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唯識説における法と瑜伽行

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唯識学派は、認識対象が識の作用とは別に実在すると 考えることを否定する。なぜ、そう考えることを否定す るのか。その否定の意図は何か。一見素朴なこの疑問は、 その外見程には、容易に解消されない。その解決は、唯 識を修習する菩薩の琉伽行の思想を、いかに体系的に把 握するか、或は、諭伽行における修習対象としての﹁法﹂ を、いかに理解するか、ということに深く係わっている からである。それを解くために、既に多くの試みがなさ れてきたが、未だ明確な解答は確立していないのではな かろうか。そこで今、改めて、この問題を検討してみた い。 その検討を始めるに際して、私たちはまず、そこでそ

唯識説における法と琉伽行

はじめに

の実在が否定されている認識対象とは∼唯識説において、 どのように考えられているか、を理解しておく必要があ る。認識対象は、それを認識する認識機能に応じて多様 であるが、ここでは器世間、すなわち、有情がその中に 生存する場としての世界を、認識対象の一例としてとり 上げる。けだし、それは唯識諭書において屡々議論の対 象となるが故に$私たちの考察にとって、好個の対象と なるとみられるからである。 テキストには、西蔵大蔵経中に存する、世親の二十論 及び安慧の二十論に対する調伏天︵ぐ目国鳥ぐ餌︶の註釈を 中心にし、大乗荘厳経論第十一章述求品及び第六章真実 品に対する安慧の註釈をも併せ用いる。 ﹁唯識﹂ということを理解するために私が試みた方法 は、二十論と三十論の調伏天の註釈に示唆されている説

谷信千代

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一切有部と経量部における﹁外界実在論と業論の関係﹂ にスポットを当て、そうすることによって、唯識説にお ける﹁外界非実在論とアーラヤ識説との関係﹂を明らか にすることにある。それと平行して、大乗荘厳経論の安 慧の注釈に従って、琉伽の行道における唯識説の意義を も考察することにつとめた。 一応の結論を先に述兼へると、次のようになる。即ち、 世親が識の作用以外に﹁もの﹂︵胃昏四︶を否定したこと の意図は、二十論に対する調伏天の註釈によると、識の 作用を離れた所取能取の相をもったものを否定すること ① にある、と解されている。したがって、識の作用を離れ たいかなる所取もなく、また、その所取︵厳密にいえば、 所取として顕現している識の作用︶を把える能取なるものも 存在しない。っまり、識の作用を離れて、われわれに客 観的存在として考えられている﹁もの﹂︵胃昏騨︶は存在せ ず、したがって、その客観的存在を把える主観的存在と しての﹁もの﹂︵胃昏幽︶も存在しない。これが、外界の 実在を否定して﹁唯識﹂ということを説く意図である、 ということになる。しかし、唯識説の意図は、それのみ では尽くされない。唯識学派が一名爺伽行派と階呼ばれ る以上、﹁唯識﹂ということは、球伽行との関係からも 吟味されなければならない。そこにおいて、﹁唯識﹂と いうことは、観行者の対象である教法との関係において、 説かれる。故に、教法を所取能取として把えないことが、 ﹁唯識﹂を説くことの意図であると考えられる。 そこでまず、調伏天によって﹁唯識﹂が右のように理 解されている筋道を考察することから始めよう。調伏天 の註釈によると、世親は、本来存在していないもの︵胃︲ 昏四︶が、あたかも識の作用を離れて存在するかの如くに 立ち現われる所以を説明するのに、経量部が有部から批 判的に継承した業の因果論をさらに批判的に援用してい ② るように私には考えられる。

|有部の外界実在論に対す

る唯識学派の批判 二十論第二偶には、境なしに識の作用があるという唯 識説に対して、四種の反論がなされる。それらの反論に 対して、世親は第三偶から第四偶に至るまでにおいて一 点答釈し、唯識を証成する。就中、第四偶後半において、 世親は、地獄の譽嚥によって唯識を総括的に説明してい る。ところが、有部によると地獄は自然的な実在の世界 の如くに考えられている。他方、世親によると、獄卒等 46

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は、実在しないけれども、罪人たちそれぞれが前世で行 った業の異熟果として成熟したものである、と考えられ ③ ている。しかし、世親自身のこの説明からは、獄卒等の 存在が異熟果とどのような関係にあるか、ということが 十分に示されていない。その関係を調伏天は、 かれら︹地獄の罪人︺が過去に作った苦を受くべき 業から、その異熟︹果︺が現前する時に、獄卒と犬 と烏と鉄山と瓶と大釜等としての﹁識性︵g四日︲忌瑞 紗、︲冒劃e﹂が生じ、そして獄卒等に変化して欺く が故に、かれら地獄の罪人たちは、苦受を感ずるの である。 ④ と註釈している。この註釈から、業の異熟果が現前する 時に、﹁識性﹂が獄卒等のものとして生ずることが、理 ⑤ 解される。﹁識性﹂という語は山口益博士の訳語であり、 原語としてぐ言目鼻ぐゅが想定されている。山口博士は、 その訳註に国百目鼻ぐゅを説明して、﹁その識性とは、 識の阿毘達磨的名義釈の示す胃P武く儲昌塑ぐ昔恩威︵境と して顕現する作用︶、即ち記識性といふ識作用の対象とし ての顕現的性格を、意味するのである。﹂と言われてい る。もっとも、その識の阿毘達磨的名義釈は、砲国目騨目 校訂のシヴ言QgH目鼻○段留鳥.目①鴬では、ぐ言劃国目 ⑥ 冒鼻耳管四宮唇となっているが、意味するところは変わ らないであろう。そこでいま、Hロ四目も胃の①の︲冨昌呉識 性︶をく昔目鼻ぐゅと理解し、シご宮烏閏目鼻○3の定義 に従って、それをご言目色が対象を表象せしめる識の作 用である、と考えるなら、調伏天は、﹁業の異熟果が現 前する時に、対象として顕現する識の作用が生ずる、つ まり、異熟果が現前する時に、獄卒や地獄の釜等の器世 間も識の顕現として生ずる。﹂というように、世親の意 図を補足的に註釈したのであると考えられる。 調伏天が、このように、異熟果の現前することと器世 間の生起とを関係づけて考えた背景に窺われるのは、世 親の三十頌において、﹁現在の生が減した時に、いかに して未来の生が連続するか、を説明する﹂第十九偶と、 ﹁現在の生において、いかにしてアーラヤ識から諸転識 が生ずるか、を説明する﹂第十八偶という一連の偶によ って示される、いわゆるアーラャ識縁起説が考慮されて ⑦ いることである。すなわち、そこには、それら二偶を統 一的に説明づけている﹁異熟果にして、かつ器世間の生 起の因でもある﹂アーラヤ識が考慮されている、と言わ ねばならない。ことに﹁過去の異熟が尽きた時に、業の 習気が二取の習気とともに、さらに別の異熟であるアー 47

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ラヤ識を生ずる。﹂という第十九偶に対して、調伏天は、 ﹁異熟果が引発される場合、業の習気は、それを引発す るものではあるが、所取能取の習気を離れて、単独で異 ⑧ 熟果を引発することはできない﹂と註釈する。それ故、 主観的客観的存在を生起する能所二取の習気は、異熟果 が現前する場合には、必ず備わっていることになる。 このように調伏天に従って、偶の意味を補足しつつ読 めば、世親においては、異熟果が現前する時には、全て の存在が、つまり有情世間も器世間も全てが、必ず備わ っていると考えられ、それ故、前の異熟果と後の異熟果 とを結ぶ全ての種子を備えたアーラャ識から、それら両 世間は生ずると考えられるに至ったと想定される。以上 のように、調伏天の註釈に従って二十論における獄卒等 なる器世間と業との関係を考える時、私たちは、その関 係が有部における器世間と業との関係に、非常に類似し ていることを感ずる。しかし、またその反面、何か異質 なるものをも感ずる。何が類似し、何処が異なっている のか。そして、その類似性と相違性は何を意味している のか。暫く、それを考察してみよう。 ⑨ 有部においても、世間は業の果と考えられている。有 ⑩ 情世間は業の異熟果であり、器世間は業を能作因とする ⑪ 増上果である、とされている。称友︵園曾日胃曾︶は、器 世間が異熟果とは認められない理由を、次のように言う。 器世間は、善不善の業より生じた無記のものではあ るが、異熟果とは認められない。なぜなら、異熟は ⑫ 有情︹世間︺に関してのみ言われるものであるから。 したがって、器世間は業より生じたものではあるけれど も、器世間の存在にとって$業は、ただ能作因の役割を 担うのみである。能作因は、と旨己9吋目鳥○獣では、そ れの果であるものを除く全ての存在を指し、その果が生 ずることを妨げないという点でのみ、その果の生起に関 ⑬ わっていると認められる原因の一つと規定されている。 ここで注意すべきことは、器世間の生起の因に、有部が、 能作因という原因しか割り当てなかった、ということで ある。ところで、唯識学派においては→三十頌第十偶に ついての安慧の論に対する調伏天の註釈において既に見 た如く、業の習気即ち異熟因は異熟果を引発するもので はあるけれども、異熟果が生起する場合には、所取能取 の二法を生起せしめる原因である、それら二取の習気が 必ず備わっていなければならない、と考えられている。 器世間は、この二取の習気を原因として生起する。そし て、その二取の習気が、異熟の因と果の相続、即ちアー 48

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ラヤ識の相続と不可分の関係にあることを説明すること が、三十頌第十八、十九個のまさしくめざす所であった。 さらに、所取能取の二取を破壊することは、二十論壁頭 に調伏天も註記する如く、まさに唯識説の目標とする所 ⑭ ︵冒畠o茜冒秒︶でもある。さらにまた、別の所で、一滴の膿 もなくても餓鬼には膿で充ちた河があると見えるのは、 ⑮ ﹁業の異熟によって彼らはそれを見るのである。﹂と言わ れていることなどからしても、有部において器世間が生 起する場合の因と考えられていた能作因は、殆んどその 因としての存在を認められていない。このように唯識学 派においては、器世間の生起の因に対して、有部の説く 能作因に代えて、二取の習気という、この学派において は最も重要な既念を割り当てている。それは、何故であ ろうか。それは、有部の法理論を批判することによって 新たに展開された唯識派独自の法理論による、と考えら れるが、この疑問は、いまは暫く保留しよう。 ところで、業、或は二取の習気から生起した器世間と は、どういうものであろうか。それに関して世親は、二 十論第六、七偶に経量部の外界実在論を批判しつつ説明 している。まず、それを考察することにしよう。

二経量部の外界実在論に

対する唯識学派の批判 経量部は、地獄の罪人の業よりまず物質的要素である 大種が生じ、その大種が転変して或る特定の状態になっ た大種が、獄卒等として生起し、それを見て罪人に恐怖 が生ずる、と考える。つまり、獄卒等の器世間は、業か ら生じた或る特定の大種と考えられている。 それに対して、世親は、大種の転変を認めるぐらいな ら∼なぜ識がそのように転変すると考えないのか、と反 論する。世親が大種の転変を認めない理由は、調伏天に よれば、次のようである。 獄卒等の器世間によって、地獄の罪人が恐怖を抱く のは、ただその獄卒等の器世間、即ち特定の大種が 存在していることのみによるのではなく、それを認 識することa目鴨︲窟︽§巴Pggによって生ずるの である。つまり、獄卒等のものに関して、彼に識が 生ずることによって、即ち、業によって識が転変す ることによって、恐怖が生ずるのであるから、そう いう特定の大種の存在は、恐怖が生ずることに関し て、何ら必然性をもたない。或はまた、業からその 19

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果として大種が転変する、と考える場合、業の習気 は識の相続中に存在し、その果である大種は識の相 続の外にある、と考えることは正しくない。業の習 気を内包する識の相続の上にこそ、その果である獄 卒等の器世間は存在すべきであって、識の相続の外 にある大種の上に器世間がある、と考えることは、 ⑯ 業の因果論に矛盾する。︵取意︶ 以上のような唯識派からの反論に対して、経量部は次の ように答釈する。 習気とその果が別々の所に存在することは不合理で はない。なぜなら、経典にも、﹁色等の十処あり﹂ と、根と境の存在することが説かれているからであ ・る。それ故、眼識等の因である色等は、識とは別に 存在する。それと同様に、地獄の罪人の眼等の識の 因である特殊な大種、すなわち獄卒等の器世間は存 在する。それでは、なぜ、その大種なる器世間が業 の習気を内包した識の相続とは別の処にあるのか、 と云えば、この特殊な大種は、業の増上果であって、 異熟果でも等流果でもないからである。もし、異熟 果や等流果であれば、因なる業の習気とその生ずる 境を等しくしなければならないが、増上果であれば、 種子とその果の生ずる境とが等しいものでなくても、 ⑰ 差し支えがない。︵取意︶ 調伏天によれば、経量部は識の転変説を認めている。 然し、器世間の生起に関しては、大種の転変をその因と 考える。そして、その大種は、業の増上果である、とさ れているから、経量部においても、有部においてと同じ く、器世間に対して、業は能作因という原因としてしか 認められていない。他方、唯識学派においては、業と果 の関係としての異熟因異熟果、同類因等流果、能作因増 上果の関係の中、能作因増上果の関係は姿を消している ように思われる。例えば、今の場合では、根と境との 二処の存在に関する経量部の実有説を斥けて、調伏天は ﹁色として顕現する眼のぐ昔眉陣が、異熟習気という成 ⑱ 熟した自らの種子から生ずる、云々﹂と註釈している。 あるいはまた、三十頌に対する安慧の論の中に、アーラ ャ識にこそ異熟習気と等流習気を置くことができる、と ⑲ 言われている如くである。 このように、器世間の生起の因として、有部や経量部 が振り当てていた原因、すなわち能作因は、唯識学派に おいては、顧みられなくなったようである。そして、そ れにかわって、唯識学派では先に述べたように、所取能 50

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取の二取の習気が登場することになる。それを登場せし めたものは何か。⋮:・それは→有部や経量部では、と うてい容認せられなかったであろうような仕方での法 ︵号肖日煙︶の洞察であった。唯識学派では法をどのよう に考えたか。以下にそのことを考察してみよう。

三唯識学派における法の

洞察と二取の習気 唯識学派は、世尊が﹁色等の処はある﹂と説かれたの は、それによって教化される人々に対して、特殊な意図 をもって説かれたものであり、それは未了義であって了 ⑳ 義の教えではない、と考える。つまり、唯識学派は、そ の場合の了義の教えとは、色等の内外十二処が有ると説 かれることによって示唆されること、即ち、それら内外 の十二処を離れて自我は存在しないということ︵人無我︶ を示すものである、と解釈したのである。教法をこのよ うに解釈したことは、それのみに留まらず、さらに法そ のものをも、その解釈の対象にした。それまでは、教法 として説かれた事物︵五穂十二処十八界等の法︶は、それと 文字通り対応する実体を、その意味内容とするもの、即 ち﹁法﹂として、厳格に伝持されてきた。そのような実 体化され枠づけられた法に対して、唯識学派は﹁法無我﹂ という考え方をもって批判を加えた。 ここで暫く、﹁法無我﹂という場合の法について吟味 しておきたい。周知の如く、初期佛教の法の意味は、ガ イガー夫妻によって、法則︵§ぬoの間の目︶・教法︵日の馬胃①︶ ,真理︵巳。弓農昌①s・経験的事物︵巳の①日凰且“号①目品の︶ の四種に大別されている。金倉円照博士は、この分類に 従って研究され、教法と経験的事物としての意味が、佛 教に固有のものであることを明らかにされた。そして博 士は、教法としての法と経験的事物としての法の関係を、 ﹁物、要素、実体等︵の経験的事物︶としての法の考えも、 要するに哲学的教義の発展であり、その点から言えば、 広義の教え︵教法︶に包摂せられる。と同時に、広義の教 えはまた、部分的なり全体的なりに、これら︵経験的事物 としての︶法の見方によって支持せられているわけであ ⑳ る・﹂︵カッコは筆者の補足︶と説明されている。このよう に、﹁教法﹂と﹁経験的事物﹂としての法は、相互に包 摂し支持するという関係にあるという点で、﹁法﹂とい ■●●●■の■■●。●● う一つの語で呼ばれていることを注意しておきたい。そ していま、われわれが問題としている、唯識説における ﹁法無我﹂の法の意味も、博士が佛教固有のものとされ F 1 D l

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た、それら二つの意味に関係すると考えられる。以下に 唯識説において、それら二つの意味の法が、どのように ⑳ 説か・れているかを見てみよう。 まず、﹁教法﹂について検討しよう。大乗荘厳経論第 六章真実品第六個以下の五偶は、資糧道から究寛道に至 る五種の琉伽地を説く。その中、資糧道を説く第六偶に は、菩薩がどのようにして爺伽行に悟入してゆくか、が 示されているが、そこに﹁教法﹂と爺伽行の関係が伺え る。偶は次のように言う。 菩薩は、智慧と福徳の資紐を辺際に至るまで聚めお わって、諸法を考察することに関して、心がよく定 まった者となっているから、境という在り方は、心 の分別︵意言・目四コ。芭冨︶に依るものである、と理解 する。 ここには、菩薩が初めて唯識を理解する場合に、それを どのように理解するか、が説かれている。すなわち、菩薩 は諸法を考察することに関して、心がよく定まった者と なっていることによって︵号胃目①“屋・旨副呂負昌鮮岸少芽弾︶、 唯識ということを理解するのである。安慧は、﹁諸法を 考察することに関して、心がよく定まった者となるこ と﹂を次のように註釈している。 福徳と智慧の資糧を聚めるにしたがって、彼は、無 常・苦・空・無我を修習する三昧によって、十二分 教なる諸法を、無常・苦・空・無我と考察し決択す るが故に、無常・苦・空・無我の境に関して、疑い ためらうことがなくなることがすなわち、﹁諸法を 考察することに関して、心がよく定まった者となる ⑳ こと﹂である。 したがって、菩薩が爺伽行において唯識を理解すること の第一段階は、諸法を考察することに関して、心をよく 定めることであり、そしてそれは、無常・苦・空・無我 を修習する三昧によって、十二分教なる諸法を無常・ 苦・空・無我である、と考察し決択することによる。同 様に、第十一章述求品に安慧は、 所説の法なる十二分教も、世尊によって名・句・文 という仕方で説かれているが、その説かれている通 ⑳ りには存在しないから、幻の如くである。 とも述語へている。 一方、﹁経験的事物﹂としての法に関しては、同じく 大乗荘厳経論述求品に安慧は、 菩薩は、見道において、法無我に通達する。五蒋そ のものもまた、夢中の色と同様、存在しない、と通 貝 0 J 空

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⑳ 達するからである。 と言う。あるいはまた、同じく述求品の次のような偶頌 は、﹁経験的事物﹂における法無我が、﹁教法﹂におけ る法無我と、分かちがたく関係していることを示すもの として、注意す尋へきであろう。 最も賢明なる諸佛たちによって、諸行は幻、夢、陽 炎、鏡中の影像の如く、影、反響の如く、水中の月 影の如く、また変化︵巳儲日:四︶に等しいものとして→ ⑳ 知るべきである、と随所に説かれている。・・⋮. この偶を、世親は次のように註釈している。 世尊によって、諸法は幻の如し、乃至、変化の如し、 と説かれているが、その場合、幻の如き諸法とは六 内処のことである。我とか命者等が存在しないのに、 そういうものであるかの如くに顕現するからである。 夢の如き︹諸法︺とは、六外処のことである。:.⋮ ⑳ 反響の如き︹諸法︺とは、所説の法である。。:.: ここでは、十二処等の﹁経験的事物﹂としての法におけ る無我を説くと共に、所説の法︵号蟹呂目閏昌四︶即ち﹁教 法﹂としての法の無我をも説いている。所説の法が反響 の如きものである所以を、安慧は、 所説の法は全て反響の如きものである。なぜなら、 反響も、︹その︺音を自性とするものとしては存在 や列 しないが、耳の対境となって、耳にきこえることヵ ある。それと同様に$如来は、ある限りの一切の法 を説き給うたが、︹それらは説かれた︺通りには存 在しないけれども、耳の対境となって、耳にきくこ ⑳ とができるから、反響の如きものである。 と説明している。したがって世尊は、五瀧十二処等の一 切法を、夢幻の如きものと説かれただけではなく、その ように説かれた教法そのものもまた、夢幻の如きものと 理解されなければならないことを、諭しておられる、と いうのがこの偶の意味である。そしてそこに、われわれ は唯識学派における﹁法﹂の概念の一端を窺うことがで 美こう︵︾○ 唯識学派における﹁法﹂の概念に、深く立ち入るには、 現在の筆者はあまりにも準備不足であるが、ただ、それ を理解する契機として、述求品の第五偶乃至七偶の所論、 及びその安慧釈を、ここに例示することができるように 思える。そして、それを契機としていささか考察を加え てみたい。その第五乃至第七偶に説かれていることは、 菩薩行を修習する行者にとって、﹁どのような所縁が現 前するか﹂ということが、﹁行者が所縁をいかに考察す 貝 q l J J

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るか、或は簡択するか﹂ということにかかっている、と ⑳ いうことである。少し説明を加えよう。行者に現前する 所縁とは、法という所縁、内の所縁、外の所縁、内外両 者の真如という所縁の四種である。内の所縁とは、五瀧、 或は眼乃至意の内の六処を意味する。外の所縁は、色乃 至法の外の六処を意味する。外の所縁は、球伽行の忍 ︵原目は︶の位において、内の所縁は、世第一法︵盲目房騨︲ 騨唱四目間目鯉︶の位において、内外両者の真如という所縁 は、初地において、それぞれ獲得せられる、つまり、行 者の上に現前する。これらの所縁、及びそれらがどのよ うにして爺伽行において獲得せられるか、ということに 関する詳論はさておき、ここで特に注意す、へきことは、 ﹁それら内の所縁等の三の所縁がそのように現前するこ とは、法という所縁を行者がいかに獲得するか、という ことにかかっている﹂と説かれていることである。その 法を、安慧は、 この場合、法という語は十二分教を指す。というの は、それらは全て︹聞思修の︺三慧の所縁とされる 所の対境と認められる、ということである。あるい は、法というのは大乗の諸経を指す。つまり、そ れは、利根の菩薩によっては所縁とされる、と考え られるが、全ての人の所縁とされるような対境とは ︹考えられ︺ない。あるいは、法というのは雑染と ⑳ 清浄の法を指す。:⋮. と註釈している。したがって、菩薩が琉伽行において修 習する対象としての法が、十二分教や大乗経典という ﹁教法﹂であり、或は、雑染と清浄の法という﹁経験的 事物﹂であることが知られる。そして、﹁教法﹂或は﹁経 験的事物﹂としての法を、菩薩がその聡伽行において、 いかに体得してゆくか、という﹁法﹂の体得のしゞヘルに 応じて、内外の所縁が、その菩薩に対境となって現前す る。このように、行者に現われる対境は$燕伽行におけ る﹁法﹂の体得に不可分に関係している。 ところで﹁法無我﹂は、この﹁法﹂の体得と関係があ ると考えられる。﹁法﹂を体得する行を修習する爺伽行 者を、覚賢︵罰aご言且国︶は、 かれら︵琉伽行者︶は、﹁勝者子よ、三界は唯心な り、三世は唯心なり﹂と説く聖教の目的が法︵g留砂. 目○のも。︶に相応するように、如理作意辱○昌響日色目め]︲ 圃国︶を以て行ずるが故に、球伽行者、即ち如理作 ⑪ 意爺伽行者と言われるのである。 と定義している。この場合の﹁法﹂とは、五湖十二処等 54

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⑫ の事物を指す、と考えられる。聖教は、言うまでもなく、 佛所証の法なる法性法界を因とする等流の法であるが、 五悪十二処等の事物も、その聖教を離れてはないもので あるから、同じく等流の法と言えるであろう。職伽行と は、それら等流の法にとって、﹁三界は唯心なり﹂と説く 聖教の目的が、相応するように、正しく思惟することで ある。聖教の目的︵旨早唱§ロ︶とは、佛所証の法であり、 法性法界である。したがって、それら諸法を教法として この世間に等流せしめるに至った原因である、佛所証の 法、法性法界を正しく思惟することが、爺伽行である。 安慧は、別の所で、等流の法を﹁諸佛が人法二無我を ⑬ 証得して説かれた法である十二分教﹂と註釈している。 したがって、目下の所論にあわせて、﹁人無我﹂はさて おき、﹁法無我﹂のみをとり上げれば、十二分教等の聖 教における諸法を礒伽行者が修習の対象とする場合、行 者が、それら諸法の上に、佛の証得内容としての﹁法無 我﹂を、正しく思惟すること、それが爺伽行である、と いうことになる。それ故、爺伽行者が諸法を正しく思惟 する仕方も、﹁法無我﹂を内容とするものでなければな らない。つまり、法の正しい思惟の仕方とは、法におい て、佛所証の法即ち法性法界を思惟することである。 以上のようにみてくると、唯識学派の﹁法無我﹂の理 論においては、法の﹁経験的事物﹂としての意味は、 ﹁教法﹂としての意味へと、大きく引き寄せて考えられ ているように思える。唯識学派がこのように﹁法﹂とい う語を、﹁経験的事物﹂としてよりも、﹁教法﹂として の意味に、引き寄せて用いるようになった背景には、有 部の法理論に対するこの学派の批判を想定することがで きよう。周知の如く、有部においては、例えば、瓶のよ うに破壊されてしまうことにより、或は、水のように思 惟によってそれを構成している色等の法が除去されるこ とによって、もとの﹁瓶﹂や﹁水﹂という観念が生じな くなるようなものは、世俗有とされ、そうでないもの、 ⑭ 例えば、色等のものは、勝義有とされる。他方、唯識学 派は、有部においては勝義有とされる法をも、仮有にす ぎないと考える。例えば、解深密経では、 善男子よ、有為というも、それは論主︹世尊︺によ って仮設せられた言葉である。論主によって仮設せ られたもの、それは遍計所執の言語表現であり言葉 である︵ぐ樹ぐ凹園39旨冒︶。・・・⋮しかし、言葉は、 、、 もの︵島国ぐ制︶なしにあるのではない。それでは、そ 、、 のものとは何か。それは、聖者たちが、聖智愈q曾︲ 55

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苛営沙︶聖見︵胃苗目風四口四︶を以て、離言のものとし て、現等覚したものである。その離言の法性︵騨冒︲ 四g旨冨四目間目幽融︶を、︹他の人々に︺現等覚せしめ んがために、﹁有為﹂という名を仮設せられたので ⑮ 紫炳﹀マ︵︾O と述守へられている。また、荘厳経論述求品に対する安慧 の註釈中には、法を勝義有とする有部の二諦説を排する、 唯識学派独自の二諦説を、三性説とからめて、次のよう に説く。 虚妄なる分別であるその依他起性における、色等な る所取と能取の二としての顕現は、ただ迷乱として、 即ち世俗として、﹁有り﹂と言われる。それ故、色 等︹の十処︺に対して﹁有り﹂とも言われる。⋮⋮ そのように、所取と能取の二は、単に迷乱の顕現と してのみ、即ち、世俗としてのみ、存在するけれど も、勝義としては、所取なるものも能取なるものも ︲存在しない。故に、色等に対して︹勝義としては︺ ⑯ ﹁無し﹂と言うのである。 有部において、法が勝義有であることを保証するもの は、法が常にその自性を保持︵く四則︶している、という ことであった。ところが、唯識学派においては、その法 の自性そのものも、究極的には実在しない、とされる。 調伏天は、三十論の註釈において、 例えば、色の相は変壊すること︵鴨屋鴨︲⑳口冒早冒︾ 目冨冒︶であり、受の相は感受すること︵目冒早冨︸ 自冒目囚くゅ︶である、等のことは、ものごとを理解す るための方便として、そのように言われているが、 それは、法の勝義の自性ではない。⋮⋮それ故、色 等には自体︵尉息︲唱冒︲g︾いく四目鷺︶がないから、︹色 ⑰ 等の︺遍計所執のものは空華の如く、目体がない。 と述令へている。このように、有部においては勝義とされ ていた、五穂や有為無為の法は、唯識学派にあっては、 、、、、、、、、、、、、、、 世俗有なるものとされ、世尊によって仮設せられた言葉 、、心、、、、 にすぎないもの、とされている。他方、世尊が﹁色﹂と か﹁有為﹂という言葉によって表現しようとされた当の ものは、聖者たちの聖智聖見の行境であり、離言の法性 である、とされる。聖教において﹁有り﹂とされる法は、 その言葉通りには実在しない、ということが﹁法無我﹂ ということの意味である。そのことを爺伽師地論は次の ように教えている。 言葉を以て言い表わされる全てのもの︹ぐ凹牌己にお いて、言葉をその自性とする全ての法は存在しない、 56

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⑬ ということ、それが﹁法無我﹂ということである。 以上、非常に随意にではあるが、唯識説における法の概 念を考察した。ここで、それを少し整理しつつ考察を進 めよう。唯識説における法は、ガイガー夫妻によって四 種に分類された法の意味の内、金倉博士によって佛教固 有の意味とされた、﹁教法﹂と﹁経験的事物﹂の意味に 関係する→と考えられる。﹁経験的事物﹂としての法に は、穂処界、有為無為、雑染清浄等の一切法が収められ る。この﹁経験的事物﹂としての法は、唯識学派におい ては、有部の﹁法の実在論﹂に対する批判を経て、究極 的なもの︵勝義有︶の地位から、単に世尊によって仮設さ れた言葉にすぎないもの︵仮有︶の地位へと追いやられ、 ﹁教法﹂としての法の中に包摂せられてゆく。一方、究 極的なものは、法とは文字通りには対応しない、離言の 法性法界である、とされる。爺伽行者は、﹁教法﹂とし ての法において、その教法がそこから等流してきた源泉 である法性法界を求めて、止観を修習する。中辺分別論 釈に安慧は、智慧波羅密を説明して、次のように言う。 智慧波羅密とは、一切の大乗の教法を文字通りに︹受 け取るような︺無知を離れた智慧である。他方、文 字通りに︹受け取るような︺無知とは何か、と云え ば、それあるが故に、︹教法に︺意趣されている意 味を顧みず、文字通りの︹意味︺のみを分別するこ ととなる、そういうものが、文字通りに︹受け取る︺ 無知である。.⋮:諸佛諸菩薩が、大乗に関して誤り なき論議決択をなし給うが故に、また、誤りなき説 法によって有情を成熟せしめ給うが故に、︹有情が︺ 法の受用を享受することと、有情が成熟することと があるが、︹それは︺智慧波羅密の働きなのである。 というのは、経等の法の教示は、智慧波羅密によっ ⑲ て顕わされるものであるからである。 つまり、経等の教法は、諸佛諸菩薩の智慧波羅密によっ て顕わし出されたものである。それ故、教法は、それを 文字通りに受け取る無知によってではなく、そのような 無知を離れた智慧によって、受け取られなければならな い。既述の事から、この智慧波羅密は、﹁法無我﹂の智 慧に相当すると思われる。﹁法無我﹂の智慧を介して、 諸佛諸菩薩は有情に法を授与し、以て有情を解脱へと成 熟させる。一方、有情も∼﹁法無我﹂の智慧によって、 法に意趣されている意味︵法性法界︶を正しく受け取り、 解脱に向って成熟する。このように、﹁法無我﹂の智慧 は、法と法性とを仲介する。唯識学派が、有部の﹁法の 57

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実在論﹂を批判して﹁法無我の理論﹂を立て、新たに ﹁法性法界﹂の領域を法理論の中にもちこんだことによ って、教法の理解に新たな局面が拓かれることになった。 佛によって説かれたことの故に︲究極的な実在とされた 法は、無自性なるものとされ、遍計所執性の中に組み込 まれた。しかし、教法の本来の目的は、法性法界︵円成 実性︶の実現にある。教法が遍計所執性へと堕すか、そ れとも円成実性として実現されるかは、教法を修習する 主体である識︵依他起性︶にかかっている。依他起性は、 遍計所執性と円成実性とが共に成立する根拠である。前 者は、教法を正しく思惟しないことによって、益々迷い を深めてゆく根拠であり、後者は、教法を正しく思惟す ることによって、解脱へと転ずる根拠である。 以下に、教法を遍計所執性ともし、円成実性ともする︲ 根拠としての依他起性の椛造を暫く考察してみたい。 或る場合には、例えば三十論の調伏天の註釈において は、遍計所執性は、依他起性の上に、所取能取なるもの ⑳ として増益されたものである、と説明される。ところが また或る場合には、例えば大乗荘厳経論の安慧の註釈で は、依他起性を所取能取として分別する︹つまり増益す ⑪ る︺ものも、依他起性である、とも言われている。した がって、依他起性の上に、所取能取を増益するものも、 依他起性である。弥勒は、そのことを、自界、すなわち ⑫ 自らの種子から所取能取の二として顕現する、と言う。 安慧は、弥勒のこの語が所知障を考慮して述べられたも ⑬ のであることを註記している。これらのことから、依他 起性は次のように理解される。すなわち、その上に遍計 所執性が増益されるような根拠︵所依︶であること。しか も→その根拠︵所依︶は静的なものではなく、自ら増益を なさしめている当体として動的なものであること。そし てその動的な活動は、その所依それ自体の中に存在する 種子、つまり、能所二取の習気による活動であること。 また、右に引用した安慧の﹁この︹弥勒の︺語が所知障 云々﹂という註釈は、その動的な活動が、菩薩によって 知られねばならない真理、すなわち、勝義としては法は 所取と能取の二を離れているという真理、を覆っている 障害なる所知障であることを示している。 ここでは、所依と所知障との関係が、われわれの注意 をひく。周知の如く、所知障の対治となるものは﹁法無 我﹂の智慧である。調伏天は、﹁所知障と所依﹂、﹁法無 我と所依﹂の関係を、二十論の註釈中に、それぞれ次の ⑭ ように述難へている。まず、所知障と所依の関係について、 58

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重習されて内にある習気が成熟することによって、 ⑮ 色等の境として顕現する諸識が輪廻の所依として生 起する。 と言う。それに続いて法無我と所依の関係に関して、 けれども、出世間智によってそれらの習気が断ぜら れる時、清浄世間智が生起するから、︹それを所依 として︺対境の無いこと︵法無我︶を理解する。 と説く。さらに、同じく二十論の註釈の別の所でも、調 伏天はその関係を次のように述べている。 真実を見る人々にとっては、諸法において所取能取 として増益されたものは存在しないが、それら諸法 の依他起性と円成実性という、如来の智慧の対境は 無ではない、と言われる。なぜなら、﹁法無我﹂と いう語は、全くの無を意味するのではなく、すぐれ ⑯ た所依を意味するからである。 このことから、われわれは次のように考えることができ るであろう。 所知障と所依との関係は、所知障である二取の習気が 成熟することによって、識が迷い︵輪廻︶の存在の生起す る場になるという点にある。つまり、識が所依であり、 その所依において二取の習気が成熟することによって、 もろもろの対境が対境として現前する、という点にある のである。他方、所知障の対治となる﹁法無我﹂の智慧 と所依との関係は、法無我を理解する出世間智によって 二取の習気が断ぜられることにより、識が清浄世間智と なり、所取能取として増益された存在が生起しなくなる ための、すぐれた所依になる、という点にある。そして そうなる時に、色等の境の無が了解される。 ところで、ここで興味深いことは、﹁輪廻の所依﹂と ﹁すぐれた所依﹂、﹁識﹂と﹁清浄世間智﹂、﹁境の顕現﹂ と﹁境の無の了解﹂、という対応関係が見られることで ある。この場合、これらの対応関係は、すべて識そのも のにおいて生ずる対応関係であり、識自身の側面である。 無分別智をいまだ証得していない場合には、識は所取能 取が生起する場であるが、他方、無分別智を証得した場 合には、識はもはや所取能取が生起しないすぐれた場と なる。その場は、また清浄世間智と呼ばれるものであり、 その場自体の上に、所取能取の無が了解される。無分別 智を証得していない前者の場合においては、識は所取能 取としての境が顕現する場として存在するものと考えら れている。無分別智を証得した後者の場合においては、 識は、所取能取としての境が存在しないことを了解する R q 轡 寸

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清浄世間智と考えられている。つまり、前者の場合に対 応させて言い換えれば、所取能取としての境がもはや顕 現しなくなった、ただ如来のみよく了解しうる、円成実 性としての依他起性というすぐれた場として存在するも のとして、それは考えられている。このように無分別智 を証得する前においても、後においても本来、所取能取 として顕現する境は存在しないけれども、所取能取とし て顕現する所依としての分別智となり、所取能取の無を 了解する所依としての無分別智となる﹁識﹂は存在する。 ﹁唯識︵く昔四宮目騨昌︶﹂ということの意味は以上のよ うに理解される。ここに至って、先に保留した﹁器世間 の生起の因に対し、有部の能作因という因にかえて、二 取の習気という重要な概念を唯識学派が割り当てたのは なぜか﹂という問題は、殆んど明らかになったように思 われる。なぜなら、唯識学派においては、上述のように 所取能取の執着の習気を所知障と考えたからであり、こ の所知障こそ、唯識たることを修習する菩薩の爺伽行に おいて断ぜらるべきものであるからである。さらに、唯 識学派が所取能取の執着の習気を所知障と考えた理由は、 既に考察した如く、佛所説の十二分教を、有部や経量部 のように、その所説の法に文字通り対応する実体をもつ た勝義有のものとは考えず、仮有のものと考えた点にあ る、と思われる。すなわち、有部や経量部の教法の理解 の仕方を、所取能取に執着したものとして批判し、教法 を改めて捉え直し確立しようとした点にある、と考えら れる・そこに、唯識学派独自の﹁教法理解﹂が窺える。既 に述べたように、教法を遍計所執性ともし、円成実性と もする根拠︵所依︶は依他起性である。琉伽行者にとって、 所取能取として現象している遍計所執性の根拠とは、過 去の所取能取の分別によって窯習された結果であると同 時に、所取能取を現象せしめる原因でもある。現象世界 はこのような根拠に依拠している。さらに、その根拠を 唯識学派は﹁言作意︵芭穏目鯉巨四ぃ圃国︾言葉による分別︶﹂ とも考えている。それは、唯識学派の琉伽行者にとって、 言葉がいかに大きな意味をもっていたか∼を思わせる。 中辺分別論釈において世親は、 ︹過去に︺所取能取を︹分別し語った︺言葉によっ て重習された言作意が、︹未来の︺所取能取の分別 ⑰ の根拠となる。 と述べている。言作意は、所取能取としての現象世界の 原因となる。その言作意は、過去の言葉の習気を原因と しており、無限の過去へと遡る。職伽行者は、自己の内 60

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のこのような言作意を自覚することから、﹁教法﹂の修 習に入る。ここに、﹁所取能取として把えられた法は存 在せず、それらは識の顕現のみである﹂という唯識観が 要請される。 したがって、﹁唯識﹂ということは、実体化した﹁教 法﹂の概念を批判し﹁教法﹂によって真に意図されてい る意味内容を理解するために爺伽行を修習する菩薩が、 その初段階から無分別智を得るに至るまでにおいて観想 す寺へきテーマである。その観想の結果として無分別智が 証得される時、唯識性︵ぐ言鱒耳目弾目前︶が成就される。 ﹁唯識つ、昔色目目弾3︶﹂とは異って、﹁唯識性﹂は、た だ佛のみよく理解しうる境界である、とされる。 、王 三一口 本稿註に使用する略号 シ民シヴ宮口ロ胃目伊穴○轡①e頁﹃弓.勺討ゅQ言四ご︾ごS、 シ民ぐぐシヴ言︵冒胃目色丙○段ぐ﹃脚庶ぽく脚豆渕固鼠○昌詳吋騨のe L ず冨己.裂く○m昏閏魚﹄邑昌. 旨切ン冨四営豊画口⑪肋目同巴騨卦時脚Hゆず割陸m四国函蝕①Qず目 いぼかa︺胃やS・ 旨、シごHのコヰ竺沙己国引騨ぐ昌芹旨蔵脚韻国ご国の庁丘時色目秒威︾ 弓の丙.zo,留日. 目引目Hご泳涛山①巳ず罰印F①︲a﹄胃④四回 邑崗画日国昌沙汽寧罰]aごくご]日曾Q図画①9ずく喝○吾5 ﹃四戸⑦邑蝕︾○罰○君国pH④函酌 ︵野沢訳山口益、野沢静証﹁世親唯識の原典解明﹂︶ ご恥ぐ目晶胃涛働①gずくの.Fかa︾邑鴎. ぐ詳引弓3戸四国ロ曾菖目蟹丙甲国丙倒びくぐ冒卸蝕号ぐぃ﹄ 弓①戸.z○.別認. ︵山口訳山口、野沢前掲書︶ ①ぐ段もSゞ四画卜.山口訳、喧隠. ②号匡・︾9m︾曾忘・︶g陣豆や、、山口訳、ロ圏﹄獣. ③鼠︺や岸晟l弓. ④ぐ留過ぢ︶囚産ふ.号︲目叩哩凰侭さ呂巴はデルゲ版で は:△品︲唱叩匙侭さ呂巴となっている。それに従う。 H喝ロ︲昏巴言︲ご︺はデルゲ版ではめ喝ロ︲昏号印︲辱尉である。 温くロ︲昏曾房常置のは﹁目。①x8房①両月蝕、四目国口己四○回冒四? ︸︺ぐ騨日凹丙P︲ぐ算武ご割印國四目pmpo宮﹂では︲ぐ昌且①ロ煙とある。 め鴎巨︲昏昏いは格西曲札﹁蔵文辞典﹂では冨旨︲昏号砂一、 権変、二、欺賑とある・山口訳、や路. ⑤山口訳、や瞳.国.房 ⑥衿悶︾勺ぽふ ⑦”・や認ゞミー圏. ③目昌︾噌巳g﹄園山臼﹄陣野沢訳、や篭餌 ⑨定由有情浄不浄業。諸内外事種を不同。︵大正鯛、五二 九頁、a︶由有情先世業力及現士用。二種世間差別果生。 ︵同上、C︶診嵐﹄やこい甲、. ⑩シ属︾や器︾や旨. ⑪号昼︾勺程]国l馬. ⑫鈩悶ご﹄も画圏ゞ扇︲届. 61

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⑬戸嶽﹄目﹂戸g︸四. ⑭晟画も9.い﹄や吟山口訳、や扇. ⑮号巨..g鈩口や画質口四叩唱弼口はデルゲ版ではg畠︲ 唱⑳彊卦となっている。岸P盟岳苫?号はデルゲ版では 岸④盟℃P君早号である。山口訳、や患. ⑯ぐ皆︾巴P戸や巴鍔騨も.巴企亘農山口訳、ご臼︺認. ⑰ぐ留忠E︾ロや蝉g3m1g鴨冒冒︲ロ④目且︲耳騨︲g官 の日昌はデルゲ版ではBaロ蝕呂①、とある.しかし、 文脈から、旨Qp騨昏①⑳とあるべきであろう。山口訳、や 、つ. ⑬ぐ獣﹄田口四﹄や回山口訳、p認. ⑲厚﹄や認面ふ. ⑳鼠ゞ己回路I隈︶ご騨引﹄巴卸亘?式山口訳、や閉. ⑳金倉円照﹁佛教における法の語の原意と変転﹂︵﹁インド 哲学佛教学研究︹I︺﹂所収︶、やら吟 ⑳金倉博士の前掲害からの引用が、いささか唐突に過ぎた かもしれないので、目下の議論との関連から、上記の法の 二義に関する博士の説明を以下に概説しておく。 博士は﹁法というような基本的な理念には、最初から一 貫した想念が含まれていて、その想念が時と場所とによっ て、多少の偏差を示したと考えねばならない﹂という立場 から考察を始められる。まず、上記のガイガー夫妻による 法の四種の基本的観念のうち、法則の意味は、動詞く割剴 ︵支える、保つ︶に由来し、支え保つもの←法則というよ うに転化して導き出された。法が法則の意味として用いら れるのは佛教以前の婆羅門教においてであり、、佛教はそれ をそのまま襲用した。博士の説明から、法の基本的観念の 中でも、この法則の意味が最も基本的なものであり、佛教 固有のものとされる﹁教法﹂や﹁経験的事物﹂等の他の観 念は、それをもとにして派生した、と考えられる。﹁法則﹂ ←﹁正当・正義・正しさ﹂←﹁教法﹂という転化の経路は理 解しやすい。﹁法則﹂←﹁経験的事物﹂の方はどのように理 解すべきか。﹁法則﹂とは、佛教においては縁起の理法を 意味する。経験的事物、即ち現象している事物が、なぜ ﹁法則・縁起の理法﹂を意味する﹁法﹂という語で表わさ れるのか。博士は次のように説明される。たとえば、﹁行 ︵8目印園H四︶﹂は、一方において意志活動による構成造作の 力をあらわすと共に、他面では広くそのような業力に制約 、、 せられたものを示す。それと同様に、縁起の理法︵目胃白砂︶ によって現われている事物をも、﹁巳属目自己と称すること は、インド・アリアン語において、言葉の用法上、特別異 例の事象ではない、と。 、、 さらに、このような一般にものを表わす法の観念は、佛 教哲学の展開と共に、独得な意味を附与されることになる。 それは法をより簡素な組織によって分類整理しようとした 試みによってもたらされた。即ち、有為無為や瀧処界等に よる分類である。その分類においては、共通の内容をもっ た個盈の法を抽象的に統括する、代表的な観念も、法と名 づけられることになる。それ故、法は概念とか範曠とかと いう意味をもになうようになる。そこで法は、物理的な世 界の構成要素のみに限定されず、実践修道上の規範、浬渠 にみちびく善本、それを妨害する煩悩等の概念についても 62

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用いられるよ膳﹃ノになる。 それはさらに有部の五位七十五法に代表されるような分 類によって、諸法は現実世界の過程を説明するものと考え られるようになった。そこでは、法は存在の世界を解明す る、物質的要素や精神的要素などの、存在の要素と考えら れるに至った。 ⑳旨のシ月﹄gゞ四︾やg、宣鱒 ⑭号昼・︸gPp.や餌 ⑳号巨・︾后蝉①ゞや刃 ⑳冒印P爾自.丙g, ⑳旨印缶﹄p9.己1房. ⑳旨、シ高・呂揖口騨 ⑳旨⑩炉﹄やgblら.四国9﹃四。四目づ、。算閉酎冒昼尉医目︲ ケPp四﹄脚ケロOQp四HHp山胃沙昌屑ずゆpP冒倒ヴロ画の四口胃口威刷岸○ぐ①口詳四割﹃煙F ⑳旨のシ員︸弓Pい︺?酌 、智心髄集註︵目目.z○.認紹.億︶餌ヨーロご”野沢静証 ﹁大乗佛教琉伽行の研究﹂や届︾山口益﹁中観佛教諭攻﹂ ℃.]﹃い 、g胃段目○ぬ︲胃を色等のものとする例として、昌印曽只︶ H④錘ウ︾]・凱餌ロ︲詐彦○⑫HpP昼︺の博悼的Npぬい︲﹄四lび○ぬの︲も魚伝群・国○⑳︲烏︶︵︶ ⋮⋮等をあげることができる。 ⑬旨のシ高もgゞ戸口 ②シズ。p鵠跨平ら. ⑮普目号旨日ロ○.鯉]国呂ヰ騨且澤冒面.F④日○拝の口閉. ⑮冨印陽局﹄ら穿戸やら刃P、酌 ⑰昆画︺ご息司&’旨.野沢訳、や雪?式 ⑬圃○巳晨臼倖く凹冒冒昌&・身己.君○唱冒国も罷戸鴎l誤 ⑲冒農ご臂曰く号園唱画圃且.耳の曙四目畠ロ︹︾冒弔邑鈩 函いIいつ①︾胃@. @埠角ゞや晟虫]l障野沢訳、や誤画 @旨のシ胃﹄]畠﹄ロ酌 、旨、少.や露函&. ⑬旨いし冑︾旨い四・鱒 ⑭晟画.僧ロロ了陣山口訳、や]9. ⑮諸識と訳したが、原語は野、︲恩目口目ぃ︵諸智︶である。 ⑯ぐ獣も員戸や式山口訳、己簡. ⑰冒呂耳習︺国ぐご冨彊さ圖遇四2.go・巨・z樹四○台・認. フコ ロlへ② 63

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