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乳隻

― =デ   

第98図

 

墓室壁画のパ ルメ ン ト文様

(1高

句麗遇 賢里 中墓

,2中

国南朝戚家村画像蒔墓)

129

草伽藍造営時 に

,ど

う して軒平瓦が作 られたのか

しか もその文様がなぜパル メ ッ トの転開 であったのか

,大

きな疑間点である。

軒 先の平瓦 を装飾 する発想 は

,完

成 され た もの を見慣 れて しまうと

,と

りたててその効果 を評価す る必要 を感 じない。 しか し

,古

代 中国においてお よそ2800年 以前 に半瓦当が考案 さ れ

,実

に1400年 間 もの長 い間平瓦の先端 を飾 ることに気づかなか ったことを考 えると

,わ

国の寺造 りで軒平瓦が考案 され たことは特記すべ言現象である。朝鮮三 国において も現在 ま での ところ

6世

紀末以前 に軒平瓦が使われた形跡 は認め られない。

考案 され た文様構成 はパ ル メ ッ トの転 開である。わが国の造瓦技術 が瓦窯 を含 めて

,百

済 か ら伝 え られ たことか らすれば

,こ

の文様構成 も百済 に求めるべ きであろうが

,い

まだそれ

におゝさわ しいもの を百済の文物 の中に見 出せないでいる。む しろ高句麗の古墳石室内 (遇賢 里 中墓

)に

描 かれ た文様 に類例 を求めることがで き

,こ

の ことはすでにいろいろな機会 に述 べ られているところである。 この石室内に描かれたパルメッ トには

,七

葉 のパ ル メ ッ トと半 パ ルメ ッ トが ある。興味深 い ことは

,飛

鳥地方 に営 まれた坂田寺 に半パル メ ッ ト文様軒平瓦 が見 られ ることである。坂 田寺 の軒平瓦 も文様 を施 すにあたって瓦当面 に直接彫刻 してお り,

その技法 は若草伽藍 の もの と全 く同 じである。 この軒平瓦 と組 み合 う軒丸瓦 は単弁

7弁

蓮華 文 を瓦 当文様 と している。若草伽藍が

9弁 ,坂

田寺が

7弁

,共

に蓮弁の数が奇数であるこ とは興味深 い。

さて

,こ

の ようにパル メ ッ トの展開文様 を軒平瓦 に採用 した両寺 の共通点 は

,お

そ らく渡 来系二人の造寺事業への関与 ということであろう。鞍作鳥が両寺 に関わ りが深 いという理由 で直 ちに彼 を結 びつ けるわけにはいかないが

,文

様 の考案 に仏工 や画工 が関与 していた可能 性 は十分 に考 え られ るところである。軒平瓦の文様 は椎拙 にも感 じられるが

,む

しろ石室 に

描 かれ た同 じモチーフの単純化 に成功 したもの といえよう。大量生産の必要性 か ら瓦 当面ヘ の彫刻が乱雑 になった面があったと して も

,こ

れ は さほど大 きな問題 ではない。 こうした文 様 を考案 するにあたって

,も

っとも近 い地域 で見 られる遇賢里古墳 の例 をあげたが

,中

国南

第 99図

 

若草伽 藍 の手彫 の唐草 文軒 平瓦

130

朝 の墓室壁 埓 に もパ ル メ ッ トが展 開 した文様 を見 る ことが で きる。 これ も

7葉

パ ル メ ッ トと 半パ ル メ ッ トの両者 が あ り

,単

純化 され た文様 とな って いる。 こう した事例 か らすれ ば

,若

草伽 藍 や坂 田寺 の軒平瓦 にあ らわ され た文様 を直接 高 旬麗 に結 びつ ける ことはで きないか も しれ ない。 しか し

,わ

が国古代 の仏教文化 には高句麗 の影響 を受 けた面 を見逃 すわ けにはい かず

,高

句麗僧 の来 日 も知 られ ると ころであ る。飛 鳥時代 の瓦 当文様 に対 して

,藤

沢一夫氏

の説 かれ る「南梁百済様式」「高句麗百済様式」 とい う道程 が

,こ

こに もあ らわれていると いえようか。文化発展 の過程 はまことに複雑 である。

7世

紀 初頭 に誕生 した軒平瓦 はその後 の もの と して若草伽藍 において はパ ル メ ッ ト

1単

文 の型 を押 捺 す る もの (25。

26),軒

丸瓦 瓦 当絶 を押捺 す る もの

(27)が

あ り

,斑

鳩 宮所 用

軒平瓦への発展 が見 られ る。もっとも

,数

量的 には

,軒

平瓦 は手彫 の唐草文 が もっと も多 く,

それ らは若草伽藍域 か らの出土 である。中心伽藍 に主 と して使 った ものである。一方

,斑

鳩 地方 の他 の寺 々で は全 く軒平瓦 は作 られない。 また

,坂

田寺 で軒平瓦 が作 られなが ら

,そ

後飛 鳥時代 を通 じて飛 鳥地 方 の寺 々で は この坂 田寺 をおゝくめて軒平瓦 が使 われ ることはなか った。軒平瓦 が普及す るの は

, 7世

紀半 ば

,重

51K文軒平瓦 が考案 され てか らの ことで ある。

ま とめ

若草伽藍跡 出上 の瓦 を中心 にその年代

,伽

藍 の造 営 に関 して述べて きた。

ここで使用 された飛鳥時代 の瓦の種類 は決 して少 ないとはいえない。 また

,軒

平瓦 が創建 期 か ら使 われ ている ことは この伽藍 の特徴 で ある。軒瓦 は大 き くI・ Ⅲの

2時

期 に分 ける こ とが で き

,前

半 は聖徳太子 の時代

,後

半 は山背大兄王 の時代 で ある。二つの時期 は聖徳太子 莞去 の年

,推

古天 皇30年

(622)を

境 と して前後 に分 ける ことがで きる。

I期

は軒丸瓦2・

3・

5が

主 体 で

,こ

れ に軒平瓦21〜 24が組合 わせ られ る。 Ⅲ期 の軒丸瓦 は7〜 9と 10が主体 で ある。 これ に軒丸瓦11が数量的 に続 くが

,軒

平瓦 は ご く少量 の出土 を見 るのみで ある。以 上 の軒瓦 の分布 は

,多

くが若草伽藍域であ り

,軒

丸 瓦 10の 西 院域か らの出土がやや目立つ程 度 で ある。 しか し

,軒

丸瓦10も西 院域 で は網封蔵 。食堂地域 で あ り

,む

しろ若草伽藍中枢部 に北接す る地域での使用 といった方が適切 である。 この ような状況か ら

,Ⅱ

期 の軒丸瓦7〜

9を塔所 用瓦 と考 えた。

若 草伽 藍 は聖徳太子 の代 に寺地 を定 め

,寺

域 の造 成

,整

地 を行 い

,中

心伽藍域で金堂 を造 営 した。 その後

,山

背大兄王 の代 に入 って塔 の造営 が行 われ た もの と考 え られ るの である。

以上述 べ て きた結果

,法

隆寺 の創建年 次 を記 す金 堂釈 迎如 来像光背銘 「丁卵年」

(607)が

,

出土遺物 の年代観 と大 きな矛盾 がないように観 じられ る。今次の防災工事 にともな う発掘調 査 中 に出土 した瓦類の整理結果 によっては

,さ

らに よ り確 かな成果 を得 ることがで きるであ

ろ う。

1)石

田茂作「法隆寺考草伽藍五との発掘」『日本上代文 化の研究』

 

法降寺

 

昭和16年『総説飛烏時 代寺院址の研究』

 

大塚巧芸社

 

昭和19年『伽藍論孜』

 

養徳社

 

昭和23年

2)関

野貞「瓦」『日本考古学講座』

 

雄山閣

 

昭和 3年

3)藤

沢一夫「飛鳥期瓦の再吟味」『考古学』

7‑1 

昭和11年

4)足

立康 『法隆寺再建非再建論争史』

 

龍吟社

 

昭和16年

5)奈

良国立文化財研究所 『南都七大寺出土軒瓦型式一覧(1)法降寺』

 

昭和58年

6)若

車伽藍域 は今次の発掘調査で確認 された中枢 と し

,束

室か ら食堂 にか けての地域 は西院の範囲 と した。今次の防災工事 にともなう発掘調査 で出土 した瓦類については

,現

在なお整理中であ り, 統計処理 をするに至 っていないので

,修

理工事中に出上 したもの

,昭

14・ 43・ 44年の考草伽藍の 発掘調査の際に出上 したものに限った。出

i瓦

がすべて飛鳥時代の遺構 にともなっているわけでは ないが

,出

土地点が明 らかなものばか りなので

,お

およその状況を知 ることができよう。

7)「 無子葉弁」 は

,蓮

弁の中に何 ら装飾 をもたない もの をさし

,従

来「素弁」 と称せ られたt)のに 相当する。

8)文

化庁文化財保護部記念物課 『昭和43年度法隆寺芳車伽藍跡発掘調査概報』昭和43年

9)奈

良国立博物館 『飛鳥白鳳の古瓦』

 

東京美術

 

昭和45年 10)国立博物館 『法隆寺東院に於 ける発掘調査報告書』

 

昭和23年

11)松下正司「手彫 り唐草文瓦について」『奈良目立文化財研究所年報1972』

 

昭和47年 12)注

9)に

同 じ

13)注 10)に同 じ

14)文化庁文化財保護部記念物課 『昭和44年度法隆寺君車伽監跡発掘調査概報』

 

昭和44年。 15)飛鳥時代の軒丸瓦319点の中,10分蓮華文軒丸瓦が173点

(5476%),11分

蓮華文軒丸瓦が117点

(3670%)出

土 している。奈良国立文化財研究所 「飛鳥寺発掘調査報告」 『奈良国立文化財研究 所学報』第 5冊

 

昭和33年

16)飛鳥寺の発掘調査で出上 した10弁蓮華文軒丸瓦 と,11弁通華文軒丸瓦 は

,必

らず しもすべてが遺 構 に密着 した状況を示すものではないが,その分布 を概観 してみると

,中

金堂

,東

金堂

,西

金堂,

塔の各地域では

2:1を

若干 こえる割合で10弁蓮華文軒丸瓦が多く出上 している。丸瓦部がそれぞ れ「行基式」と「工縁式」なので,両者 を併用することはなかったのではなかろうか。したがって, 金堂

,塔

地域では出土比率の高い10弁蓮華文軒丸瓦 を用いたと考えるべ きであろう。あるいは現在 の元興寺極楽坊本堂及び禅室に見るような

,屋

根の 1面 あるいは部分によって葺き方 を違 えた可能 性 な しとは しないが

,い

ずれにせよ,10弁蓮華文軒丸瓦が11弁通華文軒丸瓦 より先行する。一方,

中門地域 においては

,逆

2:1に

ちかい割合で11弁連華文が多く出上 している。このことは

,11

弁蓮華文軒丸瓦が中門に用いられたことを示す ものである。飛鳥寺における一連の造営工事の中で, 回廊 については『日本書紀』 によれば崇峻天阜 5年 (592)に 営 まれたとされている。回廊の造営 時 には中門の造営 も同時に行われたと考えるべ きであ り,その完成の年が何時であったにせよ

,回

廊の工事が行われたとする592年か ら

,飛

鳥寺の造営 が終 ったとする推古17年 (609)ま での間であ ることはほぼ誤 りのないことである。以̲Lの要点か ら,11弁蓮羊文軒丸瓦の製作年代が609Fr以前 であることが明 らかc ある。

17)法隆寺『法隆寺発頻調査概報

JI・

Ⅱュ昭和57・ 58年

le)こ の事実は

,瓦

からみるかぎり若草伽藍の造営が四天王寺の造営に先行 したことを示 している。

文化財保護委員会による四天王寺の発掘調査 (文化財保護委員会「四夫王寺」『埋蔵文化財発掘調 査報告

 

6』 昭和42年

)で

,南

,中

,回

廊などが当初計画を変更 したものであったり

,講

堂が工事に着手 しながら一時中断 していた形跡を示 していたことなどが明らかにされた。これらの ことは

,四

天王寺の造営そのものが円滑 に進まなかった状況を示すものではなかろうか―。 19)陳西周原考古隊「扶風召陳西周建築群基址発掘簡報」

 F文

物』1981年第3期

 

昭和56年 20)朝鮮総督府『朝鮮古蹟図譜』

大正 4年

21)森

郁夫「瓦当文様の創作」

 

『 ミュージアム』2?6号

 

昭和57年

22)常州市博物館「常州南郊戚家村画像樽墓」

 

岐 物』1979年第 3期

 

曜和54年 23)藤沢一夫「日鮮古代屋瓦の系譜」

 

『世界美術全集』

角川書店

 

昭和36年

ドキュメント内 1,西 院伽藍 と若草伽藍の造営計画 (ページ 39-49)

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