事績が示す井上円了の意図
著者名(日)
森川 滝太郎
雑誌名
井上円了センター年報
号
14
ページ
19-39
発行年
2005-09-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002759/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja事績が示す井上円了の意図
森川滝太郎
ミミ泣亀ミ亀ミ奪ミさ 一 東洋を補完する西洋 東洋大学の創立者である井上円了博士︵以ドにおいては円了と略称︶の生誕一五〇周年が間もなくやってくる。 円了は一八五八︵安政五︶年二月に新潟県︵当時の越後国︶にある浄土真宗の寺院に生まれた。太陽暦で言えば早 春の三月である。その少し前の一八五三︵嘉永六︶年には、アメリカ使節ペリーの浦賀来航と、それに続くロシ ア使節プチャーチンの長崎来航があった。円了がその幼年期を過ごしたのは、まさに日本が江戸時代から明治維 新へと向かう一九世紀半ばの激動の時代であった。 よく知られているように、一九一九︵大正八︶年六月にその六〇年余りの生涯を閉じるまで、円了は西洋哲学 を背景として、仏教という東洋哲学の主要部に新解釈を与えた。同時に、哲学館︵後の東洋大学︶を創立し、多 くの仏教哲学関連著書のほか﹃妖怪学講義﹄を刊行するなど、幅広い事績を残している。以下においては、これ らを年代に沿って確認し、円了の意図したところの総体的な集約を試みる。具体的には、円了の学問的着眼点に 注目しながら、哲学館から東洋大学に至る活動経緯を中心に、円了が目指したところの把握を行う。 全体の構成は、円了の成し遂げた仕事とその生涯とを重ね合わせ、洋学校入学以前から東京大学卒業までの勉 19 事績が示す井F[i]了の意図学を提示部、哲学館の開設と附属図書館の設立準備を展開部、哲学堂の建設を再現部、と設定し、これらの事績 をなぞりながら、円了の意図の方向性を検証する、となっている。 一言で言えば、一八五八︵安政五︶年の誕生から大学入学までの諸学の学修体験が基礎にあり、一八八七︵明 治二〇︶年の哲学館の創立とそれに引き続く哲学館大学の開設から一九〇六︵明治三九︶年の学長退隠まで、の 約二〇年間が上り坂の活動期に当たり、その後が哲学堂の建設と社会貢献といった収束期となっている。その生 涯にわたって、円了の場合は東洋と西洋が常に対置され、西洋の力を借りながら東洋に真価を見出していたこと が、常に通奏低音のように力強く響き渡っている。 参考文献には、主として﹃東洋大学百年史・資料編1﹄および﹃東洋大学百年史・通史編1﹄を用いている。 文献・資料名には﹃ ﹄を付け、そこからの引用文には﹁ ﹂を付けてあるが、これらの引用文には、円了の主 張・想念・解釈・説明などが克明に表現されているので、その意図の把握に役立つ。 20 二 宗教から出て哲学へ 円了が生まれたのは、インドから中国を経て日本に伝来した仏教の一派である浄土真宗の寺院であったことか ら、当然のことながら、幼年期における宗門教育として、仏教の素養を身に付けるための教えを受けていた。 これに並行する事柄であるが、円了が書き残した少年期の﹃履歴書﹄によると、まず一八六六︵慶応二︶年か ら一八六九︵明治二︶年にかけては、漢文で書かれた中国の書物、すなわち漢書として、四書︵大学、中庸、論 語、孟子︶、五経︵周易・尚書・毛詩・礼記・春秋︶、文選などを学修している。四書と五経は儒学の枢要の書であり、 とくに論語は孔子の言行、孔子と弟子との問答などを収録した書として名が高い。そこには、孔子の理想的道徳
である仁の意義、政治・教育などについての意見が集約されており、古代の東洋哲学者ともいうべき孔子に関す る研究の基本資料として広く知られている。 この時期の学修について、﹃履歴書﹄には﹁明治元年の春より二年の春まで石黒先生より受業﹂とある。この 石黒先生というのは、一八四五︵弘化二︶年の生まれで、西洋医術を教授した医学所を幕末に卒業し、維新後は 大学東校に勤めたのち陸軍に入り、軍医総監、日本赤十字社長、枢密顧問官などを歴任した石黒忠恵のことであ る。 一八六九︵明治二︶年から↓八七二︵明治五︶年にかけては、﹃履歴書﹄に﹁この四ヶ年の間、業を木村先生よ り受く﹂とあるように、旧長岡藩士で中国伝来の儒学を教えていた木村鈍隻に師事した。唐詩選、古文真宝、論 語、孟子、春秋左氏伝、古文孝経、大学、中庸、詩経、蒙求、史記、荷子などの漢書のほか、日本で著述された 書物である国書︵和書︶として、日本外史、日本政記、古事記、西洋事情などを学修している。 さらに、円了が一五歳になった一八七三︵明治六︶年の﹃履歴書﹄には、﹁五月二十九日より八月上旬まで高 山楽群社へ入学、栗原氏より受業﹂とあり、ここで初めて洋書の小語綴︵スペルリング︶、読本︵リードル︶、小地 理書などを学修している。一八七四︵明治七︶年から一八七六︵明治九︶年にかけての﹃履歴書﹄には、﹁五月五 日より長岡洋学校に入学して洋籍を学べり。﹂とあり、万国史、大地理書、小米国史、大米国史、究理書、文典、 英国史、仏国史、羅馬史、万国史、経済書、大経済書など、西洋の言語で著された書物を学修している。 このような少年期の学修を積み重ねたあと、円了は東京大学予備門を経て、一八八一︵明治一四︶年九月に東 京大学文学部哲学科に入学し、一八八五︵明治]八︶年七月にここを卒業している。﹃読荷子﹄と題する卒業論 文においては、荷子の思想が、ロックの経験論、ダーウィンの進化論、スペンサーの社会論に類似していること 21 事績が示一e井止円了の意図
に着目し、東洋哲学の真理性と卓見性を確認している。荷子は、中国における戦国時代の紀元前三世紀に活躍し た思想家であり、孟子の性善説に対して性悪説を唱え、礼をもって秩序を正すべし、と説いている。その名で呼 ばれる著書﹃荷子﹄は、円了が少年時に漢学の一部として学修していたものである。 一八八七︵明治二〇︶年九月の哲学館開設に先駆けて、同年二月に円了は﹃仏教活論序論﹄を刊行した。その 中で円了は、日本固有の文化の重要性から説き起こして、東洋の学問である東洋諸学つまり東洋学の重要性と、 これを国学・漢学・仏学の融合という視点から捉えることの必要性を指摘している。また、円了の最大到達原理 ともいうべき護国愛理という概念が、万国共通の普遍的理念であると主張している。 たとえばその冒頭には、﹁人誰か生まれて国家を思わざるものあらんや。人誰か学んで真理を愛せざるものあ らんや。余や鄙賎に生まれ草葬に長じ、加うるに菲才浅学なるも亦敢えて護国愛理の一端を有せざるものにあら ず。﹂という一節がある。また、﹁余将に言わんとす、国家を護するの心は即ち真理を愛するの心なり、真理を愛 するの心は即ち国家を護するの心なりと。﹂として、護国と愛理の一体性を強調している。さらに、コ日大いに 悟るところあり。余が十数年来刻苦して渇望したる真理は、儒仏両教中に存せず、ヤソ教中に存せず、ひとり泰 西講ずるところの哲学中にありて存するを知る。ときに余が喜びほとんど計るべからざるものあり。﹂とある。 それに続いて、﹁哲学界内に真理の名月を発見して更に顧みて他の旧来の緒教を見るに、ヤソ教の真理にあら ざることいよいよ明らかにして、儒教の真理にあらざることまたたやすく証することを得たり。ひとり仏教に至 りてはその説大いに哲理に合するをみる。余これにおいて再び仏典を閲しますますその説の真なるを知り、手を 拍して喝采して曰く、なんぞ知らん、欧州数千年来実究して得たるところの真理、早くすでに東洋三千年前の太 古にありて備わるを。﹂と述べ、仏教の真理性を得心した理由を力強く表明している。 22
この著書は、明治維新と同時に顕在化した仏教排撃運動である廃仏殿釈によって存亡の危機に立たされていた 仏教を、再び興隆させるべく著わした書物であるが、その論旨展開において、哲学館ならびに附属図書館の開設 が、東洋学の振興のために必須であると結論付けている。哲学に真理を発見すると共に、それに基づいて、東洋 思想としての仏教が哲理に合致することを確信したからである。哲学を根幹とする西洋学に裏打ちされた東洋 学、という円了の重層的思考の到達点をここに見ることができる。 第一表は、生誕前後から哲学館の開設前後までの円了の主要な事績と時代背景をまとめたものである。表中に ある廃仏穀釈というのは、一八六八︵明治元︶年に神仏分離令が出されたのをきっかけに表面化したものであ り、各地で寺院や仏像の破壊と僧侶の還俗強制などが起きた。 この時期の時代背景の特徴は、開国後間もない日本が様々な変革の波をかぶったということである。ダーウィ ンはイギリスの生物学者で、円了が生まれた翌年の一八五九︵安政六︶年に発表した﹃種の起源﹄によって、自 然淘汰、適者生存による生物進化の事実を明らかにした。このダーウィンの進化論は、生物学、社会科学および 一般思想界にも画期的な影響を与え、円了も強い感化を受けたと云われる。 また、一八三四︵天保五︶年に大分県︵当時の豊前国︶に生まれ、後に慶雁義塾大学を開設した福沢諭吉は、一 八七五︵明治八︶年に﹃文明論乃概略﹄を発表した。この書物は、人類文明の発展した由来を説き、人間の天 性・知力と文明との関係を歴史的に回顧し、東西文明の比較、日本の進むべき方向を示したものとして知られる。 なお、哲学館開設の一年前に当たる一八八六︵明治一九︶年には帝国大学令が公布され、円了が卒業した東京大 学が帝国大学になった。 円了誕生直後の一八五八︵安政五︶年⊥ハ月にアメリカとの間で調印された日米修好通商条約は、日本に関税自 23 事績が示す井ヒ円rの意図
第一表 井上円了の事績とその時代背景︵その一︶ 24 西暦︵和暦︶︹年︺ 井上円了の事績︵年齢︶ 時 代 背 景 主権がないなど、日本に不利な点が多い不平等条約の典型例であった。関税自主権の回復に成功して真の意味で の国家の独立を達成できたのは、半世紀以上も経過した 九一一︵明治四四︶年のことであった。その間、明治 政府は鹿鳴館を設けて内外人交歓のための社交場とするなど、並々ならぬ外交努力の傾注を余儀なくされた。西
洋文化の移植を目指した外交政策と社会風潮における欧化・王義の象徴的存在が、まさしくこの鹿鳴館であった。 哲学館が開設された一八八七︵明治二〇︶年に、奇しくも鹿鳴館仮装舞踏会が開催されている。 三 貫徹される護国愛理 一八八七︵明治二〇︶年六月に、円了は、西洋諸学と東洋諸学を教授する哲学専修の学校を開設する旨の﹃哲 学館開設旨趣﹄を発表した。この中で円了は、開設の理念について、﹁世運の開明に進踏する所以のもの固より 内外百般の事情に因ると云うと難も、主として智力の発達に因る。智力の発達する所以のもの教育の方法に因る と云うと錐も、主として学問の種類に因る。﹂と述べ、﹁諸種の学問中最もその高等に位するものはすなわちこれ 哲学にして、よく之を研修するにあらずんば以て高等の智力を発達し高等の開明に進向するあたわず。﹂と言い 切った。 そのあとに、﹁哲学は百般事物に就いてその原理を探りその原則を定むるの学問にして、上は政治法律より下 は以て百科の理学工芸に及び、皆その原理原則を斯学に資取せざるはなし。即ち哲学は学問世界の中央政府にし て、万学を統轄するの学と称するも決して過褒の言にあらざるなり。﹂の文言が続く。 さらに、哲学を専修できるのは帝国大学に限られている状況を指摘した上で、﹁余これにおいて頃日専門の諸 学士と謀り、哲学専修の一館を創立し之を哲学館と称し、以て世の大学の課程を経過するの余資なき者並びに原 書に通ずるの優暇なき者の為に哲学速歩の階梯を設け、一年乃至三年にして論理学、心理学、倫理学、審美学、 社会学、宗教学、教育学、政理及び法理学、純正哲学、東洋諸学及びこれらと直接の関係を有する諸科を研修す るの捷径便路を開かんとす。﹂と述べている。 25 事績が小す井1円1’の意図
この旨趣に盛られた内容を要約すると、まず、官学のような制約のない私学での哲学専修の学校が必要であ る、という見解が示されている。次に、哲学は学問世界の中央政府であり、これに政治法律や理学工芸の分野が 従うが、この高等の学問である哲学を教授し、高等の智慧を修得できるようにする、との方針が示され、このよ うにして社会を益し、国家を利することが哲学館の最終目的である、として全体を締め括っている。これを受け る形で、同年の九月には、﹃哲学館開館旨趣﹄を発表し、東洋大学の前身である哲学館がここに誕生した。自身 が大学において哲学を修めた円了は、西洋の哲学が理学の実験を基礎とする帰納的な性格を有するのに対して、 東洋の哲学はともすれば空想に安んずる演繹的な性格を有する、との認識を持っていた。そのため、この﹃哲学 館開館旨趣﹄には、東洋と西洋の哲学の二つを兼修して東洋学の学風を起こし、哲学によって東洋諸学だけでは なく西洋諸学をも兼修することによって、東洋諸学の短所を補う、という考え方が示されている。 開館当初は正規の校舎の建設が未着手であったために、現在の東京都文京区湯島にある麟祥院という臨済宗の 寺の建物を借用していた。ちなみに、この麟祥院というのは、徳川第三代将軍家光の乳母であった春日局が一六 二四︵寛永一︶年に創建したという由緒のある寺である。なお、哲学館が所在地を東洋大学白山キャンパスの地 ︵現在の東京都文京区白山︶に移したのは、開館後一〇年が経った一八九七︵明治三〇︶年のことであった。 哲学館が開館された翌年の一八八八︵明治二一︶年六月からの約一年間、円了は欧米視察旅行に出かけた。こ の旅行中に見聞した事柄を踏まえて、一八八九︵明治二二︶年七月に﹃哲学館改良の目的﹄と題する文書を発表 している。その中において円了は、日本固有の言語・文章・歴史・宗教を正しく伝承していくことの重要性を強 調し、併せて西洋諸国において東洋学の研究が盛んであることに言及して、インド学、中国学、日本学を一体的 に研究する東洋哲学を重視すべきであるとした。とくに、日本は歴史的にもこれらの考究が容易な環境にあるの 26
で、哲学館においてはその方面の学力と人物を共に養成すべきである、との考え方を表明した。 これに引き続いて、翌八月には﹃哲学館将来の目的﹄と題する文書が出された。ここには、日本固有の学を基 本とする日本主義の大学を将来開く、との抱負が語られている。その冒頭には、﹁余欧米各国を巡遊して且つ感 じ且つ驚きしものあり。即ち各国の大学はもちろん中学・小学に至るまで皆その国固有の学を以て基本とし、交 ゆるに他邦の学の之と関係を有するものを以てす。その国の学を保護し愛重すること此の如し。蓋しその国固有 の学は一国の独立を助くるに必要なる元素を含有するものにして、之を愛護するは一国独立の思想を人心中に維 持するに必要なるによる。﹂の文言がある。 その二ヶ月後の一〇月には、﹃哲学館改良目的について﹄と題する文書が出された。円了は、日本独立の基礎 は東洋学の振興にあることを指摘し、哲学館を日本主義の大学にするという構想を改めて公にしている。そし て、﹁日本主義即ち一国の独立を堅固にするとは表面の目的のみ。その裏面に入れば猶一つの大なる目的あって 存す。之を名つくれば宇宙主義ともいわんか。即ち宇宙学理を研究すること是なり。﹂として、哲学館の目的事 業は、表面では言語・宗教・歴史を踏まえた日本主義に従って国家独立の精神基礎を確立し、裏面では宇宙間の 哲理を研究する宇宙・王義に従うとした。ここには、哲学に真理を見出した円了ならではの想念が滲み出ている。 この翌年の一八九〇︵明治二一三年九月に出された﹃哲学館に専門科を設くる趣意﹄には、﹁哲学館将来の目 的は敢えて今日定むる所の学科の制を変ずるにあらずといえども、その主義とする所日本主義を取りて一方には 日本国の独立を維持し、一方には日本固有の諸学を愛護し、その学科中の東洋部は独り日本固有の学即ち国学. 漢学・仏学を教授するものとし、漸次に歩を進めて他日日本大学の組織を開かんことを望むなり。﹂とあり、大学 への展開を念頭に置いた具体的な方策が提起された。 27 事績が・;・す井上円rの意図
この三年後の一八九三︵明治二六︶年四月に発表された﹃哲学館の目的﹄と題する文書は、日本主義と仏教主 義との融合の必要性に言及したものであり、学理上において仏教は真理として講ずべきであると述べ、護国愛理 の二大義務を遂行すべきことを強調している。すなわち、﹁既に哲学館を創立して以来、余自ら欧米各国の教学 の実況を観察せんと欲し、遠く泰西に遊び、年を越えて帰朝し更に大いに感ずる所ありて、哲学館を改良し日本 大学を開設せんことを計画せり。﹂と述べ、﹁之を要するに余の教学に関する事業は大小種種あれども、総て護国 愛理の二大目的を実行するに外ならざるなり。﹂と結んでいる。 これらの一連の発表に密接に関連するが、教学に関する事業として、一八九七︵明治三〇︶年に漢学専修科お よび仏教専修科を開設し、開講式を挙行している。その経緯は、一八九六︵明治二九︶年一二月に発表された ﹃漢学専修科開設趣意書﹄と翌一八九七︵明治三〇︶年四月に記録された﹃仏教専修科開講式演説﹄に詳しい。 これらの動きは、後の哲学館大学発足への端緒と位置づけられるものであり、ひいては東洋の学問を考究する大 学つまり東洋大学発足への足がかりとなるものであった。円了の視野の中には、世界を先導すべき東洋学の振興 という目標が歴然として掲げられていた。 28 四 新たな世紀の始まリ 一八八九︵明治二二︶年の﹃哲学館改良の目的﹄の発表から数えて一三年目になるが、世紀が改まった↓九〇 二︵明治三五︶年四月に﹃哲学館大学部開設予告﹄が出された。この中で円了は、﹁本館の大学部の課程は最初 発表する所によれば我邦固有の諸学を専攻する為に所謂東洋大学科を開設する積りなれば、国学・漢学・仏学の 三科、即ち神儒仏三道の専門科を設くる筈なりしも、その後の事情を考うるに神道の学問は別に之を研究する特
殊の学校もあれば、本館にては別に一科の専門を設けずとも儒学に合して差支えなき様に心得、専門部は儒学専 門と仏学専門との二科を置く見込みである。﹂と説明している。 これに続いて、﹁蓋しその事たるや小生に取りて畢生の大願望にして亦終身の大事業なれば、堅忍不抜百折不 擁の精神を以て取り掛り、之と死生を共にする覚悟であることは今より公言して置きます。﹂との堅い決意表明 がなされている。それから四年を経て、円了が大学経営から退隠した直後の一九〇六︵明治三九︶年六月に、 ﹃私立哲学館大学を私立東洋大学と改称認可申請書﹄が文部大臣宛に出され、これが直ちに認可されて東洋大学 の発足に至った。 このように東洋学振興という明確な理念の下に開設された哲学館であり哲学館大学であったが、その運営面に おいては、決して順風満帆とは言えず、一八九〇︵明治二三︶年から始められた全国巡回講演、略して全国巡 講、による運営資金集めを始めとして、円了自身の労苦は並大抵のものではなかった。 とくに、一八九六︵明治二九︶年一二月の蓬莱町校舎炎上、一九〇二︵明治三五︶年一二月の教員無試験検定 許可取消し︵いわゆる哲学館事件︶から、一九〇五︵明治三八︶年一二月の退隠決断に至るまで、幾つかの大きな 厄災が哲学館を襲った。勿論、これらに対してはいずれも円了の沈着冷静な危機管理で凌ぐことができてはいる が、まさに哲学館にとっての存亡の危機がここにはあった。 なお、哲学館の関係者として忘れてはならないのは、一八八七︵明治二〇年︶七月に哲学館設置のために提出 された﹃私立学校設置願﹄の﹁学校長及び教員品行学力履歴﹂の項に、館主兼教員の井上円了に並ぶあと一人の 教員としてその名がある清沢︵旧姓徳永︶満之である。清沢満之は一八六三︵文久三︶年の生まれで、東京大学 における円了の後輩であり、浄土真宗大谷派の僧として、真宗大学︵大谷大学の前身︶において学監の任に当た 29 事績が示す井⊥円了の意図
った。精神・王義を唱えて雑誌﹁精神界﹂を発刊して活躍したが、以前からの病が癒えず、四〇歳の生涯を閉じ た。 また、円了と同世代であると言えるが、一八五七︵安政四︶年生まれの前田慧雲も浄土真宗の学僧として、尊 王奉仏大同団に加わって愛国護法運動を展開し、一九〇六︵明治三九︶年一月に円了が退隠するに際しては、哲 学館大学の学長職を円了から引き継いでいる。 以上のように哲学館の開設・改良・将来計画においては、﹃仏教活論序論﹄で敷街された護国愛理という理念の 実現に向けて、西洋学の裏付けを得た上で、インド哲学、中国哲学、日本哲学を要素とする東洋学を考究してそ の振興を図る、という遠大な理想の実現に向けた努力が積み重ねられた。 この哲学専修の哲学館という学校の設立・発展に並行して、円了には東洋学に焦点を絞った附属の図書館を設 置しようという強い意志も働いていた。このことも哲学館を哲学館大学へ、そして更に東洋大学へと発展させる 原動力となったことに疑念を挟む余地はない。 第二表は、全国巡講開始前後から、哲学堂および哲学堂図書館の落成などに至る円了の・王要な事績と時代背景 をまとめたものである。表中にある一八九〇︵明治二三︶年に発布された教育勅語は、明治天皇の名で国民道徳 の根源、国民教育の基本理念を明示したものである。 この時期の時代背景の特徴は、日本と近隣の外国との間に規模の大きい戦争が一度ならず生起したことであ る。日清戦争は、日本と当時の清王朝が支配していた中国との間で朝鮮内乱をきっかけに一八九四︵明治二七︶ 年に始まった戦争である。一九〇四︵明治三七︶年には今度は日露戦争が始まったが、これは日本と帝政ロシア とが中国東北部・朝鮮の制覇を争った戦争である。いずれも開国後間もない日本が勝利したことで、世界の各方 30
第二表井上円了の事績とその時代背景︵その二︶ 西暦︵和暦︶︹年︺ 井上円了の事績︵年齢︶ 時 代 背 景 面に驚きを与えたと云われる。 日本とイギリスとの問でこの間の一九〇二︵明治三五︶年一月に成立した日英同盟は、ロシアのアジア進出を 牽制する目的で締結された軍事同盟であり、日露戦争で日本に有利な役割を果たした。哲学館事件は、この年の 31 事績が示す井上円rの意図
一二月に起こった。一九一四︵大正一三年にヨーロッパで勃発した世界大戦は、三国同盟︵ドイッ・オーストリア・ イタリア︶と三国協商︵イギリス・フランス・ロシア︶との対立を背景として起こった世界的規模の大戦争である が、日本も協商側に参戦し戦勝国の 角を占めた。 32 五 東洋学振興に向けて 一八九〇︵明治二三︶年一月に発表された﹃哲学館内に古像古書を蒐集する旨趣﹄の中で、円了は、海外視察 において見聞したこととして、欧米各国に東洋学の研究が大いに流行し、学問研究用の書籍館︵図書館︶が建て られて大いに活用されている旨を述べている。そして、東洋諸学を講究振起するためには、古書・古像の蒐集が 最重要であるとの認識を示し、古書貯蔵室を哲学館内に設置する意向であることを述べ、この分野の関係者に協 力方を依頼した。なお、円了は二年前の海外視察の際に、ロンドン・ベルリン・パリの図書館をつぶさに見学し ている。 この五年後の一八九五︵明治二八︶年六月に発表された﹃東洋学振興策ならびに図書館設立案﹄の中で、円了 は、東洋学校を設立して東洋学の全権を握るべきこと、学問の独立が国家の独立に繋がっていることを指摘し、 ﹁我々一たび東洋学の全権を握らば東洋の覇王となるも決してむつかしきことではありません。故に余輩の如き 学問教育を以て専任となすものは、国家に対してその力を尽くす心得にて東洋学振興策を講じ、政治に先だちて 学問の全権を握ることを本分とせなければなりません。﹂との決意表明を行っている。 さらに、﹁学校・図書館この二者相待ちて始めて東洋学の振興を見るべしと思います。是において余は哲学館附 属として図書館を開設することを天下に表白致しました。﹂と述べ、東洋学振興のための学校として哲学館を設
置したが、併せて附属図書館の開設が不可欠である点を強調している。 その翌年の一八九六︵明治二九︶年に発表された﹃哲学館付属図書館開設に関する館主所感﹄においても、東 洋の覇王となるには東洋大学を設立して東洋学の全権を握ることが必要であるとし、哲学館の将来の目的は東洋 大学の設立にあることを力説している。日本における東洋学振興については、その立地条件に関連して﹁漢学・ 仏学の如きは名は外国伝来の学なるも千数百年間久しく我が民間に行われ我が固有の学問思想風俗文物と混和し て一種特別の国風民情を化成せるを以てその実皆我邦の学と称しても毫も差支えはありません。﹂と述べている。 さきの﹃仏教活論序論﹄にもあった通り、東洋諸学の融合、すなわち国学・漢学・仏学の融合、ということは、 たとえば、伊呂波︵いろは︶歌に集約されている、と円了は指摘する。つまり、この伊呂波歌は、音の異なる仮 名四十七文字を用いて、﹁色は匂へど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ。有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔 ひもせず。﹂の意味になっている。つまり、言葉は日本の大和言葉であり、文字は中国の漢字を省略した仮名で あり、意味はインドの原始仏典の一つである浬藥経の﹁諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽﹂の意を意訳 したものと云う。 附属図書館の開設を実践するために、円了は第一着手として募金による﹃大蔵経﹄の購入を考え、死後の香典 の前倒し、つまり生前香典方式、とでも言うべき寄付金募集を画策して、行動を開始している。このこととは直 接の連関はないが、哲学館の卒業生である河口慧海は、仏教学者として二度にわたってチベットを探検し、﹃チ ベット大蔵経﹄等を日本にもたらした。ちなみに、河口慧海は、一八六六︵慶応二︶年の生まれで、円了とほぼ 同時代人であり、一九〇二︵明治三五︶年 二月にはインドのカルカッタにおいて、二度目の海外視察途上にあ った円了と顔を合わせている。 33 事績が小す井ヒ円JPの意図
このように、円了の図書館開設準備は、まず古書・古像の蒐集から始まり、その後、生前香典方式による募金 活動へと向ったわけである。ただし、現実に附属図書館の建設が進められる段取りとなったのは、一九一九︵大 正八︶年に円了が逝去した後のことであった。一九二 趣意書﹄にその詳細が記述されている。 一︵大正一〇︶年四月に発表された﹃東洋大学図書館建設 34 六 釈迦からカントまで 円了が退隠して哲学館大学の学長を辞任する二年前の一九〇四︵明治三七︶年四月に、哲学堂の落成式が挙行 された。その三ヵ月後に発表された﹃哲学堂由来記﹄には、﹁明治三十七年四月一日、哲学堂の落成式を挙行せ り。その地は、東京府下豊多摩郡野方村大字江古田小字和田山にして、哲学館大学新築予定地なり。﹂とあり、 ﹁本年四月、哲学館大学を開設するに当たり、その紀念として此堂を建設せり。故にこれ哲学館大学紀念堂な り。﹂と続いている。 この哲学堂の中には、釈迦、孔子、ソクラテス、カントの四大哲学者を標記した扁額を懸けるので、これを四 聖堂と呼ぶこともできるとしたあと、﹁此堂は、主として大学開設の紀念なるも、之と同時に、哲学館事件の紀 念、修身教会発表の紀念、日露戦役の紀念となるものなり。﹂とし、﹁四聖は正しく修身の本尊とすべきものなれ ば、哲学堂を以ってその教会設立の紀念を兼ねしむるなり。﹂と記述している。 このように哲学堂建設の由来の一つに挙げられている修身教会については、]九〇三︵明治三六︶年九月に用 意された﹃修身教会設立旨趣﹄において、﹁すでに学校教育と教会とは世間の修身道徳を説くにおいて一致協同 すべき所以を知らば、学校以外の修身教育はこの二者相待ち相扶けてその普及を図らざるべからず。これ余が各
町村において修身教会を設くるの必要を唱うる所以なり。﹂と説明している。そして、﹁その旨趣たるや教育勅語 に基づき、忠孝を本とし、国体を先とし、忍耐・勉強・倹約・誠実等百般の職業に必需の道徳を論示し、進んで は家庭の風儀、社会の習慣を]新するに至らんことを期するなり。﹂との意向を示している。 ところで、哲学堂の原点には、哲学祭がある。その来歴は、一八九二︵明治二五︶年=月に発表された﹃哲 学祭記﹄に詳しい。この中で円了は、哲学を大別して東洋哲学と西洋哲学の二類に分け、東洋哲学をインド哲学 と中国哲学の二種に分け、西洋哲学を古代哲学と近世哲学の二種に分けている。そしてそれぞれの代表者とし て、インド哲学では釈迦、中国哲学では孔子、古代哲学ではソクラテス、近世哲学ではカント、という四人の思 想家.哲学者を選んで四聖と名付け、その歴史的・思想的位置付けを述べている。 この四聖の一人目である釈迦は、釈迦牟尼の略称であるが、インドのヒマラヤ南麓の出身で、仏教の開祖であ る。生老病死の四苦を脱するために苦行し、菩提樹の下に悟りを得たと云われる。その生没年代は、紀元前五六 六年から四八六年まで、紀元前四六三年から三八三年まで、など諸説がある。四聖の二人目である孔子は、紀元 前五五一年に生まれ四七九年に没した中国の春秋時代の学者・思想家であり、儒家の祖と云われる。中国古来の 思想を大成し、社会の秩序を保つための生活規範の総称である仁に基づく自己抑制と他者への思いやりを理想の 道徳とし、孝悌と忠恕とを以て理想を達成する根底とした。 四聖の三人目であるソクラテスは、紀元前四七〇年に生まれ三九九年に没した古代ギリシアの哲人であり、生 涯を倫理の原理の探求に奉げたと云われる。四聖の四人目であるカントは、一七二四年に生まれ一八〇四年に没 したドイツの哲学者であり、科学的認識の成立根拠を吟味し、認識は対象の描写ではなく、主観が感覚の所与を 秩序付けることによって成立することを主張した。カントの系譜としては、ソクラテスに端を発する弁証法を定 35 事績が不寸ハヒ円了の意図
式化したへーゲルがいる。 このような由来をもつ哲学堂は、円了の表現を借りれば﹁精神修養の公園﹂であり、明治維新前の著作にかか る和漢古書を集めた哲学堂図書館を併置し、これを一般大衆に公開した。この哲学堂図書館は 九一五︵大正 四︶年一〇月に落成式を挙行している。そのことは、一九=ハ︵大正五︶年五月に発表された﹃私立図書館開設 に付開申﹄に、﹁昨秋御大典紀念として造営せし図書館の内容整頓候に付、六月より公開することに相定め此れ に開申仕り候。館内所蔵の図書は拙者が明治二十年以来私財を投じて購入せし数万の蔵書中特に明治維新前の著 作にかかれる和漢古書二万一千冊余にこれ有り候。﹂と述べられている。 明治維新以前に刊行されたとある蔵書の種類は、国書︵和書︶・漢書・仏書のみであって、洋書は一切無しとい うものであり、ここに東洋学振興を標榜した円了の真意を汲み取ることができる。これらの書籍は、歴史的な紆 余曲折を経て現在は東洋大学附属図書館に哲学堂文庫の名称で収蔵されている。 その蔵書種類の内訳を﹃哲学堂文庫目録﹄によって見てみると、約一万一千冊の国書︵和書︶・漢書は、神教・ 経書・諸子・儒書・医書及本草・仙書及養生・兵書・政法経済・天文歳時・地理紀行・史伝・文学・修身道話・ 民間読本・相法卜笠・書画技芸・怪談草紙・随筆・雑書・類書叢書・字書目録・皇清経解・小形唐本・国文小本. 漢文小本に分類されている。 また、約一万冊の仏書は、梵学・因明・史伝・外道及小乗諸宗・小乗倶舎・小乗律・大乗律・大小両乗律雑・ 大乗経釈・法相・三輪・天台・華厳・真言・禅宗・浄土・日蓮・余宗及八宗・論義・詩文・随筆・通俗・雑書・ 類書叢書・法数及音義・条目及目録・蔵経・小本に分類されている。 ここに挙げられた国書︵和書︶・漢書・仏書は、先の﹃仏教活論序論﹄で言及されていた国学・漢学・仏学とい 36
う学問領域に対応している。言うまでもないが、国学というのは、広い意味において日本学とも呼べるものであ り、古事記・日本書紀・万葉集などの古典の研究に基づいて、日本固有の文化および精神を明らかにしようとす る学問である。漢学というのは、広い意味において中国学であり、一般に中国の儒学または中国の学問の総称で ある。仏学というのは、仏教に関する学問であり、インド学に通ずるものである。これらは洋学と呼ばれる西洋 の学問すなわち西洋諸学に対置される。 そもそも東洋学とは、東洋の学問一般すなわち東洋諸学のことであり、国学と漢学と仏学を合わせた学問領域 である。国学︵日本学︶・漢学︵中国学︶・仏学︵インド学︶の融合こそが東洋学の振興に欠かせないというのが、円 了のかねてからの主張であるが、幸いにもこれらは歴史的に日本固有の学問領域と重なっている。 第一図は、円了の生涯にわたる事績とその意図の流れを示したものである。それぞれの重要な事績に対応して そこに盛られた意図を︹︺の中に示してある。端的には、円了は、西洋学という鏡に映じた東洋学の発展に努 第一図井上円了の事績と意図の流れ 仏教素養酒養 漢学・国学学修 ︹東洋諸学修得︺ 洋学学修 筍子研究 ︹西洋諸学修得︺ 仏教活論刊行 護国愛理宣揚 ︹仏教真理確認︺ 哲学堂建設 哲学堂図書館開設 ︹社会貢献︺
6
全国巡回講演 修身教会設立構想 ︹社会改良︺6
哲学館開設 哲学館改良 ︹東洋学振興︺ 37 事績が・J・す井{円rの意図め、哲学館に起源を持つ大学に東洋の名を冠し、たとえば教育勅語を東洋的思想の象徴的存在と受け止め、 ことと合わせて東洋学の振興こそが本懐であるとして、有終の美を飾ったと言える。 その 38 七 地球規模の社会貢献 一九一〇︵明治四三︶年二月に発表された﹃東洋学の再興と哲学館の由来﹄によると、円了は自身の事績を回 顧して、東洋学専門の哲学館を開設し、東洋を本とし日本を主とする方針に従って、東洋の学を主とし西洋の学 を客として主客あわせて研究し、一九〇四︵明治三七︶年に哲学館を私立哲学館大学と改称したあと、一九〇六 ︵明治三九︶年にこれを更に私立東洋大学と改称したことを述べている。 ところで、﹃論語・為政篇﹄の中の﹁吾十有五而志於学﹂を略した志学は一五歳、﹁三十而立﹂を略した而立は 三〇歳、﹁四十而不惑﹂を略した不惑は四〇歳、﹁五十而知天命﹂を略した知命は五〇歳、﹁六十而耳順﹂を略し た耳順は六〇歳、をそれぞれ表す異称として広く知られている。これを円了に当てはめると、志学に当たる一八 七三︵明治六︶年前後に西洋学に志し、ほぼ而立に当たる一八八七︵明治二〇︶年に哲学館を開設し、ほぼ不惑 に当たる一八九七︵明治三〇︶年に東洋学を考究する漢学専修科・仏教専修科を開設し、知命に当たる一九〇八 ︵明治四一︶年前後は哲学堂の運営に専念していたことになる。まさに東洋の思想家である孔子に擬せられる。 これらのことを円了の事績という観点から通して見てみると、少年時から青年時にかけては仏教・漢学・国学・ 洋学の研讃を積み、それを基礎において大学卒業後には哲学館を設立してこれを東洋大学にまで育て上げ、その 間に海外視察と全国巡講を実行して哲学堂建設と哲学堂図書館開設を達成し、これらの総体として東洋学振興へ の道筋を付けた、と言うことができる。これらの事績の諸相にこそ、円了の志の高さと意図の首尾一貫性を窺う
ことができるが、とくに東洋学振興に関しては、東洋大学を今でいうところの世界最高水準の研究教育拠点 ︵Oo暮巽︵︶︷国×。Φ=讐06 略称○○同︶とすべく、その充実を図ったと見倣すことができる。 以上を要するに、円了は、西洋学に裏打ちされた東洋学の振興と社会への貢献に一身を捧げた、と言えよう。 このことは、時代が下って円了の生誕一〇〇周年に当たる一九五八︵昭和三三︶年に東洋学研究所が東洋大学に 設立され、インド・中国・韓国・東南アジアなどのアジア諸国との学術国際交流を含めて、活発な研究活動が展 開されたことにも結実している。 地球環境の保全が急務とされる現今の世界の中で、自然を重視し、人間を自然の中に位置付ける東洋思想の先 見性と共に、東洋学自体もその存在価値が増大している。言い換えれば、東洋学振興は将来にわたってグローバ ルに世界に貢献するものであり、円了が追求した社会貢献の最たるものであると言うことができる。 39 事績が示す井ヒ円了の意図