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人文地理67巻2号

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I は じ め に  本稿の目的は,大分県別府市別府温泉(以下, 別府)を事例に,明治期から昭和戦前期までの近 代的温泉観光都市の形成と,別府で実施された都 市開発について明らかにすることである。日本を 代表する温泉観光都市別府は,明治期以前は農閑 期に近隣農村の農民が湯治をするために訪れる程 度の寂れた一漁村に過ぎず,数軒の湯治宿が立地 するのみであった。しかし,明治期以降に様々な 都市開発や鉄道事業が実施され,近代的温泉観光 地1)へと発展していった。  こうした近代期における別府の発展は,現在温 泉観光都市と呼ばれる熱海などに比べて早いもの であった。1925(大正14)年の別府と熱海の人口 を比較してみても,別府は37,529人と,熱海の 10,406人に比して3.6倍もの規模があった2)。別府 は,交通資本の整備や都市開発においても,全国 的にも早い時期に整備がはじめられ,主に民間資 本により海岸埋立などの大規模な都市開発が実施 された。一方,熱海で大規模な区画整理事業や海 岸埋立が計画されたのは戦後になってからであっ た。こうした点は,明治期から昭和戦前期にかけ ての温泉観光都市別府の発展の土台となり,1920 (大正9)年の別府には215軒の旅館が,1924(大 正13)年の熱海には39軒の旅館がそれぞれ立地し, 別府は熱海と比較して温泉観光都市として大きな 発展を遂げていった3)。温泉資源に依拠して都市に まで発展した温泉観光都市は,他類型の近代都市 とは異なる,特徴的な都市形成がなされたと考え られる。  以上を踏まえ,本稿では,交通・観光インフラ ストラクチャーの整備の観点から,日本でも最大 規模の温泉観光都市別府の他に事例をみることの できない発展状況を,市政と民間資本がどのよう につくりあげてきたかを明らかにしていきたい。  先行研究の整理としてまず観光地理学の成果を 概観してみる。観光地理学の基本的視点は,山村4)

近代的温泉観光地の形成と都市開発

大分県別府市を事例に

中 山 穂 孝

Ⅰ は じ め に Ⅱ 港湾整備と温泉利用の変化 Ⅲ 本格的な温泉観光都市化の諸相 ⑴ 合併後の都市開発 ⑵ 都市間交通の整備とその主体 ⑶ 観光旅行の大衆化に伴う別府観光の 変容と外国人観光客の増加 ⑷ 大正期の別府における旅館立地の特 性 Ⅳ 市制施行後の観光振興の諸相 ⑴ 市制施行後の都市・観光開発 ⑵ 油屋熊八による観光振興 ⑶ 博覧会の開催と国際観光政策 Ⅴ 観光開発と都市開発の関係性―まとめ にかえて― キーワード:近代都市,都市開発,観光地理学,温泉観光,別府

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によると,「観光地域を構成する諸現象の歴史的 展開・地域的展開の実態把握とその意義を明らか にすることが求められる」という点にあり,観光 地の形成や周辺地域への影響,観光客の回遊行動 に焦点を当てた研究が伝統的に多く蓄積されてき た。温泉観光都市や温泉観光地を対象とした観光 地理学的研究として山村5)は,温泉観光都市別府の 発達過程を りつつ,地域変化の実態を明らかに している。そして,山村6)は箱根温泉の中央資本に よる観光開発を事例に戦前までの観光開発の一端 を明らかにしている。一方,戦後の別府を事例と した小堀・山村は大分県別府市鉄輪温泉を対象に 戦後の湯治場の地域変容を明らかにし7),浦は別府 温泉の旅館経営について論じている8)。しかし,こ れらの先行研究では,観光地の形成に関与した観 光資本や交通資本などの開発主体の特徴や構成に ついての関心が弱い。加えて歴史的な背景という 点で,明治期以降の近代期を対象とする研究が不 足している。  近代の地域形成に関するものとして,1990年代 以降,新しい観光地理学やツーリズムの形成に関 する研究が登場した。神田9)は和歌山県の南紀白浜 温泉を事例に,南紀白浜温泉の形成過程とその他 所イメージの変化を明らかにしている。荒山10)は, 明治期初期に創設された大阪商船が明治期から昭 和初期の近代ツーリズムの発展にどのような役割 を果たしたのか,そして戦前に実施された日本一 周船と日支周遊船を事例に当時の「内地」と「外 地」を結びつけた海上ツーリズムの実例を明らか にした11)。その他にも,北関東における温泉地の近 代化について明らかにした関戸の研究がある12)。こ れらの研究では,特に観光地の表象のされ方にも 着目しながら特徴的な観光地形成の過程を明らか にしている。  本稿はこれら観光地の表象のされ方を解明した 研究を,ある地域の観光地化の過程を部分的に明 らかにする手法として参照しつつ,観光地化によ り強い影響力を持った都市開発や交通資本など物 理的環境の整備に関する分析を通して,観光地化 の過程をより詳細に明らかにするアプローチを重 視している。つまり,観光地化の背景などの地域 の実情を地方行政や地域内外の民間資本の開発へ の関与といった地域の文脈に目を配りながら,観 光地の形成過程を明らかにする研究の推進が必要 であると筆者は考えている。  ここで近代の都市史研究の成果にも着目してお きたい。都市形成と都市政策の役割に着目した近 代都市の地理学的研究として水内13)の諸論考がある。 さらに,都市史と地理学の接合を謳った水内14)は 「地理学研究者は,こうした空間の断片に対して も,既に明らかにしたさまざまな視角に考慮を払 いながら切り込み,事例研究を積み重ねることが 要求されてくるであろう。」と近代都市史研究へ の地理学的貢献について述べている。この水内論 文に触発されて,西部15),遠城16)など近代都市の権力 との結びつきや都市形成に焦点を当てた研究も蓄 積されてきた。  近代都市史研究と関連する他分野の主要な研究 として,経済史の分野では笠井が戦前期の温泉地 と鉄道網の発達との関係について複数の温泉地を 事例として明らかにしている研究がある17)。経営史 の分野では,別府を事例に大正期に海岸埋立を実 施した別府土地信託株式会社と観海寺に別荘開発 を実施した別府観海寺土地株式会社を中心にその 開発過程と各民間資本の役員構成とその特徴を明 らかにした小川の研究がある18)。都市計画分野では, 松田・大場19)が,近代の別府温泉における泉源開発 と旅館街の形成過程を明らかにし,松田・大場20)は, 別府温泉と浜脇温泉における入湯客の受け皿とな った旅館に焦点を当て,その実態と変遷も明らか にしている。  本研究では,諸学の成果を参考にしつつ温泉観 光都市形成にあたり,開発主体により強く注目す る。そして地理的な結実物として,都市インフラ ストラクチャーに関わる都市計画事業や鉄道事業, 電気・ガス供給,道路事業,水道事業などが全国

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的に盛んに整備された明治期から戦前期までの間 の観光地形成,さらに上記の生活・交通インフラ ストラクチャーの整備や整備主体を関連付けた考 察を重視する。 II 港湾整備と温泉利用の変化  1868(明治元年)年の別府村は,温泉浴場の設 備は整えられた状態ではなく,「浴場の屋蓋には 概ね竹瓦を用い,辛うじて風雨を凌ぐ原始的構 造」であった21)。1871(明治4)年5月,日田県知 事・松方正義が日名子旅館を営む日名子太郎など 別府の有力者に働きかけ,東西約180 m・南北約 140 m の別府港が完成し,海上交通が活発化した。 そして,1873(明治6)年,大阪開商社が大阪・ 別府航路を開設すると,多くの船会社が設立され, 主に関西地方からの入湯客が訪れはじめた。また, 明治中期までの別府村における業種構成は,回船 問屋を筆頭に,近世以来の在来業種が主流であり, 「旅館業はこれと併存または準ずる位置にあった22)」。 1874(明治7)年には,県費によって不老泉(別 府村)などを改築した後,これらの浴場を中心と して旅館街が発達し,1876(明治9)年には浜脇 村に20軒,別府村に40軒の旅館23)が立地していた24)。 よって,別府港と不老泉などの外湯整備は,別府 がその後温泉観光都市として発展していく過程で, 交通・観光インフラストラクチャーの整備を進め るうえで重要な意義を担っていた25)。実際,内湯を 完備した旅館はわずか14軒と少なく,宿泊客の大 部分は入浴時に外湯を利用していた26)。こうした外 湯中心の温泉利用を一変させたのが,温泉の人工 掘削の成功であった。  1889(明治22)年,神澤又一郎27)が初めて温泉の 上総掘り28)による人工掘削に成功した。これは,近 代以前から存続していた湯株制度を有名無実化に するものだった29)。近世では泉源や湯株の所有者は, 地域の有力者であることが明らかにされており30), 別府においても,1888(明治21)年以前の泉源, 湯株所有者は主要な旅館の経営者をはじめとする 地元政治家など地域の有力者であった。しかし, 明治期以降,温泉資源は土地所有権に付随する権 利として扱われ,旧来の資源利用のあり方は否定 され31),近世から継承されてきた泉源や湯株所有者 の地域社会での特権性は,上総掘りによる人工掘 削の成功によって弱まった。  さらに,従来外湯に依存しなければならなかっ た旅館の立地は,上総掘りによる温泉の人工掘削 の成功により,湯脈上であればどこにでも内湯を 備えた旅館を開業できるようになった。このこと は,旅館立地の拡大を促した。加えて,内湯を備 えることが,当時の温泉旅館にとって大きな長所 となった。こうして内湯は,別府に立地する温泉 旅館の宣伝文句として広く使用されるようにな った32)。そして,案内書には「市中ハ至テ繁昌ニシ テ,人家軒ヲ比ベ,宿屋ノ構造甚ダ宜シク……33)」 と記載されるまでに別府は発展していった。つま り,内湯を備えた温泉旅館が,別府の近代的温泉 観光都市化に大きく寄与した一面がある。  上総掘り成功後の別府における温泉乱掘に危機 感を抱いた大分県は,その現状に規制を加えるべ く1912(明治45)年に鉱泉取締規則を公布し,「温 泉行政」を開始した34)。別府独自の温泉行政は, 1909(明治42)年3月の町議会で上等温泉取締規 定及び入浴人待遇方法などを議決したことが嚆矢 であり,1911(明治44)年に温泉課が新設された ことで本格的に始動した35)。  1889(明治22)年,ドイツ人医師ベルツ博士36)は 別府町を訪れ,別府町を「清秀閑雅」で「別府は 実に熱海の大なるものなり」と称賛した。しかし, 交通機関が不十分であることや,温泉地としての 「諸般の設備」が未整備である点などを指摘した。 特に公園・海水浴場が一か所もないことは「甚だ 遺憾である」と述べている37)。1911(明治44)年に なると官鉄別府駅が開業し,北九州だけではなく, 陸路による山陽・東海道方面からの入浴客来訪が 促進された。時期を同じくして,大阪商船会社も 700t 級の専用客船を就航させ,阪神・別府間を

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隔日で運航しはじめた。そして,1893(明治26) 年,別府村は浜脇村とともに町へと改称し38),1906 (明治39)年に隣接し市街地が連坦していた別府町 と浜脇町の両町が合併し新別府町が発足した(第 1図)。  このように,新別府町発足以前の別府は,別府 港築港と主に関西地方とを結ぶ瀬戸内海航路の整 備や,温泉の人工掘削成功による温泉旅館の立地 拡大など,その後の別府及び別府観光の発展の土 台が整った時期であった。 III 本格的な温泉観光都市化の諸相  (1)合併後の都市開発 1906(明治39)年に別 府町と浜脇町が合併した後,別府町は県下第4位 の人口を擁する町となった。この合併前後の人口 規模をみると,合併前の別府町の人口規模は県内 9位の6,794人,浜脇町は県内33位の4,203人であ ったが,合併後の新別府町の人口規模は県内4位 の14,045人となった39)。江戸幕府の直轄領として栄 え,西国郡代も設置されていた日田町や,佐伯藩 の城下町として栄えた佐伯町など近世以来の都市 基盤がある町を人口規模で上回ったのである。  合併前の旧別府,浜脇両町とも農漁村と湯治場 の人口増加に伴い無計画に拡大し,街区も無秩序 なものとなっていた(第1図)。将来の経済発展, 人口増加を見通した町長・日名子太郎は,1909 (明治42)年に「市区改正規定」の町議会可決を経 て,監督庁の認可を得て大事業に着手した。まず, 1910(明治43)年12月に別府町は,埋立出願者・ 伊藤世民らに対して別府港以南大字浜脇国道接合 線に至る約3万坪を埋築する仮契約を結んだ。工 事は1911(明治44)年11月に起工したが,台風の 被害を受け,事業は中止された40)。  日名子は任期満了で1910(明治43)年7月に退 任したが,後任の吉田嘉一郎が日名子の施策を引 き継ぎ,市区改正を実現するために大地主の協力 を得て,耕地整理を実施した(第2図)。耕地整理 は,1911(明治44)年に別府第一耕地整理組合が 設立され,別府駅東南の区画から本格的に開始さ れた。次いで,1912(明治45)年の別府第二耕地 整理組合の設立により,官鉄日豊線以西の耕地整 理が開始され,その後,第六耕地整理組合まで設 立され,順次耕地整理が実施されていき,すべて の事業が完了したのは1928(昭和3)年であった41)。

別府町

浜脇町

別府港 豊州電気鉄道 別府町と浜脇町の境界線 不老泉 日名子旅館 第1図 明治後期の別府と浜脇

Figure 1. Beppu and Hamawaki in the second half of Meiji

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そして,当時の市街地をほぼ含む範囲の耕地整理 が完了したことによって,別府・浜脇両町におい て宅地開発や旅館など宿泊施設のさらなる整備が 可能となり,より多くの町丁において旅館立地が みられるようになった(第3図)。  市区改正や耕地整理と並行して,民間資本によ る海岸埋立事業が別府土地信託株式会社(以下, 土地信託会社)などにより,別府港以南の海岸部 を3つの工区に分けて実施された(第2図)。土地 信託会社は大阪市に本社を置く県外企業で,東京 S 国道3号 地獄循環道路 2 1 3 4 5 6 浜脇駅 亀川駅 別府公園 海岸埋立地 (別府港以北) 海岸埋立地 (別府港以南) I I I I I I 別府大分間 都市交通

亀川町

(亀川温泉)

朝日村

石垣村

別府湾

境川 朝見川 春木川 鉄輪温泉 地獄地帯 地獄地帯

別府町

流川通り 鶴見園 別府遊園地 不老泉 0m 1km 日豊線 別府大分間 都市交通 幹線道路 耕地整理施行区域 行政界 1 ~ :第一~第六までの 各耕地整理組合施行地区6 S:別府駅 III I ~ :第一~第三までの 海岸埋立工区 (別府港以南) 第2図 戦前の別府の都市開発

Figure 2. Urban development of Beppu in prewar days

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や大阪の実業家が中心となって設立された会社で あった42)。埋立事業は1920(大正9)年大分市で開 催される第14回九州沖縄八県連合共進会までに完 成を目指していた。台風の被害により頓挫してい た時期もあったが,その事業は1917(大正6)年 10月の土地信託会社の設立により再び動き出し, 全ての埋立事業が完了したのは1928(昭和3)年 6月のことであった。  土地信託会社は,増加傾向にある観光客に対応 できるだけの宿泊施設が不足している点と人口増 加に伴う市街地の狭隘化の2つの問題を改善する ために,「泉脈豊富にして最も優勝の地域」の埋 立を実施した43)。さらに,別府・浜脇に立地してい た遊郭の移転先として海岸埋立地が提案された44)。 埋立後の土地利用は旅館等の宿泊施設を整備する のではなく,宅地としての利用が計画されていた。 埋立各区域の中央部には浴場を備え,各宅地への 配湯も計画されていた。第1区は完成後,油屋熊 八や朝鮮,関西地方より宅地購入の申し込みが集 まったが45),当初の計画とは異なり多くの旅館が立 地していた。しかし,第2区と第3区の広大な埋 立地はなかなか売れず,その経営は苦しかったよ うである46)。  一方,別府港以北の海岸埋立事業は1918(大正 7)年に創設された中央別府温泉土地株式会社に よって行われた。昭和初期には,区域内約8,000 坪(約2.7 ha)に文化住宅47)18戸が設けられており, 中央別府温泉土地株式会社経営の鶴水園ホテルが 営業していた。  この時期に実施された耕地整理や海岸埋立など の都市開発事業の結果,宅地開発が進み,市街地 は拡大していった。そして,宿泊施設の数と立地 する町丁数も増加した。温泉観光都市としての発 展の土台がさらに強化されたと同時に,以降増加 していく観光客を受け入れるインフラストラクチ ャーが整ったのであった。  (2)都市間交通の整備とその主体 次に明治末 期から昭和戦前期までの別府―大分間の鉄道(軌 道)事業の重要性とその影響について明らかにす る。別府―大分間の鉄道事業の始まりは,1897 (明治30)年10月に豊州電気鉄道株式会社(以下, 豊州電気)が設立され,1900(明治33)年5月10日 別府―大分間の運行が開始されたときである48)。こ の開業年は鉄道としては全国的にも早く,官鉄別 府駅が開業した1911(明治44)年よりも約10年早 いものであった。官鉄線よりも早く地方民営鉄道 が整備されたのは,別府の大きな特徴である。ま た,このように早い時期に都市間交通が整備され たのは,実業家たちが別府―大分間の旅客流動を 地方都市としては大きな商機と捉えたからであろ う。しかし,経営不振49)により,1906(明治39)年 に豊後電気鉄道株式会社(以下,豊後電気)が設立 され,再出発を図ることになった。軌道の延長や 客馬車に対抗するための高速化などに力を入れる ようになり,経営改善がはかられた。1916(大正 5)年3月に九州水力電気株式会社に合併された 同社は,九水鉄道と改称し,その後,鉄道事業は 別府大分電鉄株式会社(以下,別大電鉄)へと受け 継がれた50)。  次に鉄道事業を主導した各企業の役員構成51)につ いて述べ,別府の交通資本の特徴を述べる。豊州 電気の役員は八幡浜銀行別府支店長・菊池行造52)と 第3図 別府における旅館の創業件数と立地町丁 数の推移

Figure 3. Transition of the foundation number of a

hotel, and a location town folio number in Beppu

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実業家・都築温太郎53)ら愛媛県出身者と,元衆議院 議員・朝倉親為54)や浜脇町長で旅館土佐屋の経営 者・濱崎丑治55)などの大分県出身者らによって構成 されていた。この愛媛県出身者と大分県出身者に よって役員が構成される傾向は,後継会社の豊後 電気も同じであった。しかし,鉄道事業主が別大 電鉄へと受け継がれてからは,この傾向に変化が 現れた。つまり,別大電鉄の発起人には阪神急行 電鉄創業者・小林一三が名を連ね,役員も阪神急 行電鉄監査役や共栄部長によって構成された。別 府及び別府観光と,関西地方の鉄道事業者との関 係性が強くなったのである56)。  また,大正末期から昭和初期にかけて,増加す る観光客の便益性を改善するために別府の交通網 をさらに整備する計画が立案された。1924(大正 13)年9月に別府温泉 遊軌道敷設特許が廣島瓦 斯電軌株式会社57)により申請され58),同年11月に鉄道 大臣と内務大臣により条件付きで認可された59)。こ の認可は「今般,別府,石垣,朝日,御越ノ各市 町村温泉地帯ヲ連絡スヘキ交通機関ヲ設ケ一般旅 客ノ交通ヲ便ナラシメ温泉地帯ノ発展ニ資スル ……」という目的をもって申請された60)。この申請 に対して,石垣村や亀川町など軌道が通過する町 村からは反対されなかった。しかし,別府市長・ 神澤又一郎は,別府観光の中心でもあった流川通 りの交通上の危険と市街地の美観を損なわないこ とを附帯条件とした61)。一方,別府市議会はより厳 しい意見を持っていた。内務大臣に陳情する中, 廣島瓦斯電軌株式会社に「満腔ノ敬意」を表すが, 「一般都市トハ其ノ趣ヲ異ニシ……泉都トシテ四 季ノ妙趣ト餘情ヲ含ムヘキ街路ヲ」形成してきた 別府にとって,「散策ト旅情ヲ慰ムル中枢地点タ ル流川通二軌道ヲ設ケ喧嘩塵煙ノ 」となること は,別府の「妙趣」をなくし「俗人ノ観光ヲ斥ス ルコトトナリ温泉市是ニ反スルコト甚シク本市ノ 公益上誠ニ憂慮ニ堪ヘサル」と厳しいものであ った62)。結果的に別府市流川通りより亀川町大字亀 川に至る約9.6キロの電気軌道敷設が認められた が,認可の条件として2間半の歩道を確保する道 路拡築と待避線の整備が義務付けられた63)。完成後 は九水鉄道との連絡も計画され,海陸交通の至便 が期待された。しかしながら土地買収が難航し, 1935(昭和10)年に別府遊覧電気軌道株式会社の 解散が認可され,軌道事業は未完のまま終了した64)。  この未完の鉄道事業は広島市を本拠とする実業 家によって計画され,完成を目指していた点が特 徴であろう。この点からも広島市を含め瀬戸内海 地域と別府との密接な関係性と,当時の別府がい かに実業家にとって多くの商機を秘めた地域であ ったかが,読み取れるであろう。  (3)観光旅行の大衆化に伴う別府観光の変容と 外国人観光客の増加 観光旅行の一般大衆化が進 みつつあった大正期の別府では,概ね1週間以内 の短期滞在者向けの旅館の需要が高まり,旅館数 と宿泊客数ともに増加している(第4図)。また, 全旅館に占める旅籠の割合も年々高まっている65)。 観光客の増加に伴い,それまで残されていた静か な湯治場としての雰囲気は「小奇麗な市街で…… 各種の遊覧設備もあり,旅館等も堂々たる構へで 飲食店や旅館等も中々の繁盛だが私の目には余り 俗化されはせぬかと思はれた66)。」と表現されるよ 第4図 別府における旅館数及び宿泊者数の推移 (1912年∼1926年)

Figure 4. Transition of the number of hotels and

the number of lodgers in Beppu

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うに近代的な温泉観光地として発展していた。加 えて,「療養の街としてよりは歓楽の街としての 方が,失礼ながら俗耳とやらに入り易い理屈67)。」 と高度経済成長期まで続く歓楽的な温泉地として の表現もされ始めていた。  観光客と旅館数の増加のもうひとつ背景には交 通機関の輸送力の拡大や港湾基盤の整備があった。 1912(明治45)年5月大阪商船会社の「紅丸」が 大阪―別府間に就航し,1920(大正9)年には大 阪商船が専用桟橋をコンクリート製に改修し,さ らなる大型船の就航を可能にした。その後,大阪 商船の大阪―別府間を運行する客船が大型化して いくに従って,別府を訪れる観光客数も増加をし ていった。また,1926(大正15)年にはイギリ ス・クック社の世界観光団が別府に立ち寄った。 クック社駐日支配人アール・エドガー氏は「…… 別府市が熱誠に且つ組織立って歓迎してくれたの と別府が風光明媚であるため外人間に非常に喜ば れ支那北京に於ける四日の観光を変更し其代わり に大連,仁川,別府,宮島を観光することになっ た……」と述べ,別府を非常に評価していた68)。そ の後,世界周遊船エンプレス・オブ・ブリテン号 などが別府港に寄港するなど,外国人観光客の増 加傾向が見られるようになった。このブリテン号 の別府港寄港も「豪華・世界周遊船 ブリテン号 来る 珍客四百八十名を乗せて 別府に上陸観 光」と大きく報道された69)。この別府を訪れたブリ テン号の外国人観光客について,「……之等は主 として京阪方面の貿易商,宣教師,公使官や領事 館などが最も多数を占めている又上海,香港方面 の外人で肥前の温泉からまわって来る避暑客も次 第に多くなりつつある……」と述べられている。 こうした避暑目的で別府を訪れた外国人観光客は 亀の井ホテルや花菱旅館などに滞在していた70)。し かし,外国人観光客が増加すると別府が外国人観 光客を迎えるためのホテルが十分に整備されてい なかったという問題点も表面化した。当時,外国 人観光客を迎えることができるホテルは亀の井ホ テルなど数軒のみであり,その設置が急務である という指摘は地元新聞により度々行れていた71)。  (4)大正期の別府における旅館立地の特性 そ れでは,大正期における別府の旅館立地はどのよ うな特徴を持っていたのであろうか。1920(大正 9)年に発行された『別府旅館能力調査表』(以下, 調査表)をもとに当時の別府の旅館の規模や立地 についてみていく72)。この資料は,1920(大正9) 年7月の調査を基に作成されたものである。当時 の別府町に立地する旅館は215軒で,そのうち旅 籠数は75軒,木賃宿数は140軒であった73)。その割 合は木賃宿が全体の65.1%と旅籠34.9%に比べて 高く,観光が大衆化しつつあった当時においても, 木賃宿の立地数は多く,湯治としての温泉利用が 続いていた。  当時の別府町内における旅館の立地は,海岸埋 立地の北浜(49軒)と,伝統的な湯治場である浜 脇(44軒)に集中している点に特徴があった。具 体的には,北浜は木賃宿31軒,旅籠18軒が立地し ており,そのうち3階建て旅館が19軒と全体の約 38%を占め,町内第3位の立地数であった。また, 別府港付近の港町には19軒の旅館が立地し,その うち旅籠が12軒と約63%を占めていた。この数値 は別府町で10軒以上旅館が立地していた町丁のな かで最も高い数値であった。また,港町は3階建 ての旅館が10軒立地し,その割合は約59%を占め, この数値も別府町で10軒以上旅館が立地していた 町丁のなかでは最も高い数値であった。この北浜 と港町は沿岸部という地理的特徴を活かして,眺 望が得やすい3階建ての旅館が多く立地していた74)。 特に,北浜には当時の別府町で最も高楼な5階建 ての木賃宿が立地し,海岸沿いの眺望を利点に顧 客確保に努めていた。一方,浜脇には,木賃宿40 軒と旅籠4軒が立地しており,木賃宿が全体の約 90%を占めており,湯治場としての機能を色濃く 残した地区であった。また,浜脇には3階建ての 旅館が21軒立地し,約48%を占めている。この数 値は港町に次ぐ別府町第2位で,沿岸部に位置す

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る地区の1つの特徴であると言える。  次に,第5図を参照しつつ,明治後期から大正期 にかけての町丁ごとの旅館の拡大状況を見てみる。 1887∼1907年にかけて,伝統的な湯治場であった 浜脇は27軒,明治初期に整備された別府港に近い 港町は14軒,それぞれ旅館が増加した。しかし, この2つの町丁は1908∼1921年の旅館増加数はそ れぞれ15軒と4軒であり,増加割合はその前の期

松原公園

別府市役所

亀の井旅館

日名子旅館

北浜 不老町 a b 0 10 20 30 40 50 60 軒 旅館数 旅籠数 木賃宿数 3階建 旅館数 1887~1921年の 旅館増加数 a : 1887~1907年の旅館増加数 b : 1908~1921年の旅館増加数 a b a b 梅園町 a b 楠町 a b

別府港

流川通り

浜脇駅

朝見川 0m 500m

至亀川

別府湾 花菱旅館

別府駅

日豊線

九州水力電気鉄

(国

3

号)

a b 港町 浜脇 a b

至大分

第5図 別府における大正期の旅館立地

Figure 5. Hotel location of the in Beppu(1920)

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間ほど大きくない。一方,海岸埋立地北浜と別府 観光の中心である流川通りに近接している梅園町, 別府駅に近接している不老町の1887∼1907年にか けての旅館増加数はそれぞれ15軒,1軒,3軒で あったが,1908∼1921年にかけてはそれぞれ34軒, 17軒,12軒の旅館が増加し,浜脇や港町とは逆の 傾向を示している。これら北浜・浜脇両地区は, 別府の海の玄関口である別府港と陸の玄関口であ る官鉄別府駅への近接性が高く,近代以降,別府 の近代的観光地化を支えてきた地区である。  こうした別府観光の発展には別府を全国に宣伝 し,戦前の別府観光の発展の最大の功労者と言わ れている油屋熊八の活躍があった。アメリカで欧 米文化と近代的な市民生活を学んだ油屋熊八は, 1911(明治44)年10月に木造二階建ての亀の井旅 館を創業している。大正期に入ると,徐々に油屋 熊八の知名度は高まっていった。1920(大正9) 年に油屋熊八は梅田凡平,原北陽,宇都宮則綱ら と別府宣伝協会(後の別府温泉宣伝協会)を設立し た。その後,油屋熊八は海外に目を向けつつ,別 府の観光振興,宣伝に尽力していく。その諸相は 次章で詳しく述べる。 IV 市制施行後の観光振興の諸相  (1)市制施行後の都市・観光開発 別府は1924 (大正13)年に市制を施行した。この市制施行は大 分県内では大分市に次いで早く,臼杵町や中津町 のような旧城下町を由来とした町よりも早かった。 別府の市制施行は将来増加すると予測された外国 人観光客を迎える設備を整えることや,別府観光 の宣伝を目的の1つとしていた75)。そして,亀川町 や朝日村,石垣村を別府市と合併させ,「大別府」 を形成することが必要であると説かれていた76)。こ の大別府構想は,第2図に見られるように,1935 (昭和10)年に亀川町と朝日村,石垣村が別府市と 合併し,鉄輪温泉や亀川温泉も別府市域となった ことで実現した。この「大別府」の実現を豊州新 報は「名実共に東洋一 理想の大温泉街……」, 「世界有数の山嶽都市 戸数面積は県下一位……」 と報じ,「大別府」の発展が期待されていた77)。  市制施行後に実施された別府の都市開発につい て述べていく。別府の近代的道路として国道3号 が設置されていたが,市制施行前までは非常に貧 弱で,度々拡張工事の必要性が訴えられていた。 1932(昭和7)年8月から,時局匡救事業78)として 実施されたこの事業では,山腹土砂が切り取られ, 海面側への拡張によって,道路事情が大きく改善 された。  一方,市制施行後の観光開発として代表的なも のは,1926(大正15)年2月に開園し,第2図に 見られる別府西部に立地した鶴見園であった。鶴 見園は広島県呉市の松本勝太郎によって経営され, 九州の宝塚と呼ばれる温泉と少女歌劇79)を売り物と し,オペラ,動物園,テニスコート,温泉プール 等を備えた複合レジャー施設であった。また, 1930(昭和5)年には別府遊園地(第2図)や別府 ゴルフ場(現:大分県杵築市)が整備された。別府 遊園地は鳥取県出身の木村久太郎が整備したケー ブルカーや温泉プールを備えた遊園地であった。 このような一連の開発の背景には,増加する観光 客の様々なニーズに答える必要性とともに,大正 末期から昭和初期にかけて東京や大阪の都市部を 中心とした大手私鉄資本による遊園地開発が多く 実施されていたという全国的な流れがあったと考 えられる。  1924(大正13)年になると元大分県保安課長・ 小野七郎が温泉課長に就任し,いわゆる温泉行政 を積極的に実施していった。別府独自の温泉行政 は,1909(明治42)年3月の町議会で上等温泉取 締規定及び入浴人待遇方法を議決したことが嚆矢 であり,1911(明治44)年に温泉課が新設された ことで本格的に始動した80)。温泉課設置後の温泉行 政は別府温泉の宣伝や公衆浴場の整備,公園など の風致整備などを主に担当していた81)。この温泉課 の宣伝効果は大きく,外国観光船の別府港寄港な どで「世界の楽土」として国内外に宣伝され多く

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の観光客が別府を訪れるようになった82)。そして, 1925(大正14)年8月に別府市内で初めて入湯税 (特別地方税)が新設された。これにより当時すで に温泉利用が市の財政上の対象となるまでに成長 していたことがわかる。1935(昭和10)年4月に は温泉課より観光課が独立し,経常費15,000円が 計上されることになった。この観光課は観光客誘 致と別府の宣伝の中枢機関として期待された83)。  以上のような都市開発や観光開発といったハー ド面での整備だけではなく,大正末期から昭和初 期にかけて,別府観光の父と呼ばれる油屋熊八の 多大なる尽力が別府観光の発展の下支えとなって いた。  (2)油屋熊八による観光振興 油屋熊八らは, 別府内外で精力的な宣伝活動を展開した。1925 (大正14)年に富士山山頂に「山は富士 海は瀬戸 内 湯は別府」の標柱を建て,日本各地の建設予 定がない地に「別府亀の井ホテル支店建設予定 地」と記載された標柱を建て,別府観光を全国に 宣伝した。1925(大正14)年と1926(大正15)年に は宣伝活動を中国にまで拡大していき,外国人観 光客誘致が努められていた。この中国での宣伝活 動が功を奏し,別府を訪れる外国人観光客は次第 に増加した。また,1924(大正13)年12月には亀 の井旅館を亀の井ホテルに改称し,外国人観光客 にも対応できるよう水洗トイレなどを備えた洋室 が設置された。  1927(昭和2)年,大阪毎日・東京日々新聞主 催の「日本新八景」に,「温泉の部」で別府は日 本一に選ばれた。この背景にも,油屋熊八の尽力 があった。当初別府市民の「日本新八景」への関 心は薄く,これに危機感を感じた油屋熊八は投票 依頼を活発に展開し,選定にこぎつけたのであっ た。さらに,油屋熊八は地獄観光の整備に着手し ていた。1921(大正10)年に地獄循環道路が完成 すると,地獄めぐりは別府観光の目玉となった。 1928(昭和3)年,油屋熊八は亀の井自動車株式 会社を設立し,日本初の女性バスガイドによる案 内付きの定期観光バスの運行を開始した84)。  このように,油屋熊八は様々なアイデアを駆使 して別府観光の発展に尽力した。しかし,油屋熊 八のような個人の尽力だけでは別府観光の発展は なかったはずである。彼が活躍した大正期から昭 和初期にかけて,別府市役所などが主体となり別 府観光の発展・宣伝のために2つの博覧会が開催 されたことも重要である。  (3)博覧会の開催と国際観光政策 昭和戦前期, 別府において2つの博覧会が開催された。それら は,1928(昭和3)年4・5月の中外産業博覧会85) と1937(昭和12)年3∼5月の国際温泉観光大博 覧会(以下,大博覧会)である。前者は海岸埋立地 や別府公園など,後者は別府公園を会場とした。 本項では,主に大博覧会の開催意義や実施状況に ついて概述する。  昭和戦前期は全国各地で様々な博覧会が開催さ れていた時期であり,「日本政府主催の国家イベ ントとして大規模な国内博覧会が開催される中で, 日本国内各地では大小の地方博覧会が開催されて いた。国家イベントとしての政府主催の国内博覧 会に出品した国内地方が,地方のアイデンティテ ィを確立するために地方博覧会を開催して」いた86)。 さらに,当時国策として国際観光政策が推進され ており,別府は国が策定した国際観光ルートに組 み込まれていた(第6図)。このルート選定には従 来から外国人観光客が一番多く訪れている箇所, 比較的多く外国人観光客が訪れている箇所,将来 観光地として最適と思われる箇所が考慮されてい た。この3点が考慮されて作成された7ルートの うち,九州回遊ルートと西日本縦断ルートの2つ に別府が組み込まれていた87)。両ルートとも別府市 内を観光し,ゴルフを楽しみ,亀ノ井ホテルに宿 泊する行程であった。油屋熊八が経営していた亀 ノ井ホテルは,別府の国際観光地に大きな役割を 果たしたことがわかる。  このような背景から,別府市は温泉と観光のも つ国際的経済価値に着目し,新しい産業の柱とす

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ることを計画した。この大博覧会は,「大中至正 の大道に倚り現代温泉観光事業の組織,体系の整 備に努め観光事業が産業をして持つ偉大なる経済 的,文化的価値を宣揚し以て新産業部門の開拓に 寄与し併せて産業文化の成果を一堂に集め其の将 来の発達に資せんこと」が期待されていた88)。大博 覧会については,1935(昭和10)年11月7日に建 議案が市議会で採択され,「別府温泉の療養価値 を世界に知らしめ,遊覧施設に依って観光客を誘 ひ,尚且つ健康保全のため吾か風光明媚を求めん と……療養観光衛生其他何れの点よりするも真に 東洋の大仙境を東西に宣伝」することが目的とさ れていた。その後,1936(昭和11)年2月に別府 市長に建議案が提出され,大博覧会の開催が決定 した。大博覧会は約70万円の巨費を投じて1937 (昭和12)年3月25日から5月12日に開催され,開 催期間中に約50万人が大博覧会を訪れ,前年に比 べて約15万人増の約36万人の宿泊客が宿泊した。 開場式は県内外の「知名者有志四十名を集め殊に ドイツ,ポーランド等外国使臣の参列もあり文字 通り豪華絢爛,国際都市ならでは見られぬ壮観を 展開……」といった様子であった89)。  大博覧会では,当時の社会風潮の影響から陸軍 館や満州館などの植民地への進出を紹介するパビ リオンが設置されていた。開催された大博覧会の 様子を豊州新報は,「萬街飾も美々しく 張切る 別府全街 宿泊の申込み殺到 物凄いサービス陣 の総動員」との見出しをつけ,大博覧会の開催に 際して,別府市内全体が祝賀ムードに包まれ,約 70以上の団体観光客が別府を訪れたとしている90)。  その後,1937(昭和12)年7月以降に日中戦争 へ突入し,日本は本格的に戦争への道を歩んでい くことになる。当時連合艦隊が別府湾に何度か来 航し,日頃の激しい訓練の疲れを癒していた。こ の1万人以上の大規模な連合艦隊の来別は地域経 済を潤すものであったため,別府市街地の各商店 街,旅館,バー,劇場などは「無敵艦隊大歓迎」 の看板を立て歓迎した91)。1937(昭和12)年7月以 降の戦時体制に入ると,別府市は「観光報国」を 理念として温泉資源を用いて,国に報いる方針を 打ち出していった。別府は日露戦争においても, 傷病兵が療養した土地柄であり,温泉の療養効果 には一定の実績があったこと,陸軍や海軍の病院 など「観光報国」のための重要な施設がすでに整 備されていたことが背景にあった。 V 観光開発と都市開発の関係性―まとめにかえ て―  本章では,本研究で明らかになった点を整理し 西日本ルート 横浜 東京 日光 箱根 静岡 名古屋 京都 奈良 大阪 神戸 別府 阿蘇 熊本 雲仙 長崎 九州回遊ルート 神戸 高松・屋島 別府 福岡 唐津 長崎 雲仙 熊本 阿蘇 宮崎 霧島 鹿児島 0km 500km 第6図 国際観光局が作成した国際観光ルート

Figure 6. The international tourism route which

the international tourism office created

注:神戸―別府間は船による移動。神戸から別府に向かう往

路は高松と屋島に寄港する。

資料:砂本文彦「1930年代の国際観光政策により建設された 「国際観光ホテル」について」日本建築学会計画系論文

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つつ,観光開発と都市開発の関係性を整理してい きたい。別府の都市開発における特殊性は,1919 (大正8)年に旧都市計画法が制定されるよりも10 年早い1909(明治42)年に,町議会によって市区 改正規定を可決している点にある。そして,1906 (明治39)年の別府町と浜脇町との合併後の1911 (明治44)年に,耕地整理と海岸埋立が開始された。 また,時期は前後するが,1900(明治33)年には 別府―大分間の都市間交通がいち早く整備されて いる。県内第4位の人口規模へと成長していった 別府が,他の県内諸都市に先んじて鉄道事業を実 施したことは特記できる。この明治期の合併後に 開始された都市開発と鉄道事業は,同時期から始 まる観光客増加に対処することができ,その後の 別府観光の土台となっていた。  これらの都市開発と鉄道事業は多くの民間資本 によって担われ,特に別府―大分間の都市間交通 は愛媛県出身者と地元有力者らに当初運営されて いたが,次第に主に関西地方の鉄道事業者によっ て担われるようになった。また,海岸埋立を実施 した別府土地株式会社も愛媛県出身者らが多く役 員を務めるなど,愛媛県からの資本投下が見られ た。そして,別府で温泉旅館を経営する地元有力 者たちもこれらの企業の経営に携わっていた。  大正期に入ると,余暇文化の興隆や交通インフ ラストラクチャーの強化などにより短期滞在者が 増加した。そのため湯治客向けの木賃宿が旅館へ と転換し,海岸埋立地北浜には多くの短期滞在者 向け宿泊施設が立地した。さらに,広範囲に耕地 整理が実施され,整然となった区画にも多くの宿 泊施設や観光・娯楽施設が立地していた。このよ うに,大正期の別府観光は合併後に実施された諸 都市開発の土台の上で成立したものであった。そ して,油屋熊八が登場し別府観光の宣伝の機運が 高まり,市制施行後の本格的な別府観光の振興, 宣伝の開始へと繫がっていった。  1924(大正13)年の市制施行は別府観光の発展 と宣伝を目的の1つとし,温泉行政も本格的に開 始された。この時期も観光開発は進み,鶴見園や 別府遊園地などの複合レジャー施設が整備され, 多くの観光客を集めた。そして,市制施行前から 活躍していた油屋熊八による別府観光の宣伝も全 国的に展開されていく。経営していた亀の井旅館 を亀の井ホテルへと改称した彼は,外国人観光客 向けに設備を整えた。この亀の井ホテルはその後, 国による国際観光政策と深く結びついていく。  また,この時期には別府市行政も対外的に別府 観光の宣伝に力を入れており,2つの博覧会が開 催された。これは,国内外への別府観光の宣伝が 主な目的である。当時,別府は国が策定した国際 観光ルートにも含まれていた。その中には,前述 の亀の井ホテルが宿泊先として挙げられていた。 この時期,別府を訪れた外国人観光客は増加して いたが,その後,日中戦争が始まると徐々に外国 人観光客は減少していき,戦況が悪化するにつれ て日本人観光客も減少していった。  つまり,別府市行政が主体となって実施した市 区改正事業と耕地整理事業といった都市開発を土 台として,民間資本が別府―大分間の都市間交通 や観光客を主な対象とした別府内交通,そして海 岸埋立事業といった交通・観光インフラストラク チャーが計画・整備されたのである。そのうえ, 民間資本や民間人により別府観光の全国的な宣伝 が実施され,それは多くの観光客を呼び込むこと に成功したのであった。  これまでの観光地理学や都市形成史研究で等閑 視されていた近代期における観光都市の形成につ いて,主に都市開発と交通・観光開発の過程とそ の主体について考察した本稿は,観光地理学と都 市史研究の接合を試みた研究という側面もある。 都市を空間的に分析する都市史研究と観光都市の 内部構造や開発に焦点を当てる観光地理学研究は, 問題意識や研究目的の多くは共通しているが,そ の接合は未だ不十分である。その接合を図るには, さらなる事例研究の蓄積が必要であろう。  戦前の都市開発を土台としつつ,新しい大規模

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な港湾整備や道路整備を実施し発展を遂げた戦後 の別府に関しては別稿で論じたい。戦前期の別府 の都市発展の独自性をより明らかにするための他 都市との比較研究は必要である。また,温泉観光 都市だけではなく,道後温泉や有馬温泉のように 都市内における温泉地の発達過程や,母体となる 都市の発展に及ぼした影響などを明らかにする必 要もあろう。 [付記] 本稿は平成24年度駒澤大学大学院人文科学研 究科に提出した修士論文の一部を大幅に加筆・修正し たものである。研究を行うにあたって,別府市役所, 別府市立図書館,大分県立図書館,大分県立公文書館, 国立公文書館の方々に大変お世話になりました。また, 橋詰直道先生を始め,駒澤大学地理学教室の諸先生方 と,水内俊雄先生を始め,大阪市立大学地理学教室の 諸先生方と院生諸氏にも,心より感謝申し上げます。 本稿の骨子は,2012年度日本地理学会春季学術学会 (於:立正大学)において発表した。 (大阪市立大学・文学研究科・院生) 注 1) 本稿では,港湾や鉄道などの交通インフラストラク チャー導入や海岸埋立や区画整理事業などの明治期以 降の都市開発が実施されることをもって,近代的と定 義している。 2) ⑴別府市「別府市統計書 平成23年度版」別府市, 2011,⑵熱海市「熱海市統計書 平成25年度版」熱海 市,2013。 3) ⑴岡部定治編『別府旅館能力調査表』岡部定治発行, 1920。⑵藤曲万寿男「熱海温泉旅館街の現状につい て」人文地理13―4,1961,326―335。 4) 山村順次編著『観光地理学―観光地域の形成と課題 ―』同文館出版,2010,18頁。 5) 山村順次「温泉観光都市・別府の地域変化」千葉大 学教育学部研究紀要第1部30,1981,129―155頁。 6) 山村順次「箱根における温泉観光地域の形成―中央 観光資本の展開過程を中心として」大東文化大学紀要 経済学部8,1970,1―34頁。 7) 小堀貴亮・山村順次「別府市鉄輪温泉における湯治 場の地域変容」温泉地域研究2,2004,49―54頁。 8) 浦達雄「別府温泉郷における旅館経営の動向」観光 研究論集3,2004,1―12頁。 9) 神田孝治「南紀白浜温泉の形成過程と他所イメージ の関係性―近代期における観光空間の生産についての 省察―」人文地理53―5,2001,24―45頁。 10) 荒山正彦「大阪商船と近代ツーリズム―二つのツー リズム空間という視点から―」人文論究57―3,2007, 1―24頁。 11) 荒山正彦「「内地」と「外地」をめぐる海上ツーリ ズム―戦前期における日本一周船と日支周遊船―」関 西学院史学37,2010,1―17頁。 12) 関戸明子「北関東における温泉地の近代化:温泉の 利用形態と交通手段の変化」群馬大学教育学部紀要人 文・社会科学編53,2004,201―221頁。 13) ⑴水内俊雄「近代都市形成期における北部九州都 市」史淵 124,1987,89―127頁。⑵水内俊雄「戦前期 北九州五都市における都市形成と都市政策」(財団法 人西日本文化協会編纂『福岡県史近代研究編各論 (一)』福岡県,1989),217―272頁。 14) 水内俊雄「近代都市史研究と地理学」経済地理学年 報40―1,1994,1―19頁。 15) 西部 均「建造環境としての街路照明と近代都市社 会のダイナミズム」地理科学54―4,1999,259―279頁。 16) 遠城明雄「「都市下層社会」をめぐる表象と実践― 地方都市における諸相―」史淵 143,2006,181―211 頁。 17) 笠井雅直「両大戦間期の下呂温泉と鉄道網の発達― 温泉観光ブームの創出」名古屋学院大学論集社会科学 40―1,2003,1―21頁。 18) 小川 功「海と山のリゾート開発並進と観光資本家 の興亡―大正期の別府土地信託,別府観海寺土地を中 心に―」彦根論叢381,2009,57―77頁。 19) 松田法子・大場修「泉源開発と旅館街の立地傾向に みる近代大規模温泉町の成立過程:別府温泉を事例と して」日本建築学会計画系論文集582,2004,153―159 頁。 20) 松田法子・大場修「近代大規模温泉町の成立過程と 大規模旅館の諸相:別府温泉を事例として」日本建築 学会計画系論文集582,2004,145―152頁。 21) 別府市教育会『別府市誌』別府市教育会,1933, 468頁。 22) 前掲20)146頁。 23) 宿泊料を受け取り,観光客や入湯客に食事を提供し たり,宿泊させる施設。本研究では,旅籠や木賃宿を 含めた宿泊施設の総称として用いる。 24) 佐藤蔵太郎編『別府温泉誌』武田新聞舗,1909,49 頁。 25) 外湯とは温泉地内の共同湯のことである。高柳友彦 「源泉利用を通じた地域行財政運営の歴史的変容―戦 前期道後湯之町を事例に―」歴史と経済223,2014, 39頁。 26) 内湯とは旅館内に源泉を引用する温泉利用のことで ある。前掲25)。 27) 後の初代別府市長で,豊後電気鉄道株式会社監査役 も務めた別府の有力者であった(商業興信所編『日本 全国諸会社役員録』商業興信所,1907,下編961頁)。 28) 上総地方(現在の千葉県)で発達した自噴井戸の掘 り方。別府で温泉掘削に転用された(社団法人土木学 会編『土木用語大辞典』社団法人土木学会,1999, 178頁)。 29) 湯株制度とは,近世において温泉宿営業者の成立基 盤をなし,特権であった温泉の利用権利のことである。 松田法子・大場修「「湯株」の存立形態にみる温泉町 の近代化と空間構造の変容」日本建築学会計画系論文 集597,2005,223―227頁。

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30) 前掲19),20)など。 31) 高柳友彦「産業化による資源利用の相克:戦前期常 磐湯本温泉を事例に」社会経済史学77―4,2012,505― 525頁。 32) 野尻従吉著『新選豊後温泉誌』武田多賀蔵出版, 1902,89頁,92頁など。 33) 加藤賢成編『豊後名勝温泉案内』加藤賢成,1888, 1頁。 34) 別府市『別府市誌』別府市,1973,454頁。 35) 大分新聞1935.3.22,朝刊1頁。 36) 明治期に来日したお雇い外国人。東京医学校,東京 大学医学部で教 をとり,近代日本の医学の進歩に多 大なる影響を与えた。温泉を使用した温泉療法などを 推進したことでも知られている(講談社『日本人名大 辞典』講談社,2001,1669頁)。 37) 別府町『別府町史』別府町,1914,9頁。 38) この背景には,商業活動において村名では県内外と の取引上,イメージダウンとなり,町名での商業活動 は,信用の拡大により活発化するという別府村の思惑 があった。 39) ⑴大分県『明治三十六年大分県統計書』大分県, 1903。⑵大分県『明治四十一年大分県統計』大分県, 1908。 40) 前掲21)591頁。 41) 別府市『別府市史』別府市,1928,15―16頁。 42) 商業興信所編『第二十七回 日本全国諸会社役員 録』商業興信所,1919,上編406頁。 43) 「別府市制施行一件」1923,『市制町村制1』大分県 公文書館所蔵。 44) 大分新聞1919年3月1日,朝刊7頁。 45) 前掲43)。 46) 前掲18)。 47) 文化住宅とは,近代的な椅子式生活による居間中心 型の一般住宅を指しており,大都市の中流層から始ま って一般国民へ急速に広まった。市川秀和「田村剛に よる実用主義庭園と庭園改善運動―大正期・造園界の モダニズム思潮に関する研究―」日本庭園学会誌12, 2004,35―40頁。 48) 前掲21) 189頁。 49) 経営不振の理由は,「……速度も遅く,馬車との競 争にも敗れて営業不振……」などが挙げられる。別府 市『別府市誌 第2巻』別府市,2003,189頁。 50) その後,1927(昭和2)年6月九水鉄道は九州水力 電気株式会社から分離し,別府大分電鉄株式会社とな った。この別府大分電鉄株式会社は軌道を別府市から 亀川町まで延長し(「別府亀川間軌道敷設特許申請書 進達ノ件」1927,『鉄道省文書 特許・大分・(昭和2 ∼3)』国立公文書館所蔵),戦時体制下の1944(昭和 19)年12月,「大東亜戦争決戦段階ニ處」するため別 府大分電鉄株式会社が国東鉄道など6つの株式会社を 吸収合併する申請が出され,1945(昭和20)年4月に 大分交通株式会社が設立された(「別府大分電鉄,国 東鉄道,耶馬溪鉄道,豊州鉄道,宇佐参宮自動車,別 杵自動車会社合併の件」1945,『鉄道局文書 特許・ 大分交通・(昭和15∼20)』国立公文書館所蔵)。 51) ⑴豊州電気鉄道株式会社の役員構成は商業興信所編 『日本全国諸会社役員録』商業興信所,1897,396頁。 ⑵豊後電気鉄道株式会社は商業興信所編『日本全国諸 会社役員録』商業興信所,1907,下編961頁。⑶別府 大分電鉄株式会社は商業興信所編『第三十六回 日本 全国諸会社役員録』商業興信所,1928,下編596頁。 各会社の役員構成は創業当時のものである。 52) 大分合同新聞社『大分県歴史人物事典』大分合同新 聞社,1996,178頁。 53) 愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 人物』愛媛県, 1989,418―419頁。 54) 前掲52)28頁。 55) 小俣愨編『大分県人名辞書』小俣愨1917,59頁。 56) 前掲51)⑶。 57) 同時期にほぼ同じ区間で鉄道敷設を申請していた別 府温泉電気鉄道株式会社と競願したが,廣島瓦斯電軌 株式会社が資金力や既に広島で電軌事業を実施してい た点,設備面が考慮され,別府温泉電気鉄道株式会社 の申請は却下された。『鉄道局文書 軌道特許・広島 瓦斯電軌(広島電鉄)4・大正8年∼昭和2年』国立 公文書館所蔵。 58) 「競願者施設等一覧」『鉄道局文書 軌道特許・広島 瓦斯電軌(広島電鉄)4・大正8年∼昭和2年』国立 公文書館所蔵。 59) 「特許状」1926.11.6,前掲58)鉄道局文書所収,国 立公文書館所蔵。 60) 「電気鉄道敷設特許申請書」1924,前掲58)鉄道局 文書所収,国立公文書館所蔵。 61) 「温泉 遊鉄道敷設ノ件」1926,前掲58)鉄道局文 書所収,国立公文書館所蔵。 62) 「意見書」1926,前掲58)鉄道局文書所収,国立公 文書館所蔵。 63) 「特許状」1926,前掲58)鉄道局文書所収,国立公 文書館所蔵。 64) 「別府遊覧電軌軌道会社解散決議認可申請ノ件(通 牒)」1925,(「軌道敷設特許権譲渡許可願」1927,『鉄 道省文書 別府遊覧電軌軌道(一) 自昭和二年至昭 和十年』所収)国立公文書館所蔵。 65) 旅籠とは「……一泊ノ旅籠料ヲ定メ客ヲ宿泊セシム ルモノヲ謂フ」(大正八年五月十日組織「別府宿屋組 合規約」第二章旅人宿第十七条)。本研究では旅館の 1つの種類として用いる。 66) 日本旅行文化協会『旅』1928.8,38頁。 67) 日本旅行文化協会『旅』1929.9,106頁。 68) 大分新聞1926.3.26,朝刊7頁。 69) 豊州新報1935.4.9,朝刊4頁。 70) 大分新聞1926.8.3,朝刊4頁。 71) 大分新聞1918.6.16,朝刊4頁。 72) 前掲3)⑴ 73) 「木賃宿ト称スルハ一日ノ座敷料,蒲団代,食料等 ヲ箇々ニ区別約定シテ客ヲ宿泊セシムルモノヲ謂フ」 (大正八年五月十日組織「別府宿屋組合規約」第四章 木賃宿)。木賃宿は伝統的な湯治場に立地する傾向に ある。本研究では旅館の1つの種類として用いる。 74) 当時の別府町内で3階建て旅館が10軒以上立地した のは,北浜,浜脇,港町の3町丁のみである。また, 3階建て旅館数は66軒で,全旅館数に占める割合は約 30%であった(前掲3)⑴)。 75) 前掲43)。

(16)

76) 前掲43)。 77) 豊州新報1935.9.3,朝刊3頁。 78) 昭和恐慌により大きな打撃を受けた地方農村を救済 するために高橋是清蔵相による財政金融政策の一環と して全国各地で実施された大規模な土木事業のことで ある。藤田安一「昭和恐慌下における時局匡救事業の 展開と地方財政―1930年代初期の滋賀県を事例とし て」地方史研究39―2,1989,1―21頁。 79) 箕面有馬電気軌道取締役の小林一三が,大正2年 (1913)に大阪三越の少年音楽隊を模倣して,組織し た少女唱歌隊が始まりで,少女唱歌隊は宝塚少女歌劇 団養成会に改称され,歌劇が上演されるようになった。 竹村民郎・鈴木貞美編著『関西モダニズム再考』思文 閣出版,2008,338頁。 80) 大分新聞1935.3.22,朝刊1頁。 81) 前掲80)。 82) 前掲80)。 83) 豊州新報1935.2.27,朝刊3頁。 84) 三重野勝人「油屋熊八翁の実像を探る」別府史談18, 2004,35―53頁。 85) 中外産業博覧会開催期間中の来場者は約80万人で, 別府市には約100万円の収入があった。大分新聞1928. 5.21,夕刊3頁。 86) 長谷川司「戦後地方博覧会における地域イメージの 再構築―南国宮崎博(1954)のケーススタディ」総合 政策研究33,2009,105―117頁。 87) 新井尭璽『観光の日本と将来』観光事業調査会, 1931,166―175頁。 88) 別府市『国際温泉観光大博覧会報告』別府市,1937, 3頁。 89) 豊州新報1937.3.25,朝刊1頁。 90) 前掲89)。 91) 別府市『別府市誌 第1巻』別府市,2003,140頁。

Urban Development and the Formative Process of a Modern Hot Spring Resort :

The Case of Beppu City, Oita Prefecture

NAKAYAMA Hotaka

Graduate Student, Osaka City University

 The objective of this paper is to clarify the urban development process of Beppu City and its

formation as a modern hot spring resort, from the beginning of the Meiji period until the

out-break of the Second World War.

 One characteristic of the urban development of Beppu is that it began relatively early for

Ja-pan, and inter-city transportation between Beppu and Oita was established as early as 1900.

These early developments were mainly realized by private capital, especially the transportation

route between Beppu and Oita, which was operated by mainly local magnates and people from

Ehime Prefecture. The urban development that started in the Meiji period eventually became the

basis for Beppu’s modern hot spring tourism.

 During the Taisho period, short-term visitors to Beppu increased. Cheap inns, built originally

for customers of therapeutic baths, were converted into hotels, and additionally many

accommo-dation facilities for short-term visitors were built. Moreover, land consoliaccommo-dation projects were

carried out, and these newly-adjusted areas became home to new accommodation and

entertain-ment facilities. The popularity of Beppu as a tourist destination gained moentertain-mentum when the

en-trepreneur Aburaya Kumahachi and the city government started promoting and advertising it as

a tourist destination.

 When Beppu achieved the status of a city in 1924, tourism development was progressing well,

and even more leisure complexes were constructed. From the beginning of the Showa period in

1926, the Beppu government started to advertise to tourists on an international scale. Two

expo-sitions were held, but after the outbreak of the Second Sino-Japanese War in 1937, the number

of foreign tourists started to decrease, and when the war situation worsened, the number of

Jap-anese tourists also declined.

Figure  3. Transition  of  the  foundation  number  of  a  hotel,  and  a  location  town  folio  number  in  Beppu
Figure  4. Transition  of  the  number  of  hotels  and  the number of lodgers in Beppu

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