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Vol.65 , No.2(2017)046平野 克典「ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の「普遍の定義」の再検討」

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ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の

「普遍の定義」の再検討

平 野 克 典

ヴァイシェーシカ学派が説くパダールタ(範疇)の一つに普遍(sāmānya)があ る.普遍を巡っては学派の枠を超えた論争がなされており,インド哲学史におい て一つのトピックを形成している.そして,その重要性から,普遍はさまざまな 視点からこれまで研究がなされてきた.そのうち,同学派の「普遍の定義」に着 目した先行研究がある.Shastri(1964)1976,Dravid(1972)2001,竹中 1983 であ る.これら代表的な先行研究は「普遍の定義の変化」に着目し,「随伴の理解の原 因であること」(anuvṛttipratyayahetutva)という定義項が普遍の定義から欠落し,後 代は「普遍は常住であり,単一であり,多くのものに内属する」(sāmānyaṃ nityam ekam anekasamavetam)に変化したことを指摘する.そして,その欠落理由に論理的 欠陥を挙げる.すなわち,「随伴の理解」は普遍以外からも生起する.それ故,過 大適用という論理的欠陥を回避するため,「随伴の理解の原因であること」は普遍 の定義から欠落するに至ったと説明している.本稿では,過大適用を理由に「随 伴の理解の原因であること」の欠落を説く先行研究を批判的に見直し,同学派の 「普遍の定義」の意義を再検討する.

「普遍の定義」の変化

同学派の学匠プラシャスタパーダ(ca. 550–600)1)の『パダールタ・ダルマ・サ ングラハ』(以下 PDhS)は普遍を次のように定義する2) 普遍は自身の領域の全体に存在し3),無区別なる本性を有し,多数のものに存在する.一 つ,二つ,多数のものに対して[普遍]それ自体の随伴の理解を生起する.[すなわち, 普遍は]自体に区別のない状態で諸保持者に連続して存しつつ,随伴の理解の原因であ る4) 先行研究は,普遍以外からも随伴の理解が生じることを根拠に5),下線部「随 質的な親近感を感じていたのであった. 〈略号〉

Āyār Ācārâṅga-sūtra: Text, Analyse und Glossar. Ed. Walther Schubring.

Abhand-lungen für die Kunde des Morgenlandes 12 (4). Leipzig: Brockhaus, 1910. Bhag. G The Bhagavad Gītā. Ed. and trans. Franklin Edgerton. 2 vols. Harvard Oriental

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Dasav The Dasaveyāliya sutta. Ed. Ernst Leumann. Trans., with introduction and notes

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Manu Manu’s Code of Law: A Critical Edition and Translation of the Mānava-Dharmaśāstra. Ed. Patrick Olivelle. Oxford: Oxford University Press, 2005.

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Sūy Sūyagaḍa: For the First Time Critically Edited with the Text of Niryukti, Various Readings, Notes and Appendices. Ed. P. L. Vaidya. Poona: Motīlāla Lādhājī,

1928.

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ヴィンテルニッツ(中野義照訳)1976『ジャイナ教文献』インド文献史第 4 巻,日本印 度学会. 上村勝彦訳 1992『バガヴァッド・ギーター』岩波文庫. 中村元 1991『思想の自由とジャイナ教』中村元選集〈決定版〉第 10 巻,春秋社. 松濤誠廉訳 1968「ダサヴェーヤーリヤ・スッタの和訳(並に註)」『大正大学研究紀要 文 学部・仏教学部』53: 100–150. 渡瀬信之訳 1991『マヌ法典――サンスクリット原典全訳――』中公文庫. 〈キーワード〉 ジャイナ教,万物一体観,『アーヤーランガ・スッタ』 (大正大学非常勤講師)

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伴の理解の原因であること」が欠落し,「常住性」などが存続する理由が述べられ る必要があるが,筆者の知る限り同学派の文献にその記載はなく,また過大適用 回避説を説く先行研究はその理由を述べてはいない. このように,過大適用回避説は説得力を欠く.10 世紀以降の普遍の定義を構成 する三つの定義項にも過大適用をそれぞれ指摘できるが,三つの定義項が定義か ら欠落していないことが従来の過大適用回避説が成立しえない証左となる16)

10

世紀以降の「普遍の定義」の意義

10 世紀以降のニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の文献に言及される一般的な 「普遍の定義」は,「普遍は常住であり,単一であり,多くのものに内属する」と いう三つの定義項から成る.しかし,「随伴の理解の原因であること」が定義から 欠落したとはいえ,普遍が随伴の理解の原因の一つであることに違いはない. ここで,同学派の文献において,随伴の理解を生起する原因の存在構造がどの ように言及されているかを確認しておこう. 互いに異なった皮,衣,毛布などに対して,青[色]と実体との単一の結び付きから, 「[皮は]青いものである」「[衣は]青いものである」という認識の随伴(認識の共通し ていること)がある17) 上記 PDhS には,属性(guṇa)である青色が皮などの実体(dravya)に内属関係 によって結び付きつつ,「皮は青いものである」「衣は青いものである」という「認 識の随伴」を生起することが言及されている.そして,同学派の体系に従えば, 青色は個々の基体に一つずつ存する.すなわち,皮の「青色」と衣の「青色」は 別物と同学派は捉えている18).単一の青色が複数の基体に同時に存しているので はない.従って,同類の多なるもの(青色)が多なる基体(皮,衣,毛布)に存し ている場合,いわば「多対多の存在構造」というあり方をした原因から随伴の理 解が生起していることになる19) 一方,普遍の場合,単一なるもの(普遍)が多なる基体(実体,属性,運動)に内 属関係によって存して随伴の理解が生起する.例えば,単一なる瓶性が個物 a と 個物 b に存している場合,a と b に随伴する「瓶」という認識が生起する.いわ ば「一対多の存在構造」というあり方をした原因から随伴の理解が生起している ことになる.このように,随伴の理解を生起する原因の存在構造に「多対多」と 「一対多」の 2 パターンを指摘できる. 10 世紀以降の「普遍の定義」は,「常住性」,「単一性」,「多くのものに内属す 伴の理解の原因であること」に論理的欠陥を指摘する6 ).「随伴の理解」 (anuvṛttipratyaya)とは,例えば,個物 a と個物 b に対して普遍である馬性(aśvatva) が随伴していることの認識・理解である.そして,それは「a は馬である」,「b は 馬である」という繰り返される認識である7) 普遍以外の原因に関しては,例えば,PDhS の現存最古の注釈書,ヴィヨーマ シヴァ(ca. 900–960)の『ヴィヨーマヴァティー』(以下 Vy)は「料理人である」や 「普遍である」という認識を例示する8).そして,「A 氏は料理人である」という 認識の原因に料理行為(pacikriyā)など9)を挙げる.つまり,料理行為という運動 (karman)が随伴の理解の原因となるため10),「随伴の理解の原因であること」を 含む「普遍の定義」は運動に逸脱してしまう.このような過大適用という論理的 欠陥を回避するため11),ヴィヨーマシヴァ以降(10 世紀以降),普遍の定義から 「随伴の理解の原因であること」が欠落し,「普遍は常住であり,単一であり,多 くのものに内属する」へと変化したと先行研究は結論付ける12)

過大適用回避説の問題点

「随伴の理解の原因であること」の定義からの欠落は文献上確認できる「事実」 である.先行研究は,その事実を説明する上で「論理的欠陥に由来する」という 仮説を立てる.つまり,普遍以外のものに逸脱する過大適用を回避するために, 普遍の定義から「随伴の理解の原因であること」は欠落するに至ったとする仮説 である13).なお,前章で確認したように,ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の文 献には過大適用に関する記述はあるが,それ故に「随伴の理解の原因であること」 を定義から削除するという記述はない.過大適用回避説は,あくまでも研究者の 仮説である14) では過大適用を根拠に「随伴の理解の原因であること」という定義項が普遍の 定義から欠落するに至ったとする仮説は妥当であろうか.10 世紀以降,同学派で 一般的となる普遍の定義は三つの定義項から構成される.しかし,三つの定義項 の各々が過大適用を免れている訳ではない.例えば,「常住性」は原子(paramāṇu)

や究極の特殊(antyaviśeṣa)に,「単一性」は内属関係(samavāya)や空間(ākāśa)

に,「多くのものに内属すること」は結合関係(saṃyoga)や 2(dvitva)以上の数

(saṃkhyā)に,それぞれ過大適用を起こす15).つまり,過大適用の回避を根拠に

して「随伴の理解の原因であること」の欠落を想定するならば,同様に過大適用 が指摘される「常住性」などの定義項が欠落してもよいはずである.あるいは「随

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伴の理解の原因であること」が欠落し,「常住性」などが存続する理由が述べられ る必要があるが,筆者の知る限り同学派の文献にその記載はなく,また過大適用 回避説を説く先行研究はその理由を述べてはいない. このように,過大適用回避説は説得力を欠く.10 世紀以降の普遍の定義を構成 する三つの定義項にも過大適用をそれぞれ指摘できるが,三つの定義項が定義か ら欠落していないことが従来の過大適用回避説が成立しえない証左となる16)

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世紀以降の「普遍の定義」の意義

10 世紀以降のニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の文献に言及される一般的な 「普遍の定義」は,「普遍は常住であり,単一であり,多くのものに内属する」と いう三つの定義項から成る.しかし,「随伴の理解の原因であること」が定義から 欠落したとはいえ,普遍が随伴の理解の原因の一つであることに違いはない. ここで,同学派の文献において,随伴の理解を生起する原因の存在構造がどの ように言及されているかを確認しておこう. 互いに異なった皮,衣,毛布などに対して,青[色]と実体との単一の結び付きから, 「[皮は]青いものである」「[衣は]青いものである」という認識の随伴(認識の共通し ていること)がある17) 上記 PDhS には,属性(guṇa)である青色が皮などの実体(dravya)に内属関係 によって結び付きつつ,「皮は青いものである」「衣は青いものである」という「認 識の随伴」を生起することが言及されている.そして,同学派の体系に従えば, 青色は個々の基体に一つずつ存する.すなわち,皮の「青色」と衣の「青色」は 別物と同学派は捉えている18).単一の青色が複数の基体に同時に存しているので はない.従って,同類の多なるもの(青色)が多なる基体(皮,衣,毛布)に存し ている場合,いわば「多対多の存在構造」というあり方をした原因から随伴の理 解が生起していることになる19) 一方,普遍の場合,単一なるもの(普遍)が多なる基体(実体,属性,運動)に内 属関係によって存して随伴の理解が生起する.例えば,単一なる瓶性が個物 a と 個物 b に存している場合,a と b に随伴する「瓶」という認識が生起する.いわ ば「一対多の存在構造」というあり方をした原因から随伴の理解が生起している ことになる.このように,随伴の理解を生起する原因の存在構造に「多対多」と 「一対多」の 2 パターンを指摘できる. 10 世紀以降の「普遍の定義」は,「常住性」,「単一性」,「多くのものに内属す 伴の理解の原因であること」に論理的欠陥を指摘する6 ).「随伴の理解」 (anuvṛttipratyaya)とは,例えば,個物 a と個物 b に対して普遍である馬性(aśvatva) が随伴していることの認識・理解である.そして,それは「a は馬である」,「b は 馬である」という繰り返される認識である7) 普遍以外の原因に関しては,例えば,PDhS の現存最古の注釈書,ヴィヨーマ シヴァ(ca. 900–960)の『ヴィヨーマヴァティー』(以下 Vy)は「料理人である」や 「普遍である」という認識を例示する8).そして,「A 氏は料理人である」という 認識の原因に料理行為(pacikriyā)など9)を挙げる.つまり,料理行為という運動 (karman)が随伴の理解の原因となるため10),「随伴の理解の原因であること」を 含む「普遍の定義」は運動に逸脱してしまう.このような過大適用という論理的 欠陥を回避するため11),ヴィヨーマシヴァ以降(10 世紀以降),普遍の定義から 「随伴の理解の原因であること」が欠落し,「普遍は常住であり,単一であり,多 くのものに内属する」へと変化したと先行研究は結論付ける12)

過大適用回避説の問題点

「随伴の理解の原因であること」の定義からの欠落は文献上確認できる「事実」 である.先行研究は,その事実を説明する上で「論理的欠陥に由来する」という 仮説を立てる.つまり,普遍以外のものに逸脱する過大適用を回避するために, 普遍の定義から「随伴の理解の原因であること」は欠落するに至ったとする仮説 である13).なお,前章で確認したように,ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の文 献には過大適用に関する記述はあるが,それ故に「随伴の理解の原因であること」 を定義から削除するという記述はない.過大適用回避説は,あくまでも研究者の 仮説である14) では過大適用を根拠に「随伴の理解の原因であること」という定義項が普遍の 定義から欠落するに至ったとする仮説は妥当であろうか.10 世紀以降,同学派で 一般的となる普遍の定義は三つの定義項から構成される.しかし,三つの定義項 の各々が過大適用を免れている訳ではない.例えば,「常住性」は原子(paramāṇu)

や究極の特殊(antyaviśeṣa)に,「単一性」は内属関係(samavāya)や空間(ākāśa)

に,「多くのものに内属すること」は結合関係(saṃyoga)や 2(dvitva)以上の数

(saṃkhyā)に,それぞれ過大適用を起こす15).つまり,過大適用の回避を根拠に

して「随伴の理解の原因であること」の欠落を想定するならば,同様に過大適用 が指摘される「常住性」などの定義項が欠落してもよいはずである.あるいは「随

(4)

この点については平野 2002 参照.

 3)Vy 及び Nyāyakandalī に拠れば,svaviṣayasarvagata は普遍遍在説の否定を意図してい る.平野 2002, 2–3 参照.

 4)PDhS, p. 81, no. 361: svaviṣayasarvagatam abhinnātmakam anekavṛtti ekadvibahuṣv ātmasvarū-pānugamapratyayakāri svarūpābhedenādhāreṣu prabandhena vartamānam anuvṛttipratyaya-kāraṇam.

 5)「随伴の理解」の原因が必ずしも普遍だけではないことはすでにウッディヨータカラ (ca. 550–610)が指摘している.Shastri (1964) 1976, 327,Dravid (1972) 2001, 14,竹中 1983, 519 参照.なお,プラシャスタパーダによる指摘に関しては,本稿注 17 及び平野 2002, 9–10 参照.

 6)Shastri (1964) 1976, 319,Dravid (1972) 2001, 14,竹中 1983, 519–520 参照.

 7)anuvṛttipratyaya を Genitive Tatpuruṣa と理解する.また,anugataṃ jñānaṃ(Vy, vol. I, p. 23, 23; Vy, vol. II, p. 282, 4)や anugatā buddhiḥ(Vy, vol. I, p. 40, 23)という言及を踏ま え,anugatajñāna(随伴した認識)を Karmadhāraya と理解する.pratyaya-anuvṛtti(認識 の随伴)は Genitive Tatpuruṣa と理解する.anuvṛttipratyaya などの術語の説明に関して は,村上 1997, 310, n. 9 参照.

 8)Vy, vol. II, p. 279, 12–13.「そして,『普遍である』『普遍である』という随伴した認識 はこの場合も,単一そして常住であり,多くの所に内属する[という普遍の特徴]が 原因である」(yac cedaṃ sāmānyaṃ sāmānyam ity anugatajñānam atrāpy ekatve nityatve saty anekatra samavāyo nimittam.)平野 1998, 83 参照.

 9)Vy, vol. II, p. 279, 5–7.「詳しく説明すると,『料理人である』という認識については料 理行為が原因である.あるいは,それ(料理行為)に熟達した者であることが[原因] である.それ(料理行為に熟達した者であること)が[A 氏に]あるならば,[A 氏が 料理]行為をやめた場合でも,[A 氏に対して]『料理人』という言語使用があるから で あ る .」( tathā hi pācaka iti jñāne pacikriyā nimittam, tadabhijñatā vā, tatsadbhāve kriyoparame ’pi pācaka iti vyavahārāt.)tadabhijñatā が A 氏以外に存する場合の別様な解 釈に関しては,平野 2002, 10 参照.

10)Pramāṇavārttika や Tattvasaṃgraha には「料理行為の普遍」(pacanakarmajāti),「料理 人 性 」( pācakatva ),「 料 理 を 行 わ し め る 能 力 」( śakti ),「 料 理 行 為 の 主 要 手 段 」 (pacanakriyāyāṃ pradhānaṃ sādhanam)を原因とした議論が言及されている.竹中 1983,

518 参照. 11) 竹中(1983, 519)は定義変容の原因に仏教論者からの批判の影響を指摘する. 12)ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ史上,三つの定義項から成る定義の創始を竹中(1983, 517)はウダヤナ(ca. 1050–1100)に,平野(1998)はヴィヨーマシヴァ(ca. 900–960) に帰する. 13)Shastri (1964) 1976, 319–331,Dravid (1972) 2001, 15 参照.竹中(1983, 518)は次のよ うに言及する.「…普遍を随伴観念の原因とし,それに基づいて普遍の実在を論証する 立場は一応否定されたことになる.従って,論理的欠陥を含む〈随伴観念の原因であ ること〉を普遍の規定として主張することが困難となり,後期になるとより正確な定 義を与えるためにこの規定が普遍の定義から削除されたのではないかという結論を得 ること」から成る.このうちの「単一性」と「多くのものに内属すること」の定 義項によって,普遍が「一対多の存在構造」にあることが示されることになり, 随伴の理解を生起することが暗示される.この点を踏まえ,「普遍の定義」から 「随伴の理解の原因であること」が欠落した事実に対する説明として,定義の簡潔 さ(lāghava)を目指した結果であると考えることが可能となる20) なお,「単一性」と「多くのものに内属すること」によって「随伴の理解の原因 であること」を示すことが可能とはいえ,10 世紀以降の普遍の定義(「普遍は常住 であり,単一であり,多くのものに内属する」)と「普遍は常住であり,随伴の理解の 原因である」という定義は同値とはならない.随伴の理解は「多対多の存在構造」 にある原因からも生起するため,後者の定義では普遍(例えば牛性)の多数性も示 唆されることになるからである.すなわち,両定義には普遍の数に関する不一致 が生じ,同値とはならない.

結論

ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の「普遍の定義」から「随伴の理解の原因で あること」が欠落したことに関して,先行研究が示した「過大適用回避説」は根 拠が薄弱である.欠落後の定義を構成する「常住性」,「単一性」,「多くのものに 内属すること」にも普遍以外のものへの過大適用が指摘できるからである. 以上,「随伴の理解の原因であること」の欠落理由と,10 世紀以降の同学派で 一般的となる「普遍の定義」の意義に関して,以下の仮説を提示したい.「単一 性」と「多くのものに内属すること」という二つの定義項の併記をもって,普遍 が「随伴の理解の原因であること」を示すことが可能である.従って,10 世紀以 降の定義に「随伴の理解の原因であること」を含めたならば,意味上の重複をも たらす.定義の「簡潔さ」のために「随伴の理解の原因であること」は欠落する に至った.そして,新たな定義の意義に,簡潔な形をもって普遍が随伴の理解の 一原因であることを示すことに成功している点が挙げられる.  1)本稿での論者の年代は Potter([1977]1995, 9–12)に拠る.  2)PDhS が示す「普遍の定義」の「範囲」は明瞭ではない.先行研究(Dravid[1972] 2001, 14,竹中 1983, 520–521)は本文中に引用した全範囲を「普遍の定義」と見なして いる.なお,PDhS の注釈書に依拠して諸定義項の意味上の重複を考慮した場合,「普 遍は自身の領域の全体に存在し,無区別なる本性を有し,多数のものに存在する」と いう冒頭の三つの定義項をもって「普遍の定義」の全体の意味を覆うことができる.

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この点については平野 2002 参照.

 3)Vy 及び Nyāyakandalī に拠れば,svaviṣayasarvagata は普遍遍在説の否定を意図してい る.平野 2002, 2–3 参照.

 4)PDhS, p. 81, no. 361: svaviṣayasarvagatam abhinnātmakam anekavṛtti ekadvibahuṣv ātmasvarū-pānugamapratyayakāri svarūpābhedenādhāreṣu prabandhena vartamānam anuvṛttipratyaya-kāraṇam.

 5)「随伴の理解」の原因が必ずしも普遍だけではないことはすでにウッディヨータカラ (ca. 550–610)が指摘している.Shastri (1964) 1976, 327,Dravid (1972) 2001, 14,竹中 1983, 519 参照.なお,プラシャスタパーダによる指摘に関しては,本稿注 17 及び平野 2002, 9–10 参照.

 6)Shastri (1964) 1976, 319,Dravid (1972) 2001, 14,竹中 1983, 519–520 参照.

 7)anuvṛttipratyaya を Genitive Tatpuruṣa と理解する.また,anugataṃ jñānaṃ(Vy, vol. I, p. 23, 23; Vy, vol. II, p. 282, 4)や anugatā buddhiḥ(Vy, vol. I, p. 40, 23)という言及を踏ま え,anugatajñāna(随伴した認識)を Karmadhāraya と理解する.pratyaya-anuvṛtti(認識 の随伴)は Genitive Tatpuruṣa と理解する.anuvṛttipratyaya などの術語の説明に関して は,村上 1997, 310, n. 9 参照.

 8)Vy, vol. II, p. 279, 12–13.「そして,『普遍である』『普遍である』という随伴した認識 はこの場合も,単一そして常住であり,多くの所に内属する[という普遍の特徴]が 原因である」(yac cedaṃ sāmānyaṃ sāmānyam ity anugatajñānam atrāpy ekatve nityatve saty anekatra samavāyo nimittam.)平野 1998, 83 参照.

 9)Vy, vol. II, p. 279, 5–7.「詳しく説明すると,『料理人である』という認識については料 理行為が原因である.あるいは,それ(料理行為)に熟達した者であることが[原因] である.それ(料理行為に熟達した者であること)が[A 氏に]あるならば,[A 氏が 料理]行為をやめた場合でも,[A 氏に対して]『料理人』という言語使用があるから で あ る .」( tathā hi pācaka iti jñāne pacikriyā nimittam, tadabhijñatā vā, tatsadbhāve kriyoparame ’pi pācaka iti vyavahārāt.)tadabhijñatā が A 氏以外に存する場合の別様な解 釈に関しては,平野 2002, 10 参照.

10)Pramāṇavārttika や Tattvasaṃgraha には「料理行為の普遍」(pacanakarmajāti),「料理 人 性 」( pācakatva ),「 料 理 を 行 わ し め る 能 力 」( śakti ),「 料 理 行 為 の 主 要 手 段 」 (pacanakriyāyāṃ pradhānaṃ sādhanam)を原因とした議論が言及されている.竹中 1983,

518 参照. 11) 竹中(1983, 519)は定義変容の原因に仏教論者からの批判の影響を指摘する. 12)ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ史上,三つの定義項から成る定義の創始を竹中(1983, 517)はウダヤナ(ca. 1050–1100)に,平野(1998)はヴィヨーマシヴァ(ca. 900–960) に帰する. 13)Shastri (1964) 1976, 319–331,Dravid (1972) 2001, 15 参照.竹中(1983, 518)は次のよ うに言及する.「…普遍を随伴観念の原因とし,それに基づいて普遍の実在を論証する 立場は一応否定されたことになる.従って,論理的欠陥を含む〈随伴観念の原因であ ること〉を普遍の規定として主張することが困難となり,後期になるとより正確な定 義を与えるためにこの規定が普遍の定義から削除されたのではないかという結論を得 ること」から成る.このうちの「単一性」と「多くのものに内属すること」の定 義項によって,普遍が「一対多の存在構造」にあることが示されることになり, 随伴の理解を生起することが暗示される.この点を踏まえ,「普遍の定義」から 「随伴の理解の原因であること」が欠落した事実に対する説明として,定義の簡潔 さ(lāghava)を目指した結果であると考えることが可能となる20) なお,「単一性」と「多くのものに内属すること」によって「随伴の理解の原因 であること」を示すことが可能とはいえ,10 世紀以降の普遍の定義(「普遍は常住 であり,単一であり,多くのものに内属する」)と「普遍は常住であり,随伴の理解の 原因である」という定義は同値とはならない.随伴の理解は「多対多の存在構造」 にある原因からも生起するため,後者の定義では普遍(例えば牛性)の多数性も示 唆されることになるからである.すなわち,両定義には普遍の数に関する不一致 が生じ,同値とはならない.

結論

ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の「普遍の定義」から「随伴の理解の原因で あること」が欠落したことに関して,先行研究が示した「過大適用回避説」は根 拠が薄弱である.欠落後の定義を構成する「常住性」,「単一性」,「多くのものに 内属すること」にも普遍以外のものへの過大適用が指摘できるからである. 以上,「随伴の理解の原因であること」の欠落理由と,10 世紀以降の同学派で 一般的となる「普遍の定義」の意義に関して,以下の仮説を提示したい.「単一 性」と「多くのものに内属すること」という二つの定義項の併記をもって,普遍 が「随伴の理解の原因であること」を示すことが可能である.従って,10 世紀以 降の定義に「随伴の理解の原因であること」を含めたならば,意味上の重複をも たらす.定義の「簡潔さ」のために「随伴の理解の原因であること」は欠落する に至った.そして,新たな定義の意義に,簡潔な形をもって普遍が随伴の理解の 一原因であることを示すことに成功している点が挙げられる.  1)本稿での論者の年代は Potter([1977]1995, 9–12)に拠る.  2)PDhS が示す「普遍の定義」の「範囲」は明瞭ではない.先行研究(Dravid[1972] 2001, 14,竹中 1983, 520–521)は本文中に引用した全範囲を「普遍の定義」と見なして いる.なお,PDhS の注釈書に依拠して諸定義項の意味上の重複を考慮した場合,「普 遍は自身の領域の全体に存在し,無区別なる本性を有し,多数のものに存在する」と いう冒頭の三つの定義項をもって「普遍の定義」の全体の意味を覆うことができる.

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Shastri, Dharmendra Nath. (1964) 1976. The Philosophy of Nyāya-Vaiśeṣika and Its Conflict with

the Buddhist Dignāga School: Critique of Indian Realism. Reprint, Delhi: Bharatiya Vidya

Prakashan. 宇野惇 1996『インド論理学』法蔵館. 竹中智泰 1983「Nyāya-Vaiśeṣika 学派の普遍の定義について」『印度学仏教学研究』31 (1): 521–516. 野武美弥子 2016「共通知の存在に基づいた普遍実在主張を巡る議論について――仏教徒 による批判の影響――」『印度学仏教学研究』64 (2): 800–795. 平野克典 1998「『ヴィヨーマヴァティー』における普遍の定義」『東海仏教』43: 88–75. ――― 2001「Padārthadharmasaṃgraha における 「共通の認識」 (anuvṛttipratyaya)をめ ぐる問題」『印度学仏教学研究』50 (1): 460–462. ――― 2002「ヴァイシェーシカ哲学における普遍の定義―― Padārthadharmasaṃgraha の 場合――」『南都仏教』82: 1–23. 村上真完 1997『インドの実在論――ヴァィシェーシカ派の認識論――』平楽寺書店. (本研究は,科学研究費補助金基盤研究(C)16K02173 の成果の一部である.) 〈キーワード〉 Nyāya-Vaiśeṣika,sāmānya,anuvṛttipratyaya,Praśastapāda (公益財団法人中村元東方研究所専任研究員,博士(文学)) 新井一光 著

ジュニャーナシュリーミトラ研究

A5 版・222 頁・本体価格 8,000 円 山喜房佛書林・2016 年 6 月 新刊紹介 るのである.」 14)この仮説に依拠した後続の研究に,例えば,平野 1998, 2002 がある. 15)Vy, vol. II, p. 269, 13–18.

16)加えて,定義一般で考えれば,定義が複数の定義項から構成されている場合,定義 項は他の定義項と連関して被定義項以外への逸脱を回避する.一つの定義項が他に逸 脱することをもって論理的欠陥とすることは適切ではない.

17)PDhS, p. 81, no. 363: yathā parasparaviśiṣṭeṣu carmavastrakambalādiṣv ekasmān nīladravyā-bhisambandhān nīlaṃ nīlam iti pratyayānuvṛttiḥ, . . . .

18)皮と衣のそれぞれに存する個々の色に対する「青色である」という随伴の理解は, 普遍である青性によって生起する.平野 2002, 10 参照. 19)杖を有する人(daṇḍin)に対する「x は杖を持つ人である」「y は杖を持つ人である」 という随伴の理解は,一本一本の杖(実体)が一人一人の人(実体)と結合関係で結 び付き生起する,「多対多の存在構造」にある原因(杖)に基づく理解である.また, 個々別々の杖に対して発生する「p は杖である」「q は杖である」という随伴の理解の 原因は,普遍である杖性であり,「一対多の存在構造」にある.Vy, vol. II, p. 279, 7–11: evaṃ daṇḍīti jñāne daṇḍo nimittam, . . . daṇḍādes tu parasparaṃ vilakṣaṇatvād jñānotpattau ekam abhinnaṃ nimittam upagrāhakam abhyupagantavyam. anyathā hy anugata-jñānājanakatvam eva syāt. ato daṇḍeṣu daṇḍatvam, . . . iti vācyam.

20)野武(2016, 797)は三つの定義項から成る「普遍の定義」の意義に upādhi との区別 を述べているが,ウダヤナが jātibhādaka として述べた vyaktyabheda と asambandha 以外 の残り四つに該当する upādhi が,三つの定義項のいずれによって排除されるのか不明 である.jātibhādaka に関しては,宇野 1996, 232–234 参照.

〈略号〉

PDhS Padārthadharmasaṃgraha of Praśastapāda. In Bronkhorst and Ramseier 1994.

Vy Vyomavatī of Vyomaśivācārya. Ed. Gaurinath Sastri. 2 vols. M. M.

Śivakumāraśāstri-granthamālā 6. Varanasi: Sampurnanand Sanskrit University, 1983, 1984. 〈参考文献〉

Bronkhorst, Johannes, and Yves Ramseier. 1994. Word Index to the Praśastapādabhāṣya: A

Complete Word Index to the Printed Editions of the Praśastapādabhāṣya. Delhi: Motilal

Banarsidass.

Dravid, Raja Ram. (1972) 2001. The Problem of Universals in Indian Philosophy. 2nd revised ed. Delhi: Motilal Banarsidass.

Halbfass, Wilhelm. (1992) 1993. On Being and What There Is. 1st Indian ed. Sri Garib Dass Oriental Series 168. Delhi: Sri Satguru Publications.

Potter, Karl H., ed. (1977) 1995. Encyclopedia of Indian Philosophies. Vol. 2, Indian Metaphysics

and Epistemology: The Tradition of Nyāya-Vaiśeṣika up to Gaṅgeśa. Reprint, Delhi: Motilal

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Shastri, Dharmendra Nath. (1964) 1976. The Philosophy of Nyāya-Vaiśeṣika and Its Conflict with

the Buddhist Dignāga School: Critique of Indian Realism. Reprint, Delhi: Bharatiya Vidya

Prakashan. 宇野惇 1996『インド論理学』法蔵館. 竹中智泰 1983「Nyāya-Vaiśeṣika 学派の普遍の定義について」『印度学仏教学研究』31 (1): 521–516. 野武美弥子 2016「共通知の存在に基づいた普遍実在主張を巡る議論について――仏教徒 による批判の影響――」『印度学仏教学研究』64 (2): 800–795. 平野克典 1998「『ヴィヨーマヴァティー』における普遍の定義」『東海仏教』43: 88–75. ――― 2001「Padārthadharmasaṃgraha における 「共通の認識」 (anuvṛttipratyaya)をめ ぐる問題」『印度学仏教学研究』50 (1): 460–462. ――― 2002「ヴァイシェーシカ哲学における普遍の定義―― Padārthadharmasaṃgraha の 場合――」『南都仏教』82: 1–23. 村上真完 1997『インドの実在論――ヴァィシェーシカ派の認識論――』平楽寺書店. (本研究は,科学研究費補助金基盤研究(C)16K02173 の成果の一部である.) 〈キーワード〉 Nyāya-Vaiśeṣika,sāmānya,anuvṛttipratyaya,Praśastapāda (公益財団法人中村元東方研究所専任研究員,博士(文学)) 新井一光 著

ジュニャーナシュリーミトラ研究

A5 版・222 頁・本体価格 8,000 円 山喜房佛書林・2016 年 6 月 新刊紹介 るのである.」 14)この仮説に依拠した後続の研究に,例えば,平野 1998, 2002 がある. 15)Vy, vol. II, p. 269, 13–18.

16)加えて,定義一般で考えれば,定義が複数の定義項から構成されている場合,定義 項は他の定義項と連関して被定義項以外への逸脱を回避する.一つの定義項が他に逸 脱することをもって論理的欠陥とすることは適切ではない.

17)PDhS, p. 81, no. 363: yathā parasparaviśiṣṭeṣu carmavastrakambalādiṣv ekasmān nīladravyā-bhisambandhān nīlaṃ nīlam iti pratyayānuvṛttiḥ, . . . .

18)皮と衣のそれぞれに存する個々の色に対する「青色である」という随伴の理解は, 普遍である青性によって生起する.平野 2002, 10 参照. 19)杖を有する人(daṇḍin)に対する「x は杖を持つ人である」「y は杖を持つ人である」 という随伴の理解は,一本一本の杖(実体)が一人一人の人(実体)と結合関係で結 び付き生起する,「多対多の存在構造」にある原因(杖)に基づく理解である.また, 個々別々の杖に対して発生する「p は杖である」「q は杖である」という随伴の理解の 原因は,普遍である杖性であり,「一対多の存在構造」にある.Vy, vol. II, p. 279, 7–11: evaṃ daṇḍīti jñāne daṇḍo nimittam, . . . daṇḍādes tu parasparaṃ vilakṣaṇatvād jñānotpattau ekam abhinnaṃ nimittam upagrāhakam abhyupagantavyam. anyathā hy anugata-jñānājanakatvam eva syāt. ato daṇḍeṣu daṇḍatvam, . . . iti vācyam.

20)野武(2016, 797)は三つの定義項から成る「普遍の定義」の意義に upādhi との区別 を述べているが,ウダヤナが jātibhādaka として述べた vyaktyabheda と asambandha 以外 の残り四つに該当する upādhi が,三つの定義項のいずれによって排除されるのか不明 である.jātibhādaka に関しては,宇野 1996, 232–234 参照.

〈略号〉

PDhS Padārthadharmasaṃgraha of Praśastapāda. In Bronkhorst and Ramseier 1994.

Vy Vyomavatī of Vyomaśivācārya. Ed. Gaurinath Sastri. 2 vols. M. M.

Śivakumāraśāstri-granthamālā 6. Varanasi: Sampurnanand Sanskrit University, 1983, 1984. 〈参考文献〉

Bronkhorst, Johannes, and Yves Ramseier. 1994. Word Index to the Praśastapādabhāṣya: A

Complete Word Index to the Printed Editions of the Praśastapādabhāṣya. Delhi: Motilal

Banarsidass.

Dravid, Raja Ram. (1972) 2001. The Problem of Universals in Indian Philosophy. 2nd revised ed. Delhi: Motilal Banarsidass.

Halbfass, Wilhelm. (1992) 1993. On Being and What There Is. 1st Indian ed. Sri Garib Dass Oriental Series 168. Delhi: Sri Satguru Publications.

Potter, Karl H., ed. (1977) 1995. Encyclopedia of Indian Philosophies. Vol. 2, Indian Metaphysics

and Epistemology: The Tradition of Nyāya-Vaiśeṣika up to Gaṅgeśa. Reprint, Delhi: Motilal

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