初期議会期における条約の国内編入をめぐる問題
頴原 善徳
*はじめに
立憲制度が定着していく条件は何か。いうまでもなく憲法典や憲法附属法 令だけが立憲制度ではない。しかし、憲法典を制定した以上は、憲法典を通 用させ法的安定性と実効性を確保するのが権力の課題であった。そのこと は、憲法典発布後間もなくの時期に井上毅法制局長官が黒田清隆総理大臣に 提出した意見書からうかがい知ることができる。そのなかで、井上は、「憲 法ハ単一ノ法律ニ非スシテ専徳義ニ依テ成立スル者ナリ故ニ立憲ノ美果ヲ 収ムルハ憲法ノ条文ノミニアラザルナリ」と述べたうえで、「輔相ノ徳義」の 一つとして「誓テ憲法ノ精神ヲ維持スル事」を挙げて、憲法典を国内に権力 の側が通用させていくことが重要であることを訴えた。1) しかし、憲法典の通用といっても、そのさいに問題になるのは、憲法典に 明定されていない事項の解釈と運用の方法である。憲法典で明定されていな い事項については、あくまで憲法典の枠内で解釈するのか、普遍的な立憲主 義(立憲制度の原則)や諸外国の事例を参照基準にするのか、がただちに問 題になる。たとえば、国民を拘束する法の定立条件が問題になる。いかなる 手続きを経て定立された法なら国民を拘束することができるのかを考えた 場合、憲法典に明定されている法律や命令以外は国民を拘束する効力を有し ないとみなすか否かが問われるわけである。 憲法典の枠内で運用することばかりに執着すると、どうしても憲法典の規 定に示された原則というものがかならずしも貫徹しない領域が存在してし * 立命館大学文学部非常勤講師まう。そのような領域をあくまで例外とみなすのか否かが問題になる。その 顕著な例が一国の意思だけではどうにもならない事項である。諸外国との関 係を優先させる必要がつきまとうがゆえに憲法典の枠内に閉じきれない問 題とみなされがちな領域だからである。 戦前の日本における憲法上の法律事項をふくむ条約の締結と国内編入の 方式をめぐる問題は、上記のことを考えるさいに好個の素材である。あまり に簡潔な条文である大日本帝国憲法第 13 条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸 般ノ条約ヲ締結ス」のもとで、憲法上の法律事項をふくむ条約の締結と国内 編入の方式は難問となるからである。国民を拘束する法を憲法典の枠内での みとらえ、その定立には憲法典所定の手続きしか認めないのか、それとも 「大権事項」の名のもとに条約締結権の所在以外は国民を拘束する法の定立 の条件に関しては憲法典の枠外とするのか、という問題が生じるのである。 条約をどのように締結して国内編入し執行するのかについては、国際法が 定めることではない。各国の憲法秩序にゆだねられている問題である。すな わち、条約締結にあたって議会の承認を必要とするのか。その場合、条約そ のものについて議会に承認を求めるのか、あるいは条約と同じ内容の法律案 を議会に提出するのか。それは、国際法が決めることではなく、諸国家にゆ だねられている問題である。 日本国憲法第 73 条は、条約締結権が内閣に属するとしたうえで、第 3 号 で国会が承認するべき条約が存在することを示している。しかし、その基準 を憲法典は明定していない。のちにいわゆる大平三原則と呼ばれる政府によ る説明が求められた所以である。2) 敗戦後連合国軍最高司令官総司令部から憲法改正草案を手交される前に 幣原喜重郎内閣のもとで大日本帝国憲法の検討をおこなっていた憲法問題 調査委員会(いわゆる松本委員会)においては、憲法第 13 条について次の ような修正案が検討されていた。
第十三条 (甲案)天皇ハ諸般ノ条約ヲ締結ス 但シ此ノ憲法ニ於テ法律ヲ以テ定ムヘキモノトシタル事項ニ関ル 条約又ハ国家ニ重大ナル義務ヲ負ハシムル条約ハ国会ノ協賛ヲ経 ルヲ要ス 天皇ハ条約ノ公布(及執行)ヲ命ス 条約ハ公布ニ依リ法律ノ効力ヲ有ス3) これは、第 9 回調査会(1946 年 1 月 5 日)で作成された甲案である。大日 本帝国憲法はもとより実際に成立した日本国憲法とも異なり、特定の種類の 条約に対する議会の協賛や公布によって法律の効力が生じるという規定ま である。このような改正案が出されること自体、戦前日本の慣行が十全では なかったことを示唆している。表面上は大きな政治的争点になったり学理上 の議論はともかく憲法解釈をめぐる疑義が重大問題として持続して呈され ることはなかったとしても、潜在的な問題が存在していたということをうか がい知ることができるのである。 戦前日本における条約の国内編入をめぐる慣行については、条約にそのま ま国内法上の効力を認めてきた、という説明がなされている。4)また、戦前 の判例において条約の国内法上の効力をはっきり認めたものがある。5) 憲法典施行後間もなくの時期である初期議会期に条約の締結や国内編入 の方式をめぐって帝国議会で問題になったことは知られている。6)では、戦 前の学者による学理上の議論は別として、なぜその後条約の締結や国内編入 の方式をめぐって大きな問題になることはなかったのか。戦前日本の慣行に 関する説明は、我国に立憲制度が定着していく過程で何が潜在化していった のかをあきらかにしてくれない。憲法上の法律事項であるにもかかわらず、 帝国議会の承認をいっさい受けずに条約が国内法体系に編入され国内法上 の効力を有するという慣行が立憲制度に反しないものとされたのであれば、
何がその条件であったのか。憲法上の法律事項をふくむ条約を締結するだけ でただちに国内法上の効力が生じたという戦前日本における慣行の説明だ けでは、説明できないのである。そのことは、戦前日本における国際法学説 に関する研究もしかりである。7)本稿であらためて憲法典施行後間もなくの 時期である初期議会期における官民の議論の検討を試みる所以である。 先行研究は、この問いになかなか答えてくれない。政治史研究の多くは、 目立って政治的な問題になったことをあきらかにしようとはするが、大きな 政治的争点にならなかったことには関心を向けない。ゆえに、憲法上の法律 事項をふくむ条約の締結と国内編入をめぐって立憲制度に伏在する問題に ついては無関心である。それは、初期議会期の政治史研究も条約改正史研究 も同様である。 慣行が形成される過程における官民の議論について比較的詳細に考察し たものとして、千葉功の研究がある。8)初期議会期における官民の議論状況 を手際よくまとめているが、外務省の「自律化」(外交政策をめぐる他の国 家機関による干渉の拒否)の過程の分析に主眼があるため、単なる路線選択 の問題で済ましてしまっている。その結果、あたかも条約締結権への帝国議 会の参入の可能性があったかのように過大評価して、条約の国内法上の効力 をめぐる議論が収束した結果いかなる問題が潜在化したまま残ったのかが わからない。 以上を要するに、本稿は、大日本帝国憲法施行後間もなくの時期に条約の 締結と国内編入をめぐる議論が何を問題として顕在化させたのかをあきら かにすることを通じて、議論の収束の結果として戦前日本の慣行によって立 憲制度をめぐる何が潜在化したのかを探ることを試みることを目的とする ものである。
Ⅰ.条約という国内法を容認するのかという問題
大日本帝国憲法第 13 条は、簡潔な規定である。宣戦・講和権と条約締結 権が天皇の権限であることを規定しているだけである。条約締結権に関する 憲法典起草者の意図は、伊藤博文の名で刊行された『憲法義解』の説明を読 むかぎり明確にみえる。すなわち、 恭て按ずるに、外国と交戦を宣告し、和親を講盟し、及条約を締結する の事は総て至尊の大権に属し、議会の参賛を仮らず。此れ一は君主は外 国に対し国家を代表する主権の統一を欲し、二は和戦及条約の事は専ら 時機に応じ籌謀敏速なるを尚ぶに由るなり。諸般の条約とは和親・貿易 及連盟の約を謂ふなり。〔中略〕本条の掲ぐる所は専ら議会の関渉に由 らずして天皇其の大臣の輔翼に依り外交事務を行ふを謂ふなり。9) とあるように、第 13 条は、宣戦・講和のみならず条約の締結にも帝国議会 を関与させないことを主眼としていた。このことは、枢密院における憲法草 案審議のさいの伊藤博文枢密院議長の答弁によっても確認することができ る。伊藤は、草案第 13 条について、いかなる条約の締結においても帝国議 会が承認することはないということをくり返し述べた。10) 以上から、条約をめぐる憲法上の権限については疑念をはさむ余地はな かったようにみえる。しかし、これらは、条約の締結には帝国議会の関与を 認めないことが憲法第 13 条の法意である、と述べているだけにすぎない。憲 法上の法律事項(法律を以て定めるべき事項)をふくむ条約を国内編入する 条件については、何も語っていない。憲法上の法律事項をふくむ条約が国内 法上の効力を有し条約が国民を拘束する条件については、不明なままであっ た。したがって、立法の条件として帝国議会の協賛を明定した憲法典の施行 前における慣行を憲法典施行以降も継続してよいのかどうかについて問題が残った。 しかし、伊藤博文らがあるこの点についてどれほど確信をもっていたか は、あやしい。11)条約の公布式すら制定されていなかったからである。12)憲 法典起草過程において条約の公布式の明定の必要をヘルマン ・ ロェスラーが 一貫して主張していたにもかかわらずである。13) 憲法典施行後も、条約の国内編入の問題について統一した憲法解釈が政府 内において共有されていたわけではなかった。たとえば、大蔵省の内部には、 憲法上の法律事項をふくむ条約を締結する場合と条約の結果財政支出が必 要になる場合には帝国議会の協賛が必要である、との意見があった。『松方 家文書』のなかには、そのことをうかがい知ることができる大蔵省罫紙に記 された文書が存在する。14)いつ誰が何のために起草したものかは不明である が、少なくとも大蔵省の内部においてこの問題を検討したことだけは知るこ とができる。国庫の負担を生じる条約については、条約そのものを帝国議会 に付議する必要はなく歳出予算を調製して協賛を求めればよい、との見解を 示している。一度可決されれば、既定の性質を有することになるから、以後 は政府が同意しないかぎり廃除・削減されることはない。憲法上の法律事項 をふくむ条約は、条約そのものを批准の前に帝国議会に付議して法律として 公布するべきである、と主張している。批准前に帝国議会の協賛が必要であ ると説いているゆえ、特定の種類の条約については天皇の条約締結権を制約 することを主張していることになる。 また、当時法制局にも条約の国内法上の効力に関して帝国議会の承認が必 要な場合があるとの見解が存在したことを示す意見書がある。条約の国際法 上の効力と国内法上の効力を区別して、憲法第 13 条により帝国議会の協賛 なしで国際法上の効力が生じることを認めたうえで、条約の国内法上の効力 は国家の命令によって生じるが、条約を施行するために法律の性質の命令を 要するときは批准前における帝国議会の協賛と法律としての公布が必要で ある、という見解である。15)同趣旨の別の意見書においては、日本の場合、
天皇が締結した条約が日本の臣民を拘束する効力に関しては大日本帝国憲 法に明文がないが条約の締結のみを以てただちに日本国内に条約を実行で きると論じることはできないとしたうえで、日本の憲法が認める法令は法律 と命令の二種類のみであると論断している。16) 民間においても、一時期この問題がさかんに議論された。新聞・雑誌がこ の問題について疑義を呈し本格的に論じるようになったのは、第 1 回帝国議 会閉会後の 1891 年春以降になってからである。17)特に、1891 年 4 月から 8 月にかけて議論が集中した。とりわけ問題になったのは、条約改正の結果と しての協定関税率の変更には帝国議会の協賛が必要か否かであった。 多くの新聞・雑誌は、大日本帝国憲法第 13 条により条約締結権が天皇に 専属することを原則としつつも、条約改正による協定関税率の変更のために は帝国議会の承認を経る必要がある、と主張した。その根拠は、憲法典の第 13条以外の条文に求められた。すなわち、新税の賦課や税率の変更は法律を 以ておこなうことを規定した第 62 条第 1 項、臣民の納税義務は法律による ことを規定した第 21 条、そして法律は帝国議会の協賛を経る必要があるこ とを規定した第 37 条である。当然、関税が租税であることを前提とする見 解であった。すなわち、関税は租税である。租税の徴収と税率の変更には法 律が必要である。臣民の納税義務は法律による。法律の制定・改廃には帝国 議会の協賛が必要である。おおむねこのような主張であった。 ただし、憲法上の法律事項をふくむ条約に対する帝国議会の協賛という場 合の「協賛」という言葉には注意が必要である。論者によって異なる意味で 用いられていた。おおむね二つの意味で用いられた。一つは、条約そのもの に対する帝国議会の協賛である。いま一つは、条約の内容を法律案にしたも のに対する帝国議会の協賛である。 新聞によってはいかなる意味での「協賛」なのかわかりにくいものもあ る18)が、前者の意味での協賛についてもっとも明確で典型的なのは、改進 党系の新聞である『民報』である。『民報』は、あきらかに条約そのものに
対する帝国議会の協賛の必要を主張した。19)天皇の条約締結権を直接制約す る憲法解釈である。ただし、それだけで手続きがすべて終わりなのかどうか、 既存の法律と矛盾する条約を締結した場合は条約に対する協賛だけで本当 に済むのかどうか、については不明である。20) それに対して、『東京朝日新聞』や『東京新報』は、憲法上の法律事項を ふくむ条約が国民を拘束するためにはあらためて法律を制定する必要があ るという憲法解釈を示した。天皇の条約締結権の無制限を前提にして、条約 そのものに対する帝国議会の協賛が必要であるという見解を否定した。した がって、この場合の「協賛」とは、通常の立法手続きすなわち条約の内容を 法律案にしたものや既存の法律の改正案に対する帝国議会の協賛である。21) 条約そのものではなく法律案に対する帝国議会の協賛の必要を主張した 新聞は、条約と法律は異なる法であることを根拠にして、条約自体に帝国議 会が協賛しても条約を法律に変えることはできない、と説いた。あくまで条 約が条約のまま国民を拘束することを否定したのである。先述した法制局の 見解と同様に、法律と命令のみが国民を拘束するという見解であった。 しかし、同じ前提は別の結論をも導き出すことになる。すなわち、条約と 法律は異なる法であるゆえにこそ、条約の締結や国内編入には帝国議会が関 与する余地はないという見解である。そのことをくり返し雑誌において展開 したのは、帝国大学法科大学教授の梅謙次郎であった。すでに千葉功が推測 しているように、当時農商務省参事官でもあった梅は陸奥宗光農商務大臣の 委嘱を受けて各新聞の主張や各国の憲法典ならびに憲法慣行を調査する22) とともに、みずからの見解を雑誌にあいついで発表した。23)大日本帝国憲法 第 21 条と第 62 条は憲法第 13 条に制限を設けて天皇大権を拘束するのか否 かという問いを設定して法律を以て定めなければならない国定関税率とは 異なり条約による協定関税率は天皇大権に属し大日本帝国憲法第 62 条の例 外であるとの見解を展開した梅は、条約に対する帝国議会の協賛のみならず 条約の内容を法律案にして帝国議会の協賛を求める措置の必要をも否定し
た24)。 以上の憲法解釈の相違は、表面上は天皇の条約締結権と帝国議会の権限を めぐる問題であるかのようにみえる。条約締結権の自由をどこまで求めるの か、あるいは帝国議会の権限が及ばない法の領域があるのか否かをめぐる見 解の相違であった。梅謙次郎は、立法権の範囲の限定を主張した。条約それ 自体に対する帝国議会の協賛を主張した議論は、あきらかに天皇の条約締結 権そのものを直接制限する憲法解釈であった。また、条約の内容を法律案に したものに対する協賛を主張した見解は、間接的に天皇の条約締結権を制約 することになる。なぜなら、国際法上条約が成立しても、帝国議会が法律案 に協賛せず履行義務をはたすことができなくなる疑いのある条約を締結し がたくなるからである。 しかし、問題はそれにとどまらなかった。条約の締結と執行にあたって条 約締結権の自由をどこまで認めるのかを論じるさいに基準とされたのは、条 約という国内法を我国の立憲制度が容認するのか否かという問題であった。 すなわち、憲法典に明定された法律と命令のほかに国民を拘束する法として 条約を国内において認めるのか否かという問題であった。ひいては、憲法典 の枠外の法の領域を認めるのか否かであった。25)その点、法律と命令しかな いという法制局の見解はわかりやすい。この問題も憲法典起草過程において あらかじめ決められていたことではなかったことを表現している。条約を国 内法として認めるということは、憲法典の外側の法の領域を認めるというこ とを意味する。 では、なんらかのかたちでの帝国議会の協賛を主張する論者は、なぜかく も憲法典の枠内で解釈しようとしたのか。また、憲法典の外側の法の領域を 認めるということは、どういう憲法解釈を導き出すのであろうか。
Ⅱ. 条約と法律の抵触
―条約による法律の変更は立憲的か否かをめぐる問題
国民を拘束する国内法として条約を認めるということは、条約の締結の条 件としてだけでなく条約が国内法上の効力を有する条件としても帝国議会 の承認を必要としない、という結論を導くことになる。そして、法律と命令 のほかに条約をも国内法として認めるということは、憲法典の条文からはあ きらかではない条約と法律の抵触問題を生むことになる。法律と命令の関係 については、大日本憲法第 9 条但書に「命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得 ス」と明定されていた。しかし、条約と法律の関係については、不明なまま であった。たとえ条約という国内法を認め帝国議会の権限が及ばない法の領 域を容認しても、はたして条約が既存の法律に抵触した場合に条約は既存の 法律を当然のように自動的に変更するとみなすことができるのか否かとい う問題が残るわけである。この問題も、憲法典起草過程で詰めた議論がなさ れなかった問題であった。単純に考えれば、既存の法律を改正すれば済むこ とではある。条約の履行義務と矛盾することはなくなる。本来法理の問題で はなく条約と法律を一致させるべく努めるべき問題であるが、憲法典実施後 間もなくの時期においては、疑義が呈された。 条約に対する帝国議会の関与を否定する論者からすれば、この答えは自明 であった。条約は法律をも改廃する効力を有し、条約は自動的に既存の法律 を変更するとみなすことができる、というものである。たとえば、内務省参 事官兼法制局参事官の都筑馨六は、議会や世論を外交に対する阻害要因とみ なし、 条約ハ批准ヲ経タルトキヨリ其国ヲ束縛スルモノナルガ故ニ之ニ違背 セル法律勅令及其他ノ内国ノ規定ハ其条約ニ抵触スルガタメニ当然消 滅スベキモノナリト信ズ帝国憲法ハ其第十三条ニ於テ条約ノ締結ヲ以テ天皇ノ大権ノ施行ト為シ毫モ之ヲ制限セズ故ニ天皇ガ此大権ニ基因 シテ締結セラレタル条約ハ議会ノ協賛ヲ経タル法律ヲモ変更スベキ効 力ヲ有スベシ26) と、条約の締結だけでなく条約が法律と抵触した場合についても明確に帝国 議会の容喙を否定した。条約の締結だけでなく国内への執行においても国内 的阻害要因をできるだけ排除することを優先させれば、必然的に条約は帝国 議会の協賛を受けた法律をも変更する効力を有すると断言することになる のである。 では、このような憲法解釈に疑義を抱く論者は、いったい何を問題にしよ うとしていたのか。政府内においてこの問題に敏感だったのは、法制局であ る。1891 年に調印された改正万国郵便連合条約の批准にあたって、法制局 (尾崎三良法制局長官)は、郵便条例と抵触する規定が存在することを指摘 し、郵便条例改正の手続きをとる必要があると進言した。しかし、榎本武揚 外務大臣は、法制局の進言を否定し、条約に抵触する法律の規定は条約の公 布とともに自動的に変更されたとみなすとの見解を示した。最終的に内閣 は、法制局の意見を採用しなかった。27) 法制局は、改正万国郵便連合条約と郵便条例の抵触によって唐突に条約と 法律の関係に関心を有したわけではなかった。尾崎三良は前年(1891 年)9 月にあいついで条約と帝国議会の関係に関する外国人顧問から答議を受け ていた。また、外国人顧問に対する質疑は、前任者の井上毅がすでに何度か おこなっていた。新聞・雑誌において協定関税率の変更に対する帝国議会の 協賛の可否が議論されていたとき、みずからも諸外国の学説や制度や実行に 目を通して検討しつつ28)井上は同じ問題をめぐって主にヘルマン ・ ロェス ラーとアレッサンドロ・パテルノストロに対して執拗に質疑を発した。 ロェスラーとパテルノストロの答議の内容は、対照的であった。ロェス ラーは、協定関税率の変更には帝国議会の協賛は必要ない、と答議した。憲
法第 62 条はあくまで国内の租税(これには国定関税率もふくまれる)に関 する規定であるというのがロェスラーの見解であった。29)それだけではない。 条約に対する帝国議会の協賛の必要を否定したのは、いかに議会が条約に協 賛したとしても条約が法律に転じるわけではないという見解のゆえでも あった。パテルノストロは、協定関税率の変更には帝国議会の協賛を経る必 要があると答議した。憲法典の明文がないかぎり条約に対する帝国議会の協 賛は必要ないと説いたロェスラーに対し、憲法秩序の維持のためには憲法典 の各条文を「調和」させて解釈し運用するべきであるとの立場をとるパテル ノストロは、たとえ明文がなくとも憲法典全体から解釈すれば帝国議会の協 賛は必要であると答えた。30)ただし、パテルノストロがいう帝国議会の「協 賛」とは、締結の条件としての条約そのものに対する協賛ではなく、締結に よって条約の国際法上の効力が生じた後に条約が国内法上の効力を有する ための条件として帝国議会に提出された法律案に対する協賛を意味してい た。31) このように、協定関税率の変更と帝国議会の関与に関する両者の見解は、 対照的であった。両者の答議を受けて、井上毅は、1891 年 6 月 6 日付伊藤博 文宛の書 において、 関税法之件ニ付パテルノストロ氏ハ、ロエスレル氏ニ反対し、当然議会 ニ付スヘしとの説を主持スルものニ有之候、 同氏答議ハ頗る詳細ニ渉り、御参考ニも供スへきものと奉存候間、写ニ 而奉差出候、其第三回答議ハ、憲法ト国際法との関係ニ付、尤精確之持 説を表候、32) と、ロェスラー答議とパテルノストロ答議を対照させ、後者を推した。そし て、別紙として三つのパテルノストロ答議を同封した。33) この時期における井上自身の見解は、小池靖一衆議院書記官に対して条約
と国内法の関係について一書を編纂し公刊することをすすめた 1891 年 6 月 24日付書 から知ることができる。井上は、編纂するべき一書の結論として 次のように記すことを提案した。 結論之主旨ハ、 日本憲法ノ成文ニ依レハ、天皇ハ絶対的ニ条約締結ノ権ヲ有シ玉フコ ト疑ナキモ、但シ同時ニ又条約ハ憲法カ国家機関議会ニ與ヘタル職権 ヲ剥奪スルコト能ハズ、条約其ノ物ハ国際上ノ契約ニ過キズシテ外部 即チ条約当事者ノ間ニ国家ノ義務ヲ生スト雖、未タ内部ニ向テ何等ノ 権利義務ヲ生スルコトアラズ、若内部臣民ニ向テ義務ヲ負ハシメント スルニハ、必ヤ主権者ノ命令ヲ公布スルヲ要ス、而シテ此ノ命令ニシ テ憲法ニ定メタル法律的ノ実体ニ属スヘキ者ニ係ルトキハ、議会ノ協 賛ヲ経ルニ非サレハ憲法上ノ定規ニ合ハザル者トス、是ニ於テカ君主 ノ特権ニ依リ締結セラレタル条約ニシテ、内部ニ効力ヲ及ホスニ当 リ、議会ノ叶賛ヲ得ザルノ故ヲ以テ施行スルコト能ハザルノ困難ナル 抵触ヲ生スルコトナシトセズ、是レ英国ニ於テ実際絶エテ見ザル所ナ レトモ理論上誣フヘカラザルモノナリ、此ノ困難ヲ避ル為ニハ、唯タ 条約締結ノ際、 国法ニ関係スル或部分ニ付テハ、議会ノ叶賛ヲ経ルノ後ニ効力ヲ有 ス、(パテルノスト ロ氏意見参看) トノ一条ヲ保ツノ(レゼルフ)一方法アルノミ との大意ニいたし度候、高見如何、御垂教奉冀候、34) これによると、大日本帝国憲法の解釈として条約締結権は天皇に専属する ものの、条約は憲法典に規定された国家機関の権限を侵犯することはできな い。条約が臣民の権利義務を直接規定するわけではなく、国内的効力を生じ させるためには主権者の命令が必要である。それが憲法上の法律事項に関す
るものであれば、帝国議会の協賛を経ることが必要である。以上が井上の見 解である。すでに締結した条約を前提にして条約の国際法上の効力と国内法 上の効力を区別しているから、ここにいいう「協賛」とはパテルノストロと 同様に条約そのものに対する協賛ではなく法律案に対する協賛であること がわかる。35) 外国人顧問に対する井上の質疑がかならずしも 1891 年の新聞・雑誌にお ける議論に触発されたものではないことは、前年の春にロェスラーとパテル ノストロに質疑を発したことによって知ることができる。公布のみによって 条約の罰則規定を直接国民に適用できるか否かという質疑であった。36)小池 宛書 の内容からもわかることであるが、この質疑も協定関税率の変更をめ ぐる問題だけが井上の関心の対象ではなかったことを示している。ロェス ラーは、議会の承諾を必要とせず法律の体裁を以て公布すればよい、と回答 した。37)パテルノストロは、立法上の権限に関することを規定する条約の条 項がある場合はかならず法律を要する、と回答した。38) また、井上が外国人顧問に質疑を発したのは、結論そのものを与えてもら うためではなかった。たしかに、井上は伊藤宛書 でパテルノストロを推し た。また、小池宛書 には「パテルノストロ氏意見参看」と記されている。 これらを読むかぎり、井上がパテルノストロに学びパテルノストロの答えに したがったとみることができる。 しかし、井上がパテルノストロに全面的に影響を受けたと断じるのは、早 計である。井上がかならずしもパテルノストロに結論そのものを求めたわけ ではないことは、憲法典起草過程においてすでにみずからの見解を有してた ことからわかる。井上の憲法草案には、特定の種類の条約は議会の承認を経 なければ効力をもたないという規定が存在していた。しかも、事前に得てい たロェスラー答議に反してまでそのような条文を設けたという経緯がある。 39)井上の草案と見解は結局採用されなかったが、みずからの草案を提出した 後もロェスラーから答議を得ていたにもかかわらず、井上は憲法典発布や施
行の後も執拗に外国人顧問に質疑を発した。そのさい、井上は、「立憲国ニ 於テハ」関税を国民に適用するためには議会に付議する必要があるかという 質問の仕方をした。40)別の質疑のなかで「独リ推理法ニ依リテノミ」法律を 改廃する条約が施行の効力を有するためには帝国議会の協賛を経る必要が あるといえると述べた41)ように、井上も、憲法第 13 条からだけは法律を改 廃する条約が効力を有するためには帝国議会の協賛を経る必要があるとい う憲法解釈をすることができないことを自覚していたからである。憲法典起 草過程における自身の見解が採用されなかった結果憲法典に明文が存在し ない以上、普遍的な立憲制度の条件を参照基準にするしかなかったわけであ る。 してみると、 井上の質疑は結論ではなくそれを支える根拠を求めるもので あったと考えるほかないということになる。みずからの見解の憲法慣行とし ての実現可能性(憲法典に明定されていなくても憲法解釈として問題ないの か、そして他国にも了解可能なほど立憲制度の通義たりえるか否か)を探る ために質疑を発したのである。 ロェスラーとパテルノストロの答議は、協定関税率の変更には帝国議会の 協賛が必要か否かをめぐって、対照的であった。また、帝国議会の協賛に関 する明文が憲法典に必要か否かをめぐっても見解を異にしていた。しかし、 その一方では、立憲制度に共通の原則をめぐって、ロェスラーとバトルノス トロは、見解を異にしていたわけではなかった。共通していた立憲制度の原 則とは、条約は法律を当然には変更できない、ということである。ロェス ラーは、法律は法律によらなければ改廃できないことは「立憲制ノ諸国ニ通 スヘキ原則」であり、42)ある事項については「真正ノ法律」「真ノ法律」が 必要である、と説いた。43)議会による条約の協賛について規定した明文がな い憲法においては、「立憲制度ノ性質、精神、目的」によって定めると説い たパテルノストロは、法律事項を条約によって制定・改廃したら「立憲制度 ノ精神、目的、担保」にもとる、と述べた。44)
このようなことを彼らが強調したのは、なぜか。そこでみておきたいのが パテルノストロ答議の一節である。 第十三条ノ解釈ニ付テハ如何ナルモノヲ以テ正当ナリトスルヤ。本条ハ 憲法中ノ他ノ条ヲ離レテ明ニ立憲(即チ制限セラレタル)君主国ノ元則 ニ適合シタル貴国憲法全体ノ意義ヲ離レテ観察ヲ下スヘカラス。〔中略〕 条約ハ国法ノ一部トナルハ実ニ然リ。然レトモ条約カ国法ノ一部トナル ニハ其ノ条約ハ憲法上有効ナルヲ要ス。然ルニ若シ其ノ条約ニシテ、根 本法(憲法)ノ規定ニ又ハ立法権ヨリ生スル法律ノ規定(日本ニ於テハ 天皇ハ議会ノ協賛ヲ以テ之ヲ作ル(第五条))ニ違反スルトキハ、憲法 上有効ナリト云フヘカラス。天皇ハ其ノ権力、即チ憲法(第四条)ノ規 定ニ従ヒ、其ノ身ニ有セラルヽ総テノ大権ヲ施行セラレサルヘカラス。 然レトモ、第十三条ノ大権ヲ施行シナカラ、亦憲法ノ総テノ他ノ諸条ヨ リ生スル条件及制限ヲモ遵守セラレサルヘカラス。然ラサレハ大権ハ制 限ナキモノトナリ、憲法全体ハ天皇ノ意思ニ依リ左右セラルヽニ至ルヘ シ。是レ、立憲主義ノ精神ヲ減尽スルモノニ非スヤ。45) ここには、憲法典の条文にあきらかに抵触する条約を締結し執行すること だけが憲法違反なのではなく、条約を国内編入する方式においても憲法違反 がありえることが示されている。条約の国内編入の手続きによる憲法破壊を 警告しているのである。この場合の憲法破壊とは、憲法上の法律事項をふく む条約の執行方法によっては憲法典の他の条文を無効にしてしまうことで ある。パテルノストロがいう「立憲」の意味(立憲主義の基準)は、憲法典 の条文による権力の制限というシンプルなものであったが、制限された天皇 大権の根拠を憲法第 4 条に求め、憲法典に制限された統治権総攬者としての 天皇を想定していた。天皇の意思によって憲法典が左右されてしまうと述べ ているように、法律は法律を以てのみ変更できるという原則に例外を設けて
条約が自動的に法律を変更するとみなす憲法解釈と運用は、天皇が憲法典の 枠外にいる無制限の存在とみなすことになり天皇が憲法破壊をすることを 容認することになるということを警告したのである。46)憲法典施行後の外国 人顧問の答議は、もし条約が法律を当然変更できるとみなす憲法解釈と運用 をすればいかなる事態になりえるかを井上毅に知らしめるものであった。47) このことは、主権者に関する都筑馨六の見解と比較すれば明確になる。条 約の締結に対する帝国議会の関与を否定した都筑は、天皇を条約による法律 の改廃をもできる無制限の主権者とみなした。48)また、梅謙次郎の見解にみ られるように、条約の締結と履行の円滑さを優先させれば、憲法解釈上の疑 義が生じたときに憲法上の法律事項をふくむ条約の国内編入についてはど うしても憲法典の「常則」では説明できない「例外」であると説明するしか なかった。49)それが立憲制度に反しないのは憲法第 13 条にしたがったから である、という説明がなされた。50)条約の締結のみならず執行についてまで いかなる意味でも帝国議会の関与を否定することを説明しようとすれば、憲 法典の枠外の法を国内に強制する主権者を想定することになるのである。パ テルノストロが憲法第 4 条を根拠にしてあくまでも天皇を憲法典の枠内の統 治権総攬者とみなそうとしたのとは対照的である。51)
Ⅲ.憲法解釈確定の困難と議論の収束
梅謙次郎と都筑馨六の主眼は、外交の迅速・秘密と条約の締結・執行の円 滑さを確保するために、帝国議会の関与をできるだけ排除することであっ た。法理上の議論も憲法典の条文に照らした解釈も、すべてこの結論を正当 化するためのものにほかならなかった。イギリスと異なり政党と議会政治が 未熟あることを根拠にしてイギリスの憲法慣行を参照できないことを説い き、帝国議会に付議したら条約改正は永久に困難であると断じたり、52) 世論 や帝国議会の意向に左右される政治的安定性と執行力を欠いた政府による弱い外交は国際的な信用を損ない諸外国からの軽侮を招くであろうと述べ た53)のは、主張の目的を正直に示している。あるいは、いかに憲法第 21 条 や第 62 条に従って法律につくりなおしたとしてもそれは法律を以て定める ことにはならないとしてすでに締結された条約によってすでに法が定立さ れていることを梅が強調した54)のも、それを示すものである。彼らからす れば、帝国議会(特に衆議院の政党勢力)も一般の世論も、当面の課題と なっている条約改正をはじめとする外交の阻害要因になりこそすれ、外交の 後援として期待できる存在ではなかった。 しかし、実際には帝国議会や世論を完全には無視できないという現実が あった。55)実際、伊藤博文は、枢密院における憲法草案審議で天皇の条約締 結権が帝国議会によって拘束されることを否定する一方で、外交政策を明示 することは便宜上必要な場合もあると述べていた。56) また、梅や都筑の主張に対して、日本の国権や国益を毀損する条約を締結 しかねない事態を憲法典による拘束によって防遏することを試みる見解を 対置させることができる。実際、憲法典起草過程における井上毅「初稿」第 16条「外国条約ニ由リ国疆ヲ変更シ又ハ国及人民ニ義務ヲ負ハシムル者ハ両 院ノ認可ヲ経ザレバ其効ヲ有セズ」の説明にあるように、政府が恣意的に条 約を締結するどころか国益や国権を毀損すると疑われる条約を国家間の力 関係の結果締結してしまうかもしれないという見地から、特定の種類の条約 には議会の承認が必要だという見解も、存在していた。57)井上が自己の案が 採用されなかった後も、みずからの見解に沿った憲法慣行の実現可能性を 探ったことは、前述したとおりである。 ただし、憲法典に明文があろうとなかろうと、条約を締結した後に帝国議 会の承認を経るという慣行をただちに形成することは容易ではなかった。現 実の実行においては帝国議会による否決の結果条約の不履行という事態を 生むかもしれないからである。井上はそれが国際的な問題を生みかねないこ とを自覚していた。この困難を回避する方法としてパテルノストロが提示し
たのは、世論や帝国議会の意向を察することや国内政治上の工作のほかは条 約の留保条件付の署名や締結しかなかった。58)それは条約の速成ということ を考えた場合、現実的であったとはいいがたい。 一方、憲法典の条文に照らした場合、条約の締結にも国内編入にも帝国議 会は関与できないという憲法解釈は、あながち乱暴な議論ではなくそれなり の根拠と正当性を有していた。そのことは、次のことによって確認すること ができる。 第一に、大日本帝国憲法の他の条文とは異なり、第 13 条には但書がない。 第 9 条・第 10 条・第 40 条などには但書があるのと対照的である。また、条 約に関する規定は、他の条文にはない。第二に、諸外国の憲法典には議会の 条約に対する承認に関する規定は存在するが、大日本帝国憲法第 13 条には 但書や第 2 項がない。憲法典起草過程において参照されたと思われる他国の 憲法典の条約締結権に関する条文には特定の種類の条約に対する議会の承 認の規定があるにもかかわらず、である。59)そのことは憲法典起草者も自覚 していた。枢密院における憲法草案審議のさいに、伊藤博文枢密院議長はプ ロイセン憲法第 48 条との相違を強調している。60) しかし、憲法典の条文に明文の但書が必要か否かということについては、 疑義が残る。その例として、天皇大権とされる憲法第 10 条・第 12 条・第 13 条(宣戦権)・第 15 条に対する国債や予算外支出に関する第 62 条第 3 項そ して国家の歳出に対する帝国議会の協賛を規定した第 64 条を挙げることが できる。憲法典の他の条文によって天皇大権が制限されることはないという 解釈に対する反証を挙げることができるのである。 大日本帝国憲法は、不文憲法的な要素を多分に有する憲法典であるゆえ に、このように法理によってあらかじめ原理的に確定することができるもの ではなかった。外交の優先を強調すれば、憲法典の枠外の無制限な主権者を 想定しなければならなくなる。憲法典の常則に対する例外としかいいようが なく、憲法第 13 条にしたがったゆえに憲法違反ではないと強弁するしかな
いのである。一方、条約それ自体に対する帝国議会の協賛といっても、立法 に関する帝国憲法の条文を根拠にしながら、条約それ自体に対する帝国議会 の協賛を以てたれりとした。その結果いかにして法律にするのか不明である ゆえ、法理上杜 な議論となってしまうのである。 条約の内容を法律案にして帝国議会の協賛を求めるべきであるという憲 法解釈は、パテルノストロ自身も説いていたように、通常の法律案の審議と 異なり修正することはできないわけであるから、61)これも法理としては問題 が残る憲法解釈である。また、この憲法解釈は、条約の履行と憲法上の手続 きにしたがった法の定立が両立するように無理に説明しようとすれば、帝国 議会の協賛が義務であることを当然のこととする憲法解釈に行き着いてし まう。憲法典発布後間もなくの時期に示した憲法解釈において法律と命令だ けが国民を拘束する法であると説いていた穂積八束は、62)2年半後には条約 は国家機関を拘束して立法と行政の自由を奪うとの見解を示すようになっ た。穂積によれば、国家は条約を履行する責務を負うが、法律が条約を変更 できないのと同様に条約も法律を変更できない。穂積の場合も、条約と法律 が異なることを根拠にして、法律事項をふくむ条約を執行するにあたって立 法措置があらためて必要であるとしている。そのさい、法律案の修正も否決 も不可であることを結論としている。63)無理に法理にこだわると、かように あまりにも形式主義的な協賛義務説になるのである。 してみると、あらかじめ憲法解釈を法理や学理によって原理的に確定する のは困難な問題であったということになる。そもそも、憲法上の法律事項 (法律を以て定めるべき事項)とはいっても、そもそも法律と命令の区別す ら確定しきれていなかったというのが現実であった。 政府およびその周辺では、条約の国内編入をめぐる問題について憲法解釈 を原理的に確定しかねていた形跡がある。明治 40 年勅令第 6 号公式令(1907 年 2 月 1 日)が制定され条約は条約として公布されるようになるまで勅令無 号という番外の勅令というかたちで条約を公布しつづけていたのも、条約の
国内編入の方式を確定できなかったことを表現しているが、それ以外にも、 たとえば次のような事例からうかがい知ることができる。 大隈条約改正案の修正案を締盟各国に送付するべく作成され 1890 年 2 月 8日に閣議決定された青木周蔵外務大臣起草の覚書に「帝国政府ニ於テ顕然 タル立法部ノ反対ノ為メニ完全ナル実施ヲ得難キ条約ヲ締結スルハ断シテ 之ヲ為スヘカラサルモノト確信スル」64)と記されていたのに対して「条約締 結ハ 天皇ノ大権ニ属シ議会ノ得テ容喙スヘカラサルハ憲法正文ノ規定ス ル所」65)であると批判して条約に対する帝国議会の関与を否定した伊東巳代 治が改正万国郵便連合条約批准のさいに枢密院書記官長として示した見解 は、含みをもたせる曖昧さを残すものであった。改正万国郵便条約の公布は 勅令を以てすればよいとの見解を示しつつ、66)改正万国郵便連合条約と郵便 条例の抵触問題には明確な回答を避けた。商品見本の大きさと重量を規定し た改正万国郵便条約第 5 条第 5 項と郵便条例第 209 条があきらかに抵触して いたにもかかわらずである。しかも、 若夫レ条約ノ効果ニ至リテハ条約ハ 天皇ノ大権ニ属スト雖以テ法律ヲ変更スルノ効力アルコトナシ其ノ理 由ノ如キハ目下ノ疑義ニ関係スル所ナキヲ以テ今敢テ之ヲ贅セス67) と、条約は法律を変更できないとの見解を示した。できるだけ条約に帝国議 会を関与させたくない一方で、条約が自動的に法律を変更することを認める か否かという問題を突きつけられると、躊躇せざるをえなかったのである。 憲法解釈の確定を躊躇するかのような同様の姿勢は、日清戦後の日独通商 航海条約(1896 年 4 月 4 日調印、11 月 20 日公布)の批准をめぐる枢密院会 議においてもみられた。第二読会において副島種臣枢密顧問官が「若シ条約 ヲ以テ法令ヲ打消スコトヲ得ルトセハ国家カ有スル処ノ立法権ハ全ク蹂躙 セラレタルニ均シ」と疑義を呈したのに対して、西園寺公望外務大臣は確答
を示すことができなかった。68)また、第一読会で「条約法律共ニ国家ノ意志 ナリ若シ法律カ条約ニ牴触セハ反対ノ法令ハ自然消滅スヘシ」69)と述べた政 府委員の本野一郎も、第二読会では「条約ト法令ノ一般ノ関係ニ付キ将来如 何ナル事カ規定セラルヽヤ否ハ外務省ノ知ラサル所」であると述べている。70) これらの事例にみられる曖昧な姿勢は、憲法上の法律事項をふくむ条約や 既存の法律に抵触する条約の履行を優先させることに対する躊躇が存在し ていたことを示している。いかに条約の円滑な履行のためとはいえ憲法上の 法律事項にかかわることを原理的に確定することに危惧と躊躇を覚えずに はいられないという態度である。 憲法上の権限の問題としてあらかじめ憲法解釈を原理的に確定できる問 題ではなく、現実の政治における自然の変化や発達にまかせる問題であっ た。そのことに自覚的な者がいたことは、すでに憲法典起草過程の 1887 年 5月のロェスラー答議において指摘されていたことによって確認することが できる。井上毅の質疑に対する 1887 年 5 月 30 日付のロェスラー答議は、君 主の条約締結権と議会の関係について、「蓋此問題タル、法律上ノ問題ニア ラスシテ、実力上ノ問題ナリ」71)とあるように、あらかじめ憲法典によって 確定するべき問題ではないと説いた。また、年月日不明だが初期議会期であ ろうと思われる起草者不明の意見書は、条約締結と法律制定の必要の問題 は、 憲法上権限ノ争ナレトモ之ヲ判定スルモノハ勢力ノ強弱如何ニアルモ ノナリ故ニ政府ノ勢力ニシテ議会ノ勢力ヨリ強大ナルトキニハ容易ニ 己ノ欲スル所ノ法律ヲ制定スルコトヲ得ルナランカナレトモ若シ政府 ニシテ議会ヲ左右スルコト能ハサルトキハ頗ル困難ナル位地ニ立ツナ ラン依テ此疑問タルヤ後日ノ実際ニ依リ判決セラルヽモノニシテ今日 ヨリ予メ理論ヲ以テ確定スヘキモノニアラサルナリ72)
と記している。 現実の政党の行動は、条約の締結もしくは国内編入に対する帝国議会の承 認という憲法慣行の実現可能性を高めるものではなかった。政党は、この問 題に対して積極的な関心を示さなかった。一時期といえどもあれほど新聞・ 雑誌で議論がなされたり報じられていたにもかかわらず、である。条約改正 案の内容こそが条約改正をめぐる政党の主たる関心の対象であった。自由党 は、協定関税率の変更に帝国議会の協賛を必要とするか否かという憲法解釈 の問題にまったく関心を示さなかったわけではないが、73)自由党とって主た る関心の対象は、条約の国内編入の方式や条約と法律の関係あるいは帝国議 会の権限をめぐる問題ではなく、自党の主張を改正条約案にいかに反映させ るかということであった。特に、関税自主権が回復されて関税率が国定に なった場合の事態を想定した海関税法案の提出に熱心であった。改進党は、 当初は条約改正問題に熱意を示さずにいたが、やがて対外硬運動に参加して いった。74) 新聞や雑誌における議論も、どれだけ強い関心を有して本気でこの問題に ついて議論しようとしたものであったのか、あやしい。持続する議論になら なかったこと自体、新聞が真剣にこの問題を追究しようとしていたわけでは ないことを示している。75) そもそも、憲法典発布直後の時期新聞・雑誌における憲法第 13 条の解説 は、積極的に帝国議会の権限を主張するものではなかった。疑義を呈しても 及び腰の願望の吐露にとどまった。条約締結権が天皇に専属することを原則 としつつ、条約の種類によっては何らかのかたちでの帝国議会の承認を必要 とするのではないか、との指摘をするにとどまった。76) 1891年の協定関税率をめぐる議論は、長続きしなかった。1892 年に改正 万国郵便連合条約が批准・公布されるさいには、ほとんど問題にしなかっ た。77)たしかに、条約改正問題に比べればこの条約は、強い関心を引くよう なものではないし、我国の国益に重大な影響を有するものとはいいがたかっ
た。しかし、既存の法律との抵触が問題になる条約がいまだ少なかった時期 において、議論になりえる格好の条約であった。その意味で、憲法上の法律 事項をふくむ条約の締結や国内編入をめぐって疑義を呈する議論は、言論界 においては一過性の話題でしかなかった。 政党が帝国議会において行動を起こしたり政党機関誌78)や新聞・雑誌で 論じ始めるようなったのは、初期議会期の末期すなわち日英条約改正が達成 される頃になってからである。そのさいに説かれたことは、かつての新聞・ 雑誌における議論と変わらないものであった。1894 年 6 月 1 日、鈴木重遠 (立憲革新党)は、次の決議案を緊急上程して即日賛成多数で決議された。 条約ノ締結ハ天皇ノ大権ニ属スト雖モコレカ為メ新タニ法律ノ制定ヲ 要シ又ハ法律ニ変更ヲ生スヘキ事項及租税ノ賦課変更ニ関スル事項ハ 憲法第五条第三七条第六二条及第六三条ノ成文ニ由テ当然帝国議会ノ 協賛ヲ経ヘキモノトス茲ニ之ヲ決議ス79) 条約の結果として法律の制定や変更および租税の賦課について変更が生 じる事項については帝国議会の協賛を経る必要があるという内容であるが、 ここにいう「協賛」の意味が不明である。賛成演説を読み比べれば、80)議論 を詰めることなく急遽建議案が提出されたことをうかがい知ることができ る。81) これ以降、政党機関誌ならびに一部の新聞において協定関税率の変更には 帝国議会の協賛を経る必要があるとの議論がなされたり82)第 8 回帝国議会 において質問がなされることはあった。83)しかし、イギリス以外の諸国との 改正条約が調印されていくなかで持続する運動や議論にはならなかった。84)
おわりに
初期議会期における憲法上の法律事項をふくむ条約の締結や国内編入を めぐる見解の相違は、表面上は単なる国家機関の権限をめぐる憲法解釈の相 違にみえるものであった。しかし、それにとどまるものではなかった。二種 類の法の国内における通用をめぐる見解の相違であった。二種類の法の通用 とは、憲法典の通用(国内における定着)と条約の通用(円滑な条約の締結 ならびに執行)であった。条約の国内編入という憲法典においてかならずし も明定されていない事項の運用のさいに、あくまで憲法典の枠内で処理する のか、それとも立憲制度が憲法典の枠外の法をも容認するとみなして運用す るのか、の相違である。憲法典施行後まもなくの時期であるということと条 約改正がいまだ達成されていないという状況のもとでの 藤であった。ゆえ に、憲法上の法律事項をふくむ条約の締結や国内編入については、憲法典の 枠内で考えることと円滑な条約の締結・執行のいずれを優先させるかという 択一的な議論になりがちであった。それは、自動執行性を有する条約ばかり を念頭において条約によって既存の法律を恣意的に改廃できる憲法典の枠 外の主権者を想定してもよいのか否かを議論するという極端な想定にもと づくものであった。 では、かような極論による憲法解釈の相克を解消する現実の条件は、何で あったのか。換言すると、なぜ議論が早期に収束し大きな政治的問題になら なかったのか。改正条約締結後の現象だけを眺めれば、条約改正のかなりの 達成と改正条約実施準備のために憲法解釈をめぐる議論が持続することな く収束していったということはできる。しかし、それだけでは、一時的な現 象の説明にすぎないとともに、なぜ条約の国内法上の効力を認めるという戦 前日本の慣行が立憲制度に反するものとされなかったのかを説明できない。 極端な想定にもとづく憲法解釈を現実の政府の実行が解消する条件と なったのは、国民を直接拘束する法の定立が憲法典の枠内でおこなわれたことである。すなわち、通常の立法手続きによっておこなわれたことである。 憲法上の法律事項をふくむ条約の国内編入のさいの政府による実行は、条 約の国内法上の効力の問題を原理的に確定するものではなかった。それが可 能であったのは、自動執行性を有する条約がきわめて少ないという条件のも とで、多くの場合実施立法が必要だったからである。この場合の実施立法と は、条約の内容を具体化することだけを指すのではなく、条約において特定 の立法を約束した場合のことをもふくむ。85)政府は「命令ヲ以テ法律ヲ変更 スルコトヲ得ス」という但書の制約を有する大日本帝国憲法第 9 条による独 立命令によって条約を実施するよりも、法律案を帝国議会に提出し協賛を求 める実施立法をおこなっていった。それは法理によって導かれたものという よりも立法政策上の判断によるものであった。 ただし、帝国議会の協賛を経る実施立法がなされても、問題は残る。一つ は、条約による拘束のもとでの立法であるという問題である。いま一つは、 自動執行性を有する条約の存在である。 前者は、すでに国際法上の効力を有した条約の拘束のもとにおける実施立 法であるという現実である。86)条約を履行する意思がある以上、条約が立法 を拘束するのは当然である。条約の締結とは、当該条約の拘束を受けること に対する同意の表明だからである。条約の締結の時点で国家は条約の拘束を 受けることに同意したことになる。したがって、その履行意思がいかにして 形成され確定されるのか、という問題が残ることになる。条約の締結に帝国 議会は関与していないからである。 とはいえ、実施立法は通常の立法手続きを経てなされたわけであるから、 可否決も修正も帝国議会の自由意思にゆだねられていた。この結果、条約の 締結に対する直接的な容喙を否定された帝国議会が間接的に条約の締結を 制約する余地は存在したのである。なぜなら、実施立法のさいに帝国議会が 否決したら、条約の履行義務をはたすことができないからである。条約の不 履行とそれにともなう国家責任を回避するためには、政府はあらかじめ帝国
議会の意向を察したり法律案を通過させるべく帝国議会に理解を求めるほ かはないが、これはもはや条約の国内編入をめぐる法理の問題ではなく政略 の問題である。国権や国益をいちじるしく損なうと疑われる条約でないかぎ り、条約の不履行による国際的なリスクをおかしてまで帝国議会は否決する ことはなかった。 たとえ条約に淵源があろうとも直接的には法律が国民を拘束していると いうことになったわけである。これは、条約を履行する意思にもとづく条約 による立法の拘束と立憲制度のもとにおける国民を直接拘束する法の定立 の条件とを両立させるものであった。かくして、立憲制度に反していると強 く疑われ政治的な紛議になったり持続する強い批判が高まることはなく なった。 いま一つの残された問題は、自動執行性を有する条約の存在である。いか に自動執行性を有する条約が少なかったとはいっても、条約の規定が国民を 拘束することになるという問題や条約が既存の法律を変更できるか否かと いう問題が残ることになる。しかし、実際には「条約に別段の規定がある場 合にはその規定による」という意味の国内法律の規定をふくむ法律案に対し てほかならぬ帝国議会みずからが協賛していった。87)また、もし自動執行性 を有する条約が多くなったり帝国議会が実施立法のさいに否決して条約を 履行できない事態が生じれば、別の措置をとる余地は残されていた。憲法典 の起草者意思はともかく、大日本帝国憲法はそれを禁止していなかった。そ の意味では、条約の国内法上の効力を認めるという慣行が形成されたという よりは、憲法第 13 条の不文憲法的な運用を継続させたという方が正確であ る。 以上の結果、憲法典の現実の運用においては、条約の国内法上の効力は大 きな政治問題にならなくなり、条約の締結や国内編入をめぐる法理上の疑義 は後景に退いたのである。
注 1) 1889 年春黒田清隆宛井上毅「立憲施政意見」(井上毅伝記編纂委員会編『井上毅伝』 史料 第二、國學院大學図書館、1968 年)84 頁。 2) 大平三原則をふくめた戦後日本における国会承認条約に関する運用については、さし あたって中内康夫「条約の国会承認に関する制度・運用と国会における議論―条約 締結に対する民主的統制の在り方とは―」(参議院事務局企画調整室『立法と調査』 330、2012 年)を参照。 3) 「憲法問題調査委員会議事録」( 部信喜ほか編著『日本国憲法制定資料全集』(1)日 本立法資料全集 71、信山社、1997 年)375 頁。 4) 高野雄一『憲法と条約』(東京大学出版会、1960 年)126 頁。 5) 岩沢雄司『条約の国内適用可能性―いわゆる "SELF-EXECUTING" な条約に関する 一考察―』(有斐閣、1985 年)28 頁。 6) たとえば、林修三「条約の国内法上の効力について」(『法学教室』№ 7、1963 年)35 頁。松澤幸太郎「明治憲法下の外交大権における条約締結権限―コールグローヴ博 士の考察―」(『筑波法政』第 61 号、2014 年)175 ∼ 176 頁。 7) 山本草二「国際法の国内的妥当性をめぐる論理と法制度化―日本の国際法学の対応 過程―」(『国際法外交雑誌』第 96 巻第 4・5 合併号、1997 年)。小林友彦「「国際法 と国内法の関係」を論じる意義―日本の学説の展開過程に照らして―」(東京大学 『社会科学研究』第 54 巻第 5 号、2003 年)。 8) 千葉功『旧外交の形成―日本外交 1900 ∼ 1919―』(勁草書房、2008 年)第Ⅰ部 第 1 章 2。 9) 伊藤博文『憲法義解』(宮沢俊義校 、岩波文庫、1940 年)40 ∼ 41 頁。ちなみに、枢 密院における憲法草案審議のさいに配布された諮詢案(原案)の説明では、『憲法義 解』の「議会の参賛を仮らず」は「議会ノ干渉ヲ仮ラス」という表現であった。「帝国 憲法枢密院諮詢原案・説明」(『三条家文書』書類の部 37-2、国立国会図書館憲政資料 室所蔵)。 10) 寺島宗則枢密院副議長が米独両国の憲法に触れたあと、条約を君主権や政府のみにゆ だねることは不都合であると述べたのに対して、伊藤博文枢密院議長は反論した。伊 藤は、憲法典の規定として条約に対する帝国議会の承認を義務づけることを否定し た。『枢密院会議議事録』一(東京大学出版会、1984 年)206 ∼ 207 頁。また、寺島 は、国土の交換のような人民の負担に関係する条約をも議会に付議しないのか、と質 問した。伊藤は、すべての条約を国会に付さないと答弁した。副島種臣顧問官は、敗 戦のさいの講和条約による償金や割地のことに言及し、これらは人民の権利に関する ものゆえ議会の議に付する必要があると述べた。副島の発言に対して、伊藤は長い答 弁をおこない、寺島顧問官に対して述べた第 13 条の趣旨を再び強調した。そのなか で、敗戦の場合には講和条約を議会に付議しても意味がないことを説いている。同前、
208∼ 210 頁。 11) ちなみに、『尾崎三良日記』1891 年 9 月 8 日条によると、伊藤博文は尾崎三良法制局 長官に対して、「関税ノ改正ハ議会ノ協賛ヲ要スルヤ。伯ノ論ハ条約締結ノ権ニ在リ。 然レドモ他ノ論者ニ異リ、従前ノ条約既ニ議会ノ協賛ナシニ締結シタルニ依リ、其継 続トシテ仍ホ協議ヲ要セズトノ事ナリ」と、従来の慣行の延長のままでよいと述べる にとどまった。伊藤隆・尾崎春盛編『尾崎三良日記』中巻(中央公論社、1991 年)523 頁。 12) 明治 19 年勅令第 1 号公文式(1886 年 2 月 26 日)においては、条約の公布式は規定さ れていなかった。当時の慣行では条約は勅令無号として公布されていた。それ以前は、 太政官布告・太政官布達として公示されていた。条約を勅令無号として公布した最初 の例は、明治 19 年勅令無号メートル条約加入(『官報』第 837 号、1886 年 4 月 20 日、 189∼ 193 頁)である。 13) 詳しくは、頴原善徳「大日本帝国憲法起草過程における条約締結権」(『立命館大学人 文科学研究所紀要』№ 105、2015 年)を参照。 14) 「憲法第十三条ニ依ル天皇ノ条約締結権ニ関スル疑義」(『松方家文書』第五七冊憲法 五、マイクロフィルム版 R31)。 15) 「条約ノ国内ニ対スル効力他」(『陸奥宗光関係文書』書類の部 61-32、国立国会図書館 憲政資料室所蔵)。 16) 「意見書 日本国ニ於テ国際条約ノ効力」(『陸奥宗光関係文書』書類の部 93-10、国立国 会図書館憲政資料室所蔵)。法制局罫紙ではなく蒟蒻版に記されたこの意見書も、条約 の国際法上の効力と国内法上の効力を区別し天皇が締結した条約が日本の臣民を拘 束する効力を有するためには法律としての公布が必要であるとの内容から、法制局の 見解を記したものであることがわかる。 17) ただし、『東京朝日新聞』は、すでに大隈条約改正反対論が喧しかった時期にも、憲法 典・条約・法律の間の効力の優劣に関する問題を論じるにあたって、条約の国内編入 の方式についても論じていた。『東京朝日新聞』1889 年 9 月 17 日∼ 9 月 21 日号社説 「憲法、法律、条約」。 18) いかなる意味の「協賛」なのかわかりにくい例として、『読売新聞』1891 年 4 月 15 日 号社説「条約改正に関する一大疑問」。『郵便報知新聞』1891 年 4 月 23 日号論説「通 商条約と帝国議会」がある。 19) 『民報』は、批准奏請前に帝国議会の協賛を求めるべきである、と論じた。『民報』1891 年 4 月 10 日社説「内閣の意見を問はん」。 20) このような条約自体に対する帝国議会の協賛の必要を説く議論は、条約に対する協賛 の後いかなる措置をとるのかわからないものばかりである。協賛必要論のなかで立法 措置の不要を断言した珍しい例は、城数馬「海関税と帝国議会」(『国民之友』第 128 号、1891 年 8 月 23 日)である。
21) たとえば、『東京朝日新聞』1891 年 4 月 10 日号社説「法律と条約」は、天皇大権に制 限を加えて帝国議会の協賛を経なければならないとする『民報』を批判している。『東 京新報』1891 年 4 月 28 日号社説「一種の憲法違犯」は、条約に対して帝国議会が協 賛しても法律にはならないことを説いている。 22) 千葉功『旧外交の形成―日本外交 1900 ∼ 1919―』(勁草書房、2008 年)13 頁。 梅謙次郎「条約締結ニ関スル英国憲法ノ規定 他諸外国ノ例」(『陸奥宗光関係文書』書 類の部 93-5、国立国会図書館憲政資料室所蔵)。また、新聞・雑誌における主張や報 道も調査し整理していた。梅謙次郎「条約ニヨル関税変更ニ帝国議会ノ協賛ヲ要スル カ否カノ論拠」(『陸奥宗光関係文書』書類の部 61-30、国立国会図書館憲政資料室所 蔵)。朝比奈知泉「関税条約に関する梅、城両氏の論文を読む」(上)(『国民之友』第 129号、1891 年 9 月 3 日)を挙げているから、9 月以降に作成したものである。 23) この時期、梅謙次郎は同趣旨の論文を複数発表している。「条約ヲ以テ関税ヲ変更セン ト欲スルトキハ帝国議会ノ協賛ヲ要スルヤ否ヤ」(『納税議員月報』第 2 号、1891 年 5 月 20 日、第 3 号、1891 年 6 月 20 日)。「条約を以て関税を変更せんと欲するときは帝 国議会の協賛を要するや否や」(『法律政紀』第 6 巻第 60 号、1891 年 6 月 10 日、第 6 巻第 61 号、1891 年 7 月 11 日)。「条約ヲ以テ関税ヲ変更セント欲スルトキハ帝国議会 ノ協賛ヲ要スルヤ否」(『法学協会雑誌』第 9 巻第 7 号、1891 年 7 月 1 日)。「条約ヲ以 テ関税ヲ定ムルニハ帝国議会ノ協賛ヲ要スルカ」(『国民之友』第 126 号、1891 年 8 月 3日)。 24) このような梅謙次郎の見解に対しては、批判がなされた。城数馬「海関税と帝国議会」 (『国民之友』第 128 号、1891 年 8 月 23 日)。太芳生「梅博士の関税論を読む」(『日 本』1891 年 8 月 12 日・13 日)。同「再び梅博士の関税論に就て」(『日本』1891 年 9 月 5 日・7 日)。太芳生とは、翌年に「改正万国郵便連合条約に就て、疑議」(『日本』 1892年 7 月 5 日)を寄稿した太田芳造であろう。朝比奈知泉「関税条約に関する梅、 城両氏の論文を読む」(上)(『国民之友』第 129 号、1891 年 9 月 3 日)。同「条約ヲ以 テ関税ヲ変更セント欲スルトキハ帝国議会ノ協賛ヲ要スルヤ否ヤ」(『納税議員月報』 第 3 号、1891 年 6 月 20 日)。朝比奈は『東京新報』主筆であった。梅は、朝比奈に対 する反論を発表している。梅謙次郎「読朝比奈知泉氏佀論」(『納税議員月報』第 4 号、 1891年 7 月 20 日)。このほか、外務省政務局勤務の秋山雅之介による梅に対する批判 論文がある。秋山雅之介「条約ヲ以テ関税ヲ変更セント欲スルトキハ帝国議会ノ協賛 ヲ要スルヤ否ヤ」(『法学協会雑誌』第 9 巻第 11 号、1891 年 11 月 1 日、第 9 巻第 12 号、1891 年 12 月 1 日)。秋山は、天皇の条約締結権は無制限であり例外についての但 書がないことを根拠にして前出の城の見解を批判した。他方で、条約の締結と条約の 履行を混同してはならず法律案として議会の協賛を経た後に法律として天皇が裁可 して公布と執行を命じる必要があると述べて、梅の見解を否定した。また、『陸奥宗光 関係文書』には、法制局罫紙に記された梅謙次郎に対する批判の文書がある。「法学協