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976

8

東京歯科大学

同 窓 会 会 報

(2)

東京歯科大学同窓会会報

1

7

1

目 次

巻 頭 言・ お知らせ………-……・・…・ー…… .2 本部短信-……一・...・H ・...…・………一.2 逝去会員…-………ー……・………・………… .3 母校新学長は松宮誠一教授 … ・・・…・・…・…・・・ .4 関根永滋学長大学葬一一....・一一… - …・… 5~9 特集一関根永滋先生を偲んで…・・・・・・…一 '10~16 第

5

回プルフ大会 ・・・・……・・・…ー… -…・……

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父 兄 会……・・ ・…………ー……… ……・…ー18 支部のうとき・・一 ・・…・ …・・・・…・ー…・・19.~21 クラス会だより…ー………-・……・・・…ー… 22'~34 すいどうばし 一…・・・………・・……・ ・…ー… 35~40 よろず告知版一...一… … ー … …ー・ ・・・・・… ..41 創 立80周 年 記 録 映 画 の 実 費 頒 布 … … - 一 … …41 編 集 伊丹一男・中久喜 喬・梅田昭夫・中村泰之・山本啓介・桜井善忠・倉橋和啓 (表紙・カット 菊 池 豊j

(3)

故関根永滋学長のご逝去

を悼み

新学長に松宮誠

教授を迎えて

会 長

井 上

吾等の最も尊敬し信頼していた関根永滋先生は去る5月22日午前2時40分,神田の脊雲堂病院で急 逝された。正に晴天の言葉躍という可きである。 先生は,昨年1

1

月,大学建設の重大使命を帯びられ,学命に依って欧米に視察旅行されて以来何とな く健康を害せられている様にお見受けした。

5

2

1

日朝

2

回に

E

る吐血,坂本主治医の診察,と入院,而して翌早朝,遂に不帰の客となられた。 御年67才,病名は急性白血病であった。 C入院の朝も未決の書類を鞄に詰め込まれ,病室で、調べるとい われて持参された程で,最後の最後まで,死の迫るまで学務に精進された学長の熱情にはただただ頭の 下る思いである。翌23日,と自宅で密葬がしめやかに営まれた。 6月15日青山葬儀所に於て大学葬が行われ,白い菊に包まれた C霊前には,従四位勲三等の勲章が燦 として輝いていた。 先生は昭和

5

3

月,東京歯科医学専門学校

C

卒業, 22年9月母校教授, 図書館長, 衛生士学校校 長,大学法人理事,学監を歴任され,昭和46年 6月,名誉ある東歯大学長に C就任敏腕を振われた。昭 和50年推されて日本歯科医学会会頭に就任され,全国四万の会員は等しく先生の手腕を期待していた。 稲毛校地の大学建設を始め幾多重大な案件が山積している今日,先生を失った事は実に暗夜に灯を失っ たと同様である。 先生は学者であると同時に,偉大なる政治家であった。学者としての先生は,歯科評論誌に連載され た,根管治療に関するセオリーとプラクチスで一躍,根管治療の関根の名を内外に浸透せしめた。一方 機を見る事極めて敏而して其の抱容力叉抜群,常に恩師,血脇守之助先生の開学の理念をモット ーとし 真に血脇イス‘ムの継承者であった。 最後のお別れの日, 6月15日,厳粛に営まれた大学葬に於ては, C生前の先生を慕う者,無慮、 3,000 人を越した。其の焼香の煙は何時までも断えなかった。在天の英霊,永久に母校をお護り下さい。 松宮誠一先生は,去る7月23日開催の学校法人理事会に於て満場一致,東京歯科大学第六代目の学長 に推薦され,就任された。吾等全国八千の同窓は双手を挙げて先生のご就任を祝レむより先生を支持す るものである。 先生は昭和

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3

月,東京歯科医学専門学校をと卒業,前学長関根永滋先生と同級である。故花沢先 生の門下と して花沢病理教室の逸材である。昭和46年6月母校副学長と して故関根学長を補佐し,大学 院研究科長,研究部長,日本学術会議会員の要職にあり東歯大が生んだ世界的病理学者である。 先生は常に,大学教育,研究並に運営は挙げて, ミより近代化への途を急ぐ事ミを主張され此の目的 達成のためにはと和ミの精神を持って全教職員が一致団結,今こそ母校の高雅なる学風を更に高揚する 時であると主張されている。幸に健康に留意せられ,勇気と決断をもって事に当られん事を切望する次 第である。吾等全国の同窓,愈々結束を囲うし,新学長松宮誠一先生の許で,母校の発展に力を尽す事 を誓おう。

(4)

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お 知 ら せ

一 一 一 ー 一 一

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卒後研修セミナー (第

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年 次 後 期〉 。 第11回 仁 昭 和51年9月11日(土

)

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ベ リ オ ド ン タ ル な 考 え 方 を 活 か し た 治 療 の す す め 方 ー そ の3

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第12回 〈昭和51年

1

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月9

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(土

)

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│皮合の再現と岐合探の活かし方 ところ 野口英世記念会館講堂

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第 199回東京歯科大学学会総会 と き 昭 和51年

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月23日 (土), 24日(日〕 ところ 東 京 歯 科 大 学 食中期セミナー講演要旨贈呈 C希望の方は本号21頁をと覧下さい。 第

1

日 午前

9

時 午後

4

時 一般 講 演 ・評議員会 ・総 会 第

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日 午前

9

時 午後

5

時 一 般 講 演・シンポジウム 演題「甑蝕予防の方向を採る」 1) 刷掃指導, 2) 弗素の局所応用, 3) 食 餌 指 持,4) 母親教育, 5) 予防填塞 6) 初期甑蝕の治療 なお,司会,講師,予定討論者には学内外の権威を予定しております。 また,両日とも歯科医療関係商社の展示即売会も併催いたします。

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東京歯科大学同窓会評議員会・総会・懇続会 と き 昭 和51年11月21日(日〉 ところ 白金迎賓館(港区白金台5-21- 9,(03)444-1263,国電山手線目黒駅下車 5分)

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本 部 短 信

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行事・役員出張・その他

5月18日 編集委員会 5月20日 学術委員会(進学準備セミナー担当) 5月22日 第7回卒後研修セミナー 5月22日 静岡県支部総会坂本副会長出張 5月22日 故関狼永滋先生お通夜役員参列 5月23日 放関根永滋先生密葬役員参列 5月25日 共済部委員会 5月27日 理 事 会 5月29日 信越地域支部会連合会総会井上会長 中野理事出張 5月29日 渋谷支部例会清藤副会長出張 6月7日 会報第170号発 送 6月11日 大学葬打合会安嶋,中野理事出席 6月13日 大阪歯科大学同窓会長叙勲祝賀会 高木,清藤副会長,村越理事出張 6月13日 福岡県支部総会 坂本副会長,野上理事出長 6月15日 故関恨ノ

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滋先生大学葬 6月15日 理 事 会 6月20日 十校同窓校友連合会清藤副会長,安嶋, 村越,熱田,関口,並木各理事出張 6月26日 第8回卒後研修セミナー 6月2i日 福島県支部総会安嶋理事出張 6月27日 埼玉県支部総会清藤副会長出張 7月16日 コソレフ大会 7月17日 第9回卒後研修セミナー 7月18日 沖縄県支部総会安嶋理事出張 7月21日 常任理事会

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)

支 部 長 交 替

福井県支部 17.9卒 小 原 勇 6月15日付 和歌山県支部 16卒 畑 晃 7月1日付 次の各位が

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月29日叙勲の栄に浴されました。心からお祝い申し上げます。 勲 四 等 瑞 宝 章 細 野 彦 男 股 ( 東 京 都 〕 勲 五 等 瑞 宝 章 藤 江 義 三 股 ( 東 京 都 〉 勲 五 等 双 光 旭 日 章 山 口 朗股(東京都〕

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東京歯科大学稲毛校地緑化運動募金

母校稲毛キャンパスの緑化運動につきましては,既に多数の同窓その他の各位からと芳志を戴いてお ります。ところで緑の基金の受付は, 会報第167号でお知らせしましたように昨年11月末日をもって 一応締切らせていた?ごし、たのですが,その後もと寄付が続いております。これ偏えに,会員諸氏の母校 愛の発露と厚く感謝申L上げ,第167号掲載以降の分につきまして,御礼かたがたと報告させていただ きます。 岡山県支部 50,000円 青森県支部 110,000円 北 支 部 29,000円 徳島県支部 22,000円 ライオン歯磨鮒 ,1000, 000円 富 己 会 30,000円 武回俊勝氏 10,000円 而歪歯科工業側 500,000円 橘高一彦氏 杉 並 支 部 天野博徳氏 七 星 会 H自和51年7月16日現在 合計 9,664,731円 100,000門 44,000円 10,000円 255,000円

逝 去 会 員

下記の会員が逝去されました

ここに謹んで哀悼の意を表し

心か

冥福をお祈り申

し上げます

-昭 7 卒 群馬県支部 ・昭 14 卒 台 湾 ・大 9 卒 愛媛県支部 ・大 10 卒 東 信 支 部 ・昭20.9卒 山形県交部 ・昭 6 卒 山形県支部 ・昭 2 卒 横 須賀支部 ・医 卒 広島県支部 ・推 薦 十 勝 支 部 ・昭 25 卒 茨城県支部 ・昭 3 卒 福│河県支部 ・大 13 卒 北多摩支部 ・昭 7 卒 相 北 支 部 長 沢 戯 代 次 82才 〒376 桐生市本町 4丁目73 張 按 喜 台湾省苗栗県鋲青苗里中山路47号 坦 回 豊 造 79才 〒793 愛媛県西保市神拝 高 沢 彰 吾 80才 〒384-06 長野県臼田町2167 八 木 一 郎 52才 〒992-03 山形県東置賜郡高畠町幸町 2 坂 悶 健 次 郎 68才 干990 山形市小姓町 1-4ー 10 井 上 長 五 郎 77才 〒238 横須賀市三春町 3 -16 細 川 巌 76才 干720-21広島県深安郡神辺町川南3284 須 貝 徳 次 郎 80才 〒080 帯広市白林台本町3丁目11 土 田 勉 47才 〒315-01茨城県新治郡八郷町柿岡1957 井 上 小 四 郎 76才 〒830 久留米市日吉町54 川 北 義 徳 82才 干186 国立市国立23-5 唐 仁 原 景 秀 70才 〒259-13 秦野市柳町1-5-31 胃 、ぢ ん 51.5.13 狭 -心 症 51.2. 13 急 性 心 不 全 51.5.27 'し、 不 全 51.6. 2 , 心 不 全 51.6. 15 J心 不 全 51.6. 13 脳 血 栓 症 51.6.30 目 凶 出

.

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.

50. 7.20 d心 不 全 51.7.2 急 性 心 不 全 51.5. 18 目 首 卒 中 51.7. 18 胃 癌 (届出順〉

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母校新学長に松宮誠一教授選任さる

去る5月22日未明,関恨永滋学長の急逝は母校にとって方に一大猟浜事であっ た。この緊急事態に対処すベく,大学法人は同日急拠臨時理事会を招集し,協議 の結巣全員一致して絞宮誠一副学長を学長職務代行に決め一真IJも忽せにできない 多端な学務処理,運営に備えた。 その後.7月6日(火〉開催の法人理事会において,新学長の選任について審 議され. 1;新学長の~任方法は全体教綬会に一任する。可及的速やかに推薦され たい。新学長の任

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は前学長の残任期間とする。」 旨,鹿島俊雄法人理事長より 指示された。これを受けて,全体教授会は直ちに7月 8日(木〕開かれ慎重審議 のうえ,選挙によらず円満裡に後任学長として訟宮誠一教授を推薦した。 7月23日(金).学校法人評議員会にこの件が諮られた後,法人理事会は怯宮誠一教授を新学長に推し,満場一致で 選任が決定,発表された。 ここに母校第6代学長を迎えるに当って,全国同窓、はいよいよ一致団結,故関根永滋前学 長のと遺訓を休し,そして松宮誠一新学長の許に大東京民主科大学建設のため協力する決意を新たにした。

学 長 就 任 の ご 挨 拶

j

松 宮 誠 一

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!

このたび,私は全体教授会の全会一致の推 つ ぎL 母校の教育と研究とが,現在わが

i

薦と法人理事会および評議員会の承認とによ 国のすべての歯科大学中,断然第一級の地位

!

り, 7月23日付を以って学長に就任いたすこ にあることは,自他ともにひとしく認めると

!

とに相成りました。 ころであります。さ れ ば こ そ , 母 校 の 同 窓 まことに光栄でありますとともに,その責 が,在学生が,そして父兄が,いつ,いかな

1

j

務のきわめて重大なることを深く感じており る場所においても,心からの自信と誇りとを . ます。ことに,現在はわれらの母校が創立以 持ち得ていると考えるのであります。私はこ

!

!

来初めての重大事業に直面いたしております れら母校関係者らのこの自信と誇りとがこれ

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時期にあたり,

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年の歴史と発展とを誇る母 からもますます大きくかっ強く護持されてい 1

1

校の将来があげてこの大事業の完否にかかっ くよう,併せて懸命の努力を尽したいと深く

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ている時期であります。 念願いたしております。 私はこの非常時期をよく乗りこえて,母校 先輩,同僚各位の絶えぎると支援とと協力

!

i

を永久の安泰に置くべく,故関根学長に続き とを切にお願い申し上げます。 全力投球の努力をいたす決意であります。

1

(7)

故関根永滋学長大学葬

母校東京歯科大学学長関根永滋先生は,過くる5月21 日午前2時40分急性白血病のため忽然として昇天なされ た。正に楕天の震露,痛恨この上なく全国8千同窓はもと より先生を慕う者等しく悲嘆にくれたのである。 昭和51 年6月15日(火).先生C生前の偉大なる と功績に対し,東京術科大学は大学葬の 礼を以って今は亡き学長のC冥福をお祈 り申し上げた。葬儀は青山葬儀所におい て,鹿島俊雄法人理事長が葬儀委員長と なり定刻午後1時しめやかに山本義茂東 京歯科大学病院長の司会で閉式された。 祭庖中央に安

i

位された,従四位勲三等 故 ~l根永滋先生,医王院永保普滋居士の 御霊を闘んで,文部大臣,厚生大臣をは じめ大学,同窓関係者,各界の名士,各 歯科大学,各大学同窓会,各学会,本会 各支部,各クラス会等々から供えられた純白の生花は無 慮 、257基,式場を埋め尽した。白菊に縁どられた先生の 大きな遺影は,満場静寂とした臨席者に慈愛あふれる眼 差しで何事かを語りかけられているご様子だった。 弔詞は,鹿島俊雄法人理事長,葬儀副委員長の松宮誠 一学長職務代行,同じく井上真同窓会長,川崎勇日本歯 科医師会長,白数美郷雄日本歯科医学会会長ならびに私 立歯科大学協会長,沢潔友人代表の各氏から謹んで捧げ られた。次いで,国内外から寄せられた弔電517通が披

痛惜のうちに執行なわる

露され,読経のうちに喪主弘氏,未亡人延子様.C令 嬢 淳子様.L逃族,こ・親族,参列者のと焼香が統いた。 葬儀委員長の挨拶のあと閉式,午後2時を過ぎて一般 告別式に移った。当日の会葬者の数は実に3.000名を越 え,先生との最後のお別れを待つ長蛇の 列は葬儀所前の歩道にまでつながる程で いつ果てるとも知れなかった。誠に,先 生の偉大なると功績ととi

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徳とが改めて 偲ばれたのである。 なお,密葬は去る5月22日(土〉午後 7時から9時まで北区滝野川のと自宅で お通夜,翌くる23日(日〉正午から午後 1時まで葬儀. 1時から2時まで告別式 が'出まられた。余りにも急なと逝去にも 拘らず,大学,同窓会関係者はじめ各界 からの弔問者が多数全国から怠拠馳せ つけられた。と遺体は落合葬祭所にて茶毘に付された 後,白金迎賓館の大ホーノレに遷られ,精進落し,初七日 の儀が行なわれた。先生を慕いお別れを惜しまれる多く の参列者は涙ながらに,疲れられる寸前まで尊い人生を 粉骨砕身母校に捧げられた故人をいつまでも偲んでい た。また

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立骨は6月20日(日〉近親者,大学,同窓関 係代表者に見守られながら郷里栃木県下都賀郡藤岡町慈 福院の墓所に納骨され,安らかに永久の眠りにつかれ Tこ。

学校法人東京歯科大学理事長

鹿 島 俊

昭和51年5月22日午前2時40分,私どもの厳も敬愛す であったと私ども一同痛惜の情に堪えません。 る関根永滋学長には忽然、として逝去されました。僅か一 君は昭和5年本学を卒業して以来.46年余の長期にわ 昼夜病床に臥したのみて‘幽明境を異にしてしま い ま し たり,本学の助手,講師,助教授を経て教授に就任し た。私どもの篤きと悲しみはし、うべき百葉を知りませ 歯科保存学教室主任教授,東京歯f

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大学長の職にあった ん。余りの急逝にただ荏然といたすばかりであります。 ほか,本大学│司書館長,大学病院長,学監,付設歯科衛 君は齢未だ67才,本学学長に就任して5年,名学長とし 生土学校長などの要l械を歴任されました。とくに君の学 て漸く君の本学発展に対する理;[1の 基 僻 を 確 立 し そ の 問に対する情熱は私と‘もの心に深く焼付いております。 実践に移りつつあったとき忽然としてこの世を去られま 商科保存学に対するおの独創的な膨大な研究業績につい した。誠に心残りの尽きぬものがあったことは察するに でもその卓越した指導力により,今後なお割目すべき進 余あり,また,本学にとっても何ものにも代え買わ、損失 展が期待されていたとき,よき指導者を失ったことは,

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わが国の歯科保存学会にとっても,この上もない損失と いわねばなりません。 また,来るべき昭和52年秋に開催されます第14回日本 歯科医学会総会は日本歯科医師会全会員の参加する空前 の大規模な総会となることが予想されております。君は 昨年末,その会頭に選ばれたので‘ありますが,準備半ば にして倒れられたことは私どもはもちろん,君にとって も極まりない痛恨事であったことでありましょう。一 方,本学法人評議員,理事としても10年 の 永 き に わ た り,法人経営の中枢にあって大学の健全な運営に尽力さ れた功績は,関係者の均しく認め敬意、を友しているとこ ろであります。その他,厚生省歯科医師試験審議会委 員,同試験部会長,中央薬事審議会委員,文部省大学設 置審議会専門委員,さらには社団法人日本私立大学連盟 監事,大学基準協会評議員,その他関係官庁の委員,公 益法人の役員等を歴任し,よくその責任を完遂されまし

た。 君の広い視野と高遜な理怨,教育,研究に対する限り ない愛情,事に処しての適確な判断は各方面から敬慕の 念をもって迎えられていたところでるります。 この放をもって,本学は5月22日君に名誉教授の称号 を贈りました。また,国は特旨を以って5月22日従四位 黙三等旭日中綬章を贈り,君の功績を顕彰いたしまし t~二s 君を失った今,私ども一同この悲しみを乗り越えてよ りよき大学の建設のために燃した君の理想と情熱の火を 絶やすことなく,本法人の総力を結集して,さらに前進 することをここにお醤、しL、たします。在天の御塊の安ら かに

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られんことを。 ここに大学葬の礼をもって君を御送りするとともに学 校法人東京歯科大学を代表し,謹んでうやうやしく弔辞 を捧げます。

東京歯科大学学長職務代行

松 宮 誠 一

東京歯科大学教職員一同を代表し,謹んで東京歯科大 学校長,病院長,さらに学院と昇進を重ねられる間にお 学学長名誉教授故関根永滋先生の御霊前に弔辞を捧げわ ける先生の献身的な努力と活躍とは今日の母校の発展に れわれの心からなる京悼の意を表します。 じつに大きな礎石となりました。さらに昭和46年大学学 先生は昭和5年本大学の前身東京掬科医学専門学校を 長に就任されるやきわめて卓越した組織カと旺腐な実行 ご卒業後今日に至る46有余年の間,ただ一路全心身を打 力とによって着々と母校内容の改善と向上とに関する幾 ち込んで母校の発展と歯学の向上とに貢献されました。 多の実績を挙げられ母校をして今日の盛況に導かれまし その間とくに歯科保存学主任教授としては多くの立派な た。いまやわが東京歯科大学がさらに新しい大飛躍の時 しかも国際的にも多大の注目と賞讃とを集めた研究業績 期を迎え先生の比類なきと手腕に期待するところきわめ を完成され,かつ多数の優秀なる教育研究者の育成を果 て大なる時にあたり先生の思いがけなきと急活に遭いわ たされました。また,わが大学の図書館長,歯科衛生士 れわれの痛恨これに過ぐるものはありません。また先生

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が中央薬事審議会委員,歯科医師国家試験部会長,大学 情にのみ浸ることなく,さらに新しい勇気と決意とに燃 設躍審議会委員,大学基準協会委員,私立大学連盟監事 えて全教職員が一致協力し,先生のと巡志を継承して大 などを主とし, 厚生, 文部両行政に残された多くのと功 東京歯科大学の建設を完成しもって御震を案んじ参らせ 績もまことに測り知れざるほどであります。しかし,願 ることをここにお誓し、し、たして弔辞といたします。 みるに母校内外の情勢ははなはに重大であり, 一日も忽 先生どうか安らかに隠せられんことを。 せにすることを討されません。われわれは,ただ悲嘆の

弔 辞

東京歯科大学同窓会会長

井 上

春色漸く衰えて,万緑盛なる時,同窓「関板永滋君」 の不断の努力を惜しまず諸般の事柄に熟達し卓越した手 の忽然として急逝なさるを知り,ただただ驚傍と悲歎に 腕と才能は大いに今後共われわれの期待するところであ 言葉もありません。主主に謹んで深く哀悼の意を表します りました。しかし天は君に齢を与えず今は幽明境を異に と共にわが同窓の希望であり誇りであった君を喪いまし しその声咳に接するべくもなく永遠のお別れをいたす たことを,同窓会関係者一同,衰悼の言葉もなく深く深 ことになりました。 く悲しむものであります。 関恨永滋君。君の肉体はたとえ幽冥の地に去るとても 君は東京歯科大学学長としてわれわれの後輩の育成に 母校を斯くも愛し,同窓を斯くも愛した君の魂はとこし 一身を捧げ又,母校の輝かしき発展にその一生を捧げら えに同窓の一人としてわれわれの心に深く深く刻まれわ れました。 “大学と同窓会は兄弟である"とはわが水道 れわれの生ある限り,共に生き続けることを私は心から 橋の理念であり,それは問時に君の熱意により貫徹され 信じるものであります。 ましたことはわれわれ同窓のよく識るところでありま 在天の御霊の安らかに眠られんことを心から祈りここ す。又,さらに現在の大学の発展途次におきましてわれ に同窓会を代表して護んでお別れの言葉といたします。 われ同志が君に期待するところ誠に大でありました。君

弔 辞

東京歯科大学学長,第14回日本歯科医学会総会会頭故 関根永滋先生の御霊に,日本歯科医師会を代表いたし謹 んで弔辞を捧げます。 生者必滅会者定離とは申せ先生の突然の言卜報に我が耳 を疑い驚仰の念を禁じ得ませんでした。今,あらためて その冷厳たる事実を噛みしめ深い悲しみに打ちひしがれ るものであります。先生の街科医学界に残された偉大な る足跡に対しまして深甚なる敬意を捧げますとともに限 りなき哀惜の念を禁じ得ません。 先生は,昭和5年現在の東京歯科大学の前身である東 京歯科医学専門学校をと卒業になるや歯科医学の研究に 日本歯科医師会会長

川 崎

忠をたてられ,以来歯学研究と歯科医学教育の道を一筋 に歩まれました。すなわち永年にわたり同大学教授の職 にあってかたわら同大学病院長同大学学肢を歴任され, 昭和46年より今日まで同大学最高責任者である学長の要 l殺をつとめられました。 先生は, 天賦の

J

能と後れた指導力, 又質実剛健なと 気性と人情の機微に通ずると性格とを併せもたれ,たゆ まぎると努力により常に斯界の第一人者として数多くの 優れた業績を遺こされました。先生は学者として日本の 街科保存学における衛内療法学,充填学,歯周病学を体 系づけられ,特に臨床歯学と基礎医学の一体化を構造化 7

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され,日本の歯科医学を世界的水準に位置せしめられま した。文先生は教育者として後輩の育成,訓練に情熱を 傾けられ保存学の教育はもとより大学全般の教育,研究 領域の改善,向上に力を尽され,血脇,奥村,花沢各先 生の遣された学問至上主義の伝統を継承され,その拡大 強化につくされました。 先生は象牙の塔にこもられることなく日本の術科疾患 の現状を憂い,ここから開業歯科医師の卒後研修,生涯 研修に深いと理解と積極的な協力を示され本会学術研修 事業の基礎づくりに貢献されました。一方本会雑誌の昭 和25~6 年時代には編集委員長として健筆を振るわれ学 術広報の草創期にと活躍されましたことは記憶に新しい ところであります。

関根学長をおくるの辞 東京医科歯科大学の総山教授があなたのと急逝す知ら せて呉れたのは5月22日の朝8時20分であった。 自分の耳を疑うとL、う言葉があるが,私は今日まで自 分の耳を疑うような経験など一度もなかった。しかし 私は初めて,私の耳を疑った。総山教授が 「先生大変な ことが起りました。 今暁関根学長がなくなられましたー・ …」そして私は瞬間的にもうーぺん言って下さいと言っ たように思います,その間相当時間のあったことは後か ら総山教授から聞いたが,そのあいだ私は妊然、と自失し ていたのかもしれなL。、 急逝される11日前の午後3時より関かれた学会総会の 準備委員会には出席され,終了後あなたは私をあなたの 同期生である小室史郎博士と共に私のホテノレまで送って 下された。その時あなたは車外にまで出て,私を部屋ま で送ると言って戴いたが,私はあなた方の車の出るまで 内には入らないと頑くなまでにあなたの御好意をこばみ 続けた。そして今から思えば,心なしか鍾力の~~~、手を 握り合って「学会のために頑張りましょうね」と鐘手を し,車の後窓から手を振り振り別れたのが最後であ っ た。 関根学長……あなたはその頃からすでに命の極限を予 知されていたのではあるまいか。そして,その間,おそ らく体も苦しかったのて、あろうのにそれに耐え忍び大学 の運営に,また,総会準備のために心を痛めながら,そ れさえも少しも面に出さず,すべての会合には必ず出席 第14回日本歯科医学会総会は本会会員即日本歯科医学 会会員となって初めての学会総会であり,先生は会頭と してと就任になるや全歯科医師のための総会をめぎすこ とを基本方針とする旨発表されました。今や準備委員に おいて先生の意を体し着々と準備が進められており,全 会員が剖目して来秋を待ちのぞんでいたとき先生は卒然 として逝かれたのであります。誠に残念の極みであり暗 夜に光明を失った心境であります。 私共は,先生のC業績, C'遺徳にあらためて怨いをい たしますとともに今後は先生の精神を継承し歯科医学の 進歩発展のため懸命の努力をいたしますことをお誓L、、し たしましてお別れの言葉といたします。

日本歯科医学会会長

白 数 美 輝 雄

され,一度も欠席されるようなことはなかった。私は本 当に迂澗であった。時々すぐれぬお顔色を見てと健康を たづねたことも再三ではなかったが,そんな時あなたは こともなげにさらりと話題をかえられ,私達に心配をか けまいとされるあなたのお心づかいを察知するには私は 余りにも鈍感であった。 一昨年の秋頃,学会理事会はあなたを総会々頭に推挙 し,その御承諾を得ることに努力したが,遂に私達は説 得することができず,半ばあきらめながらも最後まで望 みをすてず,私は単独で会見した時 「先生のそれほどま での御好意にそむくわけにはゆかぬ,私も組織の一員で ある以上,機関にはかつて回答する」と言われた時,卒 直にいって本当に救われたと思う気もちで一杯であ っ た。その帰り道私もその片腕となって協力しなければな らないと固く自分にし、L、聞かせた。 しかし, そのためにあなたの天命を少しでもちぢめた とすれば私は今あなた及びあなたを知るすべての人々に 申訳ないと心からおわびする胸のいたみをどうすること もできなし、。 私はあなたが計画されたあの雄海江第十四回学会総会 のテープを元気なあなたの手で‘切ってもらいたかった。 そしてそれを見たかった。されど今はそれも詮なし・・・。 あなたと私は年齢的には4才の差があり,また出身学 校も異っているが精神年齢は私よりはるかにあなたが上 であり,お会いする度ごとに親近感は増し,触れ合う魂 の琴線はただたt:_'強くなるばかりであった。

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今憶い出して見ると,話の内容など政治や専門的学問 に関することなど微塵もなく,すべて私学経常に関する 未来像のようなものばかりであった。 日本私立歯科大学協会の設立もあなたの御理解とと協 力がなかったらおそらくできなかったで、あろう。去る5 月24日,社団法人の認許をうけたが,あなたの生前にそ れを見てもらえなかった事が私の悲しみの一つである。 ゆくべきものが残り,ゆくべからざる人のゆくことを 仏説では逆縁というそうであるがあなたと私とは遂に悲 しくも逆縁となってしまった。 あなたの生涯を通じての厳しいまでの研究と教育の一 瞬一瞬は余りにも偉大であった。君の功績と類いまれな る人格者の遺徳にたた.頭が下がるばかりである。今もし 私のったない言葉をもって,あなたの業績などについて 述べれば,それはかえってあなたの偉業にきづがつく… 君の生涯はいつも厳冬の荒野に種を播き,それを育て るた'けで,その収穫を自分のものとして, 享受し味うこ とは少しもなかった。 呼鳴崇高なる指導者ょ ・1 廉直なる教育者よ・・ その御霊よ今いづこ,たTごただ祈る。医王院様の墓辺, 風静かならんことを…・一。 とこしえの友よ,安らかに眠り給え,さようなら。

弔 辞

友 人 代 表

ここに東京歯科医学専門学校入学以来,50余年の間も た敗戦,そして帰国直後の物資不足の混乱期に君の一日 っとも身近で親しく君と接してきた友人の一人としてー たりとも休むことを知らない研究心は毎日曜夫人と共に 言お訣れの言葉を述べさせていた fごきます。 図書館へ通われ,当時入手困難であった新着の外国文献 君は卒業以来正に教育者として,また臨床家として, の筆写に努力されました。このことは恐らく現在のめぐ さらに研究者としていちずに東京歯科大学, l、な日本の まれた環境にある若い人達には到底想像できぬことでし 歯科界のためにその全てを傾注されました。また苦い頃 ょう。このように君は夫人と共に今日まで正に一身肉体 から人一倍負けず嫌いであると共に何事によらず,よく の生活を過ごされました。 物事を適確にとらえ将来を洞察しながら行動する人でし いま,君と共に過ごしてきた数々の想い出が走馬燈の た。そして君は持前の体力と元気さとに物を言わせ,随 ように私の脳裏に去来しています。 分と無理したものです。特に最近は,大学の仕事が出来 俗に人生50年といわれた時代はし、ぎ知らず, 今や80年 なくなった時がおれの人生の終りだよと,常に延子夫人 いな100年のよわいも夢でなくなった今日, 67歳の人生 にもらしておられたそうですが,正にその言葉の通りの は,いかにも短かすぎたといえましょう。君は不幸にし 終駕を迎えられたわけでーす。恐らく君はその死を既に自 て業半ばに倒れましたが,君の温容は君を知る限りの心 身で予期していたらしく,その直前まで大学の仕事にと の中にとこしえに生きつづけることでしょう。そして第 り組まれました。また君は実によく親身になって人の面 2,第3の関根が現われ恐らく君の意志をつぎ必ずやそ 倒を見,そして親切にしかも細心によく世話をされ,た の仕事を継承し,そして完成させてくれることと私は信 めに交遊の範囲も広く多くの人の信頼も厚<,後輩から じて疑いません。君は天国にてしっかりとこれを見護つ は親父とも慕われたのも正に語らずして君の人柄を物語 て下さし、。 っています。 ここに友人を代表して心から君の冥福を祈り,お訣れ さらに家庭にあっては延子夫人の終始変ることのない の言葉としたし、と思います。 献身的な協力があり,特に君があの第二次世界大戦に際 さようなら関根君。 して,応召され遠く異郷の地にあって苦労を重ね,迎え 9

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一 一 一 特 集

関 根 永 滋 先 生 を 偲 ん で

病 理

組 織 学

室 に 於 け る 思 い 出

一一昭和

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年から大東亜戦争まで一一

松 井 隆

弘(昭和

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年卒,は校名誉教授

鶴見大学歯学部教段)

昭和7年 4月,花沢門下生として,本館2階道路側, 中央の病理組織学研究室に,松宮助手(当時)と共に3 人机を並べたのが最初で、ある。朝から晩まで,毎日切)4 -標本作りの明け暮れであった。そのうち,今日の根管充 填剤の基礎作りともな司た,犬の動物実験も始まった。 毎月「アルコーノレ」を3縫も使い,研究資もかさも、ので, 「エ世/ーノレ」をやめ,脱水は「メタノーノレ」に変えた のも,満州事変も次第に拡大した頃であった。当時花沢 鼎教綬(病院長時 í~) がいわれた百薬は 50 万円蓄えれ ば,その利子で研究

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は生れてくるから.'J,ヒー月給に耐え なければ,といわれた。教室員として. 3{f13から松宮 ・関恨l吋助手は20円,松井は15円,特別に研究銭 (月給 ではなしっとして給与するから研究に一服励むようにと のことであった。当時でも病院助手は30乃歪35円の給料 であった。昼食は週に3回位,花沢教授,正木正助教授 (当時).寺坂卯占(一時中島姓〉講師.

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長三郎助手と いう構成で一緒に食べ,その後で出米上った標本の観察 と,色々の話があるのが普通であった。 出米のよい興味 ある様本は顕微鏡写真を撮るから,手伝えということ で,若い者は地下室で,交代で数日聞は写真現像に過こ、 すことになる。千古の名著,花沢鼎著 「歯牙組織図説」 はこうして誕生したので、ある。図説は日本文及びドイツ 語で解説され, ドイツ語の勉強にも.3人一緒に上智3大 学外国語専修学校へ通った。大東亜戦争に突入し,段々 と戦争が鉱大してくると,研究どころではなく,どう毎 日を過ごすかの方が盛大問題となって終った。関根学長 の学位,論文は犬の動物実験の-j'j-i生態后の研'先で京大に縦 t.Uした。当時の医学博士の学位受領者は一般日 flJ新聞に も渇載されたものであった。 大東亜戦争は関根学長も赤紙がきて,応召(入隊命令〉 ということでー兵卒の歩兵?として入隊,戦線へと大内 へ送られた。空襲も激しくなって,関根学長延子夫人 10 が,これは主人の大切な音稔(レコード〉であるからと, リュックで疎開しておられたあの姿は今も思い浮べるこ とができる。そして終戦,ソ速の捕虜生活を送ることに なるが,この尉地での事は知らなし、。復員して

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の保 存学教室勤務となったが,何らくは.

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沢病院長がドl ι 共に勉強しようと.~機化学の構造式を教授され た。 これが,保存学の薬物研究への大きな原動力になっ たので、はなかゐうかと推察している。また,日本文の文 法研究も一段と)Jを入れて,関根先生を指導された。そ れが,あの多数の論文の法縫力ともなったとは,話111'1身 でも述懐されていた。 花沢先生は旅行好きで, 事長に温泉がお好きで.

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比々も 教主ー・IriJで連れて行って頂くのであるが.旦記時奥日光へ 旅行することで.血脇校長先生も行かれるとし、う。そこ で 浅草笛門駅からロマンスカーで出発するが,ついて は,その:di絡は関恨先生がとるという沢で,この時の関 線先生の心配は後から

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挺々話されていた。関根学長がそ もそも病理へ人をされるようになったのは,正木先生 が,正常組織と病理組織の勉強が大切であると説かれ て,はいられたように聴いている。従って

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木先生指 導事の論文が多数あるのも,そのためである。大日本歯科 じ尺学会の副会長を正木先生が引受けられ,我々がその下 で,本所公会堂合会場としての学術大会の下働主や,雑 誌の校正や.J,t\草の作成に精を~I::lし,ご袋美に,品 }I!(中 に船を浮へて,とれた魚に舌援をうった頃のことも楽し い,

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である。関恨先生は酒はかなり強かった。将棋 もかなりの

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し手であったように思う。近足長三郎先生と はかなり,うまか合った。 花沢先生公認の飲み手は│刻版, j!I)路!材先生で町あった。思い出は次々と尽きるところがな いが,今 I~はこの程度で。今は唯々 I1却冥福を祈るのみ である。

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故 関 根 永 滋 学 長 を 偲 び

木 村 吉 太 郎 ( 昭 和

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年卒,保存部長

大学支部長)

東東歯科大学学長,関根永滋先生が昭和51年 5月22日 午前 2時40分に急性白血病の病名でと急逝なされました ことは,平素の先生を知っていた者は誰もその悲報を信 じ得なかったことであろう。それほどに生前の先生は, 小柄であっても体躯頑健,頭脳明断,事を行うに用意周 到J.しかも長らく篤学な臨床病理学者として,日本備季│ 保存学会はもちろん,わが儲科

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にその偉大な存在が広 く認められており,かつては斗酒なお辞せざる先生であ ったからでありましょう。公私ともどもご多忙であった 先生がと急逝されてすでに3カ月有余,この間,先生の 学界に残された業績,これにまつわる逸話などは,余人 によって数々紹介されてまいりました。そこで私は,現 在まで判っていながら述べられていない先生の人柄の一 面を,気兼ねすることなく 2~3 述べて, 生前における 先生の徳を偲ぶことにする。 その一つは,先生がきわめて負けず嫌いな方であった ということであります。いつ頃からそうなられたか私に は諮らかではありませんが,先生の行動の原動力は,こ の負けず嫌いの精神がその根底をなしておられたように 思われます。或る時は精進,努力となって満足され,或 る時は極限を越え無理となっても,じーっと堪えて他人 には絶体にその態を見せなし、。弱音などは断じて出さず 毅然としておられた。生来 C健康で頭脳明噺な先生には この負けじ魂が一生を通じて大いに役立たれて,得意な 時が幾度かおありであったろうと思います。しかしと健 康を害された晩年は,これがために如何に苦しい思いで 過されたかと,深くと推察申上げる次第であります。 また先生の負けず嫌いは装身具,携帯品その他,時計, カメラの持ち物にまであったようで,常に最新な物,周 囲に優る物を購入しておられるのをしばしばお見受けい たしました。馬子にも衣裳のたとえで,私が12年前,大 学の命て、海外出張の際に求めたべっ甲の眼鏡が,いつか 先生に気付かれていたらしし或る日突然,先生にl呼ば れてこれはどうだと,いささか得意然としてベっ甲の眼 鏡を見せられました。あの偉大な先生にも,このような ささいな優越感を満足される無邪気さがおありになるの かと思うと,微笑ましくもあり,また負けず嫌いがこう も激しいものであったのかと思うと,期然とさせられま す。 次に目立ったことは,先生が大変に用意周到な方であ ったということであります。それだけに細かい点にもよ く気が付かれ,整理整頓のよさはあらゆる面に現われて おりました。このと性格は先生のお話によると,応召中 の軍隊生活,ことに終戦後,ソ連の捕虜となって満州の 地に抑留されておられた当時,身を護るための必需品は いざという時に間に合うように,いつも何やかやと用意 周到に身につけておくということから,一段と習慣づけ られたようであります。先生の洋服の胸聞にはいつも, 多数の万年筆,ボーノレベン,シャープベンシルが整然、と して並んでいたが,これもその現われの一つであろう か。先生のお話によると,これらは書簡用,署名用,雑 記用,原稿用,原稿校正用,ゲラ刷校正用,その他,太 書き用,細書き用,厚紙用,薄紙用などに区分されてい て,用に応じてそれぞれを胸から取って能率的に使用す る。驚いたことには,これら多数の執筆用具は全部,そ れぞれ所定の位置が決っているのだそうで,単に並んで いるのではないとのことであります。なかなか余人の真 似のできることではありません。以上思いつくままに, 立派な教育者になるため終身C努力なされていた日常の 先生をと紹介して,謹んで先生のと冥福をお祈りいたし ます。

恩 師 関 根 永 滋 先 生 を 偲

先生は隔の広い広黙な不言実行型で,人情味にあふ れ,筋を通した気概のある心は吾々に幾多の教訓を残し て居られます。謹んで溢かに御冥福をお祈り申上げます。

井 口 岳 久 ( 昭 和

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2年

卒,蜂

会)

回顧しますと,昭和の始めよき時代に入学してから先 生は組織実習と病理で顕微鏡に取組んで居られ,寺坂 (中島).f.公井両先生と共に講師をして居られました。

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傍で先生の靴音が立止るとこわかったことが想い出され 軍}j~ の先生としばらくお話して別れました。 ます。 昭和20年秩, 関東軍は満鮮に南下,北朝鮮平嬢を中心 昭和18年頃,新京第十二陸軍病院に先生が,陣軍神i生 に武装解除,私達も填南浦→平壊→三合里収容所に。 収 兵として勤務されていました頃の話。新京第二は以前昭 容中の話では,本部には歯科の大先生が居られるとの 和16年,関東軍第1回陸軍歯科医将校の研修があったの 事,早速本部に行き関根先生にお会いしました。当時約 でよく覚えています。先生の所属は研究検査科で,可検 35,000人が収容されていました収容者は今は名誉も地位 物の検査をして居られました。内科の診療主任軍医は, も金もない完全な餓鬼道に陥っている時,先生は一歩引 関根先生は重宝で,研究検査にはなくてはならぬ人で, いた所に身を持されていました。かかる時にお目にかか その結果傷病名までつけてくれる由,大変喜んで居った れた事は私の大きな宰せであったといつも感謝していま 事,それもその筈病理学や組織学の大家だからなあ,と す。教に多年の御指導御交誼に対して感謝を捧げ御冥福 先生の人類共通の理念、に感激致しました。まぶしい様な をお祈り致します。

血 脇 イ ズ ム 最 大 の 遵 奉 者

斎 藤 利 世

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年卒,

山形

県支部長)

昭和50年 5月17日関板永滋学長と夫妻をと案内して, 蔵王温泉に向う自動車の中,運転は次男の文明で私は助 手席にいた。 後部座席にはと夫妻のほか,石川達也教授がおられ た。長男利明がその翌日結婚式を挙げるので,学長には 媒酌人のご挨拶を,教授にはと祝辞を頂く予定で,わざ わざ東京からみちのくへのお出ましを願ったのである。 山形駅から温泉までの小1時間学長先生はお喋りのし 通しであった。駅を出るとすぐ私の家の前を通る。この建 物は間もなく取壕すことになっているが,丁度40年前に, 歯科医となる積りの私のために父が建ててくれた,鉄筋 コンクリートの診療所である。学長は教授にひかつて, 東京歯科とよく似ているとか,色々説明をなさる。私の 方が面映ゆい位の解説であった。 自動車が山道にかかると,学長は私が東京歯科を!台て から暫く慶応、におったことを想起されたのであろう。私 の背に突然, 「僕も正木門下の一人だよ」と,宣言のような勢いで 仰られた。正木正先生の学殖に傾倒されていることがに じみ出るようなお言葉であった。そして幾つかの正木先 生のお話をうかがった。 いまそれを思い出して,手もとの合本にした慶応歯科 医学の第l巻をひらいてみると,在、はl回であったと思 うのに,関根学長の論文は2つあった。ひとつは正木さ んと共著で「猪胞

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生歯7f嚢胞ノ発生ニ関スノレ組織学的研 究補選J,これが第1号に掲げられた。もうひとつは20頁 余の立派な論文「上顎洞癌ノ病理組織学的研究補遺」で, 10例の当時としては珍らしい症例報告がなされた。若・い 私などは上顎洞痕の解明はもうなされたような錯覚をさ え覚えたことを思い出す。 それにしても関恨先生が,当時の慶応歯科のホープ予 防歯研に来られたらどんなにすばらしいかなと,私など は考えたものである。この予防歯研は当時最盛期にあっ た岡田満教授の大きな試金石で,主任に東京歯科から教 綬に昇格した正木さんを助教授に迎えての発足は,歯科 界の注目の的であった。 ここに関根さんを勝手に予:皆、したりした広達には,正 木さんと関根さんのつながりがけして唐突ではなかっ t それはl年の後期,歯牙発生学,胎生学とも呼ばれ たその講義に時々正木さんの代議で関俊助手がこられた からである。 正木さんは『歯牙発生学』を出版されたばかりで,そ れも3円50銭と廉くて,し、し、本Tごとと自慢であった。代 講の関根さんは,そのきれいな教科書に即かず離れず, 大胆な講義をされた。特に印象的 t~' ったのは, 分娩とい うか出産というか,その説明のところで,それをそう言 わずに 「進水式│と呼んで講義をされた。 そのように,紗こそ大きくはなかった関根先生の講義 に,こせこせしない,大らかな蛍かさというものを私は 感じた。 ,fLは4年生のとき軍装で1カ月間北支,室長彊への学生 隊に加わったが,そのとき寺坂卯

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先生が附添われた。 この先生は保存,病理そして保存と,関線先生の4,5 年前のコースを歩んでおられたが,もしも4,5年ずれ ていたら,或いお,関根先生とと一緒できたかもしれな し、。

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しかし暫く病理におられた関根先生とは.4年の臨床 実習でもと指導を受ける機会はなかった。そしてその他 私は卒業した。 関根先生と再びお会いしたのは, 戦争を挟んだ30年 後,同窓会の評議員会の席上である。そのとき先生は学 監であった。階段教室であった。特に感銘はなし、。 昭和45年学長となられてからは,評議員会が,学外の 華やかな場所に移された。これは私事からの提唱でもあ ったから,大いに気をよくして出席し,時に中華料理 庖,時に日本座敷,そして近頃はお馴染みの芝プリンス ホテルとし、う晴舞台で,一層晴れがましくも,また重厚 さの加わった関根学長のスピーチを快く聴くことができ た。 外に仁蜂会,また県支部の総会では殆ど毎年のように 温顔を迎えることができた。し、まは懐しい思い出である。 私は昭和47年1月30円の県支部総会で30分余に亘る学 長の熱弁を忘れられなし、。私は支部会報にそれを報じた なかから次のような文字を姶う。「大学が世に誇るべきも のとして幾っかの要素を列挙された。建物とか設備のよ うな形あるもの,教員,学生のような構成メンバーのこ と,これらのことがすぐれていれば,大学として天下に 誇り得るだろう。しかしゃ

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といっても大学の最大の誇り は同窓生である。これまでの地成社会への貢献した同 窓生を80年の長い間数多く送り出したことである。」同 窓会に出席してのお世辞演説にしても出来すぎている。 本当のことだからであろう,と私は書いた。 私の長子は縁あって学長門下の石川達也先生のもと で,卒業後の研修を続け,既に月々過分の

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付合をも頂戴 している。そうして学位記も,講師の辞令も,関根先生 から頂戴した。その上,努頭に記したように,結婚式と 披露の宴にと媒酌の労を煩わした。彼とわが家にとって これにまさる光栄はなし、。しかし,それから丁度1年, わが家の初孫をお見せすることができぬうちに先生の, C言卜報に接して驚がくした。 いま手もとに今年3月の,大学の卒業式に際しての学 長の告辞がある。そこからし、かにも関根学長らしい部分 を描いて,この追悼文の結ぴとする。

「申すまでもなく,血脇精神とは,常に世界に冠たる 近代歯科医学の確立と,社会に役立つ有為の街科医師の 養成を厳大の使命とし,さらにその大前提として,先づ 立派な人聞を育成することを強調されました。慈愛と寛 容と人道主義とは血脇精神の最大の支柱で-あり,また家 族主義がこれに並ぶ第2の支柱であり,さらにこれに加 うるに有為の人材の開発即ち,真の意味の人間教育,医 は仁の精神授びにこれを達成するための不捺不屈の精神 など,その内容は広大無辺且つ崇高筆舌のよく尽し得る ところではありませんが,しかしこの血脇精神こそ将に 本学の建学精神であり, 今日まで80有余年の歳月の流れ と共に,先輩から後輩へと,脈々と受け継がれてきたも のであります。J 「大学は.9千有余の同窓を世に送り,しかもこれら同 窓が,我が学風を基殺として,過去80有余年間,歯科医 道を昂揚しつつ,わが日本並びに世界の人々に対して, 職域を通じて偉大なる貢献を捧げてきたことは,天下周 知の事実でありまして,これこそ,本学最大の誇りであ ります。諸君は, 今日から,これら先輩に伍して,特に, 本学の同窓として且つ次の世代を背負う後継者として生 源を過ごすこととなるのです。」 「歯学の道は,これを究めれば究める程広汎深遠で, 今後といえども生

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毛研鎖を怠ることなきように強く要望 します。それと同時に,家庭人としても立派に,そして, 卒わせに暮して下さL、。人聞は,唯単に,社会的に如何 に成功し,地位や名誉や財産を得られたとしても,家庭 人として,成功しなければ真の幸福と安息とは,かち得 られません。」 このように,関根先生は時と処とを選ばずに,いつで も,どこでも母校を賞讃し,賞揚しそれを基盤に同窓 の奮起をうながし,その志気を高度に振作して,そして 倦むことかなかった。そのことは9000同窓のうちの最右 翼に位するのではなかろうか。 その母校と,その同窓とを後楯に関根先生は歯科医学 と歯科医育とに尊いと一生を捧げられた。まことに痛惜 にたえなし、。

寛(昭和

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年卒,本会常務理事)

昭和20年8月米軍による原爆投下と同時に侵入したソ 隊は,一斉に戦術的後退を始めました。その諸部隊の中 連軍のために関東軍は急逮その戦線を満鮮国境に移し に関根先生も私もいたのです。 通化を本拠として,迎撃の体制をとるため新京地区の部 先生は当時,応召の後,新京第2陸軍病院に勤務され

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ており,私は新京郊外の孟家屯にあった衛生部幹部候補 生教育隊にいたが,いづれも南下を続け通化に到着し, この時終戦を知り,続いて北鮮,平壊市に後退して兵姑 病院を開設しました。その後ソ連軍が避を駐し平壌郊外6 里の地点にあった三合里捕虜収容所に収容されました。 この収容所で私は関綬先生にお会いしたのです。先生は 当時患者収容所と称する病院に勤務され,歯科診療を行 っておられました。 私は岡山県出身の補充兵部隊に配属されていたが,患 者収容所に関根先生がおられるとし、う事を聞きお会いし たく,当時収容所の中には東衛大同窓の先輩の小島,岩 淵,梁瀬,杉山の諸先生がおられ,打揃って面会に行っ た処,先生は非常に喜ばれました。そして電気エンヂン もない治療設備を嘆かれておられましたが,その後払に 患者収容所へ来て治療の手伝いをしてくれとの事でした が,当時病院関係者は帰国が最も遅くなるということで したので・私も,あまり良い返事をしませんでしたが,先 生も仲々,あきらめずに病院長より大隊長に依頼され, 大隊長命令で転属を命ぜられ仕方なしに患者収容所に移 りました。それから約1年 7ヵ月苦楽を共にし東京品川 まで一緒に復員しました。その間色々な事がありました が,それを二,三書いてみます。まづ仕方なく患者収容 所に行った私の原隊は内地に帰還出来ると扇され歩武堂 々と勇んで出発しましたが,これが全部シベリヤへ連れ て行かれ,空いた兵舎へシベリヤより病人が送られて来 て,捕虜収容所は全て病院になってしまいました。毎日 栄養失調にて10人, 20人と死亡する患者の墓穴を堀る。 兵隊が明日は死ぬという毎日でしたが,歯科の患者も毎 日午前中に5,印人押しかけ,長椅子に 3人づっ並んで 掛けさせ,端から浸麻をして抜歯をしました。先生はこ のような治療に嫌気がさしていたらしく,私が来たのを L、し、ことにして庶務掛りのような仕事をし乍ら涼しい顔 をしておられました。そしてソ連の将校とか所謂,特診 の患者だけ診ていましたが,私が一番感心したことは, いつの間にかロシヤ語の日報を書きTごしたことです。最 初通訳がやっていたこの仕事を先生が英語のアルフ7ベ ットを逆さまにしたようなロシヤ語ですらすら書いてい るのには驚きました。他にも軍医やら,大学の先生クラ スの方々もおりましたが先生ほどの才能はなかったよう です。文,捕虜生活も後半に入札病人も次第に少なく なって余裕が出てきてから,病院の職員で野球を楽しん だりしましたが先生は専らスコアラーを務め,お蔭で私 は2度リーデイングヒツターになり,ブリキのカップを 貰いましたが先生がおまけをしてくれたので、はなかった かと思われるふしもありましたので,後年お伺いした折 に聴いてみましたところ「アハハ」と笑っておられまし た。又先生は私の麻雀の先生でもありました。麻雀の碑 は兵隊の中に器用な人がおりシャベノレの柄などの慢の木 をけづり字を彫り移動の時は袋に入れて四角い台と一緒 に持ち歩いておりましたが,先生もよくゲームをしてお られました。私も復員前2, 3カ月は治療機械も没収さ れ, 全く用事がなくなり,先生に役を書いて頂き,朝か ら寝るまで,食事以外ょっ続けてやりました。先生が百 人一首の名手であるということは聞いておりましたが, 麻雀も無理をしない慎重な打ち手のようでした。然しあ れ程お好きだった麻雀も復員後は余りおやりにならない 様子でした。晩年の学校経営の辛苦と打ち込み方は悲恰 感さえただよっていたようです。先生御自身はかなり死 期が近づくまで健康には自信をお持ちの機子でしたが, あの敗戦に続く,捕虜生活という,生と死の谷聞の傍観 を続けた経験はその後の生涯に人生の生き方と指重針十に強 し、影響響fを及ぽしていたので れというのは,私が時々お会いしますと必ずいわれた言 葉が 「あの頃のことを考えると死んでもともと,後の人 生はもうけものだねどんな困難が来たって,あれより悪 くなるわけはないと思うと気が楽になるよ」ということ でした。先生も学校のことで厭な時,苦しい時もこの言 葉を自分自身にし、L、聞かせ乍ら,頑張っていたのではな いかと思います。然しこの頑張りが健康への自信過剰に つながり死期を早めたのではないかと悔やまれてなりま せん。先生ほど総てにわたり,こと細かな配慮の行届い た方が無謀ともいえる日常生活を続け,周囲の勧告を無 視した心の動きには強稿!?とし、うだけでは片づけられない 燃える魂があったのではないでしょうか。;uもそのう ち,あの世・とやらに行き,先生にお会いしたら是非お閲 きしたいと思いますが多分「あたらずとも遠からずだね ー」とでもおっしゃられることでしょう。 先生と私は,大学の恩師と生徒という関係より捕虜生 活とし、う異常な事態の中で牛の凝血をすすり,腐の下ま で見せあう生活をした戦友意識が強く,当時は先生とい うより兄弟分の先輩という位の親近感を持ってお付-き合 いをさせて頂いておりました。 あれから丁度30年たちましたが,若い時代のことです ので,部分的には可成り鮮明な記憶が残っており,あの 酷しい生活も懐しく惣い出すのが不思議な位です。先生 がお話の中で「坂君は私の命の恩人です」などとやられ て誠に商はゆい思いを致しましたが真相はたわいもない 話で,最後に復員船に乗る前に病院の一部の職員が患者 と一緒に残留することになり,歯科医も一人残る予定に ありましたが,若し先生が残されてはお気の毒と思いそ の時は私が残りましょうと上司に申し出た丈で,幸い九 州歯大出身の方が残留され,先生と私は一緒に帰還出来

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たというだけの話で,先生が何故,あのような事をおっ 先生は少し偉くなりすぎたと思います。 しゃるのか,私は恐縮するのみでした。むしろ結果論で 昭和49年に卒業周30年記念に,記念品としたし、といっ すが厭がる私を患者収容所へ引張られ,お蔭様で比較的 てお願L、した色紙が今回お役に立ったようですし,子供 早く復員出来た私こそは何と街l礼をいってよいか,命の のいない私に 「子即宝J という字を書いてくださり皮肉 恩人はむしろ先生だと心より感謝の念、で一杯です。 な先生Tごと思っておりましたが,今になると早くまとも 復員後は先生も学校のお仕事も多くなり,在、も診療に になれという暖かし、教えであったと感じております。 歯科医師会の仕事やらと人並みに忙しくなり暫くは御無 これから後も何やかやとお世話になる積りでおりまし 沙汰をいたした時代もありましたが同窓会の仕事をやり た処,突然の言卜報に接し,一瞬樗然といたしましたが, fごしてから時々学長室へお伺いするようになりました。 その後奥様に最後の御様子などお伺し、し、たしましたが, たTご私が御交誼を願ったのは公私の弘の方で‘先生が学長 まさに,倒れてのち止むと申しますか,実に静かに倦化 でも教授でもなく肩書に関係なしの株の人間である先生 なされたとの事で‘先生が西方浄土に永遠の安らぎを得ら であって恐しかったので・した。然、し実際には学長先生と れたことを確信し,護しみてお別れを申し上げ,私のつ してお願いに伺うようになってしまいました。兎に角, たない追悼の記といたします。

関 根

を 偲

ぶ 追 憶

一 一 白 い 手 袋 一 一

中 村

正(昭和

2

3

年卒,下谷支部)

5月22日早朝,けたたましい電話のベノレで・関根学長の 先生が亡くなられた当日は御自宅でしめやかにお通 急逝を級友の佐藤君が報らせてくれた。本年度の新年会 夜。翌日は午前中│怒り続いた雨も昼頃より曇り空に変り を1月末,浅草支部と合同で上野タカラホテノレで行っ 先生のお人柄を慕って多数の参列者のもとに厳粛なうち た。関根学長は海外視察から帰られた間もない頃で,公 に告別式が執り行われた。 私に亘りお忙がしい中を,恒例だからと,今回も井上向 御遺族の最後のお別れをする暫らくの閤,何気なく回 窓会長,山本病院長の2先生を同道して快く出席して下 りを見ていると,参列者より少し離れた所で1人の白い手 さり,まだまだこの様に元気Tこeからと言ってにこやかに 袋をした若い男の人が限に映った。式場の通りを隔てた 舞台の方へ立って行かれ御機嫌麗わしく年頭の祝辞を頂 前庭の雨で洗われた緑が眼にしみる程の静寂の中で,そ いて未だ半歳も経って居ないしその後先生にお逢いし の白い手袋が交互にしきりに動くのが私の心を捕えた。 た同窓会員の噂では見違える様に痩せられたと陪

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、ては 始めは黒一色の人列の中で奇異な感じがしたが,良く見 おりましたが,私はまさかと,殊更はげしいショックを ると全身をふるわせて溢れる涙をこらえ白い手袋の背で 受けました。下谷支部会には永く母校の保存教室で学長 時々眼鏡を外しては押さえつけている。何処かで見かけ 直々の薫陶を受け助教授になられた森本優先生の学長の た人だなあと思っている内に暫らくしてそれが学長専用 人と成りの内輪話,或いは学長と同時代を送られた,遠 車の運転手さんだったのに気がついた。恐らく彼は容態 藤,大久保両先生始め先袈諸兄の多い中で,弱輩の私如 の急変される前日も先生を大学から御自宅迄送って行つ きが先生の歯科界における偉大な業績をこの際讃えたり たであろうし肉親以外に先生と最後迄話を交し,元気 或いは大学に月並のお悔みの言葉を申し上げることは, なお姿に接した人ではなかったであろうか。 人夫々の感慨もあることでしょうし,おこがましく,大 生前学長は私用には一切専用車を使わず,又学生の父 変失礼に当りますのでとの場では害11愛させて頂きます。 兄から贈られた土産物なども時々秘書や運転手さんに, 私自身この2.3年種々お話を伺う機会に恵まれまし そっと差上げていたのを見たり聞いたりして居たし,恐 たので温かい言葉の数々に触れ,書き度いことは山程あ らく彼は車の中という密室で日疫の会議や宴会の後で, りますが,今は心の整理も出来ない憧に私個人の胸に秘 これから帰ってやすらげるとほっとされた先生を何年か めて副題の「白い手袋」に移らせて頂きます。 送迎する内に,主従とは別にそれこそ言葉の端々に慈父

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の様な感触を直接受け分身の一部になって居たに違いな い。それだけに悲しみもーしお深く秘かに涙を噛みしめ ていたので‘はなかろうか。私は先生の示された人徳の一 端がここに偲ばれ突然、の御逝去と共に全く人生の余りに もはかなくやるせない気分を味わいつつ,私の眼は緑の 中で舞っていた,あの羽の蝶の様なつの小さな白い手袋 をいつまでも追っていた。先生安らかにお休み下さL。、 合掌 (5月24日記)

故 関 根 永 滋 先 生 を 偲 ぶ

突然、の御逝去に傍然とし何か嘘のような気持でありま したが,大学葬も終り49日を過ぎると漸く現実感が湧き 今更ながら先生の亡くなられたことがひしひしと身に泌 みて来ました。 私は大学卒業後学校に残って直接御指導を受けたわけ ではないので先生のイメージが多少異ると思し、ますが, 先生は私達大学一期生の卒業前のクラス主任をされ,私 もまた昭和36年より大学法人の評議員をしている関係も あり,尚学部会の幹事として発足以前より並々ならぬ御 指導,御鞭縫を仰JI,、だので,その観点から先生の御遺徳 を偲びたいと思います。 先生は「クロチャン」というニックネームで呼ばれて おりましたが,この意、味は先生の色黒の顔貌の故もあり ますが,腹の中では何を考えておられるのか判らないと いうこともあったと思います。そのためいささか取付の 悪い面があり敬遠されるタイプの先生のように思ってい ました。 しかし先生は保存部長,病院長,学監と要職を歴任さ れるととに先生の風格が変り,その都度持前の才腕を発 揮され,昭和46年学長に就任されてからはまさに水を得 た魚のように学内はもとより同窓会,父兄会との連繋を 密にして東京歯科大学の発展の為に貢献された業績は非 常に大きいと思し、ます。先生は前々から理事長はやはり 水道橋出身でなければならないと漏らされていました が,石河理事長が亡くなられて新理事長に鹿島先生が就 任されてからの御活躍振りはまさにそれを裏付けるもの であります。一部の人からはそれを批判もされました が,これは先生の甚大なる母校愛の発露であったと思っ ております。 先生が学長になられてからは大学諸規定集を見れば一 16

津 島 秀 雄 ( 昭 和2

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年卒,一期会)

目瞭然の様に次々と各種委員会を設置され,夫々に人材 を登用し身を粉にして学校運営の激務にあたられていま したが,却ってこれが災禍のもととなったかも知れませ ん。 先生は真撃な学究者であり,教育者であり又偉大な経 営者であったと思います。比較することは失礼でありま すが,故血脇先生,故奥村先生,故福島先生,杉山先生 という歴代の学長に優るとも劣らない名学長であったと 其の任期途中の御逝去が惜しまれてなりません。特に建 設に着手するばかりになっている稲毛の大学問題,更に は水道橋校舎の問題においては,先生にとっては俗にい う死んでも死に切れないお気持だったで‘し工う。 又一方先生はワンマンとも受取られるような閣の持主 でもありました。争い事は好まないが正義感が強く御自 分の意志は明確にけじめをつけて守り続け,迎合的でな く他人の意見を尊重しながらもいざという時には断固た る処置をされる勇気を持っておられた。 「私は話をするのが大好きだ。Jと常にし、われていたが 実際先生のお話しは尽くるを知らずで往々もう結構です とサインを送ったりしたことも衆知の事実です。しかし 説得力を持って居られたことは先生が包容力があり又信 念を持っておられたからだと思っております。 先生を偲ぶに当りまして私個人として又学部会の幹事 としても種々のことが思し、出されるのですが,今回は先 生の御人格を法人のー評議員の立場からの観点で書かせ て頂きました。 これからの東京歯科大学は諸種の難問題を抱えて多難 の途を歩むと思いますが,理事長先生,新学長先生の御 教導の下に大学の発展の為に微力を捧げる覚悟ですので どうか先生の御霊魂も現世に残って御見守り下さい。

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