳論の基礎としてヒューム

自身の体系において重要な位置を担っているが︑しかしまた︑西洋の思想史上においても独自の位地を占めている

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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十)

      ︵1︶といわねばならない︒そこでヒュームの情念論に進む前に︑その前史といったものを簡単に概観しておこう︒

 英語やフランス語で冨ωωδづ︵ドイツ語では﹇①置①房O溢出︶と綴られる情念は︑古代ギリシア語のパトス︵O緯70︒︒︶

にその起源を有し︑﹁働きを受ける﹂を意味する動詞O鋤ωoゴ①ぎに由来する︒アリストテレスはパトスを︑﹁受動﹂や︑

﹁実体﹂に対する﹁属性﹂という意味だけでなく︑﹁ロゴス﹂に対する﹁パトス﹂として︑つまり快・苦を伴う﹁情

意﹂の意味でも使っている︒ストア学派の哲学者達は︑情念に関して主知主義的概念を発展させ︑情念とはつまり

判断力の誤り︑誤った評価だとして︑情念を悪徳と同一視した︒また中世になると︑ロp︒暮︒ωはラテン語でOβ︒ωω一〇と

訳され︑キリスト教の教義の中に組入られ︑﹁イエス・キリストの苦痛と死﹂を指す言葉となった︒

 情念が哲学的・思想的問題として︑ギリシア以来再び議論されるようになったのは近代になってからである︒デ

カルトは精神と物質に実体を認め︑思考と延長をそれぞれの属性とした︒このいわば合理主義的二元論は人間自身

にも適用され︑心身二元論として捉えられた︒またデカルトの還元主義は情念を︑驚き︑愛︑憎悪︑喜び︑悲しみ︑

欲望に還元し︑あらゆる情念はこれら六つの情念の加減︑組合せから成るとする︒デカルトによれば︑精神はしば

しば受動的で︑人間の行為は情念によって影響を受けることが多い︒がそれは︑人間の行為を道徳から遠ざけ自由

を制限する︒情念が﹁意志﹂の下に統制されてはじめて︑人間の行為は道徳と一致し︑人間は自由になることがで

きるのである︒このようなデカルトの情念論を批判的に更に徹底させたのがスピノザであった︒スピノザはデカル

トとは違って︑神︵ここでは︑汎神論的神Vのみを実体と認め︑精神と物質をその属性とした︒しかしこの場合︑

精神と物質はその実体のうちで合一しているとされるので︑心身平行論として把握された︒またスピノザの還元主

義はデカルトのそれより徹底しており︑感情︵9︒哺①oεω︶も︑.欲望︑喜び︑悲しみの三つに還元され︑その他の感情

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       ︵2︶はこの三つの変容とされる︒スピノザによれば︑感情には能動感情︵碧ま︶と受動感情︵冨ωωδ︶の二つあり︑前

者は妥当な観念から生じるが︑後者は妥当でない観念から生じるので︑人間の行為を阻害し︑外物に対し人間を隷

属の位置におく︒従ってスピノザは人間を自由にし徳行の人とするには︑受動感情︑つまり情念を理性の指導の下

におかねばならないとした︒

 ホップズもデカルトやスピノザとも違った情念論を展開した︒デカルトの物心二元論に対し︑ホッブズは物体一

元論に立ち延長と運動をその属性とした︒人間も自然的物体と捉えられるが︑しかしそれは生命と感性とを持った

理性的物体である︒人間における延長は身体であり活動する生命体である︒人間の運動には︑生命運動と動物的運

動があり︑後者の動物的運動は意志的運動とも呼ばれる︒ホッブズによれば︑意志による運動の発端を示す運動

︵oo富εω︶が情念で︑この情念は生命運動を助長するもの︑即ち快楽︵且$の霞︒︶を求め︑これを阻止するもの︑即

ち苦痛︵O繊巳を回避する︒このようにホップズにとっては︑情念が意志行動の根本にあった︒このようにホップズ

は︑合理主義という枠の中ではあるが︑情念に対し︑デカルトやスピノザとは異なり︑能動的︑積極的な役割を与

えたのである︒

 経験主義者のロックは︑情念について多く論じなかったが︑情念に能動的︑積極的意義を与えた︒ロックは﹃人       も間知性論﹄第二巻第二十章において情念を快・苦︵包$︒︒葺①帥巳O巴p︶が惹き起こす様相として論じている︒﹁事

物はただ快苦との関連でだけ善または悪なのである︒⁝⁝快と苦ならびにこれを生むもの︑すなわち善と悪は︑こ       ︵3︶れをめぐって私たちのもろもろの情念が起こる軸である﹂︒このようにロックは述べた後︑愛︑憎しみ︑欲望︑喜び︑

悲しみ︑希望︑恐れ︑絶望︑怒り︑うらやみといった情念について簡単に分析する︒そして最後の二つの情念に留

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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十)

保条件を付けばするが︑ロックは次のように論ずる︒﹁私たちはただ快にかんしてだけ愛し︑欲望し︑悦び︑.希望す

るし︑また︑究極的にはただ苦にかんしてだけ憎み︑恐れ︑悲嘆にくれる︒要するに︑それらの情念はすべて︑快       も  の苦の原因と見えるような︑あるいは︑なにかかにかで快苦が結びついているような︑事物によってだけ動かされる  ︵4︶のである﹂と︒

 このようにロックは︑情念に能動的︑積極的意義を認めたが︑情念がその哲学体系の中で重要な位置を占めるに

は︑ロックは情念について余り多くを論じていない︒情念に能動的︑積極的意義を認めたロックの方向を更に大掛

かりに推し進め情念を経験論的人間学の中で重要な位置を与えたのがヒュームであった︒ヒュームの﹃人性論﹄第

二編の情念論は︑それだけでも独自の価値を有しているが︑同第一篇の知性論と第三篇の道徳論を架橋する極めて

重要な位置を占めているのである︒﹃人性論﹄の第一篇と第二編を直接繋いでいるのは自我論であって︑それは第二

編では間接的情念の自負と自製の対象として扱われているが︑ヒュームはその前に情念の分類を行なっている︒

 ヒュームは﹃人性論﹄第一篇の最初のところで︑知覚を印象と観念に分け︑更に前者の印象を感覚の印象︵凶ヨ只︒ω・      ︵5︶

ω圃Wωo︷ωΦ房m江8︶と反省の印象︵凶ヨ胃①器δ昌ωoh﹃①自Φ邑︒昌Vに区分していた︒第二編の冒頭でヒュームはこれ

を反復して︑印象を原生的印象︵o鼠ひq貯p︒一束冒①ωωδ昌ω︶と二次的印象︵ω①8昌α費三ヨ胃︒ωω凶︒霧︶に分けているが︑       ︵6︶これは感覚の印象︑反省の印象にそれぞれ対応する︒またヒュームは︑内省の印象を穏和な印象︵o巴日一ヨ胃Φωω凶8ω︶

と強烈な印象︵三〇一⑦葺冨胃Φωω一日目ω︶とに分けており︑更に情念を直接的情念︵9お99ωω凶︒房Vと間接的情念

︵ぎα蹄Φ90曽ωωδ昌ω︶とに区分している︒ところで以下︑ヒュームのこれらの区分についていま少し詳しく述べなく

てはならないのであるが︑その前に一つ次のことを確認しておこう︒それは︑ヒュームが﹃人性論﹄第一篇におい

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て感覚の印象︑原生的印象は解剖学や自然学の主題だとして直ちに観念の分析に進んだように︑第二編においても︑      ︵7︶原生的・一次的印象は︑﹁自然的物理的原因に依存﹂しているので︑それは第二編の主題から遠く離れ︑解剖学︑自

然学の領域に入ってしまうから︑第二編での分析は内省・二次的印象に限定しているということ︑これである︒

 さて︑原生的印象とは︑﹁先立つ印象が少しもなくて身体組織や動物精気や或は事物が外部感官に当ることから精

  ︵8︶神中に﹂起こるようなもので︑一切の感官印象︵凶日只Φωωδ諺oh昏①ω①口ω①ω︶と一切の身体的快苦︵げ︒αξO巴霧

雪αo一$ω痺①ω︶とである︒身体的快苦は︑心が感じる時も考える時も︑多くの情念を生む源泉ではあるが︑しかし

それに先行する思想や知覚は少しもない︒ヒュームは原生的印象の例として痛風の発作を挙げる︒それは︑悲哀︑

希望︑恐怖など一連の情念をも生むが︑いかなる感情や観念からも直接には出てこない︒これに対して︑反省的印      ︵9︶象は︑﹁原生的印象の或るものから直接に生ずるか又はそれらの印象の︹再現である︺観念の介在によって生ずる﹂

ようなもので︑もろもろの情念やそれに類似した情感︵Obρ○け一〇︼日ω︶である︒そしてこの反省的印象は︑穏和な印象

と強烈な印象の二つに区分される︒穏和な印象は︑﹁動作や構成やいろいろの外的事物に見られる美醜の感﹂であり︑      ︵10︶強烈な印象は︑﹁愛情と憎悪や悲哀と喜悦や自負と自卑の情念﹂である︒だがヒューム自らも認めているように︑こ

の区分は正確からほど遠い︒例えば︑詩や音楽による歓喜は︑しばしばこの上ない忌みに達する︒しかし他方では︑

本来は情念と呼ばれる印象は︑衰えてひどく穏やかになり︑ついには殆ど知覚できないようになることもあり得る︒

しかし一般的に言えば︑情念は美醜より生じる情感よりも強烈である︒

 興味深いのは︑ヒュームが理性と混同し勝ちなものとして︑穏和に作用する心的活動︑つまり穏和な印象を挙げ

ていることである︒この議論は︑第二編第三部第三節に出ていくるが︑ヒュームによれば︑欲望の中には真の情念

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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十)

でありながら︑心に殆ど情感を生まず︑直接の感じではなく︑結果によって知られる穏和なものがある︒その欲望

には二つあって︑一つは︑人間の本性に原生的に植えつけられた本能で︑仁愛︑怨讐︑生命愛︑子供への愛情など

であり︑いま一つは︑善福への一般的欲求と禍悪への一般的欲求とである︒またヒュームはそれに続いて︑意志機

能に大きな影響を及ぼす同種類の強烈な情感を指摘している︒例えば︑もし他人から危害を受けると︑怨讐の強烈

な情念を感じ︑自分の快楽や利益を考えずその人物の禍悪と処罰を望んだり︑耐え難い災禍の脅威を直接感じる時︑

恐怖︑懸念︑嫌悪は頂点に達し目立った情感を生むのである︒

 ヒュームの三番目のそして最後の区分は︑直接的情念︵ユ貯①9冨ωω凶8ωVと間接的情念︵言&お臼冨ωωδ昌ω︶と

の区分である︒直接的情念とは︑﹁善悪快苦から直ちに起る﹂ようなもので︑間接的情念は︑﹁同じ原理からではあ       ︵11︶るが他の性質と連接して始めて生ずる﹂ようなものである︒前者の直接的情念には︑欲望︑嫌悪︑悲哀︑喜悦︑希

望︑恐怖︑絶望︑安堵が︑後者の間接的情念には︑自負︑自卑︑野心︑自誇︑愛︑憎悪︑嫉妬︑憐欄︑邪意︑寛仁︑

またそれらに依存する情念を︑それぞれ含む︒

 ヒュームはここから直ちに間接的情念の議論に移る︒それは︑﹃人性論﹄第一篇本論の最後の人格の同一性の議論

が︑間接的情念の議論に直接繋っているからである︒

第四節 間接的情念と直接的情念

ヒュームが間接的情念として専ら扱っているのは︑自負︵基岩①︶と自国︵ゴヨ葭畠﹀︑愛︵一〇く①︶と憎悪︵ゴ碑おα︶

の二組の情念である︒しかしヒュームは︑前者についての分析を︑略々同じく後者にも適用している︒

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 ヒュームは先ず自負と自卑の分析から始める︒そして自負も自卑も単純印象だから正しい定義は与えることがで

きないとして︑直ちに自負と自卑の分析に入り︑両者の対象と原因を明らかにする︒

 ヒュームによれば︑自負と自尽とは全く反対であるが︑その対象は同じであって﹁自我﹂がそれである︒最早や

明らかなように︑第一篇本文最後での議論が︑ここに直接繋っており︑第二編は最初から自我が前提とされている

のである︒そして第一篇本文最後で与えられていた自我の定義がここでも繰り返されている︒即ち︑自我とは︑﹁我々       ︵12︶の親しく記憶し意識する・互いに関係し合う観念及び印象の・継起﹂であり︑より簡潔には︑﹁諸知覚の互いに関連    ︵13︶し合う・継起﹂である︑と︒自我が考察に入らない時︑自負や高卑は生じない︒何故なら︑われわれが自負︑自重

のどちらかによって動かされる時︑視線が常に自我に固定されるからである︒自負︑買春の情念においては︑心が

他のどのような対象を包み込もうとも︑それらは常に自分自身との関連で考慮される︒そうでなければ︑それらの

対象が自負と自卑の情念を喚起することはできないだろうからである︒

 しかし自我は情念の原因とはなり得ない︒つまり︑自我のみで情念を喚起するには不十分だというのである︒そ

の理由は︑自負と自卑が全く反対の情念であるに拘らず︑対象を同じくしているところにある︒つまり︑対象が原

因でもあるとすると︑一方の情念だけを生み出すことは如何なる程度であれ不可能で︑必ず同時に他方の情念をも

同程度に喚起しなくてはならないのだが︑しかしそうした対立と反対は両方の情念を共に消滅してしまわねばなら

ぬからである︒      ︵14︶ では情念の原因は麗なのか︒ヒュームはその原因を究明するために︑﹁作用する性質﹂と﹁その性質が置かれる主体﹂

とを区別する︒例えば︑ある人が自分の所有するあるいは自分が建てた美しい家を自慢する︑とする︒この場合︑

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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十)

情念の対象はその人自身で︑原因は美しい家であるが︑この原因のうち作用する性質が美で︑それが置かれる主体

は家ということになる︒

 またヒュームは︑自負と自卑の起源を明らかにするために︑それらの情念に特定の対象︑特定の性質︑特定の主

体を帰せしめるものを検討する︒先ず対象だが︑ヒュームによれば︑自負と自殺の対象を自我とするのは︑自然的

特性だけでなく︑原生的特性もそうである︒この特性が自然的︵昌鋤ε﹁巴︶なのはその作用が恒常的で不変だからで

ある︒たとえ自負や自署が自我を越えて眺める時も︑常にわれわれ自身を見ながら眺めるのであり︑そうでなけれ

ばどんな人物も事物もわれわれに何らの影響を及ぼし得ないのであろう︒また原生的特質とは︑﹁精神から全く不可       ︵15︶分離で且つ他の性質に還元できないような性質﹂である︒そうした原生的特性が心に与えられていなければ二次的

性質もあり得ないだろう︑というのは原生的性質が与えられなければ︑心の活動する基盤がないだろうからである︒

まさしくそのような性質が自負と自卑の対象を決定するのだ︑とヒュームはいう︒

 次にヒュームは原因の考察に移る︒結論を先にいえば︑自負と自信の原因は自然的ではあるが原生的ではないと

いうことになる︒自負と自証を生む原因が自然的であるかどうかということは︑原因の彩しい多様さがすべての心

の気紛れから生ずるのか︑それとも心の構造から生ずるのかということである︒しかしこの問題は︑われわれがわ

れわれの眼を人性に向けて︑如何なる国民︑如何なる時代でも︑やはり同じ事柄が常に自負または自卑を生じさせ

ていること︑また見知らぬ人を見て何がその人の情念を強めたり弱めたりするかをかなり正確に知り得ること︑を

考えるなら答えは自ら明らかである︒また︑自負や自警の原因が原生的でないというのは︑原因の一つ︸つが自然      ︵16︶の特別の用意︑一次的構造︵鋤09︒溝ざ巳9︒﹁隅︒︿霞︒昌讐山砕国費冒口受8霧聾貝回︒昌︒臨コ曇霞Φ︶によって自負または自

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(10)

卑の情念に適応させられることは全くあり得ないということである︒何故なら︑原因の驚くべき数に加えて︑原因

の多くは人工︵国詳︶の結果であるからである︒これは次のような想像が不合理であることから知られよう︒即ち︑

自負または言言を惹き起こす人工の新しい生産のすべてが︑心に自然に作用するある一般的性質を分有することで

それらの情念に適応するのではなく︑それ自身がある原生的原理の対象であって︑この原理は︑それまで精神の裡

に隠れていて︑偶然によってとうとう現れ出たのだ︑と想像することは不合理である︒

 しかし異なる作用を解明するためその都度異なった性質に頼るのは未熟な自然学者︵昌讐ロ画聖このやり方である︒

しかも人間の心はもともと極めて制約された主体である︒であれば︑自負や自卑の原因の一つ一つがそれらの情念

に適用するのは︑原因のすべてに共通なものに基づくと考えられてよく︑従ってその共通のもの︑即ち作用因︵Φ塗−

oδ耳6碧ωΦω︶を見出すことがここでも重要になる︒

 そこでヒュームはこれらの情念の原因を説明するために︑若干の原理を省察する︒第一の原理は︑既に第一篇で       ︵17︶明らかにした﹁観念の連合﹂︵器︒・099︒二〇昌︒噛達8の︶である︒いま一度簡単に繰り返せば︑以下のような原理であ

る︒人間の思惟は極めて不安定で変化し易いものとはいえ︑そこにはある規則性が見られ︑思惟は規則的に一つの

対象から︑それに類似するもの︑それに接近するもの︑それによって産出されたものへと移る︒一つの観念が想像

に現れる時は︑これらの関係によって接合された他の観念が自然にそれに続き︑前者の先導で心に容易に入ってく

る︒       ︵18︸ 第二の原理は﹁印象の連合﹂︵帥ωωoo貯口80︷望事①ωω凶8ω︶である︒ヒュームによれば︑すべての類似する連合

は互いに結合していて︑一方が起こると残りは自然に伴う︒例えば︑悲哀と失望とは盆怒を生み︑内題は嫉妬を生

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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十)

み︑嫉妬は邪意を生み︑邪意は再び悲哀を生んで︑情念の環の全体ができ上がる︒また同じく︑われわれの気分が

喜悦で高揚している時には︑この気分は自然に愛︑寛仁︑綴暦︑勇気︑自負その他の類似する感情へ投げこまれる︒

このように印象の間にも観念の問と同様連合が存するのである︒但し︑観念の連合と印象の連合とは次の点で著し

い違いがある︒即ち︑観念は︑類似︑接近︑因果性によって連合されるが︑印象はただ類似によってだけ連合され

る︒       ︵19︶ 第三の原理は﹁観念と印象の二重の関係﹂︵qoq甑Φ﹃色目凶︒昌︒︷ご①9︒ω偉︒昌巳ヨ震①ωω帥︒⇒ω︶である︒ヒュームによれ

ば︑観念の連合と印象の連合は互いに助け合い促進しあうのであり︑しかも両者が同一の対象に働きかける時には︑

推移はより一層容易になされる︒例えば他入から危害を加えられ気分を損い苛立っている者は︑ともすれば︑不平︑

焦燥︑恐怖︑その他彩しい不快な情念を見出し勝ちである︒とりわけ︑彼が最初の情念の原因であった人物のうち

かもしくは近くに︑そうした情念を発見できる時はそうである︒この場合には︑観念の移行を促進させる原理が情

念に作用する原理と協力し合って︑両者は一つの働きに合一され︑心に二重の衝撃を与える︒だから新しい情念は︑

観念の連合の助けがない時よりはるかに強い激しさで起こるに違いないし︑またその情念への推移ははるかに容易

且つ自然となるに違いないのである︒     ︑

 さてヒュームは以上のような原理を確立した上でそれらを自負と三下に適用する︒先ず原因において作用する性

質を検討すると︑性質の多くは自負や自卑と独立に快苦の感覚的気持︵ω①房卑凶80hO巴昌9︒鼠℃一8ω鐸お︶を生む点

で共通している︒例えば︑容姿の美しさそれ自体で︑自負とともに快をもたらし︑容姿の醜さは自卑とともに苦を

生む︒次にこうした性質が属す主体であるが︑主体はわれわれ自身の部分か︑われわれに近い関係を有するもので

13

(12)

ある︒例えば︑われわれの行為や態度の善い性質または悪い性質は︑徳と悪徳を構成し︑われわれの人格上の性格

を決定する︒それと同じように︑われわれの容姿︑家︑家具︑調度の美醜はわれわれを自負させあるいは自象させ

る︒だが同じ性質も︑われわれと全く無関係な主体に移し変えられるとこういった感情へ少しも影響を及ぼさない

のである︒

 要するに︑情念を喚起する原因は︑情念に自然に帰される対象である自我と関係しているということ︑また原因

が情念と独立して生む感覚的気持は情念自体の感覚的気持と関係しているのであって︑情念は︑この対象の側にお

ける観念間の関係と感覚的気持の側での印象間の関係との二重の関係から生まれる︑ということである︒

 ところでここで注意しておいてよいのは!ヒューム自身指摘していることだがi︑以上の議論が︑﹃人性論﹄

第一篇第三部第六節などで論じられた信念︵げ巴庶︶の議論と似ているということである︒因果性を基にして下だす

判断には常に現在印象とこれに関係ある観念とがあり︑そして現在印象は想像に活気を与え︑関係はこの活気を容

易な推移によって関係観念へ伝える︒というのは︑現在印象がなければ注意は定らないし︑心気は刺激されない︒

また︑関係がなければ︑この注意は対象の上に止まりそれ以上に及ばない︒こうした信念の議論と上述の議論︑即

ち印象と観念とがその二重関係によって他の印象と観念とに移るという議論との間には明白な類比がある︒しかも      ︵20︶ヒュームは︑﹁この類似こそ︑二つの仮説の軽視できない証拠と認めなければならない﹂とまでいう︒

 次にヒュームが基本的な間接的情念として取り挙げるのが愛と憎悪である︒しかしヒュームのこれら情念に関す

る分析は︑自負と自卑の分析に極めて似ている︒先ずヒュームは︑愛や憎悪の情念に定義を与えることは︑自負と

自卑の場合と同じ理由から不可能である︑というゆ次に︑愛と憎悪の対象を明らかにし︑自負と自卑のそれが自我

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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十)

       ︵21︶      ︵22︶であったのに対し︑それは︑﹁我々が思想・行動・感覚的気持を意識しない或る他の人物﹂︑﹁我々に外的な可感者﹂︑       ︵23︶﹁或る思考する人物﹂である︒ヒュームはこのように様々に表現しているが︑要するに﹁他我﹂である︒ここでヒュ

ームは早く簡単にではあるが︑興味深い指摘をしている︒即ち︑以上のように愛の対象が他我であれば︑われわれ

が自愛︵紹一や一〇︿o︶について語る時︑それは本来の意味においてではない︑つまり︑自愛が生む感覚的気持には︑

友入や愛人の喚起するあわれみの心︵8づ仙臼①ヨ︒鶴︒づ︶と共通なものがない︑というのである︒自愛については後

に詳しく見る機会があるので︑これ以上述べないが︑ここで指摘しておきたいのは︑自愛に関するこのような考え

は以下のヒュームの議論にも基本的に貫かれているということである︒憎悪の場合もこれと同じで︑われわれは自

分自身の過失や愚行によって意気沮喪するかもしれないが︑他人から危害を加えられなければ決して憎悪は感じな

い︒ またヒュームは愛と憎悪の原因を︑作用する性質と性質が属する主体に分けて考察している︒例えば︑厳めしい

宮殿を持つ君主は国民の敬重を得る︒それは第一に︑宮殿の美によってであり︑第二に︑君主と宮殿とを結びつけ

る所有関係によってであって︑どちらかがなくても情念は生まれない︒このことは︑その原因が複合的であること

を示している︒またヒュームは︑愛の感覚的気持は快であり︑憎悪のそれは不快であるということ︑即ち︑愛あ原

因は情念とは独立した快を生み︑憎悪の原因は情念とは独立した不快を生むことを指摘している︒

 かくしてヒュームは︑愛と憎悪についても︑自負と自卑の場合と同じ結論を導く︒﹁即ち︑愛と憎悪も観念間と印

象間との二重関係から起こる推移によって生み出される︑と︒      ︵24︶ 間接的情念はこのくらいにして︑最後に直接的情念について簡単に見ておこう︒

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 ヒュームが直接的情念として取り挙げているのは専ら希望︵げ︒冨︶と恐怖︵け碧︶で︑その他のものは特別な注

意に値しないとして殆ど論じていない︒ヒュームによれば︑善福︵伽qooα︶にせよ禍悪︵Φ邑︶にせよ︑それらが確実

な時は喜悦︵一〇巳あるいは悲哀︵讐δ︷︶を生むが︑善福︑禍悪が蓋然的で不確実な時は︑それぞれ希望と恐怖を生

む︒つまり︑希望と恐怖は善福または禍悪の蓋然性から生じる﹁混合的情念﹂︵目凶×巴Om隆︒ロω︶である︒ここでヒ

ュームは﹃人性論﹄第一篇で論じた因果論を確認する︒蓋然性は互いに反対な偶然または原因の対立から起こる︒

これによって心は︑何れの側にも固定できなく絶えず一方から他方へ拠げ移される︒想像または知性は互いに対立

する見方の間を揺れ動く︒問題に対する賛成と反対が交互に優勢となる︒心は対象を互いに対立する原理において

見るので︑心は一切の絶対的確実性を破壊するような反対を見出す︒だからあらゆる蓋然的問題においては︑知性

が互いに反対な見方に分かれるのと同様︑心も互いに対立する情感に分かれるのだとヒュームはいうのである︒      ︵25︶ 興味深いことにヒュームはここで︑人間の知性や想像を管楽器に︑心を絃楽器にそれぞれ警えている︒管楽器で

は吹くのを止めれば音は直ちに失われるが︑絃楽器では︑鍵を叩けばその度に振動が音を後まで留めて︑音は気づ

かれずに漸次聞こえなくなる︒つまり︑想像が極端に早く敏捷なのに対して︑情念は遅くて強情ということなので

ある︒それ故に︑ある対象が現れて情念に色々な情感を与える時︑明晰判明な情念は生まれず︑一つの情念は常に

他の情念と混合するだろう︒しかもこの際︑蓋然性が善福︑増悪どちらに傾くかに応じて喜悦または悲哀の情念が

その構成において優勢になる︒つまり︑想像の互いに反対な見方によって喜悦と悲哀とが混合し︑その結果︑両者

の合一によって希望と恐怖の情念が生み出されるということである︒

16

(15)

第五節 必然と自由について D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十)

 既にわれわれは直接的情念について見てしまったが︑﹃人性論﹄では︑直接的情念は第二編第三部も第九節におい

て扱われているのであって︑実は第三部は︑自由と必然︵一一幕門畠2︒aづΦo①ωの詳Sの問題つまり自由意志︵ぐ①Φ−註ε

の問題から始まっているのである︒そこでわれわれもこの問題に戻ることにしたい︒

 さてヒュームによれば︑意志︵≦旨︶は︑快・苦の直接的結果であり情念には含まれないが︑情念の解明には意志

の特性の理解が不可欠である︒ここにいう意志とは︑﹁我々が或る新しい身体的運動を︑又は新しい心的知覚を︑知

︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑  ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑︵26︶りつつ生起すとき︑我々の感じ意識する内的印象﹂を意味する︒またヒュームは︑﹁何らかの心的活動もしくは身体      ︵27︶活動によって善福を得ることができるとき︑もしくは禍悪を失くすことができるとき︑﹃意志﹄が発動する﹂とも言

っている︒このように意志は内的印象︵営8諺9︒=日只︒ωωδ昌︶であり︑月負と自卑や愛と憎悪の印象と同じく定義

し得ない︒

 ところでヒュームも指摘しているように︑必然と自由の問題︑自由意志の問題は︑極めて長い間多くの思想家に

よって議論されてきた問題であるので︑ここでもその論争史といったものを簡単に振り返っておこう︒

 ω 自由意志論争r      ・

 人間の自由についての哲学的思索は︑既に古代ギリシア時代からなされているが︑厳密な意味で自由が人間の意

志との関係で論じられるようになるのは︑中世において即ちキリスト教神学においてである︒

 プラトンは意志の自由に関しては何も論じていないが︑人間が自由である情況については明確な考えを持ってい

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(16)

た︒即ち︑人間の理性が感覚や感情といったものを支配している時︑人間は自由になれる︑と︒またアリストテレ

スはその﹃ニコマコス倫理学﹄︵攣目§﹀§ミ§ら書Sの第三巻において︑善き行為は選択の自由に関わっていると

述べている︒即ち︑アリストテレスによれば︑善い行為とか悪い行為といえるのは︑非強制的・意識的行為︑また

選択されてなされた行為に限りでいい得る︒﹁選択﹂とは人間の自由と責任に属するものに対する思量的欲求のこと

で︑目的への様々な手段に関わる︒徳は目的への手段に︑従って選択に関係している︒だから﹁われわれが徳を有      ︵28︶するか否かは︑われわれ自身に依存するところの自由なことがらであり︑宝徳についても同様のことがいいうる﹂︒

 しかしギリシアの哲学者の中にも︑後の自由意志論にかなり近い議論をなした人々もいた︒エピクロス及びエビ      ︵29︶クロス学派の人々がそれである︒彼等の提起した問題は︑人間の行為は資質︑経験︑環境によって完全に決定され

るのか︑それともいくつかある行為の選択肢を自由に選択できるのか︑ということであった︒そしてこの問題に対

して彼等が与えた回答は︑前者の決定論への批判であり︑後者の選択の自由の擁護であった︒このような回答を例

えばエピクロスは︑デモクリトスの決定論を批判することを通して得ている︒デモクリトスにとっては︑万物は原

子から成っており︑原子自体は変化せず︑その他の変化も原子間の位置関係の変化に過ぎなかった︒

 ところでこの理論には決定論が含まれている︒というのは︑原子の最初の形︑速度︑方向などは予め与えられて

いて︑人間の状態や行為もすべて必然的にそれに従うとされているからである︒いやそればかりかこの理論は︑心

理的な因果関係も機械的・物理的因果関係に還元しているのである︒エピクロスはこのような決定論を批判した︒

というのは︑①人間には︵また一部の動物にも︶自発性︑即ち行為を始める能力︑が見られる︑②人間は互いに称

讃したり叱責したり︑褒賞を与えたり罰したりするが︑もし人間の行為が不可避のものであれば︑そうしたことは

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(17)

D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十)

不可能である︑からである︒ここには明らかに︑後の自由意志論に近い考えが見られる︒

 自由意志の問題が重大な問題として論じられるようになるのは中世になってからである︒自由意志をめぐって︑

意志の自由︵一ま︒歪銀雪玄q置§︶を説く神学者と予定説︵只聖血①ω二旨9︒ユ︒︶を主張する神学者とが激しい論争を繰

り返した︒       ︵30︶ 五世紀前半︑アウグスティヌスとペラギウスとの間に起こった論争も︑自由意志の問題が中心であった︒ペラギ

ウスはアウグスティヌスの﹃告白﹄︵6◎ミ盛砂§8退8︶にある﹁御身の命ずるものをあたえたまえ︒御身の欲する

ものを命じたまえ﹂を聞いて︑これは人間の道徳的責任を無視するものだと批判した︒つまり︑すべてを神に委ね

ようとするアウグスティヌスの思想は︑人間からその道徳的責任を回避させ︑人間を道徳的に堕落させるものであ

る︑人間には自由意志があり︑人間はそれによって善い行為も悪い行為もできるのだから︑自由意志を尊重すべき

だ︑というのである︒

 これに対しアウグスティヌスは次のように反撃した︒確かに人間の悪い行為は人間の意志によってもたらされる︒

だが︑人間の善い行為は人間の意志によってなされるのではないく︑神の恩寵︵吉凶鉱ロ︶によってはじめて導かれる

のである︒しかも神の恩寵はすべての人に等しく分け与えられてはいない︒人間には︑神の恩寵を有する者と有せ

ざる者とがあり︑前者は救済されるが︑後者は生まれ落ちた時から地獄に落ちるべく定められている︒このように︑

アウグスティヌスは︑少なくとも晩年は︑予定説を唱えたのである︒

 自由意志の問題は︑神的創造と世界の永遠性︑霊魂の不滅などの問題と並んで︑十三世紀における激しい論争の      ︵31︶テーマであった︒トマス・アクィナスもこの問題に深く関わり︑自由意志と予定との関係を合理的に説こうとした︒

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(18)

その結論は︑神はすべてを予定しているが︑予定は人間の行為から自由を奪うことはないというのであった︒人間

が神の被造物である点では他の被造物と同じだが︑人は意志と理性を持っており︑この点で他の被造物と異なる︒

人間の意志が自由なのは︑人間が理性を有しているからである︒理性はある目的に関わるさまざまな手段のうちか

らあるものを選択する能力のことである︒だが理性が判断してあるものを選択をする場合︑その判断は予め決定さ

れてはいないのである︒従って︑自由意志が関わるのも目的でなく手段であるが︑その手段は目的との関係におい

て選択される︒つまり︑意志の自由とは︑人間が自由に判断し得る能力のことである︒このようにトマス・アクィ

ナスは︑人間の行為に限って意志自由論を支持するのである︒

 自由意志論争が頂点に達するのは十六世紀前半である︒エラスムスが﹃評論・自由意志論﹄︵b皆ミ9ド§鳴こ

ミミ赴畿♪H認蔭︶を書き︑ルターがこれに激しく反駁して﹃奴隷意志論﹄︵b上領こ︒ミミミP同門㎝︶を著した︒エラ

スムスも翌年ルターの反論に対して﹃ルターの奴隷的意志反駁﹄︵§Q§詠§亀§恥誘客紹ミミ§貸さ軌ミミ§トミ§き

一器O︶を書いて応酬した︒

 エラスムスとルターの論争は激烈を極めた︒エラスムスは︑自由意志を定義して︑﹁人間が︑永遠の救いへと導く       ︵32︶ものへ自分自身を適応させたり︑あるいはそのようなものから離反したりし得る人間の意志の力﹂であるとした︒

即ち︑自由意志は人間に生まれながら与えられている能力であって︑恩寵へと自分を適応させたり恩寵から離反さ

せたりすることができる︑それもこの場合︑神の恩寵の導きを特に考慮に入れる必要がない︑とエラスムスはいう

のである︒

 この考えはルターを激昂させた︒ルターは意志の自由を説くエラスムスの中に︑神に逆らい人間を世界の中心に

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(19)

D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十)

据える人間のエゴイズムを嗅ぎとったのである︒ルターによれば︑人間の意志は︑必ずしも自由とはいえず寧ろ不         ︵33︶自由であり奴隷的である︒人間の意志が奴隷的なのは︑神の全知全能と対比される時明らかとなる︒人間は罪のう

ちにあることによって︑善に対しては全く無力である︒これが救えるのは専ら神の恩寵の排他的な作用のみである︒

また神は一切を知り予知されたもうている︒人間は自らの意志によって行為するのではなく︑神の予定的意志の下

に束縛されている︑即ち︑人間は神の予知のままに行為しているのである︒その意味で︑人間は必然性によって造

られているのである︒

 このようなルターの予定説を更に徹底させ神中心主義を唱えたのが周知のようにカルヴァンであった︒

 自由意志論争は近代にも引き継がれるが︑近代の自然科学的意味での必然主義が加わることによって同論争はよ

り複雑なものとなった︒       ︵34︶ デカルト︑スピノザ︑ライプニッツなどの合理主義者達は︑宗教としてのキリスト教に対してこそ異なった考え

を持っていたが︑既に述べたように︑神と宇宙・自然との間には一もっともそれぞれの間には程度の差はあるが

1必然主義的︵合理主義的因果︶関係を認めていた︒しかし彼等が必然主義的関係を認めたのは神と自然の間だ

けではなかった︒自然の世界に起こっている諸現象の間にも必然主義的関係を認めていたのである︒例えばスピノ

ザは︑次のようにいう︒もし人間が自然のすべてを明晰に理解すれば︑すべてのものを数学によって扱われるもの

と同じように︑必然主義的関係を有していると見るだろう︑と︒これはコッティンガムもいうように︑一定の事象

Xにとっては︑X以外のものになる可能性はあり得ないということを意味する︒またライプニッツの︽冒冒︒一嘗ロヨ

噌9︒戯︒コδωq窪息Φ口岳ω︾も︑宇宙に起こるものは予め決定されているということを含意している︒要するに合理主義

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(20)

四達は決定論︵α①8噌ヨ貯凶ωヨ︶の立場に立っているのである︒しかも彼等は︑決定論に立ちながらも︑同時に人間の

自由の場を見出そうとするのである︒

 神はすべての善と真理の根源であるのにも拘らず︑世界には何故悪や誤りが存在するのか︒これに対しデカルト

は次のように答える︒人間はある判断を行なう時︑知性と意志とが必要である︒知性が先ずある命題の内容を理解

し︑次に意志が要請されてそれを認めるか拒否するかを決める︒人間の自由はそこにある︒知性が明晰︑判明に理

解するものの多くは間違いなく真理だが︑しかしそれでも理解できない場合がある︒このような場合にはわれわれ

は判断を中止すべきである︒これに対し意志は知性よりも遠くへ行き︑このような場合︑われわれはしばしば意志

に自由な手綱を与える︒ここに悪や誤りが生ずる原因がある︒

 それ故︑神の恩寵も自然科学的知識も自由を減少・縮小させることはなく︑寧ろ拡大・強化する︑とデカルトは

いう︒従って自由は︑内的自発性の程度に比例して増大し︑無差別の程度に反比例する︒つまりデカルトにとって

最高度の自由は︑無差別の自由︵艶$匹oBoh冒臼駿臼①昌︒Φ︶ではなく︑自発性の自由︵ヰ①①幽︒ヨ︒︷ωOo耳雪︒騨団︶

であった︒       ︵35︶ ライプニッツの決定論も自発性において自由と結びついていた︒人間の意志は動機によって何時も決定されてい

るが︑動機は精神が自発的に︑意志的に機能するための条件である︒自発性とは自分自身を決定することである︒

だから人間が自発的たるためには決定されていなくてはならない︒自発的なものにおいてはそのものが決定されて

いればそれだけ自由も増すのである︒このような考えはモナド論とも一致する︒ライプニッツのモナドは︑神によ

って予めその活動は決定されているが︑にも拘らず全く独立した存在である︒そして個々のモナドは外からでなく

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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十)

内からその活動は決定され︑自己の内的本質の展開によって活動する︒要するにライプニッツは自由を自己決定と

同一のものと見倣すのである︒

 またライプニッツは自由を成立させている条件として偶然性を挙げる︒勿論この偶然性は無差別の不決定性を意

味するものではない︒それは︽冨ぎ︒且二丁冨甑︒巳ωω亘h旨δ三δ︾に反す︒ライプニッツには︑必然的真理︵睡永遠

的真理11絶対的必然性︶と偶然的真理︵旺仮定的必然性︶の区別−これについて既に述べている一がある︒ラ

イプニッツによれば︑自由が存するには絶対的必然性を免れてさえいればよい︒仮定的必然性としての決定性は︑

反対も可能という意味での偶然性とは矛盾しないのである︒そしてこのような考えの基礎にはライプニッツの次の

ような命題がある︒即ち︑世界には無数の可能的世界があり︑実体にもまた無数の可能的実体がある︑神は最も完

全で最善の世界を作ると思われる実体を選び存在させたのである︑というのがそれである︒ここでは可能性が自由

と同じものとして考えられている︒

 スピノザが自由と自己決定とを同一視している点ではライプニッツと同じである︒﹃エティカ﹄︵肉ミ帖§しO胡︶の

中でスピノザは︑﹁自由といわれるものは︑自らの本性の必然性によってのみ存在し︑それ自身の本性によってのみ       ︵36︶行動しようとするのである︒﹂と述べている︒しかしスピノザは神と有限者の間に重大な区別を立てる︒即ち︑神は

神の本質の必然性のみで存在するが︑人間は神の本質の必然性によってその存在や活動が決定されているというの

である︒とすれば有限者たる人間には自由の場が全くないかのようである︒がスピノザにとって個々の有限者は神

の様相である︒神の特性は様相によって決定論的に決定されている︒だからスピノザは︑ライプニッツがi理由は

全く達うが!モナドに帰したのと全く同様の内的力を有限者に与えることができるのである︒スピノザはこの内

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(22)

的力をコナトゥス︵ooロ簿亘ω︶と呼ぶ︒コナトゥスが人間の精神と関係づけられた時それは意識的努力となり︑精神

と肉体とに関係づけられると欲求となる︒この欲求がまさに人間の本質であって︑そこから人間の保存を促すもの

が必然的に出てくる︒スピノザのこのような考えは︑確かにライプニッツの自由の概念−人間の行為が外的障害か

ら独立し自己の内側からなされる限り自由である一と重なるところがあるようにも見える︒しかしスピノザは次

のようにもいう︒即ち︑個々人の内にあるコナトゥスの力には︑﹁限界があり︑同時にその力は外的な要因の力によ      ︵37︶って無限に凌駕されている﹂と︒スピノザにおいては︑知性の力が人間の自由の鍵になっている︒

 だがスピノザは﹃神学・政治論﹄︵S§ミ書寒︒寒︒−ぎミ帯§﹂Oざ︶の中で奴隷と自由な臣民とを比較して       ︵38︶次のように言っているが︑これがある程度スピノザの自由の概念を明かすものと思ってよいかもしれない︒即ち︑

奴隷とは︑主人の命令−それが彼の利益になるとならないとに拘らず一に服せざるを得ぬ者のことであり︑しか

し主権者の命令に服すものの︑そうすることが自分を含むすべての人々の利益になるという合理的判断に従って服

すのが自由な臣民である︑とスピノザは言っている︒要するにスピノザは︑理性の完全な指導の下に自由な合意に

よって生まている人間を自由と考えている︑といってよいだろう︒

 T・ホッブズの自由意志論は︑﹁自由と必然について1予定︑選択︑自由意志︑恩寵︑功罪︑永田等に関する論

争﹂︵︑.O暁いま①誹︽臼︒巳Z①oΦωω凶蔓︾↓﹁Φ帥ユωρ≦ゴ魯①冒≧一〇〇耳﹃o︿Φ冷雨Oo昌︒①跨ぎσq℃お傷①ω戯口9一〇同日Φoユ︒員       ︵39︶閃おΦ−乏凶芦O轟00ζ①ユ梓ρ菊①只︒げ豊︒直奏ρ..︶の中で次のように要約されている︒①自発的行為︵<9§邸蔓︒﹁

ωbo簿碧Φo臣mo搾凶︒包とは人間の思慮︵匹Φ一圃げΦ﹁四叶一〇づ︶による行為のことである︒②思慮はある行為の善い・悪い結

果についての代替的想像︵ぎ四αqヨ四ユ8︶︑あるいはその行為を為す為さざることに対する代替的欲求︵β︒薯①捧︒︶で

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(23)

D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十)

ある︒③思慮︑即ち対立する欲求の代替的継起の中で最後のものを意志︵三一一︶という︒④自発的行為は選択︵oげ○凶8

雪画Φ冨︒けδ昌︶に基づいた行為であり︑選択に基づく行為は自由な行為である︒⑤自由とは行為者の本性と固有の性

質に含まれていない行為に対するすべての障害が欠けている状態である︵周知にようにこれがホップズの自由につ

いての有名な定義である︶︒⑥自発的な行為も必然的原因︵昌OO①ωω国﹁矯 O燃口ωO︶を有していて︑従って必然的に生み

出される︒⑦十分な原因︑︵ω=h団一〇一①づけO鋤口ωO︶があるということはその結果を生み出すに必要なものが何も欠けてい

ないということであり︑それ故それは同時に必然的原因である︒⑧自由な行為者︵帥ヰΦ09︒αq魯¢に関する通常の定

義︑即ち︑その結果を生み出すに必要なすべてが存在している時︑それにも拘らずそれを生み出し得ない行為のこ

とであるという定義は矛盾している︒以上要するにホップズは︑必然と自由とは対立せず両立するというのである︒

 最後にロックの自由意志論について述べておこう︒ロックの自由意志論は︑主に﹃人間知性論﹄第二巻第二十一

章﹁力能について﹂︵︐︑O︷℃o毛臼..︶で展開されている︒しかしこの章は第二版で大幅な修正・加筆が行われたばか

りか︑第三版︑第四版︑第五版︵第五版はロックの死後の一七〇六年に出ている︶でも重要な点で加筆・修正が施

されており︑しかも同章には︑﹁意志決定論﹂と﹁停止論﹂とが混在しているなど︑ロックの自由意志論を正確に理       ︵40∀解するのは難しいが︑だいたい以下のようにいってよかろう︒

 ロックによれば︑力能︵Oo≦①ごは︑人間があることを為したり為さなかったりすることを可能にする一つの実体

の特性である︒力能には︑何かを変化させ得る能動的力能︵oo賢く①Oo≦魯︶と︑変化を受け得る受動的力能︵℃9︒芝葺①

Oo毒この二つがある︒意志︵≦凶一一︶は能動的力能のことであって︑合理的行為者としての人間はこの意志を持って

いる︒意志的行為︵<O一一け一〇昌︶あるいは意志すること︵証霞昌伽q︶とはこの力能を行使することである︒自由は︑力能

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(24)

を持つ合理的行為者が︑自己の意志に従って為したり為さなかったりすることである︒しかしまた合理的行為者は︑

それとは違った行為をすることもできなければならない︒この意味でロックは︑﹁自発性の自由﹂だけではなく﹁無

差別の自由﹂も認める︒そしてロックは︑必然とはこのような自由のないことであるという︒従ってロックの自由

と必然に関する考えは︑先に見たホッブズや後に見るヒュームのそれとは異なる︒

 さて上述したように︑ロックは意志決定論︵<○洋凶8巴α①8﹁貫首の3︶と停止論︵α09鼠器oh︒︒二ωO①山江︒昌︶とが

混在している︒意思決定論とは簡単にいえば︑どんな意志的行為も自由ではないということだが︑ロックは初めこ

の立場にあった︒だが﹃人間知性論﹄第二版になると意志を決定するものに関する考えに変化が起こり︑そこに停

止論が導入されることになるのである︒即ち︑初版では︑人間の意志を決定するものは︑目前の最大の欲望であっ

たのが︑二割では人間が現在置かれている不安︵巨8ωぎ︒ωω︶に修正された︒この不安には多種多様なのがあって︑

一つの行為によってはそれらすべてを取り除くことはできない︒勢い多くの行為に対して優先順位をつけねばなら

なくなる︒ここに停止論が導入される理由がある︒ロックは次のようにいう︒﹁心は︑大部分の場合︑経験上明白な

ように︑欲望のあるものの実行・満足を停止する力能︵麟bo≦臼8の二ω℃Φ&︶をもっており︑ひいては︑すべての

欲望について順々に停止する力能をもっている︒そこで︑心は自由にそれら欲望の対象を考察し︑あらゆる面にわ       ︵41︶たって検討し︑相互に思い量るのである︒ここに︑人間のもつ自由がある︒﹂

 V.チャペルの綿密な研究によると︑ロックは﹃人間知性論﹄の第五版において︑意思決定論を放棄し︑停止論      ︵42︶を採ることになったという︒

 ㈹ 両立脱︵OO﹁500け一σ一一一〇3︶

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(25)

   均土¢ように妃然と自由の御匙一3︐西洋甲信史上において極めて長きにわたr.て激しい謙争を蒼き起こしてきた

  問題であった︒勿論その理由の第一は問題の重要性に求められる︒というのは︑必然と自由の問題は︑世界認識と

  人間の意志︑更に社会問題の三者と密接に関わっていて︑いやしくもこれらを斉合的に論じようとすれば︑この問

  題は避けて通れぬからである︒もしこの三者を必然主義︵﹁必然性の理説﹂︶によって斉合的に説こうとすれば︑人

  間の自由︑意志の自由はどうなるのか︒また﹁自由の理説﹂によって説くならば︑社会における刑罰の存在理由は

  怪しくなりはしないだろうか︒このような問題の重要性が︑多くの思想家をこの問題をめぐる論争に巻き込んだの

  である︒

   ヒュームはこうしたことを十分認識した上で︑しかし必然と自由の問題がこれ程長い間論争されてきたにも拘ら

研 使われる﹁用語の意味が論争者達の間で合意﹂されていて︑﹁推論に使用される用語に正確な定義﹂が与えられてい 究       ︵43︶ 一 ず意見の一致を見ることがなかった背景に︑﹁言葉の問題﹂があったことを認める︒即ち︑この問題をめぐる論争に→ 酵 たならば︑更に付け加えるなら︑論争の対象をわれわれの能力と経験の及ぶ範囲に限定していたならば︑かくも長 の

鰍きにわたって激しい論争が続きしかも意見の一致を見ないなどということはあり得なかった筈だ︑とヒュームはい

験 うのである︒しかしヒュームが必然と自由の問題を言葉の問題といえたのも︑既に必然性あるいは必然的結合の五

幼 題をその経験論的因果論の中で既に解決していたからであって︑このことは﹃人性論﹄第二篇第三部第一部第二節

r の書き直しである﹃人間知性研究﹄の第八章﹁自由と必然について﹂︵︐︑Oh団げ毒悪9&Z①oΦ器津鴇︑︶が︑同第七章

  ﹁必然的結合の観念について﹂︵︑︑○︷夢︒冠①ooh昌①ooωω9︒蔓08Φ×鉱8︑︑Vの次にきていることからも明らかである︒

 魑そしてヒュームの結論を先に示せば︑﹁すべての人々が必然性と自由との両者に関する学説において︑これらの用語

27

(26)

       ︵44︶に附与されうる適正な意味に従うならば︑・常に一致していた﹂︑﹁自由と必然性の問題に関して︑それらを調和させ      ︵45︶ようとする⁝⁝試みを続けるならば︑人類のすべてが︑常に必然性の理説と同様に︑自由の理説に同意してきた﹂

ことになる︒要するにヒュームの結論は一種の両立説︵8ヨ09︒ユげ岳ωヨ︶なのである︒ではヒュームは如何なる理由

でどのようにしてこの結論に達したのか︑またそれが持つ現実的意味はどこにあるのか︒

 上述したように︑必然性あるいは必然性結合の問題は︑ヒュームの因果論の中で既に解決されていた︒ヒューム

の因果論は︑キリスト教神学の因果論と近代合理主義の因果論を共に批判し︑ロックに始まりバークリによって受

け継がれた経験主義の因果論を発展させたものである︒ヒュームがキリスト教神学の因果論︑近代合理主義の因果

論を批判したのは︑両者に人間の経験や知性あるいは科学の限界を超える必然主義が説かれているからであった︒

経験主義は人間の経験や知性の限界︑科学の限界を認識することから出発する︒ロックがそうでありバークリもそ

うだった︒しかし彼等の因果論︑特に必然性に関する議論は︑経験主義の要請するものでは必ずしもなかった︒経

験主義の要請する因果論︑必然性の概念を明らかにした者こそヒュームであった︒その意味でヒュームの因果論こ

そ経験論的因果論と呼ぶに相応しい︒そこでは必然性は︑ω恒常的連接︵oo諺富暑oo且二つ︒口︒巳あるいは恒常的接

合︵08の冨昌け二三8︶と︑㈹心的限定︵α卑①§貯鋤菖︒づ︒川島①旨幽⇒α︶あるいは心の推論︵ぎh霞Φづ︒Φo︷昏Φ§冒q︶︑

の二つをその内容とするものであった︒ヒュームが両立説に達し得たのは︑必然性をこのように限定していたから

だったのである︒

 キリスト教神学における自由意志論に関するヒュームの議論は極めて鋭い︒ヒュームによればキリスト教神学に

おいては次のように考えられている︒﹁宇宙にはどこにも偶然性はなく︑無差別はなく︑自由はない︒我々が作用す

28

(27)

D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十)

る間︑同時に︑我々は作用を受けているのである︒我々のあらゆる意志作用の究極の創始者は︑世界の﹇創造主﹈

である︒そして彼が先ず初めに︑この測り知れぬほど巨大な機械に運動を与え︑あらゆる存在をそれぞれの特定の

位置に配する︒すべての続いて起こる出来事は︑そこから不可避的な必然性によって生じなければならないのであ

る︒⁝⁝彼︵創造主︶は︑我々が極めて軽率に罪ありと宣告するような人間のあらゆる行動を︑予見し︑定め︑意     ︵46︶回したのである︒﹂このようにキリスト教神学においては︑人間の経験や知性を超えた人間︑人間社会を含む世界が

語られている︒しかも神とそうした世界との関係が一義的に︑即ち必然主義的因果関係として説かれているのであ

る︒しかしその結果︑次のごとき深刻な問題に直面することになる︒即ち︑﹁人間の行動は︑⁝⁝全然背徳的であり

えないか︑もしも背徳的であるとすれば︑我々の﹇創造主﹈が︑それらの究極の原因であり︑創始者であると認め      ︵47∀られる限り︑それらは彼を同じ罪に巻き込まねばならなくなるのである︒﹂これに関するヒュームの議論は後に述べ

ることにする︒

 ヒュームが︑デカルト︑スピノザ︑ライプニッツなど近代合理主義者達の自由意志論に懐疑的・批判的だったの

は想像に難くない︒近代合理主義者達が︑一方で数学的意味での必然主義を世界に認めながら︑他方では︑人間の

意志に判断の自由を保証したり︑モナドやコナトゥスなどに自由に働く場を与えるといった議論は︑ヒュームにと

っては論理のまやかしと映っただろう︒しかしヒュームは︑彼等の具体的な自由意志論を取り挙げて批判してはい

ない︒その実体論批判︑合理主義的因果論批判で既に十分だと思ったからであろう︒そこでわれわれも直ちにヒュ

ームの議論に入ることにしよう︒

 さて上述したように︑ヒュームの因果論において必然主義は︑ω恒常的連接と㈲心的限定︑の二つをその内容と

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(28)

するものである︒ヒュームはこのような内容を持つ必然主義を自然界あるいは物質界における諸現象間の考察を通

じて得たのであった︒そこでヒュームは次に︑このような内容を持つ必然主義が精神界あるいは人間界の諸事二間

にも見られるかどうかを検討する︵もっともこれに関する一部は︑ヒュームの道徳哲学方法論︑特に歴史的方法を

扱ったところで既に述べて転縫・・人間知性研究﹄の第八章・自由と必然について﹂は︑ヒュ去の歴史的方法が展

開されているところでもあった︒︶

 先ず第一の恒常的連接はどうであろうか︒ヒュームは人間の行為が︑動機︑性格︑環境と恒常的連接を有してい

ることを様々な例を挙げて証明しているが︑ここではできるだけ簡略に述べる︒確かに︑人間の行為ほど気紛れな

ものはないし︑人間の欲望ほど非恒常的なものはない︒だが︑われわれが自然界を検討した時と同じように︑観察

者として人間の諸行為を考察するならば︑やはり︑人間の行為と動機や性格や環境などとの聞に恒常的連接を認め

ざるを得ないのである︒

 同じ事象は同じ原因から起こるから︑同じ動機は同じ行為を生む︑とヒュームはいう︒野心︑貧欲︑自愛︑虚栄

心︑友情︑寛仁︑公共心といった情念を見てみよう︒そうすると︑これらの情念が︑色々な度合いで混合し社会に

配分されてはいるものの︑歴史の初めから現在まで︑人類にこれまで観察されてきたすべての行為の源泉であるこ

とが知られる︒古代ギリシア人やローマ人の感情や性向を知りたければ︑今のフランス人やイギリス人の気性や行

為を研究すればよいのである︒後者の観察の多くを前者に移しても大過ないであろう︒もしある旅行者が︑プラト

ンの﹃国家﹄に描かれている人物と正確に同じな人物がいるとか︑ホッブズの﹃リヴァイアサン﹄に出てくる人物

と正確に同じな人物を知っているというなら︑われわれはその旅行者を信じないであろう︒これは︑遠い国から戻

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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(十)

ってきた旅行者が︑北緯五十度のある地域では︑冬にすべての作物は実のり夏に枯れる︑それはイングランドにお       ︵49︶いて夏に実のり冬に枯れるのと丁度逆だというのを︑われわれが信じないのと同じである︒このように斉一性は自

然界と同じく精神界にも見られるのであって︑この斉一性が必然性の本性だと︑ヒュームはいう︒またヒュームは︑

人類を性︑年齢︑政治組織︑社会的地位︑教育方法のどの方法に依って調べても自然界に見られるごとき斉⁝性を

認めることができると言っている︒

 次に心的限定・心の推論はどうであろうか︒これは︑われわれが過去の経験から将来の事を推理するのは何故か

という問題である︒      ︵50︶ ここでヒュームは精神的確証︵ヨ︒目巴①︿置①コ8︶という言葉を使っている︒それは︑人間の行為に関してその動

機や気性や情況の考察から得られた推断である︒例えばわれわれは紙上に記された文字や数字を見ると︑それらを

記した人物がシーザーの死︑アウグストゥスの成功︑ネロの残忍のような事実を肯定しようとしたのだと推論する︒

そして他にも多くのこれと一致する証拠を見出し︑上記の事実はかつて存在した⁝⁝等々と推断するのである︒わ

れわれはこれと同じような推断を社会においても行なう︒どんな社会でも︑人間は極めて大きな相互依存関係の中

で生きている︒それ故︑人間は自ら行為するにあたって︑他人の行為や意図を考慮せざるを得なくなる︒精神的確

証の力を働かす訳である︒例えば︑非常に貧しい商入も︑自分の作った商品を市場に持って行き︑それらを適当な

値段で売れば買手は見つかるだろうし︑また手にしたお金で生活に必要なB用品をくれるように他人と契約できる

だろうと期待するのである︒人々が取引を拡げ︑他の人々との交際を複雑にするにつれて︑人々は常に適当な動機

から彼等自身の行為に協力してくれることを期待する様々な意志的行動を︑彼等の生活設計の中に含み入れている

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