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特集「ナショナリズムの表現」 : 秋田蘭画をめぐ る、未着手の文化的背景

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Academic year: 2021

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著者 山本 丈志

出版者 法政大学国際日本学研究所

雑誌名 国際日本学

巻 8

ページ 275‑289

発行年 2010‑08‑10

URL http://doi.org/10.15002/00022639

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山 本 丈 志

1.秋田蘭画とは?

日本において、西洋美術の影響を受けて初めて描かれた西洋式の絵画は、16 世紀末に宣教師らによって伝えられたイコンだと考えられているが、江戸幕府 のキリスト教禁教により途絶えている。しかし、1720(享保 5)年、八代将軍 徳川吉宗が洋書の輸入規制を緩和したことで蘭学が興り、さらに吉宗がオラン ダから油彩画を買い入れたことで西洋美術への関心も徐々に高まりをみせた。

蘭学熱は杉田玄白らの『解体新書』の刊行を受け安永期(1770 年代)に一つ のピークを迎え、これに連動して 16 世紀以来途絶えていた西洋式の絵画は復 興していく。

その先駆けの一つは秋田蘭画と呼ばれる洋風画である。秋田蘭画は西洋美術 の陰影法と遠近法を摂取し、従来の日本の絵の具を主に使って描いた和洋折衷 の絵画で、本格的に西洋美術の技法を取り入れ、 油彩画や銅版画を手がけた 司馬江漢、亜欧堂田善らはその後裔といえる。『解体新書』の挿画を描いた秋 田藩士小田野直武を中心に、藩主佐竹義敦、角館所預佐竹義躬、藩士田代忠国 ら秋田藩の関係者で一派をなしたことから秋田蘭画と呼ばれる。もちろん「蘭」

はオランダ(阿蘭陀)の「蘭」、「オランダの」または「オランダから伝えられ た」という意味となる。

今日、美術史上高い評価を受ける秋田蘭画ではあるが、代表的な絵師小田野 直武の早世により急速に衰退、後裔である司馬江漢らの活躍の陰に隠れてその 存在が長く忘れ去られていた。直武の死から 100 年余りが経った明治期、よう やく再評価の光が当てられたのである。

秋田蘭画をめぐる、未着手の文化的背景

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2.秋田蘭画研究の現在

i .西洋美術の導入について 1891(明治 24)年から

1891(明治 24)年、 日本美術協会の研究会に 1 点の洋風画が出品された 。 小田野直武の「三俣眞景」である。報告書に「筆者小田野直武ハ傳ヲ詳ニセス 畫風ハ司馬江漢亜欧堂ノ流ナル油繪ナリ」とあるように、直武についての予備 知識もなく、当時の美術界における客観的な評価をうかがうことができる(1)。 それは無論、直武と秋田蘭画の存在を知る者がいなかったことを証明するもの でもある。

明治期の秋田では、地元の好事家によって開かれた古美術の鑑賞会に時折秋 田蘭画が出展され、この様子はやがて秋田県出身の編集者山方香峰により『絵 画叢誌』などの美術雑誌に報告されていった。日本画家平福百穗は小田野直武 と同じ秋田県角館の出身で、その画業に早くから注目した人物である。百穗を はじめとする郷党らの尽力により(2)、秋田蘭画の存在が明らかとなり、特に初 期段階では西洋美術の画法の導入について検証が進められていった。今日語ら れる秋田蘭画誕生のエピソードである、平賀源内との邂逅や秋田藩内への伝播 の件は百穗の取材によるところが大きい。そして、戦後まもなく直武の代表作 となる「不忍池図」が発見され(図 1)、次々と新しい蘭画が世に見いだされ たことで秋田蘭画研究にも拍車がかかり、 古文書による史実との照合(3)や ライレッセの『大画法書』(4)から引用した陰影法・遠近法、舶載銅版画による 線描表現など西洋美術導入の様相が多くの研究者によって説明されてきた。明 治に始まった秋田蘭画検証の成果は 1968(昭和 43)年、「不忍池図」の重要文 化財指定に象徴される。

ii .江戸文化による検証 1970 年代から

1970 年代から秋田蘭画の検証は美術史の枠にとらわれず、江戸文化の中に 求められていく。小田野直武が希代の本草学者平賀源内と蘭方医杉田玄白ら時 代の最先端を行く文化人と交流していたことは明らかであり、蘭学や医学、本 草学など広い視野から秋田蘭画の検証が進められていった。秋田藩士であり戯 作・狂歌で知られる平沢常富(朋誠堂喜三二、手柄岡持)は戯作者でもあった

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平賀源内と旧知の人物であるが、彼の直武の絵に関する記述が発見されたのも 興味深い(5)。また、直武が遺した写生が高松藩、熊本藩の図譜と酷似していた ことから、秋田蘭画の誕生に当時の江戸文化が深く関わり、特に諸藩の藩学振 興をにらんだ本草学・博物学の隆盛とその広い交流の中に起因することも報告 されたのである(6)。平福百穗がまとめたエピソードは伝聞伝承によって直武の 西洋絵画の修業を説明するものであった。しかし、より柔軟に当時の状況を観 ることで直武の江戸での活動が少しずつ解明されてきた。こうして秋田蘭画は 江戸文化の中にあらためて位置づけられ、その精彩を取り戻したのである。

ただ新史料の発見は興奮を呼び、客観的な判断を曇らせる場合も多々ある。

小田野直武と秋田蘭画に関する史料にも落とし穴があった。例えば、秋田藩内 における直武と平賀源内の邂逅を説明する書簡である(7)。直武の通称「武助」

が記載された、平賀源内書簡の発見は 1773(安永 2)年に源内と直武が秋田で 対面し藩内を同行した証拠として取りあげられ、美術史の研究者は疑いもなく 書簡の「武助」を直武と比定したのである。

しかし、 当時秋田には直武とは別人で源内が赴く鉱山に深く関わっていた伊 多波「武助」という人物がいたことがわかっている。直武より頻繁に藩の公の 記録に登場するこの伊多波武助の方が、むしろ源内と同行した可能性が高い(8)。 江戸文化による検証はこうした秋田藩関係の史料の読み直しを含め、客観的な 事実を追求する段階に入ってきたといえる。

iii .モチーフの追求 1990 年代から

もともと秋田蘭画の重要なモチーフである花鳥画は、西洋美術の写実性に影 響を受けた中国絵画である南蘋派に素地があるといわれてきた。中国本土では ともかく、日本での南蘋派の流行は全国的なものであり、その受容はなにも秋 田に限るものではない。南蘋派といわずとも、大陸からの文化は古くから「唐 様」といわれるように、中国・朝鮮文化に対する畏敬の念がそこにはある。花 鳥のモチーフだけでなく、秋田蘭画の人物画が中国風なのもそのためだろう。

しかし、秋田蘭画の研究においては作品や史料の発掘に力点がおかれ、その モチーフ、画題に投影された文化的背景にまで検証が加えられていなかった。

例えば今橋理子氏が著書『秋田蘭画の近代』で提起した問題点の中に、「卓文

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君」についての指摘がある(9)(図 2)。これは田代忠国の唐美人図に附された 題名を疑問視するものであるが、琴を抱いた美人をモチーフの再検討から新た に「班 」像と比定したのである。秋田蘭画における、こうした再検討はま だ始まったばかりで充分に進められておらず、中国風のモチーフの理解、江戸 の時代感覚などふまえておくべき要素が多いのは疑いない。

3.秋田蘭画は中国的なのか、日本的なのか、オランダ的(西洋的)なのか

以前、秋田蘭画の呼称の推移を追い、江戸から近代にかけて日本人が秋田蘭 画を含め洋風画をどう認識してきたのか考察したことがあった(10)。例えば、

秋田藩士須藤茂盛は小田野直武の絵を「唐画」と記録していた。 彼は前述の 平沢常富とは違い、一般的な秋田藩士で文化人ではない。とはいえ藩の役職に つく身分であるし、一般人に比べ教養があったことは想像できる。その彼が直 武の絵画を「蘭画」ではなく「唐画」、つまり漢画として認識していたのである。

もちろんモチーフが中国風であるから無理からぬことであろう。武家社会に根 付いていた狩野派は漢画が素地であり、それと区別する意味での「唐画」なの かも知れない。モチーフを見る限り、中国風俗の人物画、南蘋派の花鳥画に終 始する秋田蘭画は西洋画というよりまぎれもなく中国絵画なのである(図 3)。

中国風の絵を描き続けた秋田蘭画にあって、唯一日本的なものは風景画であ る。富士、江ノ島、金沢八景、不忍池など実際にある場所を描いている。西洋 美術の影響を受けながら、高められていく写実性によって自らが欲するものを 描き始めたということなのだろうか。様式に固まった山水画から離れ、銅版画 の風景画の模写を経て、実際に目の当たりにした日本の風景を描き始めるのは 自然なことだったのかも知れない。

遠近法・陰影法を摂取したその表現によって、秋田蘭画は明らかに当時の主 流であった日本の「画」と一線を画しているが、司馬江漢・亜欧堂田善が油彩 画・銅版画の技法を使ったのと微妙に違い、西洋画そのものの作例はほとんど ない。小田野直武はなぜ西洋美術に接しながら、あえて伝統的な日本の絵の具 で描いたのか。なぜ江漢、田善のように、西洋美術の技法を研究しなかったの だろうか。筆者は小田野直武と司馬江漢らとの違いを、武士(直武)と町人

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(江漢・田善)の意識の違いとして安易に説明してしまったことがあるが、秋 田蘭画研究の進展が単純に「西洋美術の導入」に止まらないと証しているよう に、広い視野で秋田蘭画をめぐる諸相を見直すことが必要なのである。

4.「不忍池図」に見る、未着手の文化的背景

秋田蘭画に惹かれるのは日本人に限るものではない。それは例えば、秋田蘭 画が西洋東洋の両方の文化をまとい、異文化の諸相を幾重にも重ねて、見る者 に共感と違和感をもたらしているからではないだろうか。それを一つ一つ分析 していくこともこれからの課題となるだろう。

例えば、今橋理子氏は小田野直武の「不忍池図」に関して、①シャクヤクを 班 という中国の女性像に見立て、さらに②円窓に通じた望遠鏡による鑑 賞法を示し、『秋田蘭画』の背景に中国の文化を見ている(9)。この衝撃的な新 説は研究者のみならず大きな反響を呼んだ。このように小田野直武の代表作

「不忍池図」でさえ、まだまだ描かれているモチーフについて言及しつくされ ていないのである。これを手がかりに、筆者が考えている秋田蘭画における未 着手の文化的な背景を提示したい。アプローチは誰もが思う、何を、何のため に描いているのかという疑問からであった。やはり主役は鉢植えの花々である。

画面の植物は紅白のシャクヤク、そして橙色のキンセンカ、ここまではすぐ にわかる。しかし、キンセンカと同じ鉢に植えられた青い花については簡単に 名前が出てこない。作品解説には「ムシャリンドウ」と書かれることもあった が、花と葉の形状からこれは違うと判断できる。その形状から導いたのはシソ 科の植物であろうということであり、シソ、セージ、サルビアの類である。現 在のところ筆者はこの青い花をヤクヨウサルビアだと推定している(写真 1)。

考えてみるとシャクヤクは「芍薬」の文字通り、薬用植物である。薬効につい て調べてみると、意外にもシャクヤク、キンセンカ、ヤクヨウサルビアには女 性用の漢方薬に使用されるという共通点があった。ことに「丹参」と呼ばれる ヤクヨウサルビアは、これ一つで「四物湯」という女性用の調合薬に足りると

『和漢三才図会』にもある。これは偶然なのだろうか。

また、開花期を考えればキンセンカが春、シャクヤクが夏、ヤクヨウサルビア

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が秋となり、ばらつきがある。むしろ足りない冬が気になるところだが、この 点については冷静に画面を見ると一つの仮定を思いつく。画面にはハスの名所 で知られる不忍池に、ハスの葉一枚として描かれていない。つまりこれはハス が枯れた冬景色といえるのである。

ハスも漢方薬として利用されており、生理痛緩和の薬効があるという。こう なるとすべてのモチーフは偶然ではなく、意図的に女性用の漢方薬となる植物 を春夏秋冬に合わせて選ばれたと推察される(11)。これは小田野直武が西洋美 術の画法で描いたということ以上に、直武が本草学者平賀源内の下にいた意味 をあらためて問うものである。

元々小田野直武の周辺には医学・薬学との関わりを示す資料が多い。杉田玄 白らが刊行した『解体新書』の挿図を直武が描いたこともそうだが、本草学者 平賀源内の下にいたこと、直武の生地角館に小田野姓の医者がいたことがあげ られる。さらに小田野家の分家には家薬の目薬を売っており、これが直武の三 男三立が眼科医となって秋田藩の医学館に勤めたことと無関係ではない。直武 の父に医学の心得があったという伝聞も残る。こうした状況があればこそ幼い 直武が「神農像図」を描いたことも得心できるだろう。

加えて、風景についても細かに見てみよう。シャクヤクと木の間に寛永寺の 大伽藍が見える。寛永寺は江戸城の鬼門、北東の鎮護のために築かれたといわ れ、京都の叡山にちなみ東叡山の山号をもっている。無論叡山は京都の鬼門を 護る聖地である。弁天堂をほぼ真北に見る「不忍池図」において寛永寺はその まま北東に位置していた。これも偶然なのだろうか。さらに方位に関して様々 に調べてみると、描かれたモチーフと奇妙な一致が見られた。

北 人と人が背をむけることで生まれた字である。南に面した貴人の背に女性が隠れ ていることから、北政所や北の方、北堂という女性の尊称が生まれたようだ。

ここでは女神を祀った弁天堂が描かれている。

南 充分な日の光を浴びて生い茂った植物を意味する字である。

ここでは花を咲かせた鉢植えが描かれている。

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東 大きな木に朝日が重なってできた字である。

画面にはヤナギと思われる木が描かれ、その陰影から太陽の位置が東側にあると わかる。

西 鳥が巣に帰る意味をもつ字である。

画面の空には数羽の鳥が描かれているが、西側により多く描かれている。(図 4)

「不忍池図」のモチーフは漢字の成り立ちに通じるイメージに一致し、これ は方位における象徴的な意味に重なる。これが偶然に描かれたものだとは言い 難く、「不忍池図」には陰陽道や民間信仰に準じたまじないか、吉祥のモチーフ を配した可能性が高いのである。「表 1」に関係する事項をまとめてみたが、

コロンビア大学のマルコ・ゴッダルド氏にご指摘いただいたとおり、唯一五行 説の「土」に該当するモチーフが判然としていない。現在のところ、安直では あるがシャクヤクの蕾に描かれたアリではないかと考えている(図 5)。

最近、ある近世文学の研究者から、このアリに小田野直武の真意があるかも 知れないと示唆を受けた。当時の人たちがアリにもっているイメージが投影さ れているのではないかというのである。大きな画面の中に埋もれる小さなアリ が「不忍池図」が描かれた本当の意味を知る手がかりだというのもあながち間 違いではないのかも知れない。これもまた未着手の部分である。

小田野直武が蘭画を描いた安永年間に、秋田藩の将来に関わる縁談が進めら れていた(12)。藩主佐竹義敦の長女梅姫と薩摩藩主島津重豪の嗣子斉宣とのも のである。重豪は時の将軍の岳父として権勢をふるっていたし、ともに名家と して家格は申し分ない。例えばこの縁談が「不忍池図」を描くことになった理 由に想定できないだろうか。「不忍池図」は紅白のシャクヤクと家の繁栄を寿 ぐモチーフを配している。また描かれた植物は女性用の漢方薬のレシピと考え られ、姫君の子宝と健康を祈っているようだ。曙山と号し自らも蘭画を描く義 敦と、蘭癖大名として知られる重豪に関わるものであれば、直武の蘭画は婚礼 調度にふさわしい。しかし、残念なことに梅姫の急死によってこの縁談は成立 しなかった。「不忍池図」が秋田に止まった理由もここにあるのかも知れない。

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5.「富嶽図」と徳川家康

一作年、元旦の紙面を飾る小田野直武の「富嶽図」(図 6)について解説を 頼まれ、これまでに書かれた作品解説に一通り目を通したことがある。おおか たのものは西洋美術の影響を受けた遠近・陰影法の表現に言及し、近年には取 材地が黄瀬川あたりと推定していた。ただ「富嶽図」を東海道の名所絵として 描いたと考えればそれ以上の意味はない。しかし、山岳信仰の象徴でもある富 士山の絵が飾られる状況を考えてみると、多少なりともありがたみのある方が、

飾りがいがあるというものだ。そんなことを考えながら、新年早々のことでも あるし、初夢に見ると縁起がよいとされる「一富士、二鷹、三茄子」の諺をこ の「富嶽図」に当ててみようと思い立った。晴れた空に富士山はそびえている し、鷹だというには難しいが空には鳥も描かれている。これだけでも充分書け そうだったが、とりあえず調べてみると予想外な事実が判明した。

諺の「一富士」はもちろん、日本一高い山の富士山である。そして「二鷹」

は鳥の鷹ではなく駿河の国で一番高い山、愛鷹山だという。「三茄子」は三保 で栽培されていた早生ナスで、江戸時代には一番の高値で取り引きされていた らしい。「一富士、二鷹、三茄子」は天下をとった徳川家康にちなんだ諺で、

家康の生地駿河にある一番にあやかり、出世・商売繁盛を願うものだった。

「二鷹」の山の位置を確認すると、「富嶽図」の中に確かに愛鷹山が描かれて いるとわかった。偶然お会いした、東海地方からの来館者にその山がおそらく愛 鷹山に間違いないとのご教示をいただくこともできた。富士山の手前の連山で一 番高いところが愛鷹山である。つまり、この諺とモチーフが一致すれば「富嶽図」

を描いた背景に、間違いなく徳川家康への畏敬があるといえるかも知れない。

いずれにしても、画中に愛鷹山を確認したことで「富嶽図」の写生地につい ては再検討せざるを得なくなった。富士山の山容を見れば向かって右に宝永山 があり、南側から富士山を見ていることがわかる。これまで黄瀬川周辺からと いわれていたが、愛鷹山の位置から考えるともっと西側に移ることになる。現 在のところ、筆者は「富嶽図」の写生地を愛鷹山南麓に広がる浮島沼(沼津市 と富士市にまたがる)以西と考えている。これがもう少し西の、「三茄子」の 産地として名高かった三保(折戸地区)あたりだと、駿河に関する諺のモチーフ

(10)

がすべて出そろうが、決定的な確信が得られないのが残念である。

残る手がかりは左側にいる二人の男たちだろう(図 7)。荷を提げた天秤棒 を担ぐのは棒手振りと呼ばれた行商人と思われる。杖をついた老人が話しかけ ているようだ。東海道の道すがら、直武が見たままに描いたとしても、なぜこ の二人なのだろうか。棒手振りが筆者の目指すところの「茄子」を売っている ようには到底思えないが、ただナスについて調べてみると「ナスの黒焼き」が 江戸時代に歯磨きとして売られていた。歯磨きとはいっても薬用で、歯茎に 塗って歯磨きすると歯槽膿漏などの熱をとり、炎症を鎮めるというのである。

老人がこれを買い求めるなら得心がゆく。棒手振りの売り物が「ナスの黒焼き」

であることを願って、初春の「富嶽図」論はこれでひとまず締めくくった(13)。 霊峰として崇められる富士山は古来信仰の対象として描かれてきた。浮世絵 には名所図絵として有名な葛飾北斎の「富嶽三十六景」がある。しかし、小田野 直武の「富嶽図」は信仰の対象となるような神々しさも、名所図絵のようなド ラマティックな演出もない。とはいえ、あまりに平易なその画面は道中見たま まに富士山の光景を描いたと一概には信じがたいものがある。そこに江戸時代 の生活観や文化・風習を重ねれば、「不忍池図」同様、直武が描こうとした真 意が見えてくる気がしてならない。秋田蘭画にはまだまだこうした未着手の部 分が多いのである。

6.おわりに

近年、秋田蘭画に使用された青の絵の具について神戸市立博物館の勝盛典子 氏を中心に調査が進められている(14)。合成絵の具であるプルシャンブルーの 輸入をにらんで、小田野直武が使用した時期などへの考察がなされ、「不忍池 図」の青空の正体に迫った。貿易史の資料を美術史に重ね、秋田蘭画の時代観 がまた一つ明らかになりつつある。しかし、こうした事例はまだまだ少なく 様々な問題点が未だ解決されていないのもまた事実である。

例えば、直武と同時代の絵師たちとの交流についてである。秋田蘭画が誕生 した時代は伊藤若冲(京都・ 1716-1800)、曾我蕭白(京都・ 1730-1781)、円山 応挙(京都・ 1733-1795)、長沢蘆雪(京都・ 1754-1799)、喜多川歌麿(江戸・

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1753?-1806)、鳥居清長(江戸・ 1752-1815)ら近世絵画の寵児たちが活躍して いた。応挙も直武も遠近法に準じた眼鏡絵を描いていたことがわかっているが、

直接的な交流を示すものではなく、直武との交流が明らかな絵師は誰一人とし ていない。先達の調査研究により、司馬江漢(江戸・ 1747-1818)は直武に連 なると確証を得たのは戦後のことである。平賀源内と親しい南蘋派の宋紫石

(江戸・ 1715-1786)から直武が影響を受けたことは確実視されるが、この二人 を結びつける史料すら皆無である。なぜこれほどまでに直武は時代から遊離し ていたのだろう。

また、日本にもたらされた西洋美術の移入ルートの 1 つはもちろんオランダ ルートであるが、さらにもう 1 つ、西洋美術の写実性に影響を受けた南蘋派に よる大陸ルートがあげられる。しかし、この 2 つに限定できるわけでもない。

舶載による直接的な文化の移入だけでなく、南蘋派のように大陸を経由したゆ るやかな文化の伝播が他にもあるのではないだろうか。あるいは地理的にも、

中国絵画より早く西洋美術と融合したアジア絵画が存在する可能性すらある。

アジア圏の西洋美術の受容は、南蘋派や秋田蘭画の誕生過程に酷似するものと 思われ、興味深い。

現在、秋田蘭画は国内外の美術史家だけではなく、他分野の方々も関心を寄 せている。最近、『解体新書』の再考が進められているのか、医師からの問い 合わせが重なった。医学史からの考察も新たな小田野直武像が浮かびあがらせ るだろう。当館に寄せられたこうした情報の数々が今後解決すべき秋田蘭画の 問題点を明らかにしているのである。

( 1 ) 『日本美術協会報告』第 47 号、1891 年、1,7 頁。

( 2 ) 『絵画叢誌』編集長山方香峰(1868-1922)、日本画家平福百穗(1877-1933)、文 筆家田口掬汀(1875-1943)、秋田魁新報社社長安藤和風(1866-1936)、美術史家 太田桃介(1915-1993)、美術史家武塙林太郎(1926- )、秋田県立博物館副館長太 田和夫(1951- )など。

( 3 ) 『佐竹北家日記』『国典類抄』などの秋田藩佐竹家の文書類、池田玄斎『翁左備 抜書』、平賀源内書簡など。

( 4 ) Gerard de Lairesse, Het groot schilderboek(1707).1707 年にアムステルダムで刊 行され、以後再版を重ねている。秋田蘭画では人体のプロポーション、遠近法・

陰影法の解説図などが引用。「大画法書」「大絵画本」と呼ばれる。

(12)

( 5 ) 山口泰弘「小田野直武筆『日本風景図』と『富嶽図』について—真景図と風景画 の接点」『美術史』第 111 号、1981 年。

( 6 ) 今橋理子『江戸の花鳥画—博物学をめぐる文化とその表象』、スカイドア、1995 年、『平賀源内展』図録、東京新聞など 2003 年。源内展図録では元香川県歴史博 物館学芸員藤田彰一によって、高松藩の『衆鱗図』の「鮭」の図と小田野直武の

「鱒図」が転写の関係にあると指摘された。

( 7 ) 「平賀源内書状」・秋田県大館市中央図書館蔵 九月一日付で秋田県北部の大館 市周辺から途中立ち寄った南部の角館の陶工に宛てたもの。

( 8 ) 山本丈志「秋田蘭画・小田野直武をとりまくイメージ」『融合する東西の美意識

—東北の洋風画』展図録、秋田県立近代美術館、1999 年。

( 9 ) 今橋理子『秋田蘭画の近代 小田野直武「不忍池図」を読む』、東京大学出版会、

2009 年。

図 1

小田野直武「不忍池図」1770 年代 重要 文化財 秋田県立近代美術館蔵

写真 1

ヤクヨウサルビア 丹参 開花期は早いも ので 5 月からであるが、一般に夏から晩秋。

図 2

田代忠国「卓文君」 制作年不詳

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(10) 山本丈志「椿説・秋田蘭画 『秋田蘭画』の時代感覚と再発見への道程」『秋田 美術』第 43 号、秋田県立近代美術館、2007 年。

(11) キンセンカ 止血・消炎・生理痛緩和 春

シャクヤク 強壮・生理痛緩和 夏

ヤクヨウサルビア 鎮静・血管拡張・婦人病緩和 秋

ハス 解熱・止血・生理痛緩和 冬

図 3

小田野直武「唐太宗・花鳥山水」(三幅対)の中幅「唐太 宗図」 1770 年代 重要文化財 秋田県立近代美術館蔵

図 4

小田野直武「不忍池図」 西側の空部分

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(12) 土居輝雄『佐竹史探訪』、秋田魁新報社、1997 年、185-186 頁。

図 5

小田野直武「不忍池図」 シャクヤクの蕾部分

図 6

小田野直武「富嶽図」1770 年代 秋田県 立近代美術館蔵

図 7

小田野直武「富嶽図」部分 1770 年代 秋田県立近代美術館蔵

方位 干支 四 季 イメージ 漢字 五行 モチーフ

東 卯 春・キンセンカ 神木・日・緑 木と日 木 木と日、若葉 西 酉 秋・ヤクヨウサルビア 死(浄土)・黄・白 鳥と巣 金 鳥(カラス?)

南 午 夏・シャクヤク 草木の繁茂・赤 日と草 火 植物

北 子 冬・ハス 死・女性・青、白 人と人 水 弁天、池、冬景色

北東 丑寅 鬼門 寛永寺

南西 未申 裏鬼門 杭

表 1

(15)

(13) 山本丈志「秋田の名画」『秋田魁新報』※富嶽図、不忍池図、唐太宗花鳥山水に ついて、2009 年 1 月 1 日付。

(14) 勝盛典子(神戸市立博物館)、朽津信明(東京文化財研究所)、松尾ゆか(秋田市 立千秋美術館)。「緑」についての研究は安村敏信(板橋区立美術館)、金子信久

(府中市美術館)、降旗千賀子(目黒区美術館)により報告されている。

(16)

<ABSTRACT>

Akita Ranga (Western-style Art of Akita) upon an Uninitiated Cultural Background

Y

AMAMOTO

T

akeshi

Akita Ranga (Western-style Art of Akita), which emerged during the late Edo period in connection with the rise of Rangaku (Western Learning), is known for its unique style of expression through applying the rules of perspective and shadow of Western art to Eastern painting. However, due to its founder, Odano Naotake’s untimely death, it declined and its existence was long forgotten. This paper summarises the details of research since the rediscovery of Akita Ranga in the modern era, and raises questions about the flower and bird painting motifs often discussed today.

Furthermore, Odano Naotake had strong ties with the herbalist, Hiraga Gennai, and provided the illustrations for his medical work, Kaitai Shinsho(New Text on Anatomy). His curiosity clearly did not stop at the adoption of Western art as an artist, as we can assume it extended to a wide range of Edo culture, including Rangaku. By raising the example of Odano Naotake’s representative work, “Shinobazu ike zu” (Illustration of Shinobazu Pond), and referring to its scenic structure using motifs created from medicinal properties of the illustrated plants and orientational bearings, we examine the hitherto uninitiated cultural background of Akita Ranga.

参照

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