V 付 章
1,西 院伽藍 と若草伽藍の造営計画
は じめに
法 隆寺西院伽藍 の金堂
,五
重 塔,中
問,回
廊 の一郭が高麗尺 で計画 されていることは,す
で に関野貞 (敬称 略
,以
下 同 じ)に
よって指摘 されている。その後1),四
天王 寺,法
隆寺東 院 において古代寺院の復原的研究 を進 めた長谷川輝雄 は,法
隆寺西院 につ いて も,金
堂・五 重塔 と回廊 の規則的 な配置関係 を指摘 され た (第 84図)。
服 部勝吉 は さらに伽藍配置の解析 的研究 を進 め
,法
隆寺西院伽藍 および四天王寺 の回廊 の2辺
が, 1対 77の
関係 にな り,さ
らにv2の
開平矩形 にお ける特別の性 質が堂塔 の位置 お3)
よびその規模 をも規制 していると考 えた (第 85図)。
西 院伽藍東南方の若草伽藍 は,昭 和 14年 に心礎 が寺 に もどったのを機 に,石 田茂作 らによっ
4)
塔 の土 壇 が確 認 され た。その後
,若
草伽藍 の中心部 を東西 に て発掘調査 が行 われて,金
堂,横 切 る西院大垣南面 の解体修理が行 われ た際
,昭
和43・ 44年 に国営発掘調査 が実施 され,新
しい数 々の知見 が得 られたが回廊 は確認 され なか った。第5)
1回
の発掘調査 に当 った石田茂作 橘寺 や諸 国の国分寺 などの発掘調査 を数多 く行 い,伽
藍 配置は
,法
輪 寺,法
起 寺,中
宮寺,6)
計画 につ いて も種 々論及 している。
四天王 寺 では
,昭
和25年 に講堂 の調査 が行 われ,さ
らに昭和30年 か ら32年 にか けて国営発7)
掘調査 が行 われて
,創
建当時の伽藍配置 の大要 も判明 し,昭
和31・ 32年度 の奈良国立文化財 研 究所 を中心 と した飛鳥寺 の発掘調査 で もその主要部 の独特 の構成 が判明 した。8)法 隆寺五重塔 は昭和16年 1月 か ら同27年5月 にか けて
,同
金堂 は20年2月か ら29年 11月 に か けて解体修理 が行 われた。古代 の建造物 の中で も,建
物 の ゆがみ,高
低差,寸
法 む らが か な り大 きいが,使
用尺 度 は高麗尺 で あ り,金
堂 の標準値 は1尺
が35,94cm(曲
尺 1.186尺),五重塔 で は初重柱 間 によると
35.64cm(1176尺 )と
な り,上
重 へ行 くほどわずかなが ら延 る9)
傾 向 にあ る。
この間
,昭
和23年 に浅野清 らによって金堂 ・五重塔 と大講堂 の中間地区の発掘調査 が行 わ れ,北
面 回廊 が金堂 ・塔 を取囲み,大
講堂 ・・経蔵・鐘楼 は北面回廊の北 に独立 して建 ってい た ことが確 め られた。北面回廊 は本概報Iに
応ゝれ ている ように,昭
和55年度 に再度確 認 され て い る。 また,西
院伽藍建物 の造営計画等 につ いては,竹
島卓―,沢
村仁,石
井邦信,飯
田 須賀斯 らが種 々論及 されている。若 草伽 藍 の調査
今 回報告 され た昭和57年 度の調査 の中で
,特
に重要 な成果の一つ に若車伽藍 に関連 す る柵 列の発見 がある。若草伽藍 の金堂 。塔跡 は地業 の底部 が残 るだけで,基
壇外装 や礎石据付 け位置 などは全 くわか らず
,塔
は南辺 を大垣 で切 られている。地業 の形 も扁平 であって,建
物の中心 も適格 に押 えることはむずか しく
,掘
込 地 業 の範 囲がその まま基壇外装 の規模 を示 す もので はないが,金
堂 の掘込地業 は東西約22m,南
北約19.5mで ,土
壇の築 成土 は掘込線 の 外 に約10cmか らlmほ
ど大 きい。塔 の掘込地業 は東西15.85m,金
堂 ・塔の地形間 は約8.7m
で
,金
堂・塔 中心 間 は約26.4mと
な り,こ
れ は高麗尺 の75尺 に当 ると考 え られ る (この場合 の1尺
は35。20cmに 換算 され る)。 今 回の調査 で検 出 され た北方柵 列 は金堂 と塔 中心 の中点 か ら北 へ約106mに
ある。 これ は高麗尺 の300尺(1尺
は35.33cmに なる),丁
度1町
に当 り,金
堂 。塔 中心間 は
4分
の1町
となる。後 に述べ るように若草伽藍 の造営計画 にはこの4分
の1 11)町
,高
麗尺75尺 が重要 な基準単位 となって い るの で はないか と考 え られ る。若 草伽 藍 の方位 が北 で西 へ大 き く振 れ る こと は戦前 の調査 で明 らかで あ り
,斑
鳩宮跡 と推 定 されて いる東 院下層遺構 も同様 で,現
存 の法 隆寺西 院西面大垣,東
面大垣北方,東
西 院 間子 院築垣
,あ
るい は周辺 に残 る方位 の振 れ た道路 などによ り,周
辺 の特殊 な古地害」も田村 吉 永 らに よって早 くか ら注 目されて い る。地割 の基 準長 さも諸説 が あ るが,今
回の柵 列 な ど を 含 め ると,高
麗尺 300尺 と考 える方 が都合 が良 い と思 われ る。第84図
長谷川輝雄案西 院伽 藍復原案 (単位 高麗尺) 0い
一 い0 中 い0 一
〒 1 1 1 1 T 生
第85図
77開
平矩形の性質(服部勝吉氏論考により作図)金堂の柱 間寸法
西 院伽藍 の金堂・五重塔 の柱 間寸法 と重木割 に密接 な関係があ り
,高
麗尺7寸 5分
が その 単位 とな って計画 されてい る ことは岸 熊吉,浅
野 清 らによって明 らか に され,か
つ,各
建物 の使用尺度 にも僅かなが ら違 いが あ り,回
廊 の東西,南
北 の長 さも違 い,従
って振 れ に差 がある ことも早 くか ら知 られている。
金堂・塔・ 中門・回廊の位置の設定
,個
々の計画 や相互の関連 なども研究 されてい るが,従来 の成果 をもとに
,ま
ず西 院伽藍 の造営計画 につ いて考 えてみることとす る。金堂・五重塔 の柱 間寸法 はすで に詳 しく解 明 されているとお りで
,金
堂初重 は桁行5間
,梁 間
4間 ,桁
行総 長 曲尺46.28尺(14.024m),中
央3間
(身舎)各
10.68尺,両
端 間 (庇)7.12尺 ,梁
間総長 35.60尺(10,788m),中
央2間
(身舎)10.68尺,両
端 間 (庇)7.12尺
。 身舎 山尺 10.68尺 は高麗尺9尺 ,高
麗尺7寸 5分
を単位 とす ると12単 位 (以下垂木割 の単位「支」 をあて る
),庇
の7.12尺 は高麗尺6尺 , 8支 ,従
って桁行 は高麗尺 39尺 (以下 特 記 し ない限 り寸法 は高麗尺),52支 ,梁
間 は30尺,40支
で,桁
行 は梁間の1.3倍 となる。金 堂 梁間 30尺,40支
は回廊 の南北計画寸法180尺 の6分
の1, 1町
の10分 の1に,身
舎梁 間18尺,24
支 は回廊南北計画 の10分 の1にあた り
,金
堂 。塔・中門の柱 間寸法,さ
らに建物設計 の基本 寸法 とされ たと考 え られる。金堂二重 は桁行
4間 ,梁
間3間 ,桁
行・梁間 とも初重 よ り各15支(1支
は高麗尺7寸 5分
)を落 して37支 と25支 と し
,初
重 身舎柱通 りよ り各半支前へ出 ることになる。各柱 間 は支数 に よって定 め,桁
行 中央2間
はH.5支 ,8.625尺 ,端
の間7支 ,5.25尺 ,梁
間 は中央 間11支,8.25尺
,端
の間7支 ,5.25尺
と し,尺
度 で は2寸 5分 ,あ
るいは6寸 2分 5厘
の端数 が付 く。五重塔の柱間寸法
五重塔 は初重総 間曲尺21.175尺
(6.417m),高
麗尺 18尺,5重
はその半 分9尺
と し,二
重,二重
,四
重 は この間 を等差 に割付 ける。初重 中央 間曲尺8823尺 ,脇
の間同6.176尺 は10支,高 麗尺 7.5尺 と
7支 ,5.25尺
に当 り,中 2本
の柱 は正八 角形 の各頂点 に立 ち,対
角線 の2分
の
1(77/2)を
各 隅柱 か ら側通 りに取 った と ころが柱位 置 になる。初重 総 間 の24支,18
尺 は金堂 身舎梁間 に合わせている。
中門の柱 間寸法
中門 は高麗尺 に よって完数 とな らない間 が 夕 いので
,尺
度 に よる完数 を得 ようとす る以 前 の研究 にはか な り無理 がある。中門の解体修理 は明治34年 に行 われているが,そ
の時の 図面 に よると,初
重 梁間 は総間曲尺27.91尺;中
央 間同11.63尺,端
の間同8.14尺,こ
れ は高麗尺 で総 間24尺,中
央間10尺,端
の間7尺
とな る。総 間24尺 は,金
堂 の身舎梁間18尺 と庇1面
6尺 を加 えた寸法 に当 る
7寸 5分
を単位 とす る支害」では,全
体 は32支 とな り,中
央 間13/支
,端 の間
9%支
とな って各3分
の1の端数 が付 くが,高
麗尺 では完数 とな る。桁行総長 は曲尺29749‑11014‑r‐ 33323
第86図
西 院回廊現状平面寸法(単位
m)
下
︱
︱
︱
︱
︱
︱
︱ 甚 いめ︱
︱
︱
︱
︱
︱
︱ 上 下
︱
︱
︱
︱
︱
︱ 十 1 1 1 1 1 卜8 B
39.28尺
,中
央2間
11.50尺,端
の間8.14尺 となる。総 間 は梁 間の77倍
に近 く,全
体 を45支,33.75尺 に定 め
,端
の間 は梁 間 と同様 に7尺 , 9%支
をとると,残
りは26%支 ,高
麗尺 19.75尺 とな る。 これ は
1間
には広 く, 3間
で は端 の間 よ り狭 くな り,こ
れ を2等
分 して中央2間
を各13/支 ,9.875尺
と割付 ける。中門 の二重 も桁行
4間 ,梁
間3間
で,桁
行 総 間 曲尺 30.90尺,中
央 間同8.95尺,端
の間同6.50尺
,梁
間 は総 間 同19.60尺,中
央 間同7.40尺,脇
の間同6.10尺 である。 これ らも初重 中 央 間 と同様 に高麗尺 の完数 にな らないが,高
麗尺7寸 5分
を単位 すれば,桁
行 中央 間10%支
,端 の間
7%支
で総 間35%支 ,梁
間 は中央 間8%支 ,端
の間7支
で総間22%支
と考 えることがで き
,初
重 よ り9.5支 の落 ちとなる。 この落 ちは初重端 の間9%支
とほとん どひと しく,二
重梁 間
22%支
は初重桁行45支 の丁度半分 に当 る。中門初重梁間 は
,金
堂 身舎梁間 と庇1面
に定 め,塔
初重 は身舎梁間 をと り,金
堂桁行 は梁 間 の1.3倍,中
問桁行 は同梁間の77倍
に とって い るところをみると,金
堂梁間が塔 ・中門の柱 間寸法の基準 ともなっている。各柱 間寸法 は高麗尺 によって完数 となるところも少 くな いが
,支
割 で は さらに丸 い数値 とな り,金
堂二重 や中門の支割 の端数 も%,%,%,%と
単 純 な分数 を用 いている。1'0
第87図
西 院伽藍 計画 支数(単位尺
7寸 5分
を単位 と した支数 を示 す。( )内
は高麗尺 寸法。)稚 キ
∫
挺 爾 日 日 鋼 日 日
■
旦
fナ
卜トーー45
なお,各建物 にお ける標 準尺 度 はやや違 いが あ り,金堂 か ら塔,中門,回 廊 と順次短 くなる。
中門'回廊 に続 いて建立 された と考 え られ る東 大 門 。経蔵 も,中 門 。回廊 と同様の傾 向 を示
17)
す。
回廊 の柱 間寸 法
南面 回廊 よ り北面 回廊 は約
0.75m短
くな り,か
つ 中門両脇の南面東方 および西方回廊柱通 りも一 直線 に通 らず,か な りの施工 む らがあ る。回廊外側 の柱 間 は南面では中門東方11間 (中 門脇 を含 め),同
西 方10間,東
面 。西 面 17間 とす る。北面 は現 在 各4間
目で北 へ折 れ て,経
蔵 ・鐘楼 へ と続 き
,さ
らに大講堂梁 間前端間 に取付 くが,本
来,北
面 回廊 は金堂・塔 を取 り 囲 み,全
体 で24間 で あつた と考 え られ る。金堂 ・塔 の間回の大小 を考慮 して東方 を
1間
広 く し,中
問心 は回廊心 よ り回廊半 間分 だ け 西 へ寄 っている。金堂・塔 の中心 が南面両端 隅柱 か ら9本
目の回廊柱心,東
西 回廊 の南端 隅柱 か ら10本 目の柱心 に合 い
,北
方 よ り回廊1間
分,10.5尺
だ け金堂・塔 の前面 を広 く取 る こ とは,す
で に長谷川輝雄が指摘 している。回廊各柱 間 は桁行・梁間 とも曲尺12.2尺 余 りの間 が 多 い。 これ は高麗尺 10.5尺, 7寸 5分
の 14支 と考 え られて いる。従 って東西面 は17間,178.5尺
,238支
となる。後述 の ように,こ
れ は180尺,240支
に計画 した もの を105尺
で割切 れ る ように,1.5尺
,2支 の修整 を した もの と考 え られ る。回廊 が
1対 vZに
な ることは服部勝吉 が指摘 したとお りであるが,奥
行 の計画寸法 180尺,240支 を基準 とすれ ば
,間
回 はそのvZ倍
で,255尺 ,340支
に計画 されている。回廊 は対面 の長 さに差 があ り,各
間 に よってむ らもあ るが,間
口340支 か ら,中
門の45支 と,中
門東 方 10間,西
方9間 ,各
14支 を差 引 くと29支 残 る。 これが中門両脇 の間の分 となる。全体 を339 支 に修整 すれ ば中門両脇 も各14支 となるが,北
面 回廊 の割付 け,金
堂 。塔中間の割付 けか ら み ると,中
門両脇 は14.5支 の計画 で あったと考 え た方 が よい。実 際の中門両脇 間 は東方 曲尺13.60尺
,西
方 13.30尺 で14.5支 よ りもさらに長 い。 これ は南 面 回廊 内側 隅柱 間83.137mを
234尺 (255尺 か ら回廊 隅2間
分21尺 を引 く)で
割 る と, 1尺
35.53cmと な って他 の
3面
よ り長 く,従
って南面 回廊隅柱 の位置 は長 目の尺度で決定 され て い るが,回
廊柱 間 は曲尺12.22尺 前後(1尺 35.27cm)で
短か 目の尺度であ り,両
端 か ら順 次 割付 けて端数 を中門両脇 に集 め たため計画 よ り広 くな ったと考 え られ る。北 面 回廊 は24間 と考 え られ るが,全 体 を340支 とす ると
4支
の余 りができ,中 央2間
を16支,12尺 に計画 したと考 え られ る。北面回廊 は南面 よ りも総長 が約
0,75m短
いので,実
際の施 工は両端 か ら順次割付 け残 りを中央 にあてたと思 われる。
伽 藍造 営の基準
西 院伽藍 の平面計画 で は高麗尺 で完数 が得 られ ると ころ も多いが
,そ
の7寸 5分
が単位 と な ってすべてが計画 され,高
麗尺 に よる完 数 はあ ま り意識 され なか ったと見 て よい。若草 伽 藍 の金堂・塔 中心 間が75尺 にと られ,さ
らに周辺 の古地割 が高麗尺,300尺
を基準 とす る ことは
, 7寸 5分
が高麗尺75尺, 1町
の4分
の1を100支 と した小単位 で,75尺
と7寸 5分
を 伽藍造営計画 の基準 と小単位 と したことを示 してい る。飛鳥寺の造営計画
飛鳥時代 の伽藍造営計画 に高麗尺75尺 が重要 な基準 で あった ことは,飛 鳥寺 に もみ られ る。
飛 鳥寺 の塔 中心 か ら中金堂 。東金堂 。西金堂 中心 まで88.46尺
,89,95尺 ,90.53尺
で2尺
程 の差 はあるが,い
ずれ も計画 は75尺 であったと思 われ る。 また,東
金 堂の中心 か ら東回廊基 壇 内側 まで曲尺81.70尺 であ り,中
軸線 か ら回廊 内側柱 心 まで は高麗尺150尺 に計画 された よ うで,飛
鳥寺 回廊 東西 幅 の計画 は内 々で75尺 の4倍 ,丁
度1町 ,300尺
をとって いる。南北 は基壇 内 々が曲尺265.43尺 で丁度大尺225尺,75尺
の3倍
とな り,回
廊 内側柱通 りではこれ よ り基壇 の出だけ大 き くなる。 これ は個 々の柱 間割付 けに当 っての修整 と施工 の粗 さが重 な ってい るためであろうが,回
廊 の縦横 は3対 4に
計画 され,塔
と二金堂 はその中に規則的 に 配置 され た。東西金堂 が塔 を中心 と して向 い合 うため南面 を広 くと り,南 面回廊内側 か ら塔 。︷0〇一︱IIIII■一
︐IIIIIIIIl6●IIIIIIIIII︺rlll︲︲︲︲1
第88図
飛 鳥寺伽藍計画 (単位 曲尺(調査報告書)。
( )内
は高麗尺 による推定基本計画寸法。)東西金 堂 中心 までが90尺
,中
金堂中心 か ら北面 回廊 内側 までが60尺 に計画 されている。橘寺 の塔・金堂 中心 間 は曲尺88尺,こ
れ も高麗尺75尺 の計画 である。西院切Π藍造営計画
西 院伽 藍 において金堂・五重塔 中心 か ら東西回廊 。北面 回廊外狽」
,南
面 回廊 内側 まで は回 廊8間
分,112支
で同寸法 である。金堂 。塔 中心間 は これ よ り4支
広 く116支 となる。若草伽 藍 で は これが丁度75尺,100支
とな る。西 院伽 藍 で は塔西北 隅柱 か ら北面 回廊 お よび西面 回 廊 外側 まで をみ る と丁 度100支 す なわ ち75尺 とな り,
ここに4分
の1町
が と られ てい る。回 廊 は南 北 180尺,240支
を178.8尺,238支
に修整 して施工 しているが,240支
か ら100支 を差 引 い た140支 は,100支
を1辺
とす る正方形 の対 角線 の長 さ約 141支 に近 く,さ
らに,100支
に240支 を加 えると340支となり回廊東西幅の計画値 に一致 す る。服部勝吉 は西院伽藍の計画 に
77開
平 矩形 の特性 が随所 に利 用 されて いる こと を指摘 して いるが,180尺
と255尺 の77矩
形 が は じめ に定 め られ たとす るよ りも
,こ
れ を逆 に考 えて, 4分
の1町
75尺 とす る小正方形 を もとに して,100支
と100支 のvZ倍 ,140支
の小vZ矩
形 をつ く り,さ
らに100支 と140支 を加 えた240支 を1辺
とす る大正方形 を並べ て回廊 全体 の規模 を定 めたとすれば,西
院伽 藍 において も高麗尺75尺 を100単 位 と して計画 の基 本 的長 さと した ことになる。 この小正方形 の角 (第35図)を
塔 の西北 隅柱 に当 て たが対称 の位 置 (東面 回廊 外側 か ら75尺,100支 )は
金堂 身舎背面東脇 の間の中心 に当 る。 この点 か ら金堂東側柱 までは14支 となるが
,金
堂桁行の
2分
の1,26支
と,塔
の2分
の1,12支
との差 も同様14支 で,こ
れが回廊柱間 に定 め られ21)
て い る。
この ように回廊全体 の規模
,建
物 の位置 と各建 物 の柱 間寸法 が極 めて密接 な関連 の もとに 周 到 に計画 されて いる。 もっと も長期 にわた る造 営 の間 に尺度 の微妙 な変化 や仕事 の精 度 な どに よってかな りのゆがみや振 れを生 じ,計
画 との差 がで きてい る。計画 の要点 をまとめ る と,次
の ような ことになろう。第89図
西 院伽藍基本計画 支数 (高麗尺
7寸
5分
を単位 と した 基 本計画支数。( )内
は高麗尺 に よ│る寸法 。)可
割
H
I I
帽
H 割
︱ ︱
旦
① l町 の 4分 の 1,75尺 を
100単位として造営の基準とし ,方
75尺,100単 位の小正方形を もとにして ,南 北
(矩辺 )240支
(180尺),東 西
(長辺 )340支
(255尺)の vZ矩 形を回 廊の基本計画とした。
② 伽藍配置・柱間寸法・垂木割は基準長
75尺の
100分の 1, 7寸 5分 を計画の単位とした。
③ 金堂梁間を回廊南北の 6分 の 1, 1町 の
10分の 1,40支 ,30尺 とし ,柱 間寸法の計画基
準 と した。④
金堂 身舎梁 間 を塔初重柱間 にあて,身舎梁 間 と庇
1面
を中問総間 にあて,桁 行 はそのvZ
倍 (45支
)で
定 めた。金堂桁行 の%と
塔柱 間の%の
差 14支 を回廊柱間 に定 めた。⑤
回廊南北 を14支 ×17間
,238支 ,178.5尺
に修整 し,塔
西北隅柱 を北面西面回廊外側か ら 各100支 (小77正
方形 の角)に
とった。塔 中心 まで は112支 にな り,金
堂 中心 も東面・北 面 回廊 か ら112支 と した。 これ は西 回廊北 か ら8間
目の柱 通 りに当 り,金
堂 。塔 中心か ら南 の 回廊 が
1間
広 くな る。南面 回廊 は中門東方 を1門
広 く取 った。金堂桁行 と塔柱間の差 が回廊2間
分 に当 たるので,中
間中心軸線 か ら金堂 。塔側面柱通 りまで同寸法 になる。若 草伽藍造 営計 画の推定
若草伽藍 の回廊 の規模 は先般 の調査 で も確認 されていないが
,飛
鳥寺や西院伽藍か らこれ を類推 す ることができないであろうか。金堂・塔 の基壇外装 の正確 な規模 もわか らないが,西 院 と くらべ て大差 はな く
,同
一規模 であった可能性 も少 な くない。塔 と金堂 が縦 に並ぶの で,中
門 は西 院 よ りも小規模 であったであろ う。金堂 ・塔 中心間が75尺,そ
の中点か ら北方 柵 列 まで丁度 300尺 であることは,西
院 と同様 に75尺 が造 営計画上 に重要 な基準 であつた こ とを考 え させ る。飛 鳥寺 回廊 が内側柱通 りあるいは基壇 で75尺 の
3倍
と4倍
で計画 されていることも併せて第90図
若草伽藍造営計画 推 定 案(高麗 尺 に よ る 推 定 計 画 寸 法 。
( )内
は高麗 尺7寸 5分
を単位 と した支数)注 目され る。若草伽藍の回廊が未完 であったか
,あ
るい は築垣 とされ たような こともあ り得 ない ことで はな いが,一
案 と して若草伽 藍 の金堂 ・塔 の中心 か ら四面 回廊 内側 まで各75尺 と 考 え ると,回
廊 内側 で東西 150尺,南
北225尺 となる。 これ は飛鳥寺東西金 堂の心 を東西 回廊 内狽J柱通 りに あて,回
廊東西幅 を飛 鳥寺 の半 分 と し,南
北 は同規模 と した ことになる。回廊 梁 間 は飛 鳥寺,川
原寺,山
田寺,法
隆寺西 院伽 藍 いずれ も曲尺 12尺強,高
麗尺 10.5尺 で,こ
れが飛鳥寺 院の回廊 の標準寸法 であ り
,若
草伽 藍 にお いて も同様 に考 えて よいと思 われ る。この場合
,考
慮 に入 れ る必要 の あるのが東室 で ある。東室 は礎石,柱
に転用材が多数 あ り,西 院伽 藍 建立 に当 って古材 を再 用 して いるが
,も
と若草伽藍 の僧房 であった可能性 を持 って い る。桁行柱 間 に大小のあるの も古材転用 に要 因があると考 え られるが,広
い間 は高麗尺9 尺 であ る。これ は現金堂 身舎柱 間 と も同 じで あ るが,も と若草伽藍 の僧房 であつたとすると,回廊 と柱筋 を合 わせていた可能性 もあ り
,従
って回廊柱 間が9尺
で あった可能性 もある。9 尺 は7寸 5分
を単位 す ると12支 とな り,金
堂 ・ 塔 中心 か ら四面 の回廊 外側 まで7寸 5分
の 112支,84尺
とな って,西
院伽藍 の金 堂 。塔 中心 か ら東 西 北 回廊 外側,南
面 回廊 内側 まで と 同 じ寸法 にな る。 もっとも東室 が講堂 の北 にあれ ば直接 回廊 と柱 を揃 え る必要 は少 く,回
廊 外側 まで をH2支 ,84尺
で押 えて回廊幅 を14支,10.5尺
に とった ことな ども考 え られる。外 側 を この寸法 とす ると,若
草伽 藍 は西 院伽藍 よ り回廊長辺 で金堂・塔 中心 間の116支 と100支 の差 の分, 7寸 5分
の16支分 が短 くな り,短
辺 で は丁度西 院回廊1間分 が短 くな って,両
者の計画 には不可分の関連 があることになる。若草伽藍 の回廊 の遺構 は未確認で想像 の域 を出 る もので はな く
,こ
の ほか にもv修 の導入 な どを応ゝくめ各種 の案 ができようが,西
院伽 藍 と大差 な く
,そ
れ よ り大 き くはないと考 えて よさそ うである。西院伽 藍 と若 草伽藍 の関係
若 草伽 藍 の造営 計画 を回廊外側 まで112支 と考 え た場 合 は
,西
院伽藍 は金堂,塔
を横 に並べ るために,若 草伽藍 の金堂,塔 の中間 を16支 分(これ は西 院金堂桁行 と梁 間の差12支 に近 い) ひろ げ
,か
つ前 を回廊1間分 ひろげたにす ぎない ことにな ろ う。西 院伽 藍 は若草伽藍 の西北方 の丘 陵の端 を切 開 いて新 たに敷地 を造成 し
,金
堂 と塔 を横 に並 べ
,前
に記 した ように均密 に計画 されたが,寺
院 の由緒 ばか りでな く,伽
藍造営計画 も若 草伽 藍 を もと と して立 て られ,高
麗尺75尺 を基準 とす る計画 の根本 はその まま受継 がれ た らしい。この ことは単 に配置 や柱 間寸法 ばか りでな く,西 院伽藍 のいわゆる飛鳥様式 と考 え られ て い る特徴 ,柱 の心、くらみ,大 斗の皿斗,雲斗雲肘木,反 りの ある叉首組,卍 字崩 しの高欄 ,人 字 形割 束 な どの独特 の細部 ,側・入側柱 の高 さを揃 えて井籠組 に通肘木 を積 み重ねた構造手法 な ど も,若 草伽 藍 に用 い られた飛鳥時代の手法 を継承す ると ころが多いことを裏付 けよう。
法輪寺・ 法起寺・ 中宮寺 など
法輪寺 は戦前 まで飛鳥様式 の二重塔が残 り
,昭
和25年 に伽 藍 の発掘調査 が行 われ,そ
の後 に も塔跡 な どの調査があるが,石
田茂作 は法輪寺の回廊 や金堂 は法隆寺 の3分
の2をとったもの と され て い る。法隆寺 の ように北面 回廊 の外 に離れて講堂 が建つが
,正
式報告 が未公表 の ため,こ
まか い造営計画 の検討 はむずか しい。法起寺二重塔 は寸法
,様
式 と も法 隆寺五重塔 と共通 するところが多いが,塔
が束,金
堂 が 西 にあ り,北
面 回廊 の中間 を切 って講堂 が内庭 に面 して建つ と考 え られている。石 田茂作 を 中心 と して昭和35年 に第1回,同
36年 に第2回
の調査 があ り,そ
の後,塔
の修理工事,北
西 隅 の道路工事,防
災工事,収
蔵庫建設 にともな う調査 などが あるが,初
期 の調査成果の詳細 が未公表の ため,法
輪寺 と同様 にこまかい計画の検討 はで きないが,法
輪寺 と法起寺 は法隆 寺西 院伽藍 を もとに して,こ
れ を縮 少 して計画 されていると見 て よいであろ う。中宮寺の旧寺地 も昭和38年 に石田茂作 。稲垣晋也 らによって発掘 されている。中宮寺 は若 草伽 藍 と同様 に塔・金堂が南北 にあるが
,方
位 はほぼ真北 を向 き,塔
・金堂 中心間 は18.9m
で,若
草伽 藍 に く らべ るとか な り短 か い。四天王寺 の発掘調査 に よると
,回
廊 は長辺101.06m,短
辺71.70mで
あ る。回廊計画が高 麗尺 か天平尺 か なお検討の余地 が残 されているが,長
辺 と短辺 は7Zの
関係 にある。橘 寺 も石 田茂作 らによって調査 され
,伽
藍 は東 向 きで,金
堂,塔
中心 間の距離 は曲尺88尺(26.67m)で
あ り,
これは若草伽藍 と同様 に高麗尺75尺 に当 る。金堂後方 に講堂があって,回廊 は講堂側面 に取付 くようにも推定 されているが
,講
堂 の前面北方 に東西方 向の石列が発 見 され てお り,こ
れ を西面 (背面)回
廊基 壇外側 と考 えると,橘
寺 の回廊 も金堂 の後 で閉鎖 され て講堂 はその後方 に独立 して建つ ことにな り,回
廊 の比率 とほぼ1対 77と
なるようで ある。 この場合,回
廊 は南北 (短辺)が
高麗尺150尺,東
西 (長辺)は
その77倍 ,211尺
程,塔 中心 か ら前面 回廊外側柱通 まで62尺程 の計画 らしい。 この寺 もさらに広範囲 に発掘調査 を 行 え ば
,伽
藍 計画 は さらに詳 しく判明すると思 われ る。お わ りに
法 隆寺防災工事 にともな う発掘調査 で若草伽藍 の柵列 が発見 され たことは
,今
後 の調査 に 大 きな期待 をいだかせ るものであるが,金
堂・塔 の遺構 と今回発見 の北柵列 によると,1町
,高麗尺 300尺 の
4分
の1,75尺
が伽藍造営計画 の基準寸法 にな ったと考 え られ る。一方,西
院伽 藍 の各建物 で は
,柱
間寸法 が その100分 の1の 7寸 5分
を単位 と し,金
堂,五
重塔 の規 格 的 な部材 のせ い も7寸 5分
に と られるなど,計
画上 の関連が認 め られ るので,西
院伽藍 の 酉己置 計画 を再検討 し,こ
こで も高麗尺 が計画の基本 となることを確 めた。飛鳥寺・橘寺において もこの寸法 は金堂 ・塔 中心 間の距離 にあて られている。
1塔 3金
堂 の飛鳥寺 では,回
廊 が3対
4に計画 され たの に対 し,金
堂 が1棟
であった若草 伽藍 は3対 2に
計画 された可能性 を考 えたが,四
天王寺,西
院回廊 は1対 7Zで
あ り,橘
寺 も同様 の可能性 が大 き く,回
廊 の比率 には整数比 とvZ開
平矩形 の場合が考 え られる。単純 に前者か ら後者へ発展 したとみて よいのか,今
後 の検討が必要 であろうが,西
院伽 藍 の よう な全 く隙のない厳 密かつ巧妙 な計画が生 み出 され たの も,長 い経験 を経 た上の ことであろう。法 隆 寺 西 院伽 藍 と若 草 伽 藍 の伽 藍 計 画 に緊 密 な 関連 が考 え られ るす る と
,い
わ ゆ る法 隆寺式 伽 藍 配 置 が
,い
わ ゆ る四天王 寺式 伽 藍 配 置 に 直接 つ な が る こ と に な る。 これ は,法
隆寺 西院伽 藍 の様 式 手 法 が飛 鳥 的 な もの を多 く残 す こ と を再 確 認 す る こ とに な る。
山 田寺 につ い て は
,当
時 の伽 藍 配 置 計 画 も明確 に な りつ つ あ るが,現
在 東 面 回廊 南 方 の発 掘 調 査 が進 行 中 で あ るの で今 回 は応、れ なか っ た。百 済 。新 羅 の 寺 院 に も
,軍
守 里 廃 寺 を は じめ,金
剛 寺,定
林 寺 な どの 「一 塔 式 伽 藍 配 置」, い わ ゆ る四天 王 寺 式 伽 藍 配 置 の寺 院 の調 査 研 究 が進 め られ て お り,飛
鳥 寺造 営 にお ける造 寺 工 らの渡 来 ,『上 宮 聖 徳 太 子 伝 補 閥 記』 に,斑
鳩 寺 の被 災 の 後,高
井 寺 ・三 井 寺 の造 営 に た ず さわ っ た と され る百 済 の入 師 ・ 聞師 。円明師 ら も百 済 渡 来 の工 匠 で あ ろ う とす る見 解 もあ って,法
隆 寺 に お け る百 済 系 工 人集 団 の存 在 も十 分 考 え られ,百
済 。新 羅 ・高 句 麗 寺 院 の造 営 計 画 との 関 連 も,今
後 の重 要 な興 味 あ る検 討 課 題 で あ る こ と は い うまで もな い。古 代 寺 院 の造 営 計 画 は
,な
お十 分 検 討 を要 し,若
草 伽 藍 な ど に関 して推 察 の域 を出 な い と ころが 多 く粗 案 の ま まで あ るが,本
概 報 に あ らま しを述 べ る こ と と した。本 報 告 に あ た り
,奈
良 県 文 化 財 保 存 事 務 所 法 隆 寺 出張 所 堀 内啓 男,今
西 良男,幹
田秀雄,橿 原 考 古 学 研 究 所 菅 谷 文 則 及 び奈 良 国立 文 化 財 研 究 所埋 蔵 文 化 セ ンター沢1量研 究 室
,同
平 城 宮 跡 発 掘 調 査 部 員 ら多 くの 方 々 に協 力 を受 け た。注
1)関
野貞「法隆寺金堂塔婆中門非再建論」『建築雑誌』218
明治38年2)長
谷川輝雄「四天王寺建築論」『建築雑誌』477(大 正14年)の「附図第七
法隆寺伽藍復復原図」
3)服
部勝吉勁田藍配置意匠に関する図式解析法に就いて (第一 回)〜 (第六 回)」『建築学研究』
創刊号 〜
9
昭和 2〜 3年服部勝吉
『法隆寺重脩小志』彰国社
昭和21年
なお
, vZ矩
形 は古代ギ リシヤにおいても,建
築意匠などの調和の基本 と して用い られた。vZ矩 形 は 2分 の 1に しても4分 の 1に しても同 じ比率 になる。4)石
田茂作「法隆寺若草伽藍址の発掘」 噺日藍論孜』養徳社
昭和23年 ,『法隆寺雑記帖』学生社 昭和44年
5)『 法隆寺若草伽藍跡昭和43年度発掘調査概報』『同昭和44年度発lE調査概報』文化庁文化財保護部 記念物課
6)石
田茂作 『伽藍論孜』養徳社昭和23年,『東大寺 と国分寺』至文堂
昭和41年,『法隆寺雑記帖』
学生社
昭和44年 ,『飛鳥随想』辛生社
昭和47年などに所収の諸論考。
7)文
化財保護委員会 『四天王寺埋蔵文化財発掘調査報告第六』吉川弘文館
昭和42年
8)奈
良国立文化財研究所 『飛鳥寺発掘調査報告奈良国立文化財研究所学報第五冊』昭和33年
『仏教芸術
33
飛鳥寺発掘特集』毎 日新聞社昭和33年
9)『 法隆寺国宝保存工事報告書第十三冊
国宝法隆寺五重塔修理工事報告』昭和30年
『法隆寺国
宝保存工事報告書第十四冊
国宝法隆寺金堂修理工事報告』法隆寺国宝保存委員会
昭和33年
竹島卓一 『建築技法か ら見た法隆寺金堂の諸問題』中央公論美術出版
昭和50年
10)浅野清 『法隆寺建築綜観』便利堂
昭和28年 ,『‖召和修理 を通 して見た法降寺建築の研究』 中央 公論美術出版
昭和58年
11)北柵列の北 に同方位の掘立柱穴があ り
,そ
の約18m北方 に束西 に並ぶ 2個 の柱穴 は北柵列か ら高 麗尺約50尺に当 り,中
軸線の東 に南北 に並ぶ 3個 の柱穴 は中央柱穴心が北柵列か ら約8.5m,高
麗 尺24尺程 にある。 これ らの柱穴 によって北柵列の北方にも関連施設の存在が予想 され,北
柵列は金 堂・塔・僧房 などの主要建物北限の柵 と考える方が よいようである。また
,今
回の調査で,東
大門,西
大門問参道で西柵列の掘立柱穴 3個 を検出 したが,これは推定 伽藍中軸線か ら約44.5m,高
麗尺126尺程 に当 り,半
町 より短 いが,これは谷筋の付 けかえなどに 関連 してやや狭 くなったのかもしれない。12)田村吉永「条里 より見たる法隆寺」『綜観法隆 寺』河原書店 H召和24年,「芳車伽藍 と法Ftk寺々 地 についての一考察」『史逃と美術』302昭和35年
,岩
本次郎「斑鳩地域における地割の再検討」『 文化 財論叢 奈良国立文化財研究所創立30周年記念論文集』 同朋社出版昭和58年
なお,斑鳩地域の 古地制 に関 する諸研究 は̲ヒ記岩本論考 に詳 しく引かれているのでそれを参照 されたい。
13)岸熊吉「法隆寺五重塔の実情 と一部復原的考察」『塔婆の研究
夢殿第十』斑鳩古郷舎
昭和8
年
14)『法隆寺国宝保存工事報告書第六冊
国宝建造物法隆寺大講堂修理工事報告書』(法隆寺国主保存 事業部
昭和16年)75頁 に
,聖
徳太子奉讃会所蔵伽藍平面図を補整 して掲 げられてお り,奈
良県教 育委員会 に回廊修理時の実測図が所蔵 されている。15)奈良県教育委員会所蔵。関野貞の注 1論 文 もこの寸法によっている。
16)中門柱間寸法計画表
柱 間 曲 尺 寸 法 計 画 支 数 計画高麗尺 高麗尺1尺
当 り 鵡 尺 同 計画高麗尺
の曲尺換算
初
重
桁 イ子
中 央
2間
端
の
間
総 間
11 50 8 14 39 28
% %
4 5
9 875 7 00 33 75
11.485 8 141 39 25ユ
梁 間
中
央
間 端
の
間
総 間
11 63 8 14 27 91
%
% 3 2
10 00 7 00 24 00
1 163 1 163 1 163
35 24 35 24 35 24
11 630 8 14ユ 27 912
重 桁 行
中 央
2間
端
の
間
総 間
8.95 6 50 30 90
10%
7%
35%
7 6875 5 625 26 625
1 164 1 156 1 161
35 28 35 02 35 17 梁
間
中
央
間 端
の
間
総 間
7 40 6 10 19 60
8%
7 22)イ
6 375 5 25 16̲875
35 18 35 21 35 20
7 401 6 095 19 592
高麗尺 1尺 当 り曲尺 は
,曲
尺寸法 を計画高麗尺 で割 ったもの。計画高麗尺の曲尺換算 は,計
画 と現 状 の差 を見 るために,高
麗尺標準値 老初重 は梁門総長 によって1.163尺,二
重 も梁間総長 によって 1.161尺として計画高麗尺 を曲尺 に換算 した。曲尺の寸法 は奈良県教育委員会所蔵図面 によった。17)法隆寺古代建造物の標準尺度
名 称 高
麗
尺 ★ 半 爬 天 平 尺 換 算 値
備 考
曲 尺 曲
尺 曲 尺
金 五 中 回
東 東 経 食
重
堂 塔
F日
廊
室
F]
蔵 堂 大
東 院 夢 殿 東 院 伝 法 堂 綱
封
蔵 大
講
堂 大 講 堂 前 身 鐘 楼(西 院)
1.186 1.176 1 163 1.172 1.160 1 170
1.166 35 94 35.64 35.24 35 53 35 17 35.45
35 33 975 ,9676 .969 .975 978 978
.9893 ,980 .988
29 55 29,32 29,36 29.55 29.64 29 64
29,98 29,70 29,94
9883 9800 9692 9770 9667 .975
29.95 29,70 29,37 29 61 29.31 29.55
29 44
初重柱間による
南面回廊内側 隅柱間による 西面回廊内側 隅柱間による
桁 行1053尺 を 高 麗 尺 9尺と し て 、 天 平 尺 は 身 舎 梁 問
差渡238尺 と して
梁間 を高麗尺 7尺と して
法起寺二重塔 法輪寺二重塔
35.64 35,15
.9801 .9667
29.70 29.29
金堂・五重塔の中心間の寸法は特 に重要な値であるが
,裳
階・須弥山などのため直接計測が不可能 である。そのため,裳
階隅柱 を中かいとして算出すると,31528mと
なる。これは高麗尺87尺の計画の はずで
,一
尺36.30cmとなって特 に大 きい数値 となる。注14の伽藍平面図も実階による寸法 を記入 しているが,それでは102.9尺となる。各建物の尺度 は,金堂,五 重塔,南面国廊総間,中 門,回 廊の順 に短 くな り,東 大門と経蔵が中門・
回廊の天平尺換算値 とほぼ等 しい数値 を示 し,こ の間,ほ ぼ造営の順 に短 くなる傾向がうかがわれ る。
18)回廊は延長が長いため実測値にもむ らが生 じやすいが
,今
回回廊内側で計測・算出 した数値 を第 86図に示 した。測量方法などについては別項 を参照 されたい。回廊柱間寸法 はばらつ きが大 きく
,狭
い問は3.650m,特
に広い間では3814mと
なるが,大
部分 は 3.70m前後 である。図に記入 した梁間寸法3703mは ,奈
良県文化財保存事務所法隆寺出張所が,回
廊修理工事 に当 り標準寸法としたものである。南面回廊の中門脇の柱間 も中門と回廊柱通 りが喰違 う
ので
,直
接実測 した寸法によった。なお
,東
西回廊 は登 りになってお り,内
側隅柱礎石間の高低差 は東面0615m,西
面072mで ,斜
距離 は東
55.608m,西
55,392mと なるが,図
記入の水平距離 との差 はきわめてわずかである。19)注2の 伽藍復原図
20)山田寺回廊の発掘調査 によると
,北
面回廊中央 2間 は高麗尺12尺,他
は105尺で,西
院北面回廊の 推定 と同様 である。21)塔初重脇の間
,中
門二重梁間端の間が 7支 で回廊柱間の半分 になる。石井邦信は「方五斜七」あるい は「方七斜十」 を考慮する必要があると指摘 されている。(『建築学会大会議演梗概集』昭和46年など光 塔初重支割,中
門初重梁間柱間の割付 けは10対7,回
廊の短辺の基本計画は100支と140支を加 えた240 支で,10対14になる。いずれも72に
ごく近い比率であるが,10対7は 1,429,14対 10は 1,400で一致 し ない。 このためどちらかに拘束 されたのではなく,7Zを 目途 にして,そ れに適 ぎ僅少の補整を加えたの ではないだろうか。中門廻廊の計画寸法などについては
,飯
田須賀斯,沢
村仁,石
井邦信 らの多 くの論考がある。沢村
仁
「中門
,廻
廊」『奈良六大寺大観第一巻
法隆寺 ―』 岩波書店
昭和47年
飯田須賀斯・山森芳郎
「法隆寺中門・五重塔の幾何学的比例」『日本建築学会論文報告集号外』
昭 和40年
石井邦信
「推定復原寸法からみた法隆寺西院伽藍計画の疑問点」『日本建築学会九州支部研究報告』
第21号
昭和49年,「内法・心々・外法の関係 による法隆寺中門の柱間寸法 について」『日本建築学会 学術講演榎概集』
昭和50年 ,「法隆寺西院回廊の柱間 と部材寸法の関係 について」『学会中国・九州 支部研究報告』第 3号
昭和50年
22)石井邦信 らが指摘 されているように
,高
麗尺 7寸 五分 は柱 間寸法・垂木割の単位のほかに部材や立上 り寸法の基準 ともなった。例 えば,金
堂初重柱長 さ14支,二
重柱長 さ7支,出
桁の出は初・二重 とも7支 とす る。金堂大斗幅は 2支
,せ
いは1.2支,肘木長 さを5支 とするなど,建物全体の計画にも大 きく影 響 し,金
堂・塔の通肘木・肘木・尾垂木 などに多用す る規格的な材は,せ
いを7寸 5分 幅を5分 の4の6寸 に取 る。中門の規格材はせい高麗尺 6寸 5分
,幅
はその 5分 の4で,金
堂頭貫 とほぼ同 じである(沢 村注21論考)。23)昭和43年度の調査で
,塔
東方の東回廊想定地付近では,中
軸線の東方27〜36m付近の地山粘上がわ ずかに高 く残 っていたが,建
物の存在 を確認するもの は見出 していない (注5の 概報)。24)石田茂作 は四天王寺式伽藍の比較研究か ら
,若
草伽藍の回廊 を東西220尺 (塔・金堂距離の25倍
), 南北380尺 (同3.5倍),寺域一辺長660尺に推定 されている (『法隆寺雑記帖』)。25)飛鳥時代の回廊の柱間は
,曲
尺12尺強で高麗尺105尺に当る例が多い。柱間10尺とせずに 5寸 の端 数のあることは,西
院伽藍のように,各
建物の配置,回
廊 との関係 や柱間寸法,さ らに立上 り寸法を 密接 に関連 させた計画手法が早 くか らあったことを示唆 している。なお,若
草伽藍の回廊 を内側 で 225尺と150尺,梁
間と桁行標準 を10.5尺とすれば,北
面 は中央 2間12尺,脇
6間 ずつを105尺で取 っ たことにな り,東
西面 は中央で12尺の間が 3間,そ
の他18間は105尺でほぼ都合よく割付けられる。長辺 を4.5尺縮 めると外周で105尺間が23間
,2415尺
となって山田寺と同計画となる。26)『重要文化財法隆寺東室修理工事報告書』奈良県教育委員会
昭和36年
27)伊丹廃寺 は法隆寺 と同系の伽藍配置で
,金
堂,塔
の規模,金
堂・塔中心間距離 もほぼ等 しい。伊丹 廃寺で は金堂・塔中心か ら東西回廊 と南回廊への距離 はほぼ等 しく,北面回瓶Eへの距離がやや短いが,回廊 はゆがみが大 きく
,中
門が逆 に金堂の方へ寄 っているなど,中
門・回廊 について計画 に考子の達 いがある。高井梯二郎 『摂津伊丹廃寺跡』伊丹市教育委員会昭和41年
28)『国宝法起寺二重塔修理工事報告書』奈良県教育委員会
昭洵150年
29)中村春壽 ・稲垣晋也 「法起寺の発掘成果」『奈良県観光』
48
昭和35年『法起寺「1境内緊急発掘 調査概要』奈良県
昭和44年
前園実知雄「法起寺境内発掘調査概報」『奈良県遺跡調査概報1976年度』
奈良県立橿原考古学研究所
昭和52年
立木修 「法起寺の調査」『奈良国立文化財研究所年報1981』
30)旧 中宮寺跡地の発掘調査によると,金 堂・塔中心間は
189m,塔
は下成基壇135m̲ヒ 成基壇113m,
柱間
68m程 ,ほ
ぼ法隆寺五重塔 と同規模,金
堂の当初基垣 は桁行177m,梁
開141m程 ,法
隆寺 と 法輪寺の中間的規模であつた。金堂・塔中心間189mは
特 に狭い。高麗尺で53尺程になるが,この定 め方の一案 として, 75尺 のvZ倍
の半分を考えると高麗尺53033尺 となる。これはまた 7寸 5分 の
VZ倍
(高麗尺35 6cmとすれば37 76cm)を 単位 と して50単位 (37 76cm× 50→1888m)或
はその 枢V2
の100単位 をとったことにもなる。
稲垣晋也「文化財 レポー ト①旧中宮寺跡の発掘 と現状」『日本歴史』
299
昭和45年31)発 掘調査の成果によると,四 天王寺回廊外周は創建当初長辺101 lm・ 短辺
717mで
ある。『報告書』において も天平尺 で計画 された可能性 を考えているが
,金
堂・塔中心間距離 を天平尺100尺とみて,これ を西 院伽 藍 の よ うに小 正方形 の一辺 と して
7Z矩
形 を考えると,短
辺717m,
長辺100.9m, 天平尺 で241尺と340尺とな り,調
査成果 とよく近似 した寸法 となる。もっとも,長
谷川輝雄が論 じた ように,短
辺 を高麗尺200尺と したか もしれず,また,塔
。金堂中心間2955mを
75単位 とすると,回
廊 は180と 255単位 (法隆寺西院伽藍 では高麗尺 で この数値 ), 1単 位 を高麗尺 7寸 5分 ×15倍 =
1125尺と したことも考 え られ
,四
天王寺の造営計画 は,山
田寺,橘
寺などを´も、くめさらに検討が必 要である。藤島亥治郎 『古寺再現』学生社昭和42年
,注
2の 論考,注
7の 報告書。32)石 田茂作『飛鳥
近畿 日本叢書第二冊』近畿 日本鉄道株式会社
昭和39年,「橘寺の伽藍配置」『飛 鳥随想』
学生社
昭和47年
33)若草伽藍 は発掘の状況及び今回発見の西柵列 によって
,二
金堂 とはな り得 ないであろう。34)軍守里廃寺は塔 '金 堂が前後に建つ 「一塔式伽藍配置」 で
,回
廊は鐘経楼 をへて講堂両脇 に達す るが,塔
・金堂中心間は83尺,塔
心か ら中門内倶‖まで同様83尺である①東西回廊の基壇の一部 も発 見 されているが,塔
との距離関係 は報告書 に記載がない。石田茂作の論考 (『法隆寺雑記帖』所収) によると回廊東西220尺,南
北260尺とされている。塔・金堂中心問距離83尺(2515m)を
75単位 と仮定すると,一単位33 53cmで,こ れは高麗尺 7寸 5分 の125倍 (高麗尺 1尺 は35 76cm)に 当 り, 国廊東西幅はこの単位 で200単位 に近 く,この伽藍にも75尺‑7寸
5分 が計画の基礎 になっている 可能性 が考 え られる。石田茂作「扶余軍守里廃寺址発掘報告」『昭和十一年度占蹟調査報告』朝 鮮古蹟研究会
昭和12年
2.西 院伽藍 の方位 の計沢
Jは じめに
法隆寺西院 回廊 が正確 な長方形 でな く
,方
位 。長 さに僅 か なが ら差 が ある ことは早 くか ら 知 られていた。今 回,防
災施設工事 にともな う発掘調査 にお いて,西
院 の造営 に関す る新 し1)
い所見 も得 られているので
,今
後 の調査研究 の デ ー タと して回廊一郭の計沢」を行 なった。計測の方法
1
伽 藍 内基 準点の増設まず
,回
廊 東北 隅 内側 の柱 (東北 隅柱 とい う,以
下 同 じ)の
北北西 ほぼ 3メ ー トル ぐらい の任意 の位 置 に トランシ ッ ト(ウ ィル ド社製 T2を 使 用)を
据 え,東
北 隅柱 の心墨 (回廊 の 方 向 に心墨 が残 ってい る)に
コンベ ックス 。ルール を当て水平 に張 り,
トラ ンシ ッ トの視準 軸 と心墨 との間 の距離 を読 み と り,そ
の値 と,同
様 に東南 隅柱 の心墨 に コンベ ックス 。ルー ル を当て,
トラ ンシ ッ トで読 みとった値が一致 す るように トランシッ トの位置 と望遠鏡の向 き を調整 した。その望遠鏡 の向 き (視準軸 の方 向)を
基準線 の方 向 と し,地
上 にマ ー ク し固 定 した。 そ して,東
北 隅柱 と東南 隅柱 の近 くの基 準線上 に基 準点 を夫 々1点
設置 し,次
に,東南 隅柱前 の基準 点 に トランシッ トを移 し
,基
準線 か ら左 回 りに90°振 り込 ん だ直線 を設定 し,中
門 の 中心 付 近 と西南 隅柱 近 くに夫 々1点
ずつ点 を設 けた。同様 に,再
び左回 りに90°振 り込 んだ直線上 で
,西
北 隅柱 の近 くに も点 を作 り,
もとの東北隅柱前 の点 で閉 じる長方形 の トラバ ース網 を組 んだ。更 に,長
方形 の各辺 に,塔
・ 金堂 の柱位置 を前方交会法で求 める 為 の点 を2〜 3点
づつ増設 した。中門上 の点 か ら外へ 出て,中
門前 の法 隆寺基準点No 2および西大 問東側 の法隆寺基準点No lに取 りつ けた。法 隆寺基準点 は
,建
設 省 が定 めた平面 直角 座 標 系 (奈 良 県 を含 め て近 畿 地 方 は,そ
の第 Ⅵ系 に属 し,座
標 原 点 は北緯36°,東
経136° にある)による座標値 を持 っているので,それ らを与件 と して,ト ラバ ーの計算 を して,
回廊及 び中門上 に増設 した点 もすべて平面 直角座標系 によるX・ Y・
Hが
求 め られ た。‖
回廊 の柱位置
上述 した ように
,回
廊 の柱 には回廊 の方向 に心墨 が残 って いるので,基
準線 か らの距離 を 沢1ることが出来 た。曲尺2本
をはさみ尺 の ように使 い,礎
石 直上 で回廊 の方 向 と直角方 向の 心 を求 め,柱
と柱 の間隔 と柱 と基準点 までの基準線方向の距離 を計測 した。 これ らのデー タ を使 って,柱
一 本一本 の心 の X・Yを
計算 で求めた。m
塔 ・金 堂 の柱位 置塔 。金 堂 と もに裳 階 にか くされて四隅の側柱 の中心 の位 置 を外か ら計沢Jすることは不可能 で ある。そ こで
,と
もに裳階の四隅の柱 をと り,そ
の外面 の角の位置 を先 に設置 した基準点 よ り前方交会法 に より求 めた。塔 にお いて は
,裳
階の土居桁 の幅 。柱 の太 さ・土 居桁 の内面 か ら塔 の四隅 の側柱 の心墨 までの距離 を測 り
,裳
階 の隅柱 の角 か ら塔 の隅の側柱心 までの座標差 を出 して,側
柱心 の座標 値 を算 出 した。金堂 の場合 は,側
柱 に心墨 が残 って いなか った し,柱
間 が壁 になっているの で心 を出す こともで きなか った。代案 と して,土
居桁 内面 か ら地覆外面 までの距離 を沢1り, 地覆外面 の接線 の垂 直位置 を求 め,計
算 に使 用 す ることに した。 これ は,こ
の測定の目的が 金 堂 の中心 お よび金堂 の平均的 な方位 を求 め ることにあ り,柱
心 の位置 に拘泥 しな くて も良い と考 えたか らである。
方位 の計算
1
伽 藍 中軸 線 の決定 とその方位東南 隅柱 と西 南 隅柱 (第91図で は イ 。口
)の
中間点 (ハ)と ,金
堂 の 中心 と塔 の中心 を結 んだ線分 の中点 (二)と
を通 る直線 を伽藍 中軸線 と仮定 した。ハ は,イ
。口の座標の算術平 均 で求 まる。金 堂 の中心 は前節 で説 明 した地覆 外面 の交 点 の座標,塔
の 中心 は四隅の側柱 の 柱 心 の座標 を使 って,夫
々対角線 の方程式 を作 り,そ
の交点 の座標 を連立方程式 を解 いて求め た。二 はハ と同様 に
,塔
の中心 の座標 と金堂 の中心座標 を算術平均 した ものである。伽 藍 中軸 線 の方位 は
,ハ
と二 を通 る直線 の方程式 の ″の係数 で表 わ され,60進
法 に換 算 す ると, 8° 16′28″ になる。但 し,こ
の値 は,こ
こで使用 されている平 面 直角座標系 にお け る座標北 か ら測 った ものであるか ら,真
北 か らの値 に修正 しな けれ ば,他
の寺院 との比較 は 出来 ない。座標北 か ら測 った真北 の角度 を真北方向角 といい
,下
式 で求 めることができる。真 北方 向角
r=― (L― LO)Sin B
ここで
,L=法
隆寺 の経度LO=平
面 直角座標系 (第Ⅶ系)の
原 点 の経度B=法
隆寺 の緯度国土地 理 院発行 の
2万 5千
分之1の地形図 よ り,法
隆寺西 院伽 藍 の中心 のLと Bを
読 み と って上式 へ代入 し rを 求 める。r=―
(135°44′14″‑136° )Sin 34° 36′40〃=8′
57″つ ま り
,真
北 か らみ る と,法
隆寺 の西 院伽 藍 の中心 を通 る座標軸 は, 8′ 57″西 へ振 れ て い るとい うことで ある。伽藍 中軸線 は更 に西へ8°16′ 28″ 振 れ ているので,合
わせて真北 か ら8°25′25〃 だ け西 へ振 れていることになる。
‖
回廊 ・中門・塔・金堂 の方位
回廊 と中門の柱心 は
,一
直線上 に並 んでいる もの はな く,夫
々少 しずつずれている。柱列 の平均的方位 を求 めるために,最
小二乗法 を使 って各柱心 の座標 を直線 に回帰 させ,そ
の直 線 の方程式 を出 して,″の係数 か ら振 れの角度 を計算 した。塔 は四隅の側柱心 の座標差 。金 堂 は四隅 の地 覆外面 の交点 の座標差 か ら夫 々 を結 んだ直線 の傾 きを求 め平均 した。黛考億北中軸線
山803"
第91図
西 院伽 藍 中心部 の各建築 の方 向の振 れ 回廊東南 隅内側 の柱心
回廊 西 南隅内側 の柱心 イ・ 口の 中点
金堂心 と塔心 の中点 中軸 線 :ハ
,二
を結ぶ線ま とめ
伽 藍 中軸 線 を基準 に して
,各
建造 物 の振 れ の量 を表 わ したのが第91図 であ る。西 回廊 は48″ とい う微量 な振 れ しかな く
,ほ
ぼ中軸線 に平行 しているとみな して よいだろう。東 回廊 の振 れ は,ほ
ぼ 上°近 くあ り,北
に向 って内側 に入 り込 む形 になっている。北 回廊 。南 回廊 の中門 よ り西側・金堂 の三者 はほぼ平行 で,中
門の値 もそれ らに近 い。塔 の振 れが最 も大 き い。西回廊 を除 けば,全
体 に中軸線 よ り更 に西 へ振 れている。イ ロ ハ ニ
注
1)こ
の測1量は奈良国立文化財研究所埋蔵文化財 センター測量研究室が,奈
良県文化財保存事務所法 隆寺 出張所の協力を受 けて昭和57年4月23日に実施 した。2)法
隆寺防災施設工事 にともなう発掘調査 に当 り,広
大 な寺域 に分布する各遺構相互の関係 および現存する建造物,地形地物などとの関連を正確に算定するたあに ,昭 和
55年度に
4個所に基準点を
設 けた。
No l,西
院東大門・西大門間参道の西大門東内側の斑鳩文庫F尋前,Nα2,同
中門前能石 石段南側,No.3,西院東大門外,院 門前,No,4東院四脚F弓内側 に標板付 コンクリー ト柱 を埋設 した。その座標ヤ主次のとお りである。
No l.X‑154141.003 Y‑24197.521 H55.562
No 2.X‑15ど
123.149 V‑240,3,805
■55,109 ,
No 3.X‑154088.471 Y‑23863.626 H52.625 No 4.X‑154035,192 Y‑23704.526 H52.097
3)今
回測量 した回廊各面 の長 さ,金
掌,塔
と回廊の関係 は本概報94頁第E6図に示 した。なお,104
頁の注18をも参照の こと。3。
若車 の礎 石 に就 いて
は じめに
法 隆寺の再建非再建論争 の大 きな鍵 をにぎる若草伽藍跡 は昭和14年 の発掘調査以来
,そ
れが現法 隆寺 の前 身伽藍跡 であることが立証 され明治20年 代以来 の大論争 も終結 に近ず きつつ ある。 ところが問題 の礎石 に関する文献 が欠如 しているため礎石 の由来 を知 る手 がか りがな く唯― の資料 と云 うべ き「古今一陽集」 に収録 す る古老 の伝 にのみ従 わ ざるを得 ない状 態で あったが,幸 い近年 ,未 整理 の文献 を調査 したと ころ,二 ・三 の新事実が明 らか となったので,
それ らを含 めて礎石 の由来 や若草 に関す る資料 を紹介 することに したい。
若草 の地名 と礎 石
若草 の地 は旧観音院
,普
門院,実
相 院裏 の広 大 な空地 の ことを云 う。若草 と云 う地名 の起 りは分 か らないが,平
安 時代 の法 隆寺一切経 の奥書 などに依 れば,当
時 「花 園」 と呼 ばれて いた ことが分 か る。「観 自在菩薩輸伽論念rHD儀軌」 の奥書 に大治二年 四月晦 日申剋許書 了為滅罪生善僧覚厳
,法
隆寺東花 園此校 了とあ り
,こ
の東花 園 は他 の資料か らも現在 の普 門院地 に相当す ることが判明 してお り,同
時に現実相 院地 が中花 園
,旧
阿弥 陀院地 が西花 園 であったことが分 か っている。したが って現実相 院地 を中心 とす る一画 を大治年 間 (1126〜
1131)以
前 か ら花園 と呼 んで いた ことわゞわ力苫る。おそ らく
,こ
の地 は他 の古代寺院 にも例 が見 られ るように,仏
供 の花 や疏菜 を栽培 したと ころか ら花 園 と呼 ばれていたのであろう。しか し
,中
世以 降,東
西 の問 を結 ぶ大路 に面 して子院が連立 したため,子
院の裏地 は 自然 放置 され,雑 草 の茂 る荒野 と化 したことか ら若草 の茂 るところとな り,若 草 と云 う地名 に変 つ たので はないか と推測 される。若 草 と云 う地 名 は今 の と ころ宝永
4年 (1707)の
「普請方諸払帳」 に南大門西並若草福井 つ い地 の樋石 か けの作料弐拾弐人半五拾弐匁が石屋作兵衛 に支払 われたと云 う記録が最 も古 く,続
いて延享3年
(1746)に良訓が編 したと云 う「古今一陽集」 に若車 の ことが詳 しく記 る している。 しか もそ こには じめて礎石 に就 いてその由来 を紹介 している。それに依 れ ば,当時
,礎
石 は観音 院 の敷地 (のちに普 門院の敷地 となった らしい)内
の鍛林 の中にあって高 三尺餘,廣
一丈餘 とその大 きさまで も記 している。しか も
,そ
の石 は土中にあってその際の地底 か ら焼米が出たと云 う (今は焼米 は出ない)石 の形 は塔の心柱礎石 の ように見 えるがそれ を伝 える記録 もな く
,古
老 の言 い伝 え もないと 叙 べ て いる。そ こで編者 は正治年中 (1199〜1200)に
興福寺の西金堂衆が法隆寺 に乱入 し,寺 中寺辺 の堂一字 を焼 き払 い僧房在家か ら強奪 したと云 う事件が あるか ら