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栗原均氏を偲ぶ : 同志社大学及び国立国会図書館 との関係を中心に

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栗原均氏を偲ぶ : 同志社大学及び国立国会図書館 との関係を中心に

著者 宇治郷 毅

雑誌名 同志社図書館情報学

号 23

ページ 103‑108

発行年 2013‑01‑31

権利 同志社大学図書館司書課程

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014212

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1、挑戦と自律の人、かつ複眼志向の人

 本学商学部を1953年に卒業し、50余年にわたり、日本の図書館界に大きな足跡を残し た栗原均氏が、2011年11月13日に85歳で逝去された。同志社大学図書館司書課程を代表 して、また図書館界の後輩の一人として、謹んで哀悼の意を表します。

 栗原氏の1948~72年の大阪府立図書館時代、1972~77年の堺市立図書館時代、1978~

2001年の日本図書館協会時代の業績はまことに多彩であり、またすべてが開拓者的なも のであった。生前氏の近くで接した多くの方が栗原氏を「行動の人・温情の人」「実務・

現実主義の人」「情と熱の人」(1)などと評しておられるが、こられは正当な評価であろう。

しかし私は、栗原氏を「挑戦」と「自律」の人、優れた複眼的視点をもった複眼志向の 人と呼んでみたい。氏の生涯にわたる新しい図書館事業への「挑戦」はエネルギッシュ な行動と情熱に満ちていたが、その底には自分への厳しい「自律」があったと思う。人 は高い目標をもつときに自律と忍耐を必要とする。23年に及んだ氏の日本図書館協会時 代は大事業が踵を接したが、特に自律を要したと思われる。氏は自らの自律と同時に「自 律して外に恥ずかしくない協会を」と日本図書館協会の活動においても自律の重要性を 強調している。私たちは仕事に慣れると「初心」と「元気」を失くしやすいが、氏は「い ろんなアイデア」「勇気」「協調」「協力」を維持することによって「自律」を可能に出 来ると指摘している(2)。まさに現場の中で苦労してきた人のみが言える示唆に富む言葉 であろう。

 また栗原氏は優れた複眼志向の持ち主であった。この複眼が氏の生涯に渡る数々の難 事業を柔軟な経営手腕で乗り越える原動力になったと思える。氏は図書館運動のもっと も重要な点を、読書の自由を守る視点と国の図書館政策づくりを要求する視点という二 つの複眼にあると指摘している(3)。この点は私たち図書館人の基本であるが、日本の図 書館界はやや苦手としてきた点ではなかろうか。私たちはこれまで「読書の自由」「図 書館の自由」を守ることに熱心であったが、欧米の図書館人に比べ国の図書館政策づく

栗原均氏を偲ぶ

―同志社大学及び国立国会図書館との関係を中心に―

宇治郷   毅

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同志社図書館情報学 第23号

りに働きかけることに消極的に過ぎなかったか。氏はこの点両方に真摯に取り組んだが 故に、図書館界の権力批判派からは政治的な人と見られ、保守派からは図書館人のイメー ジからはみ出した人と映ったのであろう。このような複眼志向は、現代のような変革期 においてはますます必要になっていると思われる。しかしこの氏の複眼志向は反面誤解 や戸惑いをもたらす原因になった、とも言えるであろう。たとえば雑誌『ず・ぼん』編 集部が感じた「やり手」といったイメージや「胡散臭さ」の原因はそのあたりからきて いるかもしれない(4)。しかし氏の50余年の図書館人生を色眼鏡なしで見れば、氏はいたっ て私利私欲のない純粋な人であり、図書館への限りない熱情と図書館界の先輩、同僚、

後輩への尊敬と思いやりを最後まで失わなかった人であることがわかる。ともかくも氏 は、50余年の図書館人生を温顔に隠された強い意志をもって走り抜けた。日本の図書館 界では稀有な人材であったと言えよう。

 ここで私と栗原氏との関係について触れておきたい。私と氏は、生前それほど深い交 際があったわけではない。ただ1990年代、栗原氏が日本図書館協会の事務局長としてま た93年に理事長になられてからの8年間ほどが丁度私の国立国会図書館での総務課長、

総務部長の時期と重なっており、対外的な仕事が多かった私にはいろんな場で氏と接す る機会が多かった。私が栗原氏と最初に出会ったのは、1986(昭和61)年の第52回国際 図書館連盟(IFLA)東京大会が青山学院大学で開催された時であったと記憶する。こ の大会は日本で初めて開催された世界の図書館のための国際会議であり、全国の図書館 人が一致協力して成功させたという意味で、日本の図書館史上画期的なものであった。

栗原氏は、この大会準備のための組織委員会の中心機関である日本図書館協会事務局長 として、大会でも総務委員会委員長、大会事務局長として多忙を極めておられた。同志 社大学図書館司書課程の担当教授であった渡辺信一氏の紹介で、私はこの多忙な中で氏 とお会いしたが、快く応じてくださった。当時私は国立国会図書館の参考書誌部でレファ レンス業務に従事していたので、その関係の分科会に参加したことを述べると、“僕も 若い時レファレンスはよくやったよ。あなたのことは渡辺先生からよく聞いているよ。

同じ関西から出てきているんだし、頑張ってください”、と例の温顔で励ましてくれた のが、氏との出会いであった。その後は、仕事以外では、同志社大学図書館司書課程の 関連行事(東京地区図書館見学会懇親会など)や国際図書館連盟の海外大会でお会いす る程度であった。にもかかわらず私が2006年に本学に赴任してきて歓迎会をしていただ いた時は、千葉県からわざわざ駆けつけてくれたのには感激した。氏は終生人と組織の 絆を大事にする人であった。

 栗原氏が逝去されてすでに9ヶ月がたつ。この間、氏の追悼記事が二、三の雑誌に発 表された。『図書館雑誌』2012月3月号には、大阪府立図書館に1948年に就職された時 期から、2001年日本図書館協会の理事長を辞任されるまでの業績を現日本図書館協会の

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塩見昇理事長が全般的に回顧されている。また、同誌には、元同協会事務局次長として 栗原事務局長を支えた小川俊彦氏の回想、堺市立図書館長時代の部下であった前田悦子 氏の思い出、また、同協会の大学図書館部会委員であった雨森弘行氏の事務局時代の栗 原氏の思い出も収載されている。その他まとまった追悼記事としては、『図書館界』

2012年4月号に石塚栄二氏と益田忠夫氏の回想記事が掲載されている。以上の記事は、

栗原氏の業績と人柄をいろんな角度から知りうる貴重なものである。

 私は、以上に触れられていない氏と同志社大学及び国立国会図書館との関係の一端に ついて述べておきたい。

2、栗原氏と同志社大学

 栗原氏と同志社大学との関係について述べる。氏は海軍兵学校を卒業していたので 1950年4月に商学部3年次に編入学した。氏の大学生活については、同志社大学広報委 員会の機関紙『同志社大学通信』41号(1982.10)のインタビュー記事「(同志社人訪問 22)先生、コーヒー飲みにいきましょ」がよく伝えている。それによると氏は、千里山 の自宅を朝6時に出て、8時半からの1時限の授業と2時限の授業を途中まで受けて、

午後1時までに大阪府立中之島図書館に帰り、仕事をするという日々であったという。

文字どおりの苦学生であったようだ。「苦しかったね、あれは」と氏は回顧している。

結局無理がたたり結核にかかり1年間休学することになり、1953年に大学を卒業した。

上記のインタビューでは、二つのことが興味を引く。一つは、氏のライフスタイルとし ての人付き合いのうまさと組織力である。氏はある目的のためには周囲の人間を自然と 自分のペースに巻き込んで行く能力に優れていたと思う。これは天性のものであろうが、

すでにその片鱗は学生時代に現れていて、今井俊一教授(経営管理論、同志社大学名誉 教授、2004年死去)などの先生と積極的に付きあっている。そこから教室では得ること のできない知識を得て自分の栄養にしていたのであろう。二つ目は、同志社大学の学風 を高く評価していることである。栗原氏は上記のインタビューの中で、今井教授を次の ように回想している。

「編集部―学生時代は苦しいことの連続でしたね。

栗原―そういう意味ではそうかも知れませんけど、豊かな青春時代だったと思ってます よ。物質的には豊かじゃなかったけど、勉強の一番いいところを教えていただき、先生 の愛情を受けて、同志社の建学の精神、新島先生の教えも受けて。やっぱりそう意味で は自由でしたなあ。他の大学へ行っている中学時代や兵学校時代の友人が集まった時、

オレは自由だなあという感じがしましたね、同志社のおかげで、今言ったようにシンド イめして学校へ来とるという学生に暖かかったですね、先生は。」(5)

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同志社図書館情報学 第23号

 栗原氏は、上記インタビュー記事の中で、1966(昭和41)年アメリカ図書館事情視察 時に母校同志社大学のことを強く意識するようになったと述べているが、栗原氏の「自 律」精神も同志社の自由主義と自治自立の精神の中で育まれたものと思われる。筆者は 栗原氏の上記の言葉を読むにつけ、現在この大学で教鞭をとる者として、卒業後このよ うな言葉を述べてくれる学生をはたして何人育てているのかと反省し、忸怩たる思いに かられるのである。

 栗原氏と同志社大学との関係では、司書課程との関係も見逃せない。同志社大学図書 館司書課程では、毎年学外の有名講師を招き公開講演会を開催している。栗原氏は、渡 辺信一教授の要請により1982年6月に来校し、「図書館員を志す人たちのために」とい う題で講演している(6)。栗原氏はこの講演で、日本図書館協会の歴史と役割・仕事、現 在日本の図書館界のトピック、今後の図書館協会及び図書館界の展望について述べてい る。そこでは、図書館の仕事は人に対する徹底した奉仕であること、図書館員はスピリッ トを持つこと、困難に立ち向かうチャレンジ精神を持つこと、自律の能力を確立するこ との必要を強調し、後輩を励ましている。

 また栗原氏は、阪神大震災の1週間後に被災地図書館を訪ね歩いた想いを『同志社大 学図書館学年報』21号、1995に寄せているが、そこでは大震災にあった人に対する本の もつ力と図書館がもつ歴史への証言の役割を述べている(7)。今東日本大震災によって多 大な被害をこうむった私たち図書館人は、この栗原氏の言葉をもう一度噛みしめてみる 価値があろう。

3、栗原氏と国立国会図書館

 栗原氏が国立国会図書館の職員の多くと始めて親しく一緒に活動したのは、1986(昭 和61)年の

IFLA

東京大会の時であろう。しかし日本図書館協会と国立国会図書館の 関係が緊密になるのは、それ以前の1980年に協会の組織改正があり、81年から国立国会 図書館にも理事・評議員各一名が割り振られた時からである。さらに国立国会図書館の 高橋徳太郎元総務部長、(後に副館長)や岸田実元館長が積極的に日本図書館協会をは じめとする図書館界への働きを強めたのも、協会とのパイプを太くする要因になったも のと思う。このことは、いろんな事情でややもすれば孤立しがちであった国立国会図書 館が図書館界において存在感を高める端緒になったわけで、この間岸田、高橋両氏を柔 軟に受けとめて図書館界との架け橋になった栗原氏の陰の功績が大きかったと言えよう。

国立国会図書館と日本図書館協会が日本の図書館界を支える「車の両輪」と言われたの もこの頃であった(8)

 高橋氏は1978年8月に日本図書館協会の定款改正のための組織委員会の委員長、また

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1983年5月には同協会の理事長に就任した。この後高橋氏と栗原氏は、1993年5月に高 橋氏が理事長職をしりぞくまで文字通り二人三脚で幾多の難事業を乗り越えたのである。

特に「図書館事業基本法(振興法)」制定運動、「国際図書館連盟東京大会」開催、日本 図書館協会百周年記念事業の三つは、日本図書館史の中でも最大の運動でもあり、イベ ントでもあったが、高橋氏の独創力と栗原氏の経営手腕がうまく相乗効果を発揮して展 開されたのであった。この間の詳しい経緯は、『ず・ぼん』誌のインタビューで語られ ているのでそれに譲ることにし、ここでは栗原氏が理事長に就任されてからの国立国会 図書館との関係にふれておきたい。

 栗原氏は日本図書館協会の理事長として、「国立国会図書館長と都道府県立図書館長 及び政令指定都市立図書館長との懇談会」「国立国会図書館と大学図書館長との懇談会」

には、毎年欠かさずにオブザーバーとして出席し、挨拶している。また「納本制度調査 会」(衛藤瀋吉会長1997.3~1999.2)では、委員として参加している。栗原氏は日本 図書館協会の理事長として、1990年代の国立国会図書館の最大の難問であった関西館建 設に深い関心を寄せていたが(9)、実際に深い関与を示したのは後の「国際子ども図書館」

の建設につながる調査会であった。栗原氏の国立国会図書館に対する最大の貢献は、ま さに1995(平成7)年7月設置の「国立国会図書館に設置する児童書等の利用に係る施 設に関する調査会」の会長としての業績であろう。これは国立国会図書館長の諮問に応 える調査会であり、1、支部上野図書館に児童書等を一般公衆の利用に供するための施 設を設置すること、2、当該施設の基本的機能、3、組織・運営・施設について審議し た。1995年11月に答申が出されたが、これが1997(平成9)年1月の「国際子ども図書 館準備室」設置の基礎となり、ついに2000(平成12)年5月の「国際子ども図書館」の 部分開館につながったという意味で重要な調査会であった。栗原氏は、読書の自由を守 るという視点を終生大事にされていたので、将来生まれる「児童書等の利用に係る施設」

が子どもへの読書をより豊かに保証するものとすべく特に熱心に取り組まれたようであっ た。この意味で調査会の仕事は氏にとって意見調整等で苦しいことも多かったと思われ るが、反面楽しい仕事ではなかったかとも思える。同時に、この会が良き実を結んだの も、松居直氏(副会長、福音館書店会長、本学法学部出身)をはじめ委員らの努力、ま た事務方として支えた亀田邦子氏(後の「国際子ども図書館長」)の苦心があったこと も忘れることはできない。かくして日本で初めての国立の児童書専門図書館である「国 際こども図書館」の開館記念式が2000年5月5日に上野公園で挙行されたが、その時の 栗原氏の晴れやかな笑顔を今でも忘れることができない。

 塩見昇氏は、栗原氏を「行動の人」「温情の人」と評している。(『ず・ぼん』9号、2004.4、p.188)、

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同志社図書館情報学 第23号

また、益田忠夫氏は栗原氏を「実務・現実主義」の人と評している。(同上書、p.187)また石塚 栄二氏も、栗原氏を理想主義者ではなく、現実主義者であったと評している。(『図書館界』63、

2012.3、p.465)また雨森弘行氏は、栗原氏を「情と熱の人」と評している。(『図書館雑誌』

2012.3)

 「私はいつもそう思うんだけれども、図書館員というのはね、自ら律する力を持ってなきゃい かんと思う。自律するためには、いろんなアイデア、勇気、協調、協力、いろんなものが必要で す。同時にお金がなかったらね。人に借金ばっかりしていては立派な事業はできない」(『ず・ぼ ん』9号、2004.4、p.180)これは、図書館員の自律についての発言だが、この後で「日本図書 館協会のこれからは自律。自律ということはまず自分を律することの判断力と、立つための経済 力が必要だ。」とも強調している。現場と現実にしっかりと足をつけることを望む現実主義者と しての栗原氏の面目躍如の言葉であろう。

 「日本図書館協会というところは、その運動の中で読書の自由を守る視点と国の図書館政策づ くりを要求する視点と二つ、複眼で見とかないかんもんで、なかなかむずかしいんです。」(「先生、

コーヒー飲みにいきましょ」『同志社大学通信』41号、1982.10、p.11

 「経営的手腕をもった異色の図書館人 栗原均」『ず・ぼん』9号、2004.4、p.126、インタ ビューの前書きの言葉。

 『同志社大学通信』41号、1982.10、p.9

 この講演録は、『同志社大学図書館学年報』9号、1983、p.2~24に収録されている。

 栗原均「図書館、図書館員は何ができるか―震災地を歩きながら考える―」(『同志社大学図書 館学年報』21号、1995)では次のように述べられている。「いま各種のメディアがリアルタイム で惨状を報じ続けている。その多くは罹災の人々の心情に基づいたものだが、極めて部分的・断 片的である。余りの課題の多さに集大成の難しさがあり、数年後には風化し、忘れ去られてしま うのではないかと恐れる。あの職員の手によって書架に返された本が再びその本の個性ある著作 性をとりもどし主張し始めたように、この瞬間の膨大な情報群、貴重な記録が被災地を含む多く の人々の生きる力、復興の証となり、歴史の証言に転化させる働きを図書館はもっているに違い ない。」

 『近代日本図書館の歩み 本編』日本図書館協会、1993の「国立図書館」p.475では、昭和53 年岸田実国立国会図書館長が第六四回全国図書館大会(青森)で、国立国会図書館と日本図書館 協会は図書館を支える「車の両輪」と述べた、と記されている。

 栗原均「国立国会図書館関西館構想の早期実現を」『国立国会図書館月報』400・401号、1994.

7・8

栗原均「デジタル環境下における図書館の役割と課題」『国立国会図書館月報』449号、1998.8

(うじごう つよし。2012年9月1日受理)

参照

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