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論 65一一『奈良法学会雑誌J第2巻 3号(1989年12月) 説V
平和の政治倫理学
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・ 完
目 次 序 一 一 一 一 口 第二早従来の平和論の根本的欠陥 第一節価値論の欠如 第二節権力論の欠如(以上第一巻一号) 第二章平和の理論的基礎 第一節平和論の前提と課題(以上第一巻二号) 第二節反戦行動の倫理的正当性(以上第一巻三号) 第三節反戦行動の実践的可能性(以上第一巻四号) 第三章平和の究極的制度(以上第二巻一号) 第四章若干の参考意見(以上第二巻二号) 結 語 ( 以 上 本 号 )平
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第2巻3号一一66 結 韮 一 山 これまで四章にわたって、平和の政治倫理学を展開してきた。その核心をなすものは、戦争と平和に関する個人的 幸福計算の理論であり、そのような計算の正当性にこそ、平和の究極的な拠り所がある。人々はそれによって反戦行 動の倫理的確信を得られるだけでなく、それが明確な法的権利として設定されることによって戦争への参加を合法的 に拒否することができるのである。しかしより積極的には、戦争の開始そのものを阻止しなければならない。そのた め当該理論は、その計算を国家的行為たらしめんとして国民投票的なるものを提起するに至った。平和を構造化して いくためには、個人的幸福計算の国民的遂行を公式化することが求められているのである。但し、その際示唆してお いたように、私は国民投票そのものに対してはかなり警戒的であり、従って、仮にいくらかの正当性があるとしても、 戦争と平和以外の重要な諸問題に関しても国民投票が(現実的に可能であるとして)極力実施さるべきだとは、毛頭思わ ない。しかし、既述の如く、戦争と平和に関しては、その正当性からしてのみならず実効性からしても特別なのであ ︹ 実 効 性 に つ い て 一 言 付 け 加 え て お く が l i -も し 仮 に 、 例 え ば 戦 前 の 日 本 に 戦 争 と 平 和 に 関 す る 国 民 投 票 制 度 が 存 在 し て い る 。 た と す れ ば 、 ど う で あ ろ う か 。 そ れ に よ っ て 、 個 人 的 幸 福 計 算 に 基 づ く 国 民 投 票 が 当 時 な さ れ た と す れ ば 、 教育や言論・報道を始 め と す る あ の よ う に 悪 い 諸 条 件 の 下 に お い で さ え 、 日 本 国 民 の 多 数 は 戦 争 を 拒 否 し て い た と 、 私 に は 思 わ れ る 。 ︺ ともあれ、戦争と平和に関する個人的行動の完全な自由が打ち出され、平和の究極的制度というものが国民投票と いう形で設定されたが、そのような実践的結論についてはさておき、本稿は、 その理論的性格について言えば、従来 の平和論に対する根本的な批判に立脚する。そして、 ﹁政治倫理学﹂という名の示す通り、政治学的視点と倫理学的 視点とを合わせもたんとする。即ちそれは、 より具体的に言えば、権力論と価値論を綜合せんとするものである。従
来の平和理論や平和運動の突き当っている壁を打ち破り、戦争と平和の問題をめぐる閉塞情況を打開しうるためには、 新しい平和の原理が、 しかも権力論と価値論の双方に基づくそれが、必要とされるのである。既に強調しておいたよ うに、平和を自明の絶対的価値と見倣し、 ただ﹁平和/平和/﹂と叫ぶ従来の(一般的な﹀やり方、戦争の恐怖や悲惨 を説き戦争そのものの害悪を喧伝するだけの情緒的なやり方では、何も変わらない。また、軍事力を徒らに嫌悪し、 ただそれを排除すればよいとする単純・浅薄な推理も、有効ではない。そうした、人々の自然的な欲求と感情にのみ 訴える運動や、人間存在と人聞社会の根源的な事実を直視しない思考によっては、平和を実現することは疎か、手繰 り寄せることさえできないであろう。 まず一方において、平和の価値論がなければならない。即ち、究極的・普遍的な価値原理からする平和の基礎づけ と位置づけである。言うまでもなく、価値というものは人間の行動において決定的な役割を果すが、戦争と平和をめ それ自体として ぐる価値の問題は決して自明ではないからである。 は正しい。それには誰も異論を挟まないであろう。しかし、 な る ほ ど 、 戦 争 の 悪 、 平和の善ということは、 それを言うならば、戦争における(例えば)献身的行為や それ自体としては大いなる美徳である。それに、 犠牲的精神、勇気や決断力、それに合理的思考や冷静な判断なども、 (始めに何度も力説したように)我々は平和のためだけに生きているのではなく、 ただ平和でありさえすればよいという 67一一平和の政治倫理学伶) のではない。もし平和が独立・自由・繁栄などと両立し難いことがあるとすれば、我々はいずれを重視すべきであろ うか。例えば、旧日本軍と戦った中国共産党の選択は、誤っていたのであろうか o l -かくして、平和に関する価 値判断は決して単純ではない。平和の価値は相対的であり、 その大きさは他の諸価値との関係によって変化するので ある。そうであるならば、戦争を拒否し平和を選択しうるためには、具体的価値内容の︿完全に)客観的な比較計算は 不可能であるが故に、普遍的な価値判断の方式を確立しなければならない。と同時に、戦争に対する単なる情緒的嫌
第2巻3号-68 悪感に安住することなく、そのような反戦感情を合理的な信念にまで高めなければならない。つまり、それらによっ て、平和をあくまで追求することの倫理的正当性と価値的優位性が論証されていなければならないのである。このこ とは結局、実践上真に有効な、従ってまた理論的にも普遍妥当的な、価値論の構築を意味するであろう。 しかし、それだけでは十分でない。単なる価値判断のみから妥当な実践命題が導出されえないことは、言うまでも なかろう。後者は理想と共にその実現可能性の考患を必要とするのである。従って他方において、適確な現実認識が 求められるが、わけでも重要なのが権力論である。何故なら、軍事力とは権力の中核或は最終的手段であり、戦争と はその最も大規模な発動だからである。平和の鍵を握る軍事力や平和の対極たる戦争は、権力そのもの又はその動態 に他ならない。平和と権力とのこのような内在的連関の故に、如何なる平和論者も、自らの主張が実効的たらんとす る限り、人間社会における権力の存在についての根本的な認識から出発しなければならないのである。そして、それ は当然平和論の内容を基本的に規定することになる。即ち、権力の(その大小はともかく)不可避性に基づく権力論の導 入は、多かれ少なかれ現実主義的なモーメントとして作用せざるをえないのである。 それはもちろん力による平和を直ちに意味するわけではない。権力を評価するということは、それを全面 但 し 、 的・無制約的に容認するということではないからである。そして言うまでもなく、理想を掲げることは大切であり、 ﹁ 核 兵 器 廃 絶 / ﹂ ﹁(種々の)軍備撤廃/﹂等々は最終ゴlルとしては正しい。 のみならず、そのような(非現実的)運 動を展開すること自体にも、 それなりの(現実的﹀効果があろう。しかし、これまで至るところで戦争が繰り返され、 我々が今もなお武装しているのは、それらのスローガンが暗黙裡に前提しているように、啓蒙や精神的覚醒によって というようなものの所為ではない。戦争と武装の現実は、人間とその社会そのものに関る本質的・構 造的な要因に根ざしているのであり、それを一言でいえば、我々の生きているこの世界が優れて政治的な世界だとい 除 去 さ れ う る 、
うことである。そして、その政治的なるもの
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必然的帰結がまさに権力の存在なのである。利害や意見を異にする我 我にはそのような生き方しかできないし、自由や個性のことを考えれば(権力の存在とは一面それらの代償であるが故に)、 それが人聞にふさわしい生き方であると言うべきかもしれない。ともあれ、権力を究極的根拠とする政治的世界、そ れが我々に与えられた生存の場なのである。そうである限り、我々に可能な、従って我々の求むべき人類の平和とは、 そのような世界における平和であり、それでしかありえない。それは、言うまでもなく、権力というものが平和の問 題の根本的制約であることを意味している。平和の理想は権力論的な裏付けを得て初めて現実世界に根を下すことが できるのである。 概略以上の理由により、今後の平和論の眼目は﹁政治倫理学﹂になければならないが、このことに関連してここで 是非指摘しておきたいことがある。それは、 日本の核兵器反対運動の情況ほどそのことを(否定的な意味で)雄弁に物 69一一平和の政治倫理学作) 日本の反核運動が平和運動の象徴的地位を占めていることもあって特に 言及しておくのであるがlll
ヒロシマ・ナガサキを発端及び中心とする核実験禁止・核廃絶の運動は、周知の如く 分裂と対立を重ねてきたが、そのような事実、その党派的抗争の歴史ほど、平和論における価値論と権力論の根本的 な重要性を鮮烈に感得せしめるものはないであろう。何故なら、価値観の相違は争いを生み出し、争いは権力の、従 って暴力(寧事力﹀の存在を余儀なくするが、皮肉にも、何より平和を宗とするはずの彼ら自身が争いに終始してきた からである/被爆者を中心とする最も平和主義的な人々ですら、イデオロギーの優先に基づく反平和主義的行動に 走らざるをえなかったからである。彼らは、人は平和のためにのみ生きるのではなく、時には自己の信条や利益のた めに戦う、ということを示した。即ち、彼らは平和運動の中に平和以外の価値を持ち込み、︿従って)平和のための同 志的結合にもかかわらず政治的に行動することによって、人間社会における権力の不可避性を、それも最も平和的・ 語るものはないということである。これは、第2巻3号一一70 反権力的な集団においですらそうであることを、自ら実証した。つまり、彼らはその反核・反戦の運動において、必 然的に軍事力と結びつかざるをえない、そして究極的には核兵器を志向するような、行動をとってきたのであり、そ れ故、核兵器を否定せんとして実は客観的には、逆にそれを亭忌いもトわのである。自分たちの反核運動そのものに しかもそれが各組織において活発であればあるほどいっそう強く、勝広︿掛仏必勢佐 ι b 卦いちトわのである。 よ っ て 、 これは何と愚かな所業であろうか。何たる悲喜劇であろうか。しかし、それはまことに貴重な社会実験であった。 ﹁政治倫理学﹂の必須性のそれほど決定的な例証もないであろう。 このような反核運動のもはや哀れと言うべき自家撞着についてはさておき、従来の平和論にはともかく重大な欠落 があった。そこでは、実効的平和論に不可欠な要素である価値論と権力論が、共に始ど看過されてきたのである。そ し て 、 たとえそれらしき顧慮がなされたとしても、根本的・体系的な仕方からは程遠く、 しかもいずれか一方に偏る その種の権力論的平和論は皮相な(超)現実主義に、また価値論的平和 の、が常であった。従って当然のことながら、 論は単に規範的な(超)理想主義にそれぞれ流され、共にその妥当性を喪失すると同時に、互に対話の余地をなくし てきたのである。我々はそのような情況を転換しなければならない。そして、平和論の実効性を高めなければならな ぃ。そのために何をなすべきかは、既に明白であろう。 本稿は、そのような洞察を(直接的な)ベlスとする綜合的理論化の試みである。もちろん、 そ う し た 目 論 見 、 が こ れ によって十分実現されたとは言えないであろう。おそらく、各方面から様々の問題点が指摘されるに違いない。だが、 その完成度はともかく、少なくとも本稿が平和論の(第一に)めざすべき方向ないし満たすべき条件を示しているとい うことは、(まことに潜越ながら)言えるのではないであろうか。平和論の中心はあくまで﹁政治倫理学﹂になければな らないのである。
また、本稿は今後の平和論のための基本認識や枠組を提供することによって、幅広い議論のための共通の土俵を作 ることに努めたつもりである。というのは、そもそも平和論である以上、それが言い争いに終始していたのでは(即 ち、平和に関する戦争/)意味がなく、できるだけ合意を得なければならないからである。平和の実現には何よりもま ず意見の一致が必要だからである。しかるに、前述の如く、平和の論議はこれまで、 それぞれ異なった前提や次元の 違う観念からする一方的・非生産的な自己主張の噴出に止まってきた。そこに対話を成立せしめ建設的な協同作業を 構築していくためには、 一定の基本的な共通認識が存在していなければならない。より具体的な理論に関する多様性 は当然であり且つ有益であるが、それら諸見解が噛み合わなければ何の足しにもならないのである。本稿がその契機 となり、更には足掛りとなれば、幸いである。 ともあれ、私は既に﹁平和の政治倫理学﹂の基本思想と理論内容を(未だ不十分ながら)語り終えた。 こ こ で 改 め て 、 その要約や結論を述べる必要はないであろう。従って、(今後これに対する有意義な批判が提起されると共に、同じような方 向 性 を も っ 新 た な 理 論 が 陸 続 と 出 現 す る こ と を 、 切 望 し つ つ ) こ れ で 稿 を 閉 じ る わ け で あ る 、 が 、 ただ最後に、付論として一 つ記しておきたいことがある。それは、 ﹁政治倫理学﹂の基礎たるべき﹁倫理学﹂そのものについてである。むろん、 倫理学と言っても倫理学全般ではなく、本稿の主題に関係する或る一つの側面にすぎない。私が取り上げようとして 71一一平和の政治倫理学同 いるのは、平和の問題と倫理学の基本思想との関り、即ち、或る種の倫理思想(ないし理論)のもつ平和論的な意義に つ い て で あ る 。 本稿を終えるにあたってこのようなテlマに言及することについては、(互に関連する﹀二つの理由がある。 まず第 一に、私は私自身のこれまでの研究を通じて価値及び倫理に関する普遍的根本原理の確立に意を用いてきたが、この 平和論もその一環という側面をもっているからである。もし後者に多少とも妥当性が認められるならば、それは前者
第2巻3号一一72 にとっても一つの支援材料となるであろう。そして第二に、本稿は(正確に言えば、当然本稿もまた)そのような根本原 理としての﹁功利佐原理﹂に依拠しているが、その﹁功利性原理﹂と対立又は相違する諸々の価値論が、実は、人々 を戦争に導く思想の根底にあると考えられるからである。人々を誘惑して戦争へと駆り立てかねない観念や感情の思 想的成立基盤として、そのような価値論の存在が認められるのである。平和の問題と倫理学の抽象的・原理的な理論 問題とは全く別の分野の問題であるように、 おそらく見えるであろう。しかし、如何なる価値論も、人聞が現実にも っている価値観念の或る要素を反映するものであり、価値論の問題は現実社会のそれと無関係ではない。特に、戦争 と平和というものが人間存在そのもの及び人間存在全体に関る以上、なおさらそうである。価値の木質についての理 論的問題も、平和の問題と人間の内面において論理的に結びついているのである。それでは、それらは如何に結びつ いているのであろうか。 人々は戦争をしてまで自分たちの利益を得ょうとは思わない。それどころか、社会生活において自己の欲望を日々 規制しているのと同じように、平和のために譲歩することができるし、その用意もある。多少の妥協によって戦争が 回避されうるなら、彼らはそれを厭わないであろう。だが、戦争は倦むことなく続けられてきた。しかも、それは常 に正義の戦いとしてなされてきた。これまで人類が行ってきた戦争に関する、そして特に現代における戦争に関する 重大な事実は、個人としての殆ど全ての人聞がそれを望んでいないにもかかわらず行ってきたというだけでなく、様 々な大義についての信念や愛国・献身といった倫理的心情の下に行ってきたという事実である。人聞が自ら望んでい ない、というより最も嫌悪している、ことを行う、 しかも善かれと信じて悪をなす 1 1 1 1 これほど馬鹿げたことがあ ろうか。これほど惨めな、 しかしまた滑稽な出来事であろうか。その一つの基本的な原因が誤った価値意識にあるこ とは、第二章で指摘した通りであるが、前述のように、そのような誤謬は論理的には価値及び倫理の或る種の根本理
論に発しているのである。そこで、再び間い直せば Ill-それはどのような根本理論であろうか。危険な価値意識の 母胎となり温床となってきたのは、如何なる理論であろうか。 それは主に二つ挙げることができる。そして、それらは全く対照的な内容をもっている o 一 見 背 理 的 だ が 、 つ ま り 、 同じ危険性を字む二つの対照的理論が存在しているのである。そうしたことがありうるのは、もちろん、我々の価値 観念が(媒介の存在によって)多面的だからであり、(根源的には統一されているものの)外見上自己矛盾的だからである。 それら二つの理論はそのような価値観念の事実ハだがそれぞれ一面的な事実)に由来するものであるが故に、妥当性をも しかし同時に一面的である。従って、もしそれらが自己の限界を超えて普遍的な妥当性を主張するに至 るならば、それらは誤謬に陥るであろう。それはまことに見易い道理である。しかるに、そのような誤りが広く罷り っ て い る が 、 通っているのが、倫理学の現状なのである。それはともかく、戦争の精神的土壌を形成しかねない根本的価値理論と して、次の二つを指摘することができる。 まず第一は、自己目的的義務論ないし事実・価値二元論であり、更にはそれらに依拠する反幸福主義的諸概念であ る。それら(仮に﹁第一の理論﹂と呼ぼう)は確かに妥当性をもっているが、 しかしそれは(今述べたように)一定の条件 73一一平和の政治倫理学(吋 の下における限定的なものにすぎない。それらは決して究極的・絶対的な真理ではないのであり、 それによってあら ゆる倫理的事実を統一的・体系的に説明することはできない。従って、そのような限定性がよほど弁えられていない と、それらは我々を誤らせ我々に害悪をもたらすことになるのである。 第一の理論は元々危険性を字んでいる。そもそも、人間の欲求を無視する価値論が人聞に不幸をもたらすことは、 当然であろう 0 ( む し ろ 、 そ う で な け れ ば お か し い / ﹀ かの﹁欲求﹂に依拠しており、 如何なる価値も何らかの主体(バクテリアであれ神であれ)の何ら およそ欲求なくして価値は原理的にありえない。(その意味であらゆる価値は相対的・主
第2巻3号 74 観 的 で あ り 、 各 個 人 に と っ て 絶 対 的 ・ 客 観 的 と 思 わ れ る 倫 理 的 価 値 も 、 人 間 全 体 又 は 人 間 一 般 の 欲 求 に 基 づ く 相 対 的 な も の で あ る 0 ) なるほど、悪い欲求というものがありうる。しかしそれは、欲求と価値とが無縁であるということを意味しない。何 故なら、悪い欲求とはそれ自体として悪い欲求ということではなく、他人の欲求充足や自己のより究極的な別の欲求 充足を妨げる欲求ということだからである。つまり、﹁悪い﹂の根底にも、やはり何らかの欲求が常に存在している のである。しかるに、第一の理論はそれに気づいていない。価値は人聞の欲求に関りなく客観的に実在していると一一一口 ぅ。そして、(何と/)それ自体が目的であると言う。まさにこのような理論が、人々の真の欲求から価値を引き離す 一万凶である。そ礼こそが、人々の幸福から価値を奪い、本来人聞に仕えるべき価値の人聞からの独立化・自己目的化 とそれによる人間の逆支配(言わば人聞の倫理的自己疎外﹀を生み出す、思想基盤なのである。価値そのものが人聞の生 死や幸不幸と関係ないと言うからには、そのような思想が様々の非人間的抽象観念の跳梁殴麗を許し、そこにそうし た自己目的的観念に基づく戦争肯定の芽が出てくるとしても、何ら不思議ではあるまい。それどころか、人間の立場 そもそも戦争が一般に否定され平和の価値が基礎づけられえようはずが から目的や(予想される)結果を問わずして、 ないのである 0 ︿ の み な ら ず 、 実 は 当 該 理 論 は 具 体 的 規 範 を 自 ら 導 出 し 論 証 す る こ と が 全 く で き ず 、 そ れ に よ る 如 何 な る 実 践 も 本 来 不 可 能 な の で あ る J 戦争はその惨禍を人々が嫌っているから悪なのではないのか。平和は人々が自分たちの幸福の ために望んでいるから価値があるのではないのか。しかるに第一の理論は、 そうではないと言う。(では実際にどう言 うのか、見当もつかないが。どうせ、戦争はそれ自体として悪であり平和はそれ自体として善であるなどと、訳のわからないこと を 言 う の で あ ろ う o) もしそれが、戦争は人聞を殺し傷つけるが故になすべきでないなどと言えば、自己矛盾に陥るこ とになる。それは、戦争は人間に莫大な損失を与え限りなき不幸をもたらすが故に悪であるとは、 口 、 が 裂 け て も 言 え ないのである。こうした理論が戦争と近い関係にあることは、明らかであろう。
続いて﹁第二の理論)は、第一のそれとは対立的な所謂功利主義である。それは或る種の社会全体の幸福、即ち社 会的総計としての人々の幸福の全体量に価値を認め、 より具体的な 規定の仕方にそれぞれ遣いはあれ、このような基本的考えもまた(理論としてのそれに反対する人々も含めて)我々の倫理 それを究極的な判断基準にしようとする。その、 観念の一部を構成しており、 一定の妥当性をもっている。確かに、多数決の一般性、が物語っているように、人間同士 の社会的生存においては、最大多数の最大幸福によって価値を判断せざるをえない場合が決して少なくない。しかし、 改めてその根拠を問うてみるならば、即ちその基礎づけを根本的にやり直してみるならば、 そのような基準が限定的 なものであることが判明するであろう。何故なら、社会全体というようなものが実際に存在しているわけではなく、 幸福を感受しうるのは一人一人の個人だからである。従って、第一の理論の場合と同様、限定性の自覚が欠けるなら ば、それは危険なものとなる。 それが無条件に積極化すれば、それは国家や民族とい つまり、この第二の場合には、 った全体の名の下に各個人に犠牲を強いることになるのである。国家の利益や民族の栄光が至上の価値とされ、 そ れ に対する各人の徹底的な奉住が正当化されるのである。そのような気運の醸成が戦争遂行の普遍的条件であることを 思えば、この理論のもつ戦争との親近性は明らかであろう。これまで様々のイデオロギーや心理が人々を戦争に駆り 75 平和の政治倫理学作) 立 て て き た が 、 その基本的なベlスとして(この意味における)﹁全体の幸福﹂の観念が存在していたことは、疑いない の で あ る 。 但し、そうした﹁全体の幸福﹂が各人の幸福と対立するとすれば、それは自らの幸福主義的前提を否定することに なる。功利主義の理論は、或る人の幸福はその人にとって善であるという命題から出発しており、従って、それを否 定することは功利主義にとって明らかな自己矛盾と言わざるをえない。このことは、その種の功利主義には内在的な 欠陥、即ち推論の誤りという理論的欠陥、があるということを示しているであろう。それはともかく、このような第
第 2巻 3号一一76 二の理論も、上述の如くしばしば戦争の精神的基盤となるのである。 以上略説してきたように、価値についての代表的な根本理論である(二大学説と言ってもよい)自己目的的義務論と (所謂)功利主義は、いずれも戦争を精神的に準備しかねず、平和にとって敵対的である。そうであるならば、それら に取って替わるべき価値理論がどのようなものでなければならないかは、容易に推測されうるであろう。それは当然、 それらの誤りを否定しつつ(しかも)包摂する(従って、・言わば止揚する)ものでなければならない。即ち、それらと対立 する根本原理に立脚しながらも、それらの一定の妥当性の故に、それらを共にその原理から(むろん限定的に)導出せ ねばならないのである。そうした原理に基づく倫理学こそ、その統一的な説明可能性の故に、従ってまたその普遍的 な妥当性の故に、真の倫理学と呼ばるべきであろう。 それでは、そのような根本原理とは如何なるものであろうか。それは主として次の二つの命題に要約されうる。ま ず一つは、あらゆる価値の(少なくとも究極的な)基礎にハ何らかの﹀﹁人間﹂の(何らかの)﹁幸福﹂があるということ、 従ってまた、自己目的的・義務論的な倫理的価値の基礎には非倫理的価値があり、後者(一般)は前者(一般)に対し て論理的な優位性をもっているということである。それは倫理的価値の独自性や自律性を認めるが、しかし、それら は非倫理的価値から派生したもの、従って現象的及び相対的なものであるとするのであり、そうした形であらゆる価 値を統一的・体系的に把握するのである。このような原理は、平和を優先することの正当化と、人々が自己の欲求に 基づいて自由に平和を選択することを、可能にするであろう。 次にもう一つは、倫理的価値を一個の価値たらしめていものは全体の幸福であるが、それは各個人の幸福から(但 し、普遍的にではなく単に一般的に﹀導出されるということ、 その具体的概念 従 っ て 、 前者は後者を前提としており、 ハそれは多分に現実的・個別的な問題である)は後者を最大限包容する仕方によって構成されなければならないということ
である。つまり、それは全体の幸福の正当根拠が各個人の幸福にあるとし、それによって全体の幸福というものの地 位と限界を明らかにしているのである。このような原理は全体の名による個人の抑圧を(最大限)防止し、各個人が自 己自身の幸福を(最大限)追求することを、可能にするであろう。 以上が、自己目的的義務論と(所謂)功利主義という二大学説に取って替わるべき、根本原理の概要である。それは 二つの基本的命題の形で示されたが、それら(私の用語法で言えば、﹁功利性原理﹂)がその理論的確立を見るとき、平和 はその確固たる倫理的基礎を得ることになるであろう。あくまで平和を探求することの倫理性が保証され、平和を危 うくすることの反倫理性が弾劾されるであろう。それ故、今や我々は、単に学問的な観点からのみならずそうした実 践的な意味においても、価値及び倫理に関して伝統的謬見を打破する必要に迫られているのである。従来の如き一面 的・部分的理論ではなく、真に普遍的な理論が求められているのである。 そして、それについて一言付け加えておくならば、そのことのもつ意味或は役割は、︿やや大袈裟になるが)近代の政 77一一平和の政治倫理学同 治思想が担ったそれに類比すると言えるのではあるまいか。つまり、あたかも近代政治思想が、国家の所与性・自然 性・神秘性を否定し政治の不可視性・不透明性のベlルを剥ぎ取ることによって、近代民主主義への道を切り開いた ように、我々は価値と倫理に関する自己目的的・超越的・非人間的・全体主義的な観念の派生的・現象的本質を暴露 することによって、幸福、しかも一人一人のそれへの、従ってまた平和への、道を切り開かなければならないのであ る。そのためには、それら諸観念を排除するのではなく、それらをも一つの表面的・部分的事実として正しく位置づ けうる原理、ということは即ち、価値と倫理に関するあらゆる事実を統一的・体系的に説明しうる全体的・普遍的な 根本原理を、打ち立てる必要があるが、その基本的な考え方は前述の通りである。おそらくそれ以外に、今述べた意 味における根本原理としての条件を満たしうる考え方はないであろう。たとえ何らか別の原理が見出されえたとして
第2巻3号一一一78 も、もしそれが一定の妥当性を確かにもっているとすれば、別の原理というのは見せかけであって、 その根底には実 は﹁功利性原理﹂が存在しているのである。ともあれ、 そうした問題はついては(伺において指示した)一連の別稿に譲 り ここではそのような指摘に止める。そして、以上付論として述べてきたように、平和の問題が価値及び倫理の本 質についての理論的問題と深く結びついており、後者に関する伝統的諸見解からの脱却が大きな課題である、 ﹁結一語﹂のみならず本稿全体の結びとしたい。 という ことを再確認して、