奈良教育大学学術リポジトリNEAR
崇神紀の成立について
著者 泉谷 康夫
雑誌名 高円史学
巻 5
ページ 1‑16
発行年 1989‑10‑01
その他のタイトル The Establishment of the Sujinki (崇神紀), the Chapter on Emperor Sujin (崇神) in Nihon‑shoki (日本書紀)
URL http://hdl.handle.net/10105/8674
崇神紀の成立について
一 は じ め に
泉 谷 康 夫
本稿で意図するところは︑崇神紀の史料批判である︒従来︑記紀の天皇系図すなわち帝紀については非常に緻密な分析が
なされてきた斜︑物語り的部分すなわち旧辞に関しては︑一般的にいって︑あまり深く立ち入った考察はなされないできた
ように恩︐ス︵ そこでここでは︑崇神紀をとりあげ︑その物語り的部分の成立過程を明らかにしてゆきたい︒崇神天皇すなわ
ち︑︑︑マキイリヒコイニ工の系図に関しては︑すでにいろいろと詳細に論じられているが︑枝葉末節にわたる議論のようにも
思われるので︑原点にたちもどり︑もう一度考え直してみたいと思う︒
二 彙神紀の内容
崇神天皇の在位期間は六十八年となっているが︑その中で日本書紀に記事のみえるのは元・三・四・五ェハ・七・八・九・
十・十一・十二・十七・四十八・六十・六十二・六十五・六十八の各年と即位前紀である︒そこでまず︑記事の内容につい
て簡単にみてゆくことにしよう﹄
即位南紀およゼ冗年条は系譜的記事であり﹂それlにつづく三年舞は遷都記事であラてへ.安寧紀から開化紀に至るいわゆる
欠史七代と同じ記載様式がとられている︒四年条は政治を行うための大綱を示した勅であるが︑一部に漢籍を借用し作られ
たこのような漢文体の勅は︹二般に書紀編者の作文であろうと考えられている︒五年条から八年条までは︑疫病が流行し︑
お お た た ね こ
それをしづめるため大田田娘子をして三輪の大物主神を祭らせた結果︑国内がしつまり五穀も豊かにみのるようになったと
す み さ か お お さ か
いう話で︑これにつづく九年条は︑大和国に疫神が再び入らないように︑墨坂神と大坂神に矛と盾とを与えて伺ったという
話で
ある
︒
たけはにやすひこ.十年条からは四逼将軍派遣の話になるが︑四道将軍の出発に先立ち︑武埴安彦反乱の伝承が記されている︒その大要は次
わにやとお初で為る︒四道将軍の一人上して北陸に派遣されることになった大彦命が和珂坂にさしかかったところ︑童女が︑
み ま きいりぴ−J おの を し.御開城入彦はや 七が満を 殺せむと︑
ぬ す し ひ め な そ び
窺まく知らに 姫適すも
と歌っている.のを聞きハその意味を聞いたが︑童女は答えず重ねて先の歌をうたって忽に消えてしまった︒そこで大彦命は
み を ば や ま と と と ぴ も も そ ひ め の み こ と
引き返し︑つぶさにその旨を報告したところ︑それを聞いた天皇の姑の倭迩迩自首襲姫命は︑これは武埴安彦が謀反を起
あ た ひ め か ぐ や ま ひ れ の
こそうとしているしるLであり︑自分は武埴安彦の妻の吾田蝮がひそかに倭の香山の土を載㊤領巾の礪宣っっみ祈みて﹁是
ものしろれ倭国の物実﹂といったということを聞いているから︑早く対処しないとおくれをとることになろうといった︒武埴安彦は
や 童 し ろ い さ せ り ぴ こ の み こ と
山背から︑.凄豊田嬢は大坂や毒逐襲やっとtたが︑天皇は五十狭芹彦命を達して大坂で吾田媛の軍を襲わせてこれを
1 一
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ひ こ く に ぶ く
破り吾田蝮を殺し︑また大彦命と和珂臣の遠祖彦国葺とを山背に派遣して武埴安醇を討たせ戦いとなったが︑武埴安彦は彦
国葺の放った矢に中って死に反乱軍は壊滅した︒
以上の武埴安彦反乱伝承のあとには︑倭迩連日百事姫命の大物主神との神婚伝承が記されている︒すなわち︑夫の正体が
こ お ろ ち み も ろ の や ま
小蛇であることを知った百襲姫命が大いに驚き叫んだのをみた夫の大物主神は︑恥ぢて御諸山に去り︑そのあと︑驚き叫
ほとんだサ七とを悔いた百襲姫命が箸で陰をついて亮じたという話であり︑時の人は百襲姫命の墓を箸墓といい︑この墓は大坂山
の石を運んで日中は人が造り夜中は神が造ったという︒
ひな十一年条は︑前年に発達された四道将軍も戎夷を平定して帰還し︑国内が安寧になったと簡単に記すだけである︒十二年
ゆ は ず の み つ ぎ た な す え の み つ ぎ は つ く に
条は︑この天下平定のあとを承けて︑男の弔詞︑女の手末調をとるようになり︑天下は太平となったので︑崇神天皇を御撃
し ら す
国天皇と称するようになったと記す︒次の十七年条は︑諸国に命令して船舶を造らしめたという簡単な記事である︒
四十八年条は︑皇位継承者を決める物語りである︒すなわち︑天皇は夢占いによって皇位継承者を決めたいといい︑御子
と よ き の み こ と い く め の み こ と
の豊城命と活自尊に夢をみるように命じたところ︑兄の豊城命はみずから御諸山に登って東に向い槍を八たび突き出し刀
を八たび振る夢をみたといい︑弟の括自尊はみずから御諸山に登り縄を四方に引きわたして粟を食む雀を追う夢をみたといっ
たので︑それに基づき天皇は︑活自尊を皇太子に立て︑豊城命には東国を治めさせたというのである︒
六十年条は︑出雲神宝奉献の物語りで︑その大要は次のとおりである︒天皇は︑出雲大神の宮にある神宝がみたいといい︑
ふ る ね い ひ い り ね
使者を遥しその奉献を命じたが︑神宝を管理していた出雲振根は筑紫国に行って不在だった︒そこで弟の飯入根が神宝を奉
献したが︑筑紫国から帰った振根は弟を恨み︑殺してしまおうと企て︑水浴にさそい︑そこで巧みに自分の木刀と弟の真刀
とをとり換えて戦い︑弟を殺した︒このことを聞いた天皇は︑吉備津彦等を達して振根を誅殺した︒このあと︑出雲臣等は
0 か と ペ
このことを恐れて大神を祭らなくなったが︑丹波の氷上の氷重戸辺という者の小児に託宣があり︑天皇は勅して大神を祭ら
せるようにしたという話が付加されている︒
上 さ み か り さ か さ か を り み ま な
六十二年条は天皇が農事を勧め潅漑のための依網池・苅坂池・反折池を作ったという記事であり︑六十五年条は任那国が
そ な か し ち
蘇耶馬叱知を適して朝貢してきたという記事である︒そうして︑六十八年条は天皇が百二十才で崩御したという記事で︑明
年の八月十一日に山辺道上陵に葬ったということで崇神紀は終っている︒
以上の日本書紀の記事を古事記の記事と比較すると︑古事記にはみえない話がある︒具体的にいうと︑十年条にみえる倭
迩迩日百襲姫命と大物主神との神婚伝承︑十七年条の船舶を造らせたという記事︑四十八年条の皇位継承者を決める夢占い
の伝承︑六十年条の出雲神宝奉献の物語り︑六十五年条の任部朝貢の記事である︒古事記にみえないということは︑これら
の記事が崇神紀にとって本質的なものでないことを示しているようである︒そこで︑この点についてもう少し詳しくみてみ
よう
︒
い く た ま よ り ぴ め
倭迩逐日百事姫命と大物主神の神婚伝承は古事記にみえないが︑古事記の崇神天皇条には︑大物主神が括玉依毘亮のもと
へ通って生まれたのが大田田根子︵意富多多泥古︶であるという︑少し異なる神婚伝承が記されている︒話の筋からいえば
古事記の方が自然であるが︑百襲姫命の神栖伝承は︑別稿でも指摘したように︑三輪の神と箸墓にまつわる伝承であるため︑
書記編纂の段階で編者が便宜的に崇神紀十年条に挿入したものであり︑これとよく似た活玉依毘売との神婚伝承は重複をさ
けて捨てさったものと考えてよさそうである︒
やまとたけるのみこと出雲神宝奉献の物語りも古事記にみえないが︑これとよく似た話は︑古事記の景行天皇条に倭建命の出雲建征伐の話と
してみえる︒すなわち︑水浴から上ったとき倭建命は自分の木刀と出雲建の真刀とをとり換え︑出雲建を打ち殺したという
のである︒このように︑少し人物を変え︑異なるところへ挿入しうる物語りが︑崇神紀本来の物語りでないことはいうまで
もあ
るま
い︒
六十五年条にみえる任那の蘇耶馬叱知の来朝記事は︑任那経営の発端を﹁御車国天皇﹂にふさわしいよう崇神紀に架上的4に追加したものであると三晶彰英氏は述べておられみ︒従うべき見解である︒
以上みてきたことで明らかだと思うが︑古事記にみえない部分は崇神紀本来の記事でないとして︑考察の範囲から除いて
差し支えないようである︒そこで改めて︑崇神紀の記事について考察を加えてゆくことにした.皇
三 彙神紀の構成
崇神紀五年条から八年条にかけての大物主神の祭祀に関する記事は︑別稿で詳細に論じたよう払︑特定の歴史的事実を記
したものでなく︑毎年くり返し行われてきた疫神鎮遇のための祭祀すなわち鎮花祭の行事を︑年月を追う形式に改め︑起源
説話風に記したものであり︑それにつづく墨坂神・大坂神を祭ったとする九年条が︑疫神の侵入を防ぐための民俗行事すな
わち︑︑︑チキリを意味することも︑また同時に指摘したところである︒なおこの伝承で注意すべきは︑墨坂が宇陀郡榛原町萩
原付近︑大坂が北葛城郡香芝町逢坂付近に比定され︑これは大和国の東西の境界点に当り︑大和国が静詮になったという話
になっていることである︒
1十年条の武埴安彦の反乱伝承は︑武埴安彦の妻の吾田媛がひそかに香山の土を取り領布の端につつみ祈みて﹁是れ倭国の
い は ひ ペ た け す 毒 の さ か
物実﹂といったと記されていることと︑武埴安彦と戦った大彦命と彦国華が忌会を和喝の武錬坂の上にすえて戦い勝利を
おさめたとみえることから︑神武紀の次の伝承との関連を考えてみる必要があるようである︒
う だ や そ た け る い わ れ の む ら え し さ
神武天皇は菟田から大和へ入ろうとしたが︑国見丘には八十臭師がおり︑磐余邑には兄放城という者の軍勢がいて︑中へ
あ ま の か ぐ や ま あ ま の ひ ら か い つ へ
入ることができなかった︒ところが夢の中で︑﹁天香山の社の中の土をとり︑天平盆八十枚を造り︑あわせて厳豊を造り︑
天神地祇を敬ひ祭り︑かつ潔嘉して呪迫すれば︑敵はおのづから平ぎ従うであろう﹂という天神の教えがあり︑丹生の川上
に登り教えのとおりに天神地祇を祭ったところ勝利を得ることができたという話である︒
この崇神紀と神武紀の伝承の類似から︑これらは共に︑特定の史実を示した物語りでなく︑戦闘における勝利の型を示し
た物語りにすぎないと考えることができよもとすると︑武埴安彦反乱伝承の示すもう一つの点︑すなわち畿内の平定こそ
が︑十年条の中心的要素であるということになってくる︒武埴安彦討伐が畿内の平定を意味したことは︑十月朔条の詔に
そむ﹁今反けりし者悉に誅に伏す︑畿内には事無し﹂とあるのによって明確である︒従って︑武埴安彦の反乱伝承の成立につい
ては︑畿内制の形成と関連づけて考える必要が生じてくる︒
畿内制の成立に関しては︑大化二年正月一日の改新の詔についての史料批判がからみ︑周知のとおりいろいろの誠が出さ
れている︒畿内制に関し︑改新の詔には次のように記されている︒
せ き モ こ う か み さ さ も り す す し る し
其の二に日はく︑初めて京師を修め︑畿内国司郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き︑鈴実を造り︑山河を定
な ば り せ の や ま あ か し
めよ︒︵中略︶凡そ畿内は︑東は名墾の横河より以来︑南は紀伊の兄山より以来︑西は赤石の櫛淵より以来︑北は近江
さ さ な み
の狭狭波の合坂山より以来を︑畿内国とす︒
右の﹁畿内国司郡司﹂は︑﹁畿内と国司と郡司﹂と読むか︑﹁畿内の国司と郡司﹂と読むか︑あるいは﹁畿内国の司と郡司﹂
と読むか︑いろいろの読み方ができるが︑令文の転載でない ー ﹁凡⁝﹂という書き方でない− 詔の文中に畿内制定のこ
とがみえるところから︑畿内制の成立を大化二年の詔におく見解が支配的であ私︒しかし︑畿内制の成立を天武朝におく見
aO解もあれ︑一方︑その成立を大化前代に遡らせて考える見解も出されていみ︒この畿内制の成立を最も早く考える最後の見
解でも︑その成立の時点は推古朝とするから︑畿内制と不可分の関係にある武埴安彦反乱伝承に特定の史実の反映を求める
のは無理なようである︒
ひ な さ ま
十年条から十一年条にかけてみえる四道将軍の派遣について︑十一年条には﹁四道将軍︑戎夷を平けたる状を以て奏す﹂
と記されているが︑戦闘などの異体的叙述はみられない︒古事記も同様であり︑また周知のように︑吉備津彦の西道への派
遣は孝霊天皇の時のこととしている︒従って︑四道将軍の派遣記事に特定の歴史的事件の反映をみるのは困難である︒しか
し︑このような記事が成立した背景に︑倭王武の上表文に﹁昔より祖禰︑窮ら甲胃を抜き︑山川を故捗し︑寧処に遥あらず︑
東は毛人を征すること五十五国︑西は衆夷を服すること六十六回︑渡りて海北を平ぐること九十五国﹂とみえるような大和
朝廷による征服戦争が︑律令制成立の時点まで︑断続してあったことはいうまでもない︒
なお︑四道将軍の派遣と関連し無視することのできないのは︑北陸に派遣され武埴安彦の反乱にさいしても大いに活躍し
お わ け お ほ ひ こ
たと記されている大彦命の名が︑埼玉の稲荷山古墳出土の鉄剣銘にみえる乎獲居臣の上祖の意冨比臆と一致するところから︑
nW両者を結びつける考え方のあることである︒この問題については︑研究史をも含む︑詳細な︑塚口義信氏の研究があ懲そ
れによると︑三世紀の後半から四世紀代にかけて大和朝廷の有力者が地方に派遣され勢力伸張の先鋒として活躍していた事
実があり︑それを基に雄略朝にはすでにオホピコ伝承の原型となるものが成立しており︑それは時代とともに潤色・改変さ
れ︑やがて記紀に四這将軍の伝承として定着するに至ったという︒妥当な見解であるが︑オホピコは伝承中の伝説的人物と
考えられるから︑崇神とオホピコとの関係は史実でないことを忘れてならないであろう︒
十二年条には︑男の弔詞と女の手末調を徴収するようになったと記されている︒大化以前の古い税をこのように表現し︑
その起源について述べたものである︒六十二年条に依綱.・苅坂・反折の三池を作ったと記すのは︑勒農政策を行ったという
ことを示すための記事である︒推古十五年紀には︑′周知のとおり︑大和・河内における造池のことがみえ︑その中に依網池
も含まれていて︑重複記事ととれないこともな・いが︑論証することは.できない︒
さて︑十二年条と六十二年条の記載が特定の史実に基くものであったか否かは判定できないが︑四年条から九年条にかけ
ての大物主神および墨坂・大坂の神の祭祀に関する記事︑十年条の武埴安彦の反乱伝承︑十・十一年条の四逼将軍派遣の記
事は︑先述のとおり︑特定の史実に塞くものではない︒そこで︑本来の崇神紀について改めて眺めると︑先ず大和国の静謹
化︑次に畿内の鎮庄︑その次が畿外の征服で︑こうして天下を平定したのち税制を整え勧農を行った︑という非常に整った
構成をとっていることに気付く︒まことに﹁御撃国天皇﹂にふさわしい事績であるといえる︒しかし︑天下平定記事が特定
の史実に基づいたものでないだけに︑その作為性は歴然としている︒従って︑次の問題は︑何時︑どのような理由によって︑
このような天皇紀が造作されたかということの究明でなければならない︒
そこで次は︑最初の系譜記事にたちもどり︑崇神紀の成立について考えてみたい︒
8
四 彙神天皇について
記紀の天皇の名は︑周知のとおり︑崇神とか応神という漠風譜号︵中国風のおくり名︶でなく︑実名らしいもの︑あるい
は和風誼号もしくはそれらしいもので記されているbこの名を比較検討するという方法で天皇系図についての研究がなされ
ていることも︑また周知のところである︒そうして︑かかる研究に基づく記紀の天皇系図に関する考え方で︑現在のところ
通説的地位を保っているのは井上光貞氏の所論だと思われる︒そこで︑まず井上氏の見解について述べることからはじめよ
う︒井上氏は︑付我の真によりながら︑E群の応神以降の名は一般に素朴で史実を伝えたものとみることができるとしたのち︑
天皇系図の形成について次のように記しておられる︒少し長くなるが︑そのまま引用することにする︒
ところが︑応神から前のD群はそうでない︒神功はオキナガタラシヒメ︑仲哀︵14︶はタラシナカツヒコ︑成務︵13︶
はワカタラシヒコ︑景行︵12︶はオオタラシヒコオシロワケであるが︑神功・仲哀・成務︑またはこれに景行を加えた
四つは一つのグループをなしていて︑タラシヒコ︑タラシヒメを共通にしているのである︒ところで︑隋書には︑天皇
はタラシヒコといい︑号をオオギミ︵大王︶といったと記してある︒隋書は七世紀初頭のことを伝えた本であるから︑
そのころ︑天皇のことを︑タラシヒコとよぶならわしがあったらしい︒また付表をみると︑ちょうど七世紀初頭にあた
る鮮明︵34︶はオキナガタラシヒヒロヌカ︑皇極︵35︶=斉明︵37︶はアメトヨタカライカシヒタラシヒメであること がわかる︒景行から神功にいたる一群の名が︑七世紀初頭のころの天皇の名とタラシヒコ︑タラシヒメを共通にしてい ること︑とくに成務と仲哀からタラシヒコをのぞくと︑ワカとかナカツとか普通名詞だけが残って固有名詞を含んでい
ないこと︑神功のオキナガタラシヒメが静明のオキナガタラシヒヒロヌカとオキナガを共有していること︑これらは何
を物語っているであろうか︒皇室の系図︑すなわち帝紀が︑六世紀のなかばに作られたころには︑これらのグループの
名はきまっていなかった︑またはまったくなかった︒そして七世紀もしばらくたって︑これらの名が作られたのではな
いか︑という推測がおこってくるのである︒この疑問を確かめる意味で︑もう一段さかのぼろう︒C群すなわち崇神
︵10︶︑垂仁︵11︶はしばらくおいて︑B群の開化︵9︶から前八代の名をみると︑ここでは︵6︶ のクニオシがF群の
付表 天皇名及び認号衷
D C B A
19 18 17 ・16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 代 記 数 紀 の
允 反 履 仁 応 神 仲 成 景 垂 崇 開 孝 孝 孝 孝 該 安 綴 神 誼 漢 恭 正 中 徳 神 功 衰 務 行 仁 神 化 元 霊 安 昭 徳 寧 靖 武 号 風
ヲ ミ イ オ ホ オ タ ワ オ イ ミ ワ オ オ ヤ ミ オ シ カ カ
名 ア ツ ザ ホ ム ヰ・ラ カ ホ ク マ カ ホ ホ マ マ ホ キ ム ム サ ハ ホ サ タ ナ シ タ タ
ガ ナ ラ ラ タ カ シ シ ラ ツ ヒ ヒ 群 腔 曇
メ キ ヤ ヤ ヤ ト ツ ヤ ツ ヌ ヤ ヅ ワ0 ワ0 ザ (
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マ マ マ タ ヒ マ ヒ ナ ト ト ト ラ コ ト コ カ ネ ネ ネ シ カ ヒ タ バ コ コ コ ヒ エ コ マ ミ ヒ ヒ ヒ コ シ ス テ ミ
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和
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ク ワ ホ ニ ト オ○ モ
ネ コ ケ ヒ ク エ シ0 ト ヒ ル ヒ
ト
G F E
44 43 42 4 1 40 38 37 36 35 34 33 32 31 30 29 28 27 26 25 24 23 22 2 1 20
(
元 元 文 持 天 天 孝 斉 皇 静 推 崇 用 敏 欽 宣 安 継 武 仁 顕 清 雄 安 正 明 武 統 武 智 徳 明 極 明 古) 峻 明 達 明 化 閑 体 烈 賢 宗 寧 鴫 康
ハ タ ヌ ア タ ヒ ヲ ヲ オ ヲ シ オ ア ツ チ ナ メ ケ ロ ホ パ ケ ケ ラ ホ ナ セ バ ク ク0 ヲ ク ド ッ カ バ ホ ベ ナ ラ ニ°ヒ ニ0 セ ノ ツ
ノ ノ オ0 ロ オ0 ノ タ セ ト フ シ0 ク0 シ0 ワ ケ ノ ヨ ト ハ ニ0 夕 カ ヒ ワ ミ ツ オ ア オ カ ヒ イ ヒ ヤ ヒ タ ラ オ0 ケ サ ロ カ ツ ミ ヲ メ キ ス カ ヒ ヒ マ キ シ0 カ ザ ク0 夕 キ シ ヂ ノ ノ ワ0 シ ロ メ シ ヒ タ ナ キ ニ0 ケ
ヨ ロ ヒ マ ケ0 ヒ ヌ キ ロ テ ヒ オ0
臣 ‡ 引 カ
リ ヒ メ
シ0
ハ ii
−−11−
︵27︶︵28︶と共通であり︑︵7︶︵8︶︵9︶のヤマトネコにいたっては︑七世紀後半以後の諸天皇︑すなわち持統︵41︶
・文武︵42︶・元明︵43︶・元正︵44︶に共通である︒古事記は元明天皇︑日本書紀は元正天皇の時にできたのであるか
ら︑これら八代の天皇の名は︑タラシヒコ系よりもう一段遅れ︑古事記や日本書紀の作られたころに最終的にきまった
ものとみざるをえないのである︒
このように﹁E群︵応神以後︶の天皇の名は最も原初的︑D群︵景行1神功︶のタラシヒコ系天皇の名は七世紀的︑B群
︵緩靖1開化︶の名は八世紀的で︑さかのぼればさかのぼるほど新しくなるのであるが﹂︑C群︵崇神・垂仁︶とA群︵神武︶
の天皇の名はいずれも固有名詞であり︑E群を主とする六世紀の天皇系図にすでにその名があったとする︒ただし︑D群中
のオオタラシヒコオシロワケ︵12︶のオオクラシヒコは七世紀的であるが︑オシロワケは応神︵15︶・履中︵17︶・反正︵18︶
的な名で︑E群に入れうるという︒
井上氏の見解によると︑六世紀末に︑
カムヤマトイワレヒコ −︑︑︑マキイリヒコイニエ ー イクメイリヒコサイチ ー オシロワケ ー ホムダワケ ー
オオササギ ー イザホワケ ー ミズハワケ⁝⁝⁝⁝⁝
という系図がすでに成立していたが︑七世紀に入ると︑この中のオシロワケにオオタラシヒコが加えられてオオタラシヒコ
オシロワケとなり︑ワカタラシヒコ ︵成務︶ − タラシナカツヒコ ︵仲哀︶とつづく系図が挿入されたということになる︒
このオオタラシヒコオシロワケ成立に関する所論は妥当なものとして受容れることができるが︑カムヤマトイワレヒコ −
︑︑︑マキイリヒコイニエー イクメイリヒコイサチの系図がすでに六世紀に成立していたとの所論については︑検討の余地
があるようである︒
−12−
カムヤマトイワレヒコのカムは神の意で敬称︑ヤマトは倭で大和国の意︑イワレは神武天皇が最後に八十臭師を討ち天下
を平定したといわれる大和国の地名︑ヒコは日子の意で敬称であり︑神武紀の伝承の内容と不可分の名といえる︒このよう
な︑神話でなく︑歴史物語り的伝承を基につくられたと思われる名が︑初代の天皇名として早くからあったとはとうてい考
えられないことである︒ミマキイリヒコイニ工とイクメイリヒコイサチの名の意味するところは不明である︒しかし︑共に
和風謡号風の名である︒和風認号が何時頃から贈られるようになったかはあまり明確でないが︑継体︵26︶がオホドで和風
謡号が残っていないところをみると︑早くて欽明︵29︶朝頃であろうか︒従って︑欽町よりかなり前のホムダワケ・イザホ
ワケ・ミズハワケといった素朴な実名を伝えたと思われる天皇の前に︑和風謡号風の天皇の名があるのはどうしても不自然
であ
る︒
以上のように考えると︑何時ミマキイリヒコイニエとイクメイリヒコイサチが景行にはじまる天皇系図に架上されたか︑
また︑崇神紀の記事は何時成立したかという問題が生じてくる︒非常に素直に考えると︑系図のC群︵崇神・垂仁︶はD群
︵タラシヒコ系図︶より新しくB群︵綬靖←開化︶より古いということになり︑必然的にC群架上の時期 −︑︑︑マキイリヒ
コイニエとイクメイリヒコイサチが天皇系図に加えられた時期 − は天武朝の頃となる︒
崇神紀の記事の成立については︑以前︑別稿で大物主神の祭祀記事が鎮花祭の起源説謡であることを述べた時︑オオタタ
ねのくにネコのネコが板子すなわち根国の神︵地祇︶の御子の意でありオオヤマトネコのネコと同一であることを手がかりとして︑
a記事の成立は天武朝以降であろうと推定し払︒このことは︑武埴安彦の反乱伝承からもいえるようである︒この反乱伝承の
中心的要素は︑前節で述べたとおり︑畿内の鎮圧ということであった︒そうして︑この畿内は︑大和国 − それも墨坂と
大坂とにはさまれた飛鳥の地が中心となる大和国 − を中心とした畿内である︒周知のとおり︑孝徳朝の都は難波の長柄
−13−
豊碕宮であり︑斉明朝に飛鳥にもどるが︑天智朝は近江の大津宮になるから︑この時期に武埴安彦の反乱伝承ができたとは
考え難い︒従って︑大化前代か天武朝以降の成立ということになる︒そうして︑崇神紀の記事のような構成された物語りの
成立は︑恐らく修史事業と関係があるであろうから︑おのずから推古朝か天武朝に限定されてくる︒推古朝とすれば中心は
斑鳩であろうから︑飛鳥に都が定着した天武朝と考えるのが最も妥当なようである︒
以上述べてきたように︑系図の面からみても伝承の面からみても︑崇神紀は天武観の成立と考与られるのである︒従って︑
天武紀十年三月丙成条に︑
おは天皇大極殿に御します︒川島皇子︑忍壁皇子︑広瀬王︑竹田王︑桑田王︑三野王︑大錦下上毛野君三千︑小錦中忌部連
子首︑小錦下阿曇連稲敷︑難波連大形︑大山上中臣遵大島︑大山下平群臣子首に詔して︑帝紀︑及び上古の諸事を記し
定めしめたまふ︒
とみえるこの修史事業の中で︑︑︑︑マキイリヒコイニエが天皇系図に架上され︑同時に﹁御車国天皇﹂にふさわしい伝承が構
成され付加されたと思われるのである︒
−14−
五 む す び
.本稿で述べてきたことを要約すると︑おおよそ次のようになる︒
崇神紀はもと︑系図記事︑大物主神の祭祀の伝承︑武埴安彦の反乱伝承︑四道将軍の派遣記事︑新税制定の記事︑造池の
記事からなっていたと思われる︒これは︑大和国の静詮化︑薗内の鎮圧︑畿外の征服という順を追った天下平定の後︑税制
を整え勧農を行ったという非常に整った構成を示すもので︑明らかに造作された記事である︒一方︑崇神の︑︑︑マキイリヒコ
イニ工という和風謡号風の名は古いものではなく︑オオタラシヒコオシロワケにはじまる天皇系図に架上されたものである︒
そうして︑このミマキイリヒコイニエは天武朝の修史事業の中で﹁御挙国天皇﹂とされ︑その事績を示す記事も同時につく
られた︒本来の崇神紀が非常に整った構成を示すのは︑そのためである︒活自尊立太子の話︑出雲神宝奉献の物語り︑箸墓
の伝承などは︑のちに崇神紀に加えられたものである︒
以上の主張を更に確実なものにするためには︑崇神紀だけでなく垂仁紀の伝承についても分析を加えなければならないが︑
今は︑垂仁紀の記事は互いに脈絡のない伝承を寄せ集めたものである点だけを指摘し︑詳細については後考を期したい︒
︹ 註 ︺
川 崇神を中心とする天皇系図について最初に子細に立ち入って考察を加え︑後の研究に大きな影響を及ぼしたのは︑吉井巌氏の研究
︵同著﹃天皇の系譜と神話﹄昭和四二年︶であろう︒吉井氏は︑崇神・垂仁を中心とするいわゆるイリ系系図を史実を伝えたものとさ
れたが︑前之園亮l氏は︑その著﹃古代王朝交替説批判﹄︵昭和六一年︶の中でこの間題について詳論し︑史実性を否定された︒なお︑
この間題の研究史については︑前之国民の著書に詳しいので参照されたい︒
㈹ すでに早く建白左右吉氏は︑﹃日本古典の研究﹄︵昭和二三年︶の中で崇神紀の記事の史実性を否定し︑それは国家の経営が崇神朝
にはじまるとする後代の人の考えによる述作であるとされたが︑以後の研究は︑主として三輪伝承の研究というような形をとり︑崇
神紀を全体として考察するという視点から離れていっており︑崇神紀全体の考察は津田氏以降ほとんど進展していないようである︒
㈲ 泉谷康夫﹁崇神紀の三輪伝承について﹂︵柴田実先生古稀記念﹃日本文化史論叢﹄所収︑昭和五一年︶︒
15
棚 三品彰英著﹃日本書記朝鮮関係記事考証上巻﹄︵昭和三七年︶︒
㈲
泉谷
︑前
掲論
文︒
㈲ 武埴安彦のハエヤスは︑神武紀によると︑神武天皇が八十泉師を討つための天平宝と厳釜をつくる土を取った場所すなわち天香山
の社地のことであるという︒タケとヒコは共に敬称であるから︑武埴安彦は大和国の地主神の意であり︑その地主神を討つというこ
とは地主神を服従させることであるから︑征服戦争における勝利の別の表現でもある︒従って︑この面からも︑武埴安彦の反乱伝承
には畿内鎮圧以外の意味は何もないといえるのである︒
聞 この立場の主要なものとして︑坂本太郎著﹃大化改新の研究﹄︵昭和二二年︶︑関晃﹁畿内制の成立﹂︵﹃山梨大学学芸学部研究報告﹄
五︑昭和二九年︶︑井上光貞﹁大化改新の詔の研究﹂︵同著﹃日本古代国家の研究﹄所収︑昭和四〇年︶等をあげることができる︒
㈲ 八木充著﹃律令国家成立過程の研究﹄結編第l章︵昭和四三年︶︒長山泰孝﹁畿内制の成立﹂︵﹃古代の日本5近畿﹄所収︑昭和四
五年
︶︒
㈱ 西本昌弘﹁畿内制の基礎的考察 − 日本における礼制の受容 − ﹂︵﹃史学雑誌﹄九三ノ一︑昭和五九年︶︒大津透 ﹁律
令国家と畿内﹂︵槙田鹿二二編 ﹃日本書紀研究﹄第十三冊︑昭和六〇年︶︒
㈹ 塚口義信﹁初期大和政権とオホピコの伝承 − 稲荷山古墳出土鉄剣銘の﹃意冨比蝿﹄私見 − ﹂︵横田健一編﹃日本書紀研
究﹄第十四冊︑昭和六二年︶︒なお︑オホピコに関する研究史は塚口氏の論文を参照されたい︒
仙
井上
光貞
著﹃
日本
国家
の起
源﹄
︵昭
和三
五年
︶︒
物
泉谷
︑前
掲論
文︒
︵奈
良教
育大
学教
育学
部︶