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賓存と本質との匿別が質料形相論 に及ぼナ影響について 松本正夫 (1) 貫存 exis tentia と本質 ess enti a との直別が既にアリストテレスの著作 に於けるの倒的加 sとの α1 TL と云う術語の中に示されていることを私は曾って西洋古典準舎での報告で指摘したことがある 従来アリ

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賓存と本質との匿別が質料形相論

に及ぼナ影響について

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貫存 exis t en tia と本質 ess entia との直別が既にアリストテレスの著作 に於けるの倒的加sとのα1 TL と云 う術語の中に 示されていることを私 は曾って西洋古典準舎での報告で指摘したことがある。 従来アリストテレ スの「形市上皐」ではみal á.1I'"À6JS' の方は「存在である限りの存在Jôv V ðv に 相臆する普遍的一般存在, .i"o{刊の方は「或る類J -yÉvos 'TL に 相躍す る特殊的 領域的存在を意 味すると解せられ, 文アリストテレス 「論理肇」 では前者は'TÒ öv TÒ ICQ/rà ow lasた る賓瞳 存在, 後者は'TÒ ôv 'TÒ 1<α'T� uv",ß.ß可KÓS- なる偶性存在を意味すると解せちれてきた。 しかしとれで は

Elvat å7l"ÀIDS なり, .111,,1 TIと云う同ーの語が同一人の著書如何 に よっ て異 った意 味をもつことになり, 如何 に も不合理である。 そとで前者を ess e

simplici t erとして賓存に, 後者を ess e quidとして本質 に 相鷹せしめ,í形 而上皐」と「論理摩」との何れ に於いても両者を統一的 に理 解するならば 高事うまくゆくし, またその様 な解樺が貫際上具種的に 成立することを報 告したのである。

スコラ皐になると賓存 exis t en ti aと本質 ess ent ia との匿別は「がある存 在J ani t as と「である存在J quidditas の 直別として極めて明瞭である様 に 考えられるが, 必ずしも瞳系的 統一的 にはこの事がいつでも 充分意識され ていた謬でない。 そこで聖トマスの論 文著作に於いてもこのととに閲して

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明瞭なと ころと不明瞭なところとが ある。 それ はこの直 別の韓系的把握が 決して教科書化されたものでなく, 聖トマスのアリストテレス理 解のそれ こそ血 みどろ の戦いを通じて漸く獲得されたものであったからである。 十 九世紀以来ロルフェス は少し 例外であるが, ボニッツ, トレンデレンブル グ, アベルト等の優れたアリストテレス解樺家が聖トマスのアリストテレ ス 解穫はスコラ的偏見と 考え, それとは濁立にアリストテレス解穫を樹立 しようとしてきた。 し かし かかる 「人文啓蒙的」惇 統の蝕陥は少くとも �l"al å'1l"À6JS- と .lva{引 についての解穫 の不 統 一 に昨解の絵地なく露呈さ れてい ると 云ってよい。 聖トマスが新プラトン主義的なアラ ビア思想家遠 のアリストテレス解揮 に針抗して如何 にアリストテレスに本来固有なもの を把捉しようとし ていたか, それ は十九世紀 のアリストテレス解樺家が目 指していた理念から公卒 に みても偉大な業績であったこと は今で は紛れも ない事貫である。

結局, 瞳系的理 解 に 従えば, .lval伽ÀÔ;S, esse s imp!icit er= a c t us essendi =ex is t en t ia であり, .1va{引 esse a l iquid ( esse quid) = modus essen di =

essen t ia である。 後者 はS es t P の “es tP " に嘗り, rである存 在」であ って, 之を 分類したものが quidditas の基 本型であり, modi essendi の10 個の範鷹pr a edicamen ta に 他ならない。 前者はS es t の 「がある存 在」で あるが, この 「がある貫存 」 は rpであるところ のSがある」と 云う様 に通常 「何かである」ものの

存 esse a !icujus に 他ならない。 つまり esse s im pl icit er としての無僚件の「がある」が「何かである」とと によって僚 件付けられ制限されている。 それ は ess e s imp!icit er secundum esse quid

(2 )聖トマスがアリストテレス著作のアラビア語よりのラテン諜に満足せず, ギ リシヤ諮よりの直接謬をメールベケのウィノレヘノレムスに依頼しているこ と, 文 蛍時アリストテレスの著 と稽されていた De Causisを新プラトン主義者プロ グロスの著 と看破していたこ となどは十九世紀の註樟家達の行き方からみても 達人の驚嘆すべき業績 と云わねばならない。 十九世紀の中世に勢する啓蒙的不 信のみが人々の目を曇らせたので, 聖トマスのアリストテレス解揮をー織にス コヲ的偏見 としたこ と自慢が反って驚くべき偏見であったのである。

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実存と本質との区別が質料形相論に及ぼす影響につν、て 9

とも云うべきで, その貫存 は何らかの 存 在者 ens のそれである。 従って それらの分類 は 上述の範鳴の如く, 存 在(性 格〉 の分類で は なく, 存 在者 の分類であり, 従って存 在 諸領域 region es en tium,即ち , 世界を構 成する 鍍物, 植物, 動物, 人間,天使等の 諸領域に直 分される。 そしてesse sim ­ plici t er た る賓存が ess e q uidなる本質の如何なるものに依っても制限され ないで, 貰存自身が正 にそれの本質であるときに ess e simplic巾r secund­ um se=Ipsum Esseとなり. 世界乃至 諸領域を超高芭した神の問題が登場し てくるのである。

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貰存 ess eと本質 ess en tia とが 匝 別されることと, 本質が貰存の「 在り 方J mo di essen di に過ぎないことと は聖トマスの D e en t巴 et essen tia 中の “essen tia dici tur secun dum q uo d per eam et in ea r巴s habet esse." (ca p.

1, D e en te et ess en tia )及び “essen tia a utem es t secun dum q uam res dici t u r

巴sse."( ca p. II, o p. ci t.) の二命題から も よく察せられ る。 (,占), “Esse巴nim r ei q uamvis si t a l1ud ab ejus essen tia , non tamen est in tellig en dum q uo d

si t al iq uo d s uper additum a d mo dum a cciden tis, sed q uasi cons ti tui tur per pr in cipia essen tia e. Et ideo hoc nomen ens, q uo d imponi tur a b ipso esse, significa t idem cum nomin e q uo d imponi t ur a b ipsa 巴ssen tia ." (Commen t. in N Met. l ect. 2, n . 558) に於いては, 直 別された貫存と 本質との聞の微 妙な関係が よく 示されている。 本質と匿別され るからと云 って貫存l土木質 に 偶 性的;こ 附加されるものでなく, それ は云わば, 本質の 形 而上準的 原理 である質料・ 形相を通じての如く, 主主ろ本質貫腫の中心を貫流する現貫態 を 形 成 する。 本質貫轄の内 在原理た る質料・ 形相から 貫存が 生じてくるので なく, 貫存は 外在原理たる機動因から のみ生じてくる。 し かし同時に賓存 は 内 在原理 に制限され, 相麿させられた もので, その意 味で内 在原理から ではなく, 内 在原理を通じて, 車なる貫存で はなくそのものの貰存として

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成立するのである。 命題の後宇の esse に 由来する 存 在の 名稽は遁常「 存 在者」で ens ut pa r ticipi um に 語賞する。 そ し て essentia に 由来する存在 の 名稽は「 存 在 」 で, ens ut n omen に 該2首する。 前者の 分類 が 上述した 存 在 諸領域で, 後者の分類 が存在 (性 格〉 の分類 であり, 上述した 諸範稽 の分類 に 該嘗する。

更 に esse(existentia )が essentia の 内在原理たる質料と 形相とを超えて いること は女の命題に示される。 “I nvenit ur igit ur in s ubstantia composita e x mate r ia et for ma duple x or do: un us quide m ipsius mate r iae a d for mam, aIi us a ut巴m ipsius rei jam compositae ad esse pa r ti cipat um. Non enim est esse rei neq ue for ma ejus neque mate r iae ipsius , se d a liquid adveniens rei pe r for mam." (De s ubst. sepa r at. cap. VI)

先ず分興され た 「 があ る 存 在 J esse pa r ticipat um とあるのは質料と 形相 との合 成本質原理に相謄させられ, 旦つ, それによって制約された貰存の 意である。 しかし賞存はそれ だからとて本立内在原理そのものではな く, 反って外在原理たる機動因から由来する al iquid a dveniens である。 日住: 上述の Commenta r ia in Metaphysicamからの 引用にある様 に之は 偶 性の 住方で貫腫本質の外から附加されるのでな く, 反って最も中 心的な貫鐙本 カナル 質の内在原理( 形相・ 質 料) p r in cipia essentiae と 云う水路を通じて 恰も内 から湧き上る様に 生じて くるのである。 と ころがこの 引用では a dveniens pe r for mam となって 内在原理 ( 形相・ 質 料〉 の中の 形相しか 掲げていな い。 それ は こ こ では合 成賓瞳 のみが 扱われて いるので, 形相と 云ってもト マスの 云う合成貰瞳 の 形相たる for ma t otius であって 既 に mate r ia を合意

(1)向人間存在について “Licet anima ha beat esse completum, n on tamen

s巴q uit ur quod corpus e i a ccidentalite r uni且t ur ; t um quia iII ud idem esse, quod est animae , comm unicat corpor i ut sit un um esse t otius compositi ; t um etiam quia, etsi possit pe r se s ubsiste re , n on tamen habet speciem comple tam; se d corp us a dvenit ei a d completione m spe ciei." (De anima

Q. 1, art. 1, a d 1.)

以上は特殊の場合 であるが, e xistentiaに営るesse completumとessentia にMる species completaとがここでも明瞭に区別されている黙を注目すべき である。

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実存と本質との区別が質料形相論に及lます影響について 11

的に包含しているとみてよい から である。 し かしとに か く pe r f orma m と云う意味で本質の内在原理 を通じて貰存が生ずるとしても,ぞれは決し て賓存が形相 forma tantu m (離存形相の形相〉 から ,qui ddi tas r巴i =forma t o tiu s (合成賓韓の形相〉 から恰も機動因 から生ずる如く,屋旦主主主< るの で、なと賓存が本質原理 を通じてそれに相鷹 させら れ,制約 されてく ると云うことに過ぎないのである。 つまりものの賓存 e sse は 機動因 から

a c au sa e fficie nte生じえても, ものの本質 から a qui ddi tate rei vel fo rma

to tiu s生じえない。それはものの本質と云うものの存在 する在り方 を通じ て pe r m odu m e sse ndi vel pe r qui ddi tate m生じてくる。ものの賓存は結 局外在原理たる機動因 から のみ!京因され,ものの内在原理たる形相・質料 を通じて制約され限定されつつ賓現 するのである。

“I n sub stantii s au te m c omp ositi s e x mate ri a e t fo rma e st duplex c o mp o­ si ti o ac tu s e t p ote nti ae ; p ri ma qui de m i p siu s su bstanti ae , qu ae co mp oni tu r e x mate ri a e t forma; secu nda ve ro e x ip sa su bstanti a j am c o mp osi ta e t e sse ; qu ae 巴ti am p ote st dici e x q u od e st e t e sse; vel e x qu od e st e t qu o e st ."

(C ontra ge nt . II . 54)

右の引用に於いて合成貫 瞳に 於ける二重の合成 duple x c omp osi ti o一一先 きの引用に於いては二重の 秩序 du p le x ordo と云われたものーーの意味が 一層判明する。 つまり可能態と現貰態との合成は二重の意味 をもつので, 一つは賓 瞳本質に於げる質料と形相の合成,もう一つはその様に合成され た本質と貫存との合成である。かくて等しく可能態と云っても賃料は形相 に針して可能態であり,その質料と形相との合成本質は更に賓存に針して は可能態 である 。又j主に 等しく現賓態と云っても形相は質料に封して現賓 態であり,賓存は質料と形相との合成責 瞳そのものに封して更に現賓態で

(2)“Non au te m p ote st e sse qU0 i p su m e sse si t c au satu m ab i p sa forma vel qui ddi tate rei , dic o sicu t a c au sa e fficie nte ." (De e nte e t e sse nt. c ap . V)参照。

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ある。向ここでquo d est と云われるのは「であるところのもの」で木質 essent ia を示 し, quo est とは 「以てそれがあるところのもの」として賓存 ex ist ent ia を示す 。之はボヱティウスの表現である。

ところ が今引用した命題の直前に貫存 esseが形相と質料との合成 essen・ t ia ut forma tot ius を超える許りでなく, 純粋 形相 essent ia ut forma tant um

を す ら超えることが示される。 それは離存形相forma separata siv e forma pura の 場合である。“1n sub stant iis a ut em int ellect ua lib us, qua e non sunt ex ma ter ia et forma co m po sita e, ut o st ensum est , sed in eis, ipsa fo rma est sub stant ia sub sist en s, forma est quo d est , ipsum a ut em esse est ac t us et quo est . Et pro pt er ho c in eis est un ica tant um a ct us et pot ent ia e, qua e scilicet est ex sub stant ia et esse, qua e a quib usda m dicit ur ex quo d est et esse; v el ex quo d est et quo est ." (Cont ra gent . I I. 54)ここでは 可能態と現貫態とは もはや二重ではなく唯s軍ーに合成するのみである。 (un ica tant um ((compo sit io )) a ct us et essent ia e)つまり形相のみよりなる木 質が可能態でそれの震存が現貰態であって, 通常, 量ーと考えられ易い純 粋 形相もこ の意味で合成であることが示される。 本質としては箪ーであっ ても, それは賓存とは飽 くまでも匿別 されるものであってみれば首然, 貫 存との合成が考え ら れるからである。向, こ こでも貫存は quo est , 木質 はquo d est と云うボヱティウスの用語が採用 されている。 聖トマスが別 のところで“1n tell igent ia est forma et esse." (D e ent e et essent . ca p. V)

と云っており, その直後に esse が forma から決して原因きれないことを 断っているのも「度今 の 場合 に該嘗するのである。

貰存 esseが本質 essent ia よりも, そ してその中でも現賓態的である形相 ぞ れ自身よりも更に現賓態的であるととは次の引用 から も明 ら かである。 “Ho c quo d dico esse est int er o mn ia perf ect issim um ... .Unde pat et q uo d hoc quo d dico esse est a ct ua lita s o mn ium a ct uum, et pro pter ho c est peri(', 1 j円

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実存と本質との区別が質料形相論に及lます影警について 13

o mnium per fectionum." (Quaes t. d is put. d e po t. Q. VlI ar t. 2, ad 9.) この様な賓 存がより現賓態的でないところの本質の方 から 原因されないこ とは確かであるが, 上述した様に通常の 存在者に於いてはそれの賓 存は常 に「それであるところ」の本 質に相麿させら れ,制約限定 されるので あ る。 このことについて上速の引用文に引績いて次の様に説明されている。 “N ec in telligend um es t q uod ei q uod d ico ess e, aliq uid add atur q uod s it eo for malius , ips um d eter min ans s icut actus po ten tiam; ess e enim q uod huju. s mod i es t, es t aJiud s ecund um ess en tiam ab eo cui add itur d eterm in and um. N ihil autem po tes t add i ad ess e q uod s it ex tr an eum ab ipso, cum ab eo

n ihil s it extr arteum n is i non ens , q uod non po tes t ess e n ec form a n ec m a-ter ia. Und e non s ic d ea-term in atur ess e per al iud s icut po ten tia per actum , s ed magis sicut actus per potentiam." (Quaes t.d is put. d e po t. Q. VII, ar t.

2, ad 9.)この引用の結 論 を云えば貰存 ess e は最も現貫態であるから ,そ れ を制約限定 する本質はどうしても可能態でしかあり得ず, 従って「可能 態によって現賓態が」制約限定されなくてはなら ないのである。 従来我々は規定 d eterm in atio を専ら 現貰態による可能態の規定とのみ考 えていたのであるが, 聖トマスの血みどろの努力は一見奇妙にみえる可能 態による現賓態の規定 を登 場せしめたのである。現賓態による可能態の規定 の 場合には可能態は末だ現賓態 を所有していなし、ので現貰態は可能態lこ針 していわば外的に附加され, そのことによって可能態が本性的に規定せら れるのである。 ところが可能態による現賓態の制限の 場合には現賓態は既 に可能態 を内合的に前提しているのでそれは外 から の規定でなく, いわば 内からの制限, 可能態による現賓態の内から のブレーキとして現われてく る。 それは上の引用で賓存 を規定 するものは賓存の外にありえない, 貫存 の外にあるものは非有で, 本質原理である形相でも質料 でもありえないと 云っていること から も察せら れる。 従って貫 存 ess e を規定 するものは 賓 存の中にあるところの m od i ess end i としての本質 ess en tiaに他なら なし、

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のであ

。 通常の存在者に 於いて貫存と本町とは第一原因に 於いての如く 同一ではないから , 貫 存は云わば他者たる木質を自ら の中に抱えこんでお り, それによって内から ブレーキを掛けら れているのである。 「存在の在 り方J modi e s se ndi はそれだけで、は 未だ賓存e sse ではなく, 丁度水の流 れない樋の様なものである。それは賓存に封して可能 態である。そして水 は樋からi勇かない様に本質から 貫存は生じない 。唯々ーたん水 が他者から 原因されたなら ばそれは樋の曲りくねった週りに流れざるを得ない。 その 意味でフkは樋によって導かれる。 この様に質存は外在原理たる機動因によ って{thから原因されるにしても, 同時に, r存在の在り方」であり内在原 理たる形相本質,或いは形相・質料 合成木質に従って制約せら れざるを得 ないのである 。 上の引用?士宮存の中 にある m o die s se ndiたる本質による貫存の制限を 述べているのであるが, 之は貰は質料 ・形相合成本質に 於ける質料 による 形相の制約f:R定と云うことにもmiじる考えである。確かに形相は本質の現 貫 態として本質の可能 態たる質料 を規定する誇で, このことは誰でも一腰 承知していることである。しかし之と同時に本質の可能 態たる質料 が合成 本質lこ於いては 本質の現貫 態たる形相を 制限する商を忘却しては なら な い。 本質の可能症は本質の現貫 態を未だ所有していないので,形相による 質料 の規定[土外的附加によるしかし偶性的ではないところの本質規定と解 せら れているが, 合成本質に 於ける現貫 態たる形相は form a tan tu m であ る工りは forma to tiu s として既 に質料 を 内合的に前提しているのである から , 云わ:工、可12態、たる質料 (こよって内;う〉らブレ{キを掛けら れている様 に:1;1j約せら れているのである。 プラトン主義的なアリストテレス解揮では 専ら 形相:土工る賃料 の規定のみ強調されて,ft料 の形相:こ針するこの種の 頂同性が度外視されたのであるが, 聖トマスは可能 態(二於ける現貰 態 の

(4) Jl10di essendiは巴sse の可能主主として ess巴 の中にある。 存在 esse の外 には non esse しかなく, 従って可能強pote口tiaも nOll esse tan tumでな

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実存と本質との区ETJが質料形相論に及ぼす影響について 15 内からの制約を以てこの賠 を判明なら しめたのである。 従って買 存が本質 によって制限される時も,合成本質の形相が質料によって制限されるとき も,共:こ「可能 態による現賓態の内から の規定」として原理的に統一的に 説明出来るのである。 規定 de te rm i na tio が 通常現官 態の可能 態[こ封 する外から の本質規定と のみ解されるのに封して,逆に可能 態の現賓態に封 する内から の規定と云 うことが新たに考えら れなくてlまなら なくなった。之は元来ピタゴラス以 来の「一者による規定」と 「二者による規定J,奇数原理と偶数原理とに 於いて既に知ら れていたものなのである。 つまりー者 を附加してー奉に規 定する 場合と,ニ者の幅を弐第[こ狭めることによって「不定の二」の振動 を許しながら 衣第に規定してゆく 場合と二つある誇で,前者を文字通り規 定 de te rm inat ia , Be stimm u月と云うなら ば後者は制眼lim ita tio , Be di時・ u ngとして一層表現上も直別出来るのである 。そ してこの意味でもう一度 云い直せば貫存は最後の現貫態として 存在者 を規定し,本質はそれに内含 する可能 態たる賓存の在り方として賓存を制限しているのである。同様に 合成本質に於いて形相は本質の且震 態として質料 を規定し,質料は本質の 可能 態として fo rma to tiu sとしての形相 を内から

車医

しているのである。 そこで賓存と本質に闘しての言葉遣い を匡して最後的に概括 すると,賓 存と本質とが同一である第一原因では最高の現貫態である貫存は本質によ って何ら 制限されることなく自ら を規定し,純粋現貫態 a ctu spu ru sであ る。 共にそれ以外の一切の存在者は少くとも賞存とそれと同一でない本質 との合成であるから ,最高の現賓態であるそれの貫存は可能 態であるそれ の本質によって内から 制限されており,その制約内に於いてそれ自ら であ るところの本質 を規定 する 。 第一原因の貫存は従ってe ss巴 sim plicite r secu

-(5)ここで「少くとも」と云ったのは「それ以外の一切の存在者の中」離存形相 たる純粋精神(軍一賓鐙〉に於いては賞存と本質との合成しかないが, 合成寅 慢ではこの種の合成の他更に形相と賃料との合成が附加されると云う事情があ るから, そう云ったまでである。

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nd um s e= Ip s um Ess eであり,遁常の 存在者の賓 存はess es imp liciter s ecu­ nd um ess e q uid =ess e s ecund um mo d os ess end iである と云うべきであろうc

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賓 存と本質 との直別が聖トマスに於いて上述した 様にラディカールな意 味 をもっていたにも拘らず,否, そうであればこそ聖トマスネ絡会の苦心 を梯った揚句漸くそこまで到達しえたのである から,未だ両者の直別が木 完全にみえる 様 な箇所が少な からず護見されても止むを得ないと考える。 就中,賓存 ess eと形相 f ormaとの卒行関係を強調する徐り,雨者が混同

されている 様 にみえる場合も多い。 通常,我々は第一現賞態 a ctusp ur usと 第二現貫 態a ctus s ecund us とを賓 瞳本質の現賓態とそれ を基瞳 s upp os itum とする 作用の現貫態としている 。 “Actus a utem es t dup lex: pr im us et s ecund us . Actus q uid em p r im us es t f orma , et integr itas r ei. Actus a utem s ecund us est op巴 ra tio." (Sum. theol. I . 48, 5.)この第一現賓態についての f or ma は恐らく章一貫 瞳の f or ma ta ntum であろう し, 又integr itas r ei は合成貫 轄のforma totius が示すところの 合成本質の現貰態 を云うので あろう。何れにしてもここでは「何かである」ところの本質の現賓態のみ が示されている 。 し かるに上述した引用文にあった 様に “ …hocq uod di co ess e es t a ctua litas omnium a ct uum.... " (Qua es t. disp ut. de p ot. Q. VII , ar t. 2, ad 9.)である から,賓存 ess eたる 「が ある 存在」こそ第一現賓態 に先づ鍛え上げられなくてはならないであろう 。そしてこの意味では上述 の文は “a ctus p r imus est ess e et f orma "と か,或いは “a ctus p r imus es t

ess e et integr itas r ei"と か云いなぼすべきであって,前者は先きに C ontra gent. I I, 54より引用した軍一貫 轄の unica comp os itioの 場 合で“f orma es t q uod es t, ip s um a utem ess e es t a ctus et q uo es t"に該富する。つまり ボエティウスの表現に従うと q uo es tたる ess eの現賓態と q uod es t (ess e q uid) たる ess entia の現賓態たる形相との合成である。 後者は合成貫 轄の

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実存と本町との区別が11料形相論に及ぼす影響について 17

d

u p le x c om pos itio の場合で, 第一の合成は qu o es t たる esse の現賓態と qu od es t (esse qu id) たる esse ntia の現賓態たる inte gr itas re i ( for ma to-tius) と であり, 更にとの inte gr尚 s re i の中に第二の合成 と しての質 料 と 形相との合成が 見 出さ れるのである。

ヨた[工費存 esse と 形相 form a の卒行関係を強調して南者の混同 を 思わせ る箇所はきたの如くである。“esse autem per se consequitur ad for mam ; per St dic imu s qu od secu n dum ip sum; llnumquodque autem hab e t esse secu nd -um habet formam... .subs tant iae ver o quae sunt ips ae f ormae, nunquam possunt pnvan esse, sicut si ;cliqm! suhstant ia esset circlllus, nunquam posse t fier i non rotunda..ー・impo�sibile tst igitur, quod ipsae esse d es i -nant. "(Contr. gent. II, c . 55)この 引用の前宇では形相己主f存が伴うこと が云われているが, ぞれは貫存え"形相か九生じたとは云っていない。 賓存 がそれ自身としてsecllndum ipsum ((llill�的でなく〉形1刊二件うと云って いるからである。 しかも「何らえ"の事物が形相を有す乙限り貫存を有つ」 と云っているのは形相が買7字を して その事物の宮古:だらしめると云 う, 形相がその事物力士資存することの不可訣{削午になっていると云う意味 て、云われたこと で, 決して形相:τ依って事物の責存が原因されだ三とを云 っているのでない。 従って厳密に云えば「何らかの事物が形相!をffする限 り, その事物それ自身の貰存を!っ」“unaqllaeque res autem habet esse rel lpSlUS, secundllm habet formam" とでも云い直すべきであろう。 従つ て引用の後学で「形相のみよりなる軍一貫憶では賓存が除去されることが 出来なし。 丁度, 円が刊さを失うことが出来ない様[二 それが買存しなぐ なることは不可能で、ある」と云っていること(こは疑問が生じてくる。 貫f子 は形相:二作うことによってその主のの立存にはなるが, 形相は貫存の11;: り方」 を輿える だけ で決して賓存そのもの esse s im p lic i ter を興 えな こ 形相は 買存するものの「何であζ)かJ e ssc qll id だけを興えるのであ乙し 従って形相のみの軍一貫時はi1j1jであるかJ ess 巴 qll id と云う本廿にづい

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ては 完全 な現賓態であって, 従ってそれは「それ でなくなるJ no n e sse qui d ことは決してないのである 。 しかしその様に決定的にそれであるもの にも, 1" �I革的にな くなることJ no n e sse への可能性は依然としてなくなっ てな いのである。 何となれば「であること」の完全 現賓態たる 形相はそれ 自身では未だ決して「があること」の完主現貫態に到達しないから, 前者 は依然として後者に闘して可能態であり, 従って e sse simp lic iter の否定 を許容しうるのである。 ところが合成貫開では「がな くなるJ no n e sse へ の可能性の他に, 更に本質に関す る可能詰たる質料 が介入するから e sse qu id についても 決定的でな く, 従って n on e sse qu id たる「 それでないも の」 への捧化の可能が認められる。 こ れ に射して単一貫轄 では本質に闘し ては形相的現貫態のみであるから no n e sse qu idには決して成りえな いが, かと 云って貫存 に関してまで現貫態となるには未だ不充分であム 鼠ー形 相は確かにそのものの賓存e sse re i ip siu s の制約係件ではあるが, 賓存 そ のものの決定的規定原因 ではありえな い。 従 ってそれは e sse qu id を失う 可能性がないとしても, 依然として e sse s impl ic iter を失って no ne sseと なる可能性 をそれ自身の中に有しているご そこ で引用の後牢は e sse の代 りに 巴 sse qu id を入れて impo ssibile e st ig itu r qu od ipsae e sse qu id d e sinant とすべき であろう。 「 円が円さを失うことがない様にそ一れはそれで、ないも の no n es se qu i d に輔化することはない 」のである。 {旦L, そうだからと 云ってそれがなくなる no n e sse ことが不可能になった誇でない。 もしこ のこと を評せば, 本質乃至 形相規定の方から貫存 乃至存 在を謹明すること が出来 る ことになり, 聖トマスが「本質上り貫存 への飛躍」としてあれ樗 tJr撃した神の本韓論的謹明をも認める結果になる であろう。 円が円さを失 わな い様に, 確かに質料 を含まない 形相は「それ であることJ e sse qu idを 失うことがない。 蓋しもし 円が円さを失わな し、機に, 形相が賞存を失わな いとすれ(;f, 形相は貫存 を自ら原図的;二 a se に有していることにな り, 形相乃至本質の完全 を謹明するこ と によってそれの賓存 をも誼明すること

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実存と本質との区別が質料形相論に及ぼす影響について 19 が 出来 る様になるから である。 元来この様な プラトニスムを克服すると こ ろに聖トマス哲皐の震の意義があったのであるが, その戟いは除りにも苦 しく, 聖トマスは真に獲得 すべきものを確買に獲得したと は 云え, それだ けでもやっと のこと であったので、あって, 未 だ多くの箇所に プラトニスム の齢韻が消し難いのも誠に無理もないこと と 感ぜられる。 以上のこと から衣に 示さ れる引用にある如 く, 形相のみよりなる天使の 可減性が天使自身には 内在しないと の 考え方も生じてくる。 蓋し, 形相と 賓存 と が同一視さ れてい るから である 。 “Cu m aliq uid ver t ib il e in nihil , non i mp or tatur in cr eatura p ot entia a d non ess e, s ed in cr eator e p ot entia a d ho c q uod ess e non infl uat. D icitur a ut em aliq uid cor r up t ibil e p er ho c q uod in est ei p ot entia a d non ess e." (Su m. th eol. Q. 75 a . 6 , a d 3)引用の 後 宇にある aliq uid cor r up ti bil eは質 料 と の合成貰瞳 でこの様なものが, 非存

在への可能態を 内在せしめてい ること は問題な く認めても, 形相のみから なる天使自身は自らの中にその様な可能態を含まず, しかも紳以外の 一切 は何らかの意味 で無に錦 す る可能性あるもの aliq u id ver tibil e in nihil で

なければならないとすると 天使の非存 在への可能性は天使自身の 中に な く, 専ら神の側にあると せざるを得なかった課である。 しかしこのこと は 先きにも引用した De ent e et ess ent . cap . V. やCont r a g ent . 11. 54, に

於いて純粋精紳貰韓がそれ自身 for ma と ess eと の複合と 云う 内部構成を 有ってい ると する 考えと 些か適合しない。 蓋し, 凡ベて複合的のものは又 分離の可能性を避け難いと さ れてい るから, こ のこと 自身非存在への可能 性の 内在を物語っているのである。

この問題は結局貰存 ess e と 本質 ess e q u id と の直別によって究極的に 解決さ れなくてはならない。 上述の引用の後宇 では合成賓轄の可減性 cor

-r up ti bilitas が 扱われており, 確かに p ot entia a d non ess巴 が内在してい る のであるが, 同時にその上p ot ent ia a d non ess e q ui dも内在しているので ある。何と なれば質料 と の合成韓は存 在しな くなる許りでな く, 同時に「そ

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れであるところのものでなくなりJ, 他の本質に轄化することが 可能だか らである。 従って非賓存への轄換はそれと同時に本質Sの非 Sへの縛換 でもあり うるのである。 それに封して引用の前半では形相のみの箪純賓轄 の可減性 vertibilitas が扱われているが, ここでは 質料的基鯉がないので 「それであるところのもの J Sから「それでないととろのもの」 非 Sへ の本質轄換はもはや考えられる絵地もなく, 唯s専ら 形相Sの 賓存から

形相Sの非賓存への韓換しか可能でない。 つまり potentia ad non esse quidの内在する録地がないが, それでも potentia ad non esseの内在の官余地 はのとっているのである。 軍純貫骨豊は確かに 形相・質料合成の見地からみ れば軍純であるが,賓存・本質の見地に立つJ二速の引用De ente et essent.

cap. V, やContra gent. U, 54,からみれば矢張りそれ 自身複合であるか ら, その意味でたとえ「それでないところのものJへの韓換の可能性を内 在せしめなくとも, rがなくなる」ととの可能性は 自らの中に保留しなくて はならないのである。 形相のみよりなる存在者が非賓存への可能性を内在 せしめないとの設は失張り形相官日貫存と考えるプラトニスムの徐韻の一つ で, 聖トマスが他の所で獲得した賓存優位の見地と確かに不調和である。

賓存 esseと木質 esse quid との直別かち云えば聖トマスが現賓態と可 能態に就いてきたの様に云うとき決定的な訂正的註障を必要とする。“Quoni. am quoddam potest esse, licet non sit, quoddam vero jam est: il1ud quod potest esse et non est, dicitur esse potentia ; i1Iud autem quod j却1 est, dicitur esse actu. Sed duplex esse: scilicet esse essentiale, sine esse sub‘ stantiale rei, ut hominem esse; et hoc est esse simpliciter. Est autem aliud esse accidentale, ut hominem esse album; et hoc est esse secundum quid:' (De princ. naturae, p. R Opuscula tom. 1 Mandonnet)この引用の前宇では esse の現賓態と可能態との直別が論ぜられているが, さて それならばそのesse とは如何なる意味の esseであろ うか。 引用の後牢では esseにはesse sub­ stantialeと esse accidentaleとのこ義があるζとを指摘し, 従って現賓態

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実存と本質との区ll!jが質料形相論に及ぼす影響につL、て 21

と云し、可能態と云うも, 前者た る 貫韓存在のそれと, 後者た る向性存在の それとにつ いて別々 に云われるのだと結 論し て い るようであ る。 成程esse に は 十個の範鳴が示す多保1生があ り, その 中の 宣瞳範障に従つての esse s ubstantialeとその 他の諸範鳴に従つての esse accide ntal 巴との針立を 考え ることほ正富である。 この 引用 で は ess巴essentialeと 巴sse s u bstan tia leと が同一視さ れ て いるが, これ は本質 esse ntí a を 狭義に 使丹jして 優 位的本 質 た る貰瞳に 限定しだから で あっ て, 本質が康義 lことら れ , 1"で ある存在J e sse quicl一般と 考えられれば, それ は 十個の範鳴の 全 部 を包括 し, 従っ て esse s ubstantialeと云うも, ess巴 accide ntale と云うも共に 広義の本質 に 包括せら れ て, 結局, 共に esse esse ntiaJe の 二分さ れ た ものとぢえら れ る筈である。 かくて型トマスがíl�分した範時的二義は本質内のことであっ て, 貰存その もの e5 se ex iste n ti昌 l巴 の 匝月IJには 直接縮れ ては し、なし、筈 なの

よ � もす

しJめQ。

ところがこの 引用では esse substantiale は 直ちに esse simpJki te rであ り, 巴sse accident ale は 直ち にe ss 巴 se cundumquiclと云われており, こ れ は丁度, 本 論文自国に 述べた めαl á.7r入φse sse simpl iciter t::fY樟存在と し , elJ1a{引esse quiclを偶性存化と するアリストテレス 論理皐め先きに拒 否し た通俗的解躍と一致することになるのであ る。 しかし esse esse ntiale から esse ex istentiaJe を導出しえ な いとする賓存優 位の立場 よりす ると偶 性存在 lこ釘す る貫盟存在の 優 位 を直ちに本質存在に射する賓存存在の 優 位 と同一視するこの様な 考ーえ方は 1ft本的に 担否さるべく, 従っ て その 見地か ら esse s ubs tantiaJeをesse simp liciterとesse accide nta l巴をesse secun- d

um quiclと 同一覗すること な とは到底認めることが出来な し、のである。 聖 トマス;土 ここで専ら esse esse n ti aJe 内の 範曙的 二義の直引は し た けれ ど b, 未だesse ex iste ntiale と esse esse ntiale白瞳の直別を 考ーえて はい なか った 様 にみら れ る。 尤も esse s ubstantiale の 例誼とし て 「人聞が ある」 h ominem es況 を 掲げ, これは esse ex istentiale を示す 様で あ り, 又esse

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accidentale の 例謹として 「 人聞 は白いJ hominem es s e album を掲げ て es s e es s en tial巴 を示 す様であるが, これは es s e accidentale は底義の本質 es s e quid に 止まるとも es s e s ubs tantiale は 直ちに貫存es s e s impliciterと 考えることで , 賓存と 庚義本質 中の貫韓部分とを直ち に混同したことに由 来 する表現であ る。 そこで雨者を es s e es s巴nti al巴 に 統ーした上で病者の 例 謹 を考えれば, r 人間があるJ homin em es s e は「 人聞 は 人間であるJ homi­ nem es s e homin em, と幾えて, それと 「 入閣 は白いものであるJ hominem

es s e albumと を組合 せればよいのである。 しかしもし貰樟 巴s s巴 s ub s tantiale と偶 性 es s e accidental巴 との 例誼ではな く, 貫韓の 寅存 es s e s ubs tantiae と偶性の ì\存 es s e acciden tiaeとの 例謹だと 考えれば,1"人聞 がある J homi­

nem es s e はその空まにして, r人聞 は白い志の であるJ homin em es s e album を「 人間二して白 いものがあるJ homi口em et s imul album es s e とでも云 い縫えてそして問者を組合せればよ い罪である。

上の 様な 尖第で 巴s s巴 s ubs ta凶iale と es s e accidentale とが上の 引用の 後 宇で157えられている限り, 前宇の現貰 態 な り, 可能 態 なりの es s e はボヱ ティウスの云う quod es t 即ち , es s e quidだけと 解揮されるのであるが, また 引用 の 前宇だけを切 りはなして 考えてみると どうも ボヱティウスの

quo es t に嘗る 巴s s e s impliciter のみである様:こも 考え られる 。 我々はそこ で es s e actu, es s e poten tia を解樫すると き, その es s e に聖 卜マスの 上述 の 二義と は異な り, rである」本質 es s e quid と「がある」貫存es s e s imp-liciterの 二義を設定して, es s e actu quid と es s e actu s impliciter , es s e quid poten ti a と es s e s impliciter potenti a との 直別 をしなくてはなら ないと思 う。 つ主i) 1"であること Jと 「であ りうること J , rがあること」と 「があ りうること」との 匝別こそ大切なのである 従 って上述の 引用の 後牢 は, Sed duplex es s巴 s cilicet es s巴 巴s s en tiale (es s e s ubs tan tial巴 r ei aut es s e

acciden tale rei), ut hominem 巴s s e homin em, aut ut homin em es s e album; et hoc es t es s e quid. Es t autem aliud es s e plus , es s e 巴xis ten tial巴( es s e

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実存と本質との区別が質料形相論に及ぼす影響について 23

s ubstantiae aut ess e accidentiae), ut homin em ess e, aut ut hominem et sirnul al bum ess e; et hoc est ess e simpliciter ." と訂正して 然るべきであ る

そこ で最後にこの種 の 直別なし に考えら れた聖トマスのさた の命題 を検討 し てみよう。 “Talis autem invenitur habitudo materiae 巴t for m ae, quod for rna dat ess e materiae; et ideo est impossibile ess e al iquam materi am sin e f orma ; tamen n on est impossibil e ess e aliquam for m am sin e materia." (0 巴 巴n te et ess en t. c ap. V) 形相が 質料に ess e を輿える for m a d at ess e mater iaeとあるが, ここでは ess e は確かに ess e simpliciter の意にとら れている。 尤も上述した 引用 Oe s ubst . s ep ar at. c ap. VI では ess e が per for mam iこ附輿されると述べ られており, r形相からJ a for m a ではな く per modum ess enti ae の意で本質 形相に従っ て 輿えら れると云っている のであるが, とこだけでみるとforma は aforma の意味で賓存を形相 に 興 える如くにとら れ, これ は 全くプラトニスム である。 もしfor ma がそ の 様なものであれば, それ は 質料に射して 外在 原理 である機動因 c aus a efficiens に他なら ないし, それ は 不合理である。 我々の神別するところ で は形相は質料に「 何であるか」 と云う 本質 ess e quid を輿えるが, 決して 「 がある賓存J ess 巴simpliciterー ま でも 輿えるものではない 。 従って質料は 形相な.し で「 何であるか」の現賞態 を有せず, 又形相は 質料なし でも 「何で あるか」 の現賓 態を有して し、ると云うのが異相である。 離存乃至可離形相 が 形相のみで本質を形成して いるところから, r何であるか」 の可能 態 を 少しも有せず, 従って決して 他 の「 何かであるもの」 に轄換しえないこと は明瞭 である。 しかしこのことから それら が内在的に本質可能 態詐りか賓 存の可能 態ま でも 有しな いとすることは 勿論不首であって, 貫存の現貫 態 に閲しては 鞄くま でも外在 原理たる機動因 を必要とする。 従っ て質料なし に形相が現質的に 「 である」ことは 出来でも, それだけ では現賓的に「が ある」ことま で保謹さ れは しない。 形相の質料に針する離存性乃至可離性

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は賞は別の仕方で 謹 明されなくてはならないと思われる。 以上述べてきたところ で 明らかな様 に 形相は賓存 ess e でなく, 本 質 e ss e quid を附興する 原理であるから, 或る形相は 質料たる基轄に「何で あ るか」を附 輿 し, 或る形相は自ら 自身 に「何であ るか」を附 輿する。 引 用された聖トマスの論法でゆくと或る形相は 質 料 に賓存を輿え, 或る形相 は質 料 では なく, 自らに賓存を輿えるので, 質 料 なしに賞存すると云 うこ とになる。 しか し之は行過ぎで , 自らに賓存を輿える形相があれば, それ は 恰も ac tus purus と等しく ess e a s e に他ならないのである。 そこでど うしても或る形相は 質 料 に本質 だけ を輿え, 或る形相は自らに本質 だけ を 興えることになる。 質 料 は 少く とも質 料 的形相から本質を輿えられなくて はならず, その「何であるか」が成立する震 に何らかの形相が必要である ことになるが, 形相の方は「何であるか 」であるために必ずしも質 料基韓 を要せずそれだけ で よく, 唯々それ自らに本質を附輿 しさえすればよいの であ る。 軍;こ「があ る 」ためで なく, I何かであるJ存在者たらんため質 料 を必ずしも要せずに 形相のみでこと足りるところ に 形相の質 料 に 封す る離存乃至可離性が成立する。 形相と 質 料との 関係は先き に 述べた 引用 D e subst . separat. cap. VI にも ある 二重の秩序 du plex or do の中の第ー のもので, 未だ貫存の or do に 蓮せず, 本質の or do の範圏内 にある。 純 粋形相 f or ma pura は従 って自ら貫存を有する actus purus の ess e a s e とは根本的に異 な り 自らに 決して賓存を輿えな い 。 しかしそれは質 料 なし に自らに本 質 を興え うとものであ って, このことが正 に純粋形相副ち 精神 の白畳性乃至自主性を明示している。 蓋し, I何 であるか」の本 質を自ら に 輿えることは, 自らの何であるか を意識 する自費的認識に 相嘗し, 或い は自らの何であるか を決意する 自主的意志 に相嘗 するからである。 上に述 べた様 に形 相が貫存ではなく本質を附興すると考え 直すだけで, 形相の質 料 に封する離存乃至可離性が 直ち に 精神の自覚的自主的な本性乃至性格を 何の 疑う官余地もなく解示する黙 に注目した し、と思う。

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実存と本質との区日IJが質料形相論に及ぼ「影響について 25

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以と聖トマスの 文献 につ い て多少賓謹的に 検討してきたことな 轄系 的に 穂括してみよう。 現貰態 ac tus と可能態 pote ntia とが形而上県 に於いて 非常に重要な基 本概念、 であることは云うま でもないが, その論理 的な意味 を考えると前者は肯定と否定とに於いて肯定の結射的な定立 でιち り, 従っ てそこでの草的な否定は肯定に封する 相針的意味す らも喪失してし、るc 後 者では肯定と否定とは相封的に不定の欣態に留ま り, 従 ってそれは 肯 定 と否定とが何らかの意味で共存 し つつ包括されていることを昔、l床し てい 守 古〉。

さて上述してきたところから貰存 e sse simplic iterと本質 e s se quid と の匿別はこの様な現貫態と可能態に闘しでも貫徹されねば ならな いので, いき お い 現貰 態 には 「 貫存 に閲する現貫態J ac tus quoad e x出cntiam と

「本質に関する現賓態J act us quoad e sse ntiam, また可能 態 に は「賓存 に 関 する可能態J pote n tia quoad e xiste ntiam と 「 本質に闘する 可能 態、」

pot 巴ntia quoad e sse ntiam とが国別されなくてはなら ない。 形而上 阜の 原 理として重要な質料 mate r ia と形相 for ma とは屡々車的に可能態と現買 態と同 一覗されるが, それらは本質原理 である限 り貫は mate r ia= pote n tia

quoad e sse ntiam であ り, for ma =actus quoad e sse ntiam なのである。 質料 は「何であるか」と云う本質規定の受容 原理 であり, 形相は 「何で あるかJ と云う本質規定の附輿者であって, 司共に賓瞳 本質の形而上翠「河 原理 に他な らない。 質料と形相との合成賓曹は, 質料が「 それである」と「それで、ない」 との否定的共存 である 本質の可能態であるが故に, r何かである」 ものか ら「それでない」ものへの轄換, r sである」から「非S である」ものへ の本質幾化を 拒斥出来ない。 勿論 rs であるもの」が「非S であるもの」 に縛換 する際 rs であるもの」は首 然 「があるもの」から「 がないもの」 にも轄換 するので, 質料・形相の合成瞳は木 性上 pot entia quoad e sse ntiam

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であり乍 らそれと同時に 確かに potentia quoad e xis te ntiam でもあること を兎れなレ。 これが aliquid cor r uptib il eと呼ばれるものである。

ところが離 存 形相たる叡智瞳はもはや質料を含ま ないので, それは本質 に闘しては完杢に現貫態である 。 合成悼 の f or ma totiu s では f o r m a tantum の actus quoad ess entiam が 既 に mater i a め potentia qu oad ess entiam Iè:

よっ て制約乃至限定を蒙っていたのであるが, 軍 一賓轄の形相では何らこ の様な内在的制約がないので本質に闘しての現賓態 actus quoad esse nt 印n は完全 である。 従っ てこの様なものには如何なる意味に於いても「それで あるもの」か ら「それでないもの」への本質 轄換の絵地がない。 しかし聖 トマスに依ると この様なものでも 形相と賓存との合成は菟 れない ので,

「があるも の」から「がないもの 」への轄換は拒斥しえないのである。 そ してこれをve r tibile i n nihil と呼ぶ 。 従って質料を含まぬ純粋 形相であっ ても賓存に闘しての可能態 pote ntia quoad exis te ntiam は菟 れえなL、。 不 生不滅の第一原因は actus quoad esse ntiam の完全 な賓現である 純粋 形相 f o r ma pur a i二」上空りえず, actus quoad e xis te ntiam の完全 な賓現である純 粋 現賓態 actus pur us で しかないと云うところに聖トマス哲壊の頂貼があ る。 か くて第一原因 以外の一切 の世界内在者は何らかの「賓 存に関する可 能態」を含み, しかもその中の一部はそのと更に「本質に闘する可能態 」 ま でも含んで、いることになる。 形相のみより なる叡智糟 inte lli ge ntiaは軍 に 「賓存に 閲 する可能態 」のみ を含む芳味で可減瞳 ve r ti bile i n nihi l で あり, 質料形相の合成韓は「賓存に闘 する可能態」 だ け で な く, I本質に 闘 する可能態 」も含む限りで可愛瞳 ve r tibile in aliud = cor ruptibile である

と云うべき である。 貫存 ess e に閲しての否定 n on ess eへの鴎換と本質 ess e quid の否定 non esse quid への鴎換とは明瞭に匿別さるべき でふる 。 「があるもの 」が「がないもの」になると云うのは貫存に闘しての可能 態を前提しているが , これは未 だ「であるも の」から「 で ないもの」に推 移 する幾化mutatioとは云 えないと 思 われる 。 従って可減性は本質に闘し

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実存と本質との区別が質料形相論に及lます影響について 'z7 ての可能態を前提 する可愛性でほないのである。 尤も逆に可礎的なものは 必然的に 可滅的で, 可i成性は可愛性よりより虞汎な概念である。 獲化 muta tio は従って 形相の他;二何らかの 「本質に係わる可能態J tこる質料を 必ず前提しているが, ここ に云う 形相と質料とは共に本質原理とは云え, 厳密に云えば , 貰韓本質の原理なのである。 本質 「である存在Jは一切の “巴s t P" で, その 十個の多義性が 範曙 prae dica me ntaと呼ばれる。 そして 記号蓄の中でも貫韓は木質I-j,の本質と呼ばれ, 優位的に本質であろc 従って 賞轄の秩序にある in ordine s uhs ta ntiae ところの質料と形相とに芸ぐ 幾化 ば特 に貫骨警鐘化であ り, 本質礎化の91でも最も優位的な麹化なのである。 その{也の範曙, 就中, 性質, 分量, 関係 から成る層毒性 範曙;二ついてほ!膏|生 後化, 能動, 所動, 時間, 空間1, 欣態から成る 偶 性 範曙につし、ては偶 性愛 化等が考えられるが, 何れも貰円 費化と 同じ く贋義の本質幾化でお り乍ら, ぞfしらはほ生的な本質強化でああと云えよう。 最後の偶 性愛化は現象愛化て, ややも すると通常これのみを漣化と 考え るのであるが, それはプヲトニストの 考え方であるc 貫一轄が因果律:二上 っ て個別的に現象したものがこの向性愛化であるが, それは買瞳木自に 内l害 する一定の属性的一般者の枠のrcj,で 貫現するc この理由律:二従って貫管ド 質と蓮結する 諸属性は現象強化の枠であ って, 現象幾化と共iこァ選るもので たい。{周号IJ的な現象愛化の杵として一般者的安嘗性を 有 するもの乍 ら, そ れは唯z賞特本質の不趨性:二位嫁して いるに過ぎない。 貰骨豊本質が獲化し ない限 り確か:三それは不幾で, その貫轄の現象幾化の枠として 通用する。 その場合責糟不獲, 属性 不獲で 唯:現象獲化あるのみである。 しかし賓瞳 本質が費化すると属性の不透'I�tはもはや保 謹されない。 尤も貫静養化と共 ?と属性努化が 必ず起ると云うことで な く, 層性不愛が保護されなくなると 云うことだけである。 ところが逆に現象鐙化が従来の枠をはみだして, ど うしても属性の枠を務更 し なくて はならない時, 換言すれば層住が 明らか に費化した時にはそれは確かに賓糟費化があ ったことの謹擦になるつ 賓瞳

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務化, 冨i生音量化, 偶1生費化等音量化も多義的ではあるが, それらの相互関聯 は, 結局は賓瞳 と 属性 と の聞の理由律, 貫時 と 偶性との聞 の因果律 と から 説明しうることなので, 要は審議化の基本的な本質輔換性を, 本質縛換の優 位的な型である貰韓鐙化に就いて, 11mち,ff料と 形相 と の合成貫韓の愛化 をjii1_じて担えて.:-;;く ことにある と 思われる。 賓存の秩序に於ける現賓態と 可能態, 本質の秩序に於ける現賓態と可能 態 と の雨者:戸国7]1] されるこ と は既 に明らかであるが, 最後に雨者を如何に 関聯さすべきであるかを問題 と し よう。 賓存に闘しての現貫態が完全 であ るのは ac tus p ur us に於いてのみで, それ以外のものはいずれも一様に賓 存:こ閲しての可能態であるかどうか と 云う と , 本質に闘しての可能態たる 質料と 合成する貫曜 と その様な可能態を一切含まぬ 形相のみの貫轄 と では 大分ちがうのである。 前者は 「がなくなる 」 可減のみならず, 「でないも のになる」可愛を含むので, ぞれが可獲である以上, 可械 と 云うこと は必 然的て、ある。 rsである」が「非Sである 」ものになるのはrsがなくな る」こ と を必然的;こ含むものであって, その貼で可愛のものに と って可減 は per s巴 である。 それに針して後者たる 形相のみよりなるものは 一切の 可愛|生を排除し, 唯= 「がなくなる」こ と のみ可能で, 賓存iこ闘しての可 能態のみ排除し切れないでいるのである。 そしてこの場合, 滅失は可愛の ものの場合の様に 必然的或いは首然的のこ と でなく, 何か起つてならない こ と が起った様な全く per accidens のものである。 尤も可減性がた と え pe r acc ide n s であ っても 決して そのものに 外在的でなく, 充 分 内在的!二

per acc ide ns でありうるのである。 この様に賓存に関しての可能態は本質 に闘しての可能態と 重なる場合 と 重なら な し、場合 と があって決して 一様で はなく, 前者より後者に移るに 従って弐第に軽くなる。 逆を云えば, 前者 たる質料と 形相の合成の場合より�一 形相 の場合の方が賓存に闘する現貫 態、も重い意味をもってくる と 云うこ と である。

(23)

実存と本質との区別が質料形相諭に及ぼす影嘗について 29 でには到らないので, 賓存は如何なる純粋 形相をも超越してしまうととろ に賓存の秩序と本質の秩序との分 別の虞意があったのである が, しかしそ れだからとて雨秩序は決して背反する ものでなく, 反って卒行する もので ある。 質料との合成になるより質料的のものから 形相のみからなる専ら 形 相的のものに移る に従って, つまり本質に関しての可能態から, 本質に闘 しての現賞態に移る に従って, 賓存に闘しての可能態もその意義を稀薄に し, 逆に賓存に闘しでの現賓態の意義が比較的に重くなる。 蓋し, 上述し だ様に, 可務的なものの可減性は per s e ではある が, 不可幾のものの可 減性は per accidens であるからである 。 そこから本質を附興する 形相が決 して賓存を a f or ma に附興する謬ではないが, そして貫存はあくまで機動 因からのみ附輿さ れるもの乍ら, しかもそれが 形相を通じて per f or mam に附輿さ れるとの表現が出てくるのである。 賓存の秩序一貫存に闘しての 可能態より賓存に闘しての現貫態への道程ーは本質の秩序一本質に闘して の可能態から本質に閲しての現賓態への道程ーと必ずしも相鷹せず, 前者 は後者の及ばぬ純粋現賓態にまで抜きんでてはいる が, しかし雨者の聞に はー慮の卒行閥係があって, 質料形相の合成から純粋 形相に移る に従って

賞存の滅失も per s e から per acc idens に移行し, 形相的であることが, それだけ一層賓存的でもあると云う比例性も 決して否めないのである。

ここで可愛 mu tabile とは云うまでもなく賓韓可獲で現象盛化の意 味で の可療でない 。 従って従来の合成賓轄の corr up ti bileは可善意可減であり, 軍 一賓轄の ver tibile in nih il は 不 可愛可減となり, 第一 原因たる純粋現態は 不可愛 不可減となる 。 可 幾とか 不可痩とかは本質の秩序のことで, 可減と か不可減とかは貰存の秩序に属する@向, 可餐可減の可j威が per s eである に封して, 不可愛可減の可減が per accidens であるところ に貫存の秩序 が本質の秩序を超出し乍らもなお卒行していることの鐙左がある

f

(24)

(5)

以上の瞳系論的な蹄結から 聖トマスの否定 negatio, 依如 privatioに関 する考えを再吟味したい。 蓋し, 聖トマスに依れば, 否定, 棋如は消極的 で何ら客観的な存在と in seに針謄することがないからである。

賓存 ess巴と本質 esse quidとの肯定と否定とは全く異った様相を示す。 rsがある」 と その否定たる rsがない」 とを比べると前者は積極的で あるが, 後者は消極的である。 ととろがrsであるJと その否定たるíS でない」とを比べると雨者は積極的である。 蓋し,íSでない」は正に「非ーS であるJであって, 非-s本質はS本質と等しく本質であり, 積極的であ るととを菟れえない。 そしてこれに比べて賓存の否定の方は非賓存であく までJ符tÆ的であることも�tかである。

今, 本質巴ssentia,rである存在J esse quidの方から検討してみよう。 esse quidは結局a1iquidで それの否定も再びa1iquidである。 ここで本 質を云うとき勿論先ず賓骨豊が考えられているが, その他の範鳴に属する一 切の「である存在」も それに該首する。 本質の肯定, 否定ともに本質であ り, 概念notioの内容となる。 そこでこれら雨者ともに認識の第一段階た る cognitio notionisに於げる抽象abstractioの所産で, 認識の次の段階で (1) 以上のことを圃示すると失のま日くである quoad essentiam

I actus cum pote�,tia compositus I acや sol凶 i

cum materia compositum

I

forma pura "

1 ---圃圃圃園圃圃'・ ー今

(corruptibile)

I

vertibi1e vertibi

i

らin a1iud in nihi1

mutabi1e immutabi1e " corruptibi・

litas per 1

qωad I....s:orruptibilltas per se ! accid巴ns i actus puru�� existentiam

1

aCtus cum potentia compositus I -I

f

immutabile \f

(25)

実存と本質との区別が質料形相論に及ぼす影響について 31

ある結合, 分離の cogni tio judicii に射して要素となるものを 提供する。 その意 味でこの様な範鳴的存在、 s tP", esse quid ,は未だすIj衝の結合, 分

離以前のens per seであると云 う。 それらは抽象を通じてえられる要素

でいずれも cum f un damen t o in r eであるから, 肯定 項, 否定 項いづれを 問わず少くとも形式的 に積極的な意 味をもってい る。 そしてこの様に判断 の分離作用たる否定 n ega tio 以前の要素に 該嘗する否定項につ いて特に猷 如 p r iv atioと云 うことが云われるのである。 かくて 一般に p r ivatio は積 極的な意味をもつこと になる。 ところが本質に関する可能態たる質料が形相と合成することによって, 賓鰭形 相はfor ma t o ti us となるが, これをS として, それの紋如非S は 草に意味の上で積極的である詐 りでなく, 必ず in r eにも針謄する封象 的 な本質であるοS の飲如たる非S はS が 質料を 有するが故にやがてそれ へ轄化すべきS の矛盾本質に他ならない。 それはS の質料可能態の 中に 相封的 不定的:二包括さ れていたものの賓現で立涯に客観的な封象性 格を 有 してい る。 叉同様のことを属性の範曙で云 えば, 質料に由来 する 分量と, 形相に由来する性 質とが合成した層|生Pとそれの紋如たる 非P( 例えは 大小, 濃淡〕とは共に形式 的に積極的である許りでなく, 雨者共に客観的 針象性格を失わない。 質料との合成になる賓韓基睡が反針し合う属性の何 れをも自ら に内属せしめることはアリストテレスもオルガノンに指摘して いるところである 。 Pの紋如はそれ だけ非-pと云 う反酎属性の増大で, 又逆l三井Pの快如はそれ だけPと云 う反射属性の増大を意味し , いづれ も客観的事態と封麿する。 この貼で聖トマスが献如を封象的封麿なきもの

(1) アリストテレス形而上皐11et. 1017a 7, 1025a 33, 1027b17, に於いて TÒ ðv Ka.(J'αÓT6, ens per se と云われるもので.,..ò õv 四吋 σuμ供β酬の, ens

per acc idens と封照される。 それは断定の要素でそれ自身買である外なきも

のである。 後者は人策的断定によるそれの結合, 分離から生じたもので, 員偽 何れにもなりうるものである。 これら二つは寅患を示すens in s巴et per se

とか偶性を示すens per al iud等の範時的医別とは異なる。 オルガノJ

(26)

と解したことと相違している。 しかし貫瞳 本質がもはや本質的可能態を含まず, 専ら本質Jこ閲する現賓 態、のみである軍 一形 相の賓韓 本質Sと, 形相のみに由来して何ら分量的な ものと合成しない属性Pとに於いては, ぞれらが共に 「である存在 」で あるが故にそれらの快如非 S , 非Pが一軍形式的積極性を 有するにして も, それは何ら客観的針象 的 相 麿 をm re に 有していないととも 明白であ る。 蓋し, 紋如にも客観的に 相 麿しうるところの 質 料 乃至それに由来 する 分量的属性の如何なるものもここでは排除されているからである。 快如に ついて客観的相膝をみとめなかった聖トマスの翠設が安賞するのは正 にこの for ma t an tu m 乃至 q uali t as p ur a め 範圏であって, ここでは非S, 非Pの僻如否定 項は肯定 項と等しい形式的積極性を有しながらも, 貫質的 には何ら i n re に相麿しない e ns r atio nis tantum に他ならない。 つま り 肯定項は e ns re ale に 相麿し乍ら 否定項み e ns r atio nale のみに限局 さ オ工るのである 。

次に貫存 e xis tent i a rがある存在J ess巴 s implici te r につ いて肯定, 否定 を考えると上述とは全く趣きを異にして, -/1定の積極性にも拘らず, 否定 は全く泊極 的である。 それは本質の場合とは逆に少 くとも形式的に消極的 であると云わねばならない。 「がある存在 」はS es t の場合 にも みられる 様に es tが動詞で肯定命題の結合として始めてあらわれ, そ の否定S non es t も 命題 的分離として始めて現われる。 それは cogni tio judici iの認識段 階での所産で, その意 味で e ns pe r acc idens として針象との 相麿の吟味に よってその賓偽が定まる。 認 識の第一段階での抽象の所産たる概念では, e ns p er se のみが問題で封象との 相膝が c um fu n d amen to i n r巴 と云う抽 象の本性上何ら吟味されることなしに認められたのであるが, ここではそ うはゆかない。 つまり「がある」賓存命題は針象存 在との 相躍が吟味され て始めて冥とせられるので, 従ってその否定たる「がない」非賓存命題ば (3)誌1を参照。

(27)

実存と本質との区別が質料形相論に及ぼす影響について 33

封象の非存在との相懸の吟味によって異とせられる。 換言すれば 相 藤封象 がないと云う正にそのことによって始めて買となるのであ る。

かくて e sse si mpli citer の否定がもっともよく現 われるとこ ろが I psu m Es se たる神の貫存の否定であ り, これは正に n on e sse t antu m, n on e sse

s

i mpi li ter に他ならない。 つまり否定 項の消極性は形式的にも賓質的にも との場合完全 であ る。 これに射して本質の可能態を一つ も含まぬ形相 のみ からなる軍一貫瞳S ( e ns re a le) の賓存の 否定は矢張り n on e sse t antu m

で主観的封象・存在は 勿論のこと何ら客観的な封象・存在をも議定してい ない。(つまり何れの意味 での封象存在にも封謄しない 。〕これに針してこ の様な章一貫瞳 の本質否定 項たる非ーS ( e ns r ati onal巴 t antu m) の貰存の否 定は, 上速の本質肯定 項S ( e ns re a le)の貫存の否定の場合の様にもはや 客観的封象との存在針慮の否定でなく,車に 主観的釘象の存 在 巴ns r ationi s t antu m i n me nte のみとの封鷹否定であ り, とにかく何れの場合も形式的 に等しく 消極的乍ら, 賓質的には そこ に一つの差別が生じて いるの であ る。 つまり前者 での泊極性は多く, 後者 での消極性はそれに比絞してより 少いとみられる。 ところが本質の 可能態たる 質 料を含む台成貰樟S ( e ns r e ale)の貰存の否定は形式的に n on 巴sse t antu m で消極的であ るが, 貫質 酌にはそれの本質否定たる非-S ( 巴 ns re a le)の貫存との封鷹肯定であり, 又逆に矛盾本質た る非-S ( e ns re a l巴 )の貫存の否定は 直ちに 貰轄木質S ( e ns r回le)の貫存との封鷹肯定となって,形式 的に のみ消極的であ るにし ても, 貰質的には積極的客観的な意味すらもつことになるのであ る。 かく て賓存e sse の否定であ り乍ら, 今ま でとは蓮って 客観的封象と in re に 積極的に封躍する様な事態が新たに生じてくる。 (向, 以 上のことは 軍一 貫韓S に 相麿する 非分量的にして 純粋性質的な属性Pと非Pとについ ても, 或いは合成貫瞳S に 相 膳する 分量と 相 較的に性質的な属性Pと非­ Pとについても全く同様に成立す

2

。〉 (1)次頁参照。

(28)

最後 に矛盾と定義の論理たる排謹法論理が聖トマスの訣如乃至否定論と ど の様 に闘係するかを考えたい。 貫 在矛盾が成立すーるため に衣の三僚件が 必要である。 (1)肯定に針して否定が同様の積極性をもっとと。 (2)この 積極性は客観的針象と i n re に酎麿するものでなくてはならぬ。 (3)肯定 と否定とが互い に他を 自己の外へ疎外せず, 肯定の自己性がそれの否定を も 自ら のrt1 に包括すること。 (1)は賓存に闘してでなく本 質 に闘 しての肯 定と否定とに於いて成立し, (2)は本質に闘 しての可能態たる 質 料との合 成 に於いて 寅現し, (3)は撰言肢として述語的に両立する 属性本質に関し てでなく, 買 に究極 主語 的な賓瞳 本 質 に於いてのみ成立する。 か くて排謹 法論理は属性本質ではなく先づ貰瞳 本質の論理であり, 質 料との合成本質 の賓糟幾化の論理であり, 最後にかかる矛盾的本質の介在を前提した上で の賓存の論理でもある。 排謹法論理の存在論的性 格 についてはソフィア叢 書「現代存在論の諸問題」中の拙稿「スコラ的存在論と排謹法論理」で詳 細に論じたので敢えてここに繰返 すつもりもないが, 貫存と本質との直別 が献如乃至否定論に及ぼす影響について以←ヒ述べた糟系論的考察の中で排 護法論理の占める地位も 自ら 明らかになるであろ うと 思われる。 (1957. 9, 1) jß記 本稿l土1956 '年5月 23目京都大皐に於ける'1 I世析皐令大台での報告に基 くものである。 (1)以上述べたことを園示すると次の様になる。

or d o e sse n tiae : forma t otiu s for ma mat er ial is S ve l n on-S (P ve l non-P) 1 e ns r eale e ns re ale 1 e sse 110n e sse vel ve l non e sse e ss e ord o existe nti ae : e ss e al icujus

tor ma p ur a S v el non-S

(P vel non -P) (S vel non-S)-,

1 1 1

e ns r eale e ns e ns re al iss imum ' 1 r at ionale tant um abs olut巴 non ens

ess e 1

ve l n on e sse non ess e non e ss e e sse si mplic ite r s imp lic ite r e sse s impl ic it er se cundum q u id Ips um Esse 11

参照

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