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「 興 福 寺 東 金 堂 ・ 五 重 塔 ・ 西 金 堂 造 営 と そ の 意 義 」

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Academic year: 2022

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(1)第一章 東金堂の造営. 小. (‑). 林. 裕. 子. られたのか、またその意義について私見を述べてみたい。. する記載を再検討し、これらの堂塔がいかなる造営過程を辿って造. そこで本稿では「宝字記」 の興福寺東金堂・五重塔・西金堂に関. 「興福寺東金堂・五重塔・西金堂造営とその意義」. はじめに. 平城京における興福寺は外京に位置し、中金堂・講堂・中門・回 廊からなる中枢伽藍の周囲に北円堂・東金堂・西金堂・五重塔等を 擁していたが、後の時代の度重なる火災や明治の廃仏穀釈を経て、. よって当初の建物が失われても、再建の度に前代の遺構を復興して. 門の南には平城京三条適に面して南大門があり、これらが南北軸線. 伽藍中央には中金堂が位置し、その北に講堂'南に中門、さらに中. 興福寺伽藍復原図(図・一四〇貢参照) によると、興福寺の中枢. きたことと近年の発掘調査の成果によって幸い奈良時代の伽藍をは. 上に並ぶ。中金堂の左右からは回廊がのびて、中門の左右に取り付. 現在では往時の様相と異にしている。しかしながら興福寺は災禍に. ば正確に知ることが出来る。. いた。この三棟の金堂を擁する大伽藍は逐次的造営によって整えら. か回廊外にも一寺院の金宝に匹敵するはどの金堂が東西に配されて. には西に鐘楼、東に経蔵、講堂の北・西・東には僧房を配し、東の. 重塔を置き、東金堂と五重塔の周囲は回廊で囲む。また講堂の南側. まず、東回廊の東に東金堂、西回廊の西に西金堂、東金堂の南に五. ‑。こうした中枢伽藍の周囲にはい‑つかの堂塔が配置されている。. れたとみられてきたが'これは「宝字記」 の記述に基づ‑認識であっ. 僧房の東側には食堂と細殿、大炊殿があり、西の僧房の西側には回. 平城京における興福寺の伽藍配置は、中枢伽藍中央の中金堂のは. た。ところが「宝字記」 の記述内容が丹念に検討されてこなかった. 廊で囲んだ北円堂がある。. 二二七. このように平城京の興福寺には多‑の堂塔が存在していたが、そ. ために、金堂のような巨大建築がわずかな期間で完成したと考えら れてきたのである。 「興福寺東金堂・五重塔・西金堂造営とその意義」.

(2) 図 興福寺伽藍復原図. 二二八. (2). のもっとも大きな特徴は中枢伽藍の回廊の外に東西の金堂があるこ. とと、五重塔を東金堂の南に置‑ことである。福山敏男氏によれば、. 南大門・中門・回廊・金堂・講堂・僧房といった伽藍中枢部の造営. は、北円堂や東西金堂等の二次的な建物よりも原則として遡るとみ. るのが当然であるといい、これは首肯し得るところである。おそら. ‑中枢伽藍の中では、最初に中金堂が造営され、ついで回廊、中門' l‑,・]. 講堂が建てられたものと考えられ、その中枢伽藍が完成したのちに、. 北円堂、東西金堂、五重塔といった回廊の外側の建物が造営された ことになろう。. B虎. 中枢伽藍の外側に位置する建物のうち、着工と完成が明らかなの. は北円堂であり、これについては﹃興福寺流記﹄ に記されている。. ﹃興福寺流記﹄ は十二世紀に編暮されたとみられるが、本史料にお. さめる 「山階流記」 には奈良時代から平安時代にかけての興福寺の. 資財帳の逸文やその他の興福寺関係の史料が引用されており、これ. らによって各時代の興福寺の様相をうかがうことができる。しかも. 引用された資財帳の逸文のうち'「宝字記」 「延暦記」 「弘仁記」 の. o. ように呼称に年号が冠されているものは成立年代をほぼ特定するこ. とが可能である。そのうち 「山階流記」北円堂条におさめる「宝字. 記」 によると、元明太政天皇と元正天皇が藤原不比等の追善のため. に長屋王に命じて北円堂を造営し、養老五年(七二一)八月の不比. 等の一周忌に際して供養したという。したがって北円堂は養老四年. (七二〇) 八月の不比等没後に着工され、養老五年八月には完成し.

(3) 北円堂が完成した養老五年八月以降'中枢伽藍の回廊外側には、. き‑異なるとは考えられないが'東金堂条の 「薬師浄土縁起」はあ. ている。堂芋の建立時期と、そこに安置する仏像の制作時期とが大. 縁起」と明記されているが、他は仏像あるいは建築のいずれかとなっ. 東金堂・五重塔・西金堂が順次造営されたと考えられている。まず. ‑まで東金堂安置の薬師浄土変の縁起であって、そこに東金堂とい. ていたということになる。. 東金堂について大岡薯氏は、「山階流記」東金堂条に引‑「宝字記」. う建築が含まれていないことは明らかであろう。. eサ. の記述からその発願年次を神亀三年(七二六) とみなしている。し. 起﹄ (以下、昌泰縁起と記す) の東金堂条には次のように記されて. <9. ところが、昌泰三年(九〇〇) に藤原良世が撰述した﹃興福寺縁. れている内容は神亀三年七月に聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒. いる。. かし 「宝字記」 には冒頭に 「薬師浄土縁起者」とあり、そこに記さ. を願って薬師浄土を発願したということのみであり、東金堂そのも のの造営についてはいっさい記されていない。. 円堂という名称からして西院の円堂つまり北円堂と、北円堂安置の. まず北円堂条には 「西院園堂芹併菩薩縁起者」とあり、これは西院. 皇者可元正天皇。養老五年崩。故准元明也。故東金堂聖武天皇. 今案。聖武天皇紳亀三年即位。析今帝者可聖武天皇。次太政天. 今帝陛下依太政天皇寝膳不安。勅所司敬奉造者。. 右安置薬師併像拝狭侍菩薩像也。以紳亀三年歳次丙寅秋七月。. 仏菩薩の縁起であることはいうまでもない。また五重塔条には「制. 御願欺。. 「宝字記」 には、はかにも「○○縁起者」 ではじまる記述がある。. 底縁起者」とあり、制底とはcaitya(積衆の意) の音写で、そこに. ないが後文に 「遺像を蕃さしむ」とあるので、西金堂の安置仏の制. さらに西金堂条にみえる「縁起者」は、具体的な名称は記されてい. て造営したと記されている。つづく「今案」以下は撰者藤原良世の. 七月に 「今帝陛下」 が 「太政天皇」 の病気平癒のために所司に勅し. すなわち、東金堂に安置する薬師仏像と狭侍菩薩像は、神亀三年. は「遂に霊塔を興す」とあるから、この縁起は五重塔の縁起である。. 作に関する縁起と考えられる。. は元正天皇であろうとし、後者の理由として元明が養老五年に崩御. 私見を述べたもので、良世は 「今帝」 とは聖武天皇、「太上天皇」. く「宝字記」 の 「○○縁起者」 ではじまる記述は、いずれも建築や. していることをあげたのちに、東金堂は聖武天皇の御願であろうか. このように 「山階流記」東金堂、北円堂、五重塔、西金堂条に引. 仏像を造る際の縁起つまり事情を記したものである。建築と安置仏. というのである。. 二二九. 双方の縁起である場合には、北円堂条のように 「西院園堂井備菩薩 「興福寺東金堂・五重塔・西金堂造営とその意義」.

(4) 秋七月に聖武天皇が元正太上天皇不予のために造像したものとして. 昌泰縁起の前半二行は、東金堂安置の薬師像と脇侍像は神亀三年. 藍ならびにその周辺の堂芋の仏像の制作期間を検討してみたい。. 期間で制作されたかを考えてみたいが、そのために興福寺の中枢伽. 薬師浄土変について、神亀三年七月に発願されてからどれくらいの. l四〇. おり、これは「宝字記」 の記述内容と同様である。問題とすべきは. した養老四年八月から養老五年八月までという一年以内で完成して. まず北円堂の安置仏は不比等の1周忌までに、つまり不比等が没. かとしているところであり、昌泰縁起が摸された昌泰三年頃には東. いる。中尊は丈六で、脇侍二姫、羅漢像、四天王像等十躯であり、. 藤原良世の私見を述べた後半二行のうち'東金堂を聖武天皇の御願. 金堂薬師三尊像のみならず東金堂そのものも聖武天皇の発願であっ. 保延六年(一一四〇) に大江親道が撰した﹃七大寺巡礼私記﹄ によ. つまり塑像であったらしい。. 六脂等があったというが材質は不明である。. ている。中尊の高さが三尺一寸で、このほか菩薩像二躯、楽天像十. 周忌に合わせ1年以内で完成したもので、光明子によって施入され. つぎに中金堂の弥勤浄土変も、北円堂安置仏と同様に不比等の一. るといずれも「捻」. たのかと推測されるようになっていたのであろう。 さらに昌泰縁起が編まれてから約二百年後の十二世紀初頭の撰述 ・1二. とされる「山階流記」 の撰者は、東金堂の造立年次について次のよ うに記している。. 東金堂l宇靴弊靴咽紺鯛枇髭相賀鮎鳩. に没した母橘三千代の追善のために発願し、天平六年(七三四)正. また西金堂の釈迦集会像は、光明皇后が天平五年(七三三)正月 ここでは「私云」として、東金堂は北円堂建立から「第五年」 つ. 月に完成したもので、丈六釈迦像、脇侍、羅漢像、四天王像等二十. 子像が脱活乾漆像であること、また福山氏が復原した西金堂の遷仏. まり神亀三年に聖武天皇が神母元正天皇のために造営したと明言し. こうしてみると、昌泰三年に東金堂そのものの発願者が聖武天皇. に関する「造仏所作物帳」中巻に彪大な量の漆が記載されているこ. 不明ながらも中尊は丈六で、脇侍二姫、究天、帝釈天等の十躯から. そして東金堂の薬師浄土変の場合、「宝字記」 によると、材質は. ∵⁚. であったのかと推測されて以降、十二世紀にはこの記述がさらに拡. とから、西金堂安置の釈迦集会像は脱活乾漆像であったとみられて. 九躯からなる群像であった。西金堂旧蔵で現存する八部衆や十大弟. 大解釈されて聖武天皇の発願と考えられるようになったのである。. いる。. ている。. 先述のように 「宝字記」 の 「薬師浄土縁起」 には東金堂については 一切記述がないものの、東金堂の完成時期とそこに安置予定の薬師 浄土変の完成時期とは、さほど離れてはいないはずである。そこで.

(5) 一年以内で完成しているのである。したがって、丈六仏を含む十躯. り塑像であっても乾漆像であっても丈六仏を含む十姫以上の群像は、. 漆像で丈六中尊他二十九躯がやはり一年以内で完成している。つま. 尊他十躯が一年以内で完成しており、西金堂の釈迦集会像は脱活乾. 構成されている。右にみたように、北円堂の安置仏は塑像で丈六中. いは四年とすると、着工は早‑て養老五年、遅‑とも養老七年(七. るのに四、五年は要するというから、東金堂の完成が神亀三年ある. た。大橋一章氏によると、上代において本格的仏殿一棟を完成させ. 四尺に比しても遜色のない巨大建築つまり本格的な寺院建築であっ. 唐招提寺金堂の九丈四尺×四丈八尺、甲可寺金堂の八丈一尺×四丈. 「長八丈。虞四丈四尺」とあり、薬師寺金堂の九丈×五丈二尺五寸、. ( 2 ). の群像から成る東金堂の薬師浄土変はたとえ材質が塑像・乾漆像の. 二三) までとみる必要があろう。. ( 3 ). いずれであろうとも一年以内で完成したとみることができる。. 宝字四年(七六〇)、六月二十五日の「奉造丈六観世音菩薩料雑物. (劇 3文 )」の記載を以て丈六塑像の制作期間を三ケ月と算出し、天平 労. (間 1正義氏は0、)天平宝字六年(七六二)八月二十七日「造石山院所 本. 象であり、それが偶然にも東金堂の完成予定時期と重なったため、. いたことになる。一方、元正太政天皇不予は予期できない突発的事. とは無関係であり、興福寺側の造営計画に則って造営が開始されて. 三年に発願された元正太上天皇病気平癒のための薬師浄土変の制作. この着工の時期をふまえるならば、東金堂の造営そのものは神亀. (用 S帳 )」にみえる工人の食料の分量を分析することによって丈六脱 講. の薬師浄土変の安置堂字として東金堂が選ばれたと解釈することが. また奈良時代の仏像の制作期間がどれ‑らいであったかについて. 活乾漆像の制作期間を九ケ月から十ケ月と算出した。すなわち、丈. でき蝣<?'. 第二章 西金堂及び五重塔の造営. 六像の制作期間は塑像なら三ケ月、乾漆像なら九ケ月から十ケ月と いうことになり、この期間に比較しても、興福寺北円堂安置仏、西 金堂釈迦集会像、東金堂薬師浄土変が一年以内で完成したとみるこ とに問題はあるまい。. ら遅くとも翌年神亀四年七月には完成していたと推定される。した. 年(七三三) に造営を開始し、翌天平六年 (七三四) の一周忌まで. 男氏によると、西金堂は光明皇后が母橘三千代の亡‑なった天平五. C 3 ). 西金堂は興福寺中枢伽藍西面回廊の外側に位置していた。福山敏. がって東金堂の建物も、神亀四年(七二七)七月以前、早ければ神. の一年以内で完成したという。福山氏の見解の根拠は次の二点であ. このように東金堂の薬師浄土変は、神亀三年七月に発願されてか. 亀三年中の完成とみてよいであろう。. る。. 一四一. それでは東金堂の着工はいつであろうか。東金堂は「宝字記」に. 「興福寺東金堂・五重塔・西金堂造営とその意義」.

(6) C S ). 一四二. ﹃諸寺縁起集﹄ の記載から得られる情報は、釈迦丈六像を中心とす. る群像が天平五年正月十l冒以降に造り始められ、翌六年正月十l. まず一点目は、「宝字記」を引用して成立していると考えられて いる護国寺本﹃諸寺縁起集﹄興福寺西金堂条に'光明皇后が母橘三. 日までに完成したということのみなのである。. の完成が天平六年正月ならば建物の完成もこの頃とみてよい。しか. はど離れていないと考えられることから、西金堂の場合にも安置仏. 前章で述べたように、安置仏の完成時期と堂芋の完成時期とがさ. 千代の追福のために丈六釈迦三尊像、十大弟子、八部衆像を造って 一周忌の日に斎会を行なったと記されていることである。そこで護 ( S ). 国寺本﹃諸寺縁起集﹄興福寺西金堂条の該当部分を参照しておきた ,I O IV. し西金堂も東金堂同様に大規模な本格的寺院建築であり'このよう. な堂芋が完成するまでには四、五年を要することをふまえるならば、. ︹ 挟 カ ︺ ︹ 弟 カ ). 西堂樺迦丈六像及狭侍井十第子八部紳王縁起者、皇后藤原氏、. 福山氏のいうように西金堂がわずか1年で完成したとするのはいか. ︹三千代︺. 薦先批贈従l位解困濃養橘氏忌日一所造也。皇后践霜露以崩心、. にしても不可能なのである。. ︹岡カ︺. 顧挺埴而傷壊、永言追孝、欲報国極、麦寄良工令奉還像、兼復. ただし福山氏は、西金堂の造営期間を一年間とする根拠をもう一. 書中に散在していた断簡を復原した 「造仏所作物帳」中巻で、これ. 設粛講経、屈僧施財、是年天平六年甲成正月十1日也、. すなわち、西金堂の釈迦丈六像・挟侍菩薩・十大弟子・八部衆像. を福山氏は興福寺西金堂造営に関する文書と解し、その記載内容か. 点別の史料によって提示している。その史料は'福山氏が正倉院文. の縁起は、「皇后藤原氏」 こと光明皇后が亡き母「藤原贈従一位嚇. ら西金堂の造営期間を次のように論じている。. すなわち「造仏所作物帳」中巻に記載される写経の巻数は、皇后. 困濃養橘氏」 こと橘三千代の忌日のために造ったものである。皇后 は母三千代の死を嘆き悲しみ、その恩に報いるために良工を召して. 官職に属する写経日録の巻数と一箇所をのぞいて一致する。さらに. 天平六年五月一日大属正八位下勃十二等内蔵忌寸老人. c a ). 「遠像」を事さしめ、また斎を設けて経を講じ、僧を屈話して財を. 「造仏所作物帳」中巻末尾には、 C S ). 施した。それは天平六年正月十一日のことであるという。. であり、光明皇后が追善の 「遺像」を暮すことを発願したのが三千. 大夫径四位下兼催造監勃五等小野朝臣牛養. 橘三千代が没したのは﹃続日本紀﹄によると天平五年正月十一日. 代の没後、翌年の一周忌のためであることはいうまでもな‑、その 造像は一周忌までには完成していたとみられる。つまり護国寺本.

(7) と二名の署名があり、この二名がともに皇后宮職所属の人物である. であるというのである。. 「造仏所作物帳」中巻は、西金堂の建築と造仏の双方に関する文書. そのうえで福山氏は、「造仏所作物帳」中巻には、. ことから「造仏所作物帳」中巻は皇后宮職に係る文書であると解す (20). ことができる。さらに皇后宮職に属する写経目録には、. ∴∵. と、これらの経典は「専所」 つまり皇后官職の御願によって写し終. 月二十一日から翌六年正月九日の三七二日間に造仏所つまり仏像制. とあり、これによると「政人」という職名の人物一人が天平五年正. 政人l口 起天平も朋jLj月廿1日室ハ年正月九日三百七十二日不食昌讐三百六十八人. えたもので、その割註によるとこの写経は 「厩坂寺」 つまり興福守. 作機関の作業を取り仕切ったことがわかるが、この期間は橘三千代. 以前経部巻数、専所 御願寓託、獅醐寺鮒的百。. の僧四百人の講説斎会のためであることがわかる。l方﹃昌泰縁起﹄. 亮去の天平五年正月十一日からl周忌の天平六年正月十1日までの. ( a >. たしかに福山氏がいうように 「造仏所作物帳」中巻が西金堂に関. 解しているのである。. 間におさまることから、西金堂の造営がこの一年間に行なわれたと. 西金堂条には、. 藤原皇后以天平六年歳次甲成正月十1日忌日。春雷先批贈従1 位懸因濃養橘宿爾往生菩提。敬造立像設供講経。屈講衆僧四百. する文書であり、そこに政人1人が従事した時期が橘三千代の没後. れている。この 「衆僧四百人」が講経に参加したという内容は皇后. り、供養を設けて経を講じ、「衆僧四百人」を屈話したことが記さ. 従一位懸因濃養橘宿禰」 こと母橘三千代の往生菩提のために像を造. と、「藤原皇后」 こと光明皇后が天平六年正月十一日の忌日に、「贈. 中巻のはかに 「造仏殿所作物帳」が併存したと推測しているが、そ. 「仏殿」 つまり西金堂ではないのである。福山氏は 「造仏所作物帳」. 人が従事したのは西金堂の 「造仏所」 つまり仏像制作機関であって、. に関するものばかりで建築に関するものは何もない。つまり政人一. 帳」中巻に記載される内容は仏工所や画工所といったいわゆる造仏. 人。. 宮職に属する写経目録と同じであり、皇后官職に属する写経日録に. れは福山氏自身もこの造仏所を仏像制作機関と認識していたからに. 一周忌までの問であることは疑いない。しかしながら「造仏所作物. は西金堂の名はみえぬものの西金堂に関する史料と解すことができ. はかならない。したがって福山氏が 「造仏所作物帳」中巻を西金堂. l四三. る。したがって皇后宮職に属する写経目録と写経巻数の1致する 「興福寺東金堂・五重塔・西金堂造営とその意義」.

(8) ぎず'「造仏所作物帳」中巻はあ‑まで西金堂に安置された仏像の. の仏像制作と建築造営の両方に関する文書と解釈したのは誤解にす. に記されている。. 記」五重塔条に引用される「宝字記」と 「延暦記」 には'次のよう. 塔が天平二年に完成したということは通説となっている。「山階流. 一四四. 制作を記した文書なのである。. 正月九日に西金堂安置仏が制作されたことであって、このことは. 業栖襟八正、贋啓伽藍。遂興憂塔。提筆運土不杵□基、公主夫. 宝字記云、制底縁起者、皇后藤原自署弘誓所造也。皇后篤心lll. 「造仏所作物帳」中巻の記述は天平五年正月二十一日から翌六年. 「宝字記」 や護国寺本﹃諸寺縁起集﹄ の記す光明皇后が橘三千代の. 人命婦采女芹文武百寮、各相率復事。渉夏轟秋、功夫己備、是. 延暦記云、右、天平二年歳次絹夏四月廿八日。藤原皇后、親. 一周忌のために造像を発願したという記載を裏付けるだけで西金堂. 西金堂の建築が天平六年の橘三千代一周忌までに完成していたこ. 臨伽藍沓願、乃躯提慧始基。中務卿藤原者朝臣等、同専共杵、. 年天平二年歳次庚午也。. とは、その日に西金堂で斎会を行なったという皇后宮職に属する写. 匪四而成。暮年而華。. という建築については何も伝えないのである。. 経目録や﹃昌泰縁起﹄西金堂条の記載があるため間違いない。この 場合にも、堂芋1棟の造営期間が四㌧ 五年であることをふまえれば、. ないのであり、西金堂は橘三千代尭去とは関係な‑造営が開始され. も東金堂と同様に、建築造営と仏像制作を切り離して考えざるを得. となり、橘三千代の没年を五、六年遡ることになる。つまり西金堂. 完成したと記す。このうち 「延暦記」 に従うと五重塔は約八ケ月で. 五重塔が天平二年に完成したと記し、「延暦記」 は天平二年の碁に. 二年庚午四月二十八日に発願したと記している。また「宝字記」 は. 「宝字記」がその発願の時期を記さないのに対し、「延暦記」 は天辛. 「宝字記」、「延暦記」ともに五重塔の発願者を光明皇后とするが、. たが、橘三千代の亮去が西金堂の完成時期と重なったことで三千代. 完成したことになるが、繰り返し述べたように古代寺院の一堂芋を. 西金堂の着工時期は天平元年 (七二九) あるいは二年 (七三〇) 頃. 追福のための仏像の安置場所として西金堂が選ばれたと考えること. 完成させるのに四、五年はかかるから、五重塔の発願から完成まで. (. 3. ). 八ケ月という期間はいかにしても短‑現実的にはあり得ないため. ができる。. ). つぎに検討したいのは、五重塔の造営である。これについては福 3. 「延暦記」 の記載を信じることは到底出来ない。ただし、天平二年. S. 山氏が「宝字記」 の記載から天平二年に完成したと述べ、大岡氏が. という完成年次については 「宝字記」 にも記載されていることから、. (. 「宝字記」と 「延暦記」 の記載から天平二年に完成したとし、五重.

(9) この点まで否定すべきかどうかは検討を要する。 ( S ). さらに東金堂・五重塔・西金堂といった回廊の外側の堂芋が造営さ. れたとみられる。これら回廊外の講堂芋のうち、東金堂・五重塔・. 西金堂の着工及び完成時期について、前章までに述べてきたところ. 福山氏の研究によれば「宝字記」は天平宝字元年(七五七) から 四年(七六〇) の問に撰述されたことがわかっている.また波谷和. を整理すると表 (l四六頁参照) のようになる.. ( 8 ). 貴子氏は「宝字記」が天平期の興福寺の姿をかなり正確に伝えてい. 時期を示すが、東金堂・五重塔・西金堂の着工及び完成の時期のう. この表は上から北円堂、東金堂、五重塔'西金堂の着工及び完成. 年から「宝字記」が撰述された時期までの間はわずか三十年足らず. ち、史料に明記されているのは五重塔が天平二年に完成したという. る史料であると述べている。しかも五重塔が完成したという天平二. であるため、「宝手記」 の記載内容はきわめて信頼性が高いとみら. ことのみで、東金堂と西金堂の着工及び完成時期については安置仏. の完成時期から割り出したものである。. れる。 さらに注目したいのが、西金堂の造営工事の着工年である。先述. 二年から五重塔の着工時期を逆算すると神亀三年(七二六) か四年. の造営計画はスムースに展開してい‑。また五重塔の完成した天平. 天平二年の五重塔完成に続いて西金堂造営に着手すれば興福寺伽藍. 着工前に五重塔・西金堂も含めて入念な工事進行計画が立てられて. 中断することなく行なうことができたのは、最初に造営した東金堂. スに展開していたことが見てとれる。このような巨大建築の造営を. 金堂・五重塔・西金堂の造営は各々四年強の造営期間で非常にスムー. ここに示したごと‑、北円堂が完成した翌年の養老六年から、東. (七二七) となり、図らずも先に述べた東金堂完成の時期と1致す. いたためであろう。そこで、興福寺がこれらの造営をいつ頃計画し. のように西金堂は天平元年か二年には着工されていたとみられるが、. るのである。したがって、五重塔の完成が天平二年という点につい. たのかについて検討してみたい。. 行されたことになる。そして北円堂完成後に東金望・五重塔・西金. ( 8 ). ていたであろうから、計画立案とその造営工事は不比等によって実. まず、興福寺中枢伽藍は北円堂着工前の養老四年にはほぼ完成し. S). ては事実とみなすことができよう。. 第三章 東金堂・五重塔・西金堂造営経過とその造 営の意義. 堂が続けて造営されてい‑が、これらの造営工事は不比等没後の藤. 原氏つまり房前らによって進められたはずである。しかし不比等亡. 平城京興福寺では、中枢伽藍のうち中金堂が最初に造営され、次 いで回廊、中門、講堂が建てられた。そして中枢伽藍の完成後、ま. き後の藤原氏は、盤石であった圧倒的勢力に繋りをみせ始めた。林. 一四五. ず養老四年(七二〇)から同五年(七二一) に北円堂が造営され、 「興福寺東金堂・五重塔・西金堂造営とその意義」.

(10) 靴. 表 北円堂・東金堂・五重塔・西金堂の造営経過. !* 墳■ 顎登 呂買■ ■. ( S ). 賀 寄港還害X 荒 0琵誤 訳× 担藁. 陸朗氏は、養老四年に不比等という巨人を失った藤原氏は、房前が 参議の地位におり、武智麻呂が中納言になったものの、太政官上層 部では舎人親王や長屋王といった皇親が勢力を盛り返し、圧倒的で あった藤原氏の勢力も不比等生前とは様相を異にしてきていたとい う。こうした中央政界における藤原氏の勢力維持が最重要課題であ る時期に、東金堂・五重塔・西金堂のような巨大建築の造営計画を、 あらたに立案することは困難ではなかろうか。したがって、中枢伽 藍のみならず、東金堂・五重塔・西金堂の造営計画も、不比等によっ て立案されていたものと考えざるをえない。 このように不比等が計画立案した興福寺伽藍は'官寺の金堂に匹. 葵 … 譜発岩 音 書 く. 敵する金堂三棟と高さ十五丈を超える五重塔といった巨大建築群で あった。その造営を実現するためには、卓越した技術を持つ組織化. ≡ … ≡ … ■ … 澄 ■ ;J≧ ■ … ≧ ■ ≦ ≡. された工人集団が必要であったはずである。そのような工人集団は、. 退. 八世紀前半のわが国では造寺司のごとき官寺造営の工人集団をおい. 転詑. さ ≡ 描 3雑 ≡ 冥 岩 'Me… s'喜 e≡ g≡ ≡ 話. gYS巨 星 … 菜 蓋. 岩 鞍. =≡ 書 芸 訣. ≡ 崇 ≡ 誠 書 だ三菓 … 莞 ≡ 萱 淡さ 滋■ … ≡ ≡ … 津 … 迂 … … ≡ ■ ;J. 各 堂. × 諾∋ 諾. ‑]'蝣 の 追 冒 経 過. i. てはかにはあるまい。当時の官寺造営の工人集団は、元興寺'薬師 寺、大安寺の移転工事にかかっていたはずであるが、天皇家の信任 篤い藤原不比等の力をもってすれば私寺である興福寺造営にこれら 工人集団を自在に動員することが可能であったであろう。 しかし、中枢伽藍の完成後、回廊外の東金堂・五重塔・西金堂造. ′ さ ,),. …. 六 享. 工. ㍍. 七 ‑t. ≡0 ++王書 0++㍑++ ≡ 拙. (⊃ 八 四. 九 室. ≡ 諒≡ ■. ≡ 琵災. ∵ ■+ ∵+ j=fca 玩 α■× 琵 ■ ∴I* 濃 喜. 臥. R iS琵≡ iB3ギS…. 致 ×埜警. 営に着工しないうちに不比等がこの世を去る。興福寺では、不比等. 震. 喜 禿. 亡き後も官寺造営の工人集団を動員して私寺の造営を続行すること が困難になったであろう。にもかかわらず、興福寺の造営が中断す. 菖0諾 芳 ∋ 亨 ≡. 西 B 四. 0案 S≡ 放き ≦設 控は菓 … 星 … 書 書 書 護喜 b〉 … 濃 顎等. t‑ ‑t. 四. ‑b 卓. 五. ち 阜. ‑fa 阜. 5. ち 雲 ノ\. ±. 四. ‑fc. /\. 義 老 四. 和 磨 五 七 五. 秤 亀 7G 天 軍 刀二 五.

(11) ることな‑順調に進められたのはいったい何故であろうか。. 薮中氏の見解にしたがうと中金堂は約十ケ月で完成したことにな. り、古代寺院の堂宇造営が通常四、五年かかることに照らすと、到. 底みとめることは出来ない。また、中枢伽藍が不比等によって整え. ここで注目したいのは造興福寺仏殿司である。造興福寺仏殿司は、 養民司・造器司とともに、不比等が没した二ケ月後の養老四年十月 ). られたことについては先に述べたとおりで、造興福寺仏殿司の示す. S. ∴」\. (. に設置されている。福山敏男氏は、これらの設置が不比等没後まも. 「仏殿」が中金堂を指すとは考えられない。しかも仏殿司の設置目. ). なくであり'養民司・造器司が葬送に携わる機関であることから造. 的を中金堂造営に限定した場合、五重塔や周辺堂芋の造営を実行す. S. 興福寺仏殿司は北円堂を造営するための機関であると解している。. る工人を何処から手配するというのだろうか。. (. これに対して薮中五百樹氏は、「仏殿」とは金堂のことであるから、. 造されているということが明らかになったことをうけ、この改造は. る。大和田岳彦氏は、近年の発掘調査によって中枢伽藍の回廊が改. そこで遺された藤原一門は、官寺造営の工人集団の私的な動員では. できる不比等を失い、造営工事の続行に不安が生じたに違いない。. に東金堂を造る段階にあったが、官寺造営の工人集団を私的に動員. 養老四年当時すでに興福寺では中枢伽藍の造営工事を終え、まさ. 養老二年(七一八) に帰朝した道慈の構想に基づ‑ものとし、その. な‑国家の正当な工事として興福寺の造営を滞りな‑続行するため. 造興福寺仏殿司は北円堂ではな‑中金堂造営のための機関とみてい. 構想を実現するために造興福寺仏殿司が設置されたとの見解を示し. に、不比等と関係の深かった元明太上天皇と元正天皇に働きかけ'. ∴. ている。. いか。仏殿司という国家機関の設置に際しては、元明太上天皇と元. ( 8 ). 養老四年十月にあらためて造興福寺仏殿司を設置したのではあるま. ず「宝字記」が中金堂を 「中併殿」、東金堂を 「東併殿院併殿」と. 正天皇を発願者とする北円堂造営を契機とすれば対外的に問題を生. 造興福寺仏殿司という語にみえる 「仏殿」 について、薮中氏はま. 記す一方で、北円堂を「西院囲堂」とすることを挙げ、さらに正倉. 存することから'北円堂造営のための機関を名付けるとすれば「造. 院文書には天平宝字七年(七六三) 二一月二〇日「造円堂所牒」が. 平二年の問にあっても、興福寺は造営工事を中断することな‑順調. きていた時期、養老四年の不比等没後から光明子立后に成功する天. ずることもない。仏殿司を設置したからこそ皇親勢力が盛り返して. ( S ). 円堂司」となると述べた。その一方で薮中氏は、「宝字記」 には中. に進めることができたのである。. 一四七. 西金堂を造営しようとした意義がいかなるものであったのかについ. 最後に'不比等が中枢伽藍だけではな‑回廊外に東金堂・五重塔・. ( g ). 金堂に不比等の一周忌である養老五年八月に弥勤浄土変を施入した 記事があるために、中金堂がこの時までに完成していたことをみと めている。 「興福寺東金堂・五重塔・西金堂造営とその意義」.

(12) て述べておきたい。この意義を検討するにあたって重要なのは、興 福寺が官寺の金堂に匹敵する金堂三棟と高さ十五丈を超える五重塔 といった巨大建築群を擁していたことである。つまり、興福寺伽藍. おわりに. 壮大な寺院を造営しようとしたのは'藤原氏の権力を目にみえるか. 等地に寺地を構えているのである。これらを勘案すると、不比等が. に東大寺が造営されるまで皆無であるうえに、平城京を見下ろす一. 記述内容がじゅうぶんに検討されたこともなかったため、本稿では、. 成なのか言及されたことはほとんどなかった。しかも「宝字記」. 四) に造営されたと理解されてきたが、これらの年が着工なのか完. (七二六)、五重塔は天平二年 (七三〇)、西金堂は天平六年(七二. 従来、「宝字記」 の記述内容によって興福寺東金堂は神亀三年. たちで象徴する目論見があったと解すことができる。しかも寺院は、. 東金堂及び西金堂の造営年を伝える「宝字記」 の記述が実際には安. の特徴は何よりも大規模であることで、これほどの規模の寺院は後. 藤原氏の権力の象徴として後世にまで伝え遺すことが可能なのであ. 置仏に関するものであることを明らかにした。. 安置仏の完成年と堂芋の完成年はさほど離れているとは考えにく. の. る。したがって、不比等が中枢伽藍のほかにさらに回廊外にまで巨 大建築を配すことを計画したのは、藤原氏の権力を象徴し、それを. また興福寺造営工事半ばの養老四年に不比等を失った藤原氏は、. であったため、興福寺東金堂や西金堂の場合、実際には堂芋が先に. り、塑像や乾漆像の丈六仏を中心とする群像の制作にはおよそ一年. いが'上代において寺院の堂宇一棟が完成するのに四、五年はかか. 皇親勢力への対抗策として皇太子妃光明子の立后を目論んではいた. 造営され始めたと考えられる。このことをふまえると、北円堂完成. 後世に伝える意義があったのだと考えられるのである。. ものの、自在に官寺造営の工人集団を動員することは困難であった。. 後、東金堂・五重塔・西金堂造営は中断することな‑続いたとみら. 巨大建築を次々に造営するためには経済力だけではな‑、卓越し. しかしながら、不比等の計画した藤原氏の権力の象徴たる興福寺の. ことになる。そこで不比等没後も変わらず強大な権力を保っている. た技術を有する工人組織の動貞が不可欠である。優れた技術や組織. れる。. ことを周囲に知らしめるために興福寺の造営工事中断は決して許さ. 力は一朝一夕に得られるものではない。そのような組織は当時の状. 造営を中断させることは、藤原氏一門の繁栄そのものに影を落とす. れず、連続的に巨大建築を建てていったのであろう。. 況からすると造寺司のごとき官寺造営の工人集団をおいてほかには. ない。私寺の造営にこうした組織を自在に動員できるのは藤原不比.

(13) 等ならではであり、興福寺の中枢伽藍及び回廊外の堂塔の計画立案 は不比等によってなされたものと考えられる。 しかしながら、不比等没後の藤原氏は皇親勢力が力を伸ばしてき たことで、暗黙のうちに官寺造営の工人集団を動員して私寺の造営 を続行できるはどの強大な権力を有していたとは思えない。そこで 私は、藤原一門の要請を受けて不比等と関係の深かった二人の女帝、 元明太上天皇と元正天皇が養老四年に造興福寺仏殿司を設置し、そ の後の興福寺の造営を国家の正当な工事と位置づけたのではないか と考えている。 不比等は、藤原氏の権力を象徴として官寺を凌ぐ壮大な伽藍造営 を計画したが志半ばにしてこの世を去った。不比等の遺志を継ぐ房 前をはじめとした子弟や縁者たちは、不比等亡き後も変わらぬ力を 誇示するために興福寺の造営を決して中断するわけにはいかなかっ たのである。. 註 (‑) ﹃第‑期境内整備事業にともなう発掘調査概報Ⅰ﹄(奈良国立文化財研究 所編、一九九九年)0 (2) 福山敏男「総説 興福寺」(近畿日本叢書第六冊﹃春日大社・興福寺﹄ 所収'綜芸舎、一九六1年)0 (3) 創建時の興福寺講堂の造営について「山階流記」講堂条所引の「宝字記」 こまヽ. 宝字記云、安置悌者不空謂索観自在一姫。右、従二位藤原夫人、参議. 「興福寺東金堂・五重塔・西金堂造営とその意義」. 正四位下民部卿藤原朝臣'以天平十八年歳次鯛正月、薦先考先地所 薩一握.在宝殿云云.. 道立也云云。延暦雲。不空塾□. と、「宝字記」に云くとして'講堂安置の仏像は不空箱索観自在l姫、高. さは一丈六尺で、この像は従二位藤原夫人と藤原真楯が天平十八年に亡き. にあると記している。つまり講堂安置の不空電索観音像について、「宝字. 父母のために造ったとし、続いて「延暦記」には不空清索菩薩1躯は宝殿. ではその像が宝殿に安置されていたというである。. 記」では天平十八年(七四六)に藤原真楯と藤原夫人が発願し、「延暦記」. 福山敏男氏は、講堂は中枢伽藍の1部であるため北円堂造営以前に完成. 1万、永島福太郎氏は、「宝字記」に不空箱索観音像の発願年次が天平. していたと考えていたようである。. いる。鮭谷和貴子氏も、講堂の造営を本尊不空謂索観音像が制作された時. 十八年と記されていることから、講堂そのものの造営も天平十八年として. これらの先行研究の中では、福山氏以外は追善のための不空箱索像と講. 期と同じとみている。. 堂の造営を関係づけているが、講堂の造営が天平十八年というのは中枢伽. 藍完成時期に比してあまりにも遅すぎる。講堂の用途はあ‑まで僧侶の研. 鱒であって、追善をきっかけとして突発的に建立するような性格の建築で. はない。しかも、「正倉院文書」写経目録には、天平六年(七三四) に僧. 四百人が参加する斎会を行なったとあり、﹃続日本紀﹄によれば、天平十. 年(七三八)三月条に法隆寺や海龍王寺とともに朝廷より食封の施人を受. けている。要するに、天平十八年遥か以前から興福寺には僧侶が止任し、. 宗教活動が行なわれていたのである。したがって、講堂も僧侶の止住とと. もに必要となったであろうから、福山氏のいうように北円堂造営以前に完. 成していたと考える方が自然である。 福山敏男、註‑前掲O. 永島福太郎「興福寺の歴史」(﹃儒教塾術﹄四〇、一九五九年)O. 溢谷和貴子「興福寺流記について」(﹃併教聾術﹄一六〇、一九八五年)0. 一四九.

(14) 三種が興福寺に所蔵されている。刊本は、底本を二条法印孝乗書写本とす. (4) ﹃興福寺流記﹄は二条法印孝乗書写本・寛弘書写本・奥書無の書写本の る﹃大日本仏教全書﹄興福寺叢書第一(一〜二八頁)、底本が不明の ﹃奈 良六大寺大観﹄七(奈良六大寺大観刊行会編、岩波書店'1九六九年) が ある。そこで本稿では、刊本をもとに二条法印孝乗書写本の原本複写を用. 一五〇. 庚成、内命婦正三位県犬養橘宿繭三千代秦。遣従四位下高安王等、監.. 岩波書店'一九九〇年)0. 護喪事.賜葬儀准散1位。命婦、皇后之母也。. 載と、「山階流記」西金堂条が引‑「宝字記」の記載とを比較してみると、. (3) ちなみに護国寺本﹃諸寺縁起集﹄興福寺西金堂条が引‑「宝字記」 の記. 同じ内容ながらい‑つかの文字に違いがみられる。「山階流記」西金堂条. が引‑「宝字記」は次のとおりである。なお、護国寺本﹃諸寺縁起集﹄と. いた。句読点は筆者が付したものである。 (‑) 縫谷和貴子、註‑前掲。. の相違部分には傍線を付した。. 縁起者、光明皇后藤原先批贈l位牌G]濃養橘氏忌日所造也。皇后秋霜. 露川副、顧挺随而傷壊、永言追孝、欲報岡極。麦寄良工、令暮遣像0. 兼復設斉講給、屈僧施財。是年天平六年歳次卵正月十一日也。. ﹃大日本古文書﹄編年之一、五五三京、1九〇七年)。. 天平三年八月写経目録(﹃大日本古文書﹄編年之七、八貢、一九〇七年)0 ﹃興福寺縁起﹄'註‑前掲。. ﹃大日本古文書﹄編年之七、三六頁'一九〇七年)0 福山敏男、註‑前掲。. 大岡資「興福寺の建築」 (近畿日本叢書第六冊﹃春日大社・興福寺﹄所. 南に1基の塔を配すのみであり、興福寺の場合にも塔がl基であることに. られない。また興福寺と同時代に造営された元興寺や額安寺は、伽藍の東. 地位や経済力を考慮すると、西塔の建立を実現できなかったとは到底考え. なかったということになる。しかし、興福寺の大壇越たる.藤原氏の社会的. 建立する計画があったとするならば、その計画は九世紀に入っても実現し. に入ってから南円堂が造営されている。つまり大岡氏がいうように西塔を. れ東塔・西塔とする計画であったと述べているが、西金堂の南には九世紀. (&) 大岡賓氏は、興福寺は東金堂の南と西金堂の南とに塔を建立し、それぞ. vcsJ 池谷和貴子、註‑前掲。. Kcst) 福山敏男、註‑前掲。. 収'綜芸舎、一九六一年)0. \‑/. (‑) 大岡賓「興福寺」(﹃南都七大寺の研究﹄所収、中央公論美術出版、一九 六六年)。 (‑) ﹃興福寺縁起﹄(﹃大日本仏教全書﹄第八四巻寺誌部二 三二〇〜三二三 頁'﹃群書類従﹄二四釈家部、一九六〇年)。 (8) 漉谷和貴子、註‑前掲。. 一九六八年)。. (‑) 福山敏男「興福寺西金堂の造営」(﹃日本建築史研究﹄所収、墨水書房'. (S) 本間正義「塑像及び乾漆像の製作と衰微に対する1解釈」(﹃美術史﹄五、 一九五二年)。 ォ) 天平宝字六年八月二十七日「造石山院所労劇文」(﹃大日本古文書﹄編年 之十五、二三五〜二四〇貢、1九二二年)0 (3) 天平宝字四年六月二十五日「奉造丈六観世音菩薩料雑物請用帳」(大日 本古文書﹄編年之四、四二〇〜四二五頁、1九〇三年)0 (2) 同じ興福寺内の北円堂は1年未満で完成しているが、東金堂に対して相 当規模が小さいので比較対象になり得ないと思われる。. 年 ) 0. (3) 大橋l章「飛鳥寺の創立に関する問題」(﹃仏教芸術﹄ 1〇七、l九七六. (3) 福山敏男、註‑前掲。 (S) 護国寺本﹃諸寺縁起集﹄(﹃校刊美術史料﹄寺院篇上、中央公論美術出版、 一九七二年)。 (S) ﹃続日本紀﹄巻十一天平五年(七三三)正月十一日条(﹃続日本紀﹄二、. ( ( ( 21 20 19 ( 22 ( 23 ( 24.

(15) 堂すら崖を避けて建てられているのである。したがって興福寺では西塔を. 何ら問題はない。さらに西金堂の南、東塔の対称位置が崖であって、南円. の南大門は通りから北に入った位置に建てられている。しかしながら、築. 門は通りに面して建てられるのに対し、たしかに興福寺・大安寺・元興寺. 右一直線にのびる形状であったはずで、道慈関与後に南大門の位置を北へ. 地塀が南大門左右からに北へ折れる形状が道慈の関与による配置であるな. 移すかあるいは築地塀の位置を変更したことになる。しかしながら改造前. らば、道慈帰朝の養老二年以前の興福寺においては南大門から築地塀が左. 大岡賓'註‑前掲。. なる点については別稿にて述べたいと思う。. 薮中五百樹氏は養老四年に設置された造興福寺仏殿司をもって興福寺中. に南大門の位置が復原図より南にあったとすると、南大門と中門とが相当. 造営する計画はなかったものと考えられる。なお、東西の金堂の規模が異. 金堂の造営開始とみているが、この見解が成立しえないことについては稜. 離れていたことになり、築地塀の位置が復原図より北にあったとすると三. うに、道慈が興福寺に任したことは認められるので興福寺造営に何らかの. の金堂や中門の位置とともに決められたと考えられる。大和田氏のいうよ. れる南大門や築地塀の配置に変更があったとは思えず、これらは中枢伽藍. 条通との間に不自然な隙間があったことになるOしたがって復原図にみら. 述する。 薮中五百樹「奈良時代に於ける興福寺の造営と瓦」(﹃南都儒教﹄六四、 1九九〇年)O (2) 林陸朗﹃光明皇后﹄(日本歴史学会編人物叢書'吉川弘文館、一九六1 年 ) 0 Kco) ﹃続日本紀﹄巻八養老四年(七二〇)十月条(﹃続日本紀﹄註17前掲)。. ていたのか不明であるし、興福寺中枢伽藍に加えられたいくつかの改造の. 関与をしていた可能性はあるが'興福寺で付帯的にいかなる役割を果たし. の設置に道慈を結びつけることは困難と考えられる。. それぞれが同時に行なわれたかどうか現状ではわからず'造興福寺仏殿司. 丙申、始置養民・造器及造興福寺仏殿三司。 Km) 福山敏男、註‑前掲。. 癒のために発願した薬師浄土変であった意味が浮き彫りになって‑る。東. このように考えると、東金堂の本尊が聖武天皇が元正太上天皇の病気平. 中 所収、中央公論美術出版、一九八二年)0. 福山敏男「栄山寺の創立と八角堂」(福山敏男著作集﹃寺院建築の研究﹄. ・るという.. KcoJ 福山敏男氏によれば、ここに示す「円堂」は栄山寺八角円堂のことであ. Km) 薮中五百樹「奈良時代に於ける興福寺の造営と瓦」(﹃南都儒教﹄六四、 一九九〇年)。 yco) 大和田岳彦「興福寺中金堂院の造営に関する一考察」(﹃日本歴史﹄六三 八、二〇〇1年)o なお、大和田氏は大安寺と興福寺の回廊の形状や南大門左右の築地塀が. 金堂本尊を天皇による造仏とすることで国家機関である造興福寺仏殿司を. 1直線にのびない形状であること等が近似するとしたうえで、大安寺と同. に帰朝したため興福寺造営に最初から関与したのではな‑近年の発掘調査. 様に興福寺にも道慈の関与があったと述べた。道慈は養老二年(七一八). l五一. 鑑みれば、仏殿司が引き続き仏殿ではない五重塔を造営したとしても何ら. に関与していたであろう。過去に造塔官が伽藍造営を担当していたことに. 殿司がいつまで存続したか明らかでないが、五重塔完成までは興福寺造営. KcoJ 光明子を立后した後の藤原氏は再び勢力を取り戻したため、造興福寺仏. 北円堂完成後に動員する名分がたつのである。. ⊥C¥Ctrj. で判明した中枢伽藍の改造に造興福寺仏殿司を通して関与したというので. ここで大和田氏が大安寺との近似点つまり道慈の関与の結果としてあげ る築地塀の形状(図・l四〇貢参照) に注目すると、築地塀は南大門の門 前にスペースを確保するかのように折れていることがわかるO一般に南大. 「興福寺東金堂・五重塔・西金堂造営とその意義」.

(16) 問題はないはずである。 なお光明子立后後に造営着手した西金堂については遷仏に皇后官職が関 与していたから、堂芋も皇后官職が担当した可能性があるかもしれない。 この点については稿をあらためて述べたいと思う。. ものである。. ︹付記︺ 本稿は二〇〇六年度早稲田大学特定課題研究助成Bを受けて成稿した.

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それから 3

 東京スカイツリーも五重塔と同じように制震システムとして「心柱制震」が 採用された。 「心柱」 は内部に二つの避難階段をもつ直径 8m の円筒状で,

その目的は,洛中各所にある寺社,武家,公家などの土地所有権を調査したうえ