昂
m。奇偉荘厳の伽藍
I 伽 藍
伽藍配置 山田寺は中門・塔・金堂・講堂を南北一直線に配し、中門左右に延びる回廊 が塔と金堂を囲む伽藍配置をとる。回廊の外側には大垣が四周C
りぐめこ
、門が開いていた。
回廊の東北角の東には宝蔵が建つ。講堂の東北では礎石2個が検出されており、僧房のも のと推定されている。なお、伽藍の中軸線の方位は国土方眼方位に対して、北で西に振れ る。創建期の回廊内の建物の振れは、東面回廊の東南隅と東北隅の柱位置を結ぶ方位から 1°t 31″ と算出できる。
伽藍配置と調査区域
伽藍の建物間寸法 1 : 2500
y
造営時のものさし 山田寺の伽藍配置や建物規模を復元するためには、造営時に基準と された「ものさし」、すなわち基準長さの検討が欠かせない。
日本では、長さを測る単位として「尺」が用いられてきた。ただし、1尺の長さは時代 や地域によってばらつきがある。そこで、7世紀中頃の山田寺創建期に回廊内でもちいら
れた「造営尺」の長さを、回廊の規模および塔・金堂の配置から検討すると、1尺= 30.24cin となる。この造営尺は、出土した回廊部材の寸法ともよく合う。
また、宝蔵は所要瓦から天武朝(672〜686年)の造営とみられるが、造営方位は大垣に
近く、創建期に計画された可能性もある。造営尺も30. 5cniと復元でき、創建期に回廊内の 堂宇で用いられた寸法に近い。
一方、回廊と同じ時期に建てられた大垣では、四面の大垣の柱根の間隔から29.54〜
29.61cmの造営尺が得られ、29.57cmの造営尺が使用されたとみられる。
天武朝に造営された塔と礎石建南門では、造営尺は29.7cmとみられる。同時期に造営さ れた講堂では、礎石の位置から算出した造営尺は29.34〜29.59cmのばらつきがあり、平均 値は29.45cmとなる。
このように、造営尺は、7世紀中頃の回廊内の礎石建建物で30cmを超えるのに対し、同 時期の掘立柱大垣および天武朝の礎石建堂宇では30cm未満が主流となっている。こうした 造営尺の差は、7世紀中頃の礎石建物と掘立柱建物の工事に関わる工人達が、それぞれ異
なる集団に属し、別々の尺のものさしを使用していた可能性を示唆している。
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認
2。中 門
中門の基壇は、後世に大きく削り取られてしまい、足場の柱穴列と基壇土の一部だけが 確認できた。足場の柱穴列は中門推定位置の北半に東西2列に5個ずつの穴が並ぶ。
中門の規模は、足場穴の配置と南面回廊の配置から、桁行3間×梁間2間、もしくは梁 間3間とみられる。1尺― 30.24cmの造営尺で、柱間は飛鳥寺中門を参考にすると、桁行 方向の中央聞か12尺、東西聞か9尺。梁間方向の柱間は、2間の場合が9尺等間、3間の 場合が73尺等間とみられる。梁間3間の場合、隅間は桁行方向が柱間9尺なのに対し、
梁間方向の柱間は7.5尺となる。基壇規模は、梁間3間ならば46尺×39.5尺、梁間2間な らば47尺×34尺と推定できる。
梁間2間の中門は川原寺(662〜671年頃造営)、本薬師寺(672〜685年頃造営)にみられ、
奈良時代以降も多く建てられた。これに対し、梁間3問の中門は、飛鳥寺(592年造営) や大官大寺(697〜707年頃造営)で確認されており、法隆寺西院(710年頃)に現存するが、
その後はほとんど建てられない。山田寺の建築年代は過渡期にあたり、いずれとも決しが たい。飛鳥寺中門は、桁行3間×梁間3間で、柱間は桁行中央間14尺、東西間が10尺。梁 間は8尺等間とみられる。したがって、山田寺中門は飛鳥寺に比べ一回り規模が小さい。
ただし、中門の足場穴とみられる柱穴は、推定基壇面からの深さが1mを超える。足場穴 を深くしたということは、足場を高く建てるためと推測でき、中門の建物が二重だった傍 証となろう。
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○中門復元礎石(A案)
●中門復元礎石(B案)
●回廊復元礎石
Y‑15,360
中門復元平面図 1 : 200
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0 10m
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3。塔
塔の建設は金堂より遅れ、663年に完成する。発掘調査では、基壇の土壇状の高まりと、
心礎と西北隅の四天柱の礎石を確認した。方3間の平面で、1尺二= 29.7cmの造営尺で測る と、中央間が8尺、両脇間か7尺と考えられる。塔の一辺の長さは6.53mあり、法隆寺五
重塔の6.42mとほぼ等しいが、中央間の柱間は法隆寺が2.68mなのに対し、山田寺は2.38m と小さい。
基 壇 基壇は約12.8m四方の規模で、外装は切石壇上積とし、高さは約1.74m、
四面中央には幅約3.3mの階段がっく。基壇の犬走りには石を敷く。
塔の心柱を支える心礎は基壇上面から1.3m掘り下げた位置に据えられていた。上面を 平滑に加工し、中央に円形穴を2段に穿つ。『帝説』裏書によれば、下段の穴に金・銀・
ガラスの容器に入れた舎利を納めていたという。礎石の下面には直径約1mの円柱座が造 り出されており、作りかけの礎石をさかさまにして使用したものとみられる。
四天柱の礎石は直径約1.0m、高さ約5cmの円柱座を造り出したもので、金堂や回廊の礎 石にみられる方座や蓮華座はみられなかった。
荘 厳 塔の初層内部には金箔貼の埓仏が飾られていた。飾り方は明らかではないが、
出土数からみて初層の内壁全体を埋め尽くすような使い方はされていなかったと思われ
る。『護国寺本諸寺縁起集』に「五重塔付銅板小仏」とあるが、金箔貼の輝きを「銅板小仏」
とみたのかもしれない。また、塔基壇の南東隅近くから完形の大型風招も出土した。鍍 金の痕跡が残る。下縁は、連弧状で両端部が中央部よりも長目に垂れ下がる。長谷寺所蔵 の法華説相図銅板などに類例があり、韓国扶余の陵山里廃寺出土品にも酷似する。
搭の基壇と礎石
烈
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4。金 堂
金堂は、『護国寺本諸寺縁起集』には、「一間四面、二階」と記される。「一間四面」とは
通常は桁行1間の身舎の四面に庇をつけた建物を示す。山田寺の場合は、身舎・庇とも 桁行の柱間が3間だが、通常の仏堂にあわせて庇の間数から2間減じて身舎の間数を記し
たものと思われ、「二階」とあるので二重構造とみられる。内部には東南に石川麻呂の御 影像が祀られ、仏像は半丈六の中尊と、脇侍と思われる3尺の金銀立像、7尺の立像が安 置されていた。周辺からは、壁画痕跡が残る壁土が出土している。
柱配置 身舎の四周に庇がっき、身舎と庇はともに桁行3間×梁間2間である。この
ため、身舎の両端間は極端に狭く、庇の柱間が大きい。造営尺は1尺= 30.24cmで、柱間 寸法は、身舎は桁行中央間が16尺、両端間が6.5尺、梁間は9.5尺等間。庇は桁行16尺等間、
梁間19尺等問である。地覆石上面に四角いホゾ穴をもつものがあり、庇の柱間中央には間 柱が建つと推測される。
法隆寺金堂など現存する寺院建築では、身舎と庇の柱は碁盤目上に配置されており、身 舎の柱数に比べ庇の柱数が多い。これに対し山田寺や再建穴太廃寺(滋賀県、7世紀)、
山田寺
法隆寺
金堂の平面比較 1 : 200
穴太廃寺
夏見廃寺
正家廃寺
夏見廃寺金堂(三重県、7世紀)は身舎と庇の柱数が等しい。
従来から、この特異な建築平面は、軒を支える構造と関連するものと解釈されている。
身舎と庇の柱数が等しいことから、身舎の柱と庇の柱を1対1で結ぶ横方向の材加入り、
それを外にのばして丸桁を受け、軒を支えていたとする説である。現存する古代建築では、
柱を碁盤目上に配し、組物が壁面に対して直角にでるものが一般的である。しかし、正家 廃寺金堂(岐阜県、8世紀)では身舎と庇の柱を放射状に配置した平面が確認されており、
身舎と庇をつなぐ横材と組物は放射状に配置されたと思われる。また、法隆寺所蔵玉虫厨 子(7世紀中)は、大斗の上の雲形肘木の配置が放射状になっている点が注目される。こ うした事例から、放射状の構造材の配置が、古代建築の一構造として実在していたといえ る。こうした構造は、庇隅部では組物が隅行の一方向にしか入らない。組物が隅行一方向 のみの建物の現存事例としては、法隆寺金堂・塔・中門(7世紀後〜8世紀初)と法起寺 三重塔(8世紀初)がある。その後の古代寺院では、組物が隅行・桁行・梁行の三方に出 る例が一般的である。
ただし、隅行一方向のみの組物では、構造的に不利である。これに対しては、間柱と垂 木の配置で構造強化を図った可能性も指摘されている(飛鳥資料館1981)。四天王寺講堂(大 阪府、8世紀)では丸い垂木を軒隅部で扇形に配した痕跡が発掘されている。山田寺金堂
でも、隅部の構造強化のため、垂木を扇形に配していた可能性も指摘できる。ただし、扇 垂木とすると、垂木尻の納まりが悪いという否定的な見解もある(上野1987)。また、金 堂基壇上および周辺からは、上部に長方形の穴を穿った地覆石がみっかっている。庇の柱 間が広いため、間柱を立てたものとみられる。地覆石が原位置から動いていたため、間柱 の位置は不明だが、桁行・梁間とも柱間を等分する位置に立てたとみる意見と、桁行両端 間では身舎の隅柱の筋とそろえて外から9.5尺に立てたとする意見がある。間柱上部に雲 形肘木をいれた案や、遊離尾垂木をいれた案があるが、いずれも古代建築に類例がなく、
今後の課題である。
このように、構造との関係で平面を理解する見方の一方で、安置仏の形態、大きさ、配 置に注目した考察もなされている。丈六仏(高さ4.85mの仏像、坐像の場合はこの半分の 大きさとなる)を祀る唐招提寺金堂や平等院では、中央間の扉の開口幅は安置仏の向背や 台座の幅とそろっている。したがって、山田寺金堂の中央間も、安置仏の形態、大きさ、
配置などの要因から柱間が決定されたとする説である(村田20肘)。
近年では、身舎の両端問が極端に狭いのは身舎隅柱が二重構造を支えるために配置され たことによる、との意見も出されている。古代寺院では、階段幅と庇の柱聞か等しい例が 多く、階段幅は、建物の外からみえる柱間に等しいという原則があったと推測できる。こ れに対し、夏見廃寺金堂では正面階段の幅が庇の柱間と異なり、身舎の桁行長さと一致す る。初重の身舎の桁行長さは外からみえないため、これは建物の上重規模を示していると の推定が成り立つ。すなわち、身舎の隅柱は上の二重の柱を受けるという構造的な役割を
31
お
持っていると考えられるのだ。この事例から、山田寺でも、身舎の隅柱は、上重の構造を 支えるために配置されたと想定できる(清水2007)。また、清水氏は、隅行の組物は斜め 一方向のみで、構造の不利をおぎなうために間柱を立て巾備を入れたとする復元案に対し
ても問題提起をしている。清水氏は、地覆石の痕跡から推定される間柱は断面寸法が小さ く、中備を支持するものとみるよりは、壁面を分割して支持したものと考えた。この場合、
隅柱上の組物は、隅行方向のみでは構造的に不利なことから、3方に組物が出ていたとす る案を提示している。
さらに、山田寺金堂の組物については、従来より法隆寺式の雲形肘木とする復元案が提 示されている。ただし、伽藍の南方からは回廊の肘木よりも長い肘木が出土しており、そ の大きさから、金堂・中門クラスの建物で使用されたと考えられる。この肘木からは、下 段より長い肘木を上段に重ねた組物が想定される。このような組物は、日本では現存事例 はないが、大陸の同時代の絵画史料に残り、山田寺金堂で採用されていた可能性もある(『報 告』、第IV章2参照)。
村田氏や清水氏の見方は、金堂の平面が、軒を支える構造との関係のみで決定されたの ではなく、二重建物の構造および安置仏との関係など、さまざまな要因を踏まえて成立し
たとするものである。また、組物などの構造形式など論点は多い。このように、古代寺院 の金堂を考える上での重要な要素を、山田寺金堂はもっている。
基 壇 次いで、発掘された基壇廻りの様相をみてみよう。金堂の基壇は、東西21.6m x南北18.5m、高さは約1.8mあった。地盤を補強するために、造成時の整地土を約1.8m
金堂西階段の出土状況
掘り下げ、粘質土と砂質土を3〜5cmずつ交互につき固めていく版築によって積まれてい る。基壇は、地覆石や羽目石が一部残っており、切石壇上積基壇と判明する。地覆石は花 尚岩製、羽目石は凝灰岩製で、羽目石と外面には束を造りだしていた。基壇と階段の周囲
には犬走りが廻る。基壇地覆石との間に板石を4列敷き、縁に見切り石を立てる。
階 段 基壇の四面には階段が設けられた。階段は建物の柱位置を基準とし、傾斜は 45度で計画されたとみられる。西面には階段の地覆石・羽目石が残り、周囲には上面に水 波状の文様を彫った耳石が出土した。地覆石は花岡岩製で地上の露出する面を平滑に加工 する。羽目石は凝灰岩製で、厚さが45cmある。石の一面には直角の切欠きがあり、複数の 羽目石を組み合わせていたと考えられる。外面には獅子とみられる浮き彫りが施される。
爪先を上に立てた前肢をはっきりと確認できる。左下には肢の指先らしき表現があり、前 肢の付け根にも浮き彫りがみえる。『報告』では、これらを後肢と翼の表現とみて、西を 向いて胴部を地に接し、首を立てて伏した有翼の獅子の図像を想定している。ただし、前 肢には筋肉が表現され、強い力感があり、前肢付け根の浮き彫りも胸板とみることができ
ることから、肢を踏ん張って構えた姿と考えることも可能だろう。↓981年の山田寺展でも 獅子が構えた図像が復元されている。今回の復元案と、1981年案との大きな違いは、左下
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Y―15,364
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Y‑15,364
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1981年復元図
『報 告』復元図
階段復元図と羽目石 1:40
今回の復元図
お
34
の表現を後肢ではなく前肢とし、顔が正面を向く点にある。獅子前肢の上部には雲形ある いはパルメット文様ともされる浮き彫りがある。あるいは縁どりの表現かもしれない。ま
た、獅子の前肢の先に、厚み3.5cmほどの縦の帯状の造り出しがある。
礎 石 明治37年(1904)に高橋健自は金堂の礎石12個を確認している。しかし、大 正6年の天沼俊一の調査では、2個の礎石が残るのみであった。発掘調査時には2個の礎 石が残存していた。礎石は、花尚閃緑岩製で、一辺97〜100cmの方座を造り出し、その上に、
直径約90cmの円座を造り出す。円柱座の周囲には蓮弁を刻む。現在、藤田美術館が所蔵す る礎石にも、同様の特徴をもち、円柱座周囲に12弁の蓮弁が明瞭に認められるものがある。
2007年の調査では、地覆座なしの礎石8個と、地覆座っきの礎石1個を確認した。回廊の 礎石と文様が似ており、寸法が一回り大きいことから、金堂の礎石と推定される。
また、庇の柱筋で地覆石の抜取穴や据付穴を3個検出した。基壇上には原位置から動い た地覆石が3石残され、回廊東南隅跡を流れる水路にも金堂の地覆石が転用されていた。
地覆石は長さ1.2〜1.3m、幅50〜80cm、厚さ40〜65cmの花岡閃緑岩で、上面に地覆座を造 り出し、3石には長方形の穴があった。これは前述の通り、柱間中央に間柱を立てた穴と 解釈されている。
礼拝石 金堂の南面階段の南には、犬
走りに接して「礼拝石」とよぶ2.4m X 1。2mの切石がある。金堂の前面に石を据 えるのは、四天王寺の転法輪や鳥坂寺(大 阪府、8世紀)にもみられるが、あまり例
がなく珍しい。
燈 罷 礼拝石の南には燈箭が立てら れる。燈箭は台石が原位置から出土し、周 囲からは火袋の破片も出土した。台石は8 弁の蓮華文が刻まれる。火袋は上下2段に 分かれていて、上段には連子を造り出し、
下段には逆ハート形の猪目をくりぬく。火 口が1面のみで、装飾性に富んだ精巧な造 形は、他に例をみない。金堂と同時期の7 世紀中頃のものとみられ、8世紀中頃に据 えなおされている。なお、桜井市池ノ内磐 余稚桜神社には単弁蓮華文の装飾が残る中 台が伝わり、寸法は山田寺出土の燈箭と近
似するが、関係については不明である。 燈 寵
ノタ
5。回 廊
回廊は、金堂と塔を東西南北に取り囲み、南面中央に中門が開く。回廊は単廊で、中門 の東西が10間ずつ、東面・西面が23間、北面が22間である。回廊外側柱筋に腰壁と連子窓
を設ける。東西の回廊は中央の↓2間目、南北の回廊は東西両端間に扉が開く。北面回廊は 中央2間のみ15尺等間で扉口とみられる。 1尺= 30.24cmの造営尺で、柱間は桁行・梁間
とも12.5尺である。基壇幅は21尺、基壇の出は柱心から4.25尺だった。
1982年の発掘調査では、東面回廊が倒壊したままの状態で出土した。北から13・14 ・ 15 間目が最も残りがよく、出土材に材を一部補足して回廊の再現が可能になった。これによ り、法隆寺をさかのぼる寺院建築の様相が明らかとなった。
基 壇 基壇は花尚岩や安山岩の自然石を立てて並べる。礎石は、花尚閃緑岩製で、
一辺55〜79cm、高さ6.6cmの方座と、径約60cm、高さ7cmの円形の蓮華座を造り出す。蓮 華座には12弁の蓮弁が彫られる。地覆石は長さ30〜60cm、幅約25cm、厚さ8〜20cmの流紋 岩質溶結凝灰岩(榛原石)を使用。上下面は自然の剥離面とし、四辺を四角に切る。扉口 は、地覆石の幅を回廊内側に広げ31〜33cmとする。地覆石上端には扉の軸摺穴が穿たれ、
穴底には鉄製の軸受け金具と、座軸を保護した金具が残っていた。
軸 部 柱は円柱で、腰長押付近を太くした胴張をもつ。柱間には地覆を入れ、腰長 押との間に柱間を三等分する位置に腰壁束を立て、腰長押を打ち、上部を連子窓とする。
連子窓は辺付、竪窓枠、上下窓枠を組み、窓枠内に連子子を組み込む。柱頂部を頭貫でっ
回廊扉口
お
屁
一 一
○_一一
回廊復元パース
なく≒組物は平三斗で、大斗上で虹梁と肘木を相欠きに組み合わせる。組物上に断面角 形の桁をのせる。虹梁上には叉首組をのせ、上の三斗組で棟木を受ける。棟木と桁に垂木
をかける。垂木は丸垂木で一軒。垂木には反りが確認できるものが3点あったが当初材加 は明らかではない。垂木の上に野地板を張り、垂木先端上には瓦座を兼ねた茅負を置き、
瓦を葺いた。
瓦 東面回廊の南から4〜9間では、回廊倒壊時に、瓦が葺かれた状態のまま落下して おり、瓦の葺き方が明らかになった。平瓦は2枚重ねとし、丸瓦は玉縁式が主だが一部に 行基式も用いられていた。棟には割脱斗瓦を積み、雁振瓦、丸瓦をのせる。回廊隅部では 棟が直角にあたるため、双頭鳩尾をのせていた(Ⅵ章几
6。講 堂
講堂は、出土瓦の検討などから、金堂より遅れて天武朝期の造営と推定された。大半が 現在の山田寺の境内になっており、西半の礎石や地覆石が一部露出して残っている。江戸 時代に建てられた本堂である観音堂も、講堂の礎石の一部を利用して建つ。東半は後世の 削平により礎石や地覆石の据付穴や抜取穴しか残っていなかった。
平 面 桁行8間×梁間4間の6間四面の平面である。造営尺は1尺==29.45cm、柱 間は身舎の桁行が15尺等間、梁間が↓4尺等間、庇の出は10.5尺とみられる。
地覆石や扉の軸摺穴から、南正面は両端間に片開きの扉、他は両開きの扉とみられる。
東西側面は南端に片開きの扉、北背面は中央2間分に両開きの扉がつき、他は壁になって いたと復元できる。
基 壇 講堂の基壇は 掘込地業をおこなわず、地 山や整地土面上に直接版築 をしていた。基壇外装は抜 き取られていたが埋土の状 況から花尚岩製の地覆石と 凝灰岩製の羽目石を組み合 わせた壇上積基壇と推定で きる。基壇の出は東側が約 7.5尺、基壇高は約0.5mと
みられる。
礎 石 礎石は29個中 13個が現存し、12個が原位 置を留めていた。花尚岩の 自然石で方座と柱座を造り 出すが、塔や金堂のような 蓮華座はない。地覆石には 上幅約38cni、高さ約15cmの 地覆座を造り出していた。
安置仏 講堂内部には
『護国寺本諸寺縁起集』に よれば丈六の十一面観音像
○ O ○ ○ ○ ○
0
○ ○
10
○ O
1。山田寺講堂
2。唐招提寺講堂
○ ○ 3.東大寺講堂
20
4。法隆寺講堂
30m
j7 古代寺院の講堂の比較 1 : 800
と金銅製の丈六薬師仏像および日光・月光の両脇侍を安置していた。仏像の配置は明らか ではないが、東西に二分して、一方に十一面観音像、一方に薬師三尊像を安置した復元案 もある(飛鳥資料館1997)。現在、薬師仏像の仏頭は興福寺国宝館に、両脇侍は東金堂に 安置されている。
講堂の比較 山田寺の講堂は古代寺院の講堂の中でも比較的規模が大きいものに属す る。横長の平面をもつ講堂は、飛鳥時代から奈良・平安時代にかけての大寺院にみられ、
山田寺の縦横比は大官大寺、平城薬師寺などとほぼ等しい。
山田寺では正面の柱間が偶数である。類例としては飛鳥寺、四天王寺、法隆寺などがあ る。これは講堂でおこなう「論議」の際に、門者と講師の高座を身舎の左右に設ける着座 形式と関連するものとみられる。ただし、山田寺の背面の扉の配置をみると、論議の際の 出入口となる背面左右の扉がなく、本尊の背後にあたる中央2間のみを扉としている。こ の平面形式は、古い時代の講堂を引き継いだ過渡的遺構として評価される。また、正面の 全柱間を扉とした開放的な平面も奈良時代以降の講堂とは異なる特徴である。
認
7。宝 蔵
宝蔵は回廊東北隅部の東側、回廊と東面大垣の間に位置し、礎石と基壇土が良好な状態 で残っていた。出土瓦から天武朝の造営と推定され、9世紀中頃に礎石と基壇土を積み直 す改修を受けている。ただし、その配置が金堂や回廊の造営尺で、回廊の中心から整数値 で割り付けられることから、創建当初から計画されていた可能性もある。
概 要 桁行3間×梁間3間の南北棟建物で、造営尺は1尺― 30.5cm、柱間は桁行6.5 尺等間、梁間5.5尺等間とみられる。造営時の基壇は掘込地業をせず、地山上に基壇土を
盛る。9世紀中頃の改修にあたっては、礎石の根固め面まで基壇土を取り除き、南辺では 一部を掘り込んで地固めをした後、礎石を据え直して基壇土を盛り直している。基壇高は、
基壇周囲の雨落溝底からでも約20〜25cmと低く、基壇外装はない。礎石は柱座などの造り
出しはなく、上面が平坦な自然石を使用する。礎石上面の柱痕跡から、柱径は34〜39 cmと 推定できる。
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棟長 6尺 一一 棟長=柱問
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1唐招提寺宝蔵 2山田寺宝蔵 3唐招提寺経蔵 校倉造の平面と振隅の検討 1 : 200
校倉造 宝蔵は総柱で、校倉造の高倉と 考えられる。基壇上および雨落溝からは、茅 負と垂木が出土した。茅負は端部の木口が斜 めに切られた「留め」に加工されており、屋 根は寄棟造もしくは入母屋造と思われる。
古代の校倉造の高倉で、規模が近いものと しては、唐招提寺の宝蔵と経蔵があげられる。
いずれも桁行3間×梁間3間、寄棟造で、宝 蔵は桁行7.63m X梁間6.05m、経蔵は桁行 5.61mX梁間4.40mある。山田寺は桁行5.95
×梁間5.03 mで、両者のちょうど中間の規模 にあたる。
唐招提寺の宝蔵と経蔵は、建物の平面が正
・.j鴫。
唐招提寺宝蔵
方形に近く、斜め45度に隅木を架けると棟が短くなってしまう。このため、隅木を斜め45 度に入れず、隅木尻を妻寄りに振れて納めている(振隅)。2棟の隅木の振れは異なるが、
いずれも棟の長さを6尺以上確保しようとしたものと思われる。同様に山田寺でも、棟長 を確保するために隅木を振っていたと考えられる。ただし、唐招提寺経蔵と同様に棟長6 尺とすると、隅木の振れは1 :0.818と大きくなる。
また、出土した地垂木から、屋根勾配は平側が5寸前後、妻側が6寸前後と考えられる。
収蔵品 宝蔵は回廊とともに11世紀前半に倒壊したとみられ、基壇や雨落溝からは銅 板五尊像、厨子銅製押出仏、巻物軸、厨子部材、経典関連の木簡などが出土した。『多武 峯略記』によれば、12世紀末の山田寺には経蔵の跡が残っていたという。宝蔵とは別の経
蔵があったのか、宝蔵を経蔵と指しているのだろうか。
8。大垣と門
変 遷 山田寺の門と大垣には、3時期の変遷がみとめられる。山田寺を創建した7 世紀中頃に掘立柱の棟門と掘立柱大垣(旧)を建てる。7世紀後半に南門を礎石建、東・
西・北門を掘立柱棟門、大垣を掘立柱大垣(新)へ建て替え、10世紀前半に掘立柱大垣を 築地へ建て替えた。
創建期 7世紀中頃の掘立柱大垣(旧)の基壇は東面で幅約2m、残存高さ約20cmが 確認されている。旧大垣の柱の抜取穴を利用して新大垣の柱を立てていた。大垣の四面に
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rjが開く。南北面には中央の3間棟門と東西の通用門、東西面には中央南寄りの3間棟 門と北寄りの通用門があったとみられる。南面中央の掘立柱南門は、礎石建南門の礎石跡 の断ち割り調査で確認した。桁行3間の棟門で、中央間11尺、両端間8.5尺である。
ばかの門は7世紀後半の門と規模はほぼ等しい。
この
7世紀後半 7世紀後半の礎石建南門は桁行3間×梁間2間の平面で、造営尺は29.7cm、
柱間は桁行が↓O尺等問、梁間が8.5尺等間となる。桁行と梁間の寸法が異なることから切 妻造の屋根と考えられる。基壇は東西11.2mX南北7.7mの規模で、東半に礎石が南北3
石ずつ2列残る。棟通りの礎石には、扉の軸摺穴がほられている。穴は東端の礎石の西寄
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川固、西隣の礎石には東寄りと西寄りの2個あり、東間と中央間に両開きの扉がつけ られていたことがわかる。左右対称の平面とすると、棟通りの3間すべてが扉だったのだ ろう。古代寺院の門は、中央間だけに扉をつける例が多く、桁行3間すべてを戸口とする
のは大変珍しい。
1日−南
勁ヽら中門への参道は幅約2.4mで、道の縁には花尚岩の玉石を並べていた。南門の 南側には東西方向の排水路が通っていた。創建当初の素掘溝を、8世紀中頃に幅を狭めて
南門前を石積みとしている。溝底からは橋脚が出土しており、南門への通路として木橋が 架けられていたことがわかる。この橋脚には旧大垣の柱や桁の転用材が使われていた。
新大垣は旧大垣の柱を抜き取った後の穴を利用して立てた。南面新大垣は南門の東で4
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