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サン・パウロ高原における珈琲プランテーションの発達と欧州移民労働力 : ブラジル経済開発史上における労働力気候適応の問題

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サン・パウロ高原における珈誹プラン

テーシ・ンの発達と欧州移民労働力

      ーブラジル経済開発史上における労働力気候適応の問題一       和   田

  本稿は本誌三十六号掲載の前稿﹃ブラジル経済史開発上における労働力気候適応の問題iーサン・パウロ高原への弱輩プランテーショ   ン立地移動要因としての自然条件優越説への批判﹄の続篇をなし、その四、・五・六に当る三節を藪に収めた。     回 珈排栽植耕立地と労働力問題         −奴隷制度廃止前における欧洲移民労働力招致の先駆的実験とその熱帯気候適応の問題の 帝国政府の移民政策と欧州移民の気候適応の問題  一八〇七年十一月三十日ナポレオン軍がリスボンに進駐した。この難を避けて葡萄牙王室は廷臣・官[吏その他若干の軍 隊を含めて約一万の人員を従え、ブラガンサ王朝の莫大な宝物と王室の文庫を携えてポルトガルを離脱したのはその前日 のことであった。王室は一八○八年一月にバイヤに到着するや葡本国の伝統的政策であった閉鎖主義、即ち移民政策にお         いては漁人以外の移民に対する厳重な制限政策を廃止し、且つブラジル諸港を国際的に開放することを宣した。  それは従前の如き葡本国独占主義による少数の良人移民を以てしてはブラジルの富源開発は不可能であることを認識し たからである。至人移民は奥地開発に従事することを欲せず、農業に従事する者も大抵は海岸地方にとどまり、或いは小 商売か下級官吏になる途を選んだ。殊に在給電人の間では植民地時代の黒奴輸入以来の伝統的傾向として労働を蔑視し自    サン・パウロ高原における珈球プランテーションの発達と欧州移民労働力      六五

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   サン・パウロ高原における珈瑳プランテーションの発達と欧州移民労働力      六六       ③ から農業に従事することを恥とした。かかる住民のみではブラジルの経済発展を期することの不可能を自覚し、片や印旬 入奴隷が一七五五年に開放された如く、黒人奴隷制度も永続すべぎものではなく早晩彼らの解放も免るべからざる傾勢に あることは仏蘭西大革命思想のブラジル流入によって益々助成されて来た。かくて労働蔑視の葡系住民と無智なる黒人奴 隷労働力を以てしては到底国富の増進を期することが出来ぬことに想到して、従来の労働状態を一新する必要を感じ薮に 葡政府は外国移民招致の策に出たのであるQ  即ち政府は一八○八年に勅令を以て未開地無償払下を規定して、欧洲移民の自由渡来を待つたが、当時欧洲はナポレオ ン戦争により疲弊荒廃して移民を出す余裕なく、欧洲よりの移民は蓼々たる状態でブラジルの期待に反した。しかも当時 ブラジルは未だ擁腐野蛮の地と見られ、移住せんとする者も多くは北米を択んだ。かかる状態に鑑み政府は蕪に移民補助        ④ 政策に転じて移民招.致助成に努めた。官設植民地建設が即ちそれである。 一八一=一年ブラジル独立後もこの政策は継続さ れたが、一八五〇年まで政府の多大の移民費にも拘らず実効少なく期待に反した。 ぎ  吾々は藪で欧洲移民の為に建設された植民地の位置と欧洲移民の気候適応との問題を検討したい。第一表に示す如く官 設植民地は州立二植民地を含めて一五植民地が一八一八年より一八四八年までの間に建設された。そのうちサンタ・カタ リナ州に六、リオ・グランデ・ド・スール州に四、パラナ州に一、サン・パゥロ州に一、リオ・デ・ジヤネイ一州に二、 エスピリト・サント州に一の植民地が夫々位置している。然るにパラナ州以南は温帯に属するので、パラナ州以南の十一 植民地は直接本稿の対象とはならないから、吾々は熱帯圏において建設された四植民地︵リォ.デ・ジャネイ・州二、サン・ パウ・州一、エスピリト・サント州一︶についてその 建設位置を検討す るに、エスピリト・サント州のサン﹂タ・イザベル 0弩蜜HN善巴植民地︵前章に既述、家別稿に詳論の予定︶の例外を以て、リオ・デ・ジヤネイロ州のノバ・プリブルゴ宕。<勲

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黒子ゴ轟。植民地は海抜九〇〇米の高地上にあり、同州ペトロポーリス︾①慾。宮漏植民地は海抜八00米の高地上に位置し、 サン・パウロ州のサント・アマロ oQ琶8卜牽鴛。植民地はサン・パウロ市近傍の高原上に位置している。  何故に熱帯圏にあるリオ・デ・ジヤネイロ州及びサン・パウロ州においては高地を植民地建設の対象となし、低地を回 避したかと云うに、吾々はコつ.の理由を指摘したい。第一は当時入移民の対象とされたのは主として北欧系移民で、就中 第一表   ブラジル帝国政府官設植民地一覧表  ︵創始期より一八五〇年まで︶   植民地名       所有州名  ノバ・プリブルゴ       リオ・デ・ジャネイロ サン・レオポルド        リオ・グランド・ド・スール トレス・フォルキリヤ      同    右 サン・ぺードロ・デ・アルカンタラ・ダストウレス 伺    右  コロニア・アレマ      サンタ・カタリナ サン・ペドロ・アルカンターラ         同    右 リオ・ネグロ       パラナ サント・アマロ      サン。パウロ イタヂヤイ       サンタ・カ.タリナ コロニア・ベルガ      同    右 ペトロポーリス      リオ・デ・ジャネイロ サンタ・イザベル及びヴアルゼェル・グランデ   サンタ・カタリア サンタ.イザベル       ェスピリト・サント ノツサ・セニヨ1ラ・ダ・ピエダデ      サンタ・カタリナ ザンタ・クルズ       リオ・グランデ・ド・スール 創立年次 一八一八 一八二四 一八二六 ︸八二六 一八二七 一八二八 ↓八二八 一八二九 一八三五 一八四四 一八四五 一. ェ四六 一八四七 一八四七 一八四九 サン・パウロ高原における珈瑳プラジテーションの発達と欧州移民労働力 六七 C

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   サン・パウ冒高原にかける珈排プランテーションの発達と欧州移民労働力      六八 独乙人が多数を占めた為に、北欧系移民の気侯環境への適応の問題を先ず勘案した上で、低地を回避して高地上に植民地 を建設したものと考えられる。現今ペトロポーリス及びノバ・プリブルゴがリオ・デ・ジヤネイロ市住民に対する避暑都       ⑤ 市として繁栄を見ていると云う皮肉な事実も、曾って植民.地建設当初政府が北欧系移民の気候適応の問題を考慮した事実 を傍証する。尚パラナ州以南は温帯圏に属するが故にパラナ州以南の植民地を一応本稿の対象より吾々は除外したが、前 記表に明かな如く、当時建設された十五植民地のうち十一値民地がパラナ州以南の温帯諸君に集中位置することは、帝政 初期ブラジル移民が主として独乙人を以て代表される北欧系移民を対象とされていた当時において、北欧系移民の気候適 応の一般的傾向を示すとともに、政府のそれに対する措置を明証するものに他ならない。第二には内陸州の金鉱・ダイヤ モンド鉱の資源澗渇の後に多数の黒人奴隷がリオ・デ・ジヤネイロ州低地及び一部はサン・パウロ州にも流入しているこ とは前節述べたところであるが、北欧系移民は掛入とσ並存関係を忌避する傾向特に著しい為に彼らの入植の為には黒入 社会よりの隔離せる環境を必要とし、その目的より高地上に建設したものと考えられる。  高地植民地建設後の経過から判断するに、前述の二つの理由から高地⊥に植民地を建設したことは北欧系移民入植に対 する考慮としては誠に適切な措置と云わねばならぬ。併しノバ・ブリブルゴ植民地の場合には他の理由から当初の入植は 失敗に帰した。即ち一八二〇年に約一七〇〇名の瑞西人を入植させたが、その土地肥沃ならず加うるに起伏甚しく入植者は 万事彼らの想像に反するを知って間もなく植民地を離脱するもの多数生じ、政府が多大の犠牲を払った植民地も全く失敗 に帰した。併し数年後に独乙人の流入が始まった時には既に交通も便利となり、彼らを基幹として今日の避暑都市に発展   ⑥⑦ を見た。従って当初の失敗原因は気候的理由ではない。ペトロポ⋮リス植民地はドン・ぺ;ドロご世の私有地に約二〇〇 〇名の独乙人を入植せしめて建設された。最初の独人入植者は仏北区烏黒⇔①号にて濠洲シドニーに向う途中、船中の待遇 改善を要求して暴動を惹起した為、 一八三七年十二月二日リオ・デ・ジヤネイロ港に下船を命ぜられた連中であるが、ブ

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       ・ラジル政府の保護を得てこの植民地に入植した。 一八四五年に州立植民地となり、現今避暑都市として繁栄している。サ ント・アマロ植民地はサン・パウ土州における独乙人植民地の最古のもので、一八二七年に南独人が入植して建設され、        現今サント・アマロ市に発展している。  次にリオ・デ・ジヤネイ底幅及びサン・パゥロ州においては北欧系移民の気候適応の問題を考慮して高地上に植民地を 建設したとすれば、果して両州の低地は彼らの気候適応に困難があると云い得るだろうか。吾々は内部熱帯低地にあって 黒人祉会の繁栄する処は、気候的にはイベリア人種の例外的存在を除.いて一般に欧洲人の居住に不適当であることを知っ ている。併し乍らブラジルの前記二州は熟帯周辺地域でリオ市及びサン・パゥロ市近傍に南回帰線が走っている。熱帯周辺 地域における欧入、特に北欧人種の気候馴化の成功事例については濠洲クインズランド州の英人、西印度ジャマイカ島シ ー7オードタウン植民地の汐入、ブラジルの土スピリト・サント州の独人の事例を挙げることが出来る。従って気候的見 地よりすれば、前記リオ・デ・ジヤネイロ及びサン・パゥロニ州の低地は北欧系移民にとって避暑都市を必要.としつつも 必ずしも気候馴化は不可能である訳ではない。併し乍ら前記三例の北欧人種の成功事例において特に吾々の注目を惹く事 実は、いずれの場合も記入社会から自然的に又は人為的に隔絶していることである。然るにブラジルの前記二州の低地に は出入入口が著しく繁栄し、︵現今尚黒人入口の州別分布にては両州は七・ご%、一二・八%にて全州中三、四位を占むる こと一九五〇年の統計に見ゆ︶従って黒人社会との隔絶が不可能である。かかる理由から北欧系移民の為には低地は回避 されたと考えられる。要するに熱帯周辺地域は北欧系移民の気候馴化に対する臨界的環境であると吾々は云いたい。かか る臨界的環境の限界は線的表現を困難とする様な幅のある漸移地帯であって、そこではたとえ避暑都市を必要としつつも 彼らの気候馴化の可能性は必ずしも否定されない.臨界的環境のおいては気候外的要因、即ち黒人社会との並存関係の有 無、換言すれば黒人祉会への嫌悪と云うが如ぎ社会心理的要因や︵自由労働制の下にあっては黒人労働の低賃銀による賃    サン・パウロ高原における珈珠プランテーションの発達と欧州移民労働力       六九

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   サン・パウロ高原における珈瑳プランテーションの発達と欧州移民労働力      七〇 銀競争という経済的要因によって、北欧系移民の気候馴化が支配ざれることを吾々は蔽で指摘したい。  それに反し、温帯のリオ・グランデ・ド・ス!ル州に建設された官設サン・レオポルド植民地を比較の対象に取上げる ならば、同植民地に入植せる独人農民は気侯温和にして彼らの繁殖に適し、それが現今同数の股賑なるサン・レオポルド 郡の濫筋となっている。政府がこの植民地に与えた特典鳳前記ノバ・プリブルゴ植民地の場台と同一条件緬あったにも拘 らず、後者は地味・地形の不良の為に失敗したのに対し、この植民地の土地自然条件並に気候環境も良好な為にかくの如 くに繁栄した。しかも注視すべきことは、同州に官設麻栽培場があって黒人奴隷を使役して行われたが、成績甚だ不良の        為に黒人奴隷をリオの朝廷に送還し、それに代るに欧洲自由労働力を以てすると云う国家的理想が実現したのも、畢寛する に北欧系移民の気候馴化が完全に成功するブラジル温帯的環境においては黒人の気候馴化が困難である︵マウルによれば、        東北地方より南部諸民に移動した黒人はその性に合わぬ気候に阻まれて中部に留まったと云う。既出︶ことを例証するも のである。  要するにリオ・デ・ジヤネイ呂州及びサン・パゥ豊州の低地は当時外国移民招致の対象とされた北欧系移民の入植には 不適当であることがこれらの事実から明かになった。しかもこの事実は一八五〇年以前、即ち珈瑳栽植の高原への立地移 動以前に既にブラジル政府によって知悉されていたことも明かとなった。従って奴隷制度存続中に、奴隷に代位すべき労 働力補給のために欧洲移民を招致せんとすれば、リオ・デ・ジヤネイロ州及びサン・パゥロ州低地は彼らには不適当であ るが故に、空間を高原に求めて移動せざるを得なかったのである。  ①田中耕太郎 ラテン・アメリカ史 上巻 三四一一三四二頁  ②O.國.9日霞。畳Q9。巳鍔けδ口。鴎H杉巨都窪覆ぼしd醤N戸きミ智竜卜§oミ肉恥ミ§一く3ωFやωひ■ ■③唐Φ自陛①昌Q。︸。ほN鉾一8”bo。ε2。扇夢Φ国。§象昌G9。㎞密雲ω8§宙.切。雪。♪おOc。階も二重  ④伯国移植民史 三四一三五頁

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 ⑤98嵐鶏昏oQ鶏,b睡巴罫貯窯疑義り国巳貯壁§勧笥匿ω爵四壁魯蕊§ミ蝕審、◎重臣、愚ミ砺さミ葦跨§妬らぎ、酬℃9。・量営=08噂   oQ■巴QD一P悼悼  ⑥bd曾制目昌法諺彰彰。Ω。冨bb艶①”弓90霞臼碧臼器窪回気しd二宮“09。巳①ω碧90一痒。。¢卜§ミ蹄§&Oミミ§軌ミ噂2。噛p£εメ   ︾や一心一一9  ⑦伯国移植民史 三六頁  ⑧砂。冨題① ρ愚・ミも・一㎝  ⑨趣蔵﹂ワぶ  ⑩伯国移植民史 三七頁  ⑪旨磐戸即卸O・σΩ・ま      .     二 珈排栽植耕立地.と労働力問題        −奴隷制度擁止前における欧洲移民労働力招.致の先駆的実験とその熟帯気候適応の問題仁⇒ 民間珈誹プランターによるサン・パウロ高原への欧州移民招致の先駆的実験とその失敗原因  帝国政府及び州政府が欧洲移民の招致に努力を続けたのと殆んど時を同じくして、民間珈瑳プランターが自己の耕地に 使役せる奴隷労働力を欧洲移民の自由労働力によって代位せしめんと試みる者が生じた。即ちサン・パウロ州上院議員ヴ         エルゲイロω窪銭霞客ざ9碧℃禽9門崎留O窪宮匂。<①護欝乎。によるもので、こ.れは富盛栽植耕のサン・パウロ高原への立地 移動に先.行して、高原上における欧洲人労働力の使役可能性の可否を検討した試案的実験とも云うべ.ぎもので、更に云わ ばブラジルの世人に対し自由労働者の性質とそれが奴隷労働力との相違を認識せしめ、その後四十年にして実施され.るに 至った潜入奴隷制度廃止に対して、サン・パゥ羽州のみならず全ブラジルのプランターめ対処すべき.方法を用意.せしめた 功績は大と云うべぎである。  それにも拘らずヴェルゲイロの努力は報いられず、彼の欧洲移民招致計画は不幸にして失敗に帰したが、その原因は奈     サン・パウ旦局原にカける珈緋プランテーションの発達と欧州移民労働カ       一    七一

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   サン・パウロ高原における珈瑳プランテ⋮ションの発達と欧州移民労働力       七二 辺にあるか、吾々の問題とする労働力気候適応の点にあるか、また間接的にそれを妨げた気候外的要因、即ち植民地経営 法如何にあるかの検討を必要とする。吾々はこの検討に先立って彼の計画の全貌を明かにする。彼は一八四一年に初めて 同齢リメイラ市近傍の自己所有にかかるイビカーバ網三島冨耕地︵一八四七年以後ω昏銭霧くΦおきぎ耕地と改称︶に試 験的に盗人八○家族を招致し、その渡航費を前貸し且つ一力年間の食費を貸与し、各家族には珈排植付地並びに余作地を 提供し珈瑳収穫の上はその生産額を折半すべき規約を結び、家屋並に牧場使用に対しては僅少の借料を課し、労働者に属 する珈排収穫の一半は時価を以て耕主に売却せしめることとして、それを実施した。然るに翌年この試験は全然失敗に帰         し契約労働者は逃亡するに至った。彼はこの失敗に屈せず更にこの折半小作法℃ミミミ登ミ細亀禽鴨を採用して独乙人 移民の招致を試み、ブラジル政府もこの計画に援助を与えた。政府は一八四七年四月在瑞西ブラジル領事をして独寝にお いて八○家族四〇〇名の移民をサン・パゥロ州に送出する契約を締結せしめ、これをヴェルゲイロ新地に配耕することに した。移民輸送は二回に行われ、第一回は一八四七年四月+ご日、第二回忌四月二.+六日にハンブルグ港を出航し、前者 は四十五日後者は六十日号日数を費してサントス港に到着し、同地より十四日の旅を続けて漸く耕地に到着した。鉄道開

通芸現今では百の行程であるが・当時移民は牛・馬甚て+四日姦して窪地に芒たので葱・

 然るに彼らは渡航費に加うるに最初の収穫までの生活費を前借したが、移民の家族は多く前借金は莫大となり、移民は この繋ぎ負債を荷って労働を開始したが、彼らの契約には負債の完済までは契約破棄を許さぬこと及び耕地を離脱するこ とが出来ぬことが規定されてあり、従って彼らはサン・パゥロ入植後数年間は彼らの独立は犠牲にされた。彼らは必ずし もかかる境遇に満足していたとは限らず、各所に労資の紛争が惹起された。一八六七年に到って現地調査を行える独人 閏霞日き目団砦営は伯林国際移民協会に激越なる語調にて報告書を提出して、ブラジルにおける前記のメタヤージュ契約 を攻撃した・彼は独人移出を殆んど奴楚等しぎ状態に零落させたと云う・ニノ④§§は耕主凄§琶§よりの

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前借金を返済することが出来ず、その前借金は奴隷購入費に等レかった。奴隷を購入する代りにその費用でプランターは 欧洲よりコロノを招致した。かくして重き負債を荷えるコロノは奴隷の状態より以上に独立することを得ず、父の負債の       ⑤ ために子供たちは耕地に縛りつけられ、子供たちは父の前借の担保にされているとハウプト報告は云っている。  これに対してピエ;ル・ドニはサン・パゥロ州リベイロン・ブレット郡モロ・チーポ寓。巨。O号。村に定著せる伊太利 人某との彼の談話を、ハウプト報告との比較の対象として記述している処によると、この伊人は奴隷制度廃止前に同母に 入植したが当初契約期間に正確な説明も与えられず、且つ法的正確さも散いでいる契約書に偽隔によって調印させられた ので、当初彼は奴隷として身を売った愚な感情にとらわれたが、その後自由の身分を獲得したと云う。かくの如くコロノ の前歴をもつ惚々が小地所を獲得しているのは少くとも栽植耕労働者が自由の身分を獲得するに成功したのみならず、土         地購入資金を貯えることにも成功したことを証するものである。  その後メタヤ1ジュ契約は漸次消滅の傾向を辿り、それに代ってコμノは出来高制の賃銀労働者となり、更に固定給の 賃銀労働者となりコロノの受持つ生産樹齢の楽弓樹一〇〇〇本に対し一力年二〇1六〇ミルレースの固定給に加うるに収 穫期には採精賃銀として珈排一定量につぎご○○一ご五〇レイスの支払を受けることになり、それは路々現在のコロノ契        約と内容を同じくするに至った。  要するにヴェルゲイロの始めたメタヤージュ契約による欧洲移民招致の計画は、自由労働者との契約であるとは云え 未だ大部分の農業労働が奴隷に依存せる社会状態の影響を蒙って、コロノ自身に完全な独立を与えなかったことが彼の実 験の失敗原因であった。彼がサン・パヴロ高原へ欧洲移民を招致する計画を実行したことは、たとえ失敗に終ったとは云 え、これによつてサン・パゥロ高原では欧洲移民が気候適応の拘束を受けず、黒人奴隷労働力に代位し得ることを明かに した点において、また鰹節に述べる如く外国移民の大移入によるサン・パゥロ高原の珈瑳栽植耕の将来の大発展を予約せ    サン・パウロ高原における珈瑳プランテーションの発達と欧州移民労働力      七三

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,    サン・パウロ高原における珈珠プランテーションの発達と欧州移民労働力       七四 しめた点において彼の功績は没し難い。 ﹁ヴェルゲイロの実験の五年後には、もはや彼の実験は争う余地なぎものと判断 され、 一八五二年以降プランターには多くの模倣者が現れ、 一八五七年には四〇以上の植民地が建設され、 一八七五年に        は約九〇の植民地が建設された。このこ五年間はサン・パゥロ州では私設植民地時代と云うべきである。﹂かくてこの時 期がプレストン・デェームスが云える如く、リオ・デ・ジャネイロ海岸及びサントス海岸及び内陸低地の上国栽植耕地が 続々放棄・され、その中心地域がサン・パウロ高原に移動した一八五〇i一八六〇年に当るのである。       ※        ※        ※        ミ に  吾々が本稿にて提起した問題点たるブラジル珈瑳栽植耕立地のサン・パウロ高原への移動は従来珈瑳栽培に好適なる高 原上の自然条件の優越性を追求するものとのみ強・調され説明されて来たのに対し、吾々は当時奴隷制度廃止の近製しつつ あった時に、何よりも先決を要す.る労働力補給問題の対策をブラジル政府も明示し、民間プランターも自からその対策を 講じ、かかる労働力補給問題の解決を目標としてサン・パウロ高原へ立地移動したのではないかと云う点を論述し終えた。 即ち黒人奴隷に代位すべぎ欧洲移民労働力の熱帯気候適応の問題を動黙して、高原においては欧洲移民が熱帯気候への適 応の可能性が存することの実験の後に、栽珈瑳植耕は高原へ立地移動したのである。 ①ρ即9匿貧自”O巳。臣奉けδロ。隔H琶巨鵯諺房ヨゆ轟凶錨︾ωひ ②伯国移植民史 四〇頁 ③前掲書 四一一四二頁 ④国。霞①∪Φ巳ω二w蜀N 層叶冨塁・ξヒd自四 ・9巳自“㎝謬娼二露9b﹂c。心  ピエール・ドニはサン・パウロ州のコロノOミ。謹︵OO一〇︼P一〇ひ叶︶は特別の意味をもち、土地所有者ではなく農業労働者を指して云うから、  通常の8ざ巳ω酔の意味でないことを指摘して曰く﹁農業に未だ利用されざる土地を分割して欧州植民の間に解放せんとする帝国政府の  政策ハ前節述べた官設植民地を指す和田註︺と魚雷から蛍働力を輸入する富裕なプランターの政策との間の相違潔誰も指摘する者がな

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 いが、これらの欧州移民の二つの全く相違せる形態が共に植民と云う言葉で表示されている。サン・パウ隠州では888三器 とい  うことは移民労働者を栽植耕に雇傭することであった。外国出身の全労働者は亀智蕊。コロノと呼ばれ、奴隷或いは土着労働者︹ミ・  §ミ。§和田註︺に対比する呼称であった。かくの如くコロノは同州では特別の意味をもち、土地所有者ではなく農業労働者である。﹂

⑤さミ嚇題﹄c。㎝一おひ      .

⑥奪ミ噌喝﹂。。刈 ⑦憲ミ∼や一。。o ⑧さミ︺b﹄。。心      、 三 附説ーサン・パウロ高原への欧洲移民大流入と珈排栽植耕の大発展  この附説は点心栽植耕中心地域がサン・パウロ高原へ立地移動した後に、欧洲移民の大鷲が高原に流入し、これに呼応 してサン・パゥロの珈瑳生産の一大発展を遂げる状態を示すことによって、サン・パウロ高原における欧洲移民の気候適 応の可能性を傍証し、次にブラジル全域に対する欧洲移民が人種を異にすることによって如何なる地域に指向するかを究 明することにより欧洲移民の気候適応の人種差の一般的傾向を明かにして、併せて本説の補遺としたい。  帝国政府が多大の移民費を支出して外国移民招敷に努め、又民間ではヴェルゲイロの如く私費を以て自由労働者を招致 した者もあったが、これらの助成によって一八五〇年までにブラジルに入国した外国移民数は取るに足らぬ数であった。 ︵第二表参照︶この失敗原因は奴隷制度存続中に欧洲移民が募集された為に彼らに心理的嫌悪感を与えたことや移民法規 上の不備、即ちメタヤージュ契約が自由労働者としての取扱を標潔し乍ら欧洲移民の自由を拘束した事実にあるにもせよ、 此らの経験によって欧洲移民がサン・パゥロ高原及び南部諸州においては気候適応に拘束を受けず、且つ彼らの自由労働        り 力が奴隷に代位し得る可能性を実証したことは、一八五〇年以降におけるサン・パウロ高原及び南部黒幕への欧洲移民の    サン・パウロ高原にカける珈珠プランテ⋮ションの発達と欧州移民労働力       七五

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    サン.パウロ高原にわける珈瑳プランテーションの発達と欧州移民労働力      七六 大流入に対する先駆的実験としてその価値は高く評価されなければならぬ。  然るに一八五〇年九月四日法律第五八一号によって帝国政府は一八三〇年の奴隷貿易禁止令の完全施行を厳にしたので、 一八五三年以降は奴隷輸入は全く跡を絶つたため、労働力補給の途を失った帝国政府当局及び民間プランターばその補給 対策を講ぜざるを得ず、前記ヴェルゲイロの移民招致計画を模倣する者もあったがそれは資力ある富裕なプランターに限 られ、一方政府は多額の国費を費消することなく欧洲移民を有効に招致する方法を考え、かかる要請に応じて生れたのが 各種植民会社であった。欧洲移民の重要性は著しく増大し、奴隷労働力を欧洲移民の自由労働力に切替んとする前提の下 に、欧洲移民の気候適応の問題から高原を求めざるを得ず、叢に本説既に述べた如く珈排栽植の中心地域はサン・パゥロ 高原へ立地移動を余儀なくされた。併し乍ら帝国政府の植民会社設立助成の努力にも拘らず、一八六九年まで主として南 部諸州へ流入した欧州移民の数は大であったが、サン・パウロ高原に流入する数は極めて僅少であった。  南部釜州は周知の如く温帯圏に属し、欧洲移民自からの労働が可能なる気侯環境であるのに反し、そこでは黒人労働力 使役の成績はその気候環境の為に不良であることが植民地時代を通じて南部諸州の開発を遅延させたが、延いては黒人奴 隷の数も極めて少なく︵そのことが却って黒人との並存.関係を嫌悪する欧洲移民の流入に幸した。然るにサン・パウロ高 原では当初黒人奴隷労働力によって開発が開始され、この奴隷労働力を欧洲移民労働力に切替へんとしたが、ここに流入 せる欧洲移民の数は前述の如く僅少であったのは奴隷に代位すべき欧洲移民が皮肉にも奴隷との併存関係を嫌悪したから である。この皮肉な事実の証明は、一八七一年に奴隷漸次解放法案が通過し、即日裁可を得て発布された所謂ミミミN㌣ 魁ミ法がブラジルの奴隷制度廃止とを保証した時にサン・パウロへの移民が急激に増大した事実によつて裏付けられるで あろう。 ︵第二表参照︶  一方、一八七〇年代以降におけるサン・パウロへの入移民激増には州政府の積極的な移民補助政策を看過してはならな

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入移民数

サパ ンウ ・ ロ  州 ル ジ ラ ブ 全 期 時    955    304    649  6, 310   1, 681   , 11,730 183,979   9,105   2,569   4,992 108,045 108,185 193,931 453, 787 帝・政時代:  1820−1829  183e−1839  ・1840−1849  1850−1859  1860−1869  1870−1879  1880−1889 205, 608 880,616 計 735, 076 388, 708 480, 509 752, 080 1,211,076  649, 945  835, 768  941,153 共沸制時代:  1890−1899  1900−1909  1910−1919  1920−1930 2, 356, 373 3,637,942 計 2,561,981 4,518,558 計 総 目二表 1820∼1930年間における全冊及     びサン・パウ八州への入移民数       (Cameronによる) パゥロ州政界が野州の珈瑳による収益に比ぶれぽ移民補助金の如ぎは取るに足らぬ額であると考えたからである。 00年には農務大臣は移民法の貸借対照表を示してサン・パウ八州の支出せる移民補助費は三四、 スに達するが、この金額は欧洲移民によつてのみ可能なる珈瑳貿易の発展に比ぶれば微細なものなりと結論した。  併し乍らブラジルの奴隷制度廃止が実現したのは既に一八八八年であった。同年五月十三日上下両院を通過せる奴隷解 放法案を摂政イサベラは裁可し、五〇余年に亘る前史をもつた奴隷解放は実現した。解放された奴隷は本来の自然民族に 立ち帰り彼らの放浪の時代が惹起され、黒入奴隷に依存せる大抵の諸外国の場合に経済的瓦解が随伴した如く、ブラジル        の諸州においても一般的農業不況の事態を結果した。帝国政府はこの日に備へて夙に奴隷に代位すべぎ欧洲移民招致助長 に莫大な費用をつぎ込んで努力したことは前述の通りであった。﹁それにも拘らず奴隷使役に慣れて、奴隷廃止に充分な準 備をしていなかったプランタ:は甚.大な打撃を蒙り︵一八八五年法一六十歳以上の奴隷開放を宣す一に対しサン・パウ    サン・パウロ高原における珈瑳プランテーションの発達と欧州移民労働力       七七 い。 一八七〇年七月三十日州政府は三州プラ ンターの欧洲移民招致を助成する為、六〇万 ミルレースを支出したがこれは州政府による 補助移民の弓矢となった。 一八八八年ブラジ ル帝政の覆滅後も同州は移民補助金を増大し 続けた。一八九八年に聯邦共和政府が財政的 困難に直面して移民補助金を打切つた為に他 の諸州への移民は杜絶したが、サン・パウロ 州のみは単独それを継続した。それはサン・        又一九       五〇〇コントス・レー        ②

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   サン・パウロ高原における珈珠プランテーションの発達と欧州移民労働力      七八        ④ ロ州プランターは反対せず、彼ら自から廃止運動に参加したが、リオ・デ・ジヤネイ樋洗及びミナス・ヂェラエス州のプ       ⑤ ランターは奴隷開放に反対した。リオ州は黒人奴隷売買市場にて多数の黒人流入しており、ミナス州は金鉱・ダイヤモン ド鉱開発時代に多数黒人流入し定著している。これらの地方では現今と難も欧洲移民労働への切替へは不可能であろう。 一和田註︶彼らは政府が一八七一年にく。暮露巻く器法を出[だし、十八年後の一八八八年には解放令を発布して奴隷開放         に対する善後策を講ずるに日子を籍さなかったことを口実に皇室を怨むこと甚だしく、本来保守的な君主制の味方である 彼らが政府顛覆を画策し、加うるに軍部は共乱立と提携して一八八九年+一月+五日クi・デ・ターを実施し流血の惨を          見ずに革命は遂行された。併し乍らサン・パウロ州の場合に限り、奴隷制度廃止は農業的一大飛躍への導火線となったと云 1850・一一・一・一・ 26,800,000 1860・・一・一・・ 60,462,000 1870・・… 一・・ 69,540,0eO 1880・一…・…  106,300,000 1890・・一・・…  220, OOO, OOO 1900・・… 一一一 525,625,000 1910・一・一・一一・ 696, 701, OOO 1920… t・一・・ 843, 592, 695 1928・・一・・ 1,123,232,770 第三表 サン・パウロ州に     おける珈誹樹栽培     数の発展 (P.R.Pestallaの数値に・よ る) って・もよい。それは夙に同州政府及び民間プランターが奴隷に代位すべき 欧洲移民招致の為に生産の舞台をサン・パゥロ高原に移動させ、奴隷制度 廃止当時には既に欧洲移民の大量招致に成功していたのである。同州高原 における珈排栽植耕の大発展は︵第三表参照︶は将にこの欧洲移民の大濤 の高原への流入と期を一にしていることは第二表と第三表とを対照すれば 明かとなるであろう。 欧蛆移民のブラジル入植指向地とその気候馴化能力の人種差との関係  第二表に明かな如くブラジルに入植せる欧洲移民の約半数以上がサン・パウロ州一州に入った。同州に入った欧洲移民 のうちラテン系移民が圧倒的多数であったことは第四表で明かである。何故同州においてはラテン系移民が卓越したかに ついては多数の要因が指摘される。

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入移民数

全ブラジル サンゼパウ山州 別 籍﹂ 国 935,540 395,151 382, 035   2,696 22,601 1,489,964 1, 34 1, 926  586,527   36,461   36,968 1,738,023 3,491,846 2, 272, 312       77 4,460,868       78

イタリア人

ポルトガル人

スペイン人

フランス人

ルーマニア人 ラテン系移民計 外国・移民総数 外国移民の中に 占めるラテン系 移民(%) 第四表 1820∼1930年間にサントス港経由全     伯及びサン・パウP州へ入ったラテ     ン系移民  (Cameronによる)  然るに葡萄牙人は前記の如く人種的にも言語的にも容易にブラジル盛会に同化し得るが、 貸して都市に集中する傾向をもち、従って農業的移民としての経済的価値をもたないことは一般に認められるところであ        る。かかる葡萄牙人に対して伊太利人及び西班牙人は珈瑳栽植耕における不可欠の労働力を提供した。就中伊太利人は奴 隷制度廃止前に既に消滅せんとする黒人奴隷に代替する為に募集され、一八八四年初さてサン・パゥロ州のファゼンダに       ,     ⑫ 入植した。彼らは奴隷でももう欲しないであろうと慨られた程の労働を引受け、同年以降彼らの移民数は増大して行った。 サン・パウロ高原における伊太利移民の気候馴化の可能性を傍証する事例として、吾々は奴隷制度廃止前における伊太利 人の同州における黒人排斥問題を指摘したい。 ﹁︹奴隷廃止直前の一八八七年 和田補︺欧洲から多数の移民︵特にサン. パウロの伊太利移民︶が渡来し、而して彼らは黒入労働者との競争においては敵ではなかったので不平を懐き、黒入排斥    サン・パウロ高原における珈瑳プランテーションの発達と欧州移民労働力      七九      −  彼らラテン系移民は共通せる伝統をもち、宗教を同じく、語系を 同じくすることが彼らのサン・パウロ州への集中を惹起し、他民族 の移民以上にサン・パウロへの同化を容易にしたことと思われる。 スペイン人はブラジル国語である葡萄牙語を予め学習することなく 容易にブラジル人と会話出来るし、伊太利人と錐も西班牙人のそれ 以上に困難を感ずることもなく会話出来る。北伊のヴェニス人は南 伊のシシリア人と会ったとき、南部伊太利方言を語らずに葡萄牙語      を用いると云われる。その他に看過され得ないのは西班牙人・葡萄一 善人・伊太利人の夫々の故郷の気候環境とサン・パウロ高原の気候         環境との近似性である。このことは気候表を比較すれば明かである。        彼らの国民性として労働を蔑

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   サン・パウロ高原における珈珠プランテーションの発達と欧州移民労働力      八○ の途に出で、斯くして多数の喜入は奥地の森林に逃避した。地方官憲は逃亡奴隷を所有者に復帰させるだけの力をもたず、         従って彼らは中央政府に助力を求めた⋮⋮﹂この一件はブラジルにおける人種問題として稀有の事例であるが、かかる有 色人種排斥問題の惹起するところは、その排斥理由が有色人種に対する嫌悪感情によるとしても、或いは又両者の労働能 率の差より生ずる経済的理由−自由労働制においては黒人の低賃銀より賃銀競争へ発展するfによるとしても伊太利 入が黒人と共に同一の労働環境において同種の労働が可能であることを証明する。然るにサン・パゥロ州のプランターの 中には奴隷制度廃止に先立つこと一年前に、自発的に奴隷を解放し、彼らに恩恵を売って解放後、彼らが耕地を離脱しない 様に自由労働者として保持せんと努めた者もあったが、プランターの寛容は何の利益も齎らさず、黒人は解放と共に都市         に集中し、栽植耕地から彼らは姿を消すに到ったので欧洲移民、就中伊太利移民がサン・パウロ農業労働者として如何に 重要な意義をもつたかは推測に難くはない。  サン・パゥロ州への移民招致の可能性につぎ、同州長官が海外派遣員をして調査せしめた結果に基ぎ、一八九七年五月七 日、同窓議会において報告せる内容によると、独逸・固太利・匁牙利・スカンヂナヴィや諸国は率直にブラジル移民を困 難なりと反対を表明したのに対し、ラテン諸国はブラジル移民を前者の如く困難回することはなかったと云う。概して北 欧諸国と南欧諸国とのブラジル移民への政策の背馳する理由に少くともサン・パゥロが到着栽植耕に対する農業労働者を 要求すると云う事実に見出される。一般にラテン系移民は入曽当初は珈排栽植耕におけるコロノとして就労を開始し、後 に体験と貯へを得て独立せんとするのに対し、北欧系移民は当初よりたとえ地積小なりと雛も地主としての地位を要求す         るからであると報告した。  奴隷に代位した伊太利移民はサン・パウロ農業発展に寄与した貢献は著しいものがあったが、 一九〇二年︵同年ブラジ ル聯邦政府は移民補助政策を打切る1和田註︶伊太利外務省移民委員会は補助を受けないブラジル移民の渡航を禁じたた 、

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め、伊太利移民は激減し、 一九〇一年伊太利入移民数五万六千人に対し、 一九〇三年には塵かに九千入に減じた。 一九〇         二年以降特に西班牙人び葡萄牙人がその数を増加し、ファゼンダに進出することになった。その後ムソリ五二首相の移民 政策と一九ご七年のサン・パゥロ州の補助移民政策の打切りによつて伊太利移民は激減し、彼らの昔日の声価とコロノと        しての優秀なる地歩は次第に失われ、それに代って日本人移民が漸次その地盤を蚕食して行ったことは後述する。ブラジ ル入移民のすべてが残留するのではなく故国帰還又は再移住するものもあり、残留率は西班牙入五三%、葡萄牙人四六%、 日本人九二%に対し、伊太利人は塵かに八分の一に過ぎず燕移民︵アルゼンチンでは伊移民の季節的移動最も甚しく、こ         こでも燕移民σq巳露晋ロ謬と云う︶の緯名をもつている。  ラテン系移民と対照的位置にあるものは北欧系移民である。そのうち代表的な独逸移民は一八八四年t一九三〇年の間         の移民大流入時代を通じて移民全数の四%を越えず、その数十里馬に達しない。その古き移民は既に十九世紀初頭、植民 地時代に渡来し、サン・パウロ州へも入植した︵同州では独逸人は今日一一九一七年1では農村入口より寧ろ都市人口を        構成するとの昌還づΦ鵠は云う︶が彼らの大部分は南部三州即ちパラナ、サンタ・カタリナ、リオ・グランデ・ド・スール 州に来住し他州に入るもの極少数であった。南部三州は温帯圏にあって彼らの気候適応に何ら拘束を感じなかったか臥、で ある。ブラジル及び亜熱帯は極端な高温によって特徴づけられることなく、熱帯病の危険は近代的保健行政によって完全 に卑下される可能性があるけれども、北欧系移民にとってはこの三州以外においては尚その気候環境は故郷のそれと差異         を感じない程に完全な気候馴化をするのが困難であることが知られているからである。加ふるにこの三州ではサン・パウ ロ州の如く栽植耕の発達を見ず、従ってプランターによつて募集されたコロノとして入植したのではなく、地主として小 規模経営の下に自からの労働により各種作物の栽培に従事する独立耕作者の地位を保っている。この地方に入植せる伊太         利移民も同様の生活を為している。而して北欧系移民がコロノの境遇を好まないことは先に触れた処である。この事が一    サン・パウロ高原における珈瑳プランテーションの発達と欧州移民労働力      入一

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   サン・パウロ高原における珈珠プランテーションの発達と欧州移民労働力      入二 層彼らを熱帯圏の栽植耕地域よりも南部温帯諸彦に吸収した理由であると考えられる。彼らは完全に南部翠雲に集中孤立 してブラジルに同化せしめないことは前章に述べた。 一方葡萄牙人で南部三州に入植したもの比較的少数で彼らは好んで ブラジルの熱帯地域を求めた。それは彼らの卓越せる熱帯気候馴化能力とブラジル東北海岸、中部海岸における葡人の伝 統的関係によることも理由の一つであるが、国ΦB碧q。国.留ω出轟教授は葡人移民中には文盲のもの多く、外国移民殊に教        養ある独逸入移民と競争するこどが出来ぬためであると説いている。 ①$日興。§O。ご註N聾。β。団冒匡鷺昌室ぽ穿。。昌”づ●き ②国Φ窪①Uφ臣の”窪器Pb弓二8一這悼 ③串ミ噌b﹄。。悼 ④串ミξも﹂c。ω ⑤伯国移植民史 九六頁 ⑥前掲書 九六頁 ⑦田中耕太郎 ラテン・アメリカ史 下巻 二九九一三〇二頁 ⑧⇔魯黄魯’亀︸賢8。。 ⑨、9跨霞8鴨愚・ミ‘b・出 ⑩国霞旨琶蜜塞砂”⇔﹂轟NP冒・悼。。㎝ ⑪串ミ.も面。。ω ⑫影β9。・雷匿ぎ誉bd融㊧︸”聾旨。葺話の8巨①①二口。・葺暮ご塁葛葬δ9y勺量目ち朋ω層や爵 ⑬田申耕太郎 前掲書 二九七頁 ⑭U①巳9魯.ミ﹄b﹂c。ω ⑮3塞巳♪愚・ミも・ら ⑯∪Φ巳。・鴇愚齢ミこ竈﹁8刈−胎Oc。

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⑰q・円法自沸き。”富上山器国章鷺録書8bゴ轟Nロ、§噸蹄﹄、鳶受鈎おω食く。ピ刈ウ器イタリーのプアシズムは人力が国力の基本であ  ると考へ、延いては出移民による人力喪失を国家的危険と考へ、  するに至った。この二とはブラジル労働市場に一大打撃を与え、 ⑲O琶。3♪愚.ミ”らと ⑲9日冨胃f愚.ミこ緊G。o ⑳ω。冨隠塾Φ”日冨Q①毒導国①塞緊ぎ犀餌昌暫緊ぴ ⑳川霞冨窪富匿歩魯.ミ‘︾b.悼。。α一N。。ひ ⑳鍔日びΦ3尽.ミ;慧.心一一蕗 ㊧伯国移植民史 一六四頁       ヤ 一九二七年以降ムソリーニの移民政策は伊太利のブラジル移民を禁止 一層日本人移民奨励政策に刺戟を与えることになった。       − 一九五六・一二・二八稿 4 サン・パウ戸高原における珈舞プランテーションの発逮と欧州移民労働力 八三 」.

参照

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