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径山寺台子伝来説の背景 ││茶の湯の ﹁起源﹂をめぐって││

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二四

径山寺台子伝来説の背景 ││茶の湯の ﹁起源﹂をめぐって││

櫻本 香織

はじめに

  中国浙江省杭州市にある中国禅宗五山第一位の径山寺は ︑日本の茶の湯の起源はここから始まると広報している ︒その主張の淵源は中国ではなく日本側の資料にある︒江戸時代中期以降の茶書等には︑茶の湯の起こりや台子︵茶の湯の格式の高い点前に用いる棚のこと︒ここでは﹁真塗り﹂すなわち黒漆塗りの長方形の天板と地板を伴った四本柱からなる比較的大きな棚をいう︒ちなみに天板と地板と四本柱は取り外しができる構造で︑組み立て式である︒︶︵図1︶の起こりとして︑鎌倉時代の臨済僧南浦紹明︵一二三五〜一三○八︶が中国径山寺の虚堂智愚︵一一八五〜一二六九︶から法を嗣ぐ際に︑点前道具の台子を貰い受け日本に持ち帰ったという説が見られる︒

  しかし︑近年の研究では︑この径山寺からの台子伝来説は︑江戸時代中期の創作であるとされている︒とくに︑神津朝夫は﹁台子成立についての試論﹂の中で︑﹁台子﹁ひとかざり﹂が鎌倉時代に茶で使用された記録は全くない﹂

図1 台子(真台子)(『茶道美術鑑賞辞典』)

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径山寺台子伝来説の背景二五 と指摘する ︒また︑南浦紹明が大徳寺開山宗峰妙超の師であるということから︑大徳寺の禅と茶の湯の関係の深さを指摘している︒この点については本稿の論点と関わっている︒さらに神津は︑台子伝来説の創作者について︑﹃珠光伝﹄を書き︑﹁和敬静寂﹂の語を発案したとされる大徳寺二七三世大心義統︵一六五七〜一七三○︶ではないかと示唆しているが︑詳細には論じていない︒  先行研究で提示されている台子伝来説が創作であるという判断を︑私は妥当と考える︒そこで本稿では︑径山寺台子伝来説にはどのような背景と意図があり︑創作されたのかということを︑江戸時代中期の茶の湯における﹁台子﹂の位置から明らかにしていきたい︒  神津朝夫がすでに指摘する ように︑現在提唱されている径山寺台子伝来説は︑江戸中期以降の茶書等に見られる台子伝来説の記述が︑明治期に刊行された類書﹃古事類苑﹄に収載され︑それを参照したものと考えられる︒そこで︑まず︑﹃古事類苑﹄に引用された径山寺台子伝来説を確認しつつ︑その研究の現状を確認していきたい︒次に︑﹃古事類苑﹄に引かれた諸書を遡る江戸中期の茶書等に見られる例を確認し︑それらに共通する﹁径山寺﹂﹁台子﹂﹁南浦紹明﹂﹁虚堂智愚﹂﹁大徳寺﹂などの言葉から史実を明確にしたい︒さらに︑径山寺台子伝来説と共通する記述が見られる︑室町時代の﹁渡唐天神説話﹂と﹁径山寺台子伝来説﹂を比較して︑その関係性を明らかにしていきたい︒その上で︑江戸時代中期の茶の湯における﹁台子﹂の位置と意味から︑径山寺台子伝来説の背景と意図を探ることとしたい︒

一、 『古事類苑』と径山寺台子伝来説

や﹃続視聴草﹄五集九を出典として︑台子が径山寺から伝来したという説が記される︒食﹃嬉遊笑覧﹄十下飲 出提を典出て︑け付をし小見しのどな﹂会茶﹂﹁革示のて中に︑項の﹂革沿式茶の﹁のそそる︒いてべ述を緒由式沿茶﹁   ﹃の湯の茶てし題と﹂一湯茶﹁は︑に七部戯遊﹄苑類事歴古とら﹂革沿茶喫﹂﹁称名﹁に︑さそる︒いてめとまを要概の史   一方︑﹃古事類苑﹄遊戯部十﹁茶湯具上﹂の﹁台子﹂の項でも︑松本見休の﹃貞要集﹄一上や南秀女の﹃茶事談﹄上を

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二六

引用して︑﹁台子﹂の由来やその使用法などを説明している︒つまり︑﹃古事類苑﹄では︑﹁茶の湯﹂と﹁茶道具﹂の二項にわたって︑径山寺台子伝来説の記述を見ることができる︒﹃貞要集﹄や﹃茶事談﹄は︑﹃嬉遊笑覧﹄﹃続視聴草﹄の径山寺台子伝来説のように﹁径山寺﹂という言葉が直接見られないものの︑台子は南浦紹明が中国から帰朝した際に伝来したという記述があることから︑この二話も径山寺台子伝来説と見なせよう︒こうした﹃古事類苑﹄に見られる径山寺台子伝来説が︑﹁茶の湯の起源﹂や﹁台子の起源﹂として︑現在まで参照され定説となったと考えられる︒

  ここで︑まず︑径山寺台子伝来説とはどのような内容のものであるかを確認しておきたい︒定説とされてきたその内容は︑﹃嬉遊笑覧﹄の説に拠っていると思われる︒なぜなら︑その内容が現在の研究で﹁茶の湯の起源﹂や﹁台子の起源﹂の説明としてそのまま引用され︑確認できるからである︒だが︑﹃嬉遊笑覧﹄の当該部分の記述は︑正徳六年︵一七一六︶の江戸前期から中期の儒者および神道家で山崎闇斎の門下であった谷秦山の﹃俗説贅弁﹄からの引用である︒そこで以下に︑﹃俗説贅弁﹄を示し︑径山寺台子伝来説の内容を確認していきたい︒

○茶式の説︵前略︶茶式のはじめは︑筑前国崇福寺の開山南浦紹明正元の比入宋し︑径山寺虚堂に嗣法し︑文永四年に帰朝す︒其比台子一かざり径山寺より将来し︑崇福寺の什物とす︒是少茶式のはじめにや︒後其台子を紫野大徳寺へ贈り︑又天竜寺開山夢窓へわたり︑夢窓此台子にてちやのゆをはじめ︑茶式を定むといふ︒

  右の通り︑径山寺台子伝来説は︑この短い四行ほどの話に集約される︒要約すると︑以下のようになろう︒茶式のはじめは︑鎌倉時代の臨済僧南浦紹明が︑中国径山寺の虚堂智愚から法を嗣ぎ︑文永四年の帰国の際に︑台子を貰い受け︑日本に持ち帰り︑福岡の崇福寺の什物となった︒のち︑その台子は京都大徳寺へ贈られ︑また︑天竜寺の夢窓疎石︵一二七五〜一三五一︶の手に渡り︑夢窓がこの台子を用いて茶の湯を始めた︑とする︒

  繰り返しになるが︑この﹃俗説贅弁﹄を典拠とする﹃嬉遊笑覧﹄の内容が︑﹃古事類苑﹄を通して︑昭和期から本格的

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径山寺台子伝来説の背景二七 に始まった茶の湯の研究および各辞書類で参照されてきた︒たとえば︑神津朝夫の指摘 にもあるように︑高橋龍雄﹃茶道 ﹄の中では︑﹁南浦紹明と台子﹂の小見出しの中でまとめられ︑桑田忠親﹃日本茶道史 ﹄の中でも︑南浦紹明が文永四年の帰朝の際に︑台子を伝えたと言及されている︒また︑﹃図説茶道大系  第3巻  茶会と点前 ﹄や︑﹃茶之湯道具寸法図会 前﹄︑裏千家点前教本の﹃台子・長板点 10

﹃角川茶道大事典﹄﹄︑﹁台子﹂の項 11

とされてきた やその他諸々の文献の中でも参照され︑定説 12

13

  これに対して︑一九八七年以降になると︑径山寺台子伝来説を疑問視し︑創作説とする研究も行われるようになった︒まず︑﹃国史大辞典﹄第八巻﹁台子﹂の項において︑熊倉功夫は︑﹁台子は南浦紹明が中国から招来し︑大徳寺に伝わった︑などという伝説も生じた

るそたかいうと︑とれ不明であは 国頃我がらに伝えれ何時が﹂井と指摘している︒次に︑筒紘子一﹃茶の湯事始﹄では︑﹁台 14

そして︑神津朝夫は︑右に紹介したように︑台子が南浦紹明によって将来されたとする説を否定している︒ 説とは︑ひとつのとるして捉えている︒こす﹂がと述べ︑南浦紹明台と子を持ち帰った 15

  その他︑﹃日本国語大辞典﹄第二版﹁台子﹂の項

で︑真偽のほどは明らかでない﹂と言及している ﹁これは後世の伝承の補注では︑南浦紹明による台子伝来説について︑ 16

来説は定かではない ︒また︑谷端昭夫﹃よくわかる茶道の歴史﹄でも︑南浦紹明と台子の将 17

と論じている︒ 18

二、江戸中期以降の茶書等にみる径山寺台子伝来説

  径山寺台子伝来説は︑江戸中期の元禄以降になって︑はじめて茶書等に見られるようになる︒まず︑現在確認できる十一におよぶ話を︑成立順に示してみたい︒﹇A﹈〜﹇C﹈は︑私に示す分類であり︑詳しくは後述する︒

①遠藤元閑『茶之湯六宗匠伝記』  元禄十五年︵一七○二︶  ﹇C﹈         ︵前略︶其後亀山院の御代︑北條時宗執権のとき︑円通大応国師︑陽州金山寺寄台子ひとかざり持来り︑鎌倉の巨福

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二八

山建長寺に入寺す︒其後鹿苑院義満大将軍の御代に天竜寺の開山夢窓国師台子を大徳寺より取来り茶の湯初給ふ︒

②松本見休『貞要集』  宝永七年︵一七一○︶  ﹇C﹈       台子起 台子の起ハ︑筑州崇福寺の開山南浦紹明和尚入唐し︑帰朝の時始て台子一厳携来れりとなり︒それより紫野大徳寺に伝ハれり︒其後尊氏公将軍の御時代︑天竜寺開山夢窓国師築山・泉水・遣水等の作り庭を営ミ︑台子を以て︑茶会を執行ハれしとかや︒此ときより茶道漸世に行ハれ︒

③谷秦山『俗説贅弁』  正徳六年︵一七一六︶  ﹇A﹈         ○茶式の説︵前略︶茶式のはじめは︑筑前国崇福寺の開山南浦紹明正元の比入宋し︑径山寺虚堂に嗣法し︑文永四年に帰朝す︒其比台子一かざり径山寺より将来し︑崇福寺の什物とす︒是少茶式のはじめにや︒後其台子を紫野大徳寺へ贈り︑又天竜寺開山夢窓へわたり︑夢窓此台子にてちやのゆをはじめ︑茶式を定むといふ︒

④豊田無関『茶湯由来記』  元文三年︵一七三八︶﹇B﹈         抑茲に茶湯濫觴を尋に︑洛陽西京勅建寺ヲ瑞鳳山龍翔寺ト云︒今︑紫野龍宝山大徳寺ニ引移︑開山宗峰妙超和尚︑右南浦紹明和尚入唐ノ時︑径山寺ヨリ台子ヲ一飾得テ帰朝シ︑崇福寺ニ数年有之︒其後京師紫野大徳寺ニ渡後︑尊氏将軍之時︑天龍寺開山夢窓国師︑右ノ台司 ヲ用ヒ茶湯ヲ始メタモウトナン︒

⑤坂本周斎『雪間草』

  ︵十八世紀初期頃か︶

  ﹇C﹈         真の台子ハ︑大応国師南浦紹明大灯大師入宋して︑径山虚堂和尚に法を受︒帰朝のとき真の台子一飾たつさへ来る︒則筑前大岳

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径山寺台子伝来説の背景二九 山崇福寺に伝来せしが︑薩州の軍兵乱入して︑兵火のために焼失といふ︒

⑥南秀女『茶事談』  宝暦十年︵一七六○︶  ﹇C﹈         又其頃京師紫野大徳寺ニ台子アリ︒何ノ具トモ知人ナシ︒コレハ往昔宋朝ヨリ日本筑前ノ博多聖福禅寺

安国山聖福寺ハ筑前ノ博多箱崎ニアリ︒山門ノ横額ハ扶桑最初禅窟ノ六字ナリ︒後鳥羽院ノ宸翰ナリニ贈リ来ル茶棚ナリ︒今茶人ノ真台子ハコレヨリハシマル此棚ノチニ大岳山へ伝へ︑年ヲ歴テ又京師大徳禅院ニ来ル︒

⑦『類聚名物考』  成立年未詳︵一七五三〜一七七九頃か︶﹇A﹈         ○茶会始  台子或書曰︑︵一云座右随筆︑︶茶宴之起︑正元年中︑筑前国崇福寺開山︑南浦紹明︑入唐時宋世也︒到径山寺虚堂︑而伝其法而帰︑時文永四年也︒紹明帰時︑携来台子一具︑為崇福寺重器也︒後其台子贈紫野大徳寺︒或云︑天竜寺開祖夢窓︑以此台子茶宴焉︒故茶宴之始自禅家

⑧河田直道『茶道論』  天明六年︵一七八六︶﹇A﹈         正元の比︑筑前国崇福寺の開山南浦紹明︑入宋して︑径山寺の虚堂に嗣法し︑文永四年に帰朝す︒其時台子一かざり︑径山寺より将来して︑崇福寺の什物となれり︒其後紫野大徳寺へ贈り︑夫より天竜寺の開山夢窓国師の手に渡り︑夢窓此台子にて茶式を定たりとハ謂伝ふれとも今世に行ハるゝ如く︒

⑨『千家秘伝茶経』  寛政十二年︵一八○○︶﹇B﹈         茶湯の濫觴を尋るに︑唐土より日本へ渡りたるは亀山院文永の比なり︒筑前国崇福寺開山南浦紹明和尚勅諡円通大応国師と云︒正元の間航海至大宋国径山寺帰朝は文永四年なり︒洛陽西京勅建寺を瑞鳳山龍翔寺ト云︒今紫野龍宝山大徳引移︑開山宗峰妙超和尚花園院後醍醐大皇の御崇敬︑此南浦紹明和尚入唐の唐土径山寺より台子一飾帰朝の節持来り︑

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三〇

崇福寺ニ数年あり︒其後京師紫野大徳寺に渡る︒尊氏将軍の時︑天竜寺開山夢窓国師︑この台子を用ひて茶湯を初より︒

⑩『嬉遊笑覧』  文政十三年︵一八三○︶﹇A﹈         ︹俗説贅弁︺に︑筑前国崇福寺の開山南浦紹明正元のころ入宋し︑径山寺虚堂に嗣法し︑文永四年に帰朝す︒其頃台一かざり径山寺より将来し︑崇福寺の什物とす︒是茶式の始なるにや︒後台子を紫野大徳寺へ送り︑又天竜寺開山の夢窓へ渡り︑夢窓此台子にて茶の湯を始め︑茶式を定むといへり︒

⑪『続視聴草』  ︵=﹃視聴草﹄続五集之九

モ︑軽キ者取扱事ナシ︒ ニ︑唐夢窓国師後︑之代朝帰テシ尚夢和右絶子弟之師国窓海入之リ以へ云トルマ広江上世ドヨ夫始︑ヲ湯之茶ヲ子台 公亦後大徳寺江渡厥之︒是久氏々捨置有眨之之尊処︑之︒有日径山寺ヨリ台子一飾本江渡ス︒崇福寺数代打捨 福テ︑寺筑山州径虚堂知愚於シ寺唐入尚和南浦紹明山開崇法和四砌︑之朝帰師国応大尚年永文院山亀︒嗣得之 ○茶道之系        文政十三年︵一八三○︶頃から三十年に渡っての成立か           ︶﹇A﹈ 19

  このように︑径山寺台子伝来説は︑①の遠藤元閑﹃茶之湯六宗匠伝記﹄から︑⑪の﹃続視聴草﹄まで︑話の内容に多少異同があるものの︑江戸中期から後期に渡る百三十年ほどの間に成立した茶書等に確認できる︒さらに︑径山寺台子伝来説は︑それを伝える資料の性格という点から︑遠藤元閑や松本見休・豊田無関などの茶人らによって書かれた茶書に見られるものと︑谷秦山などの知識人によって記述された俗説や類書・雑録等に見られるものとの二つに大きく分類できる︒すなわち︑それは茶人と知識人の執筆者の相違による分類である︒

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径山寺台子伝来説の背景三一   右の十一のほとんどの話において共通する﹁径山寺﹂﹁虚堂智愚﹂﹁南浦紹明﹂﹁台子﹂﹁崇福寺﹂﹁大徳寺﹂﹁夢窓国師﹂の言葉を中心にみていくと︑内容は以下の三つの系統に分類できよう︒﹇A﹈﹃俗説贅弁﹄系統︑﹇B﹈﹃茶湯由来記﹄系統︑﹇C﹈﹇A﹈と﹇B﹈に属さない系統︑である︒

﹇A﹈③﹃俗説贅弁﹄・⑦﹃類聚名物考﹄・⑧河田直道﹃茶道論﹄・⑩﹃嬉遊笑覧﹄・⑪﹃続視聴草﹄﹇B﹈④豊田無関﹃茶湯由来記﹄︑⑨﹃千家秘伝茶経﹄﹇C﹈①遠藤元閑﹃茶之湯六宗匠伝記﹄︑②松本見休﹃貞要集﹄︑⑤坂本周斎﹃雪間草﹄︑⑥南秀女﹃茶事談﹄

められない︒ 言く︑多が同異に体文や葉のく通共は話各の統系﹈﹇とCに﹃愚認が言文の﹂明浦南﹂﹁紹智は﹁事堂談﹄茶径山寺﹂﹁虚 にの話の派流各るよ中かどな流徧宗たし立独ら径で︑い山こ弟のこる︒きで認確がとる寺てれら語が説来伝子台子の旦 ﹇C﹈は︑千利休の高弟から派生した遠州流や有楽流︑また千利休の孫である宗﹁虚堂智愚﹂が記されていない︒そして︑ 茶信筆執るよに堂茶の流﹈鎮は︑裏B﹇り︑あで書は﹈と家千るちうの葉言るす通共が︑あ﹇で話るよに写筆の弟高流C   ﹇とお示提で右で︑話るけにた類録雑書︑類説︑俗は︑﹈し共﹈ぼB﹇る︒あで容内じ同ほ通れ︑ら見て全が葉言のA

三、径山寺台子伝来説に関する史的記述

  径山寺台子伝来説は︑右を綜合すると︑概ね以下のようなあらすじになろう︒

がその台子を使って点前をしたのが︑茶の湯の始めである︒   ﹁山わ﹂や﹁大徳寺﹂に伝っ福た︒そして﹁夢窓国師﹂寺崇寺浦﹂の﹁虚堂智愚﹂が﹁南紹径明﹂に﹁台子﹂を贈り︑﹁

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三二   このあらすじの中に見える人名や名称は︑歴史的に存在することが確認できる︒そこで︑﹁虚堂智愚﹂と﹁南浦紹明﹂の史実関係を中国撰述の禅宗関連の典籍である﹃虚堂和尚語録﹄で確認し︑﹁台子﹂についての語源を宋代の書物で調査しつつ︑日本撰述の﹃大徳寺文書﹄や茶の湯文献から︑径山寺台子伝来説のあらすじにおける言葉の史実関係を確かめたい︒

  まず︑﹃虚堂和尚語録﹄巻十﹁虚堂和尚新添

録尚語 とて︑現代語訳を掲げるこすに用る︒その際︑﹃国訳虚堂和し引てをついて詳しく語られい明る︒以下にその該当箇所に ﹂には︑﹁日本の南浦知客に送る﹂と題する詩と餞別の言辞があり︑南浦紹 20

隆﹄および西尾賢 21

次と衣川賢 22

の解釈を適宜参照した︒ 23

日本南浦知客︒敲磕門庭細揣磨  路頭尽処再経過明明説与虚堂叟  東海児孫日転多明知客自発明後︑欲日本︒尋照知客・通首座・源長老︑聚頭説龍峯会裏家私︑袖紙求法語︒老僧今年八十三︑無思索︒作一偈︑以贐行色︒万里水程︑以道珍衛︒咸淳丁卯秋︑住大唐径山智愚︑書于不動軒

  ︻現代語訳︼

日本の南浦知客に送る紹明はわが知識を参問して子細に修め磨き  道に参じ終えたので再び来た路を帰っていく紹明に教えよう私虚堂が  日本の法を嗣いだ弟子たちが日に日に多くなろうとすることを紹明知客は悟りを明らかにした後︑日本に帰ることを告げようとしていた︒ついで照知客・通首座・源長老らが︑集まって龍峯会裏という径山会下の家風を語っていたので︑南浦は袖紙に法語を求めた︒老僧である私虚堂は今年八十三であり︑思索する力がない︒私は一偈を作り︑それをもって旅立ちの餞とした︒万里におよぶ船路︑道中では

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径山寺台子伝来説の背景三三 大切に気をつけよ︒咸淳丁卯の秋︑大唐の径山に住持する智愚が︑不動軒で記す︒

  この文には︑虚堂智愚が詩を詠んで︑南浦紹明に餞の言葉を贈り︑気遣う様子が記されている︒とくに傍線部で示した詩の部分に注目すると︑第三句目の﹁明明﹂は南浦の名

四年﹂と一致する︒ 節で確認した﹇A﹈系統の﹃俗説贅弁﹄および﹇B﹈系統の﹃千家秘伝茶経﹄に見られる南浦紹明が帰国する年の﹁文永 による臨済宗の繁栄を詩に込めていると考えられる︒また︑文中の﹁咸淳丁卯秋﹂とは︑日本の﹁文永四年﹂なので︑二 を強調し︑第四句目は虚堂が法を嗣いだ日本の弟子たちとそれら 24

  次に︑径山寺台子伝来説の中心でもある﹁台子﹂という言葉について︑史実関係を確認したい︒まず茶の湯の棚を意味する﹁台子﹂は︑成立過程が明らかではない

ものてしとたっあが名そに中のり飾所会の ︒神津朝夫は︑﹁﹁台子﹂という名称が中国に由来するものであり︑室町時代 25

たという以上の意味はなかっ ななく︑﹁台﹂し﹁いで小さな台﹂はの︑のそれは茶の湯風も炉釜などを置く 26

﹂と述べている︒ 27

  ここで︑中国における﹁台子﹂の意味を確認すると︑﹁器物を載せるための台﹂﹁机

籤例できる︒ここでは︑次二点をのとま七し雲﹃ず︑笈い︒げ掲てた かにいくつこ見るとが文献のをた意の﹂台のめる降せ載を物器﹁は︑味も子用以代宋て︑しと例のつ語漢れ︑らえ考と﹂ ﹂の意味がある︒茶の湯の棚の﹁台 28 其台子亦高二寸︑大小令之与鼎相当︑然後運火焼之︒承台子 ﹄に︑﹁然致鼎於炉可中︑懸二寸︑下為土 29

﹂とある︒次に︑﹃朱子語類 30

巻杉の台子のような形であるとして︑いずれも物を載せる台を意味している︒ し︑せるための﹁土台﹂を意味後を者は桮棬すなわち木の盃は載た鼎と想如今巻杉台子様﹂模あ炉る︒かにけは者前 ﹄︑棬桮﹁に︑中の 31

  次いで︑日本における﹁台子﹂の用例を確認したい︒径山寺台子伝来説の中で︑台子が大徳寺に伝わったということから︑﹃大徳寺文書﹄を見ると︑永正六年︵一五○九︶の﹃大徳寺文書之四﹄﹁大徳禅寺如意庵什物﹂の中に︑﹁台子﹂という用例が二例ある︒以下にそれらを抜粋する︒

  まず︑大徳寺塔頭の一つである如意庵﹁書院﹂における什物に︑﹁台子﹂の記述が見られる︒

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三四    天目﹁以衆評沽却﹂   一ケ  金覆輪﹁□ □□﹂    台子﹁同前﹂      一ケ  白覆輪沈金   次に︑﹁茶堂﹂すなわち茶室における什物の中にも﹁台子﹂の記載が見られる︒

   天目       十ケ  付箱

   台子      十ケ  白覆輪

  しかし︑ここでの﹁台子﹂は︑茶の湯の棚としての台子ではないと考える︒まず︑二例とも﹁台子﹂の一項前に天目茶碗 る類器の縁を金属の物で取ったものであ縁 ま﹂輪覆白﹁ず︑とる︒れわ思匠意るは﹁と﹂銀鍔のど覆碗茶鞍︑やなのい︑言もと輪刀 子輪﹂とは︑台れに施さてい白覆﹂﹁とこび﹁白覆輪﹂金あるとである︒この﹁白覆輪沈 て致しをいる︒そしが一指数のそり︑あと﹂目天す﹁さて︑台ら下よお﹂金沈輪覆白に﹁のに﹂子﹁は︑点きべす目注 32

る線彫りをし︑その彫り溝に金箔などを付着することで模様にする漆工技法であ りに面表たね重を塗︒漆は︑と﹂金沈﹁た︑ま 33

34

  この﹁白覆輪沈金﹂あるいは﹁白覆輪﹂が伴っており︑かつ﹁天目﹂の次に記されている﹁台子﹂とは何か︑と考えると︑これは天目茶碗を載せる台すなわち﹁天目台

漿ら酸は﹁台目天る︒れえ考とるあで2︶ ﹂︵図 35

砂る羽や漿酸のが︑あ縁が台目天ういとのそに尼は輪覆の﹂台崎は︑﹁れら見が輪覆る︒ がこるいてれさ施縁輪覆にの﹂羽﹁でと崎あ的﹂台尼に﹁のる︒なも表代の台目天在︑現 目と﹂漿酸の﹁台天ら台は︑れる脚かなる︒ここで︑目天に﹁白のういとう伴が﹂輪覆 皿る﹂れば呼とて︑羽る﹁け受を漿酸のの状支部る﹁ば呼と﹂分︑土居えを羽のそしそ 載と呼ばれる茶碗を﹂せる椀形の部分と︑そ 36

図2 天目台(尼崎台)(『宋元の美─伝来 の漆器を中心に─』

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径山寺台子伝来説の背景三五 張という銅を主とし錫や鉛を加えた黄白色の合金によって意匠されている

の﹁白覆輪﹂は砂張のことと思われよう︒ ものであることから︑右の台子すなわち天目台 37

  一方︑茶の湯における棚としての台子について︑簡潔な説明は︑天文二十三年︵一五五四︶の﹃茶具備討集﹄に見える︒

   台子︑或作抜挿︒茶湯棚也︒

  この一文から台子は︑﹁抜挿﹂すなわち組み立て式につくった︑茶の湯の棚であると解釈できる︒すでに︑先行研究では︑台子は茶の湯棚から発展したと指摘されている

棚﹂︵図3︶は︑しばしば台子の起源とされる ︒室町中期の唐物鑑賞の秘伝書﹃君台観左右帳記﹄に見られる﹁茶湯 38

︒それは次の通りである︒ 39

   茶湯棚飾︑一間ノ茶湯棚︑是ハ御会所ノ御飾ニテ候︒此外ニハ色々取合テ飾可有之候︒

  この一文は︑茶の湯棚の飾りとは︑一間すなわち約一メートル八十センチの茶湯棚であり︑これは会所の御飾りである︒この外にはいろいろと取り合わせて飾ることがあるという︒また︑この一文には絵が添えられている︒幅一メートル八十センチ四方の空間に︑その上部四分の一部分に袋戸棚が二つ備わり︑その下の空間部分右三分の二ほどに︑台子に発展する前と思われる飾りが描かれている︒す

図3 茶湯棚(『君台観左右帳記』)

(13)

三六

なわち︑風炉釜や水指︑杓立などの上の板に︑大きな丸盆と方盆があり︑それらの中に天目台と天目茶碗がいくつか確認できる︒そして︑残りの左の空間にも横に板で区切りをつけ︑板の下には盆に天目台や茶入︑板の上には食籠が飾ってある︒つまり︑茶の湯における棚としての台子は︑この右三分の二ほどに見られる飾りをそのまま取り出したとされる

40

  ところが︑右で﹁台子﹂の用例を確認した﹁大徳寺如意庵什物﹂﹁茶堂﹂の什物の冒頭に︑興味深い記述が見える︒以下にその部分を抜粋する︒

   茶湯棚     一脚    鑵子      一口付鈎

   風呂﹁破了﹂   一口    方盆      一箇   ここで注目したいのは︑まず︑筆頭に﹁茶湯棚﹂が﹁一脚﹂とあることである︒続いて﹁鑵子﹂すなわち釜や︑﹁風炉﹂︑﹁方盆﹂が順に見られる︒これは﹁茶湯棚﹂が重んじて位置づけられ︑それを﹁一脚﹂と数えていること︑続いて釜や風炉︑方盆が﹁台子﹂に飾られる道具であることからも︑﹁茶湯棚﹂は﹁棚﹂としての﹁台子﹂を意味していると考えられよう︒神津朝夫は永享七年︵一四三六︶の﹃看聞御記﹄に︑﹁御茶具足棚一脚﹂という茶湯棚の初出を指摘し︑それ以降室町時代のいくつかの文献にも﹁茶湯棚﹂という言葉が見えることを取り挙げ︑これを可動式の茶湯棚と位置づけている

41

  この大徳寺如意庵の什物では︑﹁台子﹂は天目台であり︑棚としての台子は﹁茶湯棚﹂と呼ばれていたことが確認できた︒﹃茶具備討集﹄の記述からも︑それ以前の台子は︑﹁茶湯棚﹂と呼び習わしていたことが推測される

に︑まず先に﹁天目台﹂が︑後に﹁茶湯棚﹂の概念が付加されたといえよう︒ こ変化したと考えられよう︒の称ように︑﹁台子﹂という言葉が名せる茶湯棚は﹁物を載に︑台﹂という意味の﹁台子﹂ ここの︒とから︑ 42

(14)

径山寺台子伝来説の背景三七

四、径山寺台子伝来説と渡唐天神説話

  右において︑径山寺台子伝来説に関して諸書を確認したが︑そこでは虚堂智愚と南浦紹明の師弟関係しか史実を確認することはできなかった︒一方︑﹁台子﹂に関する史実関係については︑室町時代後期の大徳寺の什物に﹁茶湯棚﹂という記述が見え︑それが茶の湯における棚としての台子であろうと推測できた︒だが︑径山寺台子伝来説成立時期とされた鎌倉時代から南北朝時代の大徳寺には︑茶湯棚としての台子の存在は確認できなかった︒この点からも︑径山寺台子伝来説は創作であると考えられる︒

  史実関係として認められる径山寺の﹁虚堂智愚﹂と﹁南浦紹明﹂の師弟関係とその時代性︑および茶の湯における格式の高い点前道具である台子の﹁象徴性﹂︑そして大徳寺やその他の﹁場所﹂に伝わったという三点が︑径山寺台子伝来説の創作の要点であると考えられる︒また︑これらは第三節の冒頭で示した径山寺台子伝来説のあらすじに一致することも確認できよう︒そこで︑﹁虚堂智愚﹂﹁南浦紹明﹂という実在の人物関係︑台子の﹁象徴性﹂︑そして台子が崇福寺や大徳寺︑天龍寺などに伝わったとされる﹁場所﹂に注目すると︑これらの三点が室町時代の﹁渡唐天神説話﹂に近似していると考えられる︒

  渡唐天神説話とは︑簡単に言えば︑﹁天神﹂すなわち菅原道真︑または﹁円爾﹂が﹁径山寺﹂に渡って︑﹁径山寺﹂の﹁無準師範﹂に参禅して法を嗣ぎ︑その証として﹁法衣﹂を授かったという話である︒渡唐天神説話には数種の類話があり︑話の根幹はおおよそ同じであるが︑話によってそれにまつわる物語が多少異なる︒これは禅僧たちの間で執筆された年代や伝承された地方によって話に異同があるからである

とま︶︵裟袈﹂︵梨伽僧は﹁た4︶5︶図軸︵一﹂神天唐渡﹁図像をを象るす置に所場るあ安れてそ物とし位置づけ︑徴 おにう造構の語物場いと﹂所る﹁すて置い唐一渡来は︑で話説神天る︒致れら見が点るす安伝物をれそと︶アリガレ﹂︵   の内容を︑径山寺台類話唐の話説神天伝渡で︑ここ子来説と︑徴象も﹁に話説神天唐渡る要の創作すの点と比較    い︒ こ史をとをのそに︑下以料︒提示しながら︑確認してみた 43

(15)

三八

いう物語の構造が記述されている︒さらに︑﹁無準師範﹂︵一一七八〜一二四九︶と﹁円爾﹂︵一二〇二〜一二八〇︶の師弟関係については史実性も確認できる︒

  このことから︑渡唐天神説話における︑﹁象徴物﹂と﹁伝来場所﹂という点に注目して︑具体的に以下の三つの話を提示してみたい︒まず︑渡唐天神説話において最古の話とされる室町時代初期の応永元年︵一三九四︶に成立した︑花山院長親﹃両聖記﹄ 44を抜粋する︒

 昔無準和尚径山に住し給ける時︑北野天満天神ある夜半ばかりに日本の菅丞相と名のりて︑受衣しまし

けるよし申伝へたり︒︵中略︶こゝに呉竹のふしみの里とかや︒代々の御門おほむくらゐをさらせ給て︑紫の雲の上をみどりの蘿の洞に住かへさせまします事たびかさなりぬ︒ちか比又宇多花山のふかき御跡にもこえて︑少林のおく曹渓の源まで深くたづねきはめさせ給ふふた代の御事のかたじけなさは申もさらなり︒かの仙洞にひきはなれて︑一宇をたてられてうつり住まし

し所を蔵光菴となづけて︑光かくれさせ給 図4 渡唐天神像(『高僧と袈裟』)

図5 僧伽梨(袈裟)(『高僧と袈裟』)

(16)

径山寺台子伝来説の背景三九 し後より御門徒の尊宿いにしへのみことのりをたがへず︒まもりおこなひ給めり︒今の幽林主翁すなはち其人になむおはす︒明徳の比︑同伴の僧月渓の夢に︑おほきなる島の中に一の壇あり︒壇の上に宝塔あり︒塔に法華の妙典を安置す︒そのかたはらに峩冠盛服して︑絵にかける唐人のごとくなる貴人立給へり︒誰ならんとおもふところに︑虚空に声ありて︑是なむ北野の天満大自在天神におはしますといふとみえけり︒︵中略︶其後応永元年の秋︑幽月同門の僧忠菴のかたより天神無準に受衣し給ける御姿を図したる形象とて幽林に奉れる︒月渓これをみるに夢に見奉りし儀貌衣冠にたがふことなし︒いと不思議なることになん︒幽林感歎のあまり︑つら

是を思ひめぐらされけるは︑此菴もとより宝塔をたてゝ︑中に法華を安じて本尊とす︒︵中略︶当菴永代の土地神に勧請し奉りて︑朝夕の焼香供養︑懇誠をつくされけり︒かの仙洞につかふまつる人々︑此事どもを伝きゝて︑和歌を詠じて法楽しけるに︑近辺閑居の僧どももをの

志をのべてあつめて一軸をなせり︒︵以下省略︶

   この﹃両聖記﹄は︑南朝の後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇に仕え︑のち︑出家して臨済宗法燈派の僧となった︑花山院長親すなわち子晋明魏が著述した話である︒冒頭の一文には︑無準和尚が径山寺の住持だった時︑天神である菅丞相︵菅原道真︶が夜半にやって来て︑﹁受衣﹂すなわち法を嗣いだという︑渡唐天神説話の根幹が見える︒話を要約すると次のようになろう︒

  京都伏見の︑持明院統歴代天皇の仙洞御所があった近くに蔵光菴という夢窓派の禅寺があった︒そこには幽林主翁すなわち休翁普観という夢窓派の僧が住持していた︒明徳の頃に︑同伴の僧である月渓は次のような夢を見た︒大きな島の中に一つの檀があり︑檀の上の宝塔に﹃法華経﹄を安置した︒すると︑厳かな冠と立派な服を着た︑唐人のような貴人が立っていた︒誰であるかと思ったところに︑虚空に声があって︑こちらは北野の天満大自在天神でいらっしゃると言った

(17)

四〇

と思われた︒

  その後応永元年の秋に︑幽林と月渓の同門である僧忠菴から︑天神が無準師範より受衣した姿の図像が幽林に贈られた︒月渓はこの図像を見るなり夢に見た立派な服と冠をつけた天神の姿に相違なく︑大変不思議なことだと思った︒幽林は感激のあまり︑よくよくこの図像をおもい巡らし︑蔵光菴に宝塔を建てて︑中に﹃法華経﹄を安置して本尊とした︒

  そして︑天神を土地神として勧請し︑朝夕の焼香供養を行い︑まごころをもってつくした︒また︑仙洞御所に仕える人は︑このことを聞いて︑和歌を詠み読経や音楽を奏でて法楽を行い︑近辺に住む僧たちがこの図像を一軸として安置した︒

  次に︑室町中期相国寺夢窓派の僧である瑞渓周鳳の日記を︑同時代末期に同寺の僧である惟高妙安が抄録した﹃臥雲日件録抜尤﹄文安三年︵一四四六︶四月十五日条の︑天神像が薩摩福昌寺に伝承する記事を抜粋し︑要約したい︒

礼才極和尚同到瑞雲︑茶話之次︑及北野天神事迹︒極曰︑吾聞薩摩州福昌寺︑乃石真梁道場也︑一日寺僧普請︑改築殿基︒於岩間一画天神像︒上有記︒述天神参師範之由云︑築

其可高非欠所行喜︒者経夜読曰︑而持来神已︒夢謝不戒人人某焉︒︒座僧一読更︑益異其然選精当要︑ 為称世択可且一部千読︑人百僧華︒之我戒犯集不法︒一之弁遽為未犯︒持戒斍然︑僧百集乃後生 前有一富民︑一夕夢天神来︑請   下 知︒所以精選其衆︒時東福開山聖 円爾一国師︑自大宋帰朝︑居築前崇福寺︒某人行告之︒聖一曰︑此事非難︑汝当水晶数珠十連︒某人許諾而去矣︒及其日︑聖一︑於道場四面︑陳列十数珠︑中安一榻︑独坐其上︑読経一部︑下座曰︑読経已畢︒其人又夢︑神来謝︑吾願畢矣︒爾後︑聖一定中︑神来請授衣︑聖一撝謙曰︑吾師今幸住寿︑行受其衣可也︒神唯〻而去︑異日定中神又来見︑袖挿梅花一枝︑肘懸一嚢︑自指

其嚢云︑吾已受衣︑在是中矣︒像上所記︑大略如是︒石屏 弟子鑑 守鑑叟︑有道之士也︒行化到勢州︑与吾同門礼長蔵主解 邂逅后︑話此事云〻︒

(18)

径山寺台子伝来説の背景四一   瑞渓周鳳が友人で聖一派の愚極礼才から渡唐天神説話の由来を聞き︑日記にしたものである︒薩摩福昌寺は曹洞宗石屋真梁が開山した寺で︑ある日寺僧が普請のために︑寺の改築を行っていたところ︑岩の間から天神画像が発見された︒それには︑以下のような話が記述されていた︒筑前に住むある一人の裕福な者の夢に天神が現れ︑一生不犯戒の僧百人を集めて︑千部の法華経を読経することを求めた︒百人の僧を集めたが︑これらの僧が持戒僧であるかは分からず︑世間で名高い僧のみを選んだ︒しかし︑その夜夢に天神が来て読経について謝礼は述べたが︑不足であった持戒の僧について精選し︑さらに一座の読経を願った︒筑前の一富民は困り果て︑その時︑東福寺開山の聖一国師︵円爾︶が宋より帰国して︑筑前崇福寺に居たので相談した︒円爾が道場の四面において︑数珠をならべ︑榻の上で読経をすると︑天神は満足した︒そののち︑円爾のところへ天神が来て︑受衣を願った︒しかし︑円爾は自分の師である径山寺に住む無準師範に参禅することを天神に勧めた︒天神は再び円爾の前に現れると︑梅花一枝を袖に挿し︑肘に一嚢を掛け︑自らその囊を指して︑無準師範より受衣した衣はこの中にあると述べた︒なお︑この話の後に︑﹃両聖記﹄に見られる天神像が伏見蔵光菴に伝来安置される内容が記されている︒  次に︑室町時代中期から末期頃に成立したとされ︑著者未詳の﹃菅神入宋授衣記﹄を適宜抜粋し︑要約したい︒

天満天神以径山伝授之僧伽梨置西都霊岩神護山光明蔵神寺流記︒慧日山東福寺第一世聖一国師︑師歳三十四︒大宋国︑見径山仏鑑禅師︑親侍巾瓶︒是則日本四条院嘉禎元年乙未四月︒当于宋理宗端平二年也︒後七年︑以仁治二年辛丑四月廿日︑辞仏鑑禅師帰朝︒師歳四十︒是年七月旦達博多︒同月不横岳山湛恵禅師往日之約宰府︒横岳掲勅賜万年崇福禅寺之額書︒属与聖一国師之真蹟也︒開堂演法︒同年臘月十八日︑天満天神新入崇福方丈︒因見聖一国師禅︒尊神昇天後三百卅九年︒即仁治二年也︒国師屢示誨︒即以其夜径山︑参得仏鑑禅師︑親伝与僧伽梨云々︒︵中略︶伽梨伝授之後︑亀山院文永八年辛未十月望︒  尊神現承天禅寺丈室裡︑拈出径山之伝衣︒以告鉄牛心和尚曰︑

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四二

和尚願安此伽梨於一所者︑豈不悦懌乎︒言訖付伽梨於和尚︑飄々然凌空而去︒于時和尚主承天︑親蒙  尊神之属語︒以同月廿五日︑就于宰府霊岩之左辺︑剏一僧宇︒以安置  尊神付与之伽梨︑而為衣塔明神之廟所也︒鉄牛心和尚誕生之霊地也︒又至文永第十癸酉之年︑ 尊神又夢裡告鉄牛和尚曰︑吾伝授之伽梨︑得和尚之安置︒最以襟懐故︑毎日入此地護伽梨云々︒︵以下省略︶

  この話は︑天神が径山寺から伝授した僧伽梨すなわち袈裟が︑太宰府の霊岩神護山光明蔵寺すなわち光明寺に伝来安置されたことを述べるものである︒東福寺第一世の聖一国師︵円爾︶は入宋し︑径山寺の仏鑑禅師すなわち無準師範に参禅して︑親しく傍に仕えた︒円爾は帰国すると︑太宰府横岳に崇福寺を開山した︒そこに︑天神が現れ円爾に参禅を問うた︒円爾は自分の師である無準師範に参禅することを勧めると︑天神はその夜に径山寺の仏鑑禅師︵無準師範︶に参禅し︑僧伽梨︵袈裟︶を伝授して帰国した︒

  そののち︑天神は円爾開山の承天寺に現れて︑住持の鉄牛和尚に径山寺無準師範より授与された僧伽梨を一所に安置してほしいと願った︒鉄牛和尚は太宰府の霊岩の左辺に寺を建て︑その僧伽梨を安置した︒また数年経って︑天神は鉄牛和尚の夢に現れて︑わたしが伝授した僧伽梨が鉄牛和尚によって安置されたことは︑大変満足していると言い︑さらに︑毎日この地に入って僧伽梨を拝み護ろうと言った︒

  なお︑省略した本文中では︑﹃両聖記﹄および﹃臥雲日件録抜尤﹄における渡唐天神画像が伏見蔵光菴と薩摩福昌寺に伝来安置される内容にも触れている︒

  以上︑渡唐天神説話の類話三点において︑﹁象徴物﹂︵レガリア︶と﹁伝来場所﹂という点に着目してその物語を概観した︒このうち︑﹃両聖記﹄と﹃臥雲日件録抜尤﹄では︑﹁渡唐天神像﹂が﹁伏見蔵光菴﹂と﹁薩摩福昌寺﹂に安置所蔵されたとある

では︑象徴物に﹁渡唐天神像﹂という絵画と﹁僧伽梨﹂という衣の二点があることが分かる︒ ﹃菅神入宋受衣記﹄では︑︒これに対して︑﹁僧伽梨﹂が﹁太宰府光明寺﹂に所蔵安置されたと確認できる︒ここ 45

(20)

径山寺台子伝来説の背景四三   以上を踏まえ︑径山寺台子伝来説と渡唐天神説話に共通する記述や物語の構造︑そして両者の関係について整理する︒まず︑径山寺台子伝来説の﹁台子﹂の持つ﹁象徴性﹂︑そして台子が崇福寺や大徳寺︑天龍寺などの場所に伝来したという話の構造は︑渡唐天神説話における﹁衣﹂が﹁伏見蔵光菴﹂と﹁薩摩福昌寺﹂︑および﹁太宰府光明寺﹂という場所に伝来安置されたという物語の構造に当てはまるといえよう︒  また︑﹁象徴物﹂と﹁伝来場所﹂という構造の他に︑もう一点注目すべき構造がある︒それは︑いずれの類話においても︑﹁衣﹂という象徴物を媒介に︑師匠から弟子への師資相承という構造が見られることである︒渡唐天神説話では師匠である﹁径山寺の無準師範﹂から︑嗣法の際に﹁衣﹂が弟子である﹁天神﹂および﹁円爾﹂に伝授される呼応構造が確認できる︒これに対して︑径山寺台子伝来説においては︑師匠である﹁径山寺の虚堂智愚﹂から︑嗣法の際に﹁台子﹂が弟子である﹁南浦紹明﹂に伝授されたという呼応構造が見られる︒  両者の呼応関係であるが︑﹁虚堂智愚﹂と﹁南浦紹明﹂の史実関係は先の通り︑実在の師弟関係があると認識できた︒同様に﹁無準師範﹂と﹁円爾﹂という師弟関係においても︑渡唐天神説話は架空の話であるものの︑両者の関係は実在の師弟関係にあったようである︒それは︑無準師範から円爾への手紙である﹁墨蹟文書﹂無準尺牘写の中で︑無準が円爾からの手紙の返信を兼ねて︑円爾と日本の禅宗の発展を祈りつつ衣を贈っている

堂智愚の関係も︑それぞれの師匠が兄弟弟子の関係にあり近しい 記述がある︒また︑系譜上︑無準師範と虚 46

47

  一方︑﹁円爾﹂と﹁南浦紹明﹂の関係は︑上田純一の指摘によれば︑南浦紹明は円爾の開山した崇福寺へ入って︑三十年以上住持したとされ︑崇福寺は次第に聖一派から南浦紹明の大応派の寺に移行したという

るであったことを論じてい 尙忌日陞座﹂という文言が見られ︑円爾の七七日忌に忌日陞座という説法を行っていることを指摘し︑二人は親しい間柄 人物で︑親戚関係でもあるという説があると述べる︒さらに︑南浦紹明の語録﹃円通大応国師語録﹄に﹁東福開山聖一和 ︒また上田は︑二人は同郷の 48

び帰国した僧として近しい関係にあったと考えられる︒ ︒このように︑円爾と南浦紹明はともに大陸の径山寺に渡り︑中国のそれぞれの師から禅を学 49

  以上のことから︑径山寺台子伝来説は渡唐天神説話に見る﹁無準師範﹂から﹁円爾﹂への師弟関係を通して行われる

(21)

四四

﹁伝衣﹂の伝承と︑その伝来安置する点を参照して︑話が作られたのではなかろうか︒

五、伝衣と台子

  径山寺台子伝来説は︑渡唐天神説話と比較すると︑まず︑象徴物︵レガリア︶と﹁伝来場所﹂の構造という一致が確認できた︒さらに︑師匠から弟子に法が嗣がれる際に︑象徴物が相承されるという構造も互いに見られた︒その象徴物は︑径山寺台子伝来説では﹁台子﹂であり︑渡唐天神説話では﹁衣﹂である︒前者における﹁台子﹂の位置づけは︑後者の﹁衣﹂を模倣したと考えられる︒そこで︑後者における﹁衣﹂の意味を明確にし︑前者における﹁台子﹂の背景と意図について︑前者と同時期の江戸中期の茶の湯の理論書である﹃南方録﹄から検討してみたい︒なぜなら︑﹃南方録﹄は﹁覚書﹂﹁会﹂﹁棚﹂﹁書院﹂﹁台子﹂﹁墨引﹂﹁滅後﹂の全七巻からなるが︑この﹁台子﹂の巻には江戸中期の茶の湯における﹁台子﹂の位置が示されるからである︒

  さて︑渡唐天神説話に見る中国径山寺の﹁無準師範﹂と日本の僧﹁円爾﹂は史実上の師弟関係にあり︑﹁無準師範﹂から﹁円爾﹂に﹁衣﹂が伝授されたことは︑﹁墨蹟文書﹂無準尺牘写の中でも確認した︒この師弟間で﹁衣﹂が伝授されることを﹁伝衣﹂と言う

れる︒ ︒この衣は︑師匠から弟子に禅の奥義を伝える時︑その伝法の正統性を証明するものとして授けら 50

  一方︑本稿第三節で検討した通り︑台子には﹁天目台﹂としてのものと﹁棚﹂としての台子が存在したことが確認できた︒そして︑ここで議論となる棚としての台子は︑室町時代においては﹁茶湯棚﹂と呼ばれ︑その茶湯棚が戦国時代になって﹁台子﹂と呼ばれるようになったことが確認できた︒この台子が︑江戸中期において象徴化されるようになるのである︒

  台子の変遷に関する研究として︑神津朝夫﹁台子点前の秘伝化﹂が注目される

にもな点前であったが︑次第に特別なの自へと昇華され︑秘伝化されるよう由る衆前よによる台点子は︑各人の作意に のとくに重要な︒は︑戦国時代頃の町 51

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径山寺台子伝来説の背景四五 なったと指摘する点である︒そして︑そのことを裏付ける事柄として︑以下の二点を挙げている︒まず︑天正十三年︵一五八五︶秀吉が行った禁裏献茶によって特別な点前とみなされるようになったこと︑次に︑江戸初期から江戸中期における真台子の点前が千家の茶においても大名家の茶においても︑実際の茶の湯では行われることのない皆伝のための点前として秘伝化されていったことである︒この神津の議論を踏まえるならば︑安土桃山時代から江戸中期までの間に点前が形成化されることにより︑台子は象徴的なものとして意義づけされたと解釈できるだろう︒  こうした象徴性を伴う台子は︑渡唐天神説話における﹁伝衣﹂という師資相承の伝承から影響を受けて︑径山寺台子伝来説が創作されたと考える︒というのは︑﹃南方録﹄﹁台子﹂の巻の冒頭に︑興味深い一文があり︑径山寺台子伝来説の中で台子を師資相承の伝承として位置づける補強資料になると考えるからである︒その一文とは以下の通りである︒

台子幷及第台子︑中板

利休自筆ノ文尚

此十五日吉日にて候まゝ︑台子かた

御稽古初尤候︒愚宅へ御出あるべく候︒かしく昨日御尋候へども︑不図ニ候故︑御残多迄ニ候事︒一  台子相伝之事︑御前へ申上︑御免候間︑此上は御情次第ニ候事︒一  台子之事は︑御懇望多年之子細ニ付︑秘蜜之奥義相伝可申候︒殊更御意ニ対︑聊露顕あるまじく候事︒一  図無之候てハ指南申がたく候︒小切紙にて可申候︒我等も師伝已後︑数々之飾ハ常ニ不取出︑打忘無正躰候事︒一  申ても

小座敷ならでハ︑茶之湯之本心ハ難至事ニ候︒朝夕御工夫肝要ニ候事︒一  知行所之野菜折ふし来候まゝ︑一籠送申候︒

   かしく

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四六     十月八日        在判        抛│

       宗易       集雲庵主          まいらせ候右文ハ杉原一枚紙竪文也︒惣而此巻台紙ニシテ此文並已下之切紙ミナ

押テ有之︒此文ト台紙ニカケテ南坊印判アリ︒

  この文は︑台子の伝授を示す利休自筆の文とされる︒これは利休が弟子の南坊宗啓

山九南方録﹄は元禄三年︵一六○し︶以降の成立とされ︑立花実︑﹃かれ︒るれさとるいてさ記きし た紙手にえ与︑でが台子相伝の心得書 52

︒は休から南坊宗に送られた手紙啓架判空うよき断でとるあで話の る︑︒したがってる右の文におけ利であ書休機茶の論利︑にをを年百後没休利がの湯理茶理るす関に湯のたし作創てし化想 〜一六五五︵一七○八︶ 53

  だが︑﹃南方録﹄は江戸中期の茶の湯を知る思想書として︑これまで一定の評価が与えられてきた︒この﹃南方録﹄の台子伝授を示す一文は︑江戸中期の茶の湯における台子点前の相伝について記述していると考えることができる︒その内容を見てみると︑台子の相伝はまず︑御前による許可が必要であり︑師匠と弟子の間における﹁秘蜜之奥義相伝﹂であり︑さらに小切紙にして伝授する法であったという︒このように台子の点前は︑師匠より上の位にあるものの許可が必要で︑師匠と弟子の間における秘伝の奥義相伝であり︑さらに切紙伝授の法であったことがわかる︒

  一方で︑﹃南方録﹄は台子ではなく︑草庵というわび茶を主張する理論書である︒それは︑右の文に﹁申ても

小座敷ならでハ︑茶之湯之本心ハ難至事ニ候﹂ともあるように︑この﹁台子﹂の巻においてさえ︑茶の湯は小座敷という草庵でなければ︑本当の心に至ることはできないと主張する︒この主張より先に︑﹃南方録﹄の最初の巻である﹁覚書﹂の

(24)

径山寺台子伝来説の背景四七 冒頭には︑﹁茶湯は台子を根本とすることなれども︑心の至る所は草の小座敷にしくことなし﹂という有名な一文がある︒すなわち︑草庵の茶の湯を極めてこそ︑台子の茶の湯があると主張する︒これらの点から﹃南方録﹄では︑草庵の茶の湯の対極に﹁台子﹂が奥義としてあり︑象徴化されたものとして位置づけられていることがうかがえよう︒  このように︑江戸中期の茶の湯において︑師匠から弟子に茶の湯の奥義を相伝する際に︑台子の点前が行われていたと確認できよう︒そして︑こうした﹃南方録﹄の師弟間における台子相伝の伝授の背景からも︑径山寺台子伝来説は渡唐天神説話の師資相承の伝承を踏襲して︑江戸中期の茶の湯における台子の意義を啓蒙したといえよう︒

おわりに

  以上︑径山寺台子伝来説が︑創作される過程においてどのような背景があり︑意図があるのかを考察した︒その方法論として︑江戸時代の茶書等にみられる径山寺台子伝来説から︑共通する記述や史実関係︑物語における呼応構造および関係性を︑﹃虚堂和尚語録﹄や宋代の編纂物︑﹃両聖記﹄や﹃臥雲日件録抜尤﹄﹃菅神入宋受衣記﹄などの渡唐天神説話︑そして︑﹃南方録﹄から調査検討した︒

  これらの考察から︑次の二点が明らかになったといえよう︒まず︑先行研究によって﹁台子﹁ひとかざり﹂が鎌倉時代に茶で使用された記録は全くない

は戦国時代以前には﹁茶湯棚﹂と呼ばれていたことが確認できた︒ が味意ういと棚の湯の茶﹂使子台﹁た︑まく︑高が性能で用可る子台も︑かしる︒あでらかあさで降以代時国戦はのるれ るいにすの録記の代時町室る関てに物什の寺徳大都京ば︑中確ら﹂れさ用使で味意ういと台認目天﹁は︑﹂子台る﹁きで であろう︒すなわち︑鎌倉時代には茶の湯における棚としての台子は︑使用はおろか︑そもそも存在していない︒なぜな ﹂という指摘がすでにあるが︑これについて︑以下のように︑より厳密な指摘ができる 54

  また︑次に︑径山寺台子伝来説に共通する表現や呼応構造が︑渡唐天神説話にも確認できることを指摘した︒ここでは︑渡唐天神説話における径山寺無準師範から円爾あるいは天神への嗣法の際に伝授される﹁衣﹂という象徴物と︑それ

(25)

四八

が伝来された場所に注目した︒この象徴物の相承と伝来安置の構造が︑径山寺台子伝来説にも当てはまるといえよう︒すなわち︑径山寺虚堂智愚から南浦紹明に相承されたとされる﹁台子﹂の背景にも嗣法が見られ︑崇福寺や大徳寺︑天龍寺に伝来し什物となったという構造である︒そして︑﹃南方録﹄の﹁台子の伝授﹂の例からも︑茶の湯において師匠から弟子に相伝される台子点前の背景には︑茶の湯に関する奥儀の相伝があったことが確認できた︒

  ここで︑振り返っておきたいのは︑第一節で指摘したように︑﹃古事類苑﹄を通じて﹃俗説贅弁﹄に見られる径山寺台子伝来説が現在まで取り上げられて参照されてきた理由である︒それは︑第二節で分類したように︑﹇A﹈﹃俗説贅弁﹄系統の文中には﹁虚堂智愚﹂と﹁南浦紹明﹂の嗣法の関係が文言として記述されてきたからである︒すなわち︑こうした師弟間の伝授が文面に見られることが重視され︑﹇A﹈系統の諸書が台子伝来説の定説とされて流布されてきたのであろう︒

  以上のことから︑径山寺台子伝来説の背景と意図には︑渡唐天神説話があり︑禅宗における師資相承とそれに伴う﹁伝衣﹂という伝承の慣習を模倣して︑茶の湯における師資相承の際の象徴物として﹁台子﹂を用いる話が創作されたと考える︒

  一方本稿では︑径山寺台子伝来説の背景に渡唐天神説話があることに関して︑互いの共通する記述や︑物語の呼応構造の比較のみにとどまっている︒第四節で考察したように︑渡唐天神説話の各類話は︑臨済宗の各派閥によって話が異なる︒今後の課題として︑径山寺台子伝来説の話の形成が︑渡唐天神説話の各類話のどの話のどの部分に根拠があり︑どのように関わっているのかについて検討していきたい︒

[使用テクスト]主に以下に依拠しつつ︑適宜︑句読点・読み等を私に改めた︒﹃雲笈七籤﹄﹃朱子語類﹄=中華書局︒﹃虚堂和尚語録﹄=大正新脩大蔵経︒﹃君台観左右帳記﹄﹃両聖記﹄﹃菅神入宋受衣記﹄=群書類従︒﹃臥雲日件録抜尤﹄=大日本古記録︒﹃大徳寺文書﹄=大日本古文書︒﹃茶具備討集﹄=茶道全集︒﹃南方録﹄=日本思想大系︒﹃茶之湯六宗匠伝記﹄=茶道古典集成︒﹃貞要集﹄=国立国会図書館所蔵本の翻刻である﹁貞要集︵一︶﹂木芽文庫東京研究会石山隆唯・武内範男・清水実・矢崎格・鈴木津留三・矢部誠一郎︵﹃茶湯﹄二十一号 思

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径山寺台子伝来説の背景四九 文閣出版︑一九八七・三︶︒﹃俗説贅弁﹄=早稲田大学所蔵写本︒﹃茶湯由来記﹄=松浦史料博物館所蔵写本の翻刻である﹁茶湯由来記﹂茶書研究会櫻本香織・廣田吉崇︵﹃茶書研究﹄第七号  宮帯出版社︑二○一八・六︶︒﹃雪間草﹄=桃夭会蔵書複製版本︒﹃茶事談﹄=早稲田大学所蔵版本︒﹃類聚名物考﹄=歴史図書社︒﹃茶道論﹄=日本庶民文化史料集成︒﹃千家秘伝茶経﹄=桑名市立文化美術館所蔵写本︒﹃嬉遊笑覧﹄=名著刊行会︒﹃続視聴草﹄=内閣文庫所蔵史籍叢刊︒

[図版出典]図1  池田巖ほか﹃茶道美術鑑賞辞典﹄︵淡交社︑一九八○・三︶七三七頁︒図2   ﹃宋元の美

伝来の漆器を中心に﹄︵根津美術館︑二○○四・十︶一四六番︒図3

  ﹃君台観左右帳記﹄

︵﹃群書類従﹄第十九輯  訂正三版  続群書類従完成会︑一九八四・一︶六六三頁︒図4   ﹃高僧と袈裟﹄

︵京都国立博物館︑二○一○・十︶一五三頁︒図5

  ﹃高僧と袈裟﹄

︵京都国立博物館︑二○一○・十︶一二二頁︒

[注]︵1︶径山寺は杭州市から西北の郊外にある余杭区径山鎮にあり︑正式名称は﹁興聖万寿禅寺﹂という︒なお︑﹁径山﹂は山号である︒︵2︶径山寺ホームページには︑﹁探析径山茶宴与日本茶道缘起﹂と題して︑径山寺の茶宴すなわち茶会と日本の茶道の関係を紹介している︒とくに︑﹁杭州径山寺的径山茶宴是寺院茶宴中的佼佼者︐从古至今︐诸多的日本高僧前往径山寺拜师取经︐把径山茶宴的形式带回国内︐推动了日本茶文化的发展︒︵中略︶由此︐我们说日本茶道源于中国︐源于径山则一点也不过分了︒﹂といった文言が見え︑日本の多くの高僧が径山寺で修 行し︑径山寺の茶宴の作法がその僧たちによって持ち帰られ︑日本の茶道の発展となった︒よって︑日本の茶道は中国径山に起源があると述べている︒︵3︶神津朝夫﹁台子成立についての試論﹂︵﹃研究紀要﹄第七号 野村文華財団︑一九九八年三月︶四八頁・五六頁︒大心義統による創作説については本稿では取り扱わなかったが︑今後の検討課題としたい︒︵4︶前掲注3参照︒四七頁︒︵5︶﹃古事類苑﹄では︑﹃嬉遊笑覧﹄﹁十下飲食﹂とあるが︑﹃嬉遊笑覧﹄では︑﹁巻十上飲食﹂とある︒︵6︶前掲注3参照︒

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五〇

︵7︶高橋龍雄﹃茶道﹄︵大岡山書店︑一九三五・三︶四六頁︒︵8︶桑田忠親﹃日本茶道史﹄︵河原書店︑一九五八・七︶六四頁︒︵9︶林屋辰三郎﹁闘茶より大寄せまで﹂︵林屋辰三郎・永島福太郎編﹃図説茶道大系  第3巻  茶会と点前﹄角川書店︑一九六四・九︶二一一頁︒︵

10︶﹃茶之湯道具寸法図会﹄︵啓草社︑一九七○・八︶一三頁︒

︵ 一九七七三︶九頁︒・ 11台教千宗室﹃社︑交淡〇︵一科道子・茶︶千裏﹄前点板長家

12︶﹃角川茶道大事典﹄︵角川書店︑二○○二・九︶七九六頁︒

︵ ︒るいてしと拠根 草高朝本﹄﹃は聴視続︑﹃﹄﹃僧伝類お聚事記るけをに考物名﹄ ﹂指とるあで﹁子台ういです摘るて由がいつに来の子台のそ︑ は式一のこの軍滕︒るいて点の﹁茶用具中の茶具架﹂が日本語 あ具で茶ると論じ用点の部の堂智愚偈文と七の茶典および一式 南宋が紹浦明︑で中の頁りよに帰国た虚のはのも︑っ際ち持帰 社版出民人史﹄︵流交化二文︑○○○四・九︶一九〜一一○日茶 13中研なお︑中国における茶道究︑﹃の第一人者である滕軍は︶

︵ 十七八五頁︒︶ 14辞弘国史大・七八九一︑館文川典吉︵︶﹃の﹂子台﹁巻八第﹄項

15︶筒井紘一﹃茶の湯事始﹄︵講談社︑一九九二・一︶三二頁︒

︵ 六七九頁︒ 16本小日︶八・一○○二館︑学巻︵国︶﹃第版二第﹄典辞大語八

十会文庫本の翻刻︒能史研究芸﹃史日﹄成集料第化文民庶本 古る﹃茶湯﹄︵事談で今日庵あ本典善︑がるいてべ述とるあで 17ただし︑﹃日本﹄国語大辞典︶では︑﹃茶湯故談﹄からの出事 ︵ 作いみ確認でき︑創説につては触れられていない︒ では台子︑はと版一第い南浦﹁ら紹明たのが記述﹂え伝うか宋 ﹃れる︒なお大日本国語辞典﹄わ思とすり出典とをる記述は誤 た山寺から台子が伝わっらという記述は見れず︑﹃茶湯古事﹄談 ﹁数・寄﹂︵三一書房︑一九七八十径一︶︶を調査したと巻ろ︑こ

︵ 四○頁︒ 18端淡谷︶三・七○○二社︑交﹄︵昭史︶の道茶るかわくよ夫﹃歴

19︶内閣文庫所蔵史籍叢刊には﹃視聴草﹄とある︒

20︶﹃大正新脩大蔵経﹄巻十・一○六三頁上︒

︵ 六︶四六二頁︒・一書房︑一九七四  21堂書﹃国訳第虚巻七輯二﹄叢和宗禅︶国﹃十︵巻﹄録語尚訳

︵ なる﹁禅﹂五︶一二四頁︒・﹄勉誠出版︑二○一一 22虚代西尾賢隆﹁内の本日世中古堂﹃﹂︵︶明紹浦南らか愚智へ

︵ 一五三頁︒   禅報﹄二五号駒沢大学研所究所︑二○一三・十二︶年究研 23衣川賢次﹁送別詩集﹃一帆風︶﹄成立過程﹂︵﹃駒沢大学禅の 24︶﹃国訳虚堂和尚語録﹄︵前掲注

注摘︵指 で﹁はっきりとという意味﹂解お︑釈の隆賢西尾なる︒いてし   号版︑同朋社出︶一九八五・二は二〇﹄同﹃﹂︵偈の師国応朋 を浦名の﹁南は々明す打一﹂とある︒い方︑入矢義高﹁大て︑ 21つに﹂明明﹁に︑注の︶照参 よう︒ 南いずにしても︑虚堂智愚とれ浦紹明の師弟関係が確認でき 紹浦南詩く︑なはでの明張詩であると主している︒愚の智虚堂 に叟みついて︑﹁明明に虚堂にの説与す﹂と読み︑この詩は読 22﹂に︑照︶にもあるよう入叟矢は﹁明明説与虚堂参

参照