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第一章 国家責任条文における国際違法行為責任の要素

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(1)

論 説

国家責任法における違法性判断の特質

⎜ 「相当の注意」概念を素材として⎜

萬 歳 寛 之

序 問題の所在

第一章 国家責任条文における国際違法行為責任の要素 第一節 国際違法行為の成立要件

第二節 国家責任条文に対する学説上の批判 第二章 国家責任法における人格要素

第一節 過失責任の基礎としての責任能力 第二節 「相当の注意」義務の淵源としての国家性 第三章 「相当の注意」義務の適用基盤の再構成

第一節 「相当の注意」義務をめぐる法律関係の特質 第二節 適用法規としての「相当の注意」義務の特質 第四章 国際法における違法性判断の特質

第一節 国際裁判における「相当の注意」義務違反の認定 第二節 国際義務違反の構成要素の多様性

第五章 結論

序 問題の所在

国際法上の国家責任法は、あらゆる国際義務の違反に対応する一般的規 則として、国際法の執行過程の中核を担う慣習国際法上の紛争処理規範と 位置づけられてきた。しかし、責任の態様に関する理解は一様ではない。(1) 国家責任法の性格規定の困難さは、国際司法裁判所のジェノサイド条約

(2)

適用事件(本案、2007年)の「義務違反から生ずる国家の責任は、……国 際法上の責任である」という言明にもあらわれている。この言明は、国家(2) の刑事責任を否定する文脈で述べられたとはいえ、国家責任とは「国際法 上の責任」と述べるだけでは何も説明していないのと同じである。しかし ながら、後段において裁判所は「被告の義務の不遵守が認定されたので、

賠償(reparation)の問題に移る」と述べていることからも、実質的には(3)

「国際法上の責任」を賠償責任と解しているといえる。このような国家責(4) 任法の性格規定は「約定の違反が、適当な形式で賠償をなすべき義務を伴 うことは国際法の原則である」と述べた常設国際司法裁判所のホルジョウ 工場事件(賠償・管轄権、1927年)以来、国際判例上一貫して認められて きた見解でもある。(5)

このような見解は、国際法の違反と賠償責任の関係は、紛争当事国の合

(1) 田畑茂二郎『国際法』(岩波書店、1956年)311頁。I. Brownlie, “Interna- tional Law  at the Fiftieth Anniversary of the United Nations:General Course on Public International Law”,Recueil des cours, Tome  225(1995), p.90.

(2) Case concerning the Application of the Convention on the Prevention and Punishment of the Crime of Genocide (Bosnia and Herzegovina v. Serbia and  Montenegro), Judgment of26February 2007, General List No.91, p.64, para.

170.

(3) Ibid., p.163, para.459.

(4) 本稿では「賠償」を国際司法裁判所規程第36条2項(d)「国際義務の違反に 対する賠償の性質又は範囲」の用語法にならい、国際義務の違反により責任国に発 生する責任解除義務の総称的表現として用いていくことにする。国家責任条文は、

被害の発生の有無に応じて、第30条で違法行為の中止や再発防止を、第31条で被害 に対する賠償の義務を定めている。それゆえ、国家責任条文第30条に関わる紛争 が、裁判所規程第36条2項(d)の「賠償」の対象となるか否かが問題となる。こ の点について、国際司法裁判所のラ・グラン事件(2001年)において、米国は、再 発防止は裁判所規程の「賠償」とは概念上異なる問題との主張を行ったが、裁判所 は本件に関する管轄権を認め、米国による領事関係条約違反を理由に、ドイツに対 して再発防止を約束すべきことを判示している。I.C.J. Reports 2001, pp.484‑485, paras.46‑48, pp.512‑513, para.124.

(5) P.C.I.J. Series A, No.9, p.21. 90

(3)

意によって「創設」されるのではなく、当該違反により必然的・自動的に

「発生」するものとの理解にもとづく。しかし、賠償責任の根拠とされる(6)

「違反」をめぐっては、学説上、客観的に国際法上の義務の要請と現実の 国家の行動との間に存在する齟齬を「違反」と観念する客観責任主義と、

特別の事情の下で国家が裁量にもとづいてとった措置の妥当性の欠如を

「違反」と観念する過失責任主義とが対立してきた。(7)

国連国際法委員会の「国際違法行為に対する国家の責任に関する条文

(2001年、以下、国家責任条文)」は客観責任主義を採用しつつ、国際義務の 要請と現実の国家の行為との間の不一致が存在すれば自動的に国家責任が 発生するとの立場をとっている。約40年に及ぶ国際法委員会での議論は、(8) 国家責任に関する国家実行、国際判例、学説の発展の方向性を規定するな ど、これまで与えてきた影響は大きい。しかしながら、国連総会は、国家 責任条文に留意したのみで、いまだ条約化を含めた今後の取り扱いについ て態度決定をしていない。こうした国連総会の態度は、国家責任条文全体 を法規範として受け入れることに対する諸国の逡巡を反映している。この(9) 逡巡の背景には、規範と行為との間の客観的な不一致が存在すれば自動的 に賠償責任が発生するという国家責任条文の先験的措定に対する懸念が

(10)

ある。

確かに、国家実行をみてみると、たとえば環境条約の場合、財政的・技 術的基盤の脆弱な途上国が条約上の義務を履行できないとしても、締約国

(6) P. dʼArgent, Les reparations de guerre en droit international public: la responsabilite internationale des États a lʼ  epreuve de la guerre(2002), p.753.

(7) たとえば、西村弓「国家責任法における違法性の根拠」『上智法学論集』第43 巻4号(2000年)37‑38頁。

(8) J.Crawford,The International Law Commissionʼs Articles on State Respon- sibility: Introduction, Text and Commentaries(2002), pp.12‑14.

(9) “State Responsibility:Comments and Observations Received from Govern- ments”, UN  Doc. A/CN.4/515, pp.13‑14.

(10) 大沼保昭『国際法⎜はじめて学ぶ人のための』(東信堂、2008年)201‑202頁。

91

(4)

は当該途上国の国家責任の追及により問題を解決しているわけではない。

また、国際法の発展状況に照らしても、国際法は未だ、慣習国際法や条約 が規律する事態が発生しないよう「相当の注意」(due diligence)をもって 防止すべき義務を国家に課すにとどまり、防止措置に関する国家の裁量を 広く認めているものが多い。このような国家実行や現行法の状況を考えて みると、国家の履行能力や事案の特殊事情を勘案せずに、規範と行為の不 一致のみで国家責任が発生するとする国家責任条文の論理体系は、現実の 国際社会や国際法の発展状況から乖離してしまっている可能性がある。

実際、伝統的国家責任法の下では、責任主体は文明国に限られ、この文 明国基準を前提として騒擾や暴動などにおける国家の「相当の注意」の程 度が問題とされていたことに鑑みれば、国家責任の認定にあたって国家の 履行能力と事案の特殊事情は理論上密接不可分のものとみなされていた点 には注意が必要である。このように、伝統的国家責任法は国家責任条文と は対照的な論理体系を有していたといえるが、国家責任条文の先験的措定 の適切性を判断するためにも、伝統的国家責任法から国家責任条文にかけ て、いかなる理由により方法論上の転換がなされたのか、その歴史的背景 を含めて包括的に再検討していく必要がある。

本稿では、このような問題意識に立脚して、多くの国家責任法事案にお いて適用されてきた「相当の注意」概念を検討の素材としつつ、まずは、

国家の履行能力を考慮に入れずに国家責任の認定が可能であるのか否かを 考察し、そのうえで、国際判例における推論過程から国際義務の「違反」

の構成要素を抽出することにより国家責任法における違法性判断の特質を 明らかにしていきたいと思う。

第一章 国家責任条文における国際違法行為責任の要素

国家責任条文は、国際法規範を、国家に一定の作為又は不作為を命じる 義務(第一次的規則)と当該義務の違反・不履行の効果を定める規則(第

92

(5)

二 次 的 規 則)とに分類し、「責任のすべ て を、そ し て 責 任 だ け を」(the

 

whole of responsibility and nothing but responsibility

)という命題のもとで、(11) 国家責任法の法典化作業をもっぱら後者に限定する方法論を採用してい る。そして、国家責任条文は、国際違法行為責任の成立要件を帰属と義務 違反に絞り、帰属については第二次的規則が、義務違反については第一次 的規則が問題となるとし、それぞれで国家責任法の果たすべき役割も異な るとの立場をとっている。このような方法論の問題点を検討するために、

本章では、国家責任条文の論理構成を概観したうえで、この論理構成に対 する学説上の批判を検討していく。

第一節 国際違法行為の成立要件

本節では、国家責任条文における責任主体の問題と事案ごとの特殊事情 の位置づけを検討していく。

(一)行為の国家への帰属

チェンは、「帰属とは国家責任の概念における基本的な観念であり、根 本的には国際法における国家の法的概念と関連している」と述べる。佐古(12) 田彰は帰属と国家の法的概念がとくに関連する理由について、「国家は法 人つまり抽象的実体であって自ら肉体を備えないため、物理的行為を行う ことはできない。そのため、いかなる者の行為が国家の行為とみなされる のかを決定する必要がある」と指摘する。しかし国家責任条文は、国家を(13)

「真の組織化された統一体、すなわち国際法の下で行動する充全な権能を 備えた法人格者」と定義するのみで、国家を一律に扱い、責任主体として(14)

(11) Yearbook of the International Law  Commission, 1973,Vol.II,pp.169‑170, para.40(Introduction).Ibid.,1963, Vol. II, p.253.

(12) B. Cheng,General Principles of Law  as Applied  by International Courts and Tribunals(1953), p.181.  

(13) 佐古田彰「国家責任論における『行為』の法的性質」『早稲田大学大学院法研 論集』第68号(1994年)30頁。

(14) Yearbook of the International Law  Commission, 2001,Vol.II,Part2,p.35, 93

(6)

の国家の性格に踏み込んだ考察を行っていない。つまり、国家責任条文 は、帰属の規則を第二次的規則と位置づけ、国家性の議論を主体論にゆだ ねるかたちで、一定の人や実体の行為が国家の行為とみなされる条件のみ を検討する立場をとっているのである。(15)

他方、特定の事件における特殊事情については、国家責任条文上、帰属 判断の段階で問題になるとされている。たとえば、不作為の場合を取り上 げて下記のように述べる。(16)

「『不 作 為』を 責 任 の 決 定 に 関 連 の あ る 周 辺 事 情(surrounding   circum-

stances

)から切り離すのが難しいことがある。たとえばコルフ海峡事件で、

国際司法裁判所は、アルバニアが自国領水内の機雷の存在を知っていた、

あるいは知っていたはずであり、その存在について第三国に警告するため に何もしなかったということは、アルバニアの責任の十分な基礎になると 判示した。在テヘラン米国外交・領事職員事件では、同裁判所は、イラン の責任は、適当な措置が明らかに求められている状況のなかで、『適当な措 置を執らなかった』イラン当局の『不活動』(inaction)によって発生する と結論づけた。」

このように国家責任条文は、国家に帰属させるべき不作為的行為の範囲 は国家が行動しなかったという事実だけでなく、事情の認識や事態の緊急 性などの周辺事情も勘案したうえで特定されるとの考えを示している。国 家に帰属させるべき行為は個別の事案における違法性判断の対象である以 上、帰属判断の段階で国家責任法上の非難可能性の有無を勘案して当該行 為を絞り込むとの考えには一定の合理性はある。ただし国家責任条文は、(17) この周辺事情を責任の決定にとって関連があると述べるのみで、これらの

para.5(Article2).

(15) 国家責任条文は、この条件を第1部第2章(第4条から第11条)において規定 し、これらの類型が慣習法上の原則であるとの立場をとる。Ibid., p.39, para.9 (Article4).

(16) Ibid., p.35, para.4(Article2).

(17) 佐古田は、帰属判断の段階では、行為が国家の行為とみなされるべきかどうか の判断しか行われないものと考えるべきであり、帰属判断は全くの価値中立的な判 断であるとしている。佐古田「前掲論文」注(13)44‑45頁。

94

(7)

関連要素をどのように規範的に評価するのかについては詳細に述べておら ず、その立場を確定することはできない。

(二)国際義務違反の認定

国家責任条文によれば、国際違法行為の本質(essence)は、義務違反、

すなわち、現実の国家の行為と特定の国際義務を遵守するために国家が採 用すべきであった行為との不一致(non‑

conformity

)にあるとされ、下記 のように定義されている。(18)

第12条

国家による国際義務の違反が存在するのは、義務の淵源や性格を問わず、

当該国家の行為が国際義務により当該国家に対して要求されるところと合 致しない場合である。

国家責任条文上、義務違反の認定は、基本的に第一次的規則の解釈・適 用の問題であり、国家責任法の役割は義務違反の観念に関する一般的条件 を述べるにとどまるとされている。(19)

このような形式論にもかかわらず、「義務違反の存在の有無や時点は、

義務の詳細な条件、すなわち、義務の趣旨および目的と事案の事実を勘案 した当該義務の解釈・適用に依拠している」と述べ、前述の周辺事情を事(20) 案の事実として、義務違反の文脈でも実質的には考慮するかにみえる。ま た、国家責任条文が、「規則の違反」ないし「規範の違反」とせず、「義務 の違反」とした趣旨も、特定の事件において国家が実際に行動した状況を 勘案して、国家が遵守すべきであった基準や達成すべきであった結果を判 断することに主眼があるからであると述べている。しかし、①国際義務の(21) 要請と②現実の国家の行動との「不一致」という違法性判断の際に考慮に 入れるべき事案の事実は、②との関係で問題とされるとの考え方が示され (18) Yearbook of the International Law  Commission, 2001,Vol.II,Part2,p.54,

para.3(Introduction to Chapter III).

(19) Ibid., p.54, para.1(Introduction to Chapter III). (20) Ibid., p.54, para.1(Article12).

(21) Ibid.,p.36,para.13(Article2),p.54,para2(Introduction to Chapter III). 95

(8)

ている。つまり、事案の事実という周辺事情は帰属判断の段階の考慮要因(22) とすることで、国家責任条文は、あくまで義務違反の認定は第一次的規則 の解釈・適用の問題であるとの立場を堅持しているのである。

このような立場は過失に対する態度にも影響している。まず国家責任条 文は、過失を「害を与える意図の存在」と定義する。そして同条文は、意 図とは独立した国家の「行為」に着目するものであるから、第一次的規則 がとくに心理的要素を要件として掲げている場合を除き、過失は国際違法 行為の不可欠の要素とはみなされないことになる。(23)

このようなかたちで、過失を心理的要素として違法行為責任の一般理論 から排除することは、個別・具体的な状況の下で判断される不定型な要因 を国家責任の発生に関わる考慮要因から排除する国家責任条文の立場から すると、論理一貫した態度といえる。(24)

このように国家責任条文はあくまで、国際義務違反の認定にあたり、国 家の履行能力や特定の事態における履行の期待可能性などの検討は、第一 次的規則の解釈・適用の問題であり、国家責任法独自の任務ではないと考 えているのである。

第二節 国家責任条文に対する学説上の批判

国際違法行為の本質は義務違反にあるとしながらも、義務違反の認定を 第一次的規則の解釈・適用の問題とする国家責任条文の論理には「致命的 な思考の放棄」がみられるという評価がなされるなど、とりわけ違法性判(25) 断に関する国家責任条文の論理には批判が多い。わが国でも、国家責任法 事案において多くの適用をみてきた「相当の注意」概念に注目し、国家責

(22) Ibid., p.54, para.2(Article12). (23) Ibid., p.36, para.10(Article2).

(24) 安藤仁介「国際法における国家の責任」『岩波講座基本法学5⎜責任』(岩波書 店、1984年)125‑127頁。

(25) 兼原敦子「国際違法行為責任における過失の機能」『国際法外交雑誌』第96巻 6号(1998年)45頁。

96

(9)

任条文の論理の問題性が繰り返し指摘されている。なかでも、過失責任主(26) 義の妥当する基盤の存在を主張し、客観責任主義に純化した国家責任条文 の論理体系を根幹から批判する山本草二と兼原敦子の学説は注目に値す る。

山本はまず、国有化・収用の際に問題となる公益の原則や他国の政治的 独立に対する侵略の意図などの例をあげ、国際法には国家の動機や目的を 考慮に入れた規範は少なくないと指摘する。こうした認識を背景に「個々 の場合の注意義務の相当性や、非難可能性の程度は、国家の裁量で選定さ れた措置・手段の当否とか、各国の国家機関の能力・特性などの具体的な 事情により、認定され特定されるのであって、その点で過失責任主義が妥 当する基盤を容認せざるをえない」と結論する。ここでいう過失責任主義 とは、合理的な予見可能性にもとづき国家自身の側の主観的要因に対して 法的非難を加える考え方のことをいう。山本は、国際裁判所も適用法規の 遵守の有無を判断するにあたり、国家の作為・不作為の決定にいたる意 図・動機を検討しているなかで、国家責任条文が実効的に機能できるか否 かについて疑問を呈しているのである。(27)

兼原は、国家責任の発生要件そのものについては国家責任条文を支持し ている。その一方で、「客観説が、事実のずれとして義務違反を定義する(28) 点に対する疑問」を提起し、この定義の呪縛を断ち切らない限り、国家責 任法の胎動を正しく認識することはできないとしている。兼原は、国際判(29) 例を詳細に検討し、「これらの事例では、義務内容を特定するというより もむしろ、損害の予見可能性・個別の事情において領域国に合理的に期待

(26) たとえば、薬師寺公夫「国家責任法典化作業における私人行為と国家の注意義 務⎜伝統的アプローチの軌跡⎜」『立命館法学』第286号(2002年)288‑316頁。

(27) 山本草二「国家責任成立の国際法上の基盤」『国際法外交雑誌』第93巻3・4 号(1994年)26‑27頁。

(28) 兼原敦子「法実証主義の国家責任法論の基本原理再考」『立教法学』第59号

(2001年)159頁。

(29) 兼原「前掲論文」注(25)5、18頁。

97

(10)

できる能力・領域国が実際にとりえた手段ないし措置・侵害行為に関する 領域国の了知、などを考慮することによって、領域国に相当の注意あるい は非難に値する過失(culpable negligence)がある場合に、国家責任が認 定されている」と述べる。このように兼原も山本と同様、過失の機能に注(30) 目するが、ここでいう過失は、国際違法行為成立の二要件とは別個・独立 の要件ではなく、義務違反の認定を左右する要因とされている。つまり、(31) 国家の目的や動機・行為の相当性などに照らした非難に値する過失の有無 は、義務違反の認定において不可欠の機能を果たしているが、これらの要 因は第一次的規則が個々に定めているのではなく、国家責任法独自の要因 であるとして、国家が何故問題の作為・不作為について責任という非難・

制裁を受けるのか、その理由の解明に腐心してきた過失責任論の意義を強 調するのである。それゆえ、兼原は義務違反を事実のずれとのみ定義する 国家責任条文の論理は「血と肉の通わない」形骸的論理以上のものではな いと厳しく批判するのである。(32)

国家責任条文も、山本や兼原が指摘するような主観的要因を全く検討の 対象外においているわけではない。前述のように、事情の認識や事態の緊 急性などの要因を「責任の決定に関連のある周辺事情」として責任の認定 過程における一定の位置づけを与えている。しかしこの周辺事情は、帰属 判断の段階で問題とされているのであり、山本や兼原が問題としている違 法性判断の段階ではない。国際法委員会も過失責任論からの反論を知りつ つ、2001年に最終採択した国家責任条文において、違法性判断ではなく、

帰属判断の段階に周辺事情の検討を位置づけている点に、あくまで義務違 反の認定は第一次的規則の解釈・適用の問題であるとの見解を堅持してい る姿勢をみてとることができるのである。

国家責任条文とこれを批判する学説の対立からは、周辺事情ないし主観

(30) 同上、15頁。

(31) 同上、40頁。

(32) 同上、43‑45頁。

98

(11)

的要因を国家責任の認定過程においてどのように位置づけるのか、とくに 違法性判断の考慮要因とみなすことができるのか否かに議論が集約されて いるといってよい。

その際、山本が「各国の国家機関の能力・特性」に言及するように、責(33) 任主体としての国家の性格も重要な論点になると考える。本来、過失責任 論のように特別の事情の下で国家が裁量にもとづいてとった措置の妥当性

(注意の相当性)に注目する場合、この妥当性は一定の国家の能力を前提と して判断されることになる。つまり、責任を負担すべき能力を有している にもかかわらず、特定の事態において国家が主体的に選択した措置が妥当 でなかった場合に、責任という制裁を科されることになるのである。それ(34) ゆえ、過失責任論にもとづき国家の主観的要因を国際義務違反の認定にと って不可欠の考慮要因とするのであれば、その前提である責任主体の性格 は避けて通れない論点のはずである。

以下では、国際義務違反の認定における考慮要因の問題を検討する前 に、まずは国際法上の国家責任論において責任能力の問題が取り上げられ てこなかった背景も含めて、国際法における人格要素の問題を取り上げて いくことにする。

第二章 国家責任法における人格要素

国際法の規範内容を実現するためには国家が中核的な役割を果たすもの と考えられてきたため、国際法上の責任論は「国家」の責任を中心に論じ られてきた。それゆえ、国家の履行能力は、国際法の規範内容の実現のた めの前提であると同時に、国際義務の不履行にもとづく責任の根拠ともい えるのである。本章では、国家性のいかなる要素が責任を課すための前提 的要素とみなされてきたのか、国家責任法が注目してきた責任主体の内実

(33) 山本「前掲論文」注(27)26頁。

(34) 深津栄一『国際法総論』(北樹出版、1984年)268‑269頁。

99

(12)

について検討する。

第一節 過失責任の基礎としての責任能力

国内法では刑事法・民事法を問わず、ある者が他人の法益を侵害した場 合、行為者の責任の有無を判断する際には、外形的に認識可能な侵害行為 の違法性だけでなく、行為者の責任能力と意思的側面に関わる故意・過失 も問題とされることになる。つまり、責任という制裁を科すためには、違(35) 法行為者であったとしても、行為者人格に非難可能性がなければならず、

故意・過失といった行為者の主観的要因にもとづく有責性の判断も、行為 者の人格要素を前提としているがゆえに、責任無能力者には問うことので きない「平均的一般人」という基準に従って行うことが可能になるので

(36)

ある。このように、国内法上、行為者の人格要素と過失は密接不可分の関 係にあるといえるのである。

伝統的国際法においては、完全な法主体性を有するのは「文明国」であ るとされ、領土・住民・独立の政府という要件の他に、西欧式の法制度を 備えていることが条件とされていた。この点について、1929年のハーバー(37) ド・ロースクール国際法研究会による「自国領域内で生じた外国人の身体 または財産に対する損害に関する国家責任法」条約草案の第4条は「国家 は、通常の状態において、国際法および条約上の自国の義務の履行にとっ て適切な統治組織を維持する義務を有する」と規定する。第4条の注釈に よれば、ここでいう国家の義務は、すべての国家の一般的義務であり、外

(35) 西原春夫「民事責任と刑事責任」有泉亨編『現代損害賠償法講座1:総論』

(日本評論社、1976年)52頁。加藤一郎『不法行為〔増補版〕』(法律学全集)(有斐 閣、1974年)140頁。

(36) 近江幸治『民法講義VI〔第2版〕事務管理・不当利得・不法行為』(成文堂、

2007年)155‑156頁。前田雅英『刑法総論講義〔第4版〕』(東京大学出版会、2008 年)377‑379頁。

(37) 筒井若水「現代国際法における文明の地位」『国際法外交雑誌』第66巻5号

(1968年)51頁。

100

(13)

国人の待遇に関する国家責任法にとって「必要かつ基礎となる部分」であ ると指摘している。つまり、国際義務の履行能力を有する国家のみが慣習(38) 法や条約の違反に対する責任能力を認められると観念されていたのであ る。

この責任能力の有無の判断が国家承認制度を通じて行われていたことを 指摘したのは松井芳郎である。松井は、伝統的国家承認制度のもとでは① 文明人の国に対する完全な政治的承認と②「野蛮人」の国に対する部分的 な政治的承認とが区別され、更に③未開人の国に対しては自然のまたは単 なる人間としての承認しか与えられず無主地として先占の対象とされてい たと分析する。そして、伝統的国家責任法は、おもに①の国家承認を通じ(39) てヨーロッパを中心とする国際社会に受容された南米などの後進国に文明 国の基準に合致する法と行政の体制を維持することを義務づけるための手 段であったと述べている。このように伝統的国家責任法における国家の責(40) 任能力は、国家承認制度を通じて社会的に決定され、この責任能力を前提 として国際法上の法律関係が構築されていたということができる。しか し、その背景には「現在の目から見ればあまりに偏見に満ちた」見解があ ったことはいうまでもない。(41)

そして、責任能力を有する文明国間で問題となる「相当の注意」の基準 について注目すべき判断をしているのは、モロッコのスペイン地区請求事 件(1924年)である。本件は、モロッコ内のスペイン地区で発生した暴動 とその鎮圧のための軍事活動による英国人の損害に関する国家責任が問題 となった事例である。本件においてフーバー判事は、領域国は反乱・暴

(38) The Research in International Law, Harvard Law School, “Responsibility of State for Damage Done in Their Territory to the Person or Property of  Foreigners”,A.J.I.L., Vol.23, Special Supplement  (1929), p.146.

(39) 松井芳郎「伝統的国際法における国家責任法の性格⎜国家責任法の転換(1)」

『国際法外交雑誌』第89巻1号(1990年)25頁。

(40) 同上、29頁。

(41) 同上、25頁。

101

(14)

動・内戦などに起因する有害な結果をできる限り最小化するための監督・

防止の義務を負うとしたうえで、この義務の程度は、個別の状況や事情に おける当該国家の取りうる手段に依拠すると判断した。そして、ローマ法 上の「自己の物に対するのと同一の注意」を類推適用するかたちで国家責 任が認定されたのである。国内民事法でいう具体的過失との関係で議論さ(42) れる「自己の物に対するのと同一の注意」とは、個別の事件における特定 の個人の具体的能力ないし行為者の注意能力を意味するが、この能力も民 事責任能力を前提としている。それゆえ、「自己の物に対するのと同一の(43) 注意」とは国際平面においても単に自国民と外国人を同等の待遇におけば よいという国内標準主義を単純に意味するのではなく、あくまで事案で問 題となっている特定の文明国による「相当の注意」の程度が問題となって いるのである。(44)

また、アメリカとメキシコ間の一般請求権委員会のニーア請求事件

(1926年)では、文明国概念にもとづく「相当の注意」の基準は次のよう に定式化されている。(45)

「政府の行為の妥当性は、国際的基準という判断基準に付されなければなら ず、……外国人の待遇が国際的不履行(international deliquency)となる ためには、それが非道、不誠実、義務の故意の怠慢、つまり、政府の行為 が国際的基準に達していないため、分別をわきまえかつ公平な者ならば誰 でも容易にその不十分さを認めうるほどに不十分なものになっていなけれ ばならない。」

本件の国家責任の認定は、国内民事法でいう抽象的過失の議論に類似し(46) (42) Reports of International Arbitral Awards(hereinafter, R.I.A.A.).,Vol.II,p.

644.

(43) 近江『前掲書』注(36)112頁。内田貴『民法II〔第2版〕債権各論』(東京 大学出版会、2008年)318頁。

(44) I.Brownlie,Principles of Public International Law(6th ed.,2003),p.504;

島田征夫他訳『ブラウンリー国際法学〔補正版〕』(成文堂、1992年)463頁。

(45) R.I.A.A, Vol. IV, pp.61‑62. (46) 近江『前掲書』注(36)112頁。

102

(15)

た「分別をわきまえかつ公平な者」という基準、すなわち責任能力を具備 した文明国であれば当然に果たすべき「相当の注意」を基準として行われ ている。

こうしたモロッコのスペイン地区請求事件やニーア請求事件にみられる ように、文明国概念にもとづく「相当の注意」の基準は、国内法上の過失 理論を踏まえたものになっている。他方で、問題となっている過失概念に は相違が存在し、必ずしも一様な対応がなされているわけではない。しか し、「分別をわきまえかつ公平な者」という一般的基準であれ、「自己の物 に対するのと同一の注意」という個別事情の下で判断される基準であれ、

裁判所は、国家ないし国家機関の地位にある者の心理的要素に注目してい るわけではなく、責任能力を有する文明国として適切な対応をしたか否か という観点から国家責任の有無を認定するために、これらの基準を用いて いるのである。ただし、伝統的国家責任法が、責任の発生には必ず過失を 要件とする「過失責任主義」を採用していたか否かについては学説上争い がある。しかし、少なくとも伝統的国家責任法においては、国内法上の過(47) 失理論を踏まえた国家責任の認定事例が存在していたと指摘できるのであ る。

このように、伝統的国家責任法上、責任能力を有するか否かという人格 要素は、国家承認制度を通じて文明国たる資格を社会的に決定され、責任 能力を欠く実体には問うことのできない文明国の基準に従って適切な行 動・注意をしたのかという考慮要因とも関係し、国家責任の発生を左右す る重要な前提として機能していた。したがって、責任能力は、国家責任法 適用の人的範囲や「相当の注意」の基準という伝統的国家責任法の論理構

(47) 過失をすべての責任発生の要件とするものとして、R. Ago, “Le delit interna- tional”,Recueil des cours, Tome68(1939‑II), pp.450‑498.包括的な過失の問題 については、R. Pisillo‑Mazzeschi, “The Due Diligence and the Nature of the International Responsibility of States”,German Yearbook of International Law,  Vol.35(1992), pp.9‑51.

103

(16)

成を支える背骨のような役割を果たしていたと評価できるのである。

他方で、伝統的国家責任論とは異なり、最近の学説においては、国家の 人格要素と過失を国家責任法の射程の外におくことが多い。こうした変化 の背景について、松井は、途上国を中心とする「国際法変革の要求」に言 及するが、この変革要求のなかでも国家責任法に大きな影響を与えたもの(48) としては、とくに自決権の確立をあげることができる。自決権概念の下で(49) は、独立の国家を形成する人民の権利は、特定の国家・社会体制を備えて いるかどうかに依存しないことになる。それゆえ、現在の国家性の議論 は、国家をその内実に照らして区別せず、領域・住民・独立の政府といっ た形式的条件にのみ注目している。つまり、西欧的・資本主義的体制の欠 如を理由に国家性を否定することはできず、様々な国家・社会体制を平等 に承認する必要が出てきたのである。そして、ここでの承認行為には、特(50) 定の国家体制に裏うちされた責任能力の有無を社会的に判断・決定すると いう要素がなくなり、すでに成立した国家を単に確認するだけの性格しか もたないことになった。ここにおいて、伝統的国家責任法の下で発展して(51) きた文明国概念にもとづく過失責任は、その存立基盤を失うことになった のである。このような現代国際法の発展状況に鑑みれば、国家責任条文 が、国家を一律に扱い、国際義務の履行能力の点において多様性を有する 諸国の内実を問わないとする態度をとっているのも首肯できるのである。

では、伝統的国家責任法上、多くの事案において適用されてきた「相当の 注意」概念は、現在ではもはや適用法規として妥当しないのであろうか。

(48) 松井芳郎「国際連合における国家責任法の転換⎜国家責任法の転換(2・完)」

『国際法外交雑誌』第91巻4号(1992年)26頁。

(49) 松田竹男「現代国際法における在外自国民の保護」松井芳郎・木棚照一・加藤 雅信編『国際取引と法(山田鐐一教授退官記念論文集)』(名古屋大学出版会、1988 年)356頁。

(50) 同上、357‑358頁。

(51) 芹田健太郎『普遍的国際社会の成立と国際法』(有斐閣、1996年)73頁。

104

(17)

第二節 相当の注意」義務の淵源としての国家性

文明国概念が否定されている今日でも、「相当の注意」は、多くの条約 において規定され、また国際裁判においても一貫して適用されている。伝 統的国家責任法の存立基盤が失われたなかでも、「相当の注意」概念の一 貫した適用を可能にしている理由とはいかなるものであろうか。

ここで再び、伝統的国家責任法上の文明国概念の役割をみてみると、同 概念は①責任能力を有する国家の峻別と②「相当の注意」の程度をはかる 基準として機能していた。しかし、文明国概念は、何故国家が「相当の注 意」義務を負うのかという義務の淵源までも構成するものでなかった。つ まり、①と②に関する存立基盤を喪失したなかでも、「相当の注意」義務 は、その淵源を文明の要素に依拠せずに発展してきたのであれば、現在で も依然として妥当する可能性を有していることになるのである。

一般に、この点に関する考察の出発点とされるのが、パルマス島事件判 決(常設仲裁裁判所、1928年)である。本件において裁判所は、大部分の国 際問題の解決にあたって出発点となるのは領域主権の原則であるとしたう えで、「国家間の関係においては、主権とは独立を意味する。地球の一部 分に関する独立とは、他のいかなる国家をも排除して、そこにおいて国家 の機能を行使する権利である(傍点筆者)」と述べる。そして、人間の活(52) 動が行われる空間を諸国に配分するのは、国際法が設定する最低限の保護 をすべての場所で保障するためであるので、領域主権はその結果として、

自国領域内における他国とその国民の権利を保護する義務を伴うことにな ると判示した。(53)

本件は、国家責任に関する事例ではないが、領域主権を外国人の待遇に 関する国際義務の根拠としてあげ、その後、領域使用の管理責任として、

領域主権を環境保護などの他の分野の義務の淵源へと拡大していく端緒と (52) R.I.A.A., Vol. II, p.838.

(53) Ibid., p.839.

105

(18)

なった事例として国家責任法の観点からも注目されている。パルマス島事(54) 件判決は、国家性のなかでも文明の要素ではなく、「独立の政府」の「独 立」の要素に注目し、とりわけ「国家機能の排他性」という属性に責任の 基礎となる義務の淵源を求めたのである。

このような意味における国家機能の排他性は、トレイル溶鉱所事件(米 加仲裁裁判所、最終判決、1941年)でも確認されている。裁判所は、在カナ ダ私企業の排出した煤煙を通じて米国に発生した損害に対してカナダの国 家責任を認定するにあたり、下記のように述べて、いわゆる「領域使用の 管理責任」を定式化した。(55)

「事態が重大な結果を伴い、かつ、被害が明白で人を納得させるに足る証拠 により立証される場合には、いかなる国も、米国法ならびに国際法の諸原 則の下で、他国の領域またはそこにある人命と財産に対して煤煙による被 害を引き起こすようなやり方で、自国の領域を使用しまたはその使用を許 可する権利をもたない。」

このように本件では、カナダの国際法上の制約に適合した領域使用義務 は、領域主権から導き出され、領域主権の制約要因として位置づけられて いる。この判断について、山本は「この判決は漠然とではあるが、国家が 排他的な管轄権をもつ領域において自ら行動しまたは私人の行動をゆるす 場合に、科学・産業上の予見可能性に基づく相当に高度の注意義務をつく してはじめて、国家の免責事由がみとめられるとしたものである(傍点筆 者)」と述べ、損害発生に関する「事前の認識」と「相当の注意」義務を 関連させつつ、領域に対する国家機能の排他性の重要性を指摘している。(56) このように国家性のなかでも「独立」の要素に注目し、とりわけ「国家 機能の排他性」という属性に義務の淵源を求める国際判例上の態度は、学 説においても支持されてきた。たとえば、ホールは「独立の共同体(in-

(54) 松井芳郎編集代表『判例国際法〔第2版〕』(東信堂、2006年)129頁(パルマ ス島事件、松井芳郎担当)。

(55) R.I.A.A., Vol. III, p.1965.

(56) 山本草二『国際法における危険責任主義』(東京大学出版会、1982年)122頁。

106

(19)

 

dependent community

)によって占有されている領域内で、当該独立の共

同体の意思によって保有されている排他的な強制力(exclusive force)は、

当然に、この強制力に相応する責任を伴う」と述べ、独立と排他性の要素 に着目しつつ、権利の制約要因としての義務に国家責任の根拠を求めて

(57)

いる。つまり、一定の場所に対する支配権の「排他性」こそが「相当の注 意」義務の淵源になるとの考え方が示されているのである。またレヴィ も、個別の事件において国家が行動を効果的に行う可能性を有していたか 否かが義務違反の認定にとって不可欠の要素として問われるのも、国家責 任の基礎には「排他的な領域支配権」(le controle territorial exclusif)が存 在しているからであると指摘している。(58)

したがって学説上も、領域主権の排他的な側面が、「相当の注意」義務 の淵源とみなされてきたということができるのである。このように、国家 機能の排他性とは、一国の統治権限は他国の統治権限から「独立」してい ることに由来し、国際法による規律を排除するというよりもむしろ、国際 義務の履行の責任を負うことを意味しているといえるのである。(59)

国家責任法は、文明の要素以外の国家性の要素、すなわち「独立」の要 素に由来する国家機能の排他性に着目することにより、その安定的適用を 確保する努力をしてきた。現代国際法上、文明国や半主権国といったかた ちで、責任能力の観点から国家責任法の適用の人的範囲を条件づけること は当然認められない。それゆえ、国際法の主体として承認された国家であ れば、すべての国家に責任能力を一律に認めることになるのである。しか し、文明の要素ではなく「独立」という国家性の要素は現在でも妥当して

(57) W. E. Hall,International Law(1880), p.45.

(58) D. Levy, “La responsabilite pour omission et la responsabilite pour risque en droit international public”,Revue generale de Droit international public, 

Tome LXV(1961), pp.751,754.

(59) V. Lowe,International Law(2007),pp.156‑157;K.Doehring,“State”,R.

Bernhardt(ed.),Encyclopedia of Public International Law,Vol.4(2000),pp.602

‑603.

107

(20)

おり、この独立の要素に由来する国家機能の排他性が「相当の注意」義務 の淵源としての役割を果たしてきたといえるのである。

第三章 相当の注意」義務の適用基盤の再構成

相当の注意」義務は、第四章で検討するように、現在でも国際裁判に おいて頻繁に適用されている概念である。本章では、伝統的国家責任法か ら現代国家責任法への変容のなかで「相当の注意」義務の一貫した適用を 可能にしている原因をさぐるためにも、「相当の注意」義務の適用法規と しての性格を考察していく。

第一節 相当の注意」義務をめぐる法律関係の特質

まず「相当の注意」概念の法的性格を検討するにあたり注意しなければ ならないのは、第二章第二節で取り上げた各判例からも、「相当の注意」

義務や領域使用の管理責任は、国家機能の排他性に淵源を求めると同時 に、これらの義務は国家が保有している権利の内在的制約要因として発展 してきたという点である。(60)

国家は自己の権利の尊重を欲するが、自己の権利を他国に尊重してもら うためには、他国の権利を自国で尊重する必要がでてくる。かくして、法 的権利は、これに対応する自己の行動の自由を制限する義務を伴うことに なるのである。このように主権国家が相互に権利を尊重しつつ、自由で平 等なものとして承認しあう関係にある場合、そこでの国際関係は、双務性

(mutualite)だけでなく、相互主義(reciprocite)に基礎をおくことにな る。ここでいう双務性とは、与えるものと受け取るものとの間に必ずしも

(60) ある法源の非同意的要素(non‑consensual element)と判例・国家実行等の 法経験との関係性について、たとえば、Sir R. Jennings and Sir A. Watts(eds.), Oppenheimʼs International Law: Peace, Vol. 1, Introduction and Part 1(1992), p.25.

108

(21)

明確な均衡がなくとも、「与える」と「受け取る」という相互的な行為が あれば認められる広い概念である。これに対して、相互主義とは、与える ものと受け取るものとの間に同等性(egalite)が存在する状態のことを意 味する。こうした相互主義にもとづく交換の同等性は、伝統的国家責任法(61) の主要な事例である外国人の待遇をめぐってまさに問題とされてきた。

第一次世界大戦に至るまで、外国人は、少なくとも生命・身体・財産の 基本的な市民権に関しては内国民と同等の保護を享有し、これらの権利の 保護につき、外国人なるがゆえの不利な差別待遇を受けないという「内外 人平等主義」が広く採用されるようになっていた。しかし、国際社会の拡(62) 大とともに、同じ文明国と位置づけられていたにせよ、とくに南米の新興 独立諸国とヨーロッパ諸国との間で、内外人平等主義の内容に関する理解 にずれが生じてきた。つまり、国家は、外国人を内国民と同等に扱う限 り、一切の国際法上の責任を免れるのか、内外人平等をめぐる解釈に差が 出てきたのである。そしてこの解釈の差こそが、国際標準主義と国内標準 主義の主張の対立としてあらわれ、多くの国家責任法の適用事例を生み出 すことになったのである。(63)

外国人の待遇の分野にもあらわれているように、相互主義的法律関係が 問題となる場合、国際社会の構成員は、この社会の既存のルールを受諾し ている同質の構成員であることが前提とされ、国家責任法も、もともと各(64) 構成員がこの社会のルールを受諾していることにその基礎をおいていた。

つまり、パクタ・スント・セルヴァンダの原則の下で問題とされる合意も

(61) M. Virally, “Le  principe  de  reciprocite dans  le  droit   international contemporain”,Recueil des cours, Tome  122(1967‑III), p.9.

(62) 香西茂「外人財産の収用と国際法」『法学論叢』第61巻3号(1955年)24頁。

(63) 島田征夫『庇護権の研究』(成文堂、1983年)237‑238頁。

(64) 戦時復仇行使の際の国家と敵対武装集団の同質性の欠如を問題視するものとし て、尋木真也「非国際的武力紛争における戦時復仇の存立基盤―軍事的必要性及び 相互主義の観点から―」『早稲田大学大学院法研論集』第132号(2009年)191‑194 頁。

109

(22)

「社会の既存のルールの受諾」という意味であり、文明国概念の下で理論 構築されていた伝統的国際法はまさにこの合意に基礎をおいていたのであ る。そして、社会の既存のルールへの違反とは、相互主義にもとづく法律 関係のバランスを破壊する行為と認識されていたのである。(65)

また、一方の当事国の違反により法益侵害を被った他方の当事国は、相 互主義的法律関係のバランスを回復するために「復仇」を通じた自助手段 をとることが国際法上認められてきた。つまり、統一的上位機関を欠く国(66) 際社会では、国際法の自己執行に依拠する部分が多く、相互主義は、同等 のものを「与えられるために与える」というかたちで国際法の遵守を期待(67) する積極的側面と、違反のあった場合には返報としての復仇をうけるとい う消極的側面を併せもつことにより、国際社会における法的安定性を確保 する機能を果たしてきたのである。(68)

このように、相互主義は国家責任法に通底するものであり、個別の規則 のなかにとけ込んでそれを支える柱になっているからこそ、いったん相互 主義の基盤が失われると内外人平等主義のように多くの紛争事例を誘発 し、法的安定性を損ねる結果を招くことになるのである。しかし、相互主(69) 義の内容は抽象的で、具体的な規則のように国家に対して特定の行動をと るよう義務づけるものではない。それゆえ、相互主義にいかなる規範的価 値が付与されるかは、違反を含めた相互主義の法的帰結と密接に関連し、

(65) C.Eagleton,The Responsibility of States in International Law(1928),pp.4

‑5.

(66) G.Schwarzenberger, International Law  as Applied by International Courts and Tribunals, Vol. II, The Law  of Armed Conflict  (1968), pp.452‑453.

(67)G.J.Perrin,Droit international public: Sources, sujets, caracteristiques(1999), p.760.

(68)Virally,supra note(61),pp.53‑54.

(69) A. Lenhoff, “Reciprocity:The Legal Aspect of a Perennial Idea”,North- western University Law  Review, Vol.49(1954),pp.619‑634.山本草二「国際経 済法における相互主義の機能変化」高野雄一編『国際関係法の課題(横田先生鳩寿 祝賀)』(有斐閣、1987年)245頁。

110

(23)

この法的帰結を規定しているものの1つが国家責任法といえるのである。(70) そこで次節では、相互主義を媒介とした主権や高権の制約要因としての

「相当の注意」義務がいかなる調整原理のもとで適用されてきたのか、そ の適用法規としての特質について検討していく。

第二節 適用法規としての「相当の注意」義務の特質

国家は、慣習国際法上、外国人の入国を認めた場合、領域国として、当 該外国人の生命・身体・財産を相当の注意をもって保護する義務を負って

(71)

いる。しかし、外国人の待遇の基準をめぐっては、国際標準主義と国内標 準主義が激しく対立し、現在の法状況は、いずれもその適用には限界があ るといわれている。では、外国人の待遇に関する国際法は欠缺状態にある(72) といえるのであろうか。

この点についてケッケンベックは、仲裁裁判における「適用法規」とし ては国際標準主義が一貫して用いられてきたことに着目し、裁判官は当該 事件の個別・具体的な事情を勘案したうえで、何が公正と正義にかなうの かを決定しなければならなかったと述べる。つまり、ケッケンベックのよ(73) うに個別・具体的に発生した事件への国際標準主義の「適用」という視点 にたつ場合、裁判官は、侵害を受けた財産の性質や価値、侵害に対する補 償を支払う国の財政状況など、事案ごとに異なるものを判決の考慮要因と して決定を下すことになるわけだから、そこではもはや「生」の状態のま

(70) Virally,supra note(61),p.11.

(71) 外国人の財産権保護は国際交通上の便益の確保という観点から問題となるのに 対し、生命・身体の保護は社会的正義の実現を目的としているが、本稿ではとくに 両者の違いが問題とならない限り、外国人待遇の全般的問題点を扱っていくことに する。広瀬善男『外交的保護と国家責任の国際法』(信山社、2009年)25頁。

(72) 松田「前掲論文」注(49)358‑362頁。

(73) G.Kaeckenbeeck,“The Protection of Vested Rights in International Law”, B.Y.B.I.L., Vol.17(1936),pp.16‑17.なお、ケッケンベックは、外国人財産が侵 害された場合の補償との関係で論じているが、彼の問題意識は外国人待遇義務全般 に広がりをもつものである。

111

(24)

まの文明国の基準に固執することはできなくなるのである。

ダンも、国際標準主義の法的性格について、国際法はもともと西欧を中 心に発達してきたものであるから、西欧における共通の原理が不可避的に 反映されることになった概念にすぎないとし、現在でも非常に示唆に富む 指摘を次のようなかたちで行っている。(74)

「このような規則は、恣意的または不正な政府の行為によって外国人に損害 を引き起こすのを防止する一方で、同時に様々な人民の特殊性から生ずる、

世界の特定地域における新しい条件や特別な条件を現行の制度において満 たすために必要な柔軟性を提供するものである。この柔軟性は実際に変化 している世界にこの規則をより受諾可能なものとすることによって現行制 度の永続に役立つものなのである。」

ダンは、国際標準主義を、それぞれ特殊性を抱えるもの同士の橋渡し 役、つまりは一種の「調整原理」として捉えていたということができ、単 なる先進国による文明国の基準の一方的押し付けではなく、その内容も時 と場所によって変わりうる非常に柔軟性をもつ概念と認識していたのであ る。また、安藤仁介もダンと同様、外交的保護制度は「詰まるところ領域 主権と対人主権の均衡のうえに成り立っている制度であり、国際標準主義 はかような均衡を調整する原理の1つである」と述べて

(75)

いる。

このように国際標準主義の機能的性質を調整原理として把握すれば、そ の特徴は、異なった文脈で多くの様々な特徴をもつものと微妙な関係を必 要とするあらゆる規範と同様に、①当然経験的アプローチにもとづく高度 に一般的・抽象的なものにとどまり、②その具体的内容は個別の事件ごと に決めざるをえない、ということになる。(76)

(74) F. S. Dunn, “International Law  and Private Property Rights”,Columbia Law  Review, Vol.28,No.2(1928),p. 180.

(75) 安藤仁介「国家責任に関するアマドール案の一考察⎜『国際的な基本的人権』

と『国際標準』の関係について⎜」田畑茂二郎先生還暦記念論文集『変動期の国際 法』(有信堂、1973年)301頁。

(76) M. S. McDougal, H. D. Lasswell and L. Chen, “The Protection of Aliens from  Discrimination and World Public Order: Responsibility of States Con-  112

(25)

マクドゥーガルたちは、このように高度に抽象的な概念を「決定の過 程」(the process of decision)と呼び、国家が外国人の損害に対して国際法 上責任を負うか否かの問題は、個別の請求のもつ特定の関連性や種々の事 実にしたがって評価・決定されうる過程と捉えている。換言すれば、国際(77) 標準主義とは、個々の事件における紛争解決権者(たとえば、裁判の場合 は裁判官)に対して、決定のための規則というよりもむしろ、「決定に至 るまでの問題への取り組み方(approach)」を指示・命令するものなので

(78)

ある。

この点についてダンは、外国人の待遇について国際法上違法であるか否 かの結論には「外国人に対する損害との関係で、国際責任の観念の一般的 目的を考慮することによってのみ到達することができる」と述べ、彼は、

その目的を「国際貿易や交流の継続のために必要なものとみなされる最低 条件を維持する」という点に見出していた。つまり、ダンは、外国人待遇(79) 義務違反にもとづく国家責任は、外国人待遇義務という第一次的規則の解 釈のみによって認定できるものとは考えておらず、広く国家責任法全体の 一般的目的との関係で認定できるものと考えていたといえるのである。

以上の検討から、「相当の注意」義務は、意思決定権者に決定の過程に おいて問題への取り組み方を指示・命令する規範であり、かつ非常に柔軟 で分野横断的な法的性格を有しているため、国際法の変容過程のなかでも 適用法規として妥当する基盤を有してきたと結論づけることができる。そ

joined with Human Rights”,A.J.I.L., Vol.70,No.3(1976),p.450.

(77) M. S. McDougal and W. T. Burke, “Crisis in the Law of the Sea:Commu- nity Perspectives Versus National Egoism”,M. S. McDougal and Associates, Studies in  World Public Order(1960),p.869.マクドゥーガルは当初この概念を 海洋法の分野で用いていたが、後に外国人待遇義務の分野にもこの概念を敷衍する ようになった。

(78) R. B. Lillich, “Duties of States regarding the Civil Rights of Aliens”, Recueil des cours, Tome161(1978‑III),p.352.

(79) F. S. Dunn,The Protection of Nationals(1932),p.133.

113

(26)

れゆえ、今後の課題は、現代国際法における「相当の注意」義務の内容を 客観化していくことであり、そのためには、第二次世界大戦後の現代国際 法の発展のなかで、「相当の注意」義務がどのように適用されてきたのか、

国際裁判を含めた実行を検討していく必要があるのである。次章では、外 国人の待遇の問題のみに限らず、広く「相当の注意」義務違反にもとづく 国家責任の認定が問題とされた事例を取り扱うことで、「決定の過程」に おいて「相当の注意」義務の違反がどのように認定されてきたのか、国際 法における違法性判断の特質を考察していきたいと思う。

第四章 国際法における違法性判断の特質

本章は、第二次世界大戦後の自決権の確立により、文明国概念に依拠し て国家の注意の相当性を判断できない状況のなかで、国際司法裁判所が、

紛争解決の「決定の過程」において、いかなる考慮要因にもとづき「相当 の注意」義務の違反を認定してきたのか、その推論過程を検討すること で、国際違法行為責任の本質とされる「義務違反」の構成要素を明らかに していく。

第一節 国際裁判における「相当の注意」義務違反の認定

国際司法裁判所における「相当の注意」義務の適用事例では、慣習国際 法と条約、領域内と領域外の事例で、それぞれ特徴のある判断がなされて いる。本節では、適用法規の違いに着目しながらも、領域の内と外に分類 して、「相当の注意」義務違反の認定の特質を考察する。

(一) 領域内の事例(1)⎜コルフ海峡事件(本案、1949年)

①コルフ海峡事件における国家責任の認定

本件は、英国の軍艦がアルバニア領海内を通航中、同海域に敷設されて いた機雷に触雷・爆発したことにより被った損害と人命損失につき、アル バニアが領海内にある機雷の敷設を黙認(connivance)あるいはその存在

114

(27)

を認識(knowledge)していたことを理由として、英国に対して国家責任 を負うか否かが争われた事件である。本件は、事件の発生が領海内という アルバニアの排他的支配権の及ぶ場所であったことを前提として、機雷の(80) 敷設ないし存在に対するアルバニアの「相当の注意」の程度が問題となっ た事案である。(81)

裁判所は、本件の損害と人命損失につき、アルバニアが英国に対して国 家責任を負うか否かについて、まずアルバニアの責任の根拠(foundation) を検討するのが適切であると述べ、爆発を引き起こした機雷の敷設が、ア ルバニアの「黙認」ないし「認識」のうえで行われたか否かを検討した。(82) 黙認については、機雷敷設の実行者は結局不明であり、この実行にアルバ ニアがどのように関わったかは立証できないので、機雷敷設に関する黙認 は認定できないとされた。(83)

他方で、裁判所は、係争海域におけるアルバニアの警戒度や地理的形状 等を考慮に入れて、爆発を引き起こした機雷の敷設は、アルバニア政府が 知らないで(without the knowledge of Albanian Government)実施された はずはないとの結論に至っている。そして裁判所は、アルバニア政府補佐(84) 人が明示に「もしアルバニアが……機雷敷設作業や機雷の存在を知らされ ていた(had been informed)のであれば、アルバニアの責任を伴うことに なろう」と述べていた点に注目して、本件で問題となる義務の定式化を行 った。すなわち、「アルバニア当局に課せられる義務は、航海の利益一般 のためにアルバニア領海内の機雷源の存在を通告し、そして急迫した危険 につき、機雷源の危険にさらされて接近しつつあった英国艦隊に警告を行 うことにあった」と述べ、アルバニアが本件で負っていた国際法上の義務

(80) Levy,supra note(58),p.752.

(81) 山本『前掲書』注(56)125頁。

(82) I.C.J. Reports 1949,p.15.

(83) Ibid., p.17.

(84) Ibid., pp.18‑22.

115

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