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想像力の志向性について : コールリジとサルトル

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想像力の志向性について : コールリジとサルトル

著者 六田 正孝

雑誌名 主流

号 29

ページ 43‑71

発行年 1967‑04‑10

権利 同志社大学英文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016711

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想 像 力 の 志 向 性 に つ い て

一一一コーノレリジとサルトル一一

ノ ¥ 田 正 孝

浪漫主義運動以来3 あらゆる芸術創造の原動力として,想像力が詩論や 芸術論において極めて高い位置を占めてきたことはいうまでもないことで ある.そして今日文学あるいは芸術が単なる現実の模写ではなしそれは 想像力の所産であるといったようなことは常識と化しており,また想像力 なるものがあらゆる芸術を解明する鍵であると考えられている.しかしな がらこういった言い方をする場合,想像力というものがそれ自体議論の余 地のない自明なものである, という前提のもとでいわれていることも否定 出来ない事実である.したがって,われわれがこうした想像力を口にする とき3 想像力それ自体の論理がどのようなものであるかいってみろといわ れた場合,途方にくれるのではなかろうか.かくいうわたし自身が芸術的 想像力の論理を明かすことが出来るかと問われると甚だ困るのだが,この 小論では想像力の志向性という観点から,コールリジを中心にサルトルと 比較しながら,わたしなりにその論理の展開を試みたいと思う.

想像力という言葉のもつ意義やその機能は,いろいろな分野のさまざま な現象を論ずるのに用いられ,定義されているようであるが,この想像力 が哲学上,心理学上の問題とされるとき,大別して二つの見地がある.すな わち,これをカント的な意味における認識能力の要因としての「構想力J Einbildungshraftとして考える観方と9 現実界に対立する非現実界との相

(3)

44  想像力の志向性について

関者たる一機能として見る観方である.そしてこれを文学あるいは芸術創 造の原動力として考える場合,この二つの見地に立つそれぞれの代表的人 物として,コールリジとサルトルの名がわれわれの念頭に浮かんでくる.

衆知のようにコールリジは, 想像力を有機的統ーへの形成能力として,

essemplastic power"と名ずけているごとし カントの観方に重点、を置 き,一方サルトルは,想像力に関する二冊の書物において,終始一貫して 後者の観方に焦点をしぼっている点で特徴的である.

ところで,これからわたしが想像力について論じようとするとき,この 二人の組合せば奇妙に思われるかも知れない.ましてコールリジとサルト ルのあいだには,時代的にも百年余りの隔りがあり,なんら「影響」関係 がみられるわけではない. (コールリジのうちに実存主義的思想の見られ ることを指摘する批評家や学者がいるが9 いまのわたしにはこの観点から コールリジを論ずる資格はない.) であるから,わたしはこの二人を引合 いに出すからといって,それが比較文学といった大それたものの対象にな るとは思わないし,そのようなものとして扱うつもりは毛頭ない. しかし 芸術創造や芸術美の問題を想像力に結びつけて考える発想の点では,両者 は共通しており,二人の想像力についての思索の独自性が,それぞれどの ように彼らの文学に反映し,彼らの作品を性格ずけているかは,極めて興 味深い問題であるとわたしには思われる.

そこで,これから先ずコールリジとサルトルの想像力が根本的に異質な ものであることを指摘し,その根拠を追求することから論を進めることに する.しかし両者の想像力が如何に異質なものであり,そこからどのよう な相容れがたいノ帰結が生まれようとも,わたしの目的はその相違の単なる 比較にあるのではなく,両者の根底に流れる本質的な共通性を追求するこ

とにある.

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想像力の志向性について

コールリジの想像力説を論ずる人び、とによって,必らずといって差支え ないくらいしばしば引用される文章がある.それは,彼の BiographiaLite‑ rariaの第十三章における有名な Primarylmagination円の定義である。

この定義はまた,コールリジの想像力説とサルトルの思想的,文学的発足 期における想像力に関する所説との相違または特徴を論ずるための最も便 利な足掛りとなると思う故に9 あえて引用することにする.そしてしばら

くのあいだサルトルの観点からこの定義を考察してゆきたいと思う.

「第一の想像力は人間のあらゆる知覚の生ける力であり,その根本的 作用者であると考える. そして無限なる自我 (thein五nite1 AM)に おける永遠なる創造活動が,有限なる心の中に反復するものと考える.J  Basil  Willeyはこの定義を引用し,

r

コールリジはここで,彼の生涯の 偉大な闘争の勝利一一一ロックやハートレイの古い伝統に対する勝利を集約 して述べているのだ」といっている.このことは, コールリジがデカルト 以来の17世紀及び18世紀の哲学や観念連合心理学の学説を批判し,その極 端な機械論を克服したことを意味する.が,それはともかくとして,われ われはこの定義の前半の部分からも明らかなように,コールリジにおいて は,想像力と知覚作用とは密接な不可分の関係にあることに注意したい.

この考えはサルトルの所説と真向うから対立する.何故なら想像力と知覚 作用の弁別こそ9 サルトルの想像力についての論索の中心命題であるから である.

一方+ルトルも『想像力 ~L'imaginαtion (1936)において,デカルト以来

イ マ ー ジ ュ

ベルグソンに到るまでの哲学者や心理学者を批判し,心像を感覚的意識内 容に結びつけて考える学説のもつ誤謬を次々に指摘し9 これらの諸家の説 がフ結局は,心理現象の中にものの関係を見ょうとする素朴な連想心理学 の迷妄をまがぬれていないことを証明している.そしてサルトルはヲこの

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想像力の志向性について

書物の最後の章で,フツサールの『現象学的考案

J

の中に心像の本質を明 らかにする唯一の可能な方法を見出す.要するに『想像力』一巻は,想像 力の問題を廻つての哲学史的考察であり,ブッサールの現象学的方法の必 然性と優位性を論証するために書かれたものであり,この書物の段階での サルトルの目的は, 1知覚」と「心像jとの弁別にある.彼によれば, 1わ れわれは知覚と心像とが先ず,各々の志向 intentionによって異なる二つ の志向的《体験}>Erlebnisseであることを理解すべきである」と主張する.

では,心像の志向とは一体どのような性質のものであるのか.それは知覚 の志向とはどの点で異なるのか.サルトルが,この問題に対して現象学的 記述の十全な展開を試みるのは 4 年後の「想像上のもの~ L' imaginaire  (1940) (邦訳『想像力の問題~)においてである.

『想像上のもの』においても, サルトルは, 意識は常になにものかにつ いての意識である,いいかえれば,あらゆる意識は意識それ自体以外のな にものかを志向する超越的な存在である,とするフッサールの規定にした がって論をおしすすめている.サルトルによれば,知覚的意識とは現実の 事象に密着した意識であり,常に目前の事物に結びついて現実世界を志向 するものである.これに反し,想像的意識とは目前の現実を離れて,非現 実の世界,すなわち架空の存在を志向する性質を有する.したがって,想 像力と知覚作用とは意識の世界を大きく二分する意識の二大志向体験であ り,この二つは厳然と弁別されねばならないことをサルトルはあきずにく りかえし強調する.

では,われわれが想像力を働かせ得るためには意識は一体どんなもので あらねばならないのか.先ず第一に,サルトノレは,意識が想像力を振い得 るために必要な本質条件として

1

意識が非現実的定立作用を措定し得る 力をもたねばならないJと説く.この場合,その対象の実在を否定する契 機が絶対に必要であり,この現実否定の作用には四つの形式がある.すな わち「想像上の対象物は,非存在として,あるいは不在として,あるいは

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どこか他所にあるものとして,措定されるか, それとも存在するものとし

4) 

て措定されないかのいずれかである.J  否定の契機を必らず含むものであり,

これら四つの場合のいずれも現実 かくて現実否定の作用こそ想像力が 心像を喚起し得るための不可欠な構成因となる. たとえば,1"現在わたしが ヒ。エールの心像を形成するとすれば, わたしの想像的意識は,現在この瞬 間にベルリンなりロンドンなりにいるものとしてのピエールの存在の措定 をある程度内包している. しかしピエールが心像としてわたしにあらわれ るかぎりは, ロンドンに現に存在しているピエールは, わたしに不在のも のとしてあらわれる」というと色上に挙げた四つの場合の第三のものに 属するのであるが9 これなどは, 一見肯定的な形をとるが, それでも対象 物の現実的且つ現在的存在の暗々裡の否定を予想するものであることに変 りはない.故に,想像的作用とは現実化ずる作用とは逆のものであり,必 らずそのうちに現実否定の契機を内包するものである. ということは,意 識が現実否定の契機を全く含まないとき9 つまり意識が現実界の事象の中 に全面的に吸収されつくすとき,想像力の働きは絶対に不可能ということ になる. この場合, 意識のもつ自由性は当然失なわれることになる.何故 なら, w想像力』におけるサルトルの言葉を借りるならば, 1"意識から心像 を取り上げてしまえば,意識からすべての自由佳をうばい去ることにな る」からである. したがって,意識が現実存在の中に粘着していて現実存 在に属するもの以外のものを把握出来る可能性をもたないかぎり,意識は 自由ではあり得ない.サルトルはこうした「現実的意識の特徴とは曜l止を

6) 

もよおす不快感l'eoeurementnausる巴uxである」といっている.(この「幅 吐をもよおす不快感」こそ, サルトルのノト説『日直吐

J

の主人公ロカンタン が公園のベンチに腰をかけ,マロニエの樹の醜怪な根っこを前にして得た 実存的意識体験に他ならない.) 

かくして,想像力を働かせるためには9 意識は自由でなければならず,

意識が自由であり,想像力を発揮し得るためには,意識は現実の世界に対

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想像力の志向性について

して「一歩後退した姿勢を描き出しJ,

r

現実界を超越してそれを世界とし て構成出来」なければならない,というわけである.

しかしながら,意識の自由には限界があり, それは「怒意Jl'arbitraire  と混同されてはならない. ここにわれわれは非現実界と現実界との関係を 把握する必要がある.サルトルによればヲ 「たとえそのとき如何なる心像 も生み出されなくとも,現実界を世界として把握するすべての作用は,つ ねに結局非現実的対象物を生み出すことになってしまう傾向がある.J そ れは何故かといえば,この世界の否定に他ならない心像の出現のためには,

この世界の後退が求められるが,その心像とは iこの世界の土台の上に のみ,且つ,この土台との結びつきにおいてのみ,あらわれることが出来 るJのであって,この世界の後退こそ,想像力が生み出す心像(非現実的 形象〉がくっきりとその上に浮び出るべき「地Jfond  としての不可欠な 要因となるからである.このことは,想像力が現実世界を否定しながらも?

一方逆にいえば,裏面から,これの否定する現実そのものによって支えら れていることを意味する.かくて「非現実的存在を生み出すことによっ て,一瞬如何に意識がその《世界内存在}>l' etre‑dans‑mondeから解放 されたかの観を与えることが出来るにぜよ,反対にこの《世界内存在性〉

9) 

こそ想像界の成立のための必須条件なのである.J ところで、サルトルは9

現実界を世界として把握するその種々様々な様態を《状況}>situationと 呼んでいるが,それはこの世界の,構成作用であると同時に否定作用でも

あるといった両義的な現象であり3 それはまた想像する意識,すなわち意 識の自由を背後から限定しつつ,しかもその拠って立つ基盤となっている

《世界内存在住》に他ならない.故に,サルトノレは次のように結論する.

「想像力とは,意識の経験による,後から附加された能力の謂ではな い.それは意識が己れの自由を実現する場合の意識の全幅である. この 世界内にある意識の具体的で現実的な一切の状況は,意識がつねに現実 界を超越するものとしてあらわれるかぎり,つねに想像的なものを苧ん

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想像力の志向性について

でいる. このことは何も,一切の現実の知覚が想像的なものに逆転すべ きだということにはならない.しかし,意識はつねに自由であるがゆえ に《状況内》巴nsituationにあるものであるから,意、識にとっては,非 現実的なものを生み出す具体的な可能性が,いつも,あらゆる瞬間に存 在する.意、識が単に現実的なものになるか,それとも,想像力を発揮す るかを,各瞬間ごとに決定するのは,種々様々な動機である.非現実的 存在は,世界内にとどまる意識によって,この世界の外に生み出され,

人間が想像力を振うのは何故かといえば,それは人聞が先験的に自由な 存在であるからである。」

このように想像力とは,意識事実の一特徴としてあらわれるかわりに,

意識の本質的,且つ先験的条件としての正体をあらわしたのであるが,サ ルトルの想像力に関する二冊の著書を通じて一貫してみられる知覚と心像 の弁別は,実は意識の自由についての彼独自の見解を論証するために必要 な基礎工作とも考えられる.

さて,以上のことから,サルトルが芸術というものをどのように考える かは容易に推測されよう.すなわちあらゆる芸術は,想像力の働きとのつ ぴきならず結びついていることから,サルトルは

r

芸術作品は非現実的 存在である」と断ずる.また芸術の美的なものに関しでも,それは対象を 非現実的なものとして措定する想像的意識によってのみ構成され9 把握さ れるものであるからして

r

現実界とは絶対に美しいものではあり得ず,

美とは想像上のものだけにしかあてはまらない価値」であり,美はその本 質的構造のうちにこの世の否定を蔵している.

r

これこそ」とサルトノレは 主張する

r

倫理性と審美性とを混同することが馬鹿げている stupideこ との所以である.善の価値は世界内存在性を前提とし,それは現実の事物 の只中における行為を志向し9 何よりもまず実存の本質たる背理性に従わ されるべきである.実人生を前にして審美的態度をとることは,とりもな

(9)

想像力の志向性について

おさず,現実界と想像界を不断に混同することである.しかしながら,わ れわれは,現実的な出来事や事物を前にして審美的観想の態度をとる傾向 がある. この場合には,各人は自分自身の内部に,眺められた事物に対す る一種の後退を認めるであろうし,対象自体も虚無の中にすべりこんで行 くことになる.それは,この瞬間以後は, もはやその対象物は知覚されな いということである.J こうした「実人生を前にした審美的態度」は,サ ルトルの小説『曜吐』におけるアニーのいう「特権的状況」を想起させる.

彼女は以前は愛や死のような「特権的状況」が与えられたときに,それを 素材として「完壁な瞬間」を作ることこそ道徳的義務だと考える風変りな 女であったがラ彼女の生体験は正にこの審美的態度と倫理的態度,非現実

と現実の混同に基ずいているのである.

詮ずるところ,想像力を廻つてのサルトルの論索が,知覚と想像力の弁 別から意識の自由についての論証に到り,さらに倫理性と審美性との相 容れがたい二元的対立の問題に及んだことになる.このことは,おそらく,

サルトルの首尾一貫した世界を築きあげる基盤として極めて重要な意味を もつものと思われる. というのは,知覚と想像力との関係のうちに9 後の サルトルにまで尾をヲ│いている,思想のドラマの端緒が見られ,そしてそ れが, r存在と無~ (1942)において展開されるべき「即自」と 「対自J, また『ジャン・ジュネ論』における「倫理」と「美」の相関関係へと進展 する立脚点とも考えられるからである.また想像力に関するこ冊の著作の

中間に発表された彼の小説『幅吐~ (1938)は, 当時のサルトルの哲学的 関心に直結する作品であり,彼自身作り上げた基本的課題がそのまま示さ れていると考えてよかろう.

この小説の主人公アントワーヌ・ロカンタンは,その実存的体験を通じ て,現実とは,吐き気をもよおさせる醜悪で偶然なものの世界であること を体感する.

r

世界は私の外側で余りに醜くかった.テーブ、ルの上のこれ らの汚いコップ,ガラスの上のしみ,マドーヌの前掛け……それらは余り

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に 醜 七 世界の存在自体が余りに醜くかった.Jいまや合理的で日常的な 世界にかわって,ロカンタンの前に裸の事物の偶然的な世界 Iそれぞれ 存在するものは,当惑し,何んとなく不安で互いに他のものとの関係にお いて余計なものであるということを感じあっていた」世界が出現する. こ こではあらゆる事物が「余計なもの」であると同様に, ロカンタンもまた 余計なものでしかない.彼にとって事物はもともとあの吐き気をもよおす マロニエの樹の根っこのように,無意味でありヲ役に立たぬ余計なもので あり9 偶然で9 醜悪なものでしかない.それをロカンタンは「実存するJ existerという言葉であらわしている. そして自分自身を含めたそのよう な存在の理由を9 彼は「不条理Jabsurditeと呼ぶのである

こうした In匝吐」という現実的,実存的意識体験を通して, ロカンタン は絶望的な孤独者の生活から脱するために,芸術によって一拠に実存をま ぬがれる方法を見出す.それは想像力による創造であり,それは I読 者 が,印刷

l

された文字の背後に,現実には存在しないようなもの,現実存在 を超えてあるような何ものかを,察知する底のものでなければならない.J  つまりそれは偶然的な実存に対する必然的な存在,余計なもののない存在

としての一冊の小説である.

ところで,ロカンタンが,実存の明噺な把握を「自由」と名ずけるのだ が,その

1

皮が小説を書く決意、を固めるということは,おそらしサルトル が『想像上のもの』において想像力に意識の自由を見,したがって想像的 な作品を作ることが自由の創造に連なると信じたサルトルの考え方から生 まれる論理的な要請に従うものであろう. それはまたサルトルが『幅吐』

という虚構の作品に自由を求めようとした理由をも物語っている.だが9

しかしサルトルーロカンタンにとって, 芸術創造一一想像力による創造 一ーの方向へ志向することが9 実際に真の救済となり得たであろうか.果 してそこに実存の偶然性から逃がれ,創造に向う者の実存を正当化する可 能性を見出すことが出きたであろうか.ここでは9 この問題にあまり深く

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想像力の志向性について

立入ることは差しひかえ,次にコールリジに移ることにしたい.

コールリジにあっては,想像力とは先ず第一に「あらゆる人間知覚の根 本的作用者j the prime Agent of al1  human Perceptionであるといっ ているごとし想像力と知覚作用とが密接な不可分の関係にあることはす でにふれた.このことはサルトルの想像力との相違を最も端的に示すもの であると同時に9 またコ{ルリジの想像力説の本質的な意義を解明する出 発点である,とわたしには思われる.

では,コールリジの場合,想像力が知覚作用においてどのような役割を 占めるのであろうか.コールリジ自身はこの問題にはほとんどふれていな いが,カントの影響を受けていることは明らかである. カントによれば,

知覚とは,その対象である「現象が心意識に結びつく」ことであるが,Iし かしいかなる現象も多様なものを含み,従ってまた種々な知覚は心意識に おいてそれ自身てんでんばらばらに見出されるものであるから9 これらの 知覚を互いに結合する必要がある. ところが知覚は,感官においてはそれ 自身かかる結合をもつことができない.それだから我々のうちには,この 多様なものを綜合するためにはたらし能力がなければならない,この能 力を我々は構想力と名ずけるのである.Jかくて「構想力は知覚そのもの の必然的な構成要素であるjが,その先天的な能力,つまり現象のあらゆ る多様の綜合における必然的統一のみを意図する能力もカントは構想力 の「先験的機能」と名ずける.さらにカントはこの構想力をば「人間の心 の根本的能力 即ち認識の根底にア@プリオリに存する能力」であると い人間の認識能カの不可欠な要因と考える.何故なら,カントの考えに よると,われわれの認識は心の二つの根源,すなわち感性と悟性とが結合 してのみ生ずるのであるが,これらの両極端の必然的な結合は,構想力の

「先験的機能」を媒介としてのみ可能であるからである.

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こうした構想力の作用については,コールリジ自身

r

想像力とは,明 噺さを深遠さに,感覚の多様性を悟性の包容性 comprehensibilityに結合 する完成能力であり9 これを注ぎ込まれた場合,悟性そのものは直観的と なり,生きた力となる」といっているごとし彼は感性と悟性との仲介者 としての構想力に関するカントの説を全面的に受け入れているように思わ れる.

しかし,ここでカントのコールリジに対する影響をあまりに強調するこ とは危険であろう.たとえば, D. G. Jamesは9 わたしの知るかぎり,想 像力と知覚作用との関連において9 コールリジに与えたカントの影響を最 も詳しく論じている批評家であるが,彼はそのScepticismand Poetryの 第一章で次のように述べている.

「カントに従って9 彼(コールリジ〉は9 想像力とは日常の知覚作用 において創造的に働くものであると信じた. というのは,感性として与 えられるものはすべて全体へと綜合されるのは9 先ず第一に想像力の作 用に起因するからである……そして想像力が『第一義的な』水準において 創造的と呼ばれ得るのは何故かといえば,それは想像力が世界を把握す る際に,比較的混乱した感覚印象を融解し9 その結果一つの綜合を生ぜ しめるからである。J

しかしこれなどはゲシュタルト心理学の学説を思い起させるものである.

コールリジの想像力は,いわゆる心理学としての科学的な次元ないし観点 からのみ解されるべきものではない. コールリジの想像力はもっと高い位

ト ラ ン セγデ ン タ ル

置を占めるものであり, Jamesが解釈するよりももっと超絶的で,形而上 学的,宗教的色彩の可成り濃厚なものである.が,このことは後でふれると して,ここでは具体的に当面の問題として今しがたサルトルによって提起 された知覚と想像力との弁別から,現実と非現実,そして倫理性と審美!生 とのこ元的相互

I I

に到る問題がコールリジにおいてはどのように処理(もし

〈は克服〉されているかを,彼の ConversationPoemsの傑作 Frostat 

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54  想像力の志向性について Midnight"を中心に考察することにしたい.

コールリジの ConversationPoemsは全般的に Egoすなわち I円を 中心に自然の情景と詩人の心の動きが表現されている.言い換えれば,詩 人が小屋のほとりとか木陰のあずまやに坐り,あるいは午後の日ざしを浴 びて山腹に横たわりながら,周囲の景色を眺め,追憶に耽けったりしつつタ 心中に浮かぶさまざまな主観的な思いを客観化する詩人の心を中心に詩が 展開される. Frost at  Midnight円においても,詩人は冬のある日の真 夜中に家族のものがみんな寝しずまった後9 一人小屋の中に坐って静かに もの思いに耽ける孤独な情景からはじまる.先ず詩人の心は小屋の外の霜 を結ぶ冬景色や心無きふくろうの単調な鳴き声,それから海や岡や森,そ して「人気の多い村里Jから世界というか宇宙の「数限りなき生命のいと なみJnumber1ess goings on of lifeへと向けられる.しかし夜のあまり の静けさの故に,彼の膜想は却って掻乱され,万象の生のいとなみが「生 きている自分に」何の意義を持つのか理解出来ない,といった疎外感が強 調される.そこで突然詩人の心は部塁の中の火格子の上の火に向けられ,

そのはたはたとひらめく 「かげろう」五1mの 動 き に 漠 然 と で は あ る が

「共感Jsympathiesを読みとる(第一聯, 1‑23行).

しかしこのひらめくかげろうとの共感を契機として,再び、詩人の心は遠 心する. これまでは空間的というか,戸外の霜とふくろうから室内の安ら かに眠る幼な子へ,そしてまた外界の海,丘,森,村里から身辺の炉辺の 火へと詩人の心は振幅するのであるが,今度は時間的な方向に向けられる というか9 炉辺の火の連想、を通して, 彼の心は慈善給費生として過した Christ's Hospita1での学校時代を追憶する.この少年時代の追憶において も同様に彼は火格子をみつめながら9 白分の故郷である Otteryのなつか しい情景を追想する.そして「いかめしい顔つきをした教師」を恐れて机 に向っている孤独な自分を,だれか友だちゃ親類のものが訪ねてきて9 こ の退屈な部震から連れ出してくれないものかと期待する. (コールリジ自

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想像力の志向性について

身の脚註によると

r

かげろうjはイギリスでは「お客さま Strangerと 呼ばれ,久しく会わない友人の到来を予告するものと思われていた,J)こ こでも学校の中での詩人の疎外感と炉辺の火のひらめくかげろうを通して の夢想による親しい人たちへの親愛感が表現されている.だが第一聯で強 調された孤独な静寂における違和感,諌外感は比較的和らぎ

r

おぼろげ な共感Jも,ここでは,可成り明確な具体性をもった表現があたえれてい る(第二聯, 23‑44行〉

こうした過去の追憶から再び現在の小屋の中へと帰還して,詩人の心は かたわらの揺藍にすやすやと眠っている幼児にむけられる.そしてこの追 憶と子供への愛情が絡み合って,今しがた追憶にあらわれた若き臼の自分 と同じくらいに成長した未来の息子のことを想像する.そこでは

r

大都 会に育ちラ陰うつな僧院に閉じ込められて,美しいものとては大空とお星 さまの他に何一つ見ることの沿かった」白分の少年時代とはちがって9 息 子のHartleyは,大自然の中を「そよ風のごとくさまよう」者として,樹 木や湖や山々を伴侶としながら,美しい自然、が与えてくれるすべての恩恵 を受けるであろうことを詩人は約束する.そしてこれに続く第三聯の最後 の数行iこは, Hamphry Houseが TheisticMetaphysic of Nature円と よんだ浪漫主義的自然神論の典型的な表現が見られる.これなどは,崇高 な自然の中に精神の「導き手,守護者」を見出すワーゾワスの Tintern Abbey円の忘れがたい一節 (93‑111行〕を思い起させるものであるが,こ

こに到って詩人の心は

r

万象の中に自己を,自己の中に万象を」教えさ とす永遠者の芦によって,第一聯において疎外されていた外界ともついに 和解し,同時に万象を貫く生命との連帯性を獲得する.

さて9 ここでひとまずこの詩の第一,二,三聯を通じて現在と過去と未 来の情景が描かれていることに注目したい. すなわち小屋の中の詩人と 学校時代の若き日の詩人, そして自然によって育まれるべき natu

、 氏

priest"としての詩人の息子の三つの情景である. これをサルトノレ流に現

(15)

想像力の志向性について

実と非現実(想像〉に分けるならば,前二者は現実の世界〈なぜなら,追 憶といえども,それは,いわば,過去の現在化であって,サルトルの言草 を借りていえば Iそれはただ退役処分 misea la  rtraiteを受けただけ であり,その現実性には変りはないJ)に属し,両者は共に現実の孤独な 状況に対する詩人の孤絶感ないし疎外感の表現である.他方,第三の情景

は詩人の心に生み出された想像の世界である.

しかしながらラこの場合,詩人が過去を追憶することは,第三の想像の 世界とは全然無関係ではあり得ない. というのは9 この詩に見られるよう に,第二の追憶の情景は詩人をして第三の情景つまり想像界に心を動かせ る,いわばフ足掛りとなっているからである. コールリジはこうした心の 動きの過程を BiographiaLiterariaの第七章で次のように述べている.

被は思考作用一般と共に詩的創造の過程に能動的で且つ受動的な交互作用 を見,そこにその二者の仲介的機能として想像力を想定する.

「さて,人が詩作中であるときの心を見てみよう.あるいは,これよ りずっとありふれた場合を例にとって,ある名前を想起しようと努めて いるときの心を見てみよう.するとその過程が完全に類比的analogous であることがわかるであろう.読者の大部分は,小川の水面上の小さい 水すましwaμter子圃七J.sectを観察したことがあろう.….一..一….口.そしてこの小さい昆 虫がLい、巾カか、にして能動と受動の交互の律動によつて,あるときは流れに抗 し,またあるときは流れに身をまかせては力を蓄え,さらに前進するた めの瞬時の支点としながら,巧みに流れをさかのぼってゆくかに気付い たことであろう.これは思考作用における心の自己体験の可成り妥当な 表徴である.思考作用には明らかに二つの力が働いている.それは相関 的に互いに能動的であり受動的である.そしてこのことは,能動的であ ると同時に受動的でもある仲介能力なしにはあり得ない.哲学用語では われわれはこの仲介能力をそのあらゆる程度と限度において,想像力と 命名しなければならない。」

(16)

あらゆる思考の能動と受動の交互作用,そしてその二者の仲介原理とし ての想像力を想定するこうした考えのうちに, われわれは, Frost  at  Midnight"における詩人の心の思考運動とともに, コールリジの Pri mary Imagination円の定義の後半,

r

無限なる自我における永遠なる創造 活動の有限なる心の中の反復Ja repetition in the五nitemind of the eter‑ nal act of creation in  the infinite  I A Mにおける「反復」という言葉を 理解する手口を把えることが出来るのではなかろうか.上文中の流れに逆 って前進する水すましの行為を「反復」の比端的表現と解するならばフこ れは単なる繰返しでは決してなしそこにわれわれはヲ現実に密着しなが

ら創造的に作用する想像力の志向性を見るべきである.

かかる想像力の「反復」作用のさらに適切な比f.f如 丸 コ ー ル リ ジ が 地 の 箇所で引合いに出している「蛇の運動J,すなわち,

r

一歩毎に立ち止っては,

半ば退き,そしてこの後退的運動から再び前進する力を綜合する」動ぎに も見られる. この「半ば退く」後退的運動とは,サノレトルにあってはヲ意 識が想像力を発揮するために,意識が現実世界に対し一歩後退した姿勢を 描き出すことに充当する.また「前進する」とは,現実の世界から非現実 の世界(想像界〉への超越であって,サルトルの場合,ここに出てくる「綜 合」は絶対に不可能であり,矛盾とされている.一方,コールリジにおい ては,この「綜合」は,往きつ戻りつしながら円環する思考の運動を暗示 するものであり,彼はあるところでかかる思考の円環運動を尻尾を喰える 蛇の運動にPI食えている( thesnake with its  tail  in  its  mouth "). 

われわれはこのような心の思考運動の如実な展開を Frost  at  Mid‑

night円のうちに見出すのである.すなわち,詩人の心 (Ego)を中心!こ現 在から過去,過去から再び現在へと住還を繰返しつつフ想像的未来へと円 還する詩人の思考は

r

霜」に発し

r

霜」に帰還することによってこの 詩ー篇がしめくくられる.したがって,この詩の最後の部分〔第四聯〉は こうしたサイクルの完結であり,ここでは現実の状況と想像界が次のごと

(17)

想像カの志向性について く和解され,融合されている.

だから,すべての季節はお前には快いものとなろう.

夏が大地を緑の衣でおおうときがきても,

あるいは苔むす林樫樹の枯枝の雪つもる 小立に駒鳥がとまり鳴くかと思うとラ 陽あたりの雪解けに,近くのわら屋根が

煙りたつときがきても.また雨だれのしたたりが,

時折の疾風にうっとりするあいだ,わずかに聞こえようと9

あるいは秘かな霜のっとめによって これらのしたたりが沈静なつららとなって

静かな月に映えて,静かに輝いていても. (65‑74行〉

すでに見てきたように,詩人の心は,万象の「生命のいとなみ」から疎 外された,いわば,サルトノレーロカンタンのいう「余計なもの」として真 夜中の

r

深遠なもの思いにふさわしい」はずの孤独な静寂に却って心を 乱される現実から,神が人間に語りかける「永遠なる言葉」を悟らせてく れる自然の「美しい姿や音」との想像的な交流へと展開したのであるが,

ζこではその静けさは最初のそれに劣らず深々たるものである.だが,い まや,それは詩人にとって親近性をもち,悟りのようなものをもたらずに 到る.また第一聯で、の冷たい無機的な霜は

r

風の助けをすこしも借りな いで秘かなつとめ secretministryを果し」ていたのであるが,それは,

いまや,あらゆる自然の生成過程( numberlessgoings on of life円〉に 参与し,その一部となる.それはまた廻る季節のっとめの一端を担いつつ

「疾風」の参加と協力を得て I雨だれのしたたりを沈静なつらら」に変 え9 そのつららはまた月の光に輝く.かくて詩人は

r

自然にはそれ個有 の存在意義 (properinterest)がある…ーあらゆる事物はそれ自身の生命

(18)

22) 

を有し,またわれわれはすべて一つの生命 OneLifeである」ことを理解 し,万象の生命との連帯性を獲得するに到る.それ故,ここでは,すべて の事物の存在は,サルトルの門医吐』の場合とは異って1"偶然性」から 免がれ,すべての存在がそのうちに「必然性」を蔵し, OneLife"のう ちに包摂される.かかる世界にあっては,詩人もまた「余計なもの」であ り得ないのである.

Frost  at  Midnight"に見られるこうした現実界と想像界との和解と いうか融合のうちに, Max F. Schultz もいうように,われわれは,人間 と自然の事物との同一性〈 theOne Life between us and abroad"の観 念に基ず、し Conversation Poemsのみならずコールリジの詩全体を貫く モラルの根本的信念), 多とーとの統合(有機体説 organicismを基盤と する生命と美の根本理念

λ

そして主観と客観との合一(宗教的・形市土 学的色彩の濃厚な認識論の根本命題〉といったコールリジの主張を見るべ きである. こうした統一( thebalance or reconciliation of opposite or 

24) 

discordant qualities円〉を達成し得るのが想像力の機能でもあるのだ. し たがって, Schultzは Frostat  Midnight"が次の文章で定義されてい る想像力の完全な表現であると考える.

「想像力……すなわち感覚の印象に理性を結合し,いわば感覚の流れ を理性の永遠性と自転的エネルギーとによって組識するこのすべてを和 合し,調停する能力は,それ自身調和をもっと共にそれが引き出す真理

と同質である諸象徴の一つの体系を生み出す。」

実際, Hamphry Houseもいうように, Frost at  Midnight"で表現 されている詩人の心の動きは,この詩の主題であるが9 同時にそれはその 主題に詩的表現形式を与えている手段でもあるのだ. ということは,とり

もなおさず9 この詩が想像力の表現と考えられる所謂であるのだが,上に 引用したコールリジの文章は,別の点で重要な意義をもっ. コールリジに よれば,理想的な詩人とは1"人間精神の諸能力を相互にその相対的価値

(19)

想像力の志向性について

と威厳とに応じて従属せしめながら,人間の全精神を活動させる人のこと

26) 

である」が,そのひとつひとつの精神能力の調和的統一体を生み出すのは,

想像力の「綜合的,魔術的な力」に他ならない.ここにわれわれは,コー ルリジのいわゆる hierarchicalpsychology "の一面を垣間見ることが出 来る.

「各精神能力の相対的価値と威厳」という言葉からもうかがえるようにラ コールリジは,おのおのの心的機能にその性質に応じて三つの主な等級を 与えている.それは,受動的な性質のものと有意的voluntaryなもの,そ して両者の中間に位置を占める自発的spontaneousなものの三つに分けら れるが,より高い心的能力はより低い能力なしにその機能を果すことは出 来ない.それ故,両者の仲介的な働きをする能力が必要であり,それが想 像力である.今しがた引用した文章の中に見たように,コールリジの想像 力とは,悟

i

生と理性とを,すなわち,現象界に関与し,感覚の混乱した印 象群を規制し,整理する論証的能力としての悟性と,超感覚的な真理←ー

イデア

神とかプラトニックな理念 を対象とし,直観的に把握する理性の働ぎ を「和合し,調停する力Jreconciling, mediating powerである.かかる想

ト ラ ン セ ン デfン タ ル

像力は,また,すでに言及したカントの構想力よりもより高次の,超絶的 な能力を有するものと見倣されるべきである.このことからも,コールリ ジの想像力が,知覚作用によってあくまでも現実に根ざしながらも I無 限なる自我における永遠なる創造活動の有限な心の中の反復」であると共 に,それが生み出す象徴的営為によって物質界から精神界へ志向するとい う彼の信念を正当化ずることが出来るのである.しかも,かかる想像力が 志向する世界は,倫理性を帯びた世界とならざるを得ないことは言をまた ない. ζのことは,先ほどちょっとふれた「反復」という言葉をキエルケ ゴール的な意味に解することによってさらに明白となろう.

キエルケゴーノレは, その『反復』なる著作の中で, デ ン マ ー ク 語 の Gientagelse"なる語を他の国の言葉には見られない立派な自国語として

(20)

想像力の志向性について

自慢している.この語は英語や仏語ではrepetition,独語では Widerholung と訳されているそうだが,日本語の訳者によれば,この語はこれらのいず

27) 

れにもつくせない広い意味をもっ.普通の「繰返す」意味の他に,一度ひ と手に渡ったものを「回収する」とか,失ったものを「取り戻す」とか,

とにかく「もとの状態にかえる」こと,さらに「面白を一新するJ,I更生 する」などの意味に使われるとのことである.要するにこの言葉は I可 能性から現実性への移行Jといった運動ないし生成を意味するものとも考 えられ,キエルケゴールの表現によると I現にあらぬことから,現にあ ることへ」の移り行きであって,彼はこの反復を「形市上学の関心事であ る」と同時に Iあらゆる倫理的な観方の合言葉であり,あらゆる教義上 の問題に欠〈べからざる条件である」という.われわれは, コールリジの Primary Imaginationの定義における「反復」なる言葉にも,上のような 意味を汲取るべきではなかろうか.わたしはこの「反復」のうちに現実界 と想像界との橋渡しとなる和解作用と共に倫理性への志向性を見出すので ある.

以上のことから,コールリジの想像力とサルトルの想像力とは,全く異 質なものであることが十分に理解出来よう.だが,しかし両者の想像力は,

その志向性と人間存在との関わりにおいて考えた場合,全然掛離れた性質 のものであろうか. コールリジとサルトルでは時代もちがい,現実に対す る観方も態度も異なる故に9 二人を比較することは当面の問題ではないが,

サルトルの小説『日直吐』の主人公ロカンタンが,日置き気をもよおす現実と そこでは自分が「余計なもの」であると認識する実存的体験を基盤として,

その救済の方向を想像力による芸術創造の方向へ志向することから,わた しは両者の想像力の根底に流れる本質的な共通性を見るのである.

と同時に,サルトルのうちに解きがたい根本的な矛盾が苧んでおり,果 してサルトル ロカンタンは芸術創造のうちに真の教済を見出し得たかと いう疑問が生じる.ではこうしたロカンタンの企てが挫折に終る宿命的な

(21)

想像力の志向性について

根拠が何に起因するのであろうか.この問題を追求するために,サルトル の存在論の帰結である「即自一対自Jなる観念を考察する必要がある.こ れはコールリジ独自の認識論に基く「無限なる自我J the in五nite 1 A M   に相当するものであるが,実はこの「即自一対自」を求める実存的人間に こそ,コールリジの思想との共通性が見られると同時に,サルトルの悲劇 的な矛盾が潜んでいるのである.

初期のサルトノレの哲学的思索の集成である『想像上のもの』においては,

意識の二元構造に基づいて,知覚と心像,現実界と想像界の弁551]から,意 識本来の自由の論証に到り,さらに倫理性と審美佳の相容れがたい二元的 対立の問題に及んだことはすでに述べた.この知覚と心像の相関関係は,

二年後に発表された『存在と無Jl(1942)にあっては i即日」と「対自」

の二元のドラマとして展開されている,と考えて差支えなかろう.この

『存在と無』もまた,ブッサールの現象学をついで,意識の領域を根抵に すえているが,この意識はつねに何ものかについての意識つまり「対自存 在Jl' etre pour soiとして,自己の対象となるものすなわち「即自存在」

l'etre  en soiと志向的に関わることなしに存在し得ない.

サルトルによれば,即自存在とはそれ自体においてある存在 iそれが あるところのものである」存在であり,自己を肯定することの出来ない肯 定である.それは,意識〈対自〉とちがって「自己原因Jcausa  suiであ ることは出来ず,自己自身とぴったり粘着している「集塊的Jmassifなも のであり,それ自体の中に孤立している.したがって,サルトルは,この ことを即自存在の「偶然性Jcontigencyといい,

r

即自存在は, 創造もさ れず,存在理由をもたず,他の一つの存在といかなる関係をももたず,永

29) 

遠に余計なもの detropであるj という.これに対し

r

対自」とは意識 そのものの存在論的な構造を示す言葉である.意識の特質は,それが自己

(22)

への脱自的な現前であるという点にある.すなわち意識とは,「その存在が,

それとは別の一つの存在亡事物,何ものか,超越的対象〉をまきぞえにす るかぎりにおいて,それにとっては,その存在において,その存在が問題

3 ω

になるような存在

 

jである.このような存在の仕方,これが実存であるの

だが,それをサルトルは「対白存在」と名ずける.このことは,いいかえ れば,人間がその根源的な出現において,すでに意識をもっていることか ら,人間は対自であることを意味する.かかる対自(いいかえれば実存〉

は,脱自的であるが故に1"""それは,それがあるところのものであらず,

それがあらぬところのものである」というようなあり方においである.

ところで9 サルトルのいう対自は,かりに対自存在と呼ばれるにしても,

それ自身は無である.それは自己を無として意識する無である.というこ とは,対自は1"""自己について,或る存在もしくは或るあり方を否定する かぎりにおいて,自己を根拠づける」が故に,それは「白己の根拠として,

否定の出現である.j対自というこの存在は, i‑自分がそれであらぬところ の一つの存在によって,自分の存在へと自己を規定さぜる」ということで ある.つまりそれは,即自がそれ自体で充実しているのに反し 1存在欠 陥として白己の根拠である」ということである.要するに,対自が否定する

ものもしくは無化するものは即自存在であり,人間は存在するのではなし 実存するのである.それ故,人聞が自己を実存としてとらえることは,自 己を存在欠如として,即自の欠如であり,存在欲求であるものとしてとらえ ることに他ならない.ではこの欠如manqueとは如何なることであるのかー サルトルによれば,かかる欠如はもともと即自に属せず,人間存在の出現 とともにはじめて世界のうちにあらわれるというのだが,この欠如 lこ(ま次 のような三つの要素が前提されている.(1) 1"""欠けている分」すなわち「欠 如分jmanquant.  (2) r欠如分を欠いている者jr欠如者」すなわち「現実 存在者jexistant.  ゆ>)

r

欠如によって分解されているが,欠如分と現実存 在者との綜合によって復原されるであろうような一つの全体June totalite 

(23)

想像力の志向性について すなわち「欠如を蒙むる者J le  manque. 

このうち人間存在の直観に与えられる存在は,つねに第二の「欠如者」

すなわち「現実存在者」である.と同時にこの対自である「現実存在者」

(いいかえれば人間〉は,その相互補足的な関係にある第一の「欠如分」と 結合して,つまり両者の「綜合」によって,第三の「欠如を蒙むる全体」へ 向って,自己の存在を超出する.いまかりに「欠如者」を

M

とし,

r

欠如 分」を弘とし,両者の綜合である「全体」を%とするならば,この「欠 如を蒙むるもの」は,一見したところ即自の様相を帯びたものであるかの 観を与えるが,これは単なる即自,偶然的で不条理な即自存在ではあり得 ない.かかる「全体」は「即自一対白Jl'en‑soi‑pour‑soiというべきもので あり,それは,本性上,与えられないものである.なぜなら,かかる「全 体」は,自己のうちに,即自と対自との両立不可能な性格をあわせもって いるからである.つまり人間の対自は,この場合,あくまでも対白として のままで

r

あるところのものであるような一存在J (即自〉であろうと 企てる.対自が即自存在の充足に惹かれながら

r

あるところのもの」で あろうと企てるのは

r

あらぬところのものであり,あるところのもので あらぬ」かぎりにおいてである.すなわち人間はみずから対自のまま即自 であろうと企てる.人々が「神」と名ずけているのは,他ならぬこうした

「意識の理想Jである,とサルトルはいう.彼によれば,

r

神」とは,それ が完全に肯定であり,世界の根拠であるかぎりにおいて

r

それがあると ころのものであるような一存在J

O

!P白〉であると同時に,自己について の意識として,また自分自身の必然的根拠としてのかぎりにおいて

r

そ れがあるところのものであらず,それがあらぬところのものであるような 一存在J (対自〉であらねばならない.一口でいえば,神とは「即自一対 自」である.ところが,存在欠如として実存する人間は,自己自身の無の 根拠であり得ても自己自身の存在の根拠ではあり得ないのである.それに もかかわらず,人聞は「自己の無の根拠であるばかりでなく自己自身の存

(24)

想像力の志向性について

在の根拠でもあるような存在」であろうと企てるのである.かくて根本的

34) 

に「人聞は神であろうと企てる存在である.J しかし結局これも到達不可 能な理想にすぎず,対自である人間は,事実上,この企ての不断の挫折を 繰返す存在でしかないのであり,サルトルは次のように結論する.

「おのおのの人間存在は,自己自身の対自を l.!l~自一対自」に変身さ せようとする直接的な企てであると同時に,一つの根本的な相のもとに?

即白存在の全体としての世界を我がものにしようとする企てである.あ らゆる人間存在は,彼が存在を根拠ずけるために,また同時に,それ自 身の根拠であることによって偶然性から脱れ出ているような即自すなわ ち宗教では神と名ずけている自己原因者 enscausa suiを構成するため に,あえて自己を失うことを企てるという点で,一つの受難である.そ れ故,人聞の受難は,キリストの受難の逆である.なぜなら,人間は,

神を生ませるために,人間としてのかぎりでは自己を失わせるからであ る.けれども神の観念は矛盾している.われわれはむなしく自己を失な う.人聞は一つの無益な受難である.L'homme est  passion inutile. J  このようにサルトルの『存在と無』における即白と対白のアイロニカル なドラマは I人間は無益な受難である」という言葉で幕を閉じている.

いうまでもなくこの即自,対白という考え方はへーゲルに由来するが,こ こではへーゲルのように定立,反定立,綜合に対応する弁証法的発展の過 程はついに見られないのだ.サルトルにはこの即自ラ対自という両者を弁 証法的にかかり合う二者としてとらえることが出来ない.そこからサルト ルの悲劇的な結末,あの悲痛な詠嘆を交えた言葉が生まれる.ではコール リジの場合はどうか.われわれは,サルトルの即自と対自の対比を,コー ルリジにおいては I主観J (主体)subject と「客観J (客体)object  の関係に見出すのである.

コールリジはその BiographiaLiterariaの十二章,殊にその中の十の 命題 Thesesにおいて,彼独自の認識論を展開している. これは彼の想像

(25)

想像カの志向性について

力説ひいては彼の批評原理を与える下部構造として極めて重要であり,

George Watsonはこの軽視されがちな章にこそ, この書物の心髄があり,

ここでコールリジが述べていることは,他の何よりも彼の批評精神の核心

36) 

Jこわれわれを導くものであるといっている.先ずコールリジは

r

あらゆ る認識 knowledgeは主観と客観との一致に基ず

< J

と規定することから

はじめる.彼は,単に客観的なもののすべてを「自然」と呼び〉主観的な もののすべてを「自我Jselfという名で包括する.しかしこうした主張は 決して日新らしいものではなし 17,18世紀の哲学に共通した二元論的前 提ではあるが,またサルトルの即白と対自に見たように肯定対否定という 両立しがたい絶対的対比としてとらえるべきものではない.

というのは, もし真実が知る者 aknowerと知られるもの aknownを

オ リ ジ ナ ル

前提とするならば (Thesis1),多くの真実は, 直接的で根源的なものと はほど遠く,他の真実から抽出されるものであるということも明白である からである(II). そこで,コ{ルリジは

r

それ自体に根拠をもち,無条 件の,それ自身の光のもとに知られる」究極的絶対真が存在しなければな らず (III),それは唯一無二のものでなければならないと考えるくIV).そ れは,客観的でも主観的でもなく,両者の融合したものであり (V),こう

した融合をコールリジは Self"ないし 1AM"と呼ぶ (VI). これは 単なる自我ではなく

r

己れの観る Vlewすべての対象のうちに他ならぬ 己れを観る」ところの自己意識 self‑consciousnessをもった精神であり,

それは

r

それ白体が対象であるが,己れにとって,己れを含めたあらゆ るものが対象であり得るところの絶対的主体 an absolute  subjectであ る」ものである.故にそれは「行為JACTであり,意志をもっ (VII). これは,サルトノレのいう「即自一対自」のようなものではあるが9 しかし これは神ではない.何故かといえば,それは「有限でも無限でもなく,両者 の最も根源的な結合」であるから (VIII). コールリジは,

r

こうした矛盾 の和解と循環のうちに生成と生命の過程と神秘がある」という.この点で

(26)

「哲学は宗教に移り変り,宗教は哲学を包含するようになるJ(IX).かく てわれわれは神のうちに事物の唯一の実体( thesole reality of things

38) 

を見るのである (X).いいかえれば,人聞はおのおのヲ ABSOLUTE"

で infInite"という属性をもった IAM円の modifIcationでなくては ならず,そこに有限ではあるが,自己の認識主体である se1fないし self‑ consciousnessを獲得するのである.

これらの十のThesesのうち IからIVはコールリジ独自の体系の哲学 的背景であり, IXと Xは宗教的上部構造である.しかし重要なのは V から VIIIであり,これらのうちにコールリジの想像力の創造的活動の真 の意義を見出すことが出来る. この意味で,コールリジの Primary Im‑

aginationの定義は, B.ウ fレイもいうように

r

形而上学的な戯言では なしそのおのおのの語句の背後に,思想、の重み,実際あらゆる哲学の全

39) 

貌がよこたわっている」のであって,上に要約して述べた十の Thesesを 想像力の不可欠な脚注として読むとき, コールリジの PrimaryImagina‑ tionこは新しい血が通って〈るのを感ずるのである.

「無限なる 1A Mにおける永遠なる創造活動が,有限な心の中に反復 する」といい, Thesis Vの「己れの観るあらゆる対象の中に,他ならぬ 己れを観る」ということは,想像的主体が無限なる 1A M円を志向しな がら9 自己でない自然対象であり同時に自然対象でない自己であるという 無限の無限化の過翠でありつつ,その自己をまさしく自己が自己でない自 然対象であり同時に自然対象でない自己である無限の無限化の総体として 表象するのである. このことは,さきに挙げた二つの蛇の運動の上回融と重 ね合わせて考え,もし許されるならば,コールリジ自身の言葉を借りて,

40) 

「あらゆる過去とあらゆる未来を永遠なる現在のうちに把握する」という ことも出来ょう.(ここにベルグソン哲学における「持続Jdureeの思想に 似たものを感ずるのは的はずれであろうか.)それはともかくとして,いま 述べたことのうちに,サルトノしには見られなかった人間主体(対自〉と自

(27)

想像力の志向性について

然対象(即自〉との弁証法的統一を見ることが出来るのである.要するに,

サノレトルにおいては,人聞が自然対象に自己を見,自然を自己化するとい う現実的模機に欠けている.また彼には,論理以前に自然は入聞を豊かに する当のものであるという実感がないのだ.他方,コールリジにとって,

人間主体と自然対象との螺線的な往復的な無限の行為によってめざす,あ の自然対象の絶対的自己化, それこそサルトルのいう「即白一対自J(い いかえればコールリジの

i n

fI

n i t e1  AM'

うをめざすことに他ならない.

これをわたしは想像力の志向性と呼ぶのである.

×  ×  × 

すでにわたしは,この小論の結論を語ってしまったようだ.サルトルの 門医吐』ではその主人公ロカンタンが幅き気をもよおす現実から, その救 済の方向を想像力による芸術創造の方向へ志向するのであるが

r

想像上 のもの

J

では,現実と想橡,倫理性と審美性の相容れがたい二律背反の問 題は解決されてはいない.それ故, ロカンタンの決意は淡い期待にすぎず,

われわれは『幅吐』から,単に想像力の讃美や,芸術による実存の正当化,

あるいはそれに基ず〈芸術といったものの謡歌を引き出すことは出来ない.

のみならず, こうしたロカンタンの企てが悲劇的な挫折に終らねばならな いことをIf存在と無』における即自と対自との(知覚と想像力にみたよ うな〉肯定対否定という交通不可能な絶対的二元の対比が物語っている.

結局のところ,ロカンタンも「無益な受難」から逃れることは出来ないの である.

他方コールリジにあっては,ワーズワスと同様,われわれが Frostat 

M i d n i g h t

円において見たように, 自然の美を観照することが人間の倫理 的道徳的教化に寄与し,彼の場合,詩的芸術的体験そのものが宗教的体験 に連結するという根本思想のうちに彼の想像力の志向性を見るべきである.

このことはなにもコールリジやワ{ズワスにかぎったことではなかろう.

(28)

たとえ宗教的なものに結びつけなくとも,想像力の志向性に関するかぎり9

サルトルについても同様のことがいえるのである.というのは,サルトル の論理からすれば,いかに人間は無益な受難であろうと,欠如である対自 の人聞が充実である即自を志向しつつ

1

即自←対自」に変身さぜようと する企てを一気に実現させるものであること,それ自体がこのことを立証 しているからだ.さらにサルトル自身の戦後における小説や劇作において,

自由の倫理とか,サドとマゾをミックスしたようなジャン・ジュネを論じ た評伝の第二巻に「美による救済は可能か」といったことを問題にしてい るように,平井啓之氏が, 1サルトルの『想像上のもの

L

及び刊医吐

J

以 後の一切の努力が,美を倫理に,想像界を現実界に収欽しようとする方向

41) 

に向け尽されている」といっていることは9 そのまま想像力自体の根源的,

本質的志向性を物語っているように,わたしには思われるのである.

2

1)  S.  T. Coleridge, BiogralhiaLiterari

a

(London: Oxford University Press,  1958), p.  202. 

2)  Basil  Willey, Nineteenth  Century Studies  (London:  Chatto vVindus,  1955), p.  13‑4. 

3)  J. P.  Sartre, L'imaginatio (PressesUniversitaire de France, 1963), p.  150.  平井啓之訳『想像力』人文書院.p.  155. 

4)  J. P. Sartre, L'imaginaire:去りchologiePheomenologquede L' imagination,  N. R. F. p.  232.平井啓之訳

T

想像力の問題』人文書院.p.349. 

5)  L'imaginatioπ, p.  128.同訳 p.133.  6)  L'imaginaire, p.  249.同訳p.371.  7)  Ibid., p.  234.同訳.pp.  352‑3.  8)  Ibid., p.  235.同訳p.354.  9)  Ibid p.235‑6.同訳.p.355. 

10)  Ibid., p.  236‑7同訳.pp.  356‑7.  11)  lbid., p.  239.同訳.p.  361.  12)  Ibid., p.  249.同訳.p.371. 

13)  1. Kant,篠田英雄訳『純粋理性批判』下,岩波文庫, p.  166. 

(29)

14)  S. T. Coleridge, The atesman'sManual, Appendix B, in Works, ed. Shedd,  1 (New ork: Harper and Brothers, 1884), p.  461. 

15)  D. G. James, Sce.ρticism and Poetry: An Essay on the Poetic Imagination  (London: GorgeAllen & Urivin Ltd., 1960), p.  24. 

16)  Humphry House, Coleridge  (London: Rupert Hart‑Davis, 1953), p.  78及 p.81参照.

17)  Ibid., p. 80. 

18)  Sartre, L'imagi ire,p.  230.同訳, p.346. 

19)  Coleridge, Biographia Literaria, 1, pp. 85‑6.  20)  Ibid.II,p. 11. 

21)  ST. Coleridge, Collected Letters, ed.  Earl L.  Grrigs  (Oxford: at  the  Claredon Press, 1956), IV, p.  454. 

22)  Ibid., II, p.  864. 

23)  Max F.  Schulz, The Poetic  Voice of Coleridge  (Wayne States Univrsity Press, 1963), p.  94. 

24)  Coleridge, Biograρhia Literaria, II, p.  12.  26)  Coleridge, The  Statesman's Manual, p.  436.  26)  Coleridge, Biographia Literaria, II, p.  12. 

27)  キエノレケゴーノ1.-,桝田啓三郎訳『反復~ (~世界文学大系 27~ 筑摩書房p.229 の 註(的参照.

28)  Ibid., pp.  229ー230.

29)  J.  P. Sartre, L'~tre et  le  Nean, N. R. F. p. 34.松浪信三郎訳『存在と無』人 文書院, 1, pp.  56‑7. 

30)  Ibi

p.29.同訳, 1. p. 47.  31)  Ibid., p.  132.同訳, p.240. 

32)  Ibid. p.119同訳, 1, p.  234.  33)  Ibi

34)  Ibid., p.  653.同訳 II,p.  300.  35)  Ibid., p.  708.同訳 III,pp.  405‑6. 

36)  George Watson, The Literary  Cruics:A Study of English  Descriptive  Criticism  (Penguin, 1963), p.  118 

37)  Coleridge, Biographia Literaria, 1, p.  174.  38)  Ibid., 1, pp.  180‑7. 

39)  Basil WilleyNineteenthCentury Studies, p.  13. 

(30)

想像力の志向性について

40)  Coleridge, Collected Letters, IV, p.  454. 

41)  平井啓之『ランボーからサノレトルヘ』弘文堂, p. 213. 

(本稿は1965年度同志社大学英文学会年次大会(196511月313)  にて口頭 発表したものに加筆したものである.) 

参照

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