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労働者共同決定権史--1920年経営協議会法の成立とその背景 利用統計を見る

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労働者共同決定権史--1920年経営協議会法の成立と

その背景

著者

門田 信男

雑誌名

東洋法学

3

1

ページ

63-118

発行年

1959-06

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007776/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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協議会法の成立とその背景

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し カミ き I ま 経営協議会法の背景 E 一 、 概 二、労働者委員会制度の構想とその推移 一 ニ 、 立 憲 的 工 場 の 実 例 四、労働者保護法と労働者委員会 豆、祖国補助勤務法と労働者委員会 観 E 経営協議会法の成立 一、一一月革命とレ l テ制度 二、経営協議会制度の構想と労働組合の立場 三、ヮイマ l ル憲法第二ハ五条と経営協議会法の成立 労働者共同決定権史

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東 洋 法 学 六 四

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労働者共同決定権制度の構成の基準となった最初の理由と背景はまさに多様である。その理由と背景は、資本主義 の技術革命の過程のなかであらわれた労働諸関係の基本的変化の認識にあるとともに、この弊害となる状態を改善す る必要性からおこったといえよう。技術的に条件ずけられた生産方法の変化は、手工業的な労働方法から大企業の労 働組織に移行せしめ、労働者の経営者および生産物にたいする関係を色槌せたものとなし、経営全般の展望を個人の 視野からみうしなわせしめた。資本主義的に条件ずけられた労働者の生産手段の所有者からの分離は、所有者と賃金 労働者との階級聞の経済的利害をめぐるあらそいの基盤をつくりだし、 かくしてそれは経済上・人格上の従属の感情 によってよりつよめられてきた。したがって労働者共同決定権制度は、疎外化ときりはなしえない密接な関係にたっ ている。しかも社会主義的に組織化された経済秩序においても、労働者共同決定権は資本主義社会におけるそれと基 盤をことにするとはいえ、多くの類似性をそこにみることができる(と。 ﹀

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丘 町 。 ロ m L O 仏 。 口 同 O 。 。 日 間 冨 広 の 主 催 に よ り 、 一九五八年八月四日から九日まで、国際比較法大会 が、プルュヲセル市でその第五次大会を開催し、その第三部会商法部のテ l マとして、企業における労働者の経営参 加 お よ び 利 潤 分 配 ハ F m 宮 丘 町 石 注 目 。 ロ 円 四

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(4)

は、労働者自身も経営者とともに経済上の共同の担い手となり、共同の形成者となろうとする、多年にわたる労働者 の正当な要求を具顕化したものである。経済・経営民主主義にのっとって、経営内のあらゆる諸事項について、労使 対等で共同に決定さるべきであるとする理念が、 一九五一年法および五二年法でその結実をみたのである。だが、こ れら法律が、突発的につくりだされたというようなものではなく、 そ の 背 後 に は 、 ドイツ労働者大衆の長いあいだ の苦悩を秘めている。今日の労働者共同決定権制度を理解するうえにおいて、 一 九 二

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年に制定せられた経営協議会 法の成立とその背景をたずねることは、それが現行法にいちじるしい影響をおよぼしているだけに必要なことと考え ら れ る 。 ( 1 ) ︿ 也 ・ 河 口 門 目 。 戸 時

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( 2 ) この点に関しては、中村武教授﹁株式会社法改正の動向﹂法学新報六六巻一号、とくに一五

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一 六 頁 を 参 照 さ れ い 。

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経営協議会法の背景

概 観 ドイツにおける経営内被用者代表制度のほぼセ

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年にわたる長い持続的な歴史的発展は、経験的なかっ政治的な性 格をもった闘争より実現したものであり、この要請の意義は、まさしく、 たんなる﹁社会的な問題﹂の解決を促進し ょうとするだけのものではなく、この解決に役立つ組織上の目的にかなった制度を実現し、確立することにある

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労働者共同決定権史 六 五

(5)

東 洋 法 品ι 十 六 六 前資本主義的な社会構造は、自由主義および個人主義の象徴のもとに、急速に完成した経済生活の技術的 l 組織的 な変革および精神的な変革によって、自己の存立を維持することができなくなった。ドイツにおける資本主義的生産 様式は、前世紀の二十年代に一段とつよく展開しはじめ、その後の二

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年間に急激な発展をとげ、 工業生産は七五パ ー セ Y トの増大を示し、繊維工業の急速な興隆とならんで、 ラ イ y - ブシド、ずクセジ、 ベルリ y に重工業のはじまり ができた。プロ V ヤにおける石炭生産は、 一八コ二年から四二年のあいだに二倍以上にふえ、プロ V ヤ鉄道網の延長 + 也 、 り、先進的な資本主義国にたちおくれているとはいえ、この新しく形成された経済社会における賃金労働者の地位 一八三八年から四九年のあいだに八倍以上にのびた。それでもなおドイツは依然として半封建的な農業国であ は、他のすべての国の状態と同じように、名状しがたい苦悩と途方もない搾取とであった。労働者の生活保障のため にー部分的な成果をおさめているとしても│国の社会政策は、事業主と賃金労働者との階級的な矛盾を克服すること にその主たる目標がおかれており、これにもとづいた社会政策上の一措置として、経営内被用者をして労働条件の規 制に参劃せしめ、さらに経営にたいする一定の参加権を彼らに賦与せんとする意凶をもった労働者委員会ハ﹀号巳お 1

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②制度の構想が、 ドイツにおいて前世紀の中期にすでに具体化した。しかし、当時の社会上・経済上の情 勢からして、この構想の具体化にとってそれほど有利に展開したとはいえないす)。労使団体はわずかな例をのぞい て、労働者委員会の任意設立・強制設立について、 ともに一致してきびしい反対の態度をとった。 一 八 九

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九一年 の労働者保護法をめぐる審議にさいし、社会民主党の代表者は、議会で次のようにのべている。 ﹁われわれは原理上 委員会に反対する故、その組織に関して積極的に動議を提出する考えはいだいていない﹂ { 3 ) と 。 し か も 、 ドイツエ

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業者団体中央連盟 ︿ N o E 同 弘 司 O H r m ロ 仏 子 山 口 官 。 r o 同 同 ロ 円 四 ロ 丘 Z o -o H ) も委員会に反対する決議を声明した。たえず、企業 主によってたたかいをいどまれ、そのうえ、労働者団体の代表機関として公認されておらず、充分なカのたくわえを もっていない労働組合は、経営内の被用者代表制が、企業主によって、労働組合の組識に対抗する防禦手段に転嫁さ れ、そのうえ企業主が、労働者の団結する利益をうしなわせ、 かっこのことによって、この二つの労働者の組織体問 の合目的的な緊密な関係を離反せしめるであろうことを危倶した。このような労使の拒否と一般的な不信のもとに、 労働者委員会制度の推移と過程から概観されるように、当時においてなお、国家が労働者委員会の導入を、力強くお しすすめてゆくほどの土台が熟している、との期待をかけることはできなかった。ここではまず、労働者委員会︿ 4 ) の構想が、立法的に具体化される過程を二、一一一の面について検討をくわえたい。 1 被用者団体の集団的代表に関する制度の重要な形態、すなわち労働組合は、ここではその周辺をめぐるものとして論じう べきものである。この労働組合の組織が、ここで論ずる被用者代表制の組織とことなるのは、第一に超経営的な性格のも のであること、第二に自由意思にもとずく構成体であること、第三に先の諸前提から推論される使命の全領域と、この使 命の実現のうちにふくめられる手段、の点にその相違がみられる。この組織の基本的特徴の相違は、ドイツの経営組織、 労働組織からいいうることであって、わが国で問題となる経営協議会と労働組合の組織聞の問題は、独自の観点から検討 さるべきものであることは当然のことである。 ケラ lハルスはその理由を﹁それは一方では、多くの労働者にとって階級闘争の思想が決定的な影響力を占めており、そ れに反して企業主は、原則として、労働関係の諸問題について、被用者団体と話合うことに好意をいだいていなかった﹂ 、 と し て 、 当 時 に お け る 両 者 の 考 え か た の 相 違 に 求 め て い る 。 当 日 ロ

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年経営協議会法の成立以前には、被用者代表制について、いろいろの名称でよばれている

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田・したがって、小稿では通常の呼称であ る労働者委員会に統一して用いることにする。 4 労働者委員会制度の構想とその推移 ドイツにおいて労働者共同決定の問題が論議されるようになったのは、グックによれば、 一 八 三

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年代における産 業経営の社会的問題として、 経営組織とそれにくみいれられた労働者の地位をめぐってとりあげられた、 といわれ る ︿ 11 当時における労働者共同決定は、現在のそれと比較しうべきものではないとしても、経営組織の社会的修正 の立場から提案せられたものにして、労働者が企業利潤に参加することにより、企業の繁栄はまた労働者の利益とも なり、労働者はつよく企業とむすびついているとの考えのもとに、 いかにして企業主の専制支配の弊害をとりのぞ き、どのようにして労働者の正当な牧益とその信頼をうけるかが論ぜられた ( 2 1 だが、より以上にわれわれの注目 をひくのは、匿名の論文言﹀において、 ﹁労働者自身により選出する委員会に、原則として牧支決算書が提出され、 かっその牧益よりそれぞれ、利益の一定の持分が支払われねばならない﹂とのべ、さらに続けて、 ﹁なかんずく、わ れわれは集団的規制にその根拠をおくものである。技術・市場の傾向よりする経営活動への影響は、おそらくその必 要事項について労働者に報知せしめるためには、 いちじるしい危険をともなうことなくして伝ええないであろう:::

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巨大な営利企業の民主的な経営は、そのさい他のきわめて多くの諸条件を劣悪な境遇においているとすれば、現在の 専制的なないしは貴族的な支配以上に無意味なことである﹂とのべていることは、利潤参加を通して、さらに経営そ れ自体への参加をあきらかにし、その根拠を集団主義的な規制にもとめて、当時における被用者代表制の構想を端的 に示している。経営の民主的構成をたんなる表面的現象にとどめるとすれば、このことはかえって欺臓の手段に転嫁 されるおそれがあると指摘している点、注目すべき見解であるといえる。このような背景のもとに、被用者代表制の 構想が、立法上において具体化をみたのは、 一 九 四 八

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四九年のブランクフルトのパクルス教会でひらかれた憲法制 定国民議会の経済委員会においてであった。 経済委員会は、立案した﹁工業法﹂ ハ 。 。 君 。 号 。 。 昆 ロ ロ ロ 拘 ) のうちに、労働組合の要求を背景として

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﹀ の合目的的な構想をうちたてるかについて、 そのカをついやした。同法案四二条 ないし四五条ならびじ法案の理白書にふくまれた具体的な提案により、 はじめて法律上の裏ずけをえて、自己の労働 条件の形成に、審議権または共同決定権をもって参加しうるとの試みが企図された。かくして、被用者参加の思想の 包括的な定型化がくわだてられ、なかんずく多くの経済上・倫理上の観点がふくまれている点に、法案の重要な意義 がある。たとえこの計画が、 ブ ラ y クアルト国民議会の総会で、充分審議がつくされなかったとしても、また廃案に なったとしても、この思想は、 ドイツにおいてその後数十年のあいだに生じた労働委員会の土台となった。したがっ て、その後に移り選りをみた規則および法条について考えるために、 一八四九年に定式化された委員会の組織および 権限に関する原則を、簡単にのべておく必要がある。経済委員会から国民議会総会に提出された工業法案のうち、こ 労働者共同決定権史 九

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東 洋 法 品 .... 寸ー 七

れに該当する条項は次のように規定している。 四二条 工場にはそれぞれ一つの工場委員会を設置する。委員会は左の構成による。 ハ

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工場労働者の職域集団から各一名 ハ

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労働者により選挙された職域集団の職長各一名 ハ C ﹀工場の事業主またはその指名する代任者 四三条 工場委員会は左に掲げる権限を有する。 ハ

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﹀労使聞の紛争の調整 ハ

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﹀工場規則の作成と保持 ハ

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﹀工場年少者、工場内の良俗関係ならびに出勤についての監督 ハ

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主場協議会による工場の代表 四四条 産業地域にはそれぞれ工場委員会により選出せられた工場協議会は、その地域における産業部門におい て、その措置につき最終的に問題となるとき、工場事業主および工場労働者のいずれをも代表するニとを要 す る 。 四五条 工場協議会は左に掲げる補佐をなす。 ハ

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﹀工場規則の批准とその実施の監視

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労働時間および解雇予告期間の設定と調整 法案の理由書では、委員会の任務と機能が詳細に規定されており、なかんずく賃金および労働条件にかかわりをも つあらゆる問題が、すべて委員会において処理さるべきものであると、委員会設置の趣旨をあきらかにしている。わ れわれは理白書でのべている次の言葉より、 ブラシクプルト議会法案の社会政策上の目標設定 l 社会的階級の対立を 緩和しようとするこころみを読みとることができる。 ﹁委員会は内部規則の保持、紛争の調整および労働者の工場施 設への関心をよびさますことにより、産業全般に拡大するとともに、労働者の権利を保障することに努めねばならな い。工場に生きるための職場をおいている人たちにたいし、委員会は、他の人たちと協同することを要請される共同 社会のうちで、労働者の活動の真の自由と正当な牧益を保障し、また立法の枠のうちで、社会の有用な一方の階級の 人にたいしては、そのひとたちの職業任務の教化とその実現の道を容易ならしめるよう努めねばならない。このこと はけっして、委員会に特権を保障しようとするものではなく、反対に営業をいとなむ市民の権利に、より強度の義務 履行を負わしめることにある﹂ ( 5 ) 。ピ品ラーが、工場委員会および工場協議会に関する工業法草案は、 工場・地域・

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ヒ単位に経営協議会・地域経済協議会・ライヒ経済協議会を規定するワイマ l ル憲法第一六五条の先駆をなすも のと芳えることができるす)、 と指摘していることは、注目すべき見解といえる。ピュラ

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が、共同決定機関を規定 する工業法案をワイマ

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ル憲法と比較すると同じように、 ワ イ マ

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ル体制下における経営協議会法を今日の経営協議 会と比較することができる。その構成について、たとえば経営組織法六七条以下で規定する経済委員会は、まさしく 平等の原理を示しており、経営協議会についてもまた、被用者集団のそれぞれにこの原理はつらぬかれている。しか 労 働 者 共 同 決 定 権 史 七

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年法にしろ、あるいは現行法にせよ、経営協議会は経営内被用者だけにより構成されているのに反し、 工業法案における工場委員会が労使の構成によっている点に、組織上の相違をみる。ここではむしろ、経営内被用者 代表制が、英米諸国・スカ

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ナピア諸国ならびにわが国において、 たとえそれが立法上の規制によるにしろ、ある いは労使聞の自主的な規制によるにしろ、 労使の対等な構成の原理がうけつがれていることは興味ある問題である ( 7 v o いずれにしても工業法案において、経営上の労使共同決定をこえて、超経営の分野においても労使対等の原理 をつらぬき、共同決定機関を予定していることは注目すべきことである。 国民議会に提出された工業法案は、結局可決されるにいたらず、五

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年代における反動期は、草命と 国民議会から生みだされた社会的歩みのすべての蔚芽をつみとってしまった。ブラジクフルト国民議会の解体された のち、政府は長い期間にわたってこの種の計画の実現のために、着手しようとさえしなかった。それに反して、 イ ツにおける各種の産業分野の経営において、任意設立主義にのっとった労働者委員会が設立されたが、このことは経 済委員会により定式化された構想の影響をたんできに示している。はじめて設立をみるにいたったのは、ゼ

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リシクはその著書において、当時ドイツに設立されている労働者委員会を包括的 に詳細な検討をくわえるとともに、さらに四

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の企業について産業部門別に配列し、豊富な素材を提供している包) そこで示されているなかで、 とくに興味をひかれるのは、労働者委員会は一般に企業主により設立せられたのであっ

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て、労働者側からの希望ではなかったという事実である。その設置にさいし、多くのばあい労働者の強い反対にであ っ た

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その理由として、すでにふれたことではあるが、当時労働組合は労働者の利益代表として公認されておら なかったことにもとめられよう。企業主による委員会設置は、労働組合に対抗する組織をうみだし、攻撃的・防禦的 な手段とされることを労働者が感じとったことにあり、この事実は労働組合の未公認との関連で注目に価することで あった。それぞれの設立についてみれば、勿論まれには社会政策上の考慮にもとずいて、資本主義的に組織的に制約 された労働関係のあらゆる問題について、全般的な解決をもとめようとする動きハたとえば司

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の主張する立憲 的工場の理念﹀がみられるも、多くのばあいにはむしろ現実的な考慮にもとずいており、その目標は、資本主義的な 生産原理と現存の法秩序をなんら修正することなく、仲裁的な機関として、労働関係にかかわりをもっ問題につい て、労使の間の交流を円滑にすることにおかれており、それに制約ずけようとする。このような機関として、労働者 委員会を設置した企業主は、社会的緊張を緩和するたしにするとともに、当時にあって一部の労働者を代表するにす ぎない労働組合との討議を忌避する手段として、その相手方を被用者代表とすることにつよい期待をいだいた。とは いえ、労働者委員会の設置を、企業主の労働組合対策としてのみ規定することは妥当ではない。当時においては、労 働組合の組織化も充分にゆきわたっておらず、なお未組織労働者を多数のこしており、そのうえ組合は、今日あるよう な産業別組合ではなく、職業別組合(たとえば金属加工業の一経営のなかに、ドイツ金属労働組合、木工中央組合、 木 材 労 働 組合、事務職員中央組合などが同時に活動しているような)であったことから、 一経営一労働組合の原則がつらぬかれてお らず、組合活動を全体としてみれば、分散状態ということがその特徴をなしている。したがって、経営における被用 労 働 者 共 同 決 定 権 史 七

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東 洋 法 出ι 寸ー 七 四 者全体の利益を実現し、確保するうえにおいて、組合と緊密にむすびついた労働者委員会の存在は、重要な意味をも っているといえる。労働者の労働者委員会設置にたいする反対を、委員会にたいする企業主の動機にその原因がもと められうるのであって、委員会設置それ自体の反対でないことは一八八九年から九

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年にわたってストライキの波が たかまった時期に、多くの工場体に委員会の設立をみたことからもうけずけうるところである(。。 かような趣旨の もとでは設立をみた労働者委員会は、構成員の不当解雇に関する立法上の保護をかいていたため、委員は被用者の代 弁者として、 いちじるしい危険な状況のもとで任務をおこなわねばならなかった。企業主は官憲の支持をえて、プラ ックリストを作成し、即時解雇をもってそれに答えるとともに、彼らをしばしば追放したのであり、社会からみすで られた彼らの犠牲を、今日では想いおこすことができないほどであったとさえいわれている︿息。 1 ︿ ぬ 円 、 戸 ・ 戸 の 2

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・ なお、ゲヅクは産業経営の社会的問題として、当時の考えを次のように引用している。﹁企業主または経営者の支配関係 は、はてしなく続くものであるにしても、:::しかしながら、それは移り遷り、漸次その力をうしなって、緩和された形 態にとって代る。支配に服したものは以前には奴隷であり、隷属者であったが、今は彼は自由な賃金受領者である。﹂ ( 富 山 n z -n r O 4 n E 2 ・ F E R 2 2 H H Y ﹀ B 2 -m 5 仏 ロ Z o E W 回 阻 止 H W 回 出 巳 田 H

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またフライブルク繊維産業 の指導的地位にあった問。ユ冨

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は、一八七三年に四

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2 同 M ・ 富 。 E は、一八三五年にこの問題に論及し、﹁その重要な弊害は、労働者自身で構成するの g 各 当 2 0 5 ロm O H W Z に よってとりのぞかれる﹂として、経営内における労働者代表制につき、はじめて提案をなした。この提案にたいし、経営 学 者 の 切

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は、一八三六年に﹁チュヴィソゲ γ のジャナリズムのように、信頼にたる相談役は、工場制度において、 まったく新しい経営活動の形成を促進するものであり、工場支配者の絶対主義の立場を、民主的代表国家と同一の性格に おきかえることになる﹂と全面的に、賛成の意を表明している守的戸のめの Fmw-ω ・0 ・ w ∞ ・ 口

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∞ ・ 明 ロ 凹 凹 ロ 。 4 h m w J 可 m w ・ ) 被用者代表制の思想は、一八四八年七月から八月にかけて、フラソクフルトでひらかれた手工業組合労働者会議︿出釦 l Z 4 4 2 r ∞ m o s -2 1 5 仏 ﹀ 弘 吉 井 。 ロ m R 回目。﹀の討議において、保守的な社会政策学者であるマルロ・ヴイ γ ケルプレッヒ (宮司ゲ当 ZE 与}ゅの﹃﹀の指導のもとに、﹁職業別協議会、職業代表団およびその社会的議会(問。 NE23 己 自 国 g φ の 設置﹂を要求した。同じ時期にひらかれた同業組合員会議(の g 色 g r g 唱 g るも、同様にマルロの影響をうけて、 ﹁社会的職場の全分野における労働の同業組合の秩序と組織の、全生産者との同権的地位の承認﹂を要求した。しかし、 マルクスの影響をうけた労働者の指導的地位にあるステファ γ ・ ボ ル Y3ZE ロ 回 。

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は、彼の著書 E ︿ 。 - r . . に お い て、﹁生産手段の社会的奪取﹂に目標をおいて、﹁階級闘争の展開﹂を主張した。彼に指導されたベルリソ労働者会議 ( 図 。 ユ 52 ﹀ F o x R r 。 ロ m R m m ) は、一八四八年八月、工場・事業場における職長の選挙・任命についての、いわゆる労働 者の共同決定を要求した守也・町民 H N H 1 H -n r m u N R 。 。 聞 の E n r z 色 。 同 国 立 同 日 o r 2 2 R E ロ ロ mgE ロ 2 g n r F ロ子宮 - u m m ロ 2 0 河 内 w のr p 同 α F 5 8 w ∞

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これら労働組合からの要求は、フラ γ クフルト国民議会の審議に多大の影響をおよぼしており、工業法草案 の審議にあたり、経済委員会をして、工場委員会制度を草案中に規定する決議をなさしめたのである守也・司氏側"国立 Hl w r ω g f 出 自 己 認 α 2 2 ゲ ロ の r 品 。 円 切 宮 内 広 田 当 日 m m o ロ 明 。 r m p 仏 ﹀ 口 出 m m H O w 国 内 田 ・ 同 u ∞ ・ 。 NAWU 国 防 E 2 w k 戸 同 r a Z H ぬ の 伊 丹 ﹁ ↓ a -・ 回 。 同 町 ロ 3 4 労働者共同決定権史 七 五

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東 洋 法 学 七 H ∞ N ∞ " ∞ -H 吋 ロ ロ 向 山 由 日 ・ ) K 戸 内 山 。 戸 時 君 。 r o H W ロ 2 同 州 内 凶 自 1 2 5 r o 口問毛 E ︼ ロ ロ 島 ﹀ 同 - r o x w 。 ・ ﹀ 口 出 ・ 吋 ロ ゲ 山 口 m g H E u m ・ E H ・u 問 。 ロ R F 巳 m u ﹀ H r a z 件 。 富 田 山 田 町 O ロ g u 回 器 己 忌 九 日 夕 ω ' 5 ・ 目 前 回 H H O H u m - ω ・ 0 w 印・由。・ピ品ラーはさらに続けて、﹁いずれの分野にわたっても、真にドイツ的であり、理想主義的な 四八年運動の民主的な崩芽は、その後の反動期と結びついた産業の興隆期において、カイザ l 帝国のうちにその姿を完全 に没してしまい、はじめて二世代の後にいたり、われわれがおそらく見失ってしまったであろう経験を土台として、その 途をきりひらかねばならない﹂ことに、ドイツの宿命があったと特徴ずけている。 F c r g 回 記 長 E E P ︿ 。 B 冨宮官 R E 1 2 仏 富 山 H J V O 注目白 gm 回 同 R E 円 四 日 ﹀ 岳 会 grB25 ﹀ g F E W 巧 E m n 宮 内 同 信 ロ 仏 間 A w n r p 出 血 W 仲 ω v h p ・ し ﹃ m -w N 町 民 n r H C 日 N U ∞ -N H H 1 N 臼 ・ 山 旬 。 rg ロ g 印 。 F H O M 刷- o w 国 立 岡 山 o r 2 0 Z H O Z ロ m o ロ吉岡﹀ gF ロP E H U S ロ o g o 問 。 。 r p 同 町 出 口 呂 町 N ω ・ロ H I H S -u 開 BE の ・ 開 E S S E P ロ g 同 2 r H 品 。 一 円 ﹀ 同 r a z o r B 2 2 H 国 立 巳 1 目 前 町 一 ロ ロ ぬ き 円 由 民 ︿ 2 4 g r g ロm ι 2 回 σ 片 岡 山 内 w r o 仏 2 常 4 8 同r F r o p d 司 w g n r M H F H u m N を挙げておくにとどめる。 富 島 ∞ 包 括 w ﹀ H r a g E 5 R E m m o Z 含 H P E m o y g E 含 m R F ∞ の ﹃ 江 崎 件 。 ロ 仏 O H J F H a g 宗 門 ∞ 。 N 2 f EFFa 宮 町 m H g 本書は、ゼ l p y ク教授が、ドイツ産業の経営体に設立されている工場委員会につき、調査・検討するようにとの、社会 政策協会からの委嘱にもとずいた調査報告書である。なお、本書を入手することえなかったが、当時の実体調査の文献に とぼしく、貴重な著書である故、本書の引用は、他の文献からの雨引用であることをおことわりしておきたい。 点 目 -m R E p p p o v ∞ - I A -U 阿 川 巳 - 2 r m - m w 。 ・ m ・0 w m ・ 5 ・u 司 氏 。 w o w m - m ・o

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年にすでにアイレ γ ブルクの四ツの印刷工場に、労働者委員会が設立されて いたと報告している。 日たとえば、司自民国 E ロL Z は ミ ュ γ

γ のグラードパ γ ハ に 、 出 巳 ロ 広 島 町 5 2 0 はベルリンにある自合の工場に(併せ て 利 潤 分 配 制 度 も 採 用 す ) 、 同 町 内

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は取締役としてベルリ γ の γ ュルトハイス醸造会社に、労働者委員会を設 置 し た ( ︿ 包 ・ 明 5 2 9 巴 宮 } S S E E -。 ロ o -o 同 何 回 ゲ 巳 F A F ﹀ 丘 - - w 守 口 P ω ・ H 白 ・ U H り 色 町 刷 、 m m -c w ∞ ・ N G ・ 山 町 民 の } 8 w 釦 ・ 釦 -c w 印 ・ 旬 。 ・ ) 5 6 4 8 9

(16)

11 ここで参考のため、諸外国の例について記しておくと、フラソスにおいては、一八五

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年にジャン・レク ν l ル 商 会 に 設置されたが、一八七五年にカトリック社会理論にもとずいて、自分の工場委員会を設置した

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ロ国民自己により主張 されて以来急速に普及した。オラソダでは、一八七八年同・内

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ロ Y F H r g によりオラ γ ダ酵母アルコール工場に、ア メリカでは、一八九八年ポスト y の 者 世

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。商会に、かかる制度がみられる d スイスポは、一八七ご年 にチュリヅヒ州のネフテソパヅハの赤染色工場にみられるとはいえ、労働者委員会制度をめぐる活溌な論議を呼びおこし た の は 、 ∞ ロ

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による、一八九

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年、ヴィ γ タ ! テ ユ i ルにある機械工場での設置とその見解をめぐって、はじめて問題 が提起されたといわれている。 ( 4 2 ] a w m -m ・o -u h w p ) 教授は著書の冒頭で次のような全体的な評価をなしている。﹁多くの工場体に設立されている労働者委員会は、長い期間 にわたる実施によってその価値が実証される。工場の経済・技術上の活動をなんらそこなうことなく

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不利となる場合も あるが!、労働者委員会は種々の経済上・社会上の条件のもとで、現実の産業関係におけるあらゆる紛争と憎悪を親しみ ある関与におきかえ、労使の相互の理解と平和な協同をもたなすであろう。労働者委員会は同時に、現実の管理の面で、 労働者大衆の稔り豊かな学校となり、該制度の漸進的発展と拡大化の希望への基礎ずけをなしている﹂伊江口伊

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等の講壇社会主義派に属する学者の多大の寄与によるものであり、社会修正 論とならんで、共同決定思想の普及の上で、輿論の関心をたかめたことによるものであることを忘れることはできない。 ︿

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の 9 E M m g s m ω ω ・ロ lHN ・ 13 12 14 立 憲 的 工 場 の 実 例 このような沿草の理由とならんで、 理解ある企業主のあいだでは、労働者委員会の設置を土台として、労働者との 密接な関係をもつよう努むべきであって、国家の近代的構成だけでなく、経営内においてもそこで生ずる諸問題の解 労働者共同決定権史 七 七

(17)

東 洋 法 学 七 Ji

決のためには、分立の原理にしたがった工場組織の体制が確立されねばならないとの考えが生じた。ここでは立憲的 工場の理念を全般的にとりあげることはせず、具体的にプレ

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ゼの工場にその例をとり、労働者委員会の成立の動機 とその役割をかんたんにながめるにとどめる。 ベルリシにおいて工場事業をいとなんでいたハイジリヲヒ・プレ

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ゼ は 、 一八入四年に労働者委員会を設置した が、これは賃金その他労働条件について労働者と話しあい、和解の道をみいだそうとするだけでなく、労働者の経済 上の利益代表を組織化する目的にいでている。当時、国および一般の企業主が、なお労働者の団結を承認しようとし ない時期において、すでにプレ i ゼは、労働組合との緊密なむすびつきは、国および企業主にとって望ましきことで あり、その価値をたかめるものであることを主張した ( 1 1 プ レ

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ゼは、現行の経済秩序における労働組合の地位を 正しく認識しており、なんらかの繁栄のための制度、 たとえば労働者委員会が、経済上の刺益共同体であるにせよ、 利害の対立までもなくせしめうるものであるとの、幻想にまよわされることはなかった。この考えにふさわしく、彼 は労働者委員会の組織に、労使聞の利害の対立を解消することまでも期待せず、議会主義的に規制された軌道にそっ て、利害をめぐる争いの解決をみいだす手段にすることを望んだ。企業主、職長および労働者の三者で構成する労働 者委員会の第一回の会議において、 ﹁国および地方公共団体は議会の協力を不可欠としている。この近代的政治原理 を工場に適用することは、 しかしながら企業主にとって、きわめて官険的な行動である﹂︿ろとのべ、ムハ度にわたる会 議 に お い て 、 ﹁立憲的工場﹂の体制について論議がつくされ、さいごに被用者総会により支持されるにいたった。ヱ 場内の立法ハ K F 同

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の制定については、三者により構成される労働

(18)

者委員会の権限にぞくするものとされ、ここに工場内諸規則の成立は、三者の関与によることが現実化した。﹁使用者 は議会における大臣の地位に相当し、答弁のほかに発言をもとめる権利を有する。委員会は議長を選出する権利を与 えられ、選挙人日労働者は傍聴者として審議に出席する権利を保障される﹂ ( 3 ) 。このことが明文で規定されるにいた っ た の は 、 一八八八年の営業規則においてであった。この営業規則には F そのうえさらに議会に順じて、 工場規則ま たは労働規則あるいは営業規則の改正をなすには、第二読会とその決議を経ねばならないとの規定がなされている。 ﹁この議会主義的規制が実現したとき、誰からも不平不満はおこらなかった。それだけに私は、なさねばならない多 くの犠牲をばらったし、満足すべき成果をあげるための一切の責を負っている:::私は自分の工場において、絶対主 義的専制より近代国家への移行を貫徹した﹂ ( 主 と し て 、 工場に立憲的工場の理念を実現したことを誇りとしてい る。労働者委員会の任務は、賃金・労働時間、福祉厚生施設の共同決定と管理にあるのみならず、利潤分配への関与 もそのうちにふくめており、これらの成果について詳細に論じている ( 5 1 プ レ

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ゼの工場における委員会の権限 は、当時のドイツにおいて任意主義にもとずいて設立された委員会に比して、きわめて特異な性格をもっており、労 働者参加の審議の対象は広汎にわたっているが、本質的にことなった規定はみられなかった。その後においても、 ブ レ!ゼは実定法により、企業主の芳えのいかんにかかわらず、労働者委員会は拘束的に設置さるべきものと、 たえず 主 張 し て い る 。 1 出 巴 口 同 町 内 日 r 司

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これらの成果について、国・ロ 2 開 見 。 -m L 2 ∞ 己 Z 2 2 4 2 -E D m ( ・ お l a ) -n ・ 盟 。 何 E o r g m . E B 富 山 S F O X 2 3 ・

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吋 l Z H ) に分類して、成功を誇ち 2 4 5 かに d語 っ て い る 。 四 労働者保護法と労働者委員会 ピスマルクは、労働者階級を分裂させ、偽摘し、混乱におとしいれるために弾圧の鞭をふるうとともに(之、 し、 わ ゆる﹁社会立法﹂の餌をなげあたえることにより、労働者階級にたいする社会民主党と労働組合の影響をとりのぞこ うとしたのであるが、労働者運動の高揚と、燃えあがる社会民主主義の嵐をさけることができず、 一八八九年のル│ ル工業地域における鉱山労働者の巨大なストライキ ( 2 ) と 、 一 八 九

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年の議会選挙で約一五

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万の投票をあつめた社 会民主党の躍進に直面して

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﹀を撤廃せざ るをえなかった ( 4 3 鉱山労働者のストライキ終結の調停にさいし、 鉱 山 労 働 者 の 、 労働者委員会の設置の希望を きいたらヲィルヘルム二世ハ同包括同君巳

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のいわゆる二月勅令は、ペルレプ

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回 0 2 r r o H ﹀ の 時 代 を も た ら し 、 ドイツ社会政策の劃期的な進歩のきずなとなった。 一 八 九

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年二月四日の勅令 ハ い わ ゆ る 二 月 勅 令 ︾ ︽ 5 ) に お い て 、 ﹁労使聞の平和の育成のために、労働者が自己の信頼する代表者を通じて、共 通の措置の規制に参劃し、 かっ自己の利益を確保するため、使用者および政府機関との審議に関与する権利の賦与せ

(20)

られた組織形態に関して、 立法措置がなされることを要する﹂と布告され、 つ い で 同 月 二 八 日 、 カイヂ l は 、 労 働者委員会の一般的な設置は:::望ましきものでありや﹂、 プロイセγ国家会議 ハ

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雷 同 m 伊 丹 ) に提案するにいたっ て、社会的平和の促進のために、 労働者委員会をライヒ立法のうちに規定すべきであるか否か、 具体的な問題とし てうかびあがってきた。 この審議の過程において、国家会議および議会はともに、 委員会の強制的な設置に反対し た 学識経験者として委員にくわえられたプレ l ゼ は 、 通 常 二

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人以上の労働者を使用している経営体はすべて、 労働者委員会を設置する義務を負うとの提案をなし、 ﹁この提案は、実践的・具体的根拠にもとずいて確信するにいた ったものである﹂官)と主張して、立憲的工場の理念の実現につとめ、講壇社会主義派にぞくするヒヲチ z ハ 回 目 仲 N O も 同 じ く 、 議会に労働者委員会の拘束設立主義を提案した ( 7 v しかし審議の結果、 一八九一年六月一日ベルレプ V V ナ l ベ テ ィ ハ

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の企図による工業法の修正 ︿いわゆる労働者保護法﹀号巴芯目。

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ロ 0 4 0 口 。 ﹀ に お い て 、 は じ め て労働者委員会の設置が、 立法上で明文化されたとはいえ、 その拘束設立主義はついに認められるにいたらなかっ た。労働者保護についてすすんだ面もみられるが、 労 働 者 委 員 会 を 規 定 す る 一 一 一 一 四 条 は 、 使用者の発意によるたん なる諮問機関たる地位を賦与したにすぎず、 二

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人以上の労働者を使用する経営体に、 労働者委員会を設置したさ いには、労働規則の制定またはその改正前に、委員会に諮問しなければならない。また使用者が労働規則に経営内の 福一肱施設の利用を規定するときは、委員会の同意を要すると定めているが、その他の領域については使用者の意思に 従属せしめられた。 使用者の大半は、 工業法の改正にさいし、労働者委員会の強制設立に反対したことはうなずけるとしても、そのう 労 働 者 共 同 決 定 権 史 八

(21)

東 洋 法 学 八 えなお、社会民主党と協力することにより、拘束的宣言を阻止することを一層容易なものとした。 い ず れ に し て も 、 ドイツの指導的な労働組合の代表者が、労働者委員会と労働組合とが併存し‘協力して活動することが望ましいと、 労働者委員会の強制設立に賛成の態度をとったことは、とくに注目すべきことであった

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かくして労働者保護法 が施行されるや、 ただちに使用者側からのつよい反動がでてきた。なかでも、 ルール重工業の指導者ステュム ハ 同 町 同 0

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﹀とドイツ工業者団体中央連盟総裁ピ品汐クハ回ロ

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に よ っ て 、 使用者側からの反撃が開始した。 その反撃のほこは、前進する労働者保護にはむけられず、むしろ労働者委員会を一般的に設置することが望ましきこ とであるのか否か、また使用者は、労働規則の制定および変更にさいし、労働者委員会の意見をきかねばならない と、強行的に規定する問題にむけられた。重工業使用者団体は、 ワ イ マ l ル体制下においてもそうであったように、 経済民主化のすべての傾向にたいし、ありとあらゆる抵抗をこころみた。この抵抗は一八九

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ー九一年にすでに明白 にみることができるのであり、その後のいっさいの行動の根拠をなしている。労働者の代表による労働規則への関与 権をみとめるこの些細な修正も、削除すべきであると主張して、 ピ ュ ヲ ク は 、 ﹁改正法は、労働者委員会制度の採用 により、同権という悪魔に小さな指をさしこむことを許した。社会生活・経済生活における同権は、労働者には存し ないし、また決してそうあ。てはならない﹂ ( 9 ) と主張さえしている。 労働者保護法の施行により、同法制定前に比して労働者委員会の増大、なかんずく一八九二年と九三年に多くの設 置がみられた白)とはいえ、委員会を設置すれば、労働規則の制定ないしその改正にさいし、委員会の意見を聴取せ ねばならないし、福祉厚生施設については労働者共同決定を強行的に要請されることから、使用者はすすんでまで委

(22)

員会を設置しようとせず、 任意設立主義のぬけみちに安全な地位をおいた。 使用者が労働者委員会制度の認識をか き、さらには拒絶的な態度をとるとき、委員会が、まったく意味もない幻の存在にすまなくなったとしても不思議で はない。ゴヲホ臼)は、 一八九一年以降に設立された委員会の発展を、 ドイツ各州の工業官庁の報告書より検討し て、不満足な活動の主な原因として、 工場で働いている労働者の実情と委員会制度についての使用者の不認識にあ り、使用者の拒絶的態度にもとずくものであって、委員会の任務と権限をみとめなかったことにあるとした。この前 提にたてば、労働者共同決定よりする経営組織の修正はほとんど望みをもてない。それ故、使用者のこのような観念 に由来して、たとえ労働者委員会が設置されたとしても、労働者のいだいている不信の念をぬぐいさることは不可能 であり、さすればますます、被用者団体は委員会の活動に大きな望みをかけ、真に平等な共同決定をそれにたくする ようになった。それにしても驚くことには、労働者委員会が労働者保護法によって増大したにかかわらず、 たんなる 幻の存在にすぎないと考える人々をふくめたとしても、 一 九

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七年には、二

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人以上の労働者を使用するドイツ私企 業のうち、約一

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パーセントほどの委員会が存していたにすぎなかった。 労働者委員会が、労働者保護法のなかで僅かな一部分をなしていたにすぎないとしても、これをめぐる論議の波は しだいにたかまった。その史的地位をみるとき、労働者保護法の意義をみのがすことはできない。これこそ、 工業支 配者が土地所有をその土台として発展し、うけついできた家長的支配への干渉であった。それ故にこそ、 かかる地位 にある人は、巨大な資本主義の発展の過程で、 かがやかしき道を歩んできたが、労働者がなおも依然として隷属から ときはなたれえないでいることを、芳えようとさえしなかった。この歴史的脈絡は、年をへて、 一九一八年の革命に 労働者共同決定権史 八

(23)

東 洋 法 " " 与 寸・ 八 四 よって明瞭に浮びあがった。 一 九

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五 年 、 ドイツ経済で重要な地位をしめている鉱山分野において、 ふたたびおこった鉱山労働者のストライキ を契機として、プロイセシ鉱業法の改正ハ

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がおこなわ れ、はじめて労働者委員会の強制設立主義が実現した(日。 すなわち、通常一

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人以上の労働者を使用する鉱山経 営はすべて、労働者委員会の設置を強制されるにいたった。同法の強制設立主義は、その後各州の鉱業法にうけつが れたが、労働者保護法の特別法をなしており、その意味では注目に価するとしても、その成果は、労働者保護法での べたことと基本的にはことならない。 1 社会主義者取締法のために労働者階級の支払われた犠牲をあますところなく論述することは企て得べくもない。大凡の統 計によたば、↓三

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の定期・不定期の印刷物とコ二ニニの種々なる労働者の組織が禁止された。戒厳区域から追放された ものは九

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名におよび、その中の五

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大以上は家族の扶養者であった。裁判所によって禁鋼刑に処せられた期間の 総 計 は 、 一

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年に達し、延人員一五

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名におよんだ。メーリング﹁独逸社会民主党史﹂塚本三吉訳四巻三六一ーニ 頁。円宮各包括ゅの 2 0 庄 の

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昨 日 PHSH ・ ルール鉱山労働者約一

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万人により、賃上げを目標としてたたかわれたストライキは、それまでのドイツのストライキ 運動の中でもっとも重要な意義をもっており、ロ l ザ ・ ル ク セ γ プルクは五年後に、﹁大ストライキは彼らに大きな利益 をもたらした。ストライキは、労働者にたいし、彼らが政府からせいぜい期待できるのは銃剣だけ、であることを、同時に ストライキはまた、鉱山労働者の数は落大であり、団結してすすめば、巨大な力を発揮することを、彼らに教えた﹂と評 価し(ワル γ ケ ﹁ ド イ ツ 労 働 組 合 運 動 小 史 ﹂ 池 上 ・ 佐 藤 訳 、 国 民 文 庫 三 ニ ー 一 一 二 ニ ) 、 ま た メ l リ γ クはストライキを次の ようにのべている。﹁鉱夫たちは、指導者をベルリンに派遣して皇帝の助力を乞うた。皇帝は罷業者の要求は当局をして 2

(24)

これを調査せしめることを約した。しかし、万一この運動に社会民主主義的な傾向が混ったならば、皇帝は彼らに好意を 拒むにちがいない。否かかる場合には、彼は容赦なく峻烈に干渉するであろう。けだし彼にとっでは、すべての社会民主 党員は皇帝および祖国の仇敵と同一であるからである。鉱夫の代表を皇帝の許に派遣したことは、それ自体としては間違 った行為であり、それがために大ストライキは目茶苦茶にされねばならなかったし、また実際に無惨な結果になったのだ が、しかし意義ある精神的効果はあった。支配階級が自己満足に陶酔している真只中に突如として恐るべき運命があらわ れ、彼らを震憾せしめたのである。﹂(メ 1 リ γ ク・前掲書・邦訳四巻三四七

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八 頁 ) 3 議会選挙の年 一 八 七 一 一 八 七 四 一 八 七 七 一 八 七 八 一 八 八 一 一 八 八 四 一 八 八 七 一 八 九

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七 一 九 一 二 社会民主党得票数 ( 千 ) 一 二 四 一 一 一 五 二 四九三 四 一 ニ 七 一 一 一 一 二 五 五

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労働者共同決定権史 総得票数の割合 ( 必 ﹀ 一 ・ 六 四 ・ 一 五 ・ 五 四・八 三 ・ 四 五・九 七・八 一 四 ・ 一 一 六 ・ 八 一 八 ・ 五 二 四 ・

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二四・四 二九・四 代議士数 一 四 八 五 四 三 一 二 一 一

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三 一 六 四 五 一 四 二 九 二 九 二 備 考 社会主義者取締法の制定を目指す政府の大 弾圧 社会主義者取締法下の非合法状態 ( 非 合 法 状 態 ) ( H H ) ( 合 法 化 す )

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(25)

東 洋 八 ノ 、 法 学 4 村瀬与雄﹁ドイツ現代史﹂一二九頁参照 服部教授は、﹁社会主義者取締法の崩壊以後ドイツの労働者がなした最大の業績は、労働組合の発展である。最近一

0

年 間の政治的発展のうちには、プロレタリアートの階級斗争にとっての意義において、いささかでもこの労働組合の発展に 対比せられるものは何ものも存しなかった﹂(メ l リジク・前掲書邦訳四巻三八八頁)を引用され、﹁ベルレプジミプ レ ソ タ l ノらを実践的理論的指導者とする団結の自由、労働者共同決定権、労働協約のための運動は、まさに新たなる段 階の社会的・経済的課題を担うものであった﹂(服部英太郎、﹁ドイツ社会政策論史﹂上巻一 l 二頁)と、社会主義者取 締法の撤廃以後の労働組合運動とその役割を規定されている。 ︿ m -・ 回 ・ 回 8 2 Z H w 宅 宮 聞 の r m s -。 r o 呂 町 } ) 2 巴 BB ロ ロ ぬ 仏 め 岡 田 忠 弘 m w r 由 民 F ω Z 仲 仲 間 百 ユ 巴 品 ∞ w ω ・

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年同じく講壇社会主義派にぞくする国民経済学者、ジュモラ l ( の g Z 4 ω o r s 。 - r φ は、労働者委員会制度に つき、次のように言及している。﹁階級闘争がつねに小さなものにおわらず、ついには宿命的な摩擦と相互の敵対感情は 完全な停滞と巨大な革命をひきおこさざるをえないときにあたり、真の支記従属の関係はすべて、混合的な性格のものに おきかえ、共同発言権を従者に認めねばならない:::国民経済組織のあらたなる時代は、労働組合と労働者委員会ととも にはじまる﹂(叶 B w r w 司 B ] a R r g 出 向 ロ 門 出 足 。 r ι 2 目 立 同 町 ﹃ 印 ﹄ 1 2 P 白 印 口 出 向 臼 ぬ g 2 N U M 匂 印 ω ω ・ H N ・ u 可 ♀ 任 。

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は、彼の鋳鋼工場の労働者への呼びかけで、﹁私に事件をおこさせないためには、私に 5 6 7 8 9

(26)

10 なにかを無理にねだろうとしてはいけない﹂とさえ警告している。 労働者委員会は、私企業のみならず。国営企業にも設けられていることが報告されている。一八九一年陸軍造兵廠、海軍 省造船所おヱびカイザ l 水雷工場に、一八九二年に固有鉄道製作工場に設置をみた守色・司同日。

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五年のプロイセン鉱業法に求める説と、一九

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年のバイ エ ル γ 鉱業法に求める説とがある。プロイセン鉱業法に求めるものには、出 5 長 I Z -) 句 。 邑 o w w H h o r 同r R r 色 。 国 ﹀ 同 r o x m 1 諸 島 z u 。 ・ ﹀ 丘 ﹁ い ・ 回 m Y ∞ ・ 。 吋 h H ・ u h r ・ 君 。 V 2 u m 凶 - m ・0 w ω ・ ω b ・u 問 。 -r F m F m -m w -c w m -N ω ・ 山 国 g o n r o H U 釦 - m w ・c ・ ω ・ ロ ・ 山 田 口 N V E B R の E E N S O 仏 gk 戸 同 宮 町 田 同 ゅ の r F T E 巴 ミ ・ ∞ -N E W 司 5 ∞ ロ O H ・﹁労働法原理﹂摘す沼・楢崎共 訳、二二五頁、久保敬治﹁ドイツ経営参加制度﹂三頁、石川吉右衛門﹁ドイツ経営協議会﹂労働法研究第一輯五六頁。 バイエル γ 鉱業法に求めるものには、。ゅの FE01 門 色 町 釦 r o p H ﹀ 同 r o X 2 m 自 国 旦 同 山 岳 ∞ -o r o p F ω 。 N E -君 。 r u 出 。 間 同 ω ﹀ 宮 ・ 巳 H m w 印 ( ) w ∞ -H 。 - u 明 氏 。 r o w m -m -c u m -日 間 y u H ι 。3 r 。 民 w 出 - m ・ 0 w ∞ W H O -12 11 五 祖国補助勤務法と労働者委員会 一九一四年八月四日、戦争予算審議のため議会が召集された。その前日の八月三日に聞かれたドイツ社会民主党代 議士会の帰趨に、世界の眼がそそがれたなかで激論がたたかわれたすえ、 七八票対一四票の大差で社会民主党議員団 は、戦争予算に協賛することを決議した。 反対派一四名も党規律に服し、党首ハ l ゼ は 、 みずから反対派にぞくし ﹁われわれは現在戦争という鉄のごとき現実の前にたって たにかかわらず、議場で次のような声明書を読みあげた。 いる。われわれを脅かしているのは敵の侵入の恐怖である。われわれの任務は今日、戦争に反対か賛成かを決定する 労働者共同決定権史 八 七

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東 洋 法 学 八 八 ごとではなくて、国防に必要な手段の問題について決定することにある﹂

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と 。 ドイツ社会民主党議員団は、戦時 におけるプロレタリアートの態度を決定したこのような歴史的宣言を発した。 ヨ

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ロ γ パの列強聞に戦争が勃発した ぱ あ い 、 それが未曽有の大戦に発展し、 はかりしれないほどの惨害をもたらすべきことは疑いがなかったから、こ の不幸を未然に防ぎとめるカとして 1 第二イジタ l ナ

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ョ ナ ル 、 とりわけその中核体としてのドイツ社会民主党にた いする期待は大きかった。ドイツ社会民主党は、この間議会において、くりかえしドイツ政府の帝国主義政策を攻撃 し、戦争反対の態度をあきらかにしてきたし、第二イ y タ

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年にパリ

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四年にアム ス テ ル ダ ム 、 一 九

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セ年にVュテュヲトガルト、 一 九 一

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年にゴペシハ i ゲ シ 、 一九一二年にパ!ゼルでほとんど毎 回反戦決議を公にした。七年の大会では、 ベ

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ベルの決議案を不充分として、 ロ 1 4 J ・ルクセジプルクは、 レ l -

VJ とマルトプの三人の提案の形式で提出し、 イ γ タ l ナ

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ョナルは、反戦闘争の指導原則として、 つぎのように決議し た 。 ﹁それでもなお戦争が勃発したばあいには、そのすみやかな終結のために手をつくし、戦争のもたらした経済上 ならびに政治上の危機を、国民をゆりおこすために利用じ、それによって資本主義的階級支配の排除を促進するよう 極力つとめることが、その義務である﹂ ( 2 ) 。それにもかかわらず、 ドイヅ社会民主党と労働組合︿ 3 v は、﹁ドイツの文 化と独立﹂を守るとの理由のもとに、﹁戦争という鉄のごとき現実﹂のまえにくつした。この日は、第二イシタ i ナ V ョナルの事実上の崩壊しさった日でもあった。七月三

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日のロ V アの動員から、八月四日のイギリスの参戦までの、 いわば破局的な六日間のあいだに、ドイツ社会主義者は、たんに戦争協力政策をとったのみでなく、 ユ Y ケル軍闘の 帝政ドイツと城内平和を結んでしまった。戦争を与えられたどうにもならない現実としてみとめ、これに協力しよう

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というのみでなく、戦争遂行に関するイニ

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アチグは完全に帝政ドイツの支配者たちに一任した。社会民主党と労働 組合は、戦争にともなう惨禍をできるだけ緩和しようとする終善団体に満足し、戦争予算に協賛することにより、社 会愛国主義者へと転落し、支配階級に白紙委任状をあたえた。しかし戦争の侵路的性格、長期化、物価の上昇による 大衆の生活水準の悪化、労働強化にともなう不満の増大は、大衆の戦争熱をしだいに冷却せしめた。大衆の平和への 慾求が園内にひろがり、 戦争協力・城内平和政策への批判から、 スパルクス団その他の戦争反対派の結集をうなが し、組合内部においても総務委員会の指令を拒否する動きが活発となり、 一 六 年 五 月 一 日 、 スパルクス団に指導され た反戦デモが、総務委員会・組合指導者の意思に反して、 ベルリジのポツダム広場でおこなわれた。 このような背景のもとに、労使関係をいかに規制すべきかの問題は、戦時経済の発展と関連して、戦争を遂行する ためには、労働組合と労働者大衆の寛容と助力の協力なくしては不可能となることから、圏内に労使の産業上の平和 と労使の共同体を実現することにむけられた。かくして、戦争の緊迫化にともなう労働力の不足に対処し、強制的労 務配置政策の必要性にうながされて、 一九一六年八月、全経済力と戦争遂行のための人民の動員化を定めたヒシデ y プルク綱領(従来の軍需生産高を二倍に高めることを中心とした計画﹀の採用の結果生れたのが、同年末の祖国補助勤務法

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・ H m w H A W V で あ る 。 そ れ 故 に 同 法 は 、 一 方 で は 労 働組合の公認という譲歩をなしているも、その反対給付を明規し、軍需生産の労働力の確保のために、強制的労務

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徴用制を採用するとともに、居住権およびストライキの制限ならびに職場の変更の強化をもたらした。この要請にも と ず い て 、 本 法 は 、 五

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人以上の労働者または職員を使用し、 かつ本法の適用の対象となる祖国防衛義務を負う経 労働岩共同決定権史 八 九

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東 洋 法 学 九

営はすべて、労働者委員会または職員委員会を強制的に設置することを規定した。委員会の権限と任務は、もちろん ーすでにみとめられていた尺度をこえるものではなかった。すなわち委員会は、賃金その他の労働条件について使用者 とめられたにすぎない に提案をなし、労働者または職員の希望・苦情等を使用者に伝える権利を有し、福祉施設の運営に関与する権利をみ 労使そ ( 同 法 一 一 条 ) 。 ここで注目されるのは、労使聞に見解の一致をみざるときに、まず、 れぞれ一ニ名の代表と中立一名によって構成する仲裁委員会に申したてをなすことができる。その決定は両者がこれを 承認するとき、拘芳力を有する。 経営内における合意がえられなかったとき、工業裁判所、 鉱業裁判所、商人裁判 所に提訴しうる旨、規定したことで、かかる構想は、ワイマ i ル社会政策の一つの先駆的役割をになったものといえ る F 4 1 しかしながら戦争勃発後間もなく、労使間に城内平和の体制がとられたにもかかわらず、 一六年も末になって本法 が制定されるにいたったのは、 一方では国の軍需生産における労働力の需要を確保することにむけられており、他方 では使用者が労働者または職員にたいし、ほとんど無制限な支配権を自己の手のなかに牧めることにあった。このよ うな趣旨にもとずいて労働者委員会が、祖国防衛の義務を負う経営のすべてに、強制設立することを要請されたにか かわらず、使用者側、ことに重工業部門の使用者は、労働者保護法の時代におけると同じ立場をこしゅうして反撃体 制をとり、できうるかぎり設立を回避し、同法にたいする抵抗とその効果を減殺せんとした。使用者は、委員会を自己 の目的にふりむけることにのみそのカをそそぎ、軍需生産の増大と労働力の確保に制約された戦時立法として、本法 の要請する労使協力体制をさえも否定した。社会愛国主義者・労働組合が戦争協力・域内平和政策をとり、反対派に

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