靖康の変前後の折彦質
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山西の北西から映西の北東にまたがる、黄河が屈曲して南流するあたりには、おのおの来歴を異にする諸部族が混 在し、あるいは水草を追って散居していた。唐以降は党項の諸族がこれに加わり、現在の快西から山西にかけての広 い地域に分布していた。唐滅亡をうけて北方に勃興した契丹は、たびたびこの地域の党項らの諸部族を討伐して支配 下におこうとする。これに反抗した党項の諸族のうち、夏州に拠って西夏をたてる李氏と府州を根拠地にする折氏が 頭 角 を あ ら わ す 。 これまでの諸研究によると、折氏はのちの西夏と契丹に挟まれた地域を根拠地としていたため、早くから五代の諸 一方、中原の諸王朝にとっても、契丹や夏州李氏をはじめとする辺境の諸勢力の南 王朝と結んで自己防衡を図った。 進を阻む役割を折氏に期待できた。そのためわずか数百人とも言われる少数の折氏一族は、しきりに政略結婚によっ て各地の武将たちと結ぶなどによって、相互に協力体制を強化する。太原の武人で楊無敵と称された楊業の妻がこの 折氏出身であることはよく知られている。 五代後唐の荘宗は山西にいた、 いわゆる沙陀集団の出身であったこともあり、当時の府州党項の首領であった折従 -122ー 龍谷大学論集玩 と 結 ぶ 、 ﹂れがその後の折氏の発展を方向づける。 回鶴を招撫したともいう折従庇は、 後漢の時代に契丹 後 普 、 が河東へ侵入すると、盛んに契丹軍の後方をかく乱して、中原の王朝を掩護した。五代末の後周は、折従院を静難寧 節度使に任じて、党項の野難族を討伐させているし、その子折徳震も府州永安軍節度使に任じられたので、精強化し ていた夏州李氏から中原を防衛する藩扉として、折氏の地位はいっそう向上する。折徳震は後周の世宗に陳留で謁見 のち超匡胤が宋を建国して全国統一を進めると、やはり宋側に立って、太原の北漢と争う。折 御卿の代には、宋に府州一帯の地図を献上して帰順の意志を明確にした。また宋の太宗の北漢討減戦にも参加したほ か、至道元年(九九五)には契丹を子河波に破った。のち党項の李継遷とともに契丹が府州に攻め寄せると、折御卿は し、府州を安堵され、 病をおして出陣した。その孫の折継闘の時代になると、党項に李元臭があらわれて西夏を建国し、宋からの独立戦争 を推進したが、折継聞は一貫して宋軍のために戦い、とりわけ麟州から府州にかけての補給作戦で功績を立てた。そ の子折克行も、照寧元豊一年間の宋と西夏の戦争では、たびたび宋のために手柄を立て、靖康年聞には、折可求の代に いたる。水論伝のモティ l フのひとつに数えられる宋江との関わりゃ、方鵬の乱討伐に参加することで知られる折可 存もこの時代の人である。折氏はこのように百数十年にわたって辺境にあって知州を世襲し、つねに宋の側にあって 外敵と戦った。よってしばしば雲中の大族、著姓とも呼ばれる。 ま た 折氏の下にはのちに西界へ逃散する唐龍鎮の諸族など、 辺境における統治困難で雑多な蕃族をかかえてい た。彼らを懐柔するために軍事費補助の名目で手当てをあたえて保護したが、その歳費は折氏自身による田地経営や 馬交易の収入をあてていた。とりわけ、折氏の武力を支える経済的な背景は馬交易による利益であり、唐代以来、折 氏の名は馬商人としてもあらわれている。 一族に州事を分担させ、知州の職が代々世襲されていくのも、 ある。北宋の名臣抱仲滝の報告によれば、黄河辺境の麟州、府州周辺の蕃漢人は三千余戸あり、折氏の兵力二千をこ れにあわせると万余の勢力になるという。とりわけ良質な戦馬においては、吐揮、回鵠と並ぶ大供給源となっていた。 このためで 靖康の変前後の折彦質(渡逸〉 -123ー
こうして蓄積された財力が背景となり、唐末から五代を経て、北宋末まで百数十年にわたって折氏は繁栄するという。 このように折氏については、従来、畑地正憲、戴応新、李裕民らの諸氏によって、その経済状態や北宋地方統治との かかわりも含め、折氏一族の研究が多角的になされてきたが、その中から本稿では、北宋末から南宋初に生きた、折 彦質を取り上げて論じる。 彼の生きた時代は、新法政治とそれにつづく党争や、文化の燭熟期にはじまった。そこへ北方に興った女真族の金 が強固契丹を滅ぼし、 さらに南侵して北宋の首都開封を陥落させた。靖康の変の勃発である。宋の徽宗と欽宗の二帝 が北方へ位致されると、皇弟の康王超構が立ち、あらたに南宋が成立する。 一旦は完成の域に達した政治制度が崩壊 する過程においては、 かえってその長所や問題点などを語ってくれる場合がある。北宋が滅亡した靖康の変、南宋を 揺るがした鐘相楊仏の乱、金の侵攻から南宋政府を防衛しながらも、独自に軍閥化しつつあった四大武将、あるいは 南宋と金との講和を図った秦檎の登場などが、彼の生涯を取り巻くことになる。靖康の変には宣撫副使として、また 南宋紹興年間初期には策書枢密院事、兼権参知政事という、時代に大きくかかわる要職につく。しかし、秦檎が権力 を樹立してゆくにしたがって、政治の表舞台から退くことになる。したがって、この時代を生きた折彦質について考 また武から文へと体質変換を成し遂げた北宋から南宋政 察することは、折氏という辺境豪民の一面を探るほかにも、 権への継承という歴史の実像を探ることにもつながっている。
折彦質の起家
﹃宋史﹄巻二五三の冒頭には、五代から北宋にいたる折一族の輝かしい歴史が記述されている。その最後に、勇将 折可適が列なる。その伝では彼の子彦質について、南宋初の紹輿年聞に、寧政を取り仕切る中央政府の大臣に相当す しかし現在の﹃宋史﹄には、折彦質のために る簸書枢密院事となることを述べ、 ﹁別に伝あり﹂として結んでいる。 -124ー 龍谷大学論集列伝はたてられていない。 そのため折彦質の生涯については、 よくわからない部分がある。 すくなくとも彼の没年が紹興三十年︿一一六
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)
生まれた年は不明である。 これは折彦質が崇寧年間(一一O
二 J 一 一O
六)に進士に登第したとして、 であることは諸記録が一致しているとはいえ、 ろ)に生まれたとする見方もある。 神宗の元豊年間(一O
八O
年 ご 一 説 に は 、 科 挙 に 合格するのは一般に早くても二十歳前後であろうと考え、逆算して導きだされたもののように思う。その根拠となる ﹁崇寧進土の第に登る﹂と記すのは、元代に編纂されたとされる﹃元一統志﹄や﹃氏族大全﹄である。 折可適、宋の照寧中、郭遣は臨延に帥たりて、これを見て日く、真将の種なり。折彦質は、 可求の子、宋の崇 寧中、登第す。紹興中、参知政事となる。 ( 司 氏 族 大 全 ﹄ 巻 二O
﹀ ただし、折可適を﹁真の武将の種﹂であると絶賛した記事につづいていることからも、折可求は折可適のあやまり である可能性は高い。当時の折氏の首領が府州の折可求であって、折彦質はその一族であったから、誤解が生まれた の か も し れ な い 。 それに続く折彦質が崇寧年間の科挙に登第した記述であるが、もしそのようであれば、南宋の紹興六年(一二三ハ) に、特思により進士出身を賜るとする ﹃ 建 炎 以 来 繋 年 要 録 ﹄ (以下﹃要録﹄とする﹀の記述とは矛盾が生じることにな る 。 兵部尚書折彦質に進士出身を賜う。時に参知政事沈与求数しば去らんことを求む。趨鼎は彦質を引きこれに代 えんと欲し、其の進、科第に鯨らざるを以て、乃ち是の命あり。 ( ﹃ 要 録 ﹄ 巻 九 八 、 紹 興 六 年 二 月 丙 午 ) この年、折彦質に進士の号を特別に賜与したのは彼が﹁科第によらない﹂からであると明記されているので、たと え折彦質が科挙を受験したことは否定できないまでも、すくなくとも崇寧年聞に進士に合格していないことは疑いな ぃ。おそらくは、この特別待遇を斡旋した、宰相趨鼎がこの崇寧年間の進土であることも、混乱の一因になっている 靖康の変前後の折彦質(渡遺〉 -125ーとも思われる。あるいは仮に、後述の墓誌銘にあるように父折可適の功績によって、文資は換えられたのが北宋末徽 宗の治世であるため、後に進士出身を賜ったこととあわせて、このような誤記が生じたのかもしれない。とすればこ の時期に二十歳前後である必要はなく、その分もう少し後に生まれたとすることもできる。 そこでまず彼の官員としての出発点に注目すると、すでに父親の思蔭で下級武官を得ていた折彦質が文官にかわっ たことついて、宋の陳思編、元の陳世隆補の﹃両宋名賢小集﹄巻一八
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にある、折彦質の﹃藻真居士集﹄に関する記 事に次のように記されている。 折彦質、字は仲古、雲中の人なり。父は可適、 武 略 あ り 。 彦質は蔭を以て起家 知 鎮 戎 軍 、 夏 人 こ れ を 畏 る 。 す。紹興中、累官して簸書枢密院事に至る。初め、趨鼎相と為り、しばしば彦質を薦む。後、秦檎専相たり、彦 質は鼎の引く所と為るを以て、榔州安置とす。自ら謀真居士と号す。 ここでは、折彦質が武略で知られた父折可適の恩蔭で起家したと明記している。父は折氏の傍流からあらわれて、 軍功を積んだ生粋の武人であり、西夏まで名が轟いたという。この恩蔭で与えられるのは、下級武官の職であったで あろう。父は浬原の経略安撫使に任じられるも、その地域を担当する転運使との語いから皇帝の不信を招いてポスト を失い、佑神観使に左選される。しかしのちに身の潔白が証明されると、その補償として首都に邸第を建設する費用 を下賜されるとともに、子に特恩を賜る。 俄かに其の子を以て文に燥え、少府監丞に除す。少日、攻墓に帰省せんことを請う。詔ありて其の行を許す。 明年、召還せられ、復た公を以て湿原に帥とす。入対する比い、上主も敦勉す。公力辞するも、得べからず。即 ち少府丞を以て直秘閣、書写機宜文字に貼換す。鎮に到ること四月、疾に感じて遂いに老を告ぐも、未だ報ぜず。 十月二十九日を以て嘉ず。享年六十一、乃ち大観四年なり。 ( ﹃ 姑 渓 居 士 ﹄ 後 集 巻 二O
、 折 可 適 墓 誌 銘 ) 当初は、武階をもっていた﹁其の子﹂がここにおいて文階に換えられ、従八日間の少府監丞をあたえられたという。 -126ー 龍谷大学論集これについて﹃宋史﹄巻二五三の折可適伝によれば、 明年、復た以て滑州と為す。其の子彦質に命じ、直秘閣、参軍事とす。数月にして卒す。 と記されている。したがって、折可適の恩を賜り、少府監丞から正八品の直秘閣に進み、書写機宜文字に相応する参 軍事に就いたとすれば、その子とは折彦質を指すことはあきらかである。ちなみに墓誌銘によれば、折可適には、夫 人越氏、継室の王氏、梁氏がおり、息子は二人いる。折彦野は、西梁院使、秦鳳路第一副将で武階を有している。も う一人が直閣君と呼ばれる折彦質である。 とすれば、彼が文官に換った時期は、父の折可適が死去する大観四年(一 一 一
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)
ご ろ に あ た る 。 いったい折氏一族のほとんどが武官として歩むのに対して、 なる理由があったのであろう。 ひとり折彦質が文官の途をゆくことになるのは、 党項出身から漢人化していた大姓折氏は、漢人と党項、室章、吐淳、韓組、沙陀などの諸族が雑居する河曲の地に あって、根拠地府州の知事の地位を世襲的に安堵されていた。そして漢人蕃族の人々と私的な紐帯で結合して、契丹 西夏の侵攻から、その地の保全につとめていたとい引。 財を軽んじ施すを好み、得る所の賜予は必ず族人を先にし、親疎緩急に随て次を以て均しくす。其の尤も自存 すること能わざる者は、俸を分ち以て給す。 ハ ﹃ 姑 渓 居 士 ﹄ 後 集 巻 二O
)
右の記述は、朝廷の官となった折可適によって辺境の人々の生活が支えられている実態を、その人柄とともに、彼 の墓誌のために美化したものと考えてさしっかえない。さらに長安など数箇所に代々の折氏の不動産があり、やはり"
彼の財力を支えていたという記述がこれにつづれ。折一族の中にあっては傍系の出身であるものの、折可適は﹁折滑 州﹂の別名をもつように、陳西西部に根拠地を置き、経済的にも家伝の財産を守りながら、府州折氏のうちで、独自 の一流をなしていたのである。ただし、それはあくまで彼の人格によって支えられているところがあり、ともすれば L、
か 靖康の変前後の折彦質(渡過〉 -127ー存続の危機にさらされかねなかった。たとえば、前出の彼の墓誌銘によると、照河路の二千人の軍が進路を誤って、 ついには崖に落ちて全滅する事件が発生したが、上官はその責任を折可適にあると謹告する。結局は降格に付される が、その種の謹告や官界における摩擦はおそらくはしばしばあったにちがいない。辺境出身の豪民たる折可適が隷属 下の民を保護し、あわせて子孫の生き残りをはかるために、子の一人を文官としたのはそのあたりにも理由があった 二コー、:、 O K 宅カ L ち し
靖康の変と折彦質
( 一 ) 金軍の侵入 北宋最後の皇帝欽宗の靖康元年、 す な わ ち 金 の 太 宗 の 天 会 四 年 ( 一 一 一 一 六 ﹀ の 正 月 、 金軍は現在の北京にあたる燕 宗室の有力将軍である、斡離不(完顔宗 京 を 陥 落 さ せ た あ と 、 河北の二手に分かれて南侵した。そのうち、 山 西 、 望﹀と冗尤に率いられ河北を南下した軍が、黄河の北岸相州を陥落させ、黄河を渡り、たちまちのうちに北宋の首都 d u ヲ 開封を包囲した。靖康の変のはじまりである。折彦質はこの事件にどのようにかかわり、それは彼のその後にどのよ うに影響したのだろうか。 金軍南下が進む聞に、宋では前皇帝徽宗が南方へのがれ、そのとりまきであった蕪京、察依らがつぎつぎに退けら 一旦は尚書右丞兼知枢密院事の重職にある主戦派の李綱を親征行営使として親征の詔を発 し、武勇の土を召募するものの、たちまち翌日には李綱を御営京城四壁守禦使とし、都に立て簡もって守備を固める 方針に急転する。それと同時に宰相職にあった由時中が政権を退き、代わって浪子宰相と呼ばれ、金人にもよく知ら れた李邦彦らが政権の中枢に立つ。正月六日、斡離不軍が京師に到達する前日のことである。斡離不が首都の万勝門 はじめ李棋を使者にたてるが坪が開かず、ついには後に南宋皇帝となる皇弟康王︿趨構﹀と、これまた れる。首都に拠る欽宗は、 に せ ま る と 、 -128ー 龍谷大学論集金の健偏政権楚の皇帝位につく運命をもった、宰相格の張邦昌が金箪陣地におもむいて、くりかえし和議の交渉がな される。この最中、正月二十日に京畿河北路制置使の紳師中らが浬原、秦鳳路の兵二十万余を率いて首都に入城した のである。この軍中に折彦質の姿が見える。 統制馬忠、勤王の兵を以て京師に至る。照河路経略使挑古、秦鳳路経略使神師中、及び折彦質、折可求、劉先 園、楊可勝、活理、李宝、諸路勤王の兵、京師に至る。諸路勤王の兵、 二十万と号し京師に到れば、人心やや定 寺 4 ご 令 。 ( ﹃ 三 朝 北 盟 会 編 ﹄ ︹ 以 下 ﹃ 会 編 ﹄ と す る ︺ 巻 三
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、 靖 康 元 年 正 月 二 十 日 ) 西北の辺境地帯から到着した、神師中をはじめとする勤皇軍に、折可求、折彦質らが加わっていた。主力は科氏、 挑氏など﹁山西の巨室﹂あるいは﹁世々西陸の大将為り﹂といわれる山西地方の在地勢力である。そこに文官となっ た折彦質が名を連ねているのには理由があった。 はじめに、北方におこった金軍が契丹を滅ぼし、宋への南進がはじまったときである。 金、太原を囲み、我が師多く潰ゆ。欽宗は折彦質に命じ、伝に乗りて招集せしむ。彦質言う、沿州の潰兵二万 は、河津を過ぐ、乞うらくは朝臣を選び、同に険西帥臣と招集せん。云々。 ( ﹁ 宋 名 巨 言 行 録 ﹄ 続 集 巻 七 、 孫 昭 遠 ) 記事にある﹁沿州の潰兵﹂とは、扮州にいた折可求の軍を指している。五代以来の将家であり、 ﹁ 代 北 の 著 姓 ﹂ を 誇る折氏は戸籍によって官に掌握されない蕃漢人と私的紐帯で強く結合し、この蕃族勢力を以って契丹西夏の侵窟よω
りその領域の保全を計っていたという。当時の一族の首領で知府州をつとめる折可求は折家父とよばれるほどの声望 ある人物で、徽宗から﹁忠男﹂の旗を下賜されており、その軍団は折家軍と称されていたが、その多くはこうした西 北の兵であったにちがいない。牟潤孫氏によれば、このころ折可求が率いていた軍団は、宋の実力者で置官の童貫の 親寧を引き継いだもので、かつて西方辺境の体力にめぐまれた青年たちをあつめ、通常の倍以上の俸給をうけた、勝 捷軍と号する精鋭であった。五代以来の禁軍には突肢をはじめとする西北諸族の影が濃厚であるが、この場合もその 靖康の変前後の折彦質〈渡遊) -129ー流れの中で考えてよいのかもしれない。これをうけ、太原に迫る金軍と奮戦した、二万余とも称される折氏の残存兵 力を一再結集することが折彦質によって提案されたので、右の記事の主人公である孫昭遠とともにこの任務をになった
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という。中央から派遣され、地方で軍団の再編成にあたるのは、すぐれた軍政の手腕がなければならない。ここで言 う軍政とは、軍団を戦場で指揮する任務とは別に、作戦、訓練、軍団編成から、武器食糧の補給はもとより、兵士の 昇進、給与、装備などにいたるまでの軍務一般を指す。宋では総管、鈴轄、都監、監押などの官がこの任務にあたる が、かれらはすべて中央の枢密院の指令をうける建前である。 また、この沿州戦に際して激烈に戦死した一族の折可与の忠義は人々の目を引き特に印象的であっ旬。このことは、 同族である折彦質が兵力結集を進めるにあたり、十分に役立ったにちがいない。こうして折彦質は族長折可求に会い、 協力して首都救援へ赴いたわけで、その成功は評価されてよい。これに加えて科氏、挑氏らが駆けつけ、つづいて郎 延路の張俊、環慶路の韓時中、湿原路の馬千らも京師に到着するなど、つぎつぎに勤皇軍が首都に集結したので、朝 廷では、ただちに今後の方針の会議が聞かれた。 李綱は、李邦彦、呉敏、科師道、挑平仲、折彦質と同に、福寧殿に対し、用兵を議す。 ( ﹃ 会 編 ﹄ 巻 一 一 一 二 、 靖 康 元 年 正 月 二 十 五 日 ﹀ 折 氏 か ら は 、 一族の長である折可求ではなく、折彦質の名がみえる。後に折可求は金に降服するので、その名が記 録から除かれている可能性も考慮できるが、 辺境の一知州にすぎない折可求ではなく、 り、宋の文官の地位にある折彦質が軍議に参加したとすれば不都合はない。 軍団の再結集の提案者であ つまり折氏としては宋の精鋭軍を継承す る実働部隊を指揮する折可求と、折氏と朝廷の仲立ちを担当する折彦質という構成をとっているように見える。軍議 ははかばかしい進展もなく、結局は神師道、挑平仲とは互いの対抗意識のゆえに、功をあせって金の軍営を夜襲した も の の 、 かえって敗北する。ここでは対立しがちな救援軍の武将たちを調停する役割も折彦質には期待されていたか -130ー 龍谷大学論集M W もしれないが、実際には、さほどうまくはいかなかった。 ハ二)太原回復戦と折彦質 柚 刊 さ て 、 靖 康 元 年 三 一 二 六 ﹀ 二 月 十 日 、 首 都 を 包 囲 し て い た 斡 離 不 寧 は 撤 退 す る こ と に な る 。 伺 山西を南下していた粘寧(完顔宗翰﹀の軍は、この時、山西南部の高平県に進駐して、黄河渡渉をうかがう態勢を示 してしていた。粘牢は、未だ陥落しない太原を包囲するかたわら南侵をつづけ、威勝軍を陥し、進んで隆徳府を陥落
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さ旬、さらに沢州の管内へと侵攻していたのである。 そこで二月十六日、宋の朝廷は科師道を河北宣撫使として滑州に、挑古を河東制置使、科師中を河北制置使に任じ"
で、太原救援軍とする決定を行なう。一方、二月二十六日には、路允迫が使者として粘牢に講和成立を告げたことに より、金軍は方向転換して、太原へと向う。ここに宋の太原回復戦が展開されることになる。 三月二十四日には、制置使の挑古が、金軍が去った後の隆徳府を、その二日後に威勝軍を収復する。このとき、河 東宣撫司幹当公事として、折彦質も出動している。これに・ついては、﹃会編﹄巻四四、靖康元年三月二十四日庚寅に 引く﹃幼老春秋﹄の記事が参考になる。 和 議 の 結 果 、 一 方 、 幼老春秋に日く、挑古、隆徳府に克つ。初め、挑古、照河路経略使と為るや、輩州の主徳、功名に赴くの心あ り、武勇を以て其の塵下に隷す。古は河東路制置使と為り、兵を以て太原府を救援するや、宣撫司幹当公事折彦 質と相い懐衛の聞に遇い、未だ敵の虚実を得ざるに、隆徳府、威勝軍は巳に金人の陥没する所と為るを聞く。古 乃ち徳を遣り硬探せしむ。徳、金将一人を斬り、首を持し以て還り、具さに虚実を以て古に報ず。云々。 夜叉の異名をもっ武将の王徳が、わずかな騎兵で隆徳府におもむき、金将の首級や捕虜を得るなどの活躍を行な ぃ、あわせて府内の状況を探知する。これには懐州、衛州の中間で諜報にあたる宣撫司幹当公事の折彦質がいささか 靖康の変前後の折彦質(渡遺〉 -131ー関与しているという。敵情の把握とあわせて、折彦質が属する宣撫司は、快西で募集をおこない義勇軍五路おのおの MW 四千人を徴発するなど、兵力の調達も続けている。 このようにして、河東の挑古と河北の紳師中にわかれて太原を目指した宋軍であったが、まず五月九日に、太原の 南部にある検次で紳師中が敗死する。この戦いに関連して、﹁惟だ孫端、折可求、師中の戦いのみ、以て賊と勝負を 伺 相い持するの理あり﹂という戦況分析もなされており、折氏首領の折可求らも善戦してはいたようである。しかし、 十九日にはもう一方の挑古も平造の東の盤陀で敗北する。金は、宋の両面挟撃を逆手にとって、各個に撃破する結果 となった。そのため、六月一日には、河東在地勢力を代表する科師道が更迭され、かわって李綱が宣撫使に就任する。 資政般学士劉輸は宣撫副使に除せられ、解潜は制置副使に除せられ、挑古に代えらる。徽猷閣待制折彦質は河 東宣撫司幹当公事に除せられ、解潜と、兵を隆徳府に治し、威勝軍より太原を救援す。張瀬は節制河東快西軍馬 となり、太原を応援す。是の役や、折彦質は宣撫司幹当公事と為り、解潜と兵を隆徳府に治す。潜は越鼎を辞し 置 司 幹 当 公 事 と 為 す 。 ( ﹃ 会 編 ﹄ 巻 四 八 、 靖 康 元 年 六 月 六 日 辛 丑 ﹀ 折彦質は、大観二年に創設された、従四品の徽猷閣待制という館職をおび、河東宣撫司幹当公事に任じられ、制置 副使の解潜に僻召された制置司幹当公事越鼎とともに隆徳府で兵を統轄する。神師道をはじめ神師中、挑古らの敗戦
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それに加え﹃宋史﹄によれば、この更迭は、太原、中山、河聞の三鎮割譲に反対 の責任をとるかたちでの交替だが、 した李綱ら強硬派が太原奪回に動きはじめるという意味を含んだ人事であることが示唆されている。ここで越鼎を引 き入れた解潜なる人物は、やがて建炎から紹興和議までの時期に宰相となる趨鼎のもと南宋の軍事力確立に尽力する が、その後秦槍の台頭によって越鼎や折彦質らとともに政権から退けられ、冷遇されることになる。 さて、河北、河東宜撫使の李綱を頂点とする新編成寧は、初期の南宋政権でも頭角をあらわすことになる張俊や苗 俸を曙下とする劉軸を河東宣撫副使にむかえ、七月をもって全軍で太原奪回にむかうことに決する。山西南部の隆徳 -132ー 龍谷大学論集府から全軍は三つに分けられ、東部方面の王淵と劉輸は遼州から北上して平定軍に入り太原を東方から牽制する。ま た西部方面には、河東察訪使の張瀬、都統の折可求がおよそ五万の兵力で、統制の張思政を先鋒として扮州より東北 方へ向かって、太原を目指す。これらを東西二方面におき、隆徳府から威勝軍に北進して、中央から太原を目指すの 舗 が、主力と思われる制置副使の解潜、折彦質の軍団であった。 それに対して、太原を包囲する金の粘牢はこれらの軍を各個に叩くべく周到な戦備を整えて待ち構え、まずは中央 伺 部の主力を撃破する。南関の戦いである。この敗戦の報を聞くと、東部軍を率いる劉斡はたちまち首都へ軍団を撤退 制 し て し ま っ た 。 山西西部においては、都統制の折可求および河東察訪使の張瀬らが、隆徳府から西まわりに沿州を経てさらに北進 して太原にむかっていた。沿州の北、子夏山の麓にある文水県付近で、宋側の都統制である張思政を先鋒として戦う
"
が、またしても待ち受けていた金軍によって大敗し、数万の軍が壊誠する。これは郭柵の戦いと呼ばれる。折可求は ここでも敗れ、張瀬は石州方面へ離脱したという。 同 宣撫使として、全軍を統轄するはずの李綱も山西の南の入り口にあたる懐州にとどまり進まなかったばかりか、す"
でに戦いの数日前に首都に召還されていたとする記事もある。 て、李綱の﹁靖康伝信録﹂に次のように述べられている。 ﹂れでは勝利はおぼつかない。 その聞の事情につい 上、日々御批を以て太原の囲を解かんことを促す。是に於て、宣撫副使劉輪、制置副使解潜、察訪使張瀬、勾 当公事折彦質、都統制王淵、折可求等は隆徳府に会議し、期すに七月二十七日を以て諸路進兵せんとす。平定 軍、遼州両路は劉輪、王淵これを主る。威勝軍路は解潜、折彦質これを主る。沿州路は張瀬、折可求これを主 る。而るに宣撫副使、制置副使、察訪使、勾当公事はみな御前の処分を承受し、事は専達するを得、進退自如た り。宣撫司は節制の名あると雌も、特だ文具なるのみ。余の奏上すらく、節制専らならざるを以て、恐るらくは 靖康の変前後の折彦質(渡逢〉 -133ー国事を誤らん。指揮を降し約束すると睡も、而れども承受、専達は自若たるなり。 期に至り師を出すに、解潜は敵と相い南北闘に遇い、転戦すること四日、殺傷すること相当。金人は兵を増す も、潜の軍力勝つこと能わずして潰ゆ。平定、湯、遼の師はみな逗留して進まず。其の後、張瀬も又た節制に違 い、統制官張思正を用い、文水県を復す。己にして復た敵の奪う所と為る。余は極めて上の為に節制不専の弊を 論ず。又た分路進兵せば、敵は全力を以て吾が孤軍を制す。大兵を合し一路より進むに若かず。会々沼世雄は湖 南の兵を以て至り、即ちに薦めて宣撫判官と為し、方めて親率の師を会合して、以て賊を討たんと欲すに、朝廷 の 議 変 ぜ り 。 ( ﹃ 梁 総 集 ﹄ 巻 一 七 三 、 李 綱 ﹁ 靖 康 伝 信 録 ﹂ 下 ) 李綱を中心とする軍団編成は一見整然としたものにも見えたが、実情はさほどではなかった。宰相が軍権をもって 出動する宣撫司のほかに、宣撫副使、勾当公事、制置使、都統制があり、それらはいずれも地方にあって軍政を統轄 する官であるから、彼らの配下に諸軍を率いる武将たちがいる。この当時、安撫使、都総管、鈴轄、都監などが、州 や路を単位に任じられているが、それに監司と総称される転運使、提点刑獄らが、軍団の実質的な指揮とる例もあ り、この時陥落する太原はその典型である。そればかりか本来は地方官の監視にあたるはずの察訪使である張瀬が、 義勇兵をふくめた数万の徴兵をおこないこれを統轄している事例さえある。これらは宣撫使として李綱が統轄するは ずであるが、それぞれが皇帝から直接の命令をうけているし、かつ直接に皇帝に進言できるとなれば、軍団を統轄す べき宣撫司は名目だけにすぎない事態にいたってい恥。しかも当初は李綱が軍を数路に分割せず、全軍で一気に進む べき戦略を原案としていたにもかかわらず、それが採り上げられなかったことを、この記事は示唆している。実際に 李綱の節制に従わず、郭柵の戦いでは、張瀬が統制官張思政の策を採用して、太原を目前にした文水県で敗退してい るし、解潜が南関で大敗したことも前述の通りである。軍団を分進させて太原救援にむかう戦略の破綻である。 この後、太原は、九月はじめに粘牢軍によって陥落し、河東安撫使張孝純、馬歩軍総管王葉、転運判官王棒、提挙 -134ー 龍谷大学論集
常平単孝忠、通判王逸らは金に投降し、あるいは壮絶な最後を遂げ、太原守備隊は壊滅する。 こうした太原攻防戦の中にあって折彦質はどのような役割を果たしていたのであろうか。これ以前に、河東宣撫司 勾当公事の職にあった折彦質は、中央軍の解潜に属して南関方面へ進軍したと思われるが、そこでの彼の任務の一面 を 伝 え る 記 事 が あ る 。 同日、泌源県令曹統、銅韓県孟薙に詔して、井せて先次に勤停せしむ。所在の州軍に令して、収捉棚項し、本 州に送り使喚せしむ。河東勾当公事折彦質は、虜の威寧界を犯すに、統、薙弁びに皆逃遁して還らず、乞うらく は 厳 に 誠 励 を 行 な わ ん こ と を 言 う を 以 て の 故 な り 。 ( ﹃ 宋 会 要 ﹄ 職 官 六 九 之 二 六 、 靖 康 元 年 七 月 二 十 九 日 ) 威勝軍域内の西南部に位置する泌源県の県令である曹統、同じく銅提県の孟薙の二人を免職として、州に護送して 強制労働させる。これは、金軍が威勝軍の区域に侵入した際、統、薙たちは逃げ去って帰還しなかったことを、河東 勾当公事の折彦質が上言したためであると云う。軍政官として、敵前逃亡した県令を弾劾したわけで、進撃だけでは なく論功行賞の公正さが求められるとともに、彼の軍政の実務もそのあたりに重心がおかれていたことが推測できる。 折彦質にとって、敵前逃亡の官員を厳罰に処することは、軍団内における彼の声望を高める上でも必要な処置であっ た。また、それを可能にするには広範で迅速な情報網をもたなければならない。おそらく折彦質はこれを支える人材 をある程度は有していたにちがいないし、あるいは父折可適以来の私的な紐帯をもった固有のグループを想定してよ い か も し れ な い 。 (=一﹀ 四道総管体制と折彦質 M 押 すでに宣撫使を解任された李綱には、この後その責任を取る形で繰りかえし左遷命令が下される。野に下った李綱 に対して、折彦質は引き続き留任して、後任の宣撫使である抱前のもとに、金の斡離不、粘牢の再度の南下に備える 靖康の変前後の折彦質(渡過〉 -135ー
こ と に な る 。 四道総管を置き、李回を以て太尉と為し、大河守禦使とす。沼前は河北宣撫使とす。 朝廷は、師を出すも屡々卿れ、金人割地の請を絶つこと能わず、敵騎且に深入せんとするを以て、長策を得て以 京師を措置守禦するに、 て王室を衛らんことを思う。四道総管は天下の兵を統べ、分ちて諸路を制し、京師の衛と為す。東道総管は京東 准南の兵を統べ、西道総管は京東の兵を統べ、南道総管は京西南路湖北の兵を統べ、北道総管は河北の兵を統ぶ。 折彦質を以て宣撫判官と為し、李回を以て太尉と為し、守禦使とし、以て粘牢に備う。前を改め河北宣撫使と為 し、以て斡里雅布に備う。又た都使者栄疑、陳求道、監丞許先之等を以て、諸将帥と同じく、以て要津を守らし む ︿ ﹃ 会 編 ﹄ 巻 五 六 、 靖 康 元 年 九 月 二 十 一 甲 申 ﹀ 京師を守備するのに、東西南北の四方面に総管を配置して、首都の兵力を担当させる。李回、折彦質は粘牢軍に、 活嗣は斡離不軍に対応することにする。大河守禦使の李回のもとに宣撫司の判官として、実権を握るのが折彦質とい うことになるのだろう。東北面を担当する抱前が河北宣撫使であるから、宜撫司の判官となって制度上でも筋を通す ことになる。かつて太原救援戦で李綱がしくじった原因には、張瀬に代表されるように部下の司令官に人材を得なか ったことも理由の一つになるだろうが、折彦質は西北諸族の強兵を代表する人物として数少ない一人に挙げられてい た。とりわけ、科師道、挑古らが現場を去ったあとは、中国西北地域における折氏一族の声望が最後の頼みの綱であ ったわけで、ついには折彦質が宣撫副使に抜擢されるのも、そうした宋の朝廷からの期待も込められていたように思 う。靖康元年十月ごろのことである。 徽猷閣侍制、宣撫使参謀官折彦質に龍図閣直学士を授け、河北河東宣撫副使とす。(﹃会編﹄巻五七、靖康元年十月 五 日 ﹀ 龍図閣直学士は従三品の館職で、河北路および河東路の宣撫副使に任じられる。それは、首都防禦のための四道総 -136ー 龍谷大学論集
管体制を河束、河北から補完するためのものであろう。なお折彦質が宣撫判官から昇格したのを受けて、指前が河北
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河東路宣撫使へと昇格する。金軍が再南下する直前であり、いかにもあわただしい。 ハ 四 ) 金の第二次南進と懐州の失陥 靖康元年十月には、斡離不が真定府から察陽あたりで渡河する進路をとるが、その一方で粘牢に率いられた金軍は 太原を進発する。まず粘牢寧は太原から威勝軍へ南進してこれを攻略し、さらに進んで隆徳府を陥落させる。同時に 映西方面にも別働軍を展開し、折民の要地の一つである麟州の建寧案を攻め、宋側の後方からの挟撃を牽制した。こ れとあわせて宋が遼の残党と結託していることを詰問する使者を派遣している。 また麟府の折可求来献して言う、夏国の北に大遠の一大枠、梁王、与林牙粛太師あり。出携して言う、金人は不 道にして、南朝好臣と結約し、我が宗廟を致てり。今聞く、南朝の天子は位を遜る。嗣君は明聖にして、加し能 く金人を合撃し、我が宗社を立てれば、則ち当に修好すること初の如し。呉敏以て然と為し、乃ち奏上するに、 髄 r z、
質 臓 の 後 する戦略がたてられ、宰相呉敏の承認を得て、ついに遼の梁王へ書簡が発せられる。しかし、その密書が麟州で粘牢軍獅 の遊兵の手に落ちてしまい、密謀が金側に露見してしまう。折彦質はこの密謀にどれほどかかわっていたのだろうか。駒 令して書を梁王に致さしむ。河東より鱗府に入り、 粘牢の瀞騎の得る所と為る。 ︿ ﹃ 九 朝 編 年 備 用 ﹄ 巻 三O
、 靖 康 元 年十月、金使来) 族長折可求の提案により、 はるか北方にあり一説に十万ともいわれた遼の残存勢力と結んで、粘牢軍の南下を牽制 南下を続ける粕牢軍は首都への途を急ピ v チで進むが、山西から黄河を渡るには、懐州を経る。かつて宜撫使の李 綱もここに本営をおいたように、宣撫副使の折彦質も懐州に駐留していたが、それはここが黄河を境界とする首都防 衛の最終ラインであることを示している。さかのぼって宣撫副使就任の際の事情を述べたものであるが、この時の折 -137ー彦質の動向を知る上で参考になる記事がある。 朝廷は李綱を召し回し、折彦質を以て宣撫判官と為す。指世雄は龍徳州に至り罷帰し、折彦質は懐州に至り、 郭執中は宣教郎直秘閣を以て参謀と為る。富直宗は宣義郎秘書省正字を以て参議と為る。宜議郎王弗、承恭郎は 幹弁公事と為る。迫功郎張締、機宜走馬承受王褒は河東を往来して、屡々将帥の過失を言う。活理、王以寧を召 し帰洞せしむ。俄にして以寧罷め、活理闘に赴く。鼎謹路兵三千人は沢州に在り、余は懐州にあり。朝廷は尽く 李綱の遺置する所の官属を罷む。折彦質は専ら和議を主とし、嘗て太原を棄てんとするを以ての故なり。又た解 潜を以て参謀とするも、又たこれを罷む。彦質を進めて龍図閣直学士、宣撫副使とす。彦質は郭浩を以て都統制 ハ ﹃ 靖 康 要 録 ﹄ 巻 一
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、 靖 康 元 年 九 月 十 九 日 ﹀ と為し、許大倫は、これに副とす。 すでに述べたように太原回復戦が失敗したとき朝廷では、金との和議を主張する李邦彦の主唱により主戦派の李綱 が更迭されたの刻、ことごとく李綱が遺置した官属を罷免させたが、折彦質は専ら和議を主張して、太原を放棄すべ きとしていたので、李綱に替わって宣撫副使に任じられていたのである。実は金側がこの時点でも、交渉により紛争 伺 解決の余地を残していたからでもある。きすれば前述した遼の梁王との密約には折彦質は関与していないと考えざる を得ないし、折彦質がこの後も金軍との正面衝突を回避しようとする意図も理解できるかと思う。今度もひたすら金 との和議を目指したのである。ここに折彦質が部下の鄭執中、富直宗、王弗らとともに防衛作戦を推進しつつ、和議 締結のために懸命に勤める姿がうかがえるように思う。 しかしながら懐州で指揮をとる折彦質の工作もむなしく、金寧はすでに沿州を陥れ、そこから二手に分かれ西南の M W 平陽、東南の隆徳府を占拠し、一気に懐州に追っていた。 十月、懐州官因りて彦質に見えて日く、宣撫使の兵馬は久しく誠裏に在り、困倦甚し。一両日、西山下に去り 排隊し少しく意思をして静離せしめんと欲す。次目、遂いに富直柔、王弗、張締と同行し、万善鎮に宿らんと欲 -138-諸谷大学論集す、州を去ること二十五日、太行山下に止る。右文殿修撰、懐州安撫使霊安国は官を差して応副せし む。彦質は山下に至り、李若水の大金より奉使して回るに逢い、人を扉けて密語し、敵己に南向するを知る。彦 質大いに憧れ、其の夜鎮に還り、遂いに身を挺して河陽に遁帰す。留まりたる諸軍共に二万人は懐州に在り。 M W ( ﹃ 靖 康 要 録 ﹄ 巻 一
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、 靖 康 元 年 十 二 月 ) 中 大 夫 、 太行山脈の南麓に宿営していた折彦質は、使者から金軍迫るの報を聞くと、あわてて河陽に逃げる始末であった。 置き去られた軍は二万人余であったという。さらに﹃会編﹄巻六一、靖康元年十一月六日丁卯の条に引く活仲熊﹃北 記﹄の記述に次のようにある。 (折彦質は﹀李若水の大金より奉使して回るに逢い、人を扉け密語し、夜に至りて鎮に還る。仲熊請いて彦質に 見えるに、忽ち日く、今日、聖旨の来説するあり、更に大河守禦使を差さず。只だ今、彦質をして一面に主管せ しむ。仰お訪聞するに、河陽大いに擾す。今、彦質は彼に往き撫定せん。見に説くに、河陽の人情憧惑すること 懐州に過ぐ。彦質須らく索して自ら去くベし。次日、遂いに河陽に往く。仲熊往きて知州橿安固に見えて云う、 敵人来たるや、折彦質己に走了せり。安国日く、此の人を奏劾するを待て。云々。 懐州の官であった活仲熊らには、南隣にある河陽の民情が不安なので、勅命により折彦質が鎮撫にむかうと言い訳 して、兵を引いてしまった。この後、金寧の攻撃をうけた懐州では、知州の程安国や通判はもとより、兵馬鈴轄、都 監、統領、同統領らの兵官もみな捕殺された。 ハ 五 ) 河陽撤退 懐州を陥れた粘牢寧はさらに軍団を黄河の北岸にある河陽に進める。黄河を渡れば、もはや首都開封まで金軍をさ えぎる強力な防衛拠点はみあたらないので、ここが文字通り最後の砦である。 靖康の変前後の折彦質(渡漫〉 -139ー﹃会編﹄巻六三、十一月十二日英酉の条によると、これよりまえ朝廷が派遣した同知枢密院事という軍政大臣の李 回は、折彦質に兵十二万を率いさせ、黄河の守備をまかせていた。そこに粘牢軍が沢州、瀦州方面から進軍して、懐 州を経て河陽にいたる。ついに折彦質は黄河を爽んで陣をはる。粘牢は渡河の先遣隊に千余騎を探索に出したが、そ の報告では、渡河は簡単ではなく、宋箪の志気は甚だ盛んであり、十分に準備を整えているとこのことであった。羅 索大王なるものが言うには、宋兵は多いとはいっても、畏れるには足りないが、戦えば勝敗はわからない。さしあた り、軍中の戦鼓を総動員して虚芦を張りあげ威嚇し、朝になってどのような変化があるか見てみるのがよろしいと申 し出た。みなの同意を得てそのようにすると、繋明には宋軍は一兵も見えなくなっていた。そこでただちに三千人を 派遣し、渡河地点を探らせた。その時、黄河の水位は平浅であったので、三千の兵は密かに渡河して、宋軍を攻撃し た。折彦質の方では偵察隊の攻撃をうけ、金軍がみな渡河したと考え、驚きあわて全軍総崩れとなった。こうして十 悌 二万という折彦質軍はほとんど戦わずして懐減したのである。そこで金軍は船を得て、黄河を渡った。この戦いは宋 金の勝負の分かれ目として、のちの﹃宣和遣事﹄にも取り上げられる劇的な場面となっている。当時の折彦質の様子 を伝える記事がある。﹃会編﹄巻六三、靖康元年十一月十五日丙子に引用されている陶宣幹の﹃河東逢虜記﹄である。 金軍が山西西南部の要衝である平陽府を陥落させたとき、陶宣幹は平陽を出て黄河の北岸にある懐州に至り、折彦 質に会う。金寧が講和の使者を遺したが、まだ還ってこないうち、十月初十日、治州を破り、二十四日には、平陽を 攻囲した。陶によると、その勢は劇しく、大挙して押
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寄せられれば、禦ぐことは容易ではない。折彦質公が方策を 尋ねたので、速かに朝廷に申奏して、軍隊の増援を乞うしかなく、そうでなければ、速かに民兵を招募すべきである が、とりわけ復讐の念がつよい河東や快西の人々を用いるべきである。兵士には一百銭、米二升半を配給し、稿賞を 厚くする。また敵騎はやがて半月ほどで河陽に到達する。河陽の浮橋は、まさに軍馬の往来はもとより、河東一帯の 避難民が逃避する径路なので、すみやかに橋を繋けなければならない。この報告に対して折彦質はなす術を知らなか -140ー 飽谷大学論集っ た と い う 。 折彦質は架橋工事の次第を視察した。金軍が追っているという急報があいつぎ、ことは急を要するが、黄河の船頭 たちが疲労してしまうなど不慮の要因もかさなり、なかなか橋は完成しなかった。そこで宣撫司の配下にある、勾繋 橋官、鈴轄、両都監、内鈴轄などの官に打刑を加えたところ、すぐさま橋は完成した。避難路には、黄河の流れに沿 って五六万人の軍民、官員の行列が蟻のごとくつづいていたが、橋が完成すると争って渡った。婦人や官員、寧民た ちで、渡っている途中に河中の砂洲に落ちたものは数えきれないが、彼らはたちまち沙中に没してしまう。ある婦人 が沙中に陥るとき、管をあげて金塊を人に示しながら、号呼して救けを求めたが、 だれも近づくものは無かった。こ の日の晩、敵騎が近づくと、 ついに橋を焼きはらったが、逃げ遅れ、あるいは生き別れた人々のものか、両岸の突声 は天に響き渡ったという。 また、宣撫司の属官約三二百員、将佐、居民、官員等、馬約一万匹が河をわたることが出来なかった。さらに宣撫 司の軍資金である金銀縄自については、敵の馬軍にせまられ、懐州からの沿路で描棄され、河陽の渡し場に到着した のは約一百余万貫にすぎなかった。 十一月十四日早朝、黒旗、黄旗、白旗を掲げた金軍の騎馬隊が河陽に至ると、先に域中から追い出された居留民が 黄河の岸から、金の騎兵に固まれて城中に戻され、敗残の軍ともに黄河の泥中から保陥した物を掘り出させるために 働かされた。陶宣幹は、敵兵が河陽に至ると、馬車を使わずに一日一夜で洛陽の東にある輩県まで、計一百三十里を 逃走した。その翌日、敵馬は白皮や垣曲から黄河を渡ったという報告が宣撫司に届くと、折彦質らはここでもたもま ち馬にのって逃避した。こうしてついに粘牢に率いられた金軍は宋の都城に追った。
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以上が、その当時宣撫司幹弁公事すなわち宣幹の職にあった陶という人物の記事である。個人的経験談であって も、かれの記述はある程度の実情を伝えているだろう。そこでは、和議派である折彦質に率いられた宣撫司に、当初 情康の変前後の折彦質(渡迭〕 -141ーから金軍と戦闘を行なう意志は見られない。戦争の被害を最小限にとどめる措置に重心がおかれるが、黄河を南岸に 渡ろうとする避難民のために、稚拙で不完全な橋を掛けるが、恐慌状態の難民が殺到し、結局は多くの犠牲者を出 す。折彦質が保護すべき避難民の詳細は不明であるが、そのなかには、彼が率いた宣撫司属官三百名余、武人、官員 から、おそらくは西北辺境の豪民たちを含めた人々もあり、そのうち約一万の人馬が河を渡れず北岸に取り残された という。また、宣撫司の保有する軍資金の存在、ならびに職官志などにはあらわされない下級事務官の数など、宣撫 司組織の一端もそこには伺われる。 ( 六 ) 折彦質の流諦 折彦質は馬一匹で命辛々首都に逃げ帰った。しかし、最後の防衛線を死守できなかった責任が追及されるのは当然 で あ ろ う 。 十五日、龍図閣直学土、河北河東路宣撫副使折彦質を責授海州団練副使、永州安置とす。京西提刑許高、河北 提刑許充、知緯州李元嘱、弁びに除名勃停す。理州、士口陽軍、華州に送り編管とす。時に、金人の入冠するに、 彦質、高、充は各おの兵を統べ洛口を防ぐも、望風して潰ゆ。元掃は守禦せず、故に是の命あり。 ( ﹃ 宋 会 要 ﹄ 職 官 六 九 之 二 九 、 靖 康 元 年 十 一 月 ﹀ 折彦質は海州団練副使に責授され、永州に安置となる。京西提刑の許高らも除名勤停とし、それぞれ遠方に編管さ れる。当時、遠方に流罪となれば、途中で生命が奪われることも稀ではなかったから、その方向の意味も含んでいた にちがいない。しかし実際には首都を包囲されると、事態が急変する。 中書侍郎陳過庭、防禦使折彦質、両河に出使し、地界を交割す。金人は大河を以て界と為すを請う。朝廷は陳 過庭、折彦質を遺り河北、河東の地を割せしむ。又た大小臣二十員を遺り、詔を持しこれに行かしむ。(﹃会編﹄ -142ー 龍谷大学論集
巻 七 二 、 靖 康 元 年 十 二 月 七 日 戊 辰 ) 前月すでに、永州安置とされていたはずの折彦質がここでは割地使として、開封を包囲した金軍との交渉に赴いて 仰 いる。なお、割地使はこの時に任じられた臨時の特使で、ほかにも民の命乞いのため派遣されれば請命使、あるいは
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首都防衛に総指揮をとらせる守禦使、副使をおき、減壁の防衛に南北壁提挙官などをおくのと同様であろう。また、 九日、敵使は米麹各千石、軍前瞳酒、軍前推馬とを索む。割地使陳過庭の出門するに及び、又た折彦質、文呂 申の家属を要む。夜に使あり金銀を須索す。語頗る不遜。 ハ ﹃ 婿 康 要 録 ﹄ 巻 一O
、 靖 康 元 年 十 二 月 九 日 ﹀ 割地使にあてられたのも、彼が和議派であることに由来するが、ほかにめぼしい人物がなかったためでもあろう。 というのも西北辺境出身の折氏は、金側との交渉に必要な言語能力において、馬交易などで培った通訳の経験をもっ ていた、あるいはそのような人材を有していたと考えられるからである。この時は、交渉の信頼度を高めるためもあ り、首都を囲んだ金軍が折彦質の家族を人質に求めた。また割地が無事に行なわれることを期して、金が宋にさらな る人質を求めたから、河北、河東で守備についているものの家族を人質に追加する。その中には折可求らの家族も含 まれていたといい固有の兵力をもっ折可求は遼の残党との密約交渉にもかかわっていたので、二重の意味で不信の 要因となっていたにちがいない。それでも金の不信は解消されず、結局は徽宗、欽宗の二皇帝はじめ親王、帝姫、酎 馬および官僚とその家族が控致されるにいたる。 その後、北帰する金軍の中に折彦質の姿はなかったようである。 折彦質は散官を責授し、昌化軍安置とす。銭益は落職降官、分司とす。許高、許充は海外州軍に編管す。臣僚 言う、靖康の末、彦質は朕西宣撫副使に任じられ、乃ち川萄に入る。益は制置使に任じられるも、湖北に逃る。 高克は兵を統べ河を防ぐに、江南に逃るを以て、故に是の責あり。(﹃宋会要﹄職官七O
之 三 、 建 炎 元 年 六 月 二 十 七 日 ﹀ 折彦質が﹁快西宣撫副使に任じられ、乃ち川局﹂に赴任したとある。この建炎元年六月は、 のちの高宗が南京で即 靖康の変前後の折彦質〈渡遁〉 -143ー位して、建炎と改元された翌月にあたり、新政府の手で靖康の敗戦責任が問われ、折彦質らに再度処分が下されたわ けである。同日の﹃会編﹄巻一
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九の記述では、もう少し具体的な内容がわかる。 二十七日乙酉、折彦質は散官とし安置す。銭蓋は落職分司とす。許高、許充は編管す。臣僚章疏して論ず、靖 康の末、折彦質は宣撫副使となり、川陳に逃入す。銭蓋は快西五路制置使と為るも、逃れて湖北に至る。許高、 許 充 は 兵 を 総 べ 河 を 防 ぐ も 、 逃 れ て 江 南 に 至 る 。 則 ち 後 に 執 れ か 肯 て 責 に 任 ず 者 あ ら ん 。 懲 戒 せ ざ れ ば 、 り、彦質は散官を責授し、 銭蓋は落職し朝奉郎を降授し、 高、充は海外軍に編管 昌 化 軍 安 置 と す 。 分 司 と す 。 す ︿ 司 会 編 ﹄ 巻 一O
八 、 建 炎 元 年 六 月 二 十 七 日 乙 酉 ﹀ 昌化軍は広南西路の南端、海南島の中にある地名であり、靖康に安置とされた永州とは比較にならないほど遠方で ある。靖康末、割地使として名を記された折彦質ではあるが、その後の混乱の中で、 ﹃宋会要﹄が陳西宣撫副使とす る 点 に は 、 や や 疑 問 が の こ る が 、 いずれにしても四川、陳西地域へ逃亡して、難を避けたようである。また、同時に 処分されたもののうち、銭蓋は青唐族を味方に引き込む戦略を提案して、 川 明 れ て い る 。 そのまま快西経制使としての身分が認めら 銭蓋の件にあわせて、許高、許尤が流刑地への途中で斬られたことが、ともに﹃要録﹄巻六、建炎元年六月乙酉の 記事にある。その中で折彦質は、南宋政権の下した処分に服して、昌化軍に赴いた。後世から見ると、このことは折 のちにあらわれる劉光世らの如き軍閥化への道が最初の段階で閉ざされたことを意味していた。 彦 質 に と っ て 、紹興年間の折彦質
( 一 ) 折彦質の復帰 はるか海南島に遠請されていた折彦質は、 やがて南宋政権に召還され、政界へ復帰する。南宋建国から六年目、紹 -144ー 日 あ 龍谷大学論集輿二年(一二ニ二)のことである。この新政権において、彼はいかなる役割を担うことになるのだろう。 丁酉、朝議大夫折彦質を復た龍図閣直学士とし、行在に赴かしむ。彦質、可適の子。靖康の初、河東制置使と 為りち喪師に坐して遠諦せらる。是に及び復た用いらる。︿﹃要録﹄巻五五、紹興二年六月) 折彦質復帰の要因については、いくつかの事情が想定できる。この年、科挙を実施して、官僚を新規に採用す加。 これには、中原の士大夫で東南に流寓しながら、いまだ南宋政府に合流していない人物を抜擢する意図も含まれてい 帥 開 たようん明、こうした積極的な人材の確保がすすめられていたことも、復帰を助ける要因になっていた。これら人材確 保の措置には、一方には当時の宰相であった主戦派の呂顕浩、金から帰国して和議の下地作りを図る秦槍との互いの M W 派閥充実といった面もあり、結果として両者の水面下での対立が深まった。やがて、秦檎と呂顕浩の対立が表面化す ると、外には劉光世の支援をうけ、内には靖康以来の旧臣をつぎつぎに復権させた呂聞浩が優勢になり、十二月、秦 槍 は 宰 相 の 位 を 退 く こ と に な ﹃ 針 。 この中央政治の趨勢が折彦質の復帰にある程度の影響を与えているように思う。紹興二年十月ごろには、ほかにも 靖康の変で、敵前逃亡したことにより除名され、地方へ移されていた人物が官位を回復されているなど、しだいに南 伺 宋政権による恩赦の措置がとられるようになったからである。 伺 その中で彼の復帰を決定的にしたのは、政権中枢に登った趨鼎の推薦によるところが大であったと思われる。それ 伺 ﹁越鼎、嘗て彦質の酔客為り﹂とある記事が多少の事情を示唆している。酔客とは、祝穆の﹃古今事文類豪﹄前 ﹁活文正公言う、幕府の酔客は須らく師と為す可き者乃ちこれを辞すベし。 t主 集、巻三
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、 仕 進 部 、 ﹁ 客 可 為 師 ﹂ に 、 朋友と難も亦た辞す可からず﹂とあるように、幕府の顧問的な存在であり、酔す側と客は敬意を以ってする相互関係 にあるべきものとされている。つまり、人材確保と北宋遺臣の復活という空気の中、ようやく呂願浩にかわって台頭 かつてその酔客であったことから、折彦質の復権をはかったと考えて差し支えないだろう。 し て き た 越 鼎 が 、 靖康の変前後の折彦質〈渡逃〉 - 145ー趨鼎、字は元鎮、山西開喜の人、生まれて四歳で父を失い、母が経、史、百家の書を彼に教えた。やがて部伯温の 弟子となり、崇寧五年の進士に合格する。中央政界にあって、彼は対金強硬派として知られ、かつて金軍が攻め寄せ ると、=一鎮の地を割譲することに反対したばかりか、張邦昌が皇帝に即位するときには、胡寅、張凌らと太学中に逃 れて、議状への署名をしなかった。南宋初には、越州の能仁寺に避難していたが、 やがて高宗に召されると、中原田 復のため、江陵南岸の公安に都を置く積極策を訴えた。また、劉予の斉を黙認していた南宋の方針を転換させ、あく まで偽斉を認めないことを主張する。このように、彼の政治信条は一貫していると言うべきだろうが、自分の理想実 現のためには、他者を認めない意固地なところも見える。 たとえば、北宋を滅亡に導いた察京らが新法政治にならっ たことから王安石を糾弾し、その位牌を太廟から追い出した。また前例のない右司諌から臆中侍御史への抜擢を平然 と受諾する。あるいは提案した四十事のうち三十六事を実施させるなどである。きすれば、上官と政治方針をめぐっ て争うことは避けられなかった。まず宰相の目願浩との争いに勝利して筆書枢密院事から参知政事へと進むが、やが て宰相朱勝非に疎まれ、四川地方への転任命令が下る。時を同じくして偽斉と金の攻撃がはじまると、その命は徹回 ついに政権の座に上る。紹興四年九月のことである。超鼎は、 d 沼仲、胡安国らはじめ、北宋の名門や同学派な どから幅広く人材を抜擢した。また張凌や岳飛を高宗に推挙して、飛躍の契機をあたえる。これらの措置をとったの 伺 は、南宋にとって、政権の正当化を図ることが急務であると考えたからである。なお、ここで登用されたのは、北宋 のちの理宗の時代と同様に﹁小元祐﹂と称された。彼は、素朴実直な人柄で さ れ 、 程氏の学に属する人物が主だったので、 あったとも言われるが、政権の座につくと、政事の先後および人才の召用すべき者を、箇条書きして座右に置き、次 したがって彼は、南宋初期に最大の発言力をもった指導者であったとも評される。 権を支える力の一つは政治資金であるが、越鼎が資金獲得に熱心だったことは、川映に都督として派遣されようとし 第に上奏して実行した。 一 般 に 政 たときに、軍資金七百万絹を申請したが、これより先、張淡が萄へ赴いたときの一百五十万絹の五倍近い額であった -146ー 龍谷大学論集
同 開 ため、高宗を仰天させていることからも伺える。とすればかつて百数十年間の馬交易で蓄積された豊富な自己資金を 有する折氏の降客となったことは、そのあたりにもなんらかの意図があるように思う。 後述するように対金、偽斉戦の方針をめぐる張凌との対立から、彼は政権を退くが、のちに張淡の失脚をうけ、再 び宰相に返り咲いた。しかし、やがては南宋を牛耳ることになる秦檎が台頭すると、最終的に政権を追われ、ついに は配所で自ら食を絶って死去するにいたる。もちろん彼が登用した人材も、すべて左遷・弾圧され、彼の息子も入獄 さ れ た 。 (一一﹀ 湖南安撫使として さて、折彦質は湖南安撫使兼知種州となり、長沙の地にその長官として赴任する。折彦質の流罪が解除されたころ、 江東安撫大使であった越鼎は建康にあり、当時最大の兵力を誇った韓世忠や孟庚に一目置かれる存在となっていた。 折彦質と鎚鼎の因縁から、この湖南安撫使就任も、あるいは趨鼎の影響力によると考えてきしっかえないだろ旬。し かしその任地には難問が山積していた。 寵図閣学士、新知漕州沈与求は力めて湖南の命を辞し、且つ言えらく軍旅に習わざれば、必ず敗事を致すと。 乃ち与求を以て知常州とす。時に、龍図閣直学士折彦質は広西に在り、即ちに彦質を以て湖南安撫使と為し、兼 ねて知揮州とす。仰お李網に令して彦質の至るを侯ち、乃ち罷めしむ。云々(﹃要録﹄巻六て紹興二年十二月己亥) H 開 これより先、揮州を占拠していた反政府側の李宏は降伏し、劉光世の寧に編入された。翌月には、湖広宣撫使とし M 開 て李綱が揮州に本司をおいた。ただし、前述の如く政府において秦槍を追った呂願浩、朱勝非の権力が樹立されると、 李綱は宣撫使から湖南安撫使に格下げされ恥。とはいえ李綱は、湖北安撫使らの軍事的協力も得て、楊太なる賊を討 紛 っ。しかもこの洞庭湖周辺には鐘相の余党がいまだに勢力を維持しており、やがて楊えへとつづく不穏な情勢にあっ 靖康の変前後の折彦質〈渡遁〉 -147ー
H W た。結局、李綱はかさねて弾劾をうけ、提挙崇福宮に毘された。その後任として、沈与求が湖南安撫使に任じられる 純 が、本人はこうした情勢不安な地に赴任することに危険を感じ辞退した。かわって、名誉回復されたばかりで広西に いまだ配所の海南島から臨安へ向う途上にあったと思われる、折彦質がその任に抜擢された。 この紹興二年末から紹興四年(二三四)六月まで、折彦質はここに在任することになるが、その期間は主として、 鐘相の余党である楊
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の乱鎮圧のために費やされる。 戊氏、湖南安撫使折彦質遣るところの統領官劉深は兵を以て鼎州に至る。時に、鼎窟楊4
の衆益々盛ん。﹁大 聖天王﹂を借号し、旗峨も亦た此の字を書す。且つ用うるに紀年を以てす。又た兵二万人を以て公安県に冠す。 彦質言う、えの勢は曹成に減ぜず。望むらくは朝廷此の賊を軽んずるなかれ。乃ち彦質に命じ揮鼎荊南の兵を督 ( ﹃ 要 録 ﹄ 巻 六 回 、 紹 興 三 い た と い う か ら 、 しこれを討たしむ。是の日、湖北統制官顔孝公も亦た千九百人を以て鼎州の城外に至る。 年 四 月 戊 氏 ) 湖南地方はかつて曹成に率いられた反乱勢力に属していたが、それに劣らない規模をこの楊公はもっていた。彼ら は鐘相とおなじく、折彦質のいる溜州からは西北に隣接して、 ちょうど洞庭湖の西半分を占める鼎州を本拠としてい た 。 楊 H A 尚お二万余人あり、公安、石首を侵犯す。詔して折彦質に令して鼎州井びに荊南鎮撫司軍馬を節制し、疾 速に措置、招捕せしむ。程昌寓、解潜に仰せて、如し彦質の軍馬を勾索するを承ければ、逗留し占苔するを得ざ ら し む 。 ( ﹃ 宋 会 要 ﹄ 兵 一O
之 一 一 一 一 一 一 、 紹 興 三 年 五 月 四 日 ﹀ 楊広が根拠地から北上して、江陵府内にある長江南岸へと、 さらに上流に侵攻したので、朝廷は折彦質に鼎川およ び荊南鎮撫司の軍権を任せる。これは、当該地域の軍団司令官である知鼎州の程昌寓、荊南鎮撫使の解潜に命令する 帥 刊 ことを許し、楊4
の討伐にあたらせることを意味していた。翌六月には王竣が制置使に任じられると、折彦質をはじ -148ー 龍谷大名論集M W めとする諸武将もその配下に組入れられる。それは安撫使兼知州が制置使に属する宋代官制の原則に従ったものであ 肪 る。この時点における折彦質の兵力や部下についての次のような記事がある。 武顕大夫、湖南安撫司統制官任土安を閤門宜賛舎人と為す。帥臣折彦質、 士安は間賊を討ち歩諒を降し功有り、 且つ兵聞に老い、市るに後進は皆其の上に位す。望むらくは一閤職に除し、以て激勧と為さんと言うを以ての故 なり。時に、湖冠方に盛んにして、湖南の諸将は惟だ土安と呉錫の所部のみ僅かに万人。彦質は頼り以て用と為 さんとす。故に是の請あり。 ( ﹃ 要 録 ﹄ 巻 六 四 、 紹 興 三 年 四 月 庚 氏 ) 兵力は約一万で、それを任土安と呉錫が率いていた。また折彦質は、知岳州沼寅敷の戦略を採用して、以後の討伐 方針を立てようとしているから ﹂の活寅敷も彼の一党に属するにちがいない。 時に知岳州活寅敷は内患に遭い、策を以て湖南安撫使折彦質に干む。 (中略﹀四に悼夫を議して云う。 一 に 、 戦 兵 の 大 略 を 議 す 。 ( 中 略 ﹀ 二 に 戦舟を議して云う。 (中略﹀三に兵器を議して云う。 (中略﹀五に形勢を議し て 云 う 。 (中略﹀六に銭糧を議して云う。 七に時月を議して云う。 ( 中 略 ﹀ ( 中 略 ﹀ 八に攻討を議して云う。 ( 中 略 ) 彦 質 以 聞 す 。 詔して其の議を下し、 王理に命じてこれを行なわしむ。己にして理は招安金字牌を請う。上回く、近来、盗賊 腫起す。蓋し黄潜善等専ら招安に務むも、明盗の術なし。高官厚禄を以て渠魁を待すは是れ盗を賞するなり。 H A は江湖に跳梁し、罪悪貫盈す。故に命じてこれを討たしむ。何ぞ招安を為さん。但だ理をして賊を破らしめ、後 に止だ渠魁数人を裁し、其の余を貸せば、 可なり。乃ち黄傍十道を給す。えより黄誠、劉衡、周倫、皮真に及ぶ まで、井びに近上の名を知りたる頭領は赦さざるの外、脅従の人は一切間わず。如し徒中に自ら併進して首に投 ( ﹃ 要 録 ﹄ 巻 六 六 、 紹 興 三 年 六 月 甲 午 ﹀ ずるは、当に議して優与推恩せん。 ﹃ 宋 会 要 ﹄ 兵 一
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三四では、提案者名を沼寅とし、兵力数にも若干の相違がみられる 活 寅 敷 に つ い て は 、 靖康の変前後の折彦質(渡逸) -149ーが、その文章はほぼ同文で、戦兵の大略、戦舟、兵器、悼夫、形勢、銭糧、時月、攻討を議している。ただ、詔を下 して攻撃討伐させたのが、 ﹃宋会要﹄では折彦質になっているし、 また﹃要録﹄にある﹁王腰は招安金字牌を請う﹂ 以下の記事は、やはり﹃宋会要﹄が七月九日としている点にも食い違いがある。﹃宋会要﹄に従うと、折彦質の活躍を 制 積極的に評価することになるが、やはり上級にある制置使に命令が下された上での話とするのが、順当かもしれない。 結局、この沼寅敷の献策もうまく生かすことが出来ずに、王理は失敗を繰り返し、乱は長期化する。決着までには、 紹興五年の岳飛の出動を待たなければならないが、その長期化の一因に、制置使の王理と折彦質の不仲を数えてもよ いように思う。それについて、次のような記事がある。 王践に詔して、所部の帥司弁びに諸州軍は並びに理の節制を聴す。楊久平らぐの日を侯ち旨を取る。理、湖南 北安撫使折彦質、劉洪道は済師を肯んぜざるを言うを以てなり。彦質命を聞き、上疏して言う、靖康中、河東宣 撫副使に任ぜられるに、理は臣の部下兵官に係り、兼て曾て体量行遺す。嫌怨は灼然たり。もし平時の部属偏稗 をして一日一、其の上に加え、緩急にその湿陵を聴せば、窃かに恐るらくは国体を簡くあらん。彦質と躍に詔して 心を同じく賊を討たしむ。如し故に托して事を避け、疎虞あるを致せば、当に議して重く鼠責を行う。 巻 七