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経済学の知識論のためのノート(2) : プラクマティズムの知識論と経済学

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経済学の知識論のためのノート(2)

   一プラグマティズムの知識論と経済学一

佐  伯  啓  思

1懐疑と信念

 現代の社会科学が一種の混迷に陥っていることはほとんど誰の目にも明らか であろう。明らかでないのはその原因であり,それがどの程度この科学の本質 に関わるか,である。にもかかわらず多くの社会科学者にとってはこの原因は むしろ明瞭に見えるのかも知れない。多くの経済学者は,経済学の低滞の原因 を,過度な抽象化による現実接近能力の喪失という点に奮い出す。そこで抽象 の軸へ傾きすぎた指針を,事実の軸へ旋廻すればよい。かくして,経済学は, 現在,数理的路線の高速運転からレーン・チェンジして,ファクチュアリズム 路線の安全運転にギアを入れ換えつつあるようだ。こうした考え方からすれば 混迷は何ら本質的な:ものではない。真の認識はいずれ多かれ少なかれ「抽象」 と「事実」の間にあるのだが,この両者の中聞領域はまた,一種の知性の間隙 であって純粋理論も単なる事実の集積も今のところこの間隙を埋め合わせるほ ど豊かではない。しかし混迷はただJ学知が一時的にこの間隙に嵌ってしまっ たためのもので,理論がこの中間地帯を適切に表現する形式を見い出せば,や がて解消するであろう。混迷はただ過度的な実験的段階にすぎないと言うので ある。だから混迷は実際に,沈黙をではなく際限ない饒舌をもたらすのであ るQ  しかし本当にそうであろうか。楽天的な信条の基礎には,社会科学を近代科 学一般の方法的基礎の上に位置づける限り,その認識論的土台は安泰だろうと いう無責任な思い込みがある。しかし少しふり返ってみればわかるように,理

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 20 彦根論叢 第218号 論が依って立つ「事実」とは何か,という最も初歩に属する疑問に答えること さえ容易ではない。科学と認識論の両義的世界を交差して思索を続ける哲学者 たちでさえも正面からこの問題を扱うことを避けているのではないか,とも思 われる。  しかし,少くとも近代科学の夜明けの時をつげる近代の認識論が,知識の根 拠に関する常識的な信条を疑う点から始めたことはやはり明記しておくべきだ ろう。  懐疑は,一方でデカルトに代表されるごとく,われわれの日常的知識・源泉 たる感覚的知覚に向けられると同時に,他方ではベーコンに代表されるごと く,アリストテレス主義を戴く既成の学的権威の帝国にも向けられる。一方で は,身体に発する感覚的認識の道が拒否され,他方では既成の知識を前提とす る,理性に発する論理的推論の道が拒否されるのであるが,まさにこの対立が 近代の科学的知識の方向を特徴づけたのである。  この対立が意味するところは,果たして「知る」ということは様々な仕方で 可能なのかという問いと結びついている。ここで言うのは,後に,ヴィトゲン シュタインや論理実証主義者がたてた区別,すなわち,事実に関する知識であ る「総合命題」と観念上の規則から導かれるにすぎない「分析命題」の間の区 別のことではない。むしろ問題は,逆に,こうした異った「認識の道」を通っ て別々にやってきた知識が,究極的に同一の実在を表わすことはありうるの か,という問いである。問題は,数学や論理学と,事実の海を泳ぎまわる個別 科学の間の区別にあるのではなく,一つの個捌学の知識が数学や論理学と重な り,入り乱れているような学童に関連している。自然科学の場合には,実験的 検証という最終的手段が未だその信用を失墜していない。しかし,その手続き から見離されつつある社会科学の場合には,論理(モデル)の側と事実の側の 両側面から来る認識の合一点ということが問題となるのである。  知識の基礎づけという視野で見た場合,近代の哲学者たちは,このような問 いを,既成の学問権威や教会の教義というドクサに対抗する懐疑によって開始

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       経済学の知識論のためのノート ②  21 しただけでなく,本質的に形而上学的である存在論の否定から始めたのであっ た。事物の隠れた存在の本質というギリシャ的観念は,観想とか直観といった 非経験的であると同時に非理性的な方法と繕り合わされているがゆえに,近代 精神にとっては直接受け入れられるものではなかった。 「観想」や「啓示」を 究極の認識態度におくギリシャ的,中世的知識の体系にとって,確かにベーコ ンが攻撃したごとく,論理は本来,発見的なものではなく,既成の知識の権威 を強化するだけのものにすぎない。しかし,それでは近代の精神は,これに代 わるいかなる知識の根拠を見い出したのだろうか。この点で「懐疑」は奇妙な 役割を果すことになる。懐疑論は経験に適用された場合,知識の一般的形態は 経験の中に何ら究極的な根拠を恥い出し得ないというところまでいかざるを得 ない。同時にまた理性に適用された場合にも,理性の予断やアプリオリを排除 する手だてはない。こうしてヒュームもデカルトも追い込んでゆけぼ,奇妙に 共通した根が見えてくるようだ。結局のところ知識とは「信ずる」あるいは 「信じることが出来る」というのである。デカルトは精神にとっての明証が, ヒュームはそれ自体自然に属する人間の情念が起動する信念が,知識の根拠だ と言わざるを得ない。「懐疑」という出発点は,「信念」という結論で一応の 役割りを終えることになる。  しかし,知識の基礎を「信念」に求めることは,また新たな問題を提起する ことになる。形而上学的存在観もまた理性を監督する「神の恩寵」も拒否した 上でなおかつ, 「白紙」の精神に対し信念は一体どのように作用するのだろう か。合理論も経験論も,最終的には明証なあるいは自然な判断,つまり広い意 味で「直観」に訴えざるを得ない。ところが「直観」は「懐疑」から出発した 事態を強引に反転してしまう。というのは,直観は,帰納の問題  つまり事 物がいかにして「白紙」の精神の上に知識を焼きつけるかという問題一を, 問題の所在自体を強引に飛び越えることによって片付けてしまうのだが,同時 にそれは,代価として,まぎれもない主体というあの困難な概念を再び場面の 中央へ呼び戻すことになるからだ。認識の主体と,それから切り離された事物 の客体という構図が,この場面の構造となり,この構造が意味するのは,事物

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 22 彦根論叢 第218号 とは主体から独立した所与の空間一時間の中に一定の位置を占め,相互に力学 的に関係づけられた秩序であるという理解に他ならない。デカルト的な機械論 的自然観は,この秩序を「法則」と呼び習わすことによって古典力学の基礎哲 学たり得,デカルト及びニュートンという両巨星は,その敵対にもかかわら ず,まさにこの点で,近代世界観の共同製作者なのである。  このように見れば,近代の合理論や経験論といえども,隠された前提たる一 種の形而上学を完全に排除し得るものではなさそうである。それは神学的権威 に染め上げられた中世形而上学を否定はしたものの,主体と近代的自然観(物 理的世界の見方)に関する劉の形而上学をこれに代替しただけであると言って も過言ではなさそうだ。しかし近代の哲学精神が「懐疑」でもって形而上学的 思弁のいっさいを拒否する方向へ踏み出した以上,この「懐疑」を押し留める わけにはいかない。少くとも経験論の文脈に乗る限り,r帰納の問題」は決し て解決されたわけではない。とは言え,これ以上の「懐疑」はもはや不可知論 へ導くだけであろうという予感が働くのも事実である。まさにプラグマティズ ムとは,この不可知論が産み出した鬼子に他ならないのである。 III プラグマティズムの知識論  デューイは,古典経験論と合理論の底に依然として流れるギリシャ的な知識 観の否定から始めるべきことをくり返し主張する。古典哲学は,経験的事項に ついての真理の確実な基礎を与える「絶対的実在」を想定しており,従って古 典哲学の目的は「超越的で絶対的で内的な実在の存在を証明し,同時に,この         究極的で高遠な実在の本性や特徴を人間に示す」点にある。プラトンに端を発 する観念論哲学とは,この絶対的な観念性と合理性を有する「究極的実在」を めぐる議論に他ならなかった。一方,古典経験論も,確かにベーコンの本来の アイデアがそうであるように経験的知識を社会的適用の脈絡でテストするとい う意図を孕んではいたものの,感覚知覚を通ずる外界の客観的な認識という点 では,主体から離れた外界(客体)という形而上学的仮定を受け入れていた, 1)デューイ『哲学の改造』(清水幾太郎,清水礼子訳,岩波文庫,昭43)p.27。

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       経済学の知識論のためのノート ②  23 とされる。その結果,経験論は「そのままでは混沌である経験を純粋概念によ        う って支えようというカントの試み」に道を譲ることになり,絶対的な理性の洗 礼を受けることになる。こうして,デューイ自身は経験論の文脈に立つもの の,事物そのものの世界を想定する「伝統的経験論」とプラグマティズムの 「実験的経験論」を区別するのである。  こうしてプラグマティズムは,知識の判定基準としての経験の重視,「隠さ れた真理」や事物の本質といった形而上学の否定,学知と進歩の観念の結合, 方法の理念の位置といった点では明らかに実証主義精神の産物にちがいないの だが,同時にまたそれは,実証主義を徹底することが何を帰結するかをも示し ているQ  プラグマティズムは,通常,知識を口疾生活の有用性という次元に従属させ るものだと解される。勿論その理解が決して誤っているわけではないのだが, その本来の出発点をもう少し木目細かく見ておく必要があろう。一方で論理的 推論は単なる「説得の方法」にすぎず,「発見の方法」たり得ず,他方で感覚 的経験はそのままでは知識とはならない。経験論の中でヒュームが辿り着いた 「自然」の概念に含まれる統一性,画一性,秩序といった観念は,それがなけ れば,そもそも法則定立的科学が経験論を依り所に出来ないのであるが,この 自然的「実在」という考え方そのものが実は人間の精神の産物なのである。そ れゆえ自然的な実在を信じることは科学にとって正しい態度ではない,とデュ ーイは言う。  「人々は自分の精神の作品を眺めながら,自然の中の実在を見ているつもり になっていた。人々は,自分で作った偶像を学問の名において崇めていた。謂        おうゆる学問も哲学も,自然に関するこうした「予断」から成り立っていた。」  このような「予断」の結果が,主体一客体という認識論的な構図であり,こ の構図に哲学的な基盤を与えようとしたデカルトの明瞭な自己意識という観念 そのものが,経験的に見ても自明とは考えがたいのである。プラグマティズム 2) 同上,P.89。 3)同上,p.37。

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 24 彦根論叢 第218号 のたてた問題とは,伝統哲学の背後にある潜在的観念のいわば特権的な超越性 を攻撃し,主体一客体の二分的構図の彼方にある世界をいかにして取り戻すか ということであった。それが,主体一客体,理論一実践,普遍一個別,自然一 人為といった科学的認識の世界を限定する枠を敢えて無視し,その一歩手前に ある日常的経験の世界から出発したのはまさに,この二項対立の背後へまわり 込もうとしたからであった。だから,プラグマティズムは,「経験」に執着す るために,「人為的な無能な理性」から出発する合理論だけでなく,「貧しい 片輪な経験」から出発する素朴な経験論をも批判する。それはまた,日常的経 験を中心に置くことによって,超越的観念や経験的に検証されない命題をドグ マとして排斥するのである。こうして,「懐疑」は日常的経験にようやく安息 の地を思い出したかのように見える。日常的経験の世界とは,本来,主体一客 体,認識 実践の明確な分離が,つまり反省的意識化一懐疑そのもの一が 生じていない世界だからである。  こうして「経験」の意味は,デューイではロックやヒュームとは随分ちがっ てくる。古典経験論における経験が感覚的印象への通路であり受動的であるの に対し,デューイはそれが,人間が日々働きかけている過程だという。「経験 は経験される事物とともに経験する過程を含む……その根源的統合においては 行為と材料と,主体と客体との区別なく,双方の要素を未分析のまま総体の中    のに認める。」  デューイはこの「経験」を,科学的命題や哲学が反省的に捉えた経験(第二 次経験)と区別して「第一次経験」と呼ぶが,この経験を特徴づける「総体の ままで」と言うのは,言い換えれば,「一つの文脈のもつ全体」あるいは「状 況」と言われるものである。  「われわれは,決して対象や事物をバラバラに経験したり判断したりしない で,ただ文脈的な全体の中でのみそうする。この文脈的全体が「状況」(situa一       ら  tion)と呼ばれるものである。」 4) デューイ『経験と自然』 (帆足理一郎訳,春秋社,昭34)p.12。 5) 工Deweジ‘Logic;the Theory of Inquiry”(Henry Holt and Company 1939)P.66,

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       経済学の知識論のためのノート ②  25  ちょうど言語が「統辞論」 「意味論」の他に現実的使用の表層で「実用論」  (pragmatics)を持つというチャールズ・モリスの見解と同様に,個々の活動 は,その活動の意味を問題とし,(意味論),その活動の従う範型を問題とする’  (統辞論)以前に,一つの「状況1の中に置かれ,状況の文脈の中で生ぎてい る。確かに「状況」の観念は,われわれの日常の生活行動が常にその中に置か れているというだけでなく,一層哲学的な意味を含めて理解してもよい。この 観念を哲学的に膨らませば,世界とはつまるところ,絶え聞ない変化,つまり 生成と消滅の重なり合いであり,完全なものに向かう目的的過程ではなく不完 全なものの変転きわまりない運動の連続体,つまりホワイトヘッドのいう「過 程」と似た観念へ行き着くことも可能であろう。その結果, 「実在」とはそれ 自体で己れの完全性を主張し得る普遍的存在ではなく,まさに不完全なものの 流転する「過程」そのものだと言ってよい。同時に,「実在」の認識は,「観 想」から「操作」へ, 「理性」から「実験」へと変化することになる。  しかしまた同時に,認識がまさに「状況」の中でのみ発酵するという根本命 題(pons asinorum)のゆえに,プラグマティズムは事実上,その母体である 実証主義精神をほとんど崩壊の際にまで追いやる。それはこういうことであ る。実証主義が中世的思弁や高慢な形而上学の独善を批判して事実に直訴した 時には,そもそも事実の鏡に照らして人間精神に巣食う先入見や偏見から自由 になりうるという啓蒙主義的な確信が流れていたはずである。しかし,認識を 「状況」に従属させるプラグマティズムではこのような確信はもはや単純には 妥当しない。それはロック流の「白紙の精神」,ハロッドのいう「ホモ・イグ ノランス」を一旦拒否したところがら出発しているからである。そこではいか なる認識も不完全であり,移ろいゆくものであり状況依存的だと想定されてい ることになる。たとえ合理論者のように感覚印象を否定し,経験論者のように 先天的観念を否定してもやはり次の事実は残る。ジェームズに従えばこうであ る。  「事物についてのわれわれの根本的な考え方は,遠い遠い昔の祖先が発見し たものであって,その後のあらゆる時代の経験を通じて保存されることのでき

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 26 彦根論叢第218号 たものである。この考え方は人間精神の発展における均衡の一大段階を,すな       の わち常識の段階を形づくっている。」  常識つまり慣習的知識から始める以外にないと言うのである。例えば,一さ いの先入見から逃れ出る超越的な理性はデカルトやカントがそうであるよう に,事物を配置する「絶対的空間」や「絶対的時間」を想定する。しかし「常 識」からすればわれわれは一様に流れる客観的時間も,一様で不変の客観的空 間も身近かに想像することさえ出来ない。だから理性の考案した概念が真の実 在に関するものか否かを議論しても究極のところ無意味である。なぜなら,そ れらの概念とは,実は,絶対不変に存在する何かを表示するのではなく,ただ 理性が慣習的に採用してきた認識の方式を指し示すにすぎないからである。  「事物とはただ,われわれの感覚の回るものが習慣的に継起したり共存した りするその結合の規則ないし法則を示す名前にほかならな:いと解釈されてく アラ る。」  知識はこうして誤りを含みうる「状況」の産物なのであるから,新しい経験 とは「過去に含まれていない何かを過去に接ぎ足すこと」であって,知識を修 正するものである。プラグマティズムは,確かに,形而上学的思弁の拒否とい う点で実証主義の正統な後継候補なのだが,奇妙なことにそれは,事実上,形 而上学どころか,宗教さえも許容せざるを得なくなる。ジェームズのよく知ら れた宗教擁護論は確かに印象的なものである。  「もし神学上の諸観念が具体的生命にとって価値を有することが事実におい て明らかであるならば,それらの観念は,そのかぎりにおいて善である。そし        8)てかかる意味で,プラグマティズムにとって真であるであろう。」  これはプラグマティズムの真理つまり知識の妥当性についてのおそらく象徴 的な立言である。プラグマティズムにおいては,「真理は有用である」という 命題と「有用なものは真理である」という命題は同じことを意味するのであ 6)ジェームズ『プラグマティズム』(桝田啓三郎訳,岩波文庫,昭32)pp.125−126。 7) ジェームズ,同上,P.137。 8) ジェームズ,同上,P.59。

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       経済学の知識論のためのノート (2) 27 る。そこで本質的に「状況」と不可分な知識の妥当性を,デューイは「探求」 という概念で言い表わした。  「探求(inquiry)とは,ある不確定な状況があって,その構成的特徴や関係 に関し,その不確定状況の諸要素を統一された全体に変えてしまうように,不        の確定状況を確定状況に転換する管理され方向づけられたやり方である。」  結局,プラグマティズムの知識論は次のように整理されよう。知識とは現実 の生活の中で発生する問題を解決すべく使用される一群の手段(仮説)であ る。つまり問題解決のための仮説命題を管理する「統制的方法」なのである。 ここでは認識の対象(事実)はあらかじめ所与なのではない。それは状況の中 に置かれた「主体」によって作り出される。それゆえ,主体は常に状況に対し r投企的」(projective)なのであり,知識は常に「予測」(expectation)を意味 している。デュー一一イは,このような型の知識の態様を,「理性」(reason)とは 区別して,「知性」(inteliigence)と呼んだのであったQ  さて,以上のようなプラグマティズムの知識論を実証主義的伝統の文脈に置 いて眺めた場合,その基本的な意味は次のように理解してよかろう。実証主義 の文脈の中では,事物の背後に隠された本質としての真理という観念は何の 信用も裏書き出来ない。ところが,この意味での「真理」の観念が破産したと すれば,知識の意義は何によって判定されるのか。最終的に「信じること」 一直観や信念一に基盤を求めた近代哲学を拒否した上で,プラグマティズ ムは,知識の意義を徹底して社会的に公共世界の検討の中に見い出そうとす る。知識の「公共化」つまり公共的に承認されたテスト基準だけが妥当性を与 えるのであり,そこではテストの方式つまり「管理された実験」が決定的な役 割を引き受ける。  「科学における知識発展の問題はr何をなすべきか』いかなる実験をなすべ きか,いかなる装置を考案すべきか,いかなる計算に従事すべきか,いかなる 数学上の部門を駆使し完成すべきか,という問題であるのと同様に,実践の問 g) J. Dewey “Logic; the Theory of lnquiry” p. 104.

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 28  彦根論叢 第218号 題は,何を我々はr知る』必要があるか,いかなる方法で我々はその知識を獲        ユの 得するか,いかにしてその知識を応用するか,ということにある。」  かくて実証主義に即して言えば,古典的真理に対するデューイのいう「方法 の優i位」は決定的である。 「方法」という局面が決定的役割を果すのは「結果 の予測」とそれを検証するための「管理された観察」においてである。物理学 的方法つまり「実験的経験の方法」が中心に据えられるのはまさにこのプロセ スでありこれは知識を「公共化」する手続きに他ならない。  知識を公共世界に留め置き管理しようとする発想は,もともと科学理論と実 在との関係に関するパースの考察から導かれたものである。プラグマティズム がそもそも,ジェームズによるパース理論の少々強引な解釈によって産み落と され,パース自身の立場は彼によってプラグマティシズムと再命名されたこと はよく知られている。しかし,プラグマティズムの科学命題についての考え方 はパースの次の命題から受けつがれたものと言ってよかろう。  「われわれの観念の対象が,どのような実際的結:果と思われる効果をもたら すかを考えてみよう。そうすれば,これの効果についての観念が,その対象に       ヱり ついての観念のすべてである。」  ここからパースは「条件付予測法」を引き出すと共に,予測の検証によって 理論を実在に対応づける。だがまさにこの点でパースはデューイと異ってい る。デューイにとって実在と理論の「対応」ということは問題とならない。理 論そのものが現実の一断片だからである。しかしパースは実在論に固執する。 知識が最終的に管理された検証で存在の様式に帰着される点ではそれはプラグ マティズムと歩調を合わせるのだが,パースはそこで知識のこのような存在様 式を改めて「実在」と同一視するのである。これを逆から読めば「実在とは記 号である」という有名な命題に他ならない。 IO) デューイ「確実性の探究』(植田清次訳,春秋社,昭25)p.38。 1!) C. Hartshorne, P, Weiss ed. “Collected Papers of Charles Sanders Peirce” (The  Belknap Press of Harvard University Press!965)Vo1. V. p,258.以下のパースか  らの引:文は同書からのものである。

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      経済学の知識論のためのノート ②  29  従って,パースにとっての検証とは,背後にある形而上学的存在論を立証す る手段であると言っても過言ではなさそうだ。それゆえ「管理された検証」を 論じつつ同時にパースは,知識の「真理」ということを議論できるのである。 だからパースの知識論はいわば二重構造を持っており,「公共世界」における 「記号」という事物の表現形式は,実は公共世界の背後に控える実在の世界に 存在の確たる根を張っているのである。  デューイの実験主義によると,知識の「公共化」手続きは,それぞれが置か れた状況における「問題解法型思考」に基いている。検証される理論は「仮 説」と呼ばれるが,これは世界観を表わすのではなく,単に問題解決の便宜的 方法にすぎない。一般的には科学上の仮説ぱいずれとも解釈できよう。例えば 万有引力は世界の力学的原理でもあるし,また物体を飛行可能とする「手段」 としても使える。同様に,市場経済のワルラスモデルは現代経済社会の祖型で もあるし,また自由主義政策の帰結を予測する手段でもある。実験主義は明ら かに後者の型を選択するのだが,このことが意味しているのは,理論はただ操 作的に定義され人為的に産み出された便宜上の観念(シンボル)にすぎない, というだけではなく,まさに事実そのものが操作的だということなのである。 人為的記号が現実の状況に作用する点で有意味とされているのだから,状況に おける「事実」とは,操作的観察にとっての「原因」ではなく「結果」なので ある。デューイ自身がくり返し強調するように,ここにアインシュタインの相 対性原理とハイゼンベルグの不確定性原理の影響を読み取ることは容易であ る。観察者が同時に行為者である限り,事実とは観察者の位置によって異なる だけでなく,観察の結果が事実を変化することもある。  「不確定性の要素は,観察的方法の不備には関係がなくて,本質的である。 観察せられた粒子は固定せられた位置もしくは速度を事実上もたない。なぜな ら,その粒子は終始,相互交渉のために,特にこの場合,観察活動という行動        12) との相互交渉のために,……変化しているからである。」  プラグマティズムの「探求」とはこのようなものである。だからプラグマテ !2) デューイ『確実性の探求』 (同上)p.209。

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 30 彦根論叢第218号 イズム的認識は,状況の吊り皮にぶら下って絶えず揺れ動くことになる。状況 の後を追ってもならないしまた先に立つことも出来ない。ハロッドがプラグマ ティズムを評して「帰納の問題」を放棄した敗北主義だと酷評したのはおそら く少々言いすぎであろう。プラグマティズムにとっては帰納も演繹もたてよう がないからである。日常的経験の表層で生きようとすれば,事実から「帰納」 する必要もなければ観念から「演繹」する必要もない。では一体観念はどこか ら出てくるのか。プラグマティズムの立場からすれば,ケプラーの法則にし ろ,相対性理論にしろ,意味解釈を現実的効果に合わせることは出来てもそれ らの観念の背景は説明し得ない。 r理論を産み出す潜在的観念」などというも のには注目の益田がないのである。  ところでパースが「アブダクション」と表現して注目した,帰納,演繹とは 別個の第三の立場は,まさに「公共世界」の背後にある,様々な観念を産む力 を指し示す工夫ではなかったろうか。それは後にホワイトヘッドが,事実の潜 在的な認識を指して「抱握」(prehension)と呼んだものともずい分近いと思 われる。  要するに知識論としてのプラグマティズムの特質は,「諸観念の潜在的な力」 (ホワイトヘッド)が張る一種の明示されない「宇宙論(コスモロジー)」を いっさい否定しようとする点にあると思われる。その結果,プラグマティズム の扱う「事象」は,事象が現実の文脈の中で具有する直接の意味と,現実の彼 方にある観念的客体性一ホワイトヘッドの「永遠的客体」一を結合するこ とが出来ない。事物はあくまで,道具的使用という限定された意味でのプラク シスの中で息づく「モノ」にすぎず,永遠の相へつながる「観念」を変移の過 程にある質料的契機のうちに担うという二元的な結合体とは見なされない。つ まりそれは,パースやホワイトヘッドとは異なり,事物を「記号」とは見ない のである。  こうして実証主義の文脈で解釈されたプラグマティズムは事実(出来事)の 無限の推移にのみ知識の源泉を求めるという独自の存在観世界観へ縛りつけ られることになる。しかしまた,まさにこの点で実証主義は一一つの矛盾を抱え

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       経済学の知識論のためのノート (2) 31 込むことになる。道具主義の立場からすれば,知識の妥当性は,知識の道具的 使用による将来の予測(期待)によって測定されるが,これは同時に状況の意 図的な改変を含んでいるので,ここに知識の功利主義的観点が要請されること になる。しかし実証主義は,功利主義的枠組みを規制するような何の「目的」 の観念も提供しはしないのである。ベーコンなら「知は力なり」として社会進 歩を信じることは出来たろうが,現代の実証主義はもはや自意識的反省から容 易に逃れることは出来ない。その結果,用具主義的,実験主義的な真理の観念 はほとんどその本来の意味一観念と事物の対応という真理のアリストテレス 旧基準一を失なわざるを得ないのである。「真理」が後退し,「方法」が優 位となる実証主義の現代的文脈では,ホワイトヘヅドも言うように「われわれ はどのように知るか,という問いが,われわれは何を知るか,という問いに優i       ユき  寓するのである。」  この「方法の優位」した局面ではもはや,古典経験論の「ホモ・イグノラン ス」は問題とならない。ドクサという言いまわしを使えば,状況が担う歴史 的,社会的,伝承的意味のすべてが知識の内に含まれ,その限りでプラグマテ ィズムの真理はドクサに包み込まれている。事実を「公共世界」に限定するこ とは,事物の宇宙論的な背後関係を隠匿することによってドクサを雲の裏側に 隠すにすぎないのである。  真理を問題解決の有効性に解消してしまうことによって,実証主義はその本 来の要請である「事実」の正確な理解という出発点に対し自己矛盾をはらむと いう点は,いわば実証主義の必然のなりゆきだと思われる。プラグマティズム における「検証」の意味は,仮説の用具的有効性の検証であって,仮説の理論 的正しさ一事実との合致一ということではない。いやそのような「事実」 そのものがもはや存在しないのである。ではいっさいの知識は状況の中でただ よう浮雲のようなものでよいのか。このような知識を社会改良や技術進歩に使 用して何の意味があるのか。実証主義に対するこの苛酷な疑問に答えるにはわ れわれは「状況」の深底へ潜り込まねぽならない。ジェームズは,事実が状況  13)ホワイトヘッド『観念の冒険』(山本誠作,菱木政晴訳,松籟社,昭53)p.170。

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 32 彦根論叢 第218号 を超え出て顕わになるこの世界を「根本的経験論」(radical empiricism)と呼 んで論じた。  ジェームズは,デューイと同様,知識がすでに「客観的」に沈澱した事物を 写し取る次元,主観一客観の分離した次元そのものが,もはや構成され作られ た世界であるという認識から出発する。では主一客分離の以前には何があるの か。ここでジュームズが旧い出すものは,ヒュームのような自然的経験や慣習 の世界ではなく,デューイのような状況,日常的世界でもない。事物が通常の 認識関係つまり主体一客体に分離する以前の「根本質料」をジェームズは「純 粋経験」と呼ぶ。この概念を理解するのは相当困難な作業だと思われるが,プ ラグマティズムの知識論との関係ではさし当たり次の点に注意しておきたい。  「純粋経験」においては経験は「まだ事物と思想に分化しておらず,ただ潜          コの 在的にのみ客観的事実」にすぎない。このレベルでの経験は「感覚的性質のす べてをあらわす集合名詞でしかない」(p.34)のだが,それはロックやヒュー ムのような個々に分離した諸印象の集積ではなく,相互に「接続」された,つ まり意識の内で推移してゆくものである。こうした事象の意識内での連続性こ そが「直接的に経験される事象」に他ならず,従って「根本的経験論者である ということは,あらゆる接続的関係のなかでこの接続的関係を握って離さぬこ とを意味するのである。」(p・50)逆に超越的意識が作用するのは,いったん この接続的関係に「穴があき」,連続性が破れる時である。超越的意識は本来 連続的に推移する事象を分断し編成し直して「客体」とする。こうして経験は 分離され孤立化されることによって,その場その場の状況の中に当てはめられ 主体と客体に分裂する。ここで登場するのは「表象作用」である。つまり「私 たちは,経験が表象することを『主観的』と言い,経験が表象されることを r客観的』と言う。」(p.31)従って「客体的知識」とは決して純粋経験を表わ すものではなく,その表象された「代理」にすぎない。だから実証主義の文脈 14) ジェームズ『根本的経験論』(桝田啓三郎,加藤茂訳,白水社,昭53)p.69。なお,  以下のジェームズからの引用は,同訳書によりページ数のみを記す。

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       経済学の知識論のためのノート ②  33 でいう検証された概念的知識も,純粋経験の知覚とは本質的に異なっている。 概念的知識は,純粋経験の分裂によって生じた「認識論的深淵」を真に飛び越 すことは出来ないのである。概念的に知るとは,もはや「生き生きした仕方で 自分自身の連続性を経験する」(p.51)ことではなく,ただ純粋経験の推移を 機能的に代用する「思考の通路」でしかない。  では純粋経験のレヴェルにおける知覚とは何か。そこではわれわれは単に 「生きられるもの」にすぎないのではないか。純粋経験の持続的推移の中で は,しかしまさに「接続という特殊な経験が,どんな心像であれその心像に知 るという任務を与える」(p.55)とジェームズは言う。つまりわれわれは,意 識的に対象化する以前に,持続的推移の中で「志向性」を持っており,この志 向性が充足される場合には,超越論的な意識を持ち出さずとも「知る」と言う ことは可能なのである。 「推移過程が実感される場合にはどこでも,最初の経 験は最後の経験を知っている。」(p.56)つまり,「私たちは,終点の対象を『心 のなかに』最初からもっていたのだ,といってはばかりあるまい。」(p. 57)  知識とは, 「知ること」の「この潜在的な段階」の実際的な代用に他ならな い。形成途上に.ある素朴な直接性は常に後続する経験によってのみ回顧的に修 正されまた確認される。従って,この「素朴な直接性」こそ本物の知覚だとす る純粋経験の側から見れば,後続的経験によって修正された認識は「臆見」で あっても不思議ではない。「事実」とはかくして,「回顧的な仕方で私の知覚 内容として実感される」(p.114)ものに他ならない。言い換えれば意識された 事実とは純粋経験の推移が終点に達し(一旦うち切られ),具体的現実の中に. 停留した時に発生する。つまり意識することは特定の経験の文脈へ依りかかる ことである。だから純粋経験は,それが取り込まれる文脈に応じて観念で「代 理」されたり物的実在で「代理」されることになる。  では何故ジェームズは,現象に写された事象を「代理」と見なし,敢えてそ の背後を透視しようとしたのか。純粋経験を問題にすることは実証主義の中で 何を意味しているのか。まさにここで,知識論としてのプラグマティズムさえ も彼はすでに超え出ようとしているのではないか。というのは,彼はプラグマ

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 34 彦根論叢 第218号 ティズムが見失った「確実性」を再び探求しているように見えるからである。 デューイはプラグマティズムを,事物の内にある・r確実なもの」の探求に対比 して,「安全性の探求」と呼ぶ。「安全性の探求」とはそもそもわれわれが不確 定な世界に生きていることを意味し,そこにおける行為の自由とは予測の蓋然 性の向上に他ならない。しかしこれは同時に知識の普遍的な基礎を掘り崩し, 真理を空中分解させる。その結果残るのは「状況」だけであり,状況に対する 山下だけが万物の尺度となる。ジェームズの純粋経験は,この状況の背後へ, 日常的感覚や経験のさらに深部を透視しようとするものである。それは帰納と か演繹という問題ではない。むしろ,ベルグソソの「直観」やフッサールの 「事物そのもの」,「本質直観」あるいは生の哲学がいう「了解」に近い考えで あろう。これはもはや科学の問題ではないし,一般的に言えば言語的,記号的 認識の手の届かない問題である。記号の彼方を覗き込むことは記号には出来な い相談だからである。知識論という文脈で言えばパースは直観という形式に正 当な位置を与えるべく「アブダクション」という楓念でこれをかろうじて論理 化しようとし,ホワイトヘッドは「抱握」によってその所在を述べるのが精一 杯だったのではないか。  いずれにしろ純粋経験は,実証主義的な知識の帰結に対し暗黙の反意を表明 するかのように見える。それは経験を辿ってゆけばやがて突き当たらざるを得 ない究極の実在(「世界の根本質料」)をめぐっているのである。これは通常い うところの日常的経験を越えている。現象あるいは経験そのものが,いわば形 而上学的存在論の次元にまで抽象化されていると言うべきだろう。  ジェームズがパースのプラグマティズムの正当なる継承を怠ったという評価 は一応もっともだと思われる。彼は,プラグマティズムを科学方法論,論理学 の一つに限定する息苦しさに耐え得ず知識一般と現実生活の関連へと問題を解 放してしまった結果,それは本来の形而上学的関心から逸脱してゆく。しか し,それにもかかわらず,後年のジェームズは再び形而上学的実在論へと接近 することによって,計らずもパースのスコラ的実在論にあたかも回帰しようと

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       経済学の知識論のためのノート (2) 35 努力しているかのようにさえ見える。と言っても勿論純粋経験とパースのス コラ的実在論は全く異ったものなのであるが。  パースは,科学的知識の基礎づけを論理学研究という次元で行う。従って f論理学とは真理についての教説」なのだが,ここでいう真理とは,アリスト テレス的な先験的論理学のように命題の規則による真偽基準を指すのではな く,諸科学の成果を検証する現実に照合してのものである。この思想は一見し たところ,プラグマティズムの知識の「公共化」と同一であり,また後の論理 実証主義の先取りであるようにも見える。つまりパースの「プラグマティズム の確率」に従えば,科学的知識は結局,社会集団の内に伝習的に存続し共有さ れた一種の精神的財産ということになる。ポッパー流に言えば,反証されずに 残ったものが真理である。ところで,パースはまさしく上のような科学知識こ そが「実在」だと述べる点でプラグマティストと一線を画する。  「実在とは,遅かれ速かれ知識や理性が落ち着くところであり,それゆえ, 私やあなたの恣意とは独立のものである。」(V,p.186)  感覚的知覚やデカルト的直観を否定した時,認識は一体どこから来るのか。 論理的に言って,あらゆる認識はそれに先行する一層不鮮明な認識を前提して いるはずである。こうして論理をたぐれば,「完全に無意識」である「観念的 な最初の認識」に辿り着くはずである。この「最初の認識」は,それ自体で現 象する実在ではないのだが,それば精神によって掘り出され,公共世界で間接 的に確証される限りで実在的と呼ばれる。かくて,認識されたものが実在的な のである。だから認識と実在の関係には本質的な困難は何も存在しない。困難 は方法的なものであり実践上のものである。様々な社会的障害が取り払われ, 人間が孤立した独善から解放されるにつれこの困難は克服されるはずである。 「結局のところ,実在的なものとは,完全情報の理想状態の中で知られるに至 るもののことであり,それゆえ実在性は,共同社会の究極的な決定に依存して いるのである。」(V,p.189)  このようにパースの「実在」は認識の外にあらかじめ想定される「物自体」 ともまた,素朴経験論のような外部世界とも異なる。従ってそれは演繹は勿

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 36 彦根論叢 第218号 論,帰納によって捉足されうる種類のものではない。そこでパースは「アブダ クション」に助けを求めるのだが,感覚的知覚さえも実はアブダクションに基 く推測とされることになる。  こうして実在どは認識された対象であると同時に認識を可能とするそもそも の条件でもある。われわれは実在自体を表象的な何ものにも媒介されず透明に 把握することは出来ない。従って,パースは「直観」でさえもいわぽ潜在化さ れた論理を含んだ一種の「推測」だと言うのである。推測は実在を表示可能な 世界へと連れてくる。つまり実在は「記号」となる。  「われわれが外的事実の光を求めるなら,われわれに可能な唯一の思考は記 号による思考である。他のいかなる思考も外的事実によって証明される(evi− denced)ことはない。しかしわれわれはすでに,外的事実によってのみ思考は 知られることを見た。従って,認識される思考とは,ただ記号による思考だけ である。」(V,P.151)  こうしてパースの記号論は彼自身強調しているように,スコラ的実在論を証 明するためのものでもある。この実在論は確かに,先験性を拒否した上で経験 と公共世界の上に根を張る点では経験論の系譜に位置しているが,しかし,知 識を状況に対する有用性によって判断するプラグマティヅクな実証主i義とは明 らかに異っている。パースがたとえ,知識の意義を社会集団という具体的現実 的次元に引き渡したとしても,それは社会的有用基準をたてる道具主義を意味 するわけではない。むしろ知識は,状況がそれを通して,背後にある確固たる 実在世界に繋ぎ止められるべく媒介すると言った方がよかろう。かくしてパー スの出発点は論理学的,科学方法論的であるが,その意図はむしろ形而上学的 存在論の方へ向かっているとさえ見ることが出来るのではないか。  パースにしろジェームズにしろ,彼らが明らかにプラグマティズムの枠内に 留り得ないのは,その存在論的な関心,あるいは事物や経験の中に「確かなも の」を提えようとする性向のゆえである。この性向によって彼らは同時に実証 主義を事実上突き崩してしまう。パースは彼の「プラグマティシズム」が実証 主義から区別される点を,プラグマティシズムが,(1)哲学を純化する,(2)本能

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       経済学の知識論のためのノート (2) 37 的確信を承認する,(3)スコラ的実在論に立つ,という三点に要約しているがこ のうち最も重要なのは第三の論点であろう。ここでは,実証主i義とは異なり, 形而上学をもはや否定するすべはない。「プラグマティシストは,他の広義の 実証主義者(prope−positivists)のように形而上学をバカにしたりせず,……そ こから宇宙論や物理学に役立つエッセンスを引き出す。」(V,p.282)  一言で言えば,パースが自己をプラグマティズムから区別し,後年のジェー ムズが巡り来た論点とは,プラグマティズムの「方法の優位」から再び形而上 学的存在論へ回帰する方向ではなかったかと思われるのである。「安全性」か ら「確実性」への, 「方法」から「存在」への,「有用性」から「真理」への 回帰であるとすると言いすぎであろうか。しかし,ホワイトヘッドが強調する ように,西欧の思想史の大道は容易にはプラトンの呪縛の外へ出ることは出来 ないようである。 皿 プラグマティズムと経済学  近代経済学が己れの立場を明瞭にプラグマティズムと関連づけようと宣言し たことはほとんどない。しかしそれは知識の実際の使用において基本的にプラ グマティックな信条を共有していることは明らかだと思われる,とは言え,プ ラグマティズムを明示的な方法論として採用し得ないのはそれなりの理由はあ る。というのは,そもそも事実の中にのみ知識の根拠を求める厳格な実証主義 的方法に依拠する限り,本来実践的帰結は導かれようがないからである。勿 論,そうは言っても,たとえいかなる重症の理論的リゴリストであっても,社 会科学的事象そのものの複雑多岐な性格ゆえに,そこに事象の多様を統一する 法則的説明の完全さを要求することが原理的に不可能だという点は譲歩しなけ ればならないだろう。ウェーバーは周知のように,社会科学の場合とりわけ価 値と事実の峻別をことのほか強調したのであった。現代の経済学は,この新カ ント派的命題を素直に受け入れ,事実命題から規範命題を導出し得ない以上, 経済学からの提言はすべて,せいぜい条件的予測にすぎないと主張する。「あ る条件下で次のような政策を実行すれば以下のような結果が生ずる」というの

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 38 彦根論叢第218号 である。  しかし,事実命題と規範命題を一旦区別し,価値判断は社会的意思(政治的 合意など)によって所与であり経済学者の関知する所にあらず,としたところ で何ら問題の解決にはならない。その理由は,経済学の判断停止の無責任にあ るのではなく,価値判断と価値選択それ自体が社会的な事実だからである。そ れゆえに,経済学者も人間としての価値判断を留保すべきではないという一見 ラディカルな人道主義的提言にはさしたる重要性は認められないのであり,そ れどころか逆に,経済理論がいかに実証主i義を取り繕ってもそれは本質的に 価値的であると1t・うミュルダールの側にこそ言い分があると考えられるのであ る。  だから関心は,事実としての価値選択がいかなる形でなされているかという 議論の方へ向けられるべきであろう。理論と実践の分離というテーマは純粋な 方法論の見地からはともかく,実際セこはさして問題とはならない。この意味で は現代経済学の立場は,古典的な法則定立的科学を直接意図するものではな く,理論自身の中に実践的,道具主義的含意をすでに忍び込ませているのであ る。法則という観念を,ケネーやスミスの場合のように,究極的妥当性を与え る自然法に同化し得る統一的法則,事物の全運行を監督する合目的的動因とい った視点からではなく,例えばシュムペーターが主張したように,単に局所的 に観察される事物と事物の蓋然的関係と理解すれぽ,経済学が「法則定立的」 だという命題は何ら道具主義的見解に矛盾しないのである。現代の経済学がプ ラグマティズムと基本前提を同じくする原因の一つはこのような「法則」理解 の変遷に帰因する。  プラグマティズムの思想はまた,理論を政策効果の予測的手段に使用すると いう実践的姿勢にも強く現われている。勿論,自由主義的経済学者は,政策の 理念的根拠を知識のプラグマティックな使用に求める計画的理性の作用に反対 するために,経済学をプラグマティズムに引き渡すことを拒否する外観を示 す。例えばナイトは,プラグマティズムを理性的計画主義と同一視した上でこ れに異を唱える。確かにこれはプラグマティズムのある側面に対する反意の表

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       経済学の知識論のためのノート (2) 39 明である。しかし,別の側面ではナイト自身プラグマティズムの上に乗ってい るとも思われる。  ナイトは社会科学の特殊な位相を次のように論ずる。自然科学においては人 間一自然(対象)関係の図式が支配的であり,ここでは実証主義と,知識の道 具主義的,計画的使用を唱えるプラグマティズムが支配する。しかし社会科学 の領域にあっては,人間行為の相互性が中心の論題となり,それは人聞の意 図,意識を含む点で自然的事物の運行とは決定的に異なる。それゆえ,自然科 学の実証的方法を社会科学に直接適用するのはあまりに無思慮というものであ る。こうしてナイトは,社会における自然科学主義を拒否し,社会における 「自然法則」という概念を斥けるのである。  しかしそれに代わる社会科学的方法という点ではナイトの主張は明瞭ではな い。彼は社会を構成する個々人の意思,行動類型の重要性を主張しつつも,そ れをウェーバーのような「理念型」のように形式化して鋳型にはめることは控 えるため,例えば行為における動機といった概念をどのように処遇するかが明 確ではない。一方で彼は,人間の際立った特質を目的一手段追求的あるいは問 題解決的類型で理解するため,「経済行為」とはロビンズなどと同様に,一般 的な何らかの目的を実現するための有効な手段使用を意味する。この出発点 は,経済学が通常想定する「経済人」の理解と大差はない。しかしここから彼 は通常の,自然科学的思考に基く経済学とは逆の結論を導くのである。つま り,経済行為は問題解法的活動であり,合理的一思慮的(rational−deiiberative) であるため,ここには自然科学的意味で正確な予測に耐える事物の因果連鎖の メカニズムは存在しないだろうという。つまり人間が観念を持ち意思を持つこ との複:雑さはとうてい科学の手に負えるものではない。従って経済行為の動機 の質は全く直観的アイデアで理解し得るような種類のものではない。つまり行 為の動機を検証することは不可能だと彼は言う。  では,こうして個々人の主意性,恣意性から出発して普遍的な行為類型を断 念するとどうなるか。  「手段の正しい使用ということは行為の問題の普遍的な点であるだけでな

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 40 彦根論叢 第2/8号 く,その解決にとっても不可欠であり,目的達成や価値創出にも不可欠の要因       15) である。経済行為の基本的カテゴリーは力(power)なのである。」  これは単なる目的一手段的合理性における所与の目的における手段の管理, という意味での「力」ではない。そうではなく,手段が,従って状況の文脈か ら本来切り離し得ない行動の用具的類型が,その目的を創出する価値そのもの と関わっているというのである。ところがまさにこのような枠組みに適合させ て行為を理解することがプラグマティッシュなのである。  「近代の功利的自由主義とりわけその最も最:近の段階であるプラグマティズ ムを含むそれは,生活のあらゆる問題を力の獲得と効率的な使用という観点か          う ら眺める傾向がある。」  ところが,このような「力」のカテゴリーで理解された行為の意味は明らか にそれ自体逆説的である。というのはこれは功利主義に内在する問題つまり 功利主義的合理主義の意義を貫くには,目的の概念をただ環境が与えた所与の 訟訴と見なすかあるいはむしろ手段との結合で理解する以外にないというパー ソンズの「功利主義のディレンマ」を一応解決するものではあるが,その結果 として,功利主義の母体である実証主義的な科学理論をもはや不可能にするか らである。ナイトは「事実」「目的」「価値」の区別を主張するが同時に彼は, 現実の行動ではこれらが混合していることをよく知っていた。  こう見てくるとナイトが考える社会科学の独特な性格はある程度輪郭を現わ してくる。それは,社会的行動というカテゴリーが社会的価値と結合している という認識に由来するものであり,従って,社会科学的認識は倫理的問題を排 除した「怜倒な理性」のみの支配する純粋科学的な土壌に成立するのではな !5) F, Knight “On the History and Method of Economics” (The University of  Chicago Press 1956.)p.130.ここでのナイトの方法論的論議は,上記の他,次の書  物に収録された諸論文を参照にしている。   “Freedom and Reform; Essays in Economics and Social Philosophy” (Harper  and Brothers, 1947.) “The Ethics of Competition and Other Essays” (Harper and  Brothers, 1935). 16) Knight, op, cit. p. 131.

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      経済学の知識論のためのノート ②  41 く,それ自身倫理の問題を内包しているということである。「社会科学の真理 は,社会的,道徳的カテゴリーに属するのである。」このような思考の矢に射 止められる真理の観念は,本質上,知識のプラグマティズム的立場と同じ地点 にある。社会科学の対象はもはや,究極的な法則とか客観的事実についての存 在論的な仮定に依存しているのではなく,むしろそれは,人々が用具主義的一 知性的(instrumentalistic−intellectualistic)に相互行為する結果,形成し変形 し合う流れゆく過程だという理解に向かっている。しかも認識とは,この変化 を支える隠された動力の因果法則的認識でもなく,また,諸力の動機の内観で もないとすれば,残る道は,認識そのものを現実の社会的カテゴリ一戸こ帰着さ せる,つまり広い意味で「実践的」なものである以外にない。  しかしこの「実践」の意味には注意しなければならない。というのはまさに この点で,ナイトの立場はプラグマティズムとは区別されるからである。社会 的な相互行為というのは,ある面から見れば社会集団の自己決定に他ならな い。プラグマティズムは,知識の計画的功利主義的使用を主張することによっ て,目的一手段的合理性を単に技術的な問題に歪曲してしまう,と彼は言う。 功利主義が全体主義的計画と化すのは,まさに価値を拾象した技術面による。 むしろ,「世界が科学から本当に学ぶ必要のあるものは,その技術ではなくて,       道徳的コードなのである。」          ナイトは,実証主義に反対する論文の中で,知識の三つの形態を区別する。 第一は外部世界についての言明,第二は論理,数学的真理,第三は人間行為に 関する知識,である。言うまでもなく,前二者は,論理実証主義の「総合命 題」と「分析命題」に対応している。ナイトの主眼は,社会科学の立場を,こ の論理実証主義的思考の将外に置くことによって,それを狭量な自然科学主義 から救い出そうとするところにあるのだが,ここで第三カテゴリーが意味する ことは,社会的行為が常に「社会的意味」とは切り離せないという点にある。 ここで「意味」とは言い換えれば,行為が孕む「価値」であり「判断」のこと 17) Knight, op. cit. p. 278. 18) F. Knight. “What is truth in Economics?” Jou. Pol. Eco., Feb. 1940,

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 42   彦根論叢  第218号 である。 「価値判断はそれ自体が事実,データであり,それも特別の重要性を          ユの 持つデータなのである」と彼は言う。  こうしてナイトの錬成された思考の中に,われわれは経済学者としてはめず らしく実証主義から離反する正当な言い分を聞くことが出来るのだ,ある意味 でこれはプラグマティズムが実証主義の弊衣を自ら脱ぎ去てる現象でもある。 しかしそれが実践的に向う方向はずい分異っている。社会科学において実証主 義が綻びを露呈する地点がまさに「事実としての価値」という点にあるとすれ ば,科学は容易には社会的実践に自己を投入出来ないはずである。 「価値」と いう次元を含む経済学の「真理」は単なる実証によって達せられるものでもな い代わりに,社会への実験的回帰によって顕わにされるものでもない。そこで ナイトは価値を形成するための「自由な相互コミュニケーション」こそが重要 であり,科学的知識はこのコミュニケーシ・ンの材料たるべきだと主張するこ とになる。  ナイトの上の解答も少々,プラグマティックな楽天主義に支配されている感 が無きにしもあらずだが,ここでナイトを論ずる必要はない。重要なことは, 功利主義的なプラグマティズムの立場を採るか,ナイト的な相互コミュニケー ションを採るかは別として,いずれにしろ,実証主義の重く長い洗礼を受け続 けてきた科学が,しかしそれに離反するにはそれなりの必然的な理由が存在す るということである。少くともプラグマティズムがたてた「事実」とそれにつ いての「知識」の独特の問題はそのことを理解する重要な鍵だと思われるので ある。 19) Knight, op. cit. p. 24.

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