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早稲田大学大学院法学研究科 2015 年 2 月
博士学位申請論文審査報告書
論文題目 証券市場における情報開示の理論
申請者氏名 湯原心一
主査 早稲田大学教授 黒沼悦郎
早稲田大学教授 尾崎安央
早稲田大学教授 宮川成雄
2 湯原心一氏博士学位申請論文審査報告書
早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程4年在学中の湯原心一氏は、2014年10月18 日、早稲田大学学位規則第7条第1項に基づき、その論文「証券市場における情報開示の 理論」を早稲田大学大学院法学研究科に提出して、博士(法学)(早稲田大学)の学位を申 請した。後期の審査員は、同研究科の委嘱を受けて、この論文を審査してきたが、2015年 2月2日、審査を終了したので、ここにその結果を報告する。
1 本論文の構成と内容
本論文は、金融商品取引法の根幹をなす情報開示制度(ディスクロージャー制度)を対 象とするものであり、法が証券市場における情報開示を強制する根拠、および情報開示制 度と民事責任制度との関係を解明することを目的とした、基礎的かつ学際的な研究である。
本論文は、「第1章 序章」、「第2章 証券市場の効率性」、「第3章 情報開示の理論」、「第 4章 情報開示に基づく責任の理論」、「第5章 役員報酬の個別開示に係る実証研究」、「第 6章 結論」からなる。
第1章では、論文の目的、考察の範囲、分析の手法、論文の意義が述べられる。
第2章は、情報開示制度を分析する前提として、証券市場がどのような情報をどの程度 反映しているかという「市場の効率性」について議論する。そこでは、市場の効率性の複 数の概念を説明したあと、アメリカ合衆国の州法、連邦法、規制当局、および日本におい て、いずれの概念が受容されているかを分析している。つづいて、市場の効率性を、情報 に対する効率性、基礎的価値に対する効率性、本源的価値に対する効率性に分類し、市場 で形成される株価を裁判において参照する場合に、どのレベルの効率性が問題とされるべ きかを、虚偽記載に基づく損害賠償請求、株式買取請求権の行使、買収防衛策に関する取 締役の信認義務といった事例類型ごとに検討している。第2章の最後では、株式の価値か らの乖離を意味するディスカウントおよびプレミアムについて、どのような原因でそれら が発生するか、それらと市場で形成される株価との関係を分析し、第3章以下の分析のた めの道具を整理している。
第3章は、有価証券の発行者に有価証券の投資判断に必要な一定の情報を強制的に開示 させる制度である情報開示制度(強制開示制度ともいう)の理論的根拠を検討しており、
本論文の中心となる章である。序論(第1節)のあと、第2節で、情報開示制度の概要を 説明し、第3節で、開示制度の目的・機能についてのこれまでの議論を整理したうえで、
第4節では、法の目的を社会厚生の増大と捉え、情報開示制度と社会厚生との関係を、企 業の投資、有価証券の流通市場、有価証券の発行市場の3つの場面において検討している。
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分析の結果を要約すると、情報開示制度は情報に基づいた有価証券の取引が行われるよう 確保することによって、企業の投資および発行市場を通じた社会厚生の増大に資するとい う。
第3章第5節は、一般に法が市場に介入する根拠とされている「市場の失敗」が生じる 原因である「公共財」、「外部性」、「情報の非対称性」について、それらが証券市場におけ る情報開示制度の根拠となりうるかを検討している。そして、情報開示制度により外部利 益、とくに開示の標準化や比較可能性の増加に伴う外部利益や潜在的な投資家への情報開 示という外部利益が生じ、それゆえ情報開示を任意なものとすると情報が過少にしか供給 されないことが、情報開示を強制する根拠となることが示されている。他方、情報の非対 称性ゆえに開示制度が必要であるという議論については、発行者に情報の選択的開示とイ ンサイダー取引を禁止しておけば、強制開示制度がなくても、流通市場で投資家がアクセ スできる発行者情報に差異は生じず、また、発行市場において情報の非対称性が存在する としても、投資家はリスクに応じて証券の購入価格を下げるという対応ができるので、情 報の非対称性を解消することなく自己責任を問うことができると分析されている。
第3章第6節では、仮に開示制度の強制が正当化されるとしても、常に正当化されるの ではなく限界が存在すること(開示制度の限界)が議論される。そこでは、第1に、開示 費用の点からの限界として日米の少額募集の制度が分析され、第2に、ポートフォリオ理 論に基づき分散投資をするから開示制度は不要であるという議論が分析され、その議論が 発行市場に当てはまらないことが示される。第3に、人々の合理性に限界があること(限 定合理性という)から、複雑な投資商品に対しては開示主義を改め規制主義に移行すべき かどうか、限定合理性に対処するために強制開示制度に何ができるかといった問題が検討 されている。さらに、人々の限定合理性から非効率的な市場が成立している場合に、情報 開示制度がなお正当化されるかを論じている。そこでは、市場参加者を、インサイダー、
情報に基づき取引する投資家、インデックス投資家、ノイズ投資家、およびマーケット・
メーカーに分類し、非効率的市場への情報開示がこれらの市場参加者の行動にどのような 影響を与えるかを分析することにより、市場が非効率的な場合であっても強制開示制度の 根拠が失われないことが示される。
第4章は、「情報開示に基づく責任の理論」と題し、強制開示制度と開示に関する責任制 度の関係を論じ、また、いくつかの重要な解釈問題を検討している。まず、第2節で開示 に基づく民事責任制度を概観したのち、第3節の前半では、強制開示制度の前提として虚 偽記載に対する責任制度が必要か否かを、責任制度の有無と強制開示制度の有無の組合せ による4通りについて分析している。その結果、責任制度が全く存在しない場合、情報を 利用する費用が高くなりすぎるため開示情報が意味を持たなくなること、したがって強制 開示制度には責任制度が伴う必要があることが示される。第3節の後半では、責任制度が 存在することにより、投資家と経営者の間のエージェンシー費用が減少しうることが示さ れている。
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第4節は、虚偽記載と損害との間の因果関係という、ディスクロージャーについて現在 最も争われている解釈問題を扱う。そこでは、株価変動を虚偽記載に関係するものとそう でないものに分け、前者を、株式の市場価格と基礎的価値との乖離が修正されることによ る下落、発行者の信用が毀損されることによる下落、および訴訟の提起が予想されること による下落に分類し、こうした分類によって得られる視座から判例・学説を検討している。
また、虚偽記載が行われ、それが発覚し、市場価格に反映する過程を時系列に従って分解 して、虚偽記載による損害額を算定する際の理論的な視座を得る作業を行う。さらに、統 計を用いた損害額の算定について、その方法と限界を検討している。
第5節は、発行者の投資家に対する民事責任制度に関する重要論点を検討している。ま ず、民事責任の根拠となる金融商品取引法(以下、「金商法」という)21条の2が2014年 に無過失責任から過失責任へ変更されたことが訴訟の提起に及ぼす影響を分析し、つぎに 同条による事後の効果が検討される。そこでは、発行者に対する訴訟が原告以外の株主か ら原告株主への利益移転をもたらすに過ぎず、また分散投資をする投資家に負担を課して いるという2つの循環問題が検討され、発行者の民事責任制度が、情報に基づき取引する 投資家および分散投資をしない投資家への補助金として機能しうることが指摘される。さ らに、金商法21条の2の事前の効果が検討され、代位責任の議論に照らして、公開会社に おいて取締役の行為について会社に代位責任を課すことが、必ずしも効率的でない(適切 な予防措置が実施されない可能性がある)ことが示される。このほか、同節では、発行者 の民事責任制度が株主に与える誘因、取締役に与える誘因が検討され、また、危機的な状 況にある企業において虚偽記載が行われやすいという「最終回問題」が検討されている。
第5章では、どのような情報を強制開示の対象とすべきかという問題に対する解答の一 例として、2010年の内閣府令の改正により、一定の場合に強制されることとなった役員報 酬(1億円以上)の個別開示について、それが株価に有意な影響を与えたかどうかという実 証研究を行っている。その結果を要約すれば、役員報酬の個別開示を行った会社の株価は 下落しているが、その有意水準は10%という、あまり信頼できる水準ではない。どのよう な情報を強制開示制度の対象とするかを決定するには、このような実証研究が、様々な情 報を対象として行われる必要があり、本論文の実証研究はその第一歩であるという位置づ けがされている。
第6章は、結論と題し、本論文の内容を要約して示すとともに、今後の研究課題として、
社会厚生を最大化させる開示の範囲の検討を掲げている。
5 2 本論文の評価
本論文は、以下の5点において、極めて優れた研究であると認められる。
第1に、本論文のメインテーマは、強制開示制度の理論的根拠の解明である。このテー マについてはアメリカにおいて若干の議論があるが、わが国ではこれまで論じられてこな かった。湯原氏の論文は、このテーマを理論的に分析・解明した初めての邦語論文として、
重要な意義を有する。本論文は、公表されれば、強制開示制度(ディスクロージャー制度)
の研究を志す者にとって必読の文献となるであろう。
第2に、湯原氏が本論文で用いた分析手法は、伝統的な法律解釈論のほか、法と経済学
(法の経済分析ともいう)、ファイナンス理論(効率的資本市場仮説、資本コストの理論、
ポートフォリオ理論、法とファイナンス)、行動経済学、および統計学(実証研究)という 多様な方法論となっている。市場を対象とする制度である金融商品取引法の分野では、フ ァイナンス理論の知見や法と経済学の方法論が重要であるが、わが国の法律学研究者で、
これらを使いこなせる者はきわめて少ない。湯原氏の論文は、ファイナンスの研究成果や 経済学の方法論を自家薬籠中のものとして用い、分析の説得性を高めている。たとえば、
情報の非対称性が強制開示制度の根拠であるという法律家には理解しやすい命題が、実は 誤りであることを明らかにした点(第3章第5節)などは、説得力がある。すなわち、本 論文は、扱うテーマに相応しい方法論を採用し、分析に成功している点で、高く評価でき る。
第3に、第2点とも関連するが、商事法学の分野において、人の合理性を前提とするミ クロ経済学の応用分野である「法と経済学」に基づく主張に対し、人の限定合理性を認め る行動経済学ないし行動ファイナンスからの批判がされることはあっても、行動経済学に 基づく制度の設計が提案されることは稀であった。また、効率的な証券市場が現実には成 立していないという批判はあっても、非効率的な証券市場における情報開示の制度設計が 試みられることはなかった。この点、湯原氏は、限定合理性に対処するために強制開示制 度に何ができるか、非効率的な市場において情報開示制度はどうあるべきかといった問題 を自ら設定し、これに果敢に挑戦し、一応の答えを導出している(第3章第6節)。このよ うな分野の研究は、少なくともわが国にはこれまで存在しなかったが、行動経済学の進展 に伴って、今後は盛んになっていくと推測される。すなわち、本論文は行動経済学の観点 から制度設計を行う意欲的先駆的な研究であり、この分野で今後の学界をリードしていく 重要な研究であるといえる。
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第4として、本論文は、膨大な数の文献(外国語文献395本、邦語文献570本)を読み 込んで作成されているが、論文中に判例・学説の紹介はほとんどない。外国の学者がこう 言っているから、日本でも同じに考えるべきであるといった記述もない。本論文では、大 きな問題をそれを構成する個々の問題に分解し、多様な視座を設定して緻密な分析を行い、
あるいは、基本的な命題から出発して論理を着実に積み重ねて結論を得るという作業を、
論点ごとに繰り返し行うことで議論が展開されている。参照論文や判例は、問題点の抽出・
分解、分析の視座、論証が必要な論理の構造を得るために、用いられているのである。つ まり、本論文は、湯原氏の壮大な思考実験の過程を、検証可能な形で示したものであると いえる。本論文の中心的な結論は、強制開示制度の根拠を情報の外部性に求めることがで きるという、ある意味で当たり前のものであるが、その結論は、緻密な分析、着実な論理 の積み重ね、それらを統合する粘り強い思考に裏付けられたものであり、説得力がある。
第5として、「情報開示に基づく責任の理論」(第4章)は、大きく分けて、強制的開示 制度と責任制度との関係という制度論、および開示違反に対する民事責任の解釈論的検討 の2つの部分から成るが、前者は、法と経済学やファイナンス理論(アンラベリング、ペ ッキングオーダー理論)を用いた先駆的な研究である点で、第3章と同様、大きな意義が あると認められる。後者は、現在、判例・学説によって争われている問題に、主として法 と経済学の手法で分析を加えたものであり、因果関係および損害額の算定という伝統的な 民事法学に新たな検討視座を提供するという意義が認められる。
このように本論文は、研究手法、内容、および結論において優れたものであると認めら れるが、なお不十分と思われる点がないではない。
第1に、本論文は発行者による情報開示に研究対象を限定している。しかし、情報開示 制度は発行者のみを名宛人とするものではなく、公開買付者や大量保有者も情報開示の義 務を負っている。発行者以外の者を開示主体とする情報開示制度の分析も必要ではなかっ たか。
第2に、強制開示制度の実効性を確保する制度として、本論文は、責任制度を分析の対 象としているが、そこで扱われているのは、主として民事責任である。情報開示制度が開 示を強制する制度である以上、強制の手段を分析の対象に含めることは適切であるが、強 制の手段には民事責任以外に、刑事罰や課徴金等の行政規制が用意されているのであり、
これらも分析の対象に含めるべきではなかったか。
もっとも、本論文はA4で449頁にものぼる大作であり、法学研究の道に進んでわずか4 年目の院生に、これ以上長大な論文の執筆を望むことは、ないものねだりであろう。これ らの点は、今後、湯原氏が研究を発展させていくべき道を示すに止まり、本論文の価値を いささかでも損なうものではない。
7 3 結論
以上の審査の結果、後掲の審査員は、全員一致をもって、本論文の執筆者が博士(法 学)(早稲田大学)の学位を受けるに値するものと認める。
2015年2月2日
審査員
主査 早稲田大学教授 黒沼 悦郎(会社法・金融商品取引法)
副査 早稲田大学教授 尾崎 安央(会社法・金融商品取引法)
副査 早稲田大学教授 宮川 成雄(英米法)