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第 4 章

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(1)

4-I

第4章  初期イタリア合理主義の建築思潮について

-

イタリア合理主義建築展とそれに伴う

MIAR

の活動について

 第

3

章で述べたように、イタリア合理主義の発端は、

1926

年から

27

年にかけて発表されたグルッ

7

による

4

編の論文

(

以降、

<

宣言文

>)

と見なされているが、この

<

宣言文

>

の発表後、グルッポ

7

メンバーの一人

A.

リベラ

(Adalberto Libera,1903-63)

1と諸外国の近代建築に詳しい

G.

ミンヌッチ

(Gaetano

Minnucci,1896-1980)

2が中心となり、この運動の全国的な拡大を図って

28

年にイタリア合理主義建築

(Esposizione Italiana di Architettura Razionale

、以降

<

第一回展

>)

を開催し、それに伴って「合理主義建 築のためのイタリアの運動」

(Movimento Italiano per l’Architettura Razionale

、以下

MIAR)

が結成された。

さらに、

31

年には画商

P.M.

バルディ

(P.M.Bardi,1900-2000)

が中心となり第二回イタリア合理主義建築

(

以降、

<

第二回展

>)

を開催し、論議を呼ぶことになった。

MIAR

<

第二回展

>

後に

M.

ピアチェンテ

ィーニ

(Marcello Piacentini, 1881-1960)

等の反対派の圧力で解散を余儀なくされたが、その後も合理主

義建築家達は更に活発に建築活動を発展させ続けた。第

4

章では、イタリア合理主義の建築思潮に関 する研究の一部として、グルッポ

7

による

<

宣言文

>

の発表以降の初期イタリア合理主義建築における 主要な活動である、二回に亘るイタリア合理主義建築展と

MIAR

の活動を、それらの経緯を明らかに することで、イタリア近代建築史の中で位置付けることを試みるものである。

 第

4

章では筆者が収集した当時の新聞・雑誌記事及びカタログ、展覧会関係者間の交信文書等の一 次史料の他、

M.

チェンナーモ

(Michele Cennamo)

D.

ドーダン

(Dennis P.Doordan)

R.

マリアーニ

(Riccardo

Mariani)

の著書から可能な範囲で一次史料の再録の和訳・読解を行い、二回に亘るイタリア合理主義

建築展と

MIAR

結成から解散までの状況を把握し、その活動の意義を考察する。具体的には、展覧会 カタログ、展覧会開催宣言文、

MIAR

声明文、開催前後に掲載された新聞・雑誌記事、そして、

MIAR

の活動及び展覧会開催に関するバルディ宛の合理主義者の交信文書、さらに、

MIAR

トリノ支部長で ありながら、

MIAR

解散後にはピアチェンティーニと活動することになる

G.

パガーノ

(Giuseppe Pagano

Pogatchnig,1896-1945)

の手紙をもとに、展覧会の特質、開催後の反響、

MIAR

の活動内容と課題、イタ

リアにおけるこの活動に対する評価を検討項目とする。

4.1. 第一回イタリア合理主義建築展開催の経緯

4.1.1. 展覧会創案から開催までの推移

<

第一回展

>

は、

1928

3

15

日から

4

30

日までローマの博覧会館

(Palazzo delle Esposizione)

で 開催され、

5

グループ、

42

名の建築家、

1

団体が参加した3。グルッポ

7

のメンバーであったリベラは

<

宣言文

>

の発表後、「少人数の争いでは弱体なので、他の建築家を招くため」4にミンヌッチと共に

1928

1

月に展覧会を創案し、短期間でその開催を実現させ、更に国家ファシスト建築家協会

(Sindacato

Nazionale Fascista degli Architetti)

と同芸術家協会

(Sindacato Nazionale Fascista degli Artisti)

の後援を得る

(2)

4-II

ことに成功した5。リベラの回想によると、この準備段階で問題となったのは、全国から若手建築家の 作品を呼び集めることよりも、国家ファシスト建築家協会書記長で政府機関誌

<

アルキテットゥーラ・

エ・アルティ・デコラティヴ

>(Architettura e Arti Decorative)

の編集長

A.

カルツァ・ビーニ

(Alberto

Calza-Bini,1881-1957)

に開催の承認を得ることだったとされる6

4.1.2. 展覧会の内容

<

1>

に示されるように、展覧会はグルッポ

7

(ミラノ)、ローマ、トリノ、ヴェネトという地域毎の

グループと、その他の個人参加を統合した全

5

グループの構成で、主催者のリベラはグルッポ

7

、ミ ンヌッチはローマ・グループで参加した。また、カルツァ・ビーニの作品やM.トルッコ

(Matté

Tucco,1869-

1936)

のフィアット工場

(1926-36)

等ベテラン建築家の作品も展示されたが、しかし作品の多くは若手建

築家によるものであり、特にグルッポ

7

とローマの建築家

G.

カッポーニ

(Giuseppe Capponi,1893-1936)

は各々

1

会場が割り当てられた。しかしながら、建築経験の浅い若手建築家の展示は実施作品の紹介 よりも計画案、模型が殆どであり、またそれらの建築用途は展覧会パヴィリオン、住宅、商業建築、

事務所、工場、劇場等様々であった。

4.1.3. 展覧会カタログ、序文

<

第一回展

>

開催に併せた

<

デ・アルベルティ

>(De Alberti)

7発行のカタログ

(<

1>)

は、リベラとミン ヌッチの署名による「展覧会序文」

(Introduzione all’Esposizione)

、「合理性に基づいた建築再生の必要 性を支持・宣言した論文リスト」

(

カタログ

p.9)

、出品者リスト

(

p.11)

、会場毎の作品リスト

(

p.13-27)

61

枚の展示作品の写真で構成された。「展覧会序文」では、冒頭で未来派建築家の

A.

サンテリア

(Antonio

Sant’Elia,1888-1916)

の例を挙げ、「新精神」

(nuovo spirito)

による創造的時代の追求を提起している。

また「合理主義という言葉がコンセプトには完全には合致しないとしても

...(

中略

)

私達は

(

この展覧会 を

)

合理主義と呼んだ。これはコンセプトを認識、定義するために最も的確な言葉であり

... (

中略

)

建設、

技術、判断力の内容を明確にするものである」8と「合理主義」という言語の使用を主張し、その一方 で、彼等の運動が「建設的な潜在能力というローマの遺産を引き継ぐもので、ローマ建築の本質的特 性は、根本的に合理的、有益的、生産的なもの」9と述べて「ローマ性」という言語も強調するものと なった10。この宣言文はグルッポ

7

の建築宣言に基いて書かれたと読み取ることができるが、「合理 主義」という言葉をより明確に示している。またこの「展覧会序文」と同時期に発表された『芸術と 合理主義』

(Arte e razionalismo)

11では、合理主義の運動精神が芸術の一般概念の中で確認されることを 主張し12、このことからも、「合理主義」建築の普及へのリベラの積極的な姿勢が窺われる。

(3)

4-III

4.1.4. 展覧会の特質と評価・開催後の反響

 この

<

第一回展

>

に関しては様々な新聞・雑誌で報告されたが

(<

2>)

13 、後の

<

第二回展

>

のような 特別な反応は示されなかった。それはこの展覧会の特質として、まだ政治的意図を持たなかったこと が理由と指摘される14。しかし新聞

<

イル・ラドゥーノ

>(Il Raduno)

では

A.

ネッピ

(Alberto Neppi,

不祥

)

の 展覧会に対する批判記事15が発端となって論議が行われ、また

F.T.

マリネッティ

(Filippo Tomaso

Marinetti, 1876-1944)

等未来派16もこの展覧会に関する記事を発表した。また二大戦間におけるイタリ

ア建築界の重要人物の一人であるピアチェンティーニは、一連の論文17で、経済的な「合理主義」と 古代ローマやルネサンス期の歴史的建築との区別を主張し、更に政治都市と歴史的保存地区を対比す る輪郭を示して、ある期間、実用的な「合理的」建築と歴史なモニュメンタルな建築が共存すること を予言した。この展覧会 に関して多くの研究者は高く評価しており18、後にリベラも、当時の様々な 建築展19の中で「イタリア建築改革の最初の公的活動で、歴史的にも最初の展覧会と考えられる」20と 回想している。

 以上より、この

<

第一回展

>

は、イタリア合理主義建築家達が首都ローマにおいて国家規模で国民に 作品を示した最初の機会となり、内容的には他の展覧会と大きな違いはないにしても、様々な論議を 呼んだ

<

第二回展

>

の足掛かりとして評価される。

4.2. MIAR 結成と第二回合理主義建築展開催までの活動

4.2.1. CIAM の参加から MIAR 結成までの推移

<

第一回展

>

以降、その主要な参加メンバーは本格的な運動の推進に取りかかるようになる。

1928

6

26

日から

29

日までスイスで第

1

回近代建築国際会議

(Congrès Internationaux d’Architecture

Moderne

、以下

CIAM)

が開催され21、この会議と現代建築問題対策国際委員会

(Comité Inernational pour

Résolution du Problème de l’Architecture Contemporaine

、以下

CIRPAC)

A.

サルトリス

(Alberto

Sartoris,1901-1998)

が参加する

(<

3>)

。その後、サルトリスと

C.E.

ラーヴァ

(Carlo Enrico Rava,1903-85)

は、

CIAM

CIRPAC

のイタリア部門を確立するために「合理主義建築運動」

(Movimento Architettura

Razionale

、以下

MAR)

という新しい組織を提案した22。この

MAR

は合理主義建築家の間の意見の相違

のために成功しなかったが23、その後

1930

年に開催されたモンツァ・ビエンナーレ24では、参加した 全国の建築家が将来の計画について意見が交換された。

4.2.2. MIAR 結成

 ローマ、トリノ、ヴェネト、コモ等各都市の合理主義建築家グループの間で運動を国家規模に拡大 する気運が高まり、

1930

7

29

日に

MIAR

規定が総書記長リベラの署名で公布された25

(4)

4-IV

MIAR

結成の主な目的は二つあり、一つは

CIAM

のイタリア支部としての役割を果たすこと、もう 一つはイタリア合理主義建築が国に承認され、その活動が保証されることだった。前者に関しては、

8

月に

MIAR

の執行委員会として「イタリア合理主義建築家グループ」

GNARI(Gruppo Nazionale Architettura Razionalisti Italiani)

を設立し、

22

日に

CIAM

の執行委員会である

CIRPAC

総書記長に書簡 を送り26、更に第

3

CIAM

参加を達成したが、このことによって、

MIAR

は近代運動の一つとして 国際的に認められたことを示すことになる。しかし後者に関しては、国家ファシスト建築家協会会員 のみが

MIAR

への参加資格があり、また活動全てを同協会に報告することが義務付けられた27。  

MIAR

の組織構成は前述の規定に明記されている。それは

<

2>

に示されるように、ミラノ、トリ ノ、ローマ、その他の地方連合による

4

支部

(Gruppo Regionale)

、更に各地域から選出された支部長

(Segretario Regionale)

と総書記長

(Segretario Generale)

によって理事会

(Consiglio Direttivo)

が構成された。

また理事会のメンバーと

MIAR

内の数人で執行委員会としての

GNARI

が構成され、

CIAM

のイタリ ア支部の役割を担った。つまり

MIAR

CIAM

の組織構造に倣い、総書記長リベラは

CIAM

の事務局 長

S.

ギーディオン

(Siegfied Giedion,1888-1968)

に、

GNARI

CIAM

の執行委員会

CIRPAC

に相当した。

規定に見られる

MIAR

の特徴をまとめると、決議方法の制度化、

CIAM

に倣った組織構造、国家ファ シスト建築家協会による会員資格の制限と活動報告の義務であるが、これは言い換えれば、

MIAR

が 国家に承認された団体としてその活動が保証されたことを示す。

 この

MIAR

結成当初の会員は

46

名であり、

<

第一回展

>

に参加した多数の合理主義建築家で構成さ れた。会員の中にラーヴァの名はなかったが、それは合理主義建築に関する意見の相違が原因とされ る。また理事会はリベラ、

G.

ポッリーニ

(Gino Pollini,1903-84)

、ミンヌッチ、パガーノで構成され、更 に

GNARI

は前述の

4

人と

MIAR

会員の

P.

ボットーニ

(Piero Bottoni,1903-73)

L.

フィジーニ

(Luigi Figini, 1903-84)

G.

フレッテ

(Guido Frette,

不祥

)

M.

リドルフィ

(Mario Ridorfi,1904-84)

、テッラーニ、

L.

ヴィ エッティ

(Luigi Vietti,1903-?)

で構成された28

4.2.3. MIAR 声明と第二回合理主義建築展の準備・広報活動

MIAR

の具体的な活動は、「

MIAR

声明」

(Comunicato del MIAR)

によって報告された。最初の公式 声明は

MIAR

結成の報告であり、建築雑誌

<

ラ・カーザ・ベッラ

>(La Casa Bella)1930

12

月号に

<

イ タリア建築の改革

>(Il rinnovamento architettonico italiano)

というタイトルで掲載された。その中で、

MIAR

は国家ファシスト建築家協会書記長カルツァ・ビーニに承認された、新しい建築の発展を促進する文 化・広報団体であり、その具体的活動は出版物・記事・集会等の広報活動が中心であり、当面は第二 回イタリア合理主義建築展の計画準備であると伝えた。

 声明第

2

号は第

1

号と同時に同誌に発表され、また、ブリュッセルで行われた第

3

CIAM(1930

11

27

日から

29

)

のイタリア代表

G.

ポッリーニ、

P.

ボットーニ、

L.

ヴィエッティの参加報告が 掲載された。その回の

CIAM

のテーマは「機能都市」であり、彼等はイタリア特有の状況とファシス ト政府による経済効果について言及したが、その一方で最小限住宅の解決、合理的区画化、建築法規 等の問題に立ち向かう難しさを指摘した。

(5)

4-V

<

第二回展

>

の開催については、結成から数週間で既に提案されていたが29、その公式な告示は声明 第

3

号を通して

1931

2

月上旬に新聞等で発表された30。それは

3

15

日より一ヶ月間毎にローマ、

ミラノ、トリノを巡回する展覧会の作品の募集であった。しかし展覧会の輪郭を明確に示した最も重 要な声明は、

1931

1

26

日付のリベラが署名の声明第

4

号である。この声明で、

1)MIAR

会員が 選択する作品の展示

2)

近年の政府建築を批判する

<

論争の間

>(Saletta polemica)

の設置

3)

現代建築に関 するジャーナリズム運動の計画

4)

新建材の展示、という展覧会の主要な

4

テーマが発表された。

2

16

日、政府より

<

第二回展

>

開催の正式な認可が通知される

(<

4>)

。開催準備の様子は度々新 聞・雑誌等で伝えられていたが、開催直前の

3

24

日付の新聞31では、

810

の応募作品から

150

作品 が

MIAR

会員によって選択されたと報告された。この準備に関しては、会場の絵画館32の理事で

<

ラン ブロジアノ

>(L’Ambrosiano)

33紙の編集者バルディが、展覧会場提供だけでなく、ムッソリーニが出席 する特別内覧会の手配、更に

<

醜悪の図

>(Tavolo degli orrori)

の計画まで携わった。また、バルディは この開催に際して、

<

ランブロジアノ

>

から重要な論文を発表した。まず、彼が

30

11

月に発表した

<

イタリアにおける合理主義建築の初期過程

>(Primi passi italiani dell’architettura razionale)

34

(<

5>

及び

<

6>)

は、合理主義建築をジャーナリズムによって大衆に紹介した最初の重要な記事となる。続いて

31

1

月末、

<

建築、国家の芸術

>(Architettura,arte di Stato)

35を発表するが、この論文を契機に、

31

2

月から

6

月まで、ファシスト国家における建築を主題とした論議が活発に行われるようになる36。 そして

<

第二回展

>

では、この論文の内容が展開された

<(

ムッソリーニへの

)

建築に関する報告書

>

(Rapporto sull’architettura(per Mussolini))

がムッソリーニに手渡し、ファシズムの建築としての合理主義

建築を主張した。また、彼は

<

第二回展

>

に先立って、

2

月に

<

建築のための、ムッソリーニへの嘆願 書

>(Petizione a Mussolini per l’architettura)

37を発表し

(<

4>

<

7>

参照

)

、建築がムッソリーニの「管 理を必要とする芸術であると宣言しよう」と述べ、党首に建築への関与を求めていた38。そして、こ の論文が発表された当日に、

MIAR

トリノ支部長のパガーノはその論文を賛同する内容の電報を送っ

(<

8>)

。このようなジャーナリズム活動によって、バルディは

<

第二回展

>

の事実上の主催者とな

るが、その一方で、

MIAR

総書記長のリベラに関しては、彼自身が後に「友人の手紙を書くという影 の存在だった」と回想しており39、また、バルディに宛てた書簡

(<

9>)

の内容からも、リベラは展覧 会開催の実務的な作業に携わっていた40ことが推測される。

4.3. 第二回イタリア合理主義建築展

4.3.1. 展覧会開催の経緯

 第二回イタリア合理主義建築展は告示より遅れて41

1931

3

30

日、絵画館で開催され、午前中 のムッソリーニの訪問の後、

16

時より一般公開された。祝賀式の際、主催者

MIAR

による公式宣言 が行われ、バルディが執筆した

<(

ムッソリーニへの

)

建築に関する報告書

>(Rapporto sull’architettura(per

Mussolini)

、以下

<

報告書

>)

が直接手渡され、さらに

<

醜悪の図

>

という写真のコラージュがバルディか

(6)

4-VI

らムッソリーニに紹介された

(<

10>

及び

<

11>)

。この展覧会に関するファシスト党首の声明が

3

31

日付のイタリア各紙に発表され、またこの展覧会開催の様子はファシスト政府機関紙

<

ポーポロ・

ディターリア

>(Popolo d’italia)

で同日報告された。

 ローマでの展覧会は

4

月中開催され続けたため、ミラノでの開催は遅れて、会場も変更されて

6

5

日にペルマネンテ館

(Palazzo della Permanente)

で行われた42。ミラノでは政治的見解の相違により、首 都ローマと比較して平穏であった。しかしこの開催と同時に、

MIAR

ミラノ支部はこの年に新聞・雑 誌で展開された建築論争の記事を

<

イル・ミリォーネ

>(Il Milione)

館で展示した。声明第

3

号で告示さ れていた、トリノでの巡回展の開催は実現されなかった。

 また、

1931

4

月号

(

1

)

6

月号

(

2

)

<

ラ・カーザ・ベッラ

>

誌に、ローマでの展覧会開 催に関する特集記事が掲載されたが

(<

12>

及び

<

13>)

、それは

<

第二回展

>

の公式報告書として十 分な内容となった。

4.3.2. 展覧会の内容と特質・評価

 ローマで開催された展覧会は、

<

3>

に示される作品展示の他、ムッソリーニ訪問の際に示された 公式宣言と前述の

<

報告書

>

、そして声明第

4

号第

2

項の

<

論争の間

>

の規模を縮小し改名した

<

醜悪の

>(Tavolo degli orrori)(<

10>)

で構成され、声明第

4

項で予告された新建材の展示は実現しなかった。

MIAR

による公式宣言は

6

章で構成され、そこで彼等はファシズムへの忠誠を示すとともに、合理 主義建築実現の機会を要請した。一方、決然としたその宣言の姿勢に対して、展示作品は様式・質に 統一性がなく、ファシスト政府の建築や都市計画といった彼等の提案は殆ど見られない。しかし

<

第 一回展

>

とは異なり、ベテラン建築家以上に合理主義建築家の実施作品も見られるようになり、その 特徴として、グルッポ

7

を中心としたラディカルな方向性と、ローマ支部を中心とした保守的表現の 違いが指摘されている43。また、著述家のペルシコは、彼の

34

年の論文44において、

<

第二回展

>

の合 理主義者の作品に「凡庸な外国の建築家の

<

地中海性

>

の手法」をみて、それらを批判することになる が、このことに関しては改めて本論文第

7

章で述べる。

 バルディからムッソリーニに手渡された

<

報告書

>

6

章に亘る長い論文であった。テーマはファシ スト党首を讃えるというよりも、最近の緊迫した建築情勢に関するものだった。バルディはまず、芸 術的問題を政治的問題と関連づけ、ファシスト政府による建築の刷新を望み、また、イタリア建築の 遅れの原因を時代錯誤的な慣習と建築委員会の保守性と見なした。そして結論では、今日の悪い状況 にある建築の運命を支配するムッソリーニに向けられた、若手建築家の嘆願に返答することを要請し た45。また、バルディはこの報告書の中で、未来派のサンテリアの活動をイタリア近代建築の発端と 評価しつつも、未来派運動に関しては消極的な判断を示し、両者を区別していた。この

<

報告書

>

と同 様にムッソリーニに紹介され、また、後に激しい建築論争の原因となる

<

醜悪の図

>(<

10>)

は、写真、

雑誌・新聞の見出し等のコラージュであり、ピアチェンティーニ、

A.

ブラジーニ

(Armando Brasini

、不 祥

)

等アカデミシャンの作品を

19

世紀のファッション写真と同一パネルに配することで、それらが時 代遅れであることを意図したものであった。それは当初予定していた

<

論争の間

>

から規模が縮小され たにも関わらず、展覧会の激しい挑戦的様相を減じることはなかった。またこのパネルには説明はな

(7)

4-VII

かったが、後にバルディ自身がこの

<

醜悪の図

>

の意味を新聞

<

ラ・トリビューナ

>(La Tribuna)

46で明ら かにした。

 論議を呼んだこの展覧会に関しては、様々な評価がなされている。それは例えば、

<

第一回展

>

と比 較してはるかに積極的な体制への介入の目論見として企画された47というもの、ファシストの共鳴と 保守派へ攻撃の二重の政治的意図によって開催されたという判断48や、

<

醜悪の図

>

で「行ってはなら ないこと」を示し、展示作品で「行うべきこと」を示したという解釈49等である。後に、ピアチェン ティーニ等の反撃や国家ファシスト建築家協会会員除名という威嚇によって、

MIAR

は解散すること になったが、その結果として、この

<

第二回展

>

は政府や国民に対して合理主義建築運動の影響力を認 識させることができたと考えられる。

4.3.3. 開催後の反響

 前述のように、開催翌日の各紙に掲載されたムッソリーニの声明と、同日の政府機関紙

<

ポーポロ・

ディターリア

>

に掲載された展覧会の報告記事から、この

<

第二回展

>

は政府の支持を獲得したように 考えられた50。しかし

<

報告書

>

、更に

<

醜悪の図

>

で示された、バルディのピアチェンティーニ等に対 する攻撃的な姿勢は彼等の反感を招き、次第に合理主義建築家とファシスト国家建築家協会との対立 が表面化した。

5

9

日付の各新聞は、

<

アルキテットゥーラ・エ・アルティ・デコラティヴ

>4

月号 は予定した

<

第二回展

>

の特集を中止し、協会書記長カルツァ・ビーニによる

<

理事会から

MIAR

への 非難

>(Condanna Sindacale del MIAR)

を発表したことを伝え、「

...(<

第二回展

>

)

不快なエピソードを嘆 き、展示作品を冷静に批評できない」という内容を掲載した。更に協会は

MIAR

会員を協会会員から 除名すると威嚇し、ローマ大学建築学部ではミンヌッチ、

L.

ピッチナート

(Luigi Piccinato,1899-?)

が免 職された。またピアチェンティーニは

5

2

日付の新聞

<

イル・ジョルナーレ

>(Il Giornale)

<

イタリ ア建築の擁護

>(Difesa sull’architettura italiana)

を発表してバルディを厳しく批判し、彼を支持するロー マ大学建築学部のメンバーも同紙に記事を発表して合理主義者に対する反撃を開始した

(<

4>

参照

)

51。  協会からの非難とピアチェンティーニ等のジャーナリズムによる攻撃に対し、

MIAR

は、表面的に は全員一致で対抗していた52が、内部では様々な意見が対立して混乱が生じていた53。このような状況 で合理主義者達はムッソリーニに再び擁護を求めたが、

3

度に亘る彼等の要請に回答はなかった54

4.4. MIAR 解散の経緯と評価

 前述のカルツァ・ビーニの

MIAR

への非難が発表される

4

日前、保守派は「イタリア近代建築家団 体」

(Ragruppamento Architetti Moderni Italiani

、以下

RAMI)

の結成を発表55し、「我々の輝かしい過去 の建築を抽象化し、新建材によって功利的に解決するという、国際様式・概念に由来する傾向は、我々 の伝統、建築制覇の歴史、精神、必要性、政治的風潮とは相容れないものである」と

MIAR

に対抗す る姿勢を示した。更にファシスト国家建築家協会は、

7

16

日に国家集会を開き、合理主義者達に妥

(8)

4-VIII

協案を申し出て提携を要請した56。それは具体的には、合理主義者達に国家理事会委員の席を一つ提 供すること57と、国家建築家協会の公式機関誌

<

アルキテットゥーラ

>(Architettura)

の編集委員として

7

名採用すること58だった。

 このように、ピアチェンティーニ等の攻撃と国家ファシスト建築家協会の会員除名という脅迫と懐 柔案、更にムッソリーニの支持も得られない状況の中、

1931

9

5

日に

MIAR

理事会がミラノで 開かれ、ミンヌッチ、ポッリーニが各々ローマ、ミラノ支部長を辞任した。会議は一時休止となり、

リベラは「若者の間で憎しみが生じることに我慢できなくなり」

MIAR

を解散させた59。解散前後の

MIAR

内の状況は、バルディに宛てられたパガーノの手紙によって推測される。

7

月末の手紙によれ ば60

MIAR

は会議を繰り返しながらも、解決策に至らない状況で、パガーノは「

MIAR

には救いが ないため、新しい団体を設立すること」を望んでいた。さらに、

9

8

日付の手紙61では、「

MIAR

は 事実上死んだ」と報告する一方で、「暫くしてからトリノ・グループは何らかの活動を開始するだろ う」と記していた。

MIAR

の解散について、ゼーヴィ等多くの歴史家は合理主義建築家の敗北と解釈する62が、解散さ せたリベラ本人は「もし意地になって争いを受けて立っていたら、その為に

(

イタリア建築は

-

筆者注

)15

年か

20

年も遅れをとっただろう」63と回想している。また、建築を進歩させる道具として無用となっ た組織の解散が、新たに建築を近代化させる方法を探す機会になったという評価64、運動体としての

MIAR

は解体したが、実質的には合理主義建築家達はその後も着実に運動を浸透させた65と肯定的な 解釈も見られる。後者の解釈に関して、ピアチェンティーニに対する反論記事を発表していたパガー ノが66、後にピアチェンティーニからの、

<

アルキテットゥーラ

>

67編集員としての協力の依頼に応え たように68、合理主義建築家達も同様の提供を受け入れていた。そして、それによって、合理主義者 達が、展覧会等の社会事業からジャーナリズム活動へと運動媒体を発展させた69ことからも、対立す る保守派と和解することで合理主義運動を浸透させていった彼等の活動の状況が窺われる。

4.5. 考察

 以上、二回に亘るイタリア合理主義建築展とそれに伴った

MIAR

の結成から解散までの経緯を論じ てきたが、その特性と意義は次のようにまとめられる。

 まず、

<

第一回展

>

は、イタリア合理主義の建築家達が国家規模で開催した最初の展覧会であると評 価され、またその開催によって「合理主義」という言葉が広く普及されることになる。また、

<

第二 回展

>

は、ファシスト党首の訪問を実現させ、合理主義者及びバルディは、国家の建築としての合理 主義建築を主張し、また伝統主義者、ピアチェンティーニ等アカデミシャンによる政体の建築の批判 を示した。しかし、展覧会で示された

<

醜悪の図

>

が原因で、ピアチェンティーニ等の合理主義者に対 する反感を招き、彼等と合理主義建築家達は激しく対立することになる。

 また次に、

<

第一回展

>

後に結成された

MIAR

は、 国家に承認された組織としてイタリア合理主義 建築運動を展開させただけでなく、

CIAM

のイタリア支部としての役割も果たすことで、近代運動の 一つとして国際的に位置づけられたことが確認された。結果的には、その組織は、

<

第二回展

>

に対す

(9)

4-IX

るピアチェンティーニ等の反撃や国家ファシスト建築家協会の圧力によって解散に追い込まれる。し かし、イタリア合理主義建築家達は、その組織の解体を契機に、運動の方向性をジャーナリズムへと 向け、討論という手段によってその勢力を拡大することに繋げることになる。

 ところで、論争が激化した

1931

7

月にも、テッラーニがバルディ宛の手紙で「

(

)...

君が蒔いた 種が実ろうとすることが判るだろう。今は絶望的な時ではない

...

(<

14>)

と記していた70ことから、

一部の合理主義建築家は当時の状況に悲観的でなかったことが推測される。実際、彼等への設計依頼 は増大し、更に

1932

年の

<

ファシスト革命記念展

>

やローマ大学都市建設の参加等によって活動範囲 が拡大されることになる。次章は、このような

MIAR

解散後の合理主義における、イタリア北部を中 心とした合理主義の活動について論じる。

<

参考文献>

1) Cennamo,Michele:Materiali per l’analisi dell’architettura moderna.La prima Esposizione di Architettura Razionale,Fausto Fiorentino Editore-Napoli,1973.

2) Cennamo,Michele:Materiali per l’analisi dell’architettura moderna.Il M.I.A.R.,Società Editorice Napoletana,1976.

3) Doordan,P.Dennis:Building Modern Italy-Italian Architecture,1988.

4) Mariani,Riccardo:Razionalismo e Architettura Moderna;Edizioni Comunità,1989.

5)鵜沢 隆、イタリア合理主義の研究、日本建築学会大会学術講演梗概集、pp.2801-2802、昭和589

6)鵜沢 隆、イタリア合理主義の研究 4、日本建築学会大会学術講演梗概集、pp.1019-1020、昭和6210

7)鵜沢 隆、モダニズムとファシズム-イタリア合理主義建築運動とリットリオ宮の軌跡、日伊文化研究、pp.48-59、

平成63

8)赤堀 忍、鹿野 正樹他、ジュゼッペ・テッラーニ、FH Represent,1998

9)鵜沢 隆他15名、ジュゼッペ・テッラーニ、INAX出版、1998

10)近代建築史資料、pp.52-68、SD7903,鹿島出版会、19793

11)イタリア合理主義建築、pp.21-72、SD8306、鹿島出版会、19836

12)鵜沢 隆他、イタリア・アヴァンギャルドの建築、建築文化、vol.50、No.587、19959

13)Zevi,B.:Storia dell’Architettura Moderna,Einaudi,1950.

14)Libera,A.:La mia esperienza di architetto,La Casa,no.6,pp.171-175,1959.6.

15)De Seta, C.:La cultura architettonica in Italia tra le due guerre,Bari,1972.

16)Patetta, L.:L’Architettura in Italia 1919-1943.Le polemiche,clup,1972.6.

17)Gregotti,V.:Milano e la cultura architettonica tra le due guerre,in Danesi,.S.and Patetta L.,Il razionalismo e l’architettura in Italia durante il fascismo,1976.

18)Ciucci,Giorgio:Gli architetti e il fascismo,Einaudi,1989.

19)Ciucci, G., Dal Co, F.:Architettura italiana del’900, Electa,1990.

20)Etlin,R.:Modernism in Italian Architecture,1890-1940,The MIT press,1991.

       

1リベラは結成当時のメンバーではなかったが、カスタニョリの脱退後、1928年のストックホルムの展覧会への旅行中、ポッリ ーニ等がリベラに参加を依頼したことを、リベラ自身が回想する。参考文献14)、p.172

2彼の代表的な記事としてL’Architettura e l’estetica degli edifici industriali, Architettura e arti decolative, pp.481-582,no.5,1926,7-8 挙げられる。

3この展覧会はローマ・グループ(Gruppo di Roma)が編成し、文部大臣E.ボドレロ(Emilio Bodrero)が開幕したとされるが、同時

(10)

4-X

       

期に開催された第1回ローマ研究集会(1928.4.22-25)と同様、ムッソリーニの承認を獲得した。参考文献14)、p.172、参考文献18)、

pp.93-98

4参考文献14)、p.172

5 19281月にリベラとミンヌッチが創案し、2月末には全ての資料が揃い、3 月上旬に準備が完了したとされる。

Belli,Carlo.:Origini e sviluppi del <Gruppo 7>,La Casa,no.6,p.188,1959.6

6開催の公式な手続きとして国務大臣の承認が必要だったが、この場合は国家ファシスト建築家協会総書記長カルツァ・ビー ニが仲立ちとなった。参考文献4)、pp.92-93。カルロ・ベッリによると、彼は建築家というよりは政治的手腕に優れていた人物 とされる。Belli,Carlo,Ibid.,p.188.また開催に対する官僚の反応は様々で、国家教育相フェデーレは比較的寛容な判断を表してい るが(1928年3月28日付の文書、イタリア古文書館所蔵、PCM CO 1931-33,F.14.1.128国家協調組合相G.ボッタイ(Giuseppe Bottai) はその開催を承認しながらも、「合理主義建築展は奨励されるだろうが、イタリア建築を代表することにはならない」

(…esposizione architettura razionale che può essere anche incoraggiata ma che non rappresenta architettura italiana)と協会の要請書に記し ている。参考文献4)、pp.92-93。

7 Libera,A.,Minnucci,G.:Introduzione all’Esposizione,De Alberti,1928、参考文献1)、pp.104-106。当時は<イル・ラドゥーノ>(Il Raduno, 1928.3.31)、<イル・メリディアーノ>(Il Meridiano,1928.4.9)等にも掲載された。

8原文では「L’abbiamo decisamente chiamata razionale, benché questa parola non corrispondenza perfettamente al concetto, che non si può definire solo razionale un’opera che come l’architettonica deve essere anche arte. Ma è la parola più esatta che distingua e definisca questo concetto, chiarificandone il contenuto di costruzione, tecnica, raziocinio che la differenza dagli altri tentative che sono soltanto originati da volute ricerche del nuovo all’infuori di ogni realtà」と記される。

9原文では「le nostre più vivi energie, sentiamo che questa è la nostra architettura perché nostro è il retaggio romano della potenza costruttiva. E profondamente razionale, utilitaria, industriale, è stata la caratteristica intima dell’architettura romana」と記される。

10リベラ等は「ローマ性」という表現によって「合理主義」をイタリアの伝統と関連づけようとしたという指摘がある。参考文

4)、p.93。また、ローマは、ファシズムが、大戦前までイタリアの中で遅れをとっており、この「ローマ性」という言葉は、

その後、急激な発展によって抑制できない程混乱した都市ローマの現状に対比させるための、ファシズムによるレトリックと いう指摘も見られる。参考文献18)、pp.78-80

11 Rassegna italiana, pp.232-236,1928.3

12リベラはこの論文の冒頭で「私は、合理主義の名の下にあり(見てきたように、どちらかというと不適切であるが)、この運 動の基礎となる異なる経験(建設主義、リズムの探求、印象主義等)を唯一の、包括的な概念において統合するものとみなす 現在の建築の精神的な運動を明らかにし、解明するその美学的原理を確立したい。」(Voglio stabilire quell Principio di Estetica che chiarifichi ed illumini l’odierno movimento spirituale di Architettura, che va sotto il nome (piuttosto impropriamente come vedremo poi) di Razionalismo, e, che tenendo conto delle diverse esperienze (Costruttivismo, ricerche di ritmo, Espressionismo,ecc.) che stanno alla base di questo movimento, le integri in un concetto unico e generico)と述べている。グルッポ7の建築宣言と第1回展の「展覧会序文」を通 したリベラの建築理念については参考文献5)、更に<芸術と合理主義>との比較とそれらに対する批評については参考文献6)で 詳細にわたって検討されている。

13この論文を発表したC.E.オッポ(Cipriano Efisio Oppo,不祥)は当時国家ファシスト芸術家協会書記長であった。またその他の掲 載記事として、La Gazzetta del Mezzo giorno,1928.4.9,Corriere d’Italia,1928.4.20,La Fiera Letteraria,1928.4.8, Giornale

d’Italia,1928.3.29,La Rivista illustrata del Popolo d’Italia,1928.4.4,Il Messaggero,1928.4.29等が挙げられる。

14参考文献3)、p.81

15 Neppi,A.:La Prima Esposizione Italiana dei razionalisti,Il Raduno,1928.4.7、 Principi e progetti degli architetti razionali,Il Lavoro d’Italia,1928.4.14.

16 Marinetti,F.T.:La Fiera Letteraria,1928.4.27。またV.マルキ(Virglio Marchi, 1895-1960)も<インペロ>(L’Impero)紙で記事を発表。

17Piacentini,M.:Prima internazionale architettura,Architettura e Arti decorative, pp.544-562,1928.8、Problemi reali più che razionalismo preconcetto,Ibid.,pp.103-113,1928.11,Il Giornale d’Italia,1929.5.22,10.9

18参考文献3)、pp.74-75、参考文献6)、p.1020、参考文献14)、pp.172-173、参考文献16)、p.16

19開会式(1926.2.14)にムッソリーニが「国家の芸術」(Arte di Stato)の演説を行い、この後「国家の芸術」に関する論争が起こっ た第1回<ノヴェチェント・イタリアーノ>展やグルッポ7が<宣言文>発表後に最初に参加した19275月の第3回モンツァ・

ビエンナーレ等が挙げられる。参考文献12)、p.41。ノヴェチェント・イタリアーノ展については第3章でも述べた。

20参考文献14)、p.172

21ラ・サラ(La Sarraz)で開催された。第2回は19291024-26日にフランクフルトで行われたが、その回のテーマは最小限 住宅であり、サルトリスとラーヴァが参加した。

22 MIAR結成に関する、D.ドーダンとM.チェンナーモのインタヴューに対するサルトリスの各々への回答は、内容に相違点が

ある。ドーダンとのインタヴューでは(Cassonay-Ville、1979.12.18)、サルトリスは第2CIAM後、ラーヴァと共にM.A.Rとい うイタリア建築運動の国家的な組織の設立を試みるが失敗したとされるが、チェンナーモに対しては、第1回合理主義建築展 後の1928年暮れに、ラーヴァ、グルッポ7と共に<グルッポ・ディ・ミラノ>(Gruppo di Milano>)の拡大の機会となるMAR 設立したと手紙(1974.10.28)で回答している。参考文献2)、p.77、参考文献3)、p.75

(11)

4-XI

       

23合理主義建築者内のMARに対する消極的な態度について、Doordan,Dennis.: Architecture and Politics in Fascist Italy:Il Movimento Italiano per l’Architettura Razionale 1928-1932,Dr.dissertation,Columbia University,1983参照。

24 P.ボットーニも参加した「電気の家」(Casa Elettrica)が特集された。

25リベラの政治的手腕でMIAR結成が達成されたが、当初、協会は合理主義建築家に好意を示さなかったとされる。

26総書記長リベラ、支部長ミンヌッチ、パガーノ、ポッリーニが署名した。

27参考文献2)、pp.84-85,Belli,C.:Origini e sviluppi del Gruppo 7-dalla costutione del M.I.A.R.alla Seconda Esposizione di Architettura Razionale,Roma 1931,La Casa,n.6,1959,Pagina di vita sindacale, Architettura e arti decorative,1-2,1930。MIARがこの時期結成され、展 覧会が創案されたことは、819日付のパガーノからペルシコへの手紙からも明らかである。第7章参照。

28サルトリスはGNARIの地位を拒否したとされる。参考文献3)、p.74

29 1930819日付のパガーノからペルシコへの手紙に記述される。註27、第7章参照。

30 Il Popolo d’Italia.1931.2.13,Il Messaggero.1931.2.14等。リベラ、ミンヌッチ、パガーノ、ポッリーニが署名した。

31 La mostra d’architettura razionale.L’Ambrosiano,Il Messaggero,Il Regime Fascista

32バルディは29年末、この絵画館の運営のためにローマに呼ばれ、翌年からその活動を開始する。このギャラリーは、国家フ ァシスト芸術家協会の管理の下、ムッソリーニが資金援助をした機関であった。参考文献4)、p.43、参考文献3)、Notes。バル ディの活動に関しては改めて第6章で論じる。

33 306月には、ベニート・ムッソリーニの弟アルナルド・ムッソリーニ(Arnardo Mussolini)が中心となって設立した出版社 Same(Società anonima milanese editrice)から発行されるようになる。参考文献4)、p.83

34 L’Ambrosiano,1930.11.14

35 L’Ambrosiano,1931.1.31。この論文については第3章で検討した。

36参考文献18)、p.108。また、ペルシコは1934年にこのバルディの論文のタイトル<建築、国家の芸術>(architettura, arte di Stato) に関して、「私達の建築家達は・・・国家の介入を要請する」(I nostri architetti …invocano dello Stato)と述べている。Persico,Edoardo:

Punto e da capo per l’architettura,Domus,1934.11.

37 L’Ambrosiano,1931.2.14。

38この論文の内容とその背景については、第3章で述べた。

39参考文献14)

40<ランブロジアノ>紙編集長宛のピアチェンティーニの手紙(3155月付)では、<第二回展>開催前、リベラがピアチェン

ティーニのスタジオを訪れ、彼に<第二回展>に参加するよう依頼したとされる。

41公式声明第3号によれば315日、La casa Bella3月号、324付の新聞においても327日開催と予告された。

42ミラノの巡回展に際し、31年までバルディが経営する画廊<ミリオーネ>の活動に携わっていたペルシコは講演を行う。

43参考文献3)、pp.80-81

44 Punto e da capo per l’architettura, Domus,No.83,1934.11

45原文では「E’ in vista di codesto impegno assunto dagli Italiani, più volitivi, che I giovani si rivolgono a Mussolini, perchè regoli le sorti dell’architettura, oggi mare in arnese. Nella loro petizione I giovani chiedono a Mussolini una risposta」と記され、最後に「なぜなら、

ムッソリーニは常に正しいからだ」(Perchè Mussolini ha sempre ragione)というフレーズで締めくくられる。バルディはこのフレ ーズを、ロンガネージ(Leo Longanesi)の1926年の著書から引用し、既に展覧会開催直前の記事「建築のための、ムッソリーニ への嘆願書」(Petizione a Mussolini per l’architettura),(Ambrosiano,1931.2.14)でも使用する。参考文献4)、p.87

46 <Tavolo degli orrori>alla Mostra d’Architettura <Razionale>,1931.4.17

47参考文献11)、p.47

48参考文献20)

49参考文献4)

50ムッソリーニの訪問の様子に関して、展覧会参加者モンタルチーニやパガーノの記述を参照。参考文献3)、p.78、

Pagano,G.:Mussolini e l’architettura, Rassegna mensile illustrata,1931.4。またパガーノは、43日夜、専門家及び芸術家連合 (Confederazione Professionisti e Artisti)の会議において、近代建築を擁護する講演を行った。Gazzetta del Popolo,1931.4.4.

51 Foschini,Arnaldo:Necessità di concordia,5.8.、Fasolo,Vincenzo:L’errore dei razionalisti,5.13、Del Debbio.E.:Internazionalismo

funesto,5.13等。また開催直前にピアチェンティーニは<醜悪の図>から彼の作品を除くように要請したが、バルディとボットー

ニはリベラに拒否するように説得したとされる。参考文献2)、pp.442-445、参考文献3)、p.91,Minnucci,G.:MIAR Memorandum,1931.5。

52 Gruppo Romano Architetti Razionalisti:Difesa del razionalismo,Il Giornale d’Italia,1931.5.8,Cereghini,Mario, Dell’Acqua,Alfio, Lingeri,Pietro, Terragni Giuseppe:La risposta degli architetti di Como a S.E.Piacentini,Il Lavoro Fascista,1931.5.14,Gruppo Milanese del MIAR,La risposta dei razionalisti,Il Giornale d’Italia,1931.5.17,Folin,A.,Pelizzari,G.,Renosto,R.,Scattolin,A.,Scarpa,C.,Adesioni al Movimento Razionalista,Il Lavoro Fascista,1931.5.19,Morozzo della Rocca,R.,Valore di una parola,Giornale di Genova,1931.5.22等。

53ミンヌッチ等ローマ支部が協会への謝罪を提案するのに対し、ポッリーニはミラノ支部を代表して拒否したとされる。参考文 3)、p.92、参考文献2)、pp.438-440、Minnucci,G.:MIAR Memorandum 1931.4.29、Pollini,G.:Ibid,1931.5.2.

54ローマ支部、37名のMIARメンバーは手紙の草稿を芸術批評家M.サルファッティ(Margherita Sarfatti)にムッソリーニに届け ることを依頼し、党首の承認を要請したとされる。Gruppo Romano Razionalisti:Lettera a Benito Mussolini,1931.5.20,MIAR: Lettera a

(12)

4-XII

       

Benito Mussolini,1931.7.27,参考文献2)、pp.447-450、参考文献3)、pp.92-93

55参考文献13)、pp.646-647。このRAMIには、L.チャロッキ(Luigi Ciarrocchi)、M.デ・レンツィ(Mario De Renzi)、L.モレッティ (Luigi Moretti)、G.ニコロージ(Giuseppe Nicolosi)、M.パニコーニ(Mario Paniconi)、G.ペディコーニ(Giulio Pediconi)、C.ペトゥル ッツィ(Concezio Petruzzi)、O.セーノ(Oscar Seno)、L.トゥファローニ(Luciano Tufaroni)、C.ヴェトリアーニ(Costantino Vetriani)が 署名するが、M.ピアチェンティーニの名はない。

56 Notizie Sindacali,Bolettino del Sindacato Regionale Fascista Architetti,pp.100-101,1931.7-8。また協会書記長カルツァ・ビーニは、

その会議の演説で第2回展を仄めかし、「若気の不節制」と呼んでいた。参考文献3)、p.93

57 P.アスキエーリ(Pietro Aschieri,1889-1952)がその席を占めた。Inquadramento del MIAR.nel Sindacato Regionale Fascista degli Architetti,Ibid. pp.101-102.

58この雑誌の前身は<アルキテットゥーラ・エ・アルティ・デコラティヴ>(Architettura e Arti decorative)であり、カルツァ・ビー ニが監修していたが、1932年初頭からピアチェンティーニが監修となった。グリッフィーニ(Enrico Griffini)、リベラ、ミンヌ ッチ、ミオッツォ(Gino Miozzo)、モロッツォ(Robaldo Morozzo)、パガーノ、ルイジ・ピッチナートが編集委員となった。参考 文献2)、pp.460-461

59参考文献14)、p.173

60 1931727日付の手紙、パガーノの署名付。

61 193198日付の手紙、パガーノの署名付。

62 Zevi,B.:Gruppo7:The Rise and Fall of Italian Rationalism,Architectural Design, no.51,p.43,1981.1-2.

63参考文献14)、p.173

64参考文献3)、p.94

65参考文献11)、p.49

66ピアチェンティーニの<合理主義建築が道理的でない所>(Dove è irragionevole l’architettura razionale,Dedalo,1931)に対し、パガ ーノは、<近代建築の記念碑性>(Del Monumentale nell’architettura moderna,La Casa Bella,1931.4)と<新しい建築における素材>(I Materiali nella nuova architettura,La Casa Bella,1931.6)で反論していた。

67国家ファシスト建築家協会機関誌<アルキテットゥーラ・エ・アルティ・デコラティヴ>(Archietttura e Arti Decotative)は1932 年から<アルキテットゥーラ>(Architettura)に変更される。

68手紙(コピー)には日付がないが、ピアチェンティーニが<アルキテットゥーラ>誌の編集員としての協力を依頼した手紙は11 24日付と書かれているため、311125日から31年末のものと考えられる。参考文献4)、p.174。この手紙に関しては第 5章で改めて検討する。

69後にパガーノ、ペルシコが<カーザベッラ>(Casabella)を、バルディはボンテンペッリ(Massimo Bontempelli,1878-1960)と<クァ ドランテ>(Quadrante)の監修に関わるようになる。拙稿:1920年代から1930年代までのイタリアの建築運動について、1999 度日本建築学会関東支部研究報告集、pp.633-636、20003月参照

70193175日。またこの手紙では、32年に行われるコモ市場設計競技にテッラーニが希望をもっていたことが読解される。

参照

関連したドキュメント

さらに, 会計監査人が独立の立場を保持し, かつ, 適正な監査を実施してい るかを監視及び検証するとともに,

【外部有識者】 宇田 左近 調達委員会委員長 仲田 裕一 調達委員会委員 後藤 治 調達委員会委員.

原子力規制委員会(以下「当委員会」という。)は、平成24年10月16日に東京電力株式会社

二月八日に運営委員会と人権小委員会の会合にかけられたが︑両者の間に基本的な見解の対立がある

①正式の執行権限を消費者に付与することの適切性

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② 

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