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全存在の統一性-香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

商ヱ鰹臍研究 弟十二巻麓三鹿︵鍔訂㌫︶

金存在の統一︰牲

高 階

本稿は、本誌弟九巻第苧四祇特観﹁記念論文集﹂内に扶銀された﹁存在の矛盾性﹂の嬉薦ともいふべき意味を有つも のである。すべて、存在忙矛盾性が本質的であるとは、それが、個々の存在として、その存在性を明岬且つ判明ならしめ るためには、、必ずそれに矛盾する他の存在を自ら包銭すると共に、またそれに自ら封立せねばならぬといふ罫腰を指すも の忙外ならなかった。併しながらさうした個々の存在は、それ忙矛盾する他の二切の存在と共に、結局に於て、唯劇なる 仝醍的存在駄形成してゐ牒と見るととができる。この仝醍的存衣そのもの、即ち存在白鴎は、自らの中に多様多校なる矛 盾反封の個存凝を包括し㌻、而もそれ自櫨に於ては、・小みじき調和流言まで完結きれてぁると都ずることができる。 本稿はさうした仝存在の調和統脚性を、理論的に基礎づけようとした試みに外ならぬ。 仝存在の統両性 五四 ≡ ニ ー・ 容 内

鹿存在と全存在

個存在の矛盾性と仝布衣の統⋮性 統 劇 性 の 意 義 統 岬 性と完全調和 統 劇 性と自問律 ︵丸山︶

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︼ 個存在と生存在

存在はすべてその矛盾性によつてその存在性が確立されるといふとき、その存在とは、我々にとつて先づ最も 直接的なる存在である。けれどもそれは結局に於て、個々の存在であつて、存在日照ではない。存在白牌は仙切 の個存在をすべて綜合して、何それ以上の意味を有つものである。かく佃存在の叫切を包括すると共にまたこれ を超越するが故に、それは我々の経験を超えて存在せねぼならず、その限りに於て、生存泰は我々にとつて最も 速き存在である。併しながら、今若し我といふ個人的主観を離れて、客観性のままに存在自牒としてそれを親ず るならば、か1る塩鮭験的仝存在ほどに直接に間近く存在するものは衣か得ない。何故ならば、我といふ檻験的 佃存在はかくの如き超経胎的存在自餞の﹂部分的存在に外ならす、その存在を離れて澗立に我は存在し得ぬから ヽヽ である。アリストテレス以氷の.一般的用語忙よれば、我々に判して竜⋮s着か助は経験的佃存在がより先き是h↓Mb等 ヽ︳ であるが、事物の本性上↓誉訂空からすれば、それよりも灘経験的存在がより二僚発きモ。−.で岩ヒであるといへる のである。かくの如く、すべての掴存療の以前にあり、一切の憫存在をその部分として所有する詔紅粉的存廃白 餞を我々は全作在と名づける。 さて、以上の意味に於ける金存在と経験的なる佃偏在との紺係を見るに、仝は固より仰の畢なる集合ではな い。仰が兜づ在ってそれが集合し、以て全をつくるのではなく、仝なくしてけ偶の存在が給血に可能ではない。 第十二審 弟 二択 ︵九こ︶ こ

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個は全の中の個として、或は仝の自己限定たる仙として、初めてその存在が可能である。随って仰の作東する以 上、仝は眈忙それに先立って存在してゐなければならぬ。それは恰も、例へぼカントに於て、経験が廃除として 存在し得るためには、既にそれに兜立って先験的班素或は催件がそこに存在トてゐなくてはならす、或はまた甥 象畢的立場に於て、赤、帝等の個々の色の布麗し得&ためには、そこに既に色仙般なる金牌的領域が布衣せねぼ ならぬ、とされるが如くである。 個存在が以上の如く部分的存在であるとすれぼ、仝存在はいぶまでもなく傘牌的なる存在である。相宿泰は我 々にとつて常に甥象者として経験的に把捉される有の存堰であるが、この有の有水はそれのみでは決して灸存在 とはなり得ない。現象はいかに多くこれを集積するも、そこに直ち忙超現象的本腰を現出するわけにはゆかぬか 、ちである。それは例へば、正多角形の適がたとひ無限に増加するとしても、直ちにそこに閲の甥出することはあ り得ぬと同じである。無根施多角形が凰となり、賓有の無限集積が営為となり、経験が超経験ねり得るために は、むこに必ず叫の飛躍がなければならぬ。ベルグソンの生命の飛躍はかくの如き意味のものと解される。それ 散にその刻々の飛雌がよく非蓮按む蓮種たらしめ、所謂生命の純粋持続をも可能ならしめ得るのである。併しな がら、かくの如き飛躇が叫般に可能であるためには、その飛躍がいかに荊.撥に行はれるとしても、結局それを出 ることも染たそれに入ることもないといふが如き、謂はゞ飛躍の場とでもいはるペきものが存在してゐなければ ならぬ。それが即ち、現象としての有を超えた本館としての無の世界と見られ得る。無の≠界は有の聴界の〓切 仝布衣の統脚性 ︵九三︶ 三

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第十二番 第二柴 ︹九四︶ 囲 め裂撥を撼たし、非連械性たる有のすペてに蓮絶性を典へ、分離せるあらゆる有を鵬の聯開忙まで結合せしめる ものである∵ハルメ一こアスが、有の極限以上に無限に亙る有の存在を認め﹂有の分割満を満たす宥の存布を認め るとき、その有の存在とは、却って我々のいふ非有即ち無の存在に潜る如きものでなければならぬ。、仝存布とは かくの如き有無の世界をすべて包括Lた登山者であり、現象と本腰とを打って叫丸となせるが如き鋼牌者であ る。有無の世界に耗る相封的佃存在は、この牟存在を超えてその外に存在することなく、また他より釆ってそれ 忙入り込むといふが如きこともあり得ない。国々この全存在内に在らざるもの、.生存在外に在るものは、て?も 存在せぬといひ得るからである。 こ鱒に有のせ界に於ける存在としては、生争意織・低値・物質の摘存在傾城を鍵げることができ、これらの非 蓮披的存在に藩校性を輿へる無の世界としては、始泌的無と究極的無とを餐げることができる。公布布とは、こ れらの二響牢包括したものであり、有にして有以上、無にして無以上の存在である。 さて、かゝる全存在と、その中に於てのみ存在し得る相客在との関係について見るに、それには凡そ四つの正 敏に於ける考へ方または見方が可能セぁるで協らう。即ち、園納法的・演繹法的・魯紹法的・即存在的なる超租誇 法的立場のものがこれである。 先づ第仙に締約淡的考へ方では、最初に佃存在がぁり、その佃存療が集積するとき、そこに直ちに発布和が形 成ぎれるとする。個存在の多から全存在の盲導かんとするのである。例へば、林檎が落ち、雨が落ち、隕石が

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落ちる等々の仰々の現象の存在を認め、それあるが故に、本糟的剛者としての引力の決別が春本すると論結する 如きである。こゝでは全脊在が先づ考へられるのではなく、またそれが用後裾となされるのでもない′。重なき佃 が、先づ蚊別に者へられるの軍訂か。併しながら我々町立場に於ては、個は閣々重なくして存在するものではな い。仝を離れた佃は脚主してわ意義を有つこと庖きが放た、掃納決が最初に個存在を確嘗なものとトて認めると き、それは眈忙仝存在を前掟してゐると見なくてはならぬ。か.1る前提なくして鋸納法の成り立ち得ぬことは、 それがかの自解析仙律を前凝とすることなくしては空皿∫轟ぬ寄寓に徹しても明かなことであらう。 次元、涯繹法的考へ方は反酎に、鈴剛に梱布衣を認めるなどのことはせす、最初に兜づ天釆的なる発布燕を指 定してしまふ。そしてその次に、個存在は只この仝存在の存准牲を頼現するための手段的意味をしか有た軋もの として遇される/。′例へ.ば、.引力¢法則が存在する、それ故に林檎が落ち、雨が落ち、隕石が落ち等々であるとな す如きヤある。眞賓の存在はこ㌧■では唯本腰的山のみであり、現象的多の世界はこの血の、多秤多様なる規はれ または影のみに過ぎない。随ウて佃布衣は虚妄の世界であるとすらも考へられる。併しながら、仰を離れた粂も 亦、国々抽象のみである。具醍的に存臆する仝は、.内容たる掴を離れて凍り得ない。佃によつて符明され、軍埠 され、報瑛されることなき全は、猫断者の恨夢に過ぎぬとさへもいひ得るのである。 群謹法的見方はまさしく以上の雨着を包托しっ1、それ以上の立場に立つものと思はれる。それは相矛厨する 個促進と相称社とを止掲⊥て一、、その上に全行准を成辞せしめんとするものであり、或はまた、仝存在の自己分裂 ● ︵九五︶ 五 仝布衣の琉血性

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〇 ︵九六︶ 六 第十二啓 発 二 流 ヽヽ の上に、更により高き生存衣を船二せしめんとするものである。例へば、根を離れた林檎は落ちるが机上の林檎 は落ちない、雨は落ちるが水蒸気は落ちない、隕石は落ちるが月は落ちない、それらの落ちるのもまた落ちない のも共に引力の法則によつてである、.と解する如きである。矛屈し反封する多の現象を葉揚することによつて鵬 なる本鰐を成立せしめるのである。この考へ方は確かに憫布衣と公布療との関係について多くの屋珊を把捉して ゐる。けれども、如何にせんこの立瘍は緒論理的立場であつて、眞に即存在的なる直接の立場とはいひ得なり。 随って相宿在と生存在とが伶未だ多く封立的或は離泰的関係に於て存してゐることを否むわけにはゆかない。こ のことは、相封的符謹法と呼ぼれるものについては勿論、桝謂絶封的揮発法についてさへもいひ得られる事柄で ある0 かくて我々は敢後に、以上すべての論理的立教を超えた即存在的立場として、超耕蕗法的立場を締示しなけれ ばなら氾。この立場に於ては、最初から全作在と佃存在とを分つことなく、そしてまた戚後吏でこれを分つこと がない。佃は全の自己限定であり、仝は個の自巳開展である。多即二現象即本鰹、色不具基、容不異色、色即 是貧、客即是色を、.世界の虞相となすのである。それ故に例へぼ、柁を離れた林檎の落ちるのも机上の林檎の落 ちない\のもそのま、に引力の表現であけ、雨が落ち水蒸気の均る現象袖に直ちに本欄的な引力の法則が見とられ、 隕.有の落ち月の落ちざることそれ白憾が引力の法則を形成するとなされる如きである。かく既に超桝詑法的であ るが故に、か1る立場は在来の西洋的論理をすべて抱越したものであり、布の中に無を見、無の申に有を見る、

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欝はゞ直下端的に有無包指の絶到着に蓼する狗時の立場である。それ故に西洋流の考へ方にとつては谷然新しき、

而も我が闊には古くより行はれてゐるところの、我々にとつて汲も本来的なる立場である。かしゑ几場の自慢的

恕揚によつて、こゝに新しき劉的徹域の蘭拓が果し得られるではないかと思はれる。

さて以上の諾意場を、今例へば人と帥との関係に常てて考へて見よう。膵約法では人々が相螢って神学つくり

上げることとなり、演繹法では紳が藩のまゝに人を創造することとなり、摺詳放では人も紳も共に学績精紳の如

き絶封署内に操舵されることとなる。それ故に、踵納法的立場では人によつての紳の否定が可能となり、将繹法

的立場では紳の名による人民虐待も可能となり、梧譜法的立場では人と紳との角逐も可能となる。然るに超開設

みことれみ 法的立場では人ば本粥紳であり、紳は直ちに人である。命は紳にLて紳と命とは同二である。そこには何れが発

き何れが後の匿別もなく、また本質・非本質の囁別もあり得ない。それ故にこの立場では、紳の香崇は人の否定

であり、紳人は只合叫し融合して存尭し得るのみである。

更にまたこれを例へば個人と固家との関係について見るに、踵約法では個人が兜づ存在し集合し、次に各偶人

が各誘その利益のため忙契約を結び、所謂契約飼家を形捜すること1なり、演繹法では個人が全く超個人的終劉

問象に隷厳し、その犠性に供せられて顧みられないこととなる。増訂法では何人も問家も宇宙精細の磯展過枠内

に甥はれ氷る階梯的意味の存在と解される。然るに超掛誇法にあつては最初から観衆即偶人、個人即閏家であ

る。閲家なくして偶人なく、個人なくして園家なし、個人の蝿大が閥家であり、闘家の縮小が個人であるとなさ

仝存在の統叫性 ︵九七︶ 七

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れるのである。 また次にこれを君民の閥係について見るに、膵網漁的考へ方では君は民の擁立せるものであり、滑繹法的考へ 方では民は岩の私布である。また督諸法的考へ方では君も民も平等に闘家構成の要素となる。然るに超府諸法的 考へ方では常民は問々山懐であり、君の中些民あり、民の中に君が生きて居られるのである。 個存在と公布在とほ以上の如く闇ふ二つのものである。それが、多の立場から見れぼ矛屑性を僻質とする個々 の存在となり、一の立場から見れぼ査餞的存赤となる。さて然らばその粂牌的布布即ち全称在を特質づけてゐる 存在酔は本来如何なるものであらうか。 こ 個存在の矛盾性と垂存在の統劇怜 一醍に、間々不可分割的なるも○も、畢的にこれを解絆するためには、これを分析もLなけれぼならぬ。伺布 布については沈忙その矛盾性が指摘せられ、﹁矛盾するものが矛屑するものの仔存を可能ならしめる﹂ことを以て その本質となされた。併しながらこの原珊はひとり仰存在にのみ要常するものであつてはならぬ。牟布衣も間々 耽に川存在を離れて存在し循ぬものである以上、右の原理は仝脊椎にまでも要常の及ばねばならぬものである。 党づ第剛忙、存在の仙様相たる矛盾的春慶そ ることは、その矛盾そのものの布衣は山牌如何にして可能であるかといふことである。これに判しては常然次の 第十二審 第 こ渋 ︵九八︶ 八

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如き答が準備されるであらう。﹁矛盾の存在は、それに矛僻するものの存在、即ち非矛屑の布衣にょつて初めて その存在が可能である﹂と。さて然らば、この場合その非矛盾とは抑々如何なるものであるか。それは矛何に矛 屑する存在であり、その限り矛盾患き状態即ち統一であるに外ならぬっこゝに於て矛盾の存在は統一の存在によ って初めてその有脛が可能でありハそしてまた矛借の在るところ必す統∵がなければならぬごと1なる。横言す れば、矛屑の存在そのものが虹ちに、非矛眉としての新二の存布を明かにしてゐるといひ得るのである。 併しながらこの鉦二拙作は、佃存在の存在性であり得ようか。偶存在は既に矛眉嘩によつてその布衣怖が明かに された筈である。偶作春に相即するものが全存在であるが故に、矛盾性に相即する統血性は谷存在の存在件を示 すものではなからうか。静二とは無矛盾であり、あらゆる矛眉の解消であるが散に、かくの如き敢態は佃布査問 には存在し得ず、随つてかゝる憫存療がそれを越えてあることもまた他よりそれに入り込むこともできないやう な全包括的絶弱者としての全存在に於てのみ、それは可能なものといはなけれぼならぬ。かくして我々はこ1に 漸に、全存在の統山性忙ついてこれを考察し、周明することをしなければならぬのである。 さて、矛眉と銃仙とは、不調和と調和、分粁と綜合との問の如く、本来、唯二鞄封者の南側仰の如き関係にあ ︳ヽ ヽヽ るものであるが故に、その何れが我々にとつてより劇潜発きであり、或はまた、より二二倍明かであるとかいふが 如き刷違のあり能はぬものである。け弟ども、我々の存在が.我々にとつて、我々自らの反省即ち自覚から和ま るといふが如き意味に於ては、矛盾が統劇よりもー瞥発きに我々に甥はれるといふことはいひ得られるであら 金券在の統山性 ︹九九︶ 九

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第十二巻 第二賠 ︵仙00︶ 仙○ ぅ。何故ならば、布衣の我見は、自我の蔑見と同様に、自覚から初まり、そしてその自費は、我と非我との分裂 を意味し、この分裂は我といふ相宿在と非我と、いふ偶作在との封立的状態の意味であつて、決して仝布衣の純粋 な即自的存在の状態ではないからである。すべての認識が原始分割としての判断に和まる如く、〓別の布癖は我 々にとつて兜づ、矛盾性によつて特質づけられた梱存廃として規はれる。そしてこれら個存在に封嘉するものと して、我も亦山の個存在たり得るのみである。 哉の自覚にはかくの如く必す非我を必質とするが、併しこの自我或は非我の非連鴇鰻は、何等かの共通の葛に 於て連携せしめられてゐなけれぼならぬ。そしてか1る場所的存在は、〓切の封立的憫存在を超越して布存する ものでなけれぼならぬ。それが即ち、有相互聞の聯紬を可能にしてゐる無の存在である。この無の存在は併しま た常然無と有との高次の相互聯摘の場を要求することとなり、こゝに即ち亀有在が現はれる。犠って杢存在の統 叫性は、有と無と嘉品竺してゐる性質とも考へ得られ、かくて.我々にとつては、査存癖の統山性が、個存在の矛 眉性よりも後れて硯はれるが如き印炊が閲ハへられるのである。併し即存在的には固よりこれらの問に前後本末の 差別はあり得ぬ筈である。 垂存在がかくあらゆる有無の個存在を超越してゐることは、やがてそれが形而上蓼的存在であることを意味し てゐ告我々の感覚は勿論−如慶亭思惟を超えたものの中に我々は我々の存在の場を有つ。ハイダツガーの所謂 世界と、せ界∼内卜有水としての自己と、世界内範的存在とトての事物とを、すべて総括し、打って仙丸となせ

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るが如き布衣として、、我々は仝存在を考へる。そしてその春揮仲として統劇作を明示せんとするのである。さて 然らば、その統山性とは仙牌如何なるもの・であらうか。

三 流一件 の 意 義

総じて存在解繹には二つの類型が可能である。劇はへラクレイトス的にこれを分裂矛盾牲と見るものであり、 他はパルメェデス的にそれを調和綜二性と胡するものである。一をスピノザ、ライブエツツ埋とするならば、他 はヘーゲル型とも見ることができよう。これらの類型は、勿論デイルタイに於ける世界糊の類型とは直ちに関係 を璃つものではない。他界掛を自然主義と理想妄轟とに分ち、後者を更に自由の理想主義と主朝的理想主義とに 分ったデイルタイの見方は、この世界を外部的疏仙と見るか、また内面的好二と航するかの問題に懸ってゐる が、我々の問題は、それを多と見るか仙と見るかの問題に適ってゐる。それ故に、デイルタイの考へたlニつの類 型の中にも、それぞれ矛眉的見方と統叫的見方とが布衣し得るであらう。その矛眉的見方については、個存在の 矛盾性の叙述に於いて既に静かれしを以て、こゝにはその統劇的見方を全存在について概見することにしよう。 キュルペはその著﹁哲畢概盃﹂の中に、統一について五つの音義を恕げてゐる。即ち原因の銃丁字前の統T tヽヽヽヽ 前提の統二・珊勲の統㌻要素の硫叫がこれである。その中の前線の統鵬とは、論理的・に唯二放高なる基礎廠念を 絃正し、それより仰切の寛春を演繹し得るとするもので、晰へぼフィヒテが純粋自我を立ててその専行から劇切 仝存在の統仙性 ︵山○∴︶ 仙 皿

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第十二谷 部二舵

︵6二︶ 三

の生成を説かんとし、シ言ングが絶勤的同妄を設定トてそれより墾畢鰐系を導きⅢさんとせるが如きであ

る。論理的に絶封不可疑の空前樋を立て、それより思惟の必然によつて扁を演繹し来る限りに於ては、その

結鵜は少くとも理論的には正しきものたることを得るであらう◇例へぼ﹁SはPである﹂といふ判断の分析か ら、公賓泰を毒離・賓郎・繋尉の躇備に於て解明せんとする場合の如きであるJか1る場合には、そり茸即・省 攣紫郎の中の何れを汲も藍く見るかによつて∼そこ・に色々り推界観の現出し乗ることも亦常然といへるであら

ぅ。併しながらこの場合∵所謂宇宙の統蒜、形式論球畢的統言はなり得ても、果して資質的なる存拝そのも

のの放言なり得るであらうか。存在の特殊や多様が、発してよくその統仙の中に擁入され得るであらうかC生

物の概念から如何にして直ちに麓の概念が導き出され得ようか。基礎的なる原理が高けれぼ高いほど、その内容

は益芸虚となるのではなからうか。思考せられた硫∵披必ずしも存在する流言はない。却って存在即ち音味

の世界が、群論即ち厩緬の世界の基底でなければならぬ。鴫って我々は論坪的統叫よりも存在そのものの流言

っいて、先づ第叫に、そして結局に放て、顧ることをしなけれぼならぬ。

ヽヽヽヽヽ 存在の統仙として政和に傘げ得られるものは、要素の統仙である。これ腰、磨耗を以て唯仙の根本的要義官女

は力から成立するとなすもので、例へぼ希脱臼然簡単者達の宇宙解樺の如きである。数に放けるあらゆる多秤多

様がすべて読まで還元できると海へ得られる如く、余年囲も、単産質の螢素者に蹄し去り得るのである。純

粋の唯物論や唯心論などはかくの如き立場のものといへる。物以外に、或は心以外に、如何なる存在も揮ること

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なく、乾物は皆、物、或は心そのものの饗硯欒化に外ならぬとするのである。頒代の物理串が仙切を力或はエネ ルギーに還元せんとし、更にそれらを畳力の〓几に押し去らんとする如き、或はまた、ショーペンハウエルが一 切を宇宙意志に騙せLめんとせる如き、か1る立場のものと解することができる。これらも併しながら、多より 軍使的仙を抽象し来る眠りに於て、差異性を持てて同山性をのみ採り上げ、特殊性を横牲にして普遍性をのみ救 ひ上げる、訓⋮はゞ仙耐的なる統仙と解される。この限りに於て革位的耽叫は、前提の溌劇の如く形式的であり、 概念的である。即ちこ1にも我々は、形式・内容の共異邦即的なる質の存在の統一を期待し得ないやうである。 ヽヽヽヽヽ 次に宇宙の統一とは、賛鰭そのものを叩単一にして不可分割的のものと見、多郡多様を以て挑安または恨象たり とするもので、仝存在を只連携とのみ考へるものである?多の内容をすべて剛丸となし、それをそのま1に剛の 紆二Ⅷ甲なりとする。デカルトなどの純理論者が峯魂の魔言主張し、統㌻なるが故に和議は分割し得られす、随 ってそれは不滅なりとせる如きである。かくの如く、蜜酵は不可分割着であるが故にそれは唯劇であるとたせる 最もよき別は、パルメニデスの詮にこれを見ることができるであらう。彼によれば、劇切の多嘩婁化・生成・曙 滅・分割・運動は本来在ることなく、存在はそのま1で唯∵恒常・不攣不生・不滅・辿轡不動のものである。相封 や矛盾は有に判山止する非有の在る時に始めて可能であるが、この非有なるものは、在るこ主は勿論、考へられる ことさへもでぎないものであるが故に、すべては布の迎碍慣のみであり、鳴って絶射的統軸のみが在るとするの である。アリストテレスは統仙を二つに分ち、個々のものを集めて我々の思考によつて統⋮する相封的流山と、 仝存在の統叫性 二〇三︶ 二ニ

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︵一〇四︶−四 第十二令 弟二渋 全く不可分割的なものとLての絶封的統山とになしてゐるが、.ハルメニデスの有はこの絶判的統仙に常るものと いひ得るであらう。かくの如き思想を近世に於て最も牒系的に張展せしめたものが即ちスピノザである。彼は、 賓衣に於て故も根本的な封立と思はれる精細と物騒との二元をも、唯〓琴醒の興れる二様相に過ぎぬとし、すべ て抄佃存在に於ける多様雑多は唯一背鰭の必然的魔性に外ならぬとする。かく展性としての多を認めたところ に、スピノザのパルメモデス的であつて而もペルメ千デス以上である鮎がある。こ1に於ては脚は多のすべての 原因であり、自己原因者である。二即多の世界がこ1に次第に明かになるのである。多を自らの凝件として有つ ∵は、スピノザに於て帥と呼ばれてゐる。かくして、紳が全宇宙の統仙窟であるといふ思想に蓮ることとなる。 ヽヽヽヽ▼ 字宙が紳によつて創造せられ、榊は宇宙生成の究極の原因であるとなすものは、これを原因の統仙と呼ぶこと ができる。プロティノスの仙窟の如きはまさしくかくの如きものとして考へられた。存在はすべて仙窟たる紳臼 らの開展で一あり、それよりの流出者である。随って血切の部分的個々存在り中に、各々深遠なる紳の抽頭が行き 亘ってゐることとなる。秩序あるもの、調和あるものが仙切を支配して飴すことなく、多は多ながらに、そこに 完全なる仙が形成されてゐるとするのである。それ故に一物もそこより奪はれをことなく、また刷物釘そ乙へ附 加される必要がない。金牌が一つの有機的統〓をなし、部分は常に金牌の部分として、そして金牌は常に部分の 統一と⊥て存在するのeある。ライプニッツの改定調和説の如きはかゝる立婁のものであり、我々が垂存在の統 仙性といふ時も、大鰹に於て、かかる意味の統劃を指すのである。

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ヽ■ヽヽ▼

かくの如き紳の公有磯的流山は、これを退社的に解する時、理想の統山ともいひ得るであらう。それは、全宇

宙を以て至高善の如き竺絶封者と見るものであり、例へば蓉のイデアにまつて完全に放言れたプラトンの理

念界の如きものとLて全宇宙を解するものである。多は﹂の汲高の目的によつて統∵された、各々り憫存在は仝 存在の理想のためにのみ存し、且つ働くものとなる。こ1に有機性が最も完全に電視せられるのである。 我々の新譜全称在の統諒とは、以上の如き諸流言更に完全空撮に於て統盲る如き、扱高室完の統−的

性質を指すのに外ならぬ。

四 流山性と完全融和

眞の統血は多様の統二でなけれぼならぬ。そしてその多を形成するものは、矛慣性㌃本質としてゐろ個存在で

ある。併しながら、この相封的仰存在も、それがその存在の場とLて全称在を肴つとき、即ち発布在の申の諒 癖と・なる時、沖の憤に抱かれた人芸如く、それぞれに皆紀劉性を有つものとなる。梱存在はこの場合1、粂存在 を宿す部分的存在として、即ち大宇宙を見す小宇宙としてt尚謂はゞ全称在の自己眼評者として布布するものと なる。これはとりも直さず、ライプニッツのモナド的存在たることを意味してゐる。全の中にありつ1、而も佃

として弼立者たることができるのである。モナド的布衣であるが故に、偶作新はそれぞれに皆自己存在の理由と

使命とを看ち、自足的であり、自主的である。粂存在の中に在りながらこの世に無くLU僻まされ得るものや、 全容在の統一性 ︵一〇五︶ 一五

(16)

弟十二巷 罪〓渋 ︵∴〇六︶ 完 他によつて代塩され得るものふ二つも在ることはない。すべて吟皆完全なる榊性に生き、置普実包豊美主して、 偽悪弛も終息醜として、それぞれに曹存在の理由を有つ。全く同⋮であつて個性を有たぬといふが如きモナドは 在り得ない。存在するものは、その限りに於て、眈に皆善しとなされるのである。 ライプニッツは充足理由律の創唱者として有名で.あるが、それは質埋となされるもの、#在するとされるもの は、すべて皆必ずグルンドを有たねぼならぬといふことである。グルンドは理由であると共にまた根膜であるC 認識論的に見るときは理論の由つて生する理由であるが、存在畢的に見る時は、存在の操って立つ娘掠である。 結論に前提が必要である如く、存在に根嬢は不可紋である。その充分なる棟掠によつて、個布衣は初めて佃#在 たり得るのである。全存在とはか1る昔昧に於ける棍櫨であり、一切をそのあるがま1にあらしめる、ライプニ ッツの所謂抑に篭る存在である。ハイデッガーに於て、放線は有を有たらしめる無の如きものであつ虎が、我々 のいふ根嬢は仙切の有無を包括した仝春蚕そのものである。無も有に封する限りそれは相封的である。紳とも呼 ぼるべき金杯庇にして、初めて絶封的といへる。佃存在が金存在の中にある限りに於て絶対性を有つとは、この 生存在の絶封牲そのものが個存在を通じて貼現されてゐるからに外ならぬ。 全春療の絶判性はやがてその完全調和性を示現する。公布泰の中に於では在るものはすペて善し、恵も燕を助 長するために存するものとなる。多はそのま1にして¶である。相剖は絶封をそれぞれ忙有つ。象生も暦油廊で あり、争病・的等々が寧健・隔等々と共にあり、そしてそれらが皆あるがま1にこの世は慮ちに博士である。す

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ペてが眈に仰の懐に在るからである。こゝにライプニッツの所謂最長親が成立する。この慨界がこの凄まにし て、有り能ふ限りの最良のもの、最完全のものとの解繹が成り立つのである。査存在以外に紳の選接し得るもの はない。紳の訳持せるものにして、不完全な竜ものは為り得ない。紳はこの世界を最良にして最完全なるが故に 選接したのである。快くるところのあるものは査存鹿たり得ない。恵良至完であるが故に、重罪在は唯仙にして 絶封なのである。 以上の敢艮親は、我々が紳と倍の生酒をしてぁる限りに於て、我々の日常生活把つぃてもいひ得られるであら ぅ。即ち我芸生活は、刻々に於て、有り得るすべての申の最良のものでなけれ・ぼならぬ。我を生かすものは神 都う仝存在であり、仝存在は常に絶封であるが敢に、我々の生活は、刻々忙ぬて眈に、かけがへのない絶封の生 活である。全林在即ち紳の絶封至籠が、個存轟としての我々の生活を絶封最良のものたらしめる。仝存在の個存 ヽ 在に封するは、恰も母の子に封し、君の臣に射する如くである。子の、または臣の汲艮の生満を斯ひ且つ選拝せ′ ざる母や君は考へ得ない。人の子の生活の最良を頗ひ且つ選玲せざる紳は轟り得ない。ここに佃存在に封して何 時如何なる婁合にも最良を約束する全布衣の金存在たる所以がある。それ故に、金存在の中たある時、・たとひ如 何なる進境に在り如何なる困苦に食ふも、そ凧はその時その人忙とつて、許さるれた限りの中の最長の洩のであ 、、 ヽヽ る。他に上り以上に良き可能性のあり得ることはない。他にあり得るすべてのものは、現にあるものよりもよ少 〓鱒蓋しきものであ少、願うて我々の粟て去るべきもののみである。すべての可能性の中の最良のもののみが、 金存在の統仙性 ︵劇〇七︶一七

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罪十二各 蕗こ渋 ︵エロ八︶ニ入 港に刻々我々の生活を満たしてゐるのである。この意味に於て、▼刻々た布衣するすべてのものは、山人一人、∵ま たぬ∵つ叫つ、皆加㌫二人子であり、紳の博多であるに外ならぬ。 生存在の中に生くる時、憫布衣の二切がすべでそのまま忙最長である桝叔は、公布ねそのものの完全調和〃性 質に掠るに外ならぬ。個存在の不完全怖やその矛屈性は、個存在が全林赤から離れて別々に、それ自ら他に判立 するものとして布衣する限りに於ける場合のものである。即ち非我と封立せ、る我にとつての存在、個我の中の存 在セあるが故である。金杯在の中にあつては、矛盾も不党仝もあり得ない。山は高きがままに、癌は洗きが牢ゝ に、そのま1に調和的でゐる。火は熱く、水は晩ぐ、それぞれ忙統一して.ゐるのであるっ時に甲が普く乙が懇し く見ゆるも、灸布衣に於てはすべてが平等である。すべてが在るべきところに在るに外ならぬ。珊想的なとしころ は落ち付くに外ならぬ。紳の摘埋の中にすべては衣少、榊の橡定調和の中に仙幼は存するのである。かくて我々 は∵ワイプニッツの次の言葉に賛することができる。﹁若七も我々が学宙の秩序を充分に理解し得るならば、我々 はこの宇宙の秩序が、最も偉大な智者の希望計遥かに俊絶してゐることを蟄見する。更にこの秩序は暫に普遍的 なるすべてに封してのみでなく、我々の特礫のものに勤しても、若しも儲々が只単に我々の存在の樽設者または 活動原理としてのみではなく、我々の意志のすべての周的をつくり、また猫自的に我々の撃柑を左右する支配 ヽヽ 者、または究極原因上しての萬有の創造者に充分に辟供するならば、規査あるものよりもより以上に艮きものと する乙とはできない﹂︵訂ibniN︰巴。nad。−。g訝芦︶℃ このライブニッツの桝謂宇宙が即ち我々のいふ粂布衣で

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あり、その秩序が締二性に常ると解し得ら斬るのである。

五 銃 刑 性と自問律

個存在の矛眉性は、矛盾律によつて根嬢づけられるが、その毎食の矛眉律の音味は、矛盾なきが故に虞珊であ るといふ形式論理峯的意味のものではなく、却つて反劉に、矛屑あるが故にこそその存在が可能であるといふ之 と堅等′牒のでなければならなかつた。然るに仝存在にあつては、矛膚は本来布衣せす、在るものは就押什であ り、調和件のみである。然らばその生存在の統仙煙が底礎づけ、またそれを根接づけてゐる原理は如何なるもの であり、そしてそれはまた、如何なる意味を有たねばならぬものであらうか。 紛二とは、前述の如く、多様の統劇であり、多を一に踵せしめることである。それ故に全林在は唯仙であり、 仝存在以外に他の存在の在ることはあり得ない。随ってそこには、時間の区別によつての、.または基即の刑違に ょっての、或はまた鹿囁の差異によつての、存在の駈別といふ如きものはあり得ない。自他・内外、遼寧祝疏、 現在・過去・未発等々二切の隈別見鱒浦然たる唯γ者に踵入し絡へたととろに、全林在が在り得るのである。以上 の如き贋別はすべて、この唯一なる全存准者の、それぞれの其れる象耐たるの意味をしか有つに過ぎぬ。跡ごと は、萬物編二、/罷痴m 如の完全に賓現せられある状態でなけれぼならぬ。陵って生存在内にあつては、我は我で あると共にまた我は非我でもある。過去も未来も現在の一瓢に締着してしまふ?即ちAは常にAであると北ハに、 仝存在の続叫性 ︵劇〇九︶一九

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第十二巷 第こ班

︵二〇︶ こO Bも亦それがAと共に杢存在内にある限少Aであり、dもDもその眠けAである。﹁AはAである﹂、または﹁A

は玉である﹂といふ事態の根擦づけの原理、それは白岡律であるに外ならぬ。即ち生存在の統蒜は、白岡禅の

底礎であり、またそれによつて根櫨づけられるものといはなけれぼならぬ。

自伺律については、矛眉律に於けるほどに多くの異汝はないであらう。けれども、これも固より問題がないほ

ど竺義的に自明であるのではない。これについては大鱒三つの立場からの解繹が可能であらう。心珊静的立

撃倫理畢的立撃存在畢的或は形而上蓼的立婁がこれである。︵A・苫nde=ト。賢J巴︼rb邑詳遅lOSOpFiO L声00・uNN持︶ us芦 心理畢的立場のものとは、心理墓誌的論理畢の解鐸を指す。こ1に於ては、自同律は専ら人間の思惟作用に閲

ヽヽ するものと解される。即ち人は如何なる封象でもそれをそれ自身と同二であると思惟せねばならぬ、といふ事態

を硯はすものが白岡律であるとされるのである。併しながら、思惟作用の葛賛は必ずしもそのま1思惟形式の必

然たり得るもので凋ない。随ってこの解樺は、それ訪心理畢的法則としては顕示し得ても、論理畢的原則として

確立することのできるものではない。

次に論理螢的立垣の解繹農ては、大濃に於てこれを、概念←からの解樺と判断上からの解繹との二つに分つ

ことができる。前者では、白岡律を以て、それは概念の自己同二軍牢主張するものであるとする。白岡律義の

表現形式たる﹁AはAである﹂といふのも、A概念が常に何時でも自己自身と同盲あることを示すものとなる。

(21)

併しとの解種は、概念は常た常在するといふ驚念論的立場を許容することなしには是認し得られぬ解繹であろ て、論理的劉象猫自の本質に基づいて立てられたものではない。 後者即ち白岡律の判断的解樺には、判断の構治〓般に関するもの、判断の眞甥に閲するもの、同山判断に閲す るもの、分析判断に関するものなどを分つことができる。洗づ、判断の構造一般に関するものとは、白岡律を解 する把、朝飯〓般の構成要繋たる主都概念。欝断機念・紫郎概念の問の関係よりそれをなさんとするもので、白 岡待とは、主酎概念の想定する削象と賓齢概念の想定する封象との自己同一性が、骨定的なる繋尉概念によつて 澄意されるものとするのである。この解繹は﹁AはAである﹂といふ粗式 る﹂の形式のものにも安富するとなす。即ち後者は﹁署なるAはちなるAである﹂の各式であるとする。例へば ﹁人は動物である﹂は﹁動物なる人は動物なる人である﹂といふ判断の各式であると解するのである。併しなが ら、この解絆は決りである。何故ならば、繋酎概念は常に何時でも主賓爾概念の同州性を示すもののみとは限ら ぬからであ.る。このことは、状態判断・存在判断・関係判断なぞと呼ぼれるものについて見れぼ、自らにして明ら かなことである。 次に、判断の虞現に関する個伺律解樺とは、判断の展理なる所以腰、﹁AはAである﹂といふ時の如く、秦賓商 機念の白岡性を表示するといふことにあるを以て、判断の眞理を認める以上、この原排は常に安富せねばならぬ とするのである。併しこの解繹も常に正しいとはいはれない。何故ならば、幸賓雨概念の自同的でない判断で而 全存在の統帥権 ︵﹁﹁こ 二劇

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節十二巻 第こ耽 ︵∵二こ 二こ も巌なるものもあり得るからである。またたとひかくの如き判断が主賓繭概念の白扇的なものの申に琴冗され得 るとしても、充来朝断の虞理を決定するものは、判断そのものの範園内にあるのではなく、封象と判断、痕准と 恩椎との関係にあるものでなければならぬが故に、単に判断内忙のみその眞瑚性を見机してのこの白岡聴解鐸 は、・常らないといはなければならぬ。 同山判断宜関する白岡律解繹とは、白岡律を以て、判断の眞規の本質を述べるものではなく、むしろ如何なる 判断が必ヰ選球であるかを示すものであるとの見地から、﹁AはAである﹂といふ場合の如く∵肯定朝飯であつて 両も主賓雨概念が全く同仙なるものは必す眞理であることを表すものであるとするゥ即ち同山判断の必ま県珊な ることを意味するものとなすのである。併しながらこの場合でも、判断虞理の根接は判断白糖の中にあるのでは なく、判断とその判象との関係そのものの中にあるとの見方からするならば、﹁AはAである﹂といふ判断の置理 性も、それはAといふ封象即ち存療養竺般の本質性の中に寝礎づけられてゐるとトなければならぬ?陰ってこの 立場の白岡律解粋が虞珊仲を有ち得るためには、それ以前に、白岡律が存布畢的に解絆されて、それは、料象即 ち有益∵般の本質に伸し、章節対象Aが賓離判象Aと同山者であることを表すものであることの革態が明かにさ れてゐなくてはならぬ。 佃次に、分析判断に関する解揮とは、〓瞑に分析判断の先天的確審理より、白岡砕の虞珊恍を静明するもので ぁり、﹁AはAである﹂といふ同語反襟的同叫判断も﹂Aは煮である﹂といふ山致の慣珊に基づく同秤判断も、賓

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聯概念は既に主都概念内に包含されてゐるものの分析に過ぎぬとなすことから、それら判断の先天的確嘗性を明 かにし、白岡律はかくの如き常態を衆明するものなるが故にその眞珊性は兜天的に碓嘗であるとするのである。 併しながらこの場合でも我々は、その分朝刊断の凄賓術概念のiE笛なる関係は、その概念によつて思念される封 敦若しくは存在との関係によつてのみ初めて決定さるべきもりと者へるが敵に、か∼る解梓の成立するために は﹂篭め白岡簡の存在車的或は形而上畢的解粋が砕立されてあらねばならぬことを垂張せんとする。 戯らば穀後忙、その儀同律の存在拳的或は形而上畢的解繹とは如何なるものであるか。それは白岡律を以て、 それノが如何なる削象または存廃でも常に何時何麗でも自己自身と同一であることを未す原珊であるさなすのであ る。この判象または存在とは、ひとり諭珊啓上思惟されたものだけを指すのではない。存在者一般について雷ひ 得るのである。/これにも例へぼ、コ一等避ニ⋮角形は二等蓮三角形である﹂といふ如く﹁AはAである﹂の形の形式的 見方のものと、﹁二等逆三角形は二等角三角形である﹂の如く﹁AはBである﹂といふ形の鷺質的見方のものとあ るが、何れにしても劉象または存在が自己白身と同一であることを示すものでないものはない。かくの如き布衣 の本質性あるが故に、それを底礎上して、一甜珊畢的に思惟せられた自同禅的事態にも眞珊性が保詑され得るので ある。 さて然らば存在拳的に解して、ごの﹁A喧Aである﹂といふ事態や、また﹁Aは苫である﹂といふ事柄が、︰如側に して布衣にとつて必然的なる性質となり得るであらうか。先づ﹁AはAである﹂について見るに、これが可能であ 仝存在の統脚性 ︵†〓ニ︶ 〓三

(24)

第十こ巻 第二渋

︵二四︶ こ四 るためには、主節封象Aの中に賓辟封象Aが既に包含されてゐるか、またこれら雨着が泰然同〓軍であるかでな

ければならぬ。前の場合に包含するものと包含されるものとが重く同一であるといふ事態は、少くとも時・挙国

果的に相射的なる個存在の領域には在り得ぬことである。また彼の場合について見ても、恰もモナドに絶封同叫

のものがなかつたと同様に、主賓全く同一ヾといふ事態は、時・挙国英的に制限されてある個存査問た於てはあ′り

得ない。﹁我は我である﹂といふ時、今の瞬間に於ける主部封象我は、決して次の瞬間忙於ける賓即封象我と同叫

なものではない。個存在としての我はその限りに於て時々刻々に別異なる非運緯的なる我である。或はまた埼質

我を包含してゐる主都封象たる寄蟹我と、それに包含されてゐる賓即封象たる本質我とも、偶存在として見る時

は、能動・所動の斯からも、依然別異の非運糖的な我といはなけれぼならぬ。然るに我なる如賓の存在に於ては

﹁我は我である﹂との事態は常に必然的なものとして成立してゐるのである。∴それは劃鰭如何にしてであらうか。

いふまでもなく、それは、我が個偏在としての我と考へられすに、垂存在の申の我と考へられてゐるからに外な

ちぬ。粂存在の中忙於ては、非連続性も連綾的のものとなる。時間・串間・因果の規定も制限も何等の意味を有つ

ものとはならぬ。瞬間前の我も瞬間彼の我も、我であつて他のものではない。能動的我も所動的我も岡︼のもの

である。自他相即・能朗不二であるからである。大宇宙内のモナドはすべてそれらの申に大宇宙を焉す小宇宙と

して、窓を有たぬながらに、金牌としては、預定的一大調和・一大統一の世界を形成Lてゐるのであるαこの金 牌と七ての大調和・大洗一の世界、我々の所謂生存凝の中に於てのみ、まさしく﹁AはAである﹂の葛態が必然的

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本質性となる。この生存在を離れて、白岡禅的事態の成立は凍り得ない。このことは、﹁Aは丑である﹂との蕃態 にも同様の確質さに於ていひ得る事柄である。 以上に於て我々の結論として明かにされることは、﹁AはAである﹂の自同律を確立する番態は、只ヽ時間・巷 間・因英の諸規定を超越してそれ自牌に絶封的に璽止に存在るす生存在の中に於てのみ可能であり、随って所謂 白岡禅の不可疑的虞蛾性は、只、生存在の青森性た′る統一性に於てりのみ底礎づけ得られるといふことである。か べしてまた、粂存在の統遠を根嬢づけるものは白岡律であるといひ得るのであ′る。 かくて、個存在の矛盾性が矛盾律に関すると同様の関係に於て、生存在の統一性は白岡律に閲するのである。 然る忙固より憫存在と仝存在とは同一布衣の丙面のみである。随って矛盾律も白岡律も唯一同㌻なるものの南方 .蘭のみである。只我々にとつては、佃存在の矛眉性が発きであつて仝存在の統一性がその次であるが故に、矛盾 律が白岡律に発き立って自覚されるが、存在肖鯉にとつては、これとは反封に、自同伴が矛盾律を根擦づける関 係に於て存するのである。 仝存在の統一性 ︵∵仙且︶ 二五

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