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龍谷大学佛教学研究室年報 第22号(2018) 002ウィックストローム, ダニエル「法界縁起と如来性起」

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全文

(1)

法界縁起と知来性起

問題の所在

知来性起の語は﹃六十華厳﹄﹁宝王如来性起品﹂(以下、﹁性起品﹂) に 由 来 す る 。 智 織 ( S N -a a ∞)と法蔵 ( a s ' 2 N ) は 法 界 縁 起 説 を 体 系 付 け る に あ た っ て 、 ﹁ 性 起 品 ﹂ に 基 づ き つ つ 、 独 自 の 性 起 思 想 を 展 開 し て い る 。 後 述 す る よ う に 、 法 蔵 の 場 合 は 、 無 分 別 の 境 地 に 到 達 し た 如 来 が 無 極 大 悲 の は た ら き を 起 こ す こ と を 知 来 性 起 と 呼 ぶ 。 性 起 思 想 は 智 鍛 と 法 蔵 の 教 学 に お い て 重 要 な 位 置 を 占 め て お り 、 中 国 の 華 厳 教 学 を 特 徴 付 け る 思 想 と 言 え る 。 そ の た め 、 性 起 思 想 に 対 し て 多 く の 先 行 研 究 が あ る が 、 そ れ ら を 概 ね 二 種 に 分 類 することができる。 ① ﹁ 性 起 ﹂ の 原 語 と そ の 典 拠 と な る ﹃ 華 厳 経 ﹄ や ﹃ 宝 性 論 ﹄ を 手掛かりとしてインドにおける性起思想を探究するもの。 ② 智 徹 ま で の 思 想 成 立 と 、 智 倣 以 後 の 発 展 を 中 心 に 中 国 華 厳 教 学における性起思想を分析するもの。 龍 谷 大 学 悌 教 学 研 究 室 年 報 第 二 十 二 号 平 成 三 十 年

ウイツクストローム

ダニエル

① に 相 当 す る 研 究 成 果 の 中 で 、 西 尾 京 雄 氏 と 高 崎 直 道 氏 の 研 究 は注目に値する①。西尾氏と高崎氏の研究は漢訳とチベット訳の ﹁性起品﹂を対照することにより、性起の原語とその意義を明確 に し よ う と 試 み て い る 。 ま た 、 高 崎 氏 は ﹃ 宝 性 論 ﹄ に お け る ﹁

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昏 倒

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-回

3

5

9

︿包﹂という複合語を﹁如来性起﹂と推定し、 ﹃宝性論﹄の解釈に基づいてインドにおける如来性起の意義を分 析している。両者の研究は性起思想を理解するための下地となる。 ② に 相 当 す る 研 究 成 果 は 多 数 で あ る が 、 そ れ ら の 中 で 次 の 研 究 は注目に値する。 玉城康四郎氏は智徹、法蔵、澄観(寸凶∞'∞也)の性起解釈を実践 的 な 立 場 か ら 考 察 し つ つ 、 彼 ら の 同 異 を 指 摘 し て い る ② 。 玉 城 氏 の考察は華厳系統、つまり華厳宗の立場から考察しているもので あるから、三者の理解が根本的に一致していると捉えている。 木村清孝氏は智俄だけを対象として智僚の法界縁起説を考察す る中で、縁起との関連において智僚の性起思想を分析している③。 鎌 田 茂 雄 氏 は 中 国 に お け る 性 起 思 想 の 成 立 を 考 察 す る 中 で 、 智 僚と法蔵の性起思想が浄影寺慧遠(同区

' 3

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の影響下にあると捉

(2)

法界縁起と知来性起(ウイツクストローム) え、その点から慧遠の仏性解釈および智僚と法蔵の性起思想を分 析 し て い る @ 。 石井公成氏は浄影寺慧遠の影響下に智倣の性起思想を捉えてい る点で鎌田氏と一致しており、その上で智餓の法界縁起説におけ る性起思想と慧遠との相違を考察している⑤。 島村大心氏はこれらの先行研究を踏まえ、智餓と法蔵を中心に ﹁性起﹂の意味内容を分析している@。その際、島村氏は如来性 起の内容が大乗経典に多く説かれてきたと述べ、華厳教学の特徴 と見倣していない。 現存資料の中では、智僚が初めて﹁性起品﹂に注目し、法界縁 起の究極として位置付けたが、その解釈は極めて簡潔である。一 方、法蔵は智織の性起解釈を承けながら、その解釈は智餓より極 めて精密であり、かつ性起思想を﹃華厳経﹄の特徴として強調し ている。それにもかかわらず、従来の研究では智儲の解釈が中心 的に考察され、法蔵の性起思想がそれほど明確にされているとは 言 い 難 い 。 本稿の目的は、法蔵の法界縁起説と関連して彼の性起解釈を解 明することにある。そこで、三点から考察を行う。 ①﹃華厳経﹄における﹁知来性起﹂の意味を確認し、その上で 智僚と法蔵における﹁知来性起﹂の定義を検討する。 ②法蔵の﹃探玄記﹄における﹁性起品﹂宗趣説を基に法蔵が体 系付けた性起思想を分析する。 ③﹁性起品﹂ す る 。 の﹁塵含経巻﹂ の比鳴に対する法蔵の解釈を考察 これらの考察により、如来性起の原意と法蔵の法界縁起説にお ける性起思想の意義を明らかにしたい。

﹃華厳経﹄における﹁知来性起﹂

の意味

まず、﹃華厳経﹄が説く知来性起の原語とその意味内容を確認 し よ う 。 ﹁性起品﹂には竺法護 (M 出

' 2

0 )

訳﹃如来興顕経﹄、仏駄駿陀羅 (凶

3

A M a ) 訳﹃六十華厳﹄﹁宝王知来性起品﹂、実文難陀 (aME 三 。 ) 訳﹃八十華厳﹄﹁如来出現品﹂という三種の漢訳と一種のチベッ ト訳が現存する⑦。サンスクリット原本や断片は発見されていな い。西尾氏と高崎氏は如来性起の原語を知るために、漢訳とチベ ット訳を対照し、チベット訳からサンスクリット語を推定して還 元している。また、両者が推定している知来性起の原語は﹁入法 界品﹂と﹃宝性論﹄の党本に見出せるため、漢訳と対照すること によってその意義を確認することができる。 西尾氏はチベット訳と漢訳の﹁畑来性起品﹂を対照し、チベッ ト訳から﹁如来性起﹂の原語を富岳削宮

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5

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と推定して いる⑥。高崎氏は、西尾氏の研究を踏まえ、漢訳とチベット訳に -2ー

(3)

用いられる﹁性起﹂の用例をすべて摘出して検討した結果、﹁性 起﹂に次の五種の意義があり、併せてその原語を推定している⑨。 ①﹁如来の家に生まれた﹂

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寄 席

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②﹁如来の出生、出現﹂

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君 " ③﹁知来の出現﹂

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④﹁知来の種の流れ﹂

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⑤﹁知来の性﹂(を示現する

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号 制 官

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この中で、﹁性起﹂の熟語として翻訳できるのは①だけである とする。②と③では﹁起﹂の意味のみがあって﹁性﹂の意味がな く、④と⑤では﹁性﹂の意味のみがあって﹁起﹂の意味がないか らである宅 ①の原語は﹁性起品﹂の題名ではなく、本文に登場する﹁如来 性起妙徳菩薩﹂における知来性起に相当する。菩薩名は﹃六十華 厳﹄と﹃八十華厳﹄で一致しているのに対して、緋一一法設訳では、 菩能名が﹁如来族姓成首菩薩﹂となるせ品名については竺法護 訳が﹁如来興顕﹂、﹃六十華厳﹄が﹁如来性起﹂、﹃八十華厳﹄が﹁如 来出現﹂となっている。このことにより、菩薩名にある﹁如来性 起﹂と品名にある﹁如来性起﹂の原語が異なったと推察される。 この場合、性起の﹁性﹂に相当する原語は伺 O E H 種性や複合 語の

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gH

家系である。﹁起﹂に相当する原語は ω

(

龍 谷 大 学 悌 教 学 研 究 室 年 報 第 二 十 二 号 平 成 三 十 年 と②に同じ原語)或いは

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守色(②のみにある)の派生語であり、そ れらが併記される場合もある。これらを分析した高崎氏は、①の

m o E

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島 町

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のみが﹁性起﹂の原語として妥当と推定している⑫。 こ の よ う に 、 高 崎 氏 と 西 尾 氏 は と も に ﹁ 性 起 ﹂ の 原 語 を 問 。 可 守 ω 主 u v m ︿ " と し て い る 。 ﹃宝性論﹄の党本では核心となる﹁一切衆生有如来蔵﹂を三義 に よ っ て 解 釈 す る に あ た っ て 、 第 三 義 と し て 冨 昏 倒 明 白

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が挙げられている⑮。この複合語が﹁知来性起﹂に 相当し、﹃宝性論﹄は﹁性起品﹂との関係の下でこれを取り入れ たと高崎氏は推定している⑭。ただし、勅那摩提

( u

g

・ ? ) の 漢 訳 では﹁実有仏性﹂⑮と翻訳されている。勤那摩提の訳語を意訳と 考えれば、この場合の如来性起は衆生の心中にある仏性 H 知来性 ( 雷 神 宮 ぽ m 宙開

o g

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の生起

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雪印)を意味することとなる。 こ れ に 対 し て 筆 者 は 、 ﹁ 入 法 界 品 ﹂ に あ る 冨 昏 倒 宮 E

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加 。

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に注目したい。﹁入法界品﹂の目頭では菩薩の 結集を絶賛して、﹁ S 昏 倒 宮 EEEm

5

8

ヨ 害 警 ω﹂@という用例がそ れである。この意味は高崎氏の①に相当し、如来︹冨昏お告︺の 家系︹

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︺ ・ 極 性 ︹

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に生まれる

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雪 印 ︺ も の で あ る ⑪ 。 ただし、﹃六十華厳﹄、﹃八十華厳﹄および﹃四十華厳﹄では一致 して﹁生如来家﹂⑩と翻訳し、如来性起として翻訳しないことに 注意を要する。一方、﹁性起品﹂に挙げられている十種の品名に ある第五の﹁示現如来種性﹂について、﹃六十華厳﹄では﹁如来 -3

(4)

法界縁起と知来性起(ウイツクストローム) 種姓家生﹂@と解説しているが、﹃八十華厳﹄は﹁生知来家﹂@と 解説している。﹃八十華厳﹄﹁入法界品﹂には同じ訳語が用いられ ていることから、その原語は同じではないかと推察される。如来 性起と関連して考えれば、菩薩が如来の家系・種性に生まれるこ とは、知来に等しい性質(種性)を持ち、同じ法脈を受け継ぐこ とを表していることとなる。 さ ら に 、 ﹁ 性 起 品 ﹂ の 品 名 の 原 語 に つ い て は 冨 昏

R

a

z

z号 制 喜 一 ・

8

告宰君"と推定されている。﹃解深密経﹄の最終章である﹁知 来成所作事品﹂では﹁性起品﹂が説く﹁性起正法﹂の十相が取り 入れられ、玄英訳では﹁如来生起之相﹂@と翻訳されている。西 尾氏と高崎氏は﹃解深密経﹄の玄奨訳とチベット訳と対照するこ とによって、玄英訳の﹁如来生起﹂の原語を

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g

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号 室 ・ 帥 喜 喜 望 ω に還元している@。その原語は﹁如来が出生すること﹂を意味し ており、品名は竺法業が﹁如来興顕﹂と、﹃八十華厳﹄が﹁如来 出現﹂と翻訳していることから、その原語もこれに相当するであ ろ う 。 この場合、如来出現とは如来・フッダ ( H 法身)がかりに世に 出現し、成道、転法輪、大般浬繋の相を示すことを意味している @。﹃六十華厳﹄﹁性起品﹂では、﹁性起正法不可思議。所以者何。 非少因縁、成等正覚、出興子世﹂@と説示しているのはこの内容 に当たる。つまり、如来出現としての如来性起は﹁性起品﹂の主 題を示す語であり、﹁性起品﹂の目的はこれを十種の相によって 解明することにある。 以上のことより、﹃六十華厳﹄が翻訳される時、品名や菩薩名 などが如来性起で統一されたが、その原語は必ずしも同じではな いことが知られる。﹃華厳経﹄では如来性起が多義的でありなが ら、大まかに如来性起 H 知来出現 H 成等正覚と、知来性起"衆生 における知来性の生起という意味でまとめられる。前者の原語は 冨 号 制

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に 相 当 し 、 後 者 の 原 語 は 富 野 創 出 。

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或 い は 冨 昏 倒

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に相当するであ ろ う 。

智僚における﹁知来性起﹂

の定義 -4ー 次に、智飯における性起の定義を検討しよう。智餓が如来性起 について論じるのは﹃捜玄記﹄﹁性起品﹂の解釈と﹃孔目章﹄﹁性 起品明性起章﹂の二箇所である。 ﹃捜玄記﹄では、知来性起が次のように定義されている。 如来者、知実道来、成正覚。性者体、起者現在心地耳。此即 会其起相、入実也。

(

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)

如来とは、如実の道より来たり、正覚を成ずることである。 性とは体であり、起とは︹体が︺心地に現在することである。 これは起こるという相によって実に入るものである。 ﹁如来﹂の解釈は﹃成実諭﹄﹁十号品﹂@と共通しているが、﹁性

(5)

起﹂の解釈は智鍛独自のものであろう。 ﹃捜玄記﹄は﹁性起品﹂の来意について﹁前普賢明能起之縁、 次弁所起也﹂⑧と述べ、﹁普賢品﹂に説かれる普賢行を能起の縁と 位置付け、それに対して如来性起を所起の性としている。上記の ﹁現在心地﹂と勘案すれば、性が衆生の心中にありながらも、普 賢行によって起動すると智餓は把渥しているようである。 また、﹃捜玄記﹄﹁普賢品﹂の解釈では、次のようにいう。 第二文解、摂前別行成其普徳。以発性起故来也。若作此解由 属 修 生 、 性 起 己 下 文 入 本 有 也 。 ( 司 ω u h ∞ の ) 第二に解釈して、前の別行をおさめて、普︹賢︺の徳を成立 する。性起を発生することから、︹﹁普賢品﹂が︺来るのであ る。もしこの理解をすれば、︹普賢行は︺修生に属し、性起 以下の文は本有に入るのである。 ここで、智餓は﹁普賢品﹂と﹁性起品﹂の位置付けを解説して いるが、普賢行を修生に、性起を本有に配当させ、普賢行の修生 によって本有の性起が発生するという。 このように、﹃捜玄記﹄では性起を性と起に分釈して、性を本 有の体性とし、起を普賢行の修生による発生と定義している。こ れを承けて、最晩年の﹃孔目章﹄﹁性起品明性起草﹂では次のよ うに述べている。 性起者、明一乗法界縁起之際。本来究寛、離於修造。何以故、 以離相故。起在大解大行、離分別、菩提心中、名為起也。由 龍 谷 大 学 悌 教 学 研 究 室 年 報 第 二 十 二 号 平 成 三 十 年 是縁起性故、説為起。起即不起、不起者是性起。広知経文、 此義是一乗。 ( = u h

∞ 。 。 )

性起とは、一乗法界縁起の際を明かす。本来究覚しており、 修︹行によって︺造︹作されること︺を離れている。なぜな ら、相を離れているからである。起は大解大行にあり、分別 を離れ、菩提心の中において、起と名付けるのである。これ は縁起の性によるため、起を説くのである。起は不起、不起 は性起である。詳細は経文の通りであり、この義は一乗であ す @ 。 ここで智餓は法界縁起の究極として性起を位置付けている。性 起を不起と規定しているのは、縁起性によって性起を不生不滅の ものと捉え、その点から性起を衆生の心中に現在する本有の性と すると筆者は理解しているが、上記の﹃孔目章﹄の解釈について は多説がある宅 ただし、﹃捜玄記﹄﹁性起品﹂の解釈では﹁順菩提﹂@を性起の 条件としており、﹃孔目章﹄﹁発菩提心章﹂では﹁真発心﹂⑧を自 己の体としての﹁菩提真性﹂を自覚することと述べている。これ らの記述から勘案すれば、﹃孔目章﹄は性起の起が﹁菩提心中﹂ と述べることは、衆生自身が実際に菩提心を発生し、修行によっ て如来の境地を目指した上で、心中にある本有の性・菩提心性が 起動することを強調するためであろう。すなわち、智僚は菩提心 の有無を基準として性起の﹁起﹂の有無を論じているのである。 -5ー

(6)

法界縁起と知来性起(ウイツクストローム) 以上のことにより、智餓における如来性起は衆生が発心して修 行することによって普賢行に到達するとき、衆生の心中に本有の 性が実現することを意味していることがわかる。智餓は如来性起 を衆生における性の起動と捉え、その根底に菩提心を位置付け、 性起の性を起動させるメカニズムとして普賢行を位置付けてい ス w

法蔵における﹁知来性起﹂

の定義

次に、法蔵の定義を検討しよう。﹃探玄記﹄﹁性起品﹂の解釈で は、﹁如来性起﹂が次のように定義されている。 轍性起法、亦具三義。謂出智義、最勝義、所依義。仏性論如 来蔵品云、従自性住、来至得果、故名知来。不改名性。顕用 称起。即如来之性起。文真理名知名性。顕用名起名来。即如 来 為 性 起 。 ( 己 u h o E 性起の法を喰えると、三義を具備する。つまり、出智の義、 最勝(勝義諦)の義、所依の義である。﹃仏性論﹄@﹁如来蔵 品﹂に﹁自性に住して、得果より来至することを、如来と名 付ける﹂という。不改を性と名付ける。顕用を起という。す なわち、知来の性起である。また、真理を如とも性とも名付 ける。顕用を起とも来とも名付ける。すなわち、知来を性起 とするのである。 智餓と同様に、法蔵は﹁如来性起﹂を﹁知来﹂と﹁性起﹂に分 釈しているが、﹃仏性論﹄によって解釈している点は異なる。そ して、如来と性起を知 H 性、来 H 起という関係で位置付けた上で、 知来性起について二種の解釈を提示している。すなわち、不改の 性が用を顕すことを知来の性起といい、真理を如とも性とも名付 け、それが用を顕すことを来とも起とも名付けるとすれば、如来 は性起であるという。 また、﹃探玄記﹄では﹁無自性理為本、起用故名性起﹂@と述べ、 無自性の理が用を起こすことを性起と定義している宅ここで法 蔵は真理が用となって起動することを﹁性起﹂と呼んでいる宅 法蔵の解釈を図示すると、次のようになる。 -6

①︿如来の性起﹀ 不改 H 性と顕周 H 起 ②︿如来が性起﹀ 真理 H 如・性と顕用 H 来・起 一方、法蔵は﹁性起品﹂で述べる十種の品名における第五に着 目して、次のように解釈している。 五明開発示現如来種性経。性起品名従此而立。文釈令仏種性 起 用 現 前 名 開 示 也 。 ( 寸 法 、

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)

五つには﹁如来種性が開発して示現する経﹂を明かす。﹁性 起品﹂の名はこれによっている。また解釈すれば、仏の種性 をして用を起こして現前させることを開示と名付けている。

(7)

すなわち、法蔵は如来性起を衆生における仏性が起きてはたら き出す (H 現前)ことと理解し、﹁性起品﹂の名はこれに由来して いるという。この場合、如来性起は衆生自身にある仏性を起動さ せるために、如来が世に出現し、衆生を教化することを意味して おり、如来の起用に重点を置く。 ただし、法蔵は智織と同様に普賢行を能発の因と、性起をそれ によって現れる果としている解釈もある。﹃探玄記﹄﹁普賢品﹂の 宗趣説では、次のように述べている。 第二趨者、明此普行意在、対顕性起果用。問此与性起何別。 答有三別。一此約因彼就果。二此是能発彼為所発。三此通修 生彼唯性起。

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第二に趣とは、普︹賢︺行を明かす意は性起の果用に対して 顕すことにある。問う、これ(普賢行品︺は性起と何の区別 があるのか。答える、三つの区別ある。一つは、これは図の 観点、それは果の観点である。二つは、これは能発、それは 所発である。三つは、これは修生に通じて、それはただ性起 の み で あ る 。 このことから、法蔵は智餓と同様に普賢行を修生や能発と定義 しているが、そこに性起との区別を付けている点は特徴的である。 つまり、智慨は性起を発生するメカニズムとして普賢行を強調し たが、法蔵は因位である普賢行と果位である性起に峻別を論じよ うと試みた。智餓との区別は法蔵が性起を果用と捉えたことにあ 龍 谷 大 学 悌 教 学 研 究 室 年 報 第 二 十 二 号 平 成 三 十 年 ろ う 。 以上のことにより、法蔵における﹁如来性起﹂とは如来が実現 するはたらきのことであり、或いは衆生における仏性のはたらき を起動させることである。 智餓と法蔵の性起思想は﹁性起品﹂の宗趣説に体系付けている ため、次にその検討に移ってみよう。

第二項

智僚の宗趣説

の宗趣説

智鍛は﹃捜玄記﹄において﹁性起品﹂の宗体を解説する際に、 宗体を人と法の二義によって解説し、性起の分斉を始終相対と閥 狭相対の二義によって解釈している。それは次のようである。 三弁宗体者、分別有二。約人約法。人但本有異前。法者如文 耳。間性起分斉云何。答此有二義、一始終相対。二閥狭相対、 明分斉。初始発心至仏性起、終至大菩提大浬繋流通舎利也。 閥狭頓悟及三乗始終。出世至声聞縁覚、世間下至地獄等諸位 也。仇起在大解大行大見関心中。 ( d u h 喝の) 第三に宗体を解説するのは、人と法の二つの観点に分別する。 人とはただ本有にして、(普賢品)以前と異なる。法とは文の とおりである。問う、性起の分斉はどういうことなのか。答 える、ここに始終相対と閥狭相対の二義がって分斉を明らか

-7

(8)

法界縁起と如来性起(ウィックストローム) にする。初めは、発心より始めて仏性が起こすに至り、終り が大菩提・大浬紫と舎利を流通するに至る。広狭は頓悟およ び三乗の始終である。出世間は声聞と縁覚に至り、世間は地 獄などの諸位に至る。すなわち、起は大解大行大見聞の心の 中にある。 まず、智餓は普賢行が修生に通じるとしているのに対して、知 来性起を本有に限定している。以前に述べたように、それは本有 の性が修生という普賢行によって生起することである。 次に、性起分斉の二義については、前者は発心より始め舎利の 流通までの修道すべてを性起によって意義付けている。この解釈 はプッダの生涯を性起の表現として捉えているようである。後者 は、性起の範囲を頓悟と三乗に限定した上で、その中に出世間の 二乗および世間の地獄などの諸位が含まれているとする。 最後に、起が定義されているが、﹃孔目章﹄で﹁大解大行﹂・﹁菩 提心中﹂として起を定義していることと関連して考えれば、性起 は衆生心の中にありながらも、性が解や行などによって起こると いうことであろう。 ところが、﹃華厳経﹄﹁性起品﹂では二乗に性起の機根が生じな いと説き、智鍛の解釈と矛盾している。そのため、智僚は二乗の 性起について問答を設け、次のように述べる。 問若声聞等有性起者、何故文云於二処不生根。答言不生者、 不生菩提心性起芽。不言無果葉。若無者微塵中不応有経巻。 声聞有体及果葉也。

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問う、もし声聞くなどに性起があれば、なぜ経文では﹁二処 に根が生じない﹂というのか。答える、﹁生じない﹂という のは、菩提心の性起の芽は生じないということである。果葉 がないと言わない。もし(果葉が)なければ、微塵の中に経 巻があるべきではない。比喰にしたがって知ることができる。 もし詳細に分別すれば、地獄に果葉がなくて体があり、声聞 に体および果葉があることとなる。 ここでは、二乗や地獄の性起を体と果葉に分けて解釈している。 その中で、菩提心の性起は生じないだけであり、果葉がないとい うわけではないとしている。ただし、﹁果葉﹂が具体的に何を指 しているのかは不明である。﹃捜玄記﹄第六現前地の解釈では、﹁故 性品云、名菩提心、為性起故﹂@と述べていることと、先にみた ﹁頓悟及三乗﹂という解釈から推して、菩提心としての性起が生 じていないにもかかわらず、地獄や声聞などの諸位に性起の体が あり、頓悟および三乗の境地に到達すれば、その果葉が現れると いうことであろう。 以上の考察から、智織が﹁性起品﹂の宗趣説で述べている性起 思想は、本有の性としての菩提心を性起と捉え、それがすべての 衆生や諸位に通じているが、頓悟や三乗に至らなければ、 たらきとなる果葉は現れないということである。 准 ・ 可 知 。 若細分別、 地獄無果葉有体、 -8-そのは 知来性起の定義

(9)

と勘案すれば、智僚にとって性起は普賢行と合わせて始めて実現 するものであり、智僚の性起思想には菩提心と普賢行が土台を添 え て い る 。

法蔵の宗趣説

法蔵は﹃探玄記﹄において﹁性起品﹂の宗趣を述べる際に、﹁性 起品﹂の宗を﹁明性起法門﹂⑧と述。へ、その性起法門を﹁仏果の 業用﹂@としている。つまり、法蔵は性起を﹁仏のはたらき﹂と して捉えていることがわかる。 まず、法蔵は宗趣説の冒頭において性起に理・行・果の三義を 展開して、以下のように述べている。 性有三種、調理行果。起亦有三。謂理性得了困顕現名起。二、 行性由待 (H 得)@開票、資発生果名起。三、果性起者、謂 此果性更無別体、即彼理行兼、具修生至果位時、合為果性。 応機化用、名之為起。是故、三位各性各起、故云性起。今此 文 中 、 正 弁 後 一 、 兼 弁 前 ニ 也 。 ( 司 法 ・ き

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)

性に理・行・果の三種がある。起にも三種がある。つまり、 理性は了因を得て顕現することを起と名付ける。第二の行性 は、聞燕を得て果を発生するのを資けることで、起と名付け る。第三の果性の起とは、この果性に別体がないので、その 理と行を兼ねて修生を具備して果位に至る時に合わせて果性 龍 谷 大 学 悌 教 学 研 究 室 年 報 第 二 十 二 号 平 成 三 十 年 とするのである。機根に応じて教化するはたらきを起と名付 ける。そのため、三位のそれぞれに性と起があり、性起とい う。今、この文(知来性起品)は後の一(果の性起)を解説し、 併せて前の二を解説する。 性と起にそれぞれ理・行・果があり、法蔵は知来性の顕現を理 ・行・果の順序によって解説している。つまり、一切衆生の中に ある知来の性・仏性があるのを理の性起というものの、普賢の了 因に至らなければ、顕わとならないのである。その上で、聞蕪習 によって自身の仏性を成熟させ、果を発生するのは行の性起とい う。そして、その修行によって果の性起に至るとき、﹁起﹂が﹁応 機化用﹂として衆生を教化するはたらきとなるという。 法蔵は果の性起とする﹁応機化用﹂によって仏のはたらき(仏 果業用)を示す。三種の性起の中で、﹁性起品﹂は果の性起を主題 とし、理と行が副題であるとしている。このことから、法蔵は﹁性 起品﹂の宗趣説において如来性起を仏の教化のはたらきとして体 系付けていることがわかる。 法蔵が述べる理・行・果の三種の性起は、芳英の﹃探玄記南紀 録﹄@によると、﹃仏性論﹄顕体分三因品で説く三種仏性に基づい ている。﹃仏性論﹄が述べる三種仏性は理・行・果と対応するこ とができるが、﹃仏性論﹄はそれらを﹁応得因﹂、つまり因位と規 定しているという点で異なる。これに加えて、法蔵が真諦訳﹃摂 大乗論釈﹄で説く乗の三義をも参考したと筆者は推測する。﹃摂

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-9-法界縁起と如来性起(ウイツクストローム) 大乗論釈﹄の三義は次のようである。 摩詞般若経説、乗有三義。一性義、二行義、三果義。二空所 顕、三無性真如、名性。由此性、修十度十地、名行。由修此 行、究覚証得常楽我浄四徳、名果。

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・M の ) ﹃摩詞般若経﹄に乗に三義があると説く。一つは性の義、二 つは行の義、三つは果の義である。二空の所顕、三無性の真 如を性と名付ける。この性によって十度と十地を修行するの を行と名付ける。この行を修することによって、究覚に常楽 我浄の四徳を証得するのを果と名付ける。 ﹃探玄記﹄﹁性起品﹂の宗趣説における理・行・果の定義と勘 案すれば、法蔵は﹃摂大乗論釈﹄における乗の性・行・果の三義 を参考した上で、性起の理・行・果の三義に換えたという可能性 は指摘できる。また、智餓に影響を与えたと指摘されている敦燈 出土の﹃摂大乗諭抄﹂@は題目にある﹁乗﹂を解釈する際に、理 ・行・果の三義を﹃仏性論﹄の三種仏性と関連させている@。こ の点からして、法蔵が用いる理・行・果の三義は摂論宗の解釈に 由来していると言えよう。その中で、法蔵は理・行・果の三義を 性起に当てることは特徴的である。 法蔵は如来性起を定義する際に﹃仏性論﹄﹁知来蔵品﹂を引用 していることからも、真諦の翻訳および摂論宗の解釈が法蔵の性 起思想に影響を及ぼしたことは間違いなかろう。 さらに、法蔵は理・行・果それぞれの関係について以下のよう に述べている。 一、行証理成。即以理為性、行成為起。此約菩薩位。以凡位 有性而無起故。二、証円成果。即理行為性。果成為起。此約 仏自徳。三、理行円成之果為性。赴感応機之用為起。是即理 行徹至果用故、起唯性起也。 ( 4 a h g ω ) 一つには行が理を証り完成することである。すなわち、理を 性とし、行の完成を起とする。これは菩薩位の観点からのも のである。凡︹夫︺位には性があるけれども、起はないから である。二つには証りがまどかに果を完成する。すなわち、 理と行を性とし、果の完成を起とする。これは仏の自徳の観 点からである。三つには理と行がまどかに完成した果を性と し、感情に赴き機根に応ずるはたらきを起とする。すなわち、 理と行が徹して果のはたらきに至るため、起とはただ性の起 のみなのである。 -10

理・行・果の三種の性起には理性が行によって果に至って初め て性起の起があり得るとする。 理・行・果それぞれの関係を凡夫、菩薩、仏の三位によって解 説していることは、﹃仏性論﹄の三種仏性と共通している@。﹃探 玄記﹄において理性が三位にわたって平等でありつつ、その用(起) を仏果に限るとしていることは重要な意義を担う。なぜなら、一 切衆生に性があるものの、仏果に至らない限り、その起用(大悲 による利他行)が実現しないとするのは法蔵の主張だからである。

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このように、法蔵は性起を果位の起用に限定して強調している が、この点は性起が二乗や地獄までの諸位に通じて普賢行によっ て発起すると述べた智僚と異なる。殊に既述したように、智僚は ﹁性起品﹂の原文にある﹁二処不得生長﹂を解釈するにあたって、 地獄や声聞に性起があると解釈した。一方、法蔵は同じ記述に基 づいて、﹁如下文薬樹王生牙時一切樹同生等。若従此義、初発菩 提心己去皆性起摂。唯除凡小。以二処不生牙故﹂⑩と述べ、智餓 と反対の解釈を示している。すなわち、法蔵は智餓と同様に発心 以後は性起の領域であるとしながらも、﹁性起品﹂の記述に基づ いて凡夫と小乗に性起がないと断言している。 これと関連して、宗趣説の染浄門において凡夫染法と性起浄法 の関係を問答によって詳細に分析していることは注目に値する。 問、一切諸法皆依性立、何故下文性起之法、唯約浄法不取染 耶。答、染浄等法雄同依真、但違順異故、染属無明、浄帰性 起。問染非性起、応離於真。答以違真故不得離真。以違真故 不属真用。如人顛倒帯靴為帽。倒即是靴故不離靴。首帯為帽。 非靴所用。当知此中道理亦爾。以染不離真体故説衆生即如等 也。以不順真用故非此性起摂。若約留惑而有浄用、亦入性起 収。問、衆生及煩悩、皆是性起不。答、皆是。何以故、是所 救故、是所断故、所知故。是故、一切無非性起。(己凶 h o u z o 凶 の ) 問う、一切の諸法はすべて性によって成立するならば、﹃華 厳経﹄﹁性起品﹂に説かれる性起の法は、ただ浄法のみで、 龍谷大学側教学研究室年報第二十二号平成三十年 染法を取らないのはなぜか。答える、染法と浄法は、同じく 真によっているが、ただ違背と随順の違いがある。染法は無 明の領域に属し、浄法は性起の領域に属す。 問う、染法は性起ではない。真を離れているではないか。答 える、真に違背しているからこそ、真を離れることはできな い。しかし、真に違背しているから、真の用に腐していない。 たとえば、人が顛倒して靴を帽子としてかぶるようなもので ある。かぶっても靴であるから、靴を離れていないが、頭に かぶっていいるものを帽子とするなら、靴の用をなさなくな る。この道理も同様である。 染法は真の体を離れていないから、﹁衆生はそのまま真如で ある﹂という。しかし、真の用に順じてはいないから、性起 とすることはできない。もし惑︹煩悩︺を留めていても浄な る用があるという観点からすれば、これは性起の領域に入る。 問う、衆生や煩悩はすべて性起ではないのであろうか。答え る、すべてそうである。なぜなら、これらは救われるもので あり、断たれるものであり、知られるものである。したがっ て、一切は性起なのである。 一切衆生に如来の性があるにもかかわらず、衆生は染法である 無明・煩悩を具備しており、それが性起と違背している。だから、 ﹁性起品﹂は浄法(果の性起 H 如来)に限って性起を説くという。 しかし、染法も浄法も真の体によるものであるから、性起の領域

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-11-法界縁起と如来性起(ウイツクストローム) に入る。染法である衆生や煩悩は浄法の用ではないが、如来にと って衆生は救済の対象であり、煩悩は断たれる対象であるから、 衆生や煩悩においても性起の浄用があるとする。この点から、法 蔵はすべてに性起があると認めるが、それは如来の立場に立って 救済対象として性起の領域を述べているからである。 同様に、宗趣説の定義門では性起が本来的に不可説であるが、 果位の性起が衆生の縁(機感)に応じて浄用(仏果業用

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翻染のは たらき)として現われることを性起と定義している@。法蔵が述べ る﹁浄用﹂とは、如来が起こす大悲・教化のことを指している。 法蔵の著作の中で性起を﹁大悲﹂として明記しているのは、﹃探 玄記﹄﹁性起品﹂における菩提性起の解釈と﹃華厳経旨帰﹄﹁明経 益第九﹂の二箇所である。﹃探玄記﹄の解釈では、﹃華厳経﹄が説 く﹁衆生成仏﹂を別教一乗・円教の立場から﹁旧来成仏﹂@と解 釈した上で、衆生に対する教化を次のように意義付けている。 問若爾何故諸仏更化衆生。答教化衆生亦有浅深。今即此菩提 身中現衆生成仏者、名究寛教化。不同余宗故。下結中名如来 無 極 大 悲 度 脱 衆 生 也 。 ( 己 主 ロ の ) 問う、もしそうであれば、なぜ仏は衆生を教化するのか。答 える、衆生を教化するのには浅深がある。今、菩提心の中に 衆生の成仏を現すのを究寛教化と名付ける。余宗と同じでは ないからである。以下の結文の中に﹁如来は無極大悲によっ て衆生を度脱する﹂と名付けている。 法蔵は﹁衆生成仏﹂を﹁究寛教化﹂と解釈している。これを﹁不 同余宗﹂と述べていることから、法蔵は﹃華厳経﹄が説く﹁衆生 成仏﹂を別教一乗・円教の特徴として捉え、他宗と一線を画して いることがわかる。 ﹃探玄記﹄と同様に﹃華厳経旨帰﹄の記述は﹁旧来同仏﹂を﹃華 厳経﹄で説く﹁無極大悲﹂によって解釈している@。つまり、こ の二箇所では性起が﹁無極大悲﹂として現れる﹁究覚教化﹂と解 釈されているのである@。 以上のことから、宗趣説に体系付けている如来性起は果の性起 であり、具体的に如来の浄用としての説法・教化のはたらきを意 味していることが明白となった。 -12

第三項 塵合経巻の比轍とその解釈 智僚と法蔵における﹁性起品﹂の宗趣説を踏まえた上で、﹃華 厳経﹄﹁性起品﹂が説く﹁塵含経巻﹂の比鳴に対する解釈を検討 しよう。法蔵にとって﹁性起品﹂の中核はここにあるからである。 ﹁性起品﹂は﹁性起正法﹂を十種の相によって説き、その第四 は如来意業である。知来意業は具体的に智慧のはたらきを示して おり、その文脈の中で﹁塵含経巻﹂の比鳴が説かれている。 ﹁塵含経巻﹂の比喰は一切衆生に如来智が内在しているけれど も、衆生が顛倒してそれを知らないため、如来が衆生を教化し、

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自 身 に あ る 如 来 智 を 自 覚 さ せ る と 説 明 し て い る 宅 そ の 際 、 衆 生 を微塵に、如来智を経巻に、如来の教化をそれを取り出すものに 喰えている。この比轍から如来性起を考えれば、如来性起は衆生 における如来智を自覚させるために、如来が世に出現して衆生を 教化するという意味になり、具体的に衆生利益としての利他行・ 教化を指しているにほかならない。 智織は﹃捜玄記﹄においてこの比轍を如来の浄心が智としては たらくと解釈しているが、それ以上に詳細な解釈を示していない 宅 一 方 、 法 蔵 は ﹃ 探 玄 記 ﹄ に お い て こ の 比 鳴 を 法 ・ 轍 ・ 合 の 三 分によって詳細に解釈している。その冒頭は次のように述べてい

ず 。 。

第十、塵合経巻輪、轍仏性通平等智。於中三、法轍合。初中 二。先標、謂仏果智与衆生中因性本覚無差別故。是故即在纏 之因、具出繊果法。以円教中因果無二。余聖教中未見斯義。

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第十、微塵に経巻を含む比織は、仏性が平等の智に通じるこ とをとたえている。中において法と喰と合という三つがある。 初めの中に二つがある。先に標示することは、仏果の智は衆 生の中の因性の本覚と差別がないことである。そのため、在 纏の因は出縄の果法を具備している。円教の中には、因と果 が無二だからである。余の聖教の中にこの義は見ない。 法蔵にとって、この比轍は衆生における仏性・平等智を隠れて 胞谷大学悌教学研究室年報第二十二号平成三十年 いる経巻に例えているものである。この文における﹁因果無二﹂ は在纏の因である如来蔵と出纏の果である法身を対比させ、因位 において出組の果が具備していることを説明している。中でも、 法蔵は因果無二を智慧に依拠して、仏果の智が因性である本覚・ 如来蔵と無差別であると説明し、これを﹃華厳経﹄独自の教義と する。したがって、法蔵はこの比喰に基づいて﹃華厳経﹄の特徴 を﹁因果無二﹂と見倣し、他の経典と一線を画している。 続いて、法蔵は因果無二の論理を次のように説明する。 二何以故下、釈因具果。既言無衆生身知来智不具足者、即知。 若有不具者、彼非衆生数。何得更有無性有情。若倶 ( H 具 ) 有者何故不知。釈、以顛倒故。若顛倒不知者、何以知有。釈、 若先無知 (H 智)者、離倒之時何処得有。既云離倒智起、明 知 不 無 。

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二つは、﹁なぜなら﹂の以下は、因が果を具備していること を解釈している。﹁衆生身に如来の智を具足しないものはな い﹂と言うからには次のことが知られる。もし具足しないも のがあれば、それは衆生ではないのに、どうしてさらに無性 の有情があるということができるであろうか。もし︹如来智 が︺あるならば、なぜそれを知らないのか。解釈していうと、 顛倒しているからである。もし顛倒して︹知来智があること を︺知らないというなら、何によって﹁有る﹂と知るのか。 解釈していうと、もし先に智がなければ、顛倒を離れた時に

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-13-法界縁起と如来性起(ウイツクストローム) ︹知来智は︺どこから得られるのか。顛倒を離れて智を起こ すというからには、︹如来智が︺あるということは明らかに 知られるのである。 ここでは、因位である衆生の身に果位である如来智が内在して いることを、因が果を具しているという観点から説明している。 以上のように、法蔵は﹁塵合経巻﹂の比喰を解釈するにあたっ て、如来智が一切衆生に遍満しているという立場から因果無二を ﹃華厳経﹄のみの特徴と主張している。その際、一切衆生に自身 にある如来智を自覚させるのは如来の教化・大悲のはたらきであ り、自覚される如来智は因と果に通じて無二・平等であるという。 結 論 本稿の目的は法蔵の法界縁起説ど関連して彼の性起解釈を解明 することにあった。考察を纏めて結論とする。 ﹃華厳経﹄における﹁如来性起﹂の意味については、大まかに 如来性起 H 如来出現 H 成等正覚と、如来性起 H 衆生における知来 性の生起という意味でまとめられる。 智鍛が如来性起を定義する際に、衆生の発心と普賢行を﹁能起 之縁﹂と位置付け、それに対して性起をそれによる所起の性とす る。智僚の解釈の根底には菩提心と普賢行が位置付けられている 点は特徴的である。 法蔵が知来性起を定義する際に、如来が実現するはたらき、或 いは衆生における仏性のはたらきを起動させることと定義し、重 点を如来の用に置いている点は特徴的である。 智僚の宗趣説で述べている性起思想は、本有の性としての菩提 心がすべての衆生に通じているが、頓悟や三乗においてのみその はたらきが現れるという。 法蔵の宗趣説で述べている性起思想は、摂諭宗に由来する理・ 行・果の三義を性起に当て、﹁性起品﹂で説く性起を果の性起と して体系付けている。果の性起は具体的に如来の浄用としての説 法・教化のはたらきである。 宗趣説の理解において、智倣と法蔵の間に性起思想の捉え方が異 なっていることがわかる。 最後に、法蔵は塵合経巻の比轍を解釈するにあたって、如来智 をが一切衆生に遍満している立場から因果無二を﹃華厳経﹄のみ の特徴と主張する。それは心内の仏性・如来智は因と果に通じて 無一了平等であるということである。 -14

注 ①西尾京雄﹁仏教経典成立史に於ける華厳、知来性起経について﹂﹃大谷 大学研究年報﹄第 M 輯

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、高崎直道﹁華厳教学と如来蔵思想│イン ドにおける﹁性起﹂思想の展開

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﹂ ﹃ 華 厳 思 想 ﹄ 法 蔵 館 亡 ま 。 ] M 3 ・ 出 M 頁 、

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高崎直道﹁華厳教学と如来蔵思想

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インドにおける﹁性起﹂思想の展開﹂ ﹃高崎直道著作集 如来蔵思想・仏性論 I ﹄ 春 秋 社 [ 包 互 選

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第。巻 頁 、 高 崎 直 道 ﹁ ﹃ 華 厳 経 ・ 如 来 性 起 品 ﹄ ﹃ 宝 性 論 ﹄ ! と く に と S 岳 山

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・ 8 H H H 害警釦(知来性起)という語をめぐって﹂﹃高崎直道著作 集 第 。 巻 知 来 蔵 思 想 ・ 仏 性 論 H ﹄春秋社 [ N 2 0 ] 主 ' 渇 頁 を 参 照 。 ②玉城康四郎﹁華厳の性起に就いて﹂﹃印度哲学と仏教の諸問題日宇井伯 寿博士還暦記念論文集﹄

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己を参照。 ③木村清孝﹃初期中国華厳思想の研究﹄春秋社

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泣 十 凶 凶 ∞ 頁 を 参 照 。 ④鎌田茂雄﹁性起思想の成立﹂﹃印度学仏教学研究﹄第凶巻第 M 号 ︹ -ま 品 、 鎌悶茂雄﹁唯心と性起﹂﹃講座・大乗仏教凶華版思想﹄︹芯∞凶︺ M M h T M 凶 ∞ 頁 を 参 照 。 ⑤石井公成﹃華厳思想の研究﹄春秋社[苫ま]司ムま頁を参照。 ⑥島村大心﹁華厳性起の意味とその内実﹂﹁善通寺教学振興会紀要﹄第ヨ 号 [MEM] を 参 照 。 ⑦この他に筆者未見であるが、木村清孝﹁新出・七寺本大方広如来性起 微密蔵経の研究﹂文部省科学研究費補助金研究成果報告書があり、法蔵 の﹃華厳経伝記﹄に言及する﹁大方広如来性起微密蔵経﹂

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5 u o ) と同 一 視 さ れ て い る 。 ⑧西尾京雄﹁仏教経典成立史に於ける華厳、如来性起経について﹂﹃大谷 大学研究年報﹄第 M 輯ロ宝凶]を参照。 ⑨高崎直道﹁華厳教学と如来蔵思想│インドにおける﹁性起﹂思想の展開 ー﹂﹃華厳思想﹄法蔵館 [ 3 8 ] N S -M ∞∞頁、﹃高崎直道著作集 第 ふ 巻 砲谷大学悌教学研究室年報第二十二号平成三十年 如来蔵思想・仏性論 I ﹄春秋社︹ M20] 凶 お ・

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頁 を 参 照 。 ⑩高崎直道﹁華厳教学と如来蔵思想

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イ ン ド に お け る ﹁ 性 起 ﹂ 思 想 の 展 開 ﹂ 、 ﹃高崎直道著作集 如来蔵思想・仏性論 I ﹄春秋社 [M20] 凶 事 第 。 巻 頁 を 参 照 。 ⑪﹃如来興顕経﹄

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巴 ⑫高崎直道﹁華厳教学と知来蔵思想

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イ ン ド に お け る ﹁ 性 起 ﹂ 思 想 の 展 開 ﹂ 、 ﹃高崎直道著作集 第 。 巻 知来蔵思想・仏性論 I ﹄春秋社 [ N 2 0 ] 活 凶 頁 を 参 照 。 ⑬中村瑞隆﹃党漢対照 究寛一乗宝性論研究﹄山喜房仏密林︹ 3 a さ 頁 ﹁ 可 脚 色 制釦同 d m w 帥何回同同 40 胡 g

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恒 害 警 m w ( 如来性起)という語をめぐって﹂﹃高時直道著作 集 第 。 巻 如 来 蔵 思 想 ・ 仏 性 論 H ﹄春秋社︹ M 2 。 ︺ ま 頁 を 参 照 。 ⑮ ﹃ 宝 性 論 ﹄

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昌三宮舎三宮句史き[-玄喝︺凶頁を参照。 ⑪梶山雄一(監修)﹃華厳経入法界品 ︹

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お ] M a 頁 を 参 照 。 さとりへの遍歴 上﹄中央公論社 ⑮ ﹃ 六 十 華 厳 ﹄

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σ ) @﹃解深密経﹄ ( E P 弓筈)

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法界縁起と如来性起(ウイツクストローム) ⑫西尾京雄﹁解深密経の成立構造の研究臼﹂﹃大谷学報﹄第忠巻第凶号 [右おの]、高崎直道﹁華厳教学と如来蔵思想

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インドにおける﹁性起﹂思 想の展開﹂、﹃商崎直道著作集 ︹ N20] 渇 令

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頁 を 参 照 。 第 。 巻 知来蔵思想・仏性論 I ﹄春秋社 ⑧高崎直道﹁華厳教学と知来蔵思想│インドにおける﹁性起﹂思想の展開﹂、 ﹃高崎直道著作集 頁 を 参 照 。 第 。 巻 如来蔵思想・仏性論 I ﹄春秋社

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⑫﹃六十華厳﹄(司 - E N σ ) @﹃成実論﹄十号品﹁知来者乗知実道来成正覚故日如来﹂

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いお巴。鍵 主良敬﹁智般における性起思想の一特質﹂﹃大谷大学研究年報﹄苫号ロ湯吋] を 参 照 。 @﹃捜玄記﹄

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⑫玉城康四郎氏は﹁之迄知り得なかった貫性が今始めて知り得るといふ点 に於て、﹁性の起﹂と名付けられるが、貫性を知ってみると、既に自己そ のものが縁起の実際であり、総べての修造を離れているから、性起は新に 起ったのではないといふ意味に於て不起と言われる﹂という。玉城康四郎 ﹁華厳の性起に就いて﹂﹃印度哲学と仏教の諸問題日宇井伯寿博士還暦記 念 論 文 集 ﹄

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己 、 木村清孝氏は﹁縁起の本体に焦点を合わせ、縁起の﹁起﹂のすがたをその ままに﹁不起﹂と捉え、動なる縁起を静なる本質、真実そのものにおいて 見ょうとする﹂という。木村清孝﹃初期中国華厳思想の研究﹄春秋社ロヨユ U M A r a 頁 、 鍵主良敬氏は、﹃擾玄記﹄との比較から判断すれば、﹁分別を離れた菩提心 の中に起は現在するという窓に解してしかるべきであると恩われる。あく までも菩提心は否定しないのである。しかし、﹁分別の菩提心を離れた中 に名付けて起と為す﹂と読む例があり、それも可能である。菩提心をも離 れたところで用くのが﹁起﹂であるとするのである。つまり、菩提心を強 調しさせすればそれが実現するのではなく、そのことに帯る分別の普提心 もあり得ることである。だから、菩提心をも離れなければ起は実現しない と解する﹂という。鍵主良敬﹁智餓における性起思想の一特質﹂﹃大谷大 学 研 究 年 報 ﹄ 沼 号 [ -混 吋 ︺ 中侮道昭氏は起を不起とするのは、性起は実体性をもたず、起を縁起性に よるからであるとしている。中保道昭﹁華厳の性起│智餓と法蔵│﹂﹃印 度学仏教学研究﹄第試巻第 N 号 ︹ 右 ∞ 色 、 -16ー 大竹晋氏は﹁性起説はインドの中観における因果説の発展であり、縁起の 不生、すなわち因が果を生じないことを前提とする﹂と述べている。大竹 晋﹃唯識説を中心とした初期華厳教学の研究﹄大蔵出版社

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凶 ω ω 頁 、 そ れ ぞ れ 参 照 。 ⑫﹃捜玄記﹄﹁文間二処相違、因何不成矛盾。答一切善根有邪有正。但順 菩提者、無間人天善根等、並是性起。不順菩提者、即非性起﹂(司凶・

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)

@﹃孔目章﹄﹁=一真発者、普提真性、由来己体、妄想覆故在而不覚、名為 生死。後息妄心、契窮自実、由来己体、知普提性是己体故。捨彼異求、実 相現前、故名発心﹂(司会

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⑩﹃仏性論﹄﹁言来者、約従自性来、来至至得、是名知来﹂(叶 ω -U 3 0 )

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⑨ ﹃ 探 玄 記 ﹄ ( 吋 ω p h g 吋 白 ) ⑨この理解は﹃大乗義章﹄ニ諦義で﹁真性自体、説為真諦。縁起之用、判 為 世 諦 ﹂ ( 叶 主 h g o ) と説く解釈に由来するであろう。 ⑮島村大心﹁華厳性起の意味とその内実﹂﹃普通寺教学仮興会紀要﹄第弓 号 [MEN] を 参 照 。 @﹃捜玄記﹄

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と ⑧ ﹁ 探 玄 記 ﹄ ( 司 法 ・

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皆 ) @﹃探玄記﹄ 2 u u h o E ) @原文は﹁理性得了因﹂とあり、異説には﹁待﹂となる。この解釈と合わ せて、行性起の解釈における﹁待﹂を﹁得﹂に改めた。 ⑩芳英﹃華厳経探玄記南紀録﹄巻十六之一、﹃日本大蔵経﹄日本大蔵経編 纂会編、華厳部章疏第二︹-虫色寸法頁下段、﹁取引一則於仏性論三僻性一、 而以額二華厳不共広大法門一﹂と述べる。﹃仏性論﹄三種仏性は﹁三種仏性 者、応得因中、具有三性。一住自性性、ニ引出性、三至得性、記目、住自 性者、謂道前凡夫位。引出性者、従発心以上、窮有学聖位。至得性者、無 学 聖 位 ﹂

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玄 白 ) と あ る 。 ⑮織田顕祐﹁華厳一乗思想の成立史的研究│地論宗教判史より見た智般の 教学

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﹂﹃華厳学研究﹄山喜房仏脅林ロヨ∞乙、織田顕祐﹁敦埋本﹃摂大 乗論抄﹄について﹂﹃印度学仏教学研究﹄出巻 N 号 [ -3 0 ] 、池田将則﹁敦 燈本﹃摂大乗論抄﹄の現本(守屋コレクション本)と後細部分(スタイン NUE) とについて

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翻刻と研究│(前週)﹂﹃仏教史研究﹄ Z

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を 参 照 。 龍谷大学悌教学研究室年報第二十二号平成三十年 ⑩﹃摂大乗論抄﹄﹁乗者有三種。一理乗、即初二勝相自性住仏性。二行乗、 即中六勝相引出仏性。三果乗、即後二勝相至徳果仏性。故下釈論明、乗有 一性、ニ随、三徳也。三世諸仏菩薩依乗、此法別如来地故名乗也﹂ 三 義 。 ( 吋 ∞ u L

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ム 。 。

-m w ) @﹃仏性論﹄﹁三種仏性者、応得因中具有三性。 一住自性性。二引出性。 三至得性。記目、住自性者調道前凡夫位。引出性者従発心以上、窮有学型 位。至得性者無学聖位﹂

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・ 司 合 ) ⑫ ﹃ 探 玄 記 ﹄

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宝 。

u o ) ⑬﹃探玄記﹄﹁一以果海自体当不可説、不可説性、機感具緑、約縁明起。 起己違縁而順自性。是故、廃縁但名性起。二性体不可説、若説即名起。今 就縁説起、起無余起、還以性為起。故名性起、不名縁起。三起難撹縁、縁 必無性。無性之理顕於縁処。是故就顕但名性起。知従無住本立一切法等。 四若此所起似彼縁相、即属縁起。今明所起唯拠浄用、順証真性、故属性起﹂ -17

( 同 , u p h

苧 。

u σ ) ⑭﹃探玄記﹄﹁問此中所現衆生成仏、為是約事、為是約理。若是約事何故 下釈皆悉一性以無性故等。若是約理何故標中乃云有発心修行等。答此是別 教中義。(中略)若円教即一切衆生地悉旧来発心亦克。修行亦寛、成仏亦 覚、更無新成。具足理事、如此経文﹂

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主 ω の ) ⑮﹃華厳経旨帰﹄﹁十称性益者、謂依此普法、一切衆生無不皆悉称其本性。 在仏果海中、即旧来益寛更無新。知性起品云、仏子知来身中、悉見一切衆 生、発菩提心、修普薩行、成等正覚、乃至見一切衆生寂滅浬襲。亦復如是、 皆悉一性、以無性故。乃至云、一切如来無極大悲度脱衆生。解云、弁衆生

(18)

法界縁起と知来性起(ウイツクストローム) 旧来悶仏者、是無極大悲也﹂

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@法蔵は﹁旧来同仏・成仏﹂を﹁究克教化﹂や﹁無極大悲﹂と解釈してい るが、﹁旧来成仏﹂は義湘の﹃華厳一乗法界図﹄にもある。ただし、義湘 は﹃十地経論﹄を教証とし、法蔵は﹁性起品﹂を教証とするという相違が ある。吉津宜英﹁旧来成仏について﹂﹃印度学仏教学研究﹄第芯巻第-号 [ 苫 ∞ ω ] を 参 照 。 ﹃華厳一乗法界図﹄﹁問具縛有情未断菩薩未成福智。以何義故旧来成仏耶。 答煩悩未断不名成仏。煩悩断尽福智成寛、自此己去名為旧来成仏。間断感 云何。答如地論説、非初非中後前中後取故。云何断知虚空。知是断故未断 巳還不名為断。既断己去名為旧来断也﹂(叶会・ 2 S ) 。 @﹃六十華厳﹄﹁復次仏子、知来智慧無処不至。何以故。無有衆生、無衆 生身如来智慧不具足者。但衆生顛倒、不知如来智態。速離顛倒、起一切智、 無師智、無碍智。仏子、普知有一経巻、知一三千大千世界、大千世界一切 所有無不記録。若二千世界等悉記三千世界中事。小千世界等悉記小千世界 中事。四天下等悉記四天下事。須浦山王等悉記須蒲山王事。地天宮等悉記 地天宮殿中事。欲天宮等悉記欲界天宮殿中事。色天宮等悉記色界天宮殿中 事。若無色天宮等悉記無色界天宮殿中事。彼三千大千世界等経巻在一微庫 内、一切微塵亦復如是。時、有一人出興於世、智恵聡述、具足成就清浄天 限、見此経巻在微鹿内、作如是念。云何知此広大経巻、在微鹿内、而不能 益衆生耶。我当勤作方使、破彼微塵、出此経巻、餓益衆生。爾時、彼人即 作方使、破彼微鹿、出此経巻、鏡益衆生。仏子、如来智慧、無相智慧、無 碍智慧具足、在於衆生身中。包愚痴衆生顛倒想覆、不知、不見、不生信心﹂ ( 4 P 島 町 M

a N h E ) ⑮﹃捜玄記﹄﹁此何故、約智弁。答有二意。 ニ今論性起智、即是心約浄弁故也﹂

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︿ キ ー ワ ー ド ﹀ 一為一心体通染浄故不約之。 法蔵、智僚、華厳経、如来性起、法界縁起 ( 研 究 生 )

。 。

参照

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