多喜二書 き込 み,お よび小 林多喜二伝 補5
倉 田 稔
も く じ
は じめ に
1多 喜 二 の 小 樽 高 商(現 ・小 樽 商 科 大 学)図 書 館 所 蔵 雑 誌 等 へ の 書 き 込 み 1‑1多 喜 二 の 書 き込 み が あ る も の1‑1‑1書 物
1‑1‑2雑 誌
2そ の 他
2‑1乗 冨 道 夫 2‑5
2‑8森 良 玄
2‑11‑1生 前
1‑2多 喜 二 の 書 き込 み が な い も の
『党 生活 者』 削 除問題
2‑2東 倶 知 安2‑3旅 行
2‑6『 母 』2‑7
2‑9村 山2‑10浜 林 講 演 か ら
2‑11‑2没 後
3不 在地 主
奥 野 善造 の場合 その 後
45ρ0
2‑4温 泉 つ づ き 北 海 製 罐
2‑11雑
中 国 ・河 北 大 学 で の 「多 喜 ニ シ ンポ ジ ウ ム 」 で の 私 の 報 告 蒔 田栄 一 の思 い出 か ら
参 考文 献
は じ め に
本 稿 は,お よ そ3つ の 部 分 に 分 け る 。 そ し て 多 喜 二 伝 補 遺5で あ る 。 補 遺 は 今 ま で,1,2,3,4,と 書 い て き た 。 た だ し,1,2は,拙 書 『小 林 多 喜 二 伝 』(論 創 社2003年)に 入 っ た の で,3,4お よ び,こ の5が レ ゾ ン デ タ が あ る 。3,4は,そ れ ぞ れ,「 小 林 多 喜 二 伝 補3お よ び 『小 林 多 喜 二 伝 』 索 引 」(『商 学 討 究 』第54巻 第4号,2004年3月),「 小 林 多 喜 二 伝 補 遺(4)」(『 商 学 討 究 』 第55巻 第4号,2005年3月)で あ る 。
〔1〕
2 商 学 討 究 第56巻 第4号
1多 喜 二 の 小 樽 高 商(現 ・小 樽 商 科 大 学)図 書 館 所 蔵 雑 誌 等 へ の 書 き 込 み
私 は,白 樺 文 学 館 多 喜 ニ ラ イ ブ ラ リ ー の依 頼 で,小 林 多 喜 二 の 小 樽 商 大 図書 館 の 書 物 ・雑 誌 へ の書 き込 み が な い か,渡 辺 理 君 と と もに 調 べ た。
結 論 か らい う と,い くつ か の 雑 誌 に書 き込 み が あ っ た 。
この 件 は,『 朝 日新 聞 』2003年11月7日 朝 刊29面,『 北 海 道 新 聞 』 同11月7日 夕 刊14面,『 日本 経 済 新 聞』 同11月11日 朝 刊39面,『 京都 新 聞』11月6日 に 出 た。
私 は 探 索 の 方 針 と して,1.多 喜 二 在 学 中以 前 に発 行 され た 文 献,つ ま り1924 年3月 ま で の刷 年 の書 物 と雑 誌,た だ し1924年 以 降 に受 け 入 れ た書 物 は 除 外 し
た。2.日 本 語,英 語,フ ア ン ス誤 に よ る文 献,3.多 喜 二 が 読 ん だ と され る 文 献,読 ん だ可 能 性 が あ る と思 わ れ る文 献,を 調 査 した。
筆 跡 確 認 の た め の 資料 は,
1.ク ロ ポ トキ ン翻 訳 で の 多 喜 二 の 書 き込 み(商 大 図書 館) 2.大 熊 信 行 あ て 書 簡(多 喜 ニ ライ ブ ラ リー所 蔵)
3.雨 宮 傭 蔵 あ て書 簡(同 上 所 蔵)
そ の 結 果 を専 門 筆 跡 鑑 定 会 社 に依 頼 し た。 以 下,原 文 とは,多 喜 二 の 文 の こ とで あ る。
1‑1多 喜 二 の 書 き込 み が あ る も の
1‑1‑1書 物
志 賀 直 哉 『留 女 』1913年(大 正2年)(多 喜 ニ ラ イ ブ ラ リ ー所 蔵)
原 文 ね が は くは花 の も とに て春 死 な ん そ の き を ら ぎの 望 月 の こ ろ 一 西 行
我 々 は,多 喜 二 筆 跡 とは 断 定 で きな い と した が,専 門会 社 は 多 喜 二 の 筆 跡 と
多喜二 書 き込 み,お よび小林 多喜 二伝 補53 した 。
志 賀 直 哉 「夜 の 光:小 説 一 四篇 』 一 九 二 〇 年 新 潮 社,10ペ ー ジ
原 文 人 生 そ の もの が 思 は さる
1‑1‑2雑 誌
西 条 入 十 「赤 い カ ンナ 」(『改 造 』1923年7月 号),228ペ ー ジ。
原 文 い や に もたせ ぶ つ た書 方 だ 。 何 か あ りさ う に 思 わ れ るが,さ う思 わ せ や う と書 い た の が い や だ 。 こ とに 赤 い カ ンナ の 花 を もつ て き て。
長 谷 川 如 是 閑 「ヴ ェ ラ ン ダ」(『改 造 』1924年 新 年 号),273ペ ー ジ。
原 文 一 人 の 心 の 中 に起 る葛 藤 を,AとBと を もつ て,つ い にBが 勝 つ 。 そ し て,(か うい ふ 心 理 は 今 の 社 会 に 多 く さ ん あ る。 ブ ル ジ ョ ワ く せ だ)
そ の 気 持 ち で 女 に 当つ て ゆ く と,シ ッペ イ返 し を食 ふ 。 そ こ に,如 是 閑 の 理 知 的 な社 会 批 判 が あ る。
芥 川 龍 之 介 「三 右 衛 門 の 罪 」(『改 造』1924年 新 年 号),284ペ ー ジ
原 文 所 謂 心 理 的 の心 理 描 写 か ら,三 右 衛 門 の 意 識 を の べ た もの 。そ して, 相 変 わ らず,最 後 は,芥 川 ら しい,頭 の い ・ トリ ッ ク を もっ て 終 え て ゐ る。 然 し,し つ か り して ゐ る,と 思 ふ 。
里 見 惇 「愛 憎 二 な らず 」(『改 造 』1924年 新 年 号),296ペ ー ジ下 部
4商 学 討 究 第56巻 第4号
原 文 これ が 論 理 だ っ て,ア ホ,も う一 度 や り直 せ 。 論 理 とい ふ こ と も ロ ク に分 か ら な い くせ に人 を批 評 す る な タ ワケ
297ペ ー ジ 末 尾
原 文:云 は う と した こ とが 露 骨 な 中傷 と して 出 て ゐ す ぎ る
広 津 和 郎 「指 」(『改 造 』 一 九 二 四 年 二 月),96ペ ー ジ
原 文 つ ま らん小 説 だ 。
以 下 はす べ て,『 中 央 公 論 』 大 正13年 一 月 号
志 賀 直 哉 「雨 蛙 」168ペ ー ジ
原 文 平 叙 的 で(消 去 部:だ が),要 領 を得 て ゐ る。
169ペ ー ジ
原 文:説 明 的 で あ るが,特 徴 々 々 を グ イ グ イ とつ か ん で 書 い て ゆ く。 こ の 女 が ハ ッキ リ と浮 か ん で くる。
174ペ ー ジ
原 文 この 辺 の描 写 は あ ま りに 露 骨 で,グ ッ と落 ち て い る。 特 殊 的 な と こ ろ が ない 。
176ペ ー ジ
原 文 こ ん な時 の気 持 ちが 出 て ゐ る。
多 喜 二 書 き込 み,お よ び 小 林 多 喜 二 伝 補5 177ペ ー ジ
原 文 チ ョ ツ ト変 だ 。 こ の 人 ら し く な い 。
5
178ペ ー ジ4‑5行 間
原 文 ま る で デ リ ケ ー トな 倫 理 だ11
178ペ ー ジ の13‑14行 間
原 文 微 妙 だ1 {私た ち は多 喜 二 と は 断定 で き な い1
178ペ ー ジ14‑15行 間
原 文 リ ア リ ス テ イ ツ ク な 描 写 が 。
179ペ ー ジ9行
原 文 そ し て 。 更 に リ ア リ ス テ ィ ッ ク だ 。 作 者 は 決 し て 一 つ の こ と に 興 奮 し て,ゴ マ か さ れ な い と こ ろ が 分 か る 。
179ペ ー ジ末 尾
原 文 作 者 は ず い ぶ ん,生 活 を 善 意 に静 観 して い る とい ふ と こ ろ まで 進 ん で きて ゐ る。「好 人 物 の夫 婦 」を書 い た あ た りの気 持 ち が,こ ・で は, もつ と,よ く出 て ゐ る。 か うい ふ 態 度 も,態 度 と思 ふ 。
「雨 蛙 」 は,志 賀 直 哉 の全 作 品 中,仕 上 げ る の に 一 番 手 間 と時 聞が か か っ た 短 編 で,二 三 枚 書 き上 げ る の に約 一 年 を要 した 。
小 林 多 喜 二 は,志 賀 直 哉 の この 作 品 に つ い て読 語 感 想 を書 い て,彼 に送 っ た 。
「中央 公 論 の 正 月 号 で,あ な た の 『雨 蛙 』,貧 る よ うに 読 み ま した 。 … …2回 目 に 中央 公 論 の終 わ りに書 い た 読 語 感 を ち っ と も直 さず に書 き ます 。」 「作 者 が 如 何 に も人 生 の あ る事 実 に対 し て,善 意 に見 よ う と し て い る 態 度 が 見 え る 。 そ れ と,も う一 つ は 静 か に見 守 っ て い る 態 度 で あ る よ う に思 わ れ る。 終 わ りの 雨
6 商 学 討 究 第56巻 第4号
蛙 を見 る の は如 何 に も偶 然 な こ とで あ ろ うが,あ の 作 に とっ て,そ の偶 然 で あ るべ き こ とが あ ま りに必 然 的 な 問題 を も っ て い る の で 気 に な った 。 然 し,一 句 と難 無 駄 の な い もの と思 っ た 。書 出 しの あ た りの 要 領 の よ さ,主 人 公 の妻 の 姿, 主 人 公 の 妻 に対 す る気 持 ち が,簡 潔 な 筆 で,ほ ん と う に ヴ ィ ヴ ィ ッ ドに 出 て い
る と思 う。 最 後 の 本 を焼 くの は,少 し常 套 的 な気 が しな い で も な い。」(一 九 二 四 年 一 月,『 小 林 多 喜 二 全 集 』 第七 巻,新 日本 出 版 社)
こ こ で2回 目 と は 何 か 。 こ の 小 説 を2度 読 ん で,そ の と き書 い た も の か 。 そ れ は ど こ に 書 い た の で あ ろ う か 。 そ れ が こ の 書 き 込 み の こ と な の だ ろ う か 。 そ
う し た ら,か な り違 っ て い る 。 「ち っ と も 直 さ ず に 」,と は な っ て い な い 。
菊 池 寛 「震 災 余 潭(一 幕)」199ペ ー ジ末 尾
原 文 微 温 的 に なつ て し まつ た。 い つ も の痛 快 な,人 の裏 をか くや うな, 鋭 さ が な い 。
然 し,柄 に な い あ る人 情 味 が 出 て ゐ る 。
佐 藤 春 夫 「退 屈 問 答 」238ペ ー ジ
原 文 全 く退 屈 な物 語 で あ る。 作 者 の 技 巧 は う まい,話 上 手 だ 。 そ して, こ の事 は,今 の 一 般 文 壇 人 の 生 活 意 識 に対 す る痛 い批 評 で もあ ら う。
志 賀 は 「万 歴 赤 絵 」 の 本 に,昭 和 一 〇 年 頃,小 林 多 喜 二 の手 紙 を載 せ た 。 貴 司 山 治 と志 賀 との 対 談 集 は,志 賀 の 全 集 に あ る 。
志 賀 は 「灰 色 の 月 」 で,「 これ は 一 九 四 五 年 一 〇 月 一 六 日の こ とで あ る」 と 書 い た 。そ の 日は 「朝 日新 聞」で 虐 殺 写 真 を初 め て 報 道 した 。福 田 が 書 か せ た?
これ に志 賀 が,「 灰 色 の 月 」 で 日付 を書 い た 。 志 賀 は新 日本 文 学 会 に入 っ た 。
『北 海 道 新 聞』2003年11月29日 ,小 樽 ・後 志 版28面 に,こ うあ る。
多 喜二 書 き込 み,お よび小林 多喜 二伝 補5 7 表 題 は,「 浮 か び 上 が る 強 烈 な 自負 」,見 出 し は 「樽 商大 に残 る多 喜 二 の 書 き 込 み 」 「倉 田 教 授 ら2万 冊 調 査,19カ 所 発 見 」 で あ る(注)。
本 文 の 抜 粋 は こ う で あ る。
小 林 多 喜 二 が 学 生 時代 に 文 学 作 品 の 感 想 を 書 き込 ん だ雑 誌 が 母 校 の小 樽 商 大 付 属 図 書 館 で見 つ か っ た が,志 賀 直 哉 や芥 川 龍 之 介 を評 価 す る一 方,「 ア ホ,
も う一 度 や り直 せ 」 とバ ッサ リ と切 り捨 て る作 家 も。
(注)こ こ で2万 冊 とは 大 げ さで あ る。 筆 者 。
1‑2多 喜 二 の 書 き込 み が な い も の
省 略 別 人 別 人 の書 き込 み が あ るが,多 喜 二 の は無 し \
芥 川 龍 之 介 『煙 草 と悪 魔 』1917年,別 人 有 島 武 郎 『有 島 武 郎 著 作 集 』 新 潮 社
第1輯 「死 」1918年1月 第2輯 「叛 逆 者 」1918年4月 第5輯 「迷 路 」1918年6月 別 人
『有 島 武 郎 著 作 集 』 叢 文 閣 第7輯 「小 さ き者 へ 」1921年 第9輯 「或 女 」1921年 別 人 第10輯 「三 部 作 」1921年 第12輯 「旅 す る心 」 一 九 二 〇年 石 川 啄 木
『啄 木 全 集 』 新 潮 社 第1巻1920年
第2巻1920年 別 人 大 熊 信 行
「生 産 力 配 分 の 原 理 」(『商 学 討 究 』 東 京 商 科 大 学1920‑21年)
「社 会 思 想 家 と して の ラス キ ン とモ リス」(『商 学 討 究 』東 京 商 科 大 学1920
8商 学 討 究 第56巻 第4号 一21年)別 人
河 上 肇 『貧 乏 物 語 』 京 都 弘 文 堂1918年 別 人 菊 池 寛
『文 藝 往 来 』1920年
『極 楽 』1920年 別 人
『冷 眼 』1920年 別 人
『藤 十 郎 の 恋 』1920年 別 人
『恩 を 返 す 話 』1920年 別 人
『無 名 作 家 の 日 記 』1924年
『心 の 王 国 』1921年
『道 理:小 説 集 』1921年
『袈 裟 の 良 人 』1923年 別 人
『新 珠 』 上 下 巻
西 条 八 十 『白 孔 雀 』1920年 別 人 里 見 惇 『第 二 集 三 人 の 弟 子 』1917年
『善 心 悪 心 』1920年1
『不 幸 な偶 然 』1920年
『潮 風 』(現 代 傑 作 選 集:第1編)1923年2月 島 崎 藤 村 『現 代 小 説 集 』1920年 別 人
『飯 倉 だ よ り』1923年 別 人 武 者 小 路 実 篤 『筆 の む くま ま』1924年
森 鴎 外 『中 等 国 語 読 本 』 巻1か ら巻10,再 版1912年 巻9か ら巻10の み 別 人
若 山 牧 水 『若 山 牧 水 集 』1919年 別 人 手 塚 寿 郎 『ゴ ッセ ン研 究』1920年 別 人
ア ル フ レ ッ ド ・ス ー ト ロ1924年4月 以 降 の 受 け 入 れ
多喜 二書 き込 み,お よび小林 多喜 二伝 補5 ア ナ トー ル ・フ ラ ン ス
エ ド ワ ー ド ・カ ー ペ ン タ ー カ ー ラ イ ル
ジ ョ ー ジ ・エ リ オ ッ ト ジ ョ ン ・ラ ス キ ン ジ ョ ン ・キ ー ツ ス チ ブ ン ソ ン
1924年4月 以 降 の 受 け入 れ 同
同 同 同 同 同 ス ト リ ン ドベ ル グ 『赤 い 部 屋 』1920年
ア ン トン ・メ ン ガ ー 『近 世 社 会 主 義 思 想 史 』1921年 別 人
ア ン リ ・バ ル ビ ュ ス 「ク ラ ル テ の 運 動=欧 羅 巴 の 知 識 階 級 と其 の 思 想=」
(『改 造 』1922年4月 特 大 号131ペ ー ジ 。)
『地 獄 』 『砲 火 』 『ク ラ ル テ 』 所 蔵 な し。 イ プ セ ン 『ノ ラ:独 和 対 訳 』1913年 別 人 ゾ ン バ ル ト 『近 世 資 本 主 義 と ユ ダ ヤ 人 』1933年
9
2そ の 他 2‑1乗 冨 道 夫
乗 富 道 夫 の 卒 業 論 文 は,小 樽 商 科 大 学 の 付 属 図 書 館 に係 員 と と も に コ ン ピ ュ ー タ ー検 索 した が,な か っ た(2005年 の 調 べ)。 こ れ は本 来 あ る はず の も の だ 。不 思 議 で あ る。 マ ル クス の 『共 産 党 宣 言 』 の 英 文 か らの 翻 訳 だ っ た 。 こ れ は教 授 会 で 大 問 題 に な っ た(浜 林)。 乗 富 道 夫 は,大 正13年 に小 樽 高 商 を卒 業 した 。学 籍 簿 に よれ ば{小 樽 商 科 大 学 所 蔵},番 号90,誕 生 明 治35年9月11 日,住 所{小 樽 の}住 ノ 江 町4の13,「 士 族 鶴 三 郎 従 姪 」 とあ り,何 の こ とか わ か らず,保 証 人 は,叔 父 山 口 誠 一(漁 業)で,住 所 は本 人 の 住 所 に 全 じ,と あ る。 原籍 は,福 岡 県 三 潴 郡 久 問 田村 大 字 間1477。 道 夫 は,樺 太 中 学 校 を 大 正 九 年 に 卒 業 し,大 正 一 〇 年 に 試 験 検 定 で,小 樽 高 商 に入 学 した 。 樺 太 中学 校 は府 立 樺 太 中 学 校 で,大 泊(現 コ ル サ コ フ)に あ っ た。大 正2年(1913
10 商 学 討 究 第56巻 第4号
年)5月2日 に 開校 した 。 た だ し1912年 二明 治45年 の 説 も あ る 。 乗 富 の 父 は, 樺 太 で 町 長 を や っ た。 弟 が 丈 夫(た けお)と い い,大 泊 中 学 を大 正11年 に 卒 業
した 。 北 海 道 出 身 とい う説 もあ る(浜 林)。
2‑2東 倶 知 安
1928年 の選 挙 応 援 で,多 喜 二 は 東 倶 知 安 へ 行 っ た。 彼 は2カ 所 で応 援演 説 を した 。 ひ とつ は 光 壽 寺 で あ る。 住 職 は 開基 住 職 松 長 正 念(1)であ る。
そ れ は2月12日 と され る 。(2>ここ は浄 土 真 宗 本 願 寺 派 で,現 在 は京 極 町 字 京 極800番 地 で,現 住 職 は松 長 正 憲 さん 。当 時 の 東 倶 知 安 が40年 に 京 極 に か わ った 。
多 喜 二 は東 倶 知 安 と脇 方 で,演 壇 に立 っ た 。 山本 懸 蔵 の 「北 海 道 血 戦 記 」 は 当 時 の 『小 樽 新 聞 』 とほ ぼ 合 致 して い る(3)。
「北 海 道 血 戦 記 」 で は,2月11日(土),岩 内,小 沢,12日(日),国 富,狩 太,そ の 後,15(水),倶 知 安,と あ り,『 小 樽 新 聞』 で は,12日,東 倶 知 安, 喜 茂 別,と あ る 。12日 当 日の 会 場 の1カ 所 は,東 倶 知 安村 ・光 寿 寺 で あ る。 も
う1会 場 は,そ こか ら さ ら に 山深 い 脇 方 鉱 山(三 井 系,1920年 鉄 道 開 通,鉄 鉱 石 は室 蘭 製 鉄 所 へ,69年 閉 山)で あ る 。 鉱 山 も演 説 会 場 に な っ た だ ろ う集 会 所 もい ま は な い 。(4)光寿 寺 の 本 堂 は,多 喜 二 時 代 か らの も の で,畳 が50畳 で あ る。
15日 も倶 知 安 とあ り,こ れ が 多 喜 二 演 説 の 日で あ る可 能性 も あ る。
(1)『 後 志 の 人 と み ち 』 後 志 支 庁1999年 (2)「 念 仏 の か お る 里17.」
(3)村 瀬 喜 文 「多 喜 二 の 足 跡 を 追 う 」(3) (4)村 瀬 喜 文 「多 喜 二 と ニ セ コ 文 学 案 内 」
2‑3旅 行
定 山 渓 温 泉 を 多 喜 二 は1927年5月7日 か ら8日 にか け て 訪 ね て い る 。1928年 蘭 島へ100人 く らい と行 き,1929年 に拓 銀 の 同 僚18人 と ピ ク ニ ック へ 行 っ た 。 石 川 啄 木 は函 館 か ら札 幌 へ 逃 れ る が,そ の と き,倶 知 安 の 駅 に お り,「 真 夜
多 喜 二書 き込 み,お よび小林 多喜 二伝 補5 ヱヱ 中 の倶 知 安 駅 に 下 りゆ き し,女 の髪 の 古 き疲 あ と」 と読 み,そ の歌 碑 が 駅 前 に あ る 。 多 喜 二 は こ の歌 を 滝 子 に教 え た と さ れ る 。
1923年,多 喜 二 が 高 商3年 の 時,嶋 田 と と も に,羊 諦 山 に 登 っ た 。倶 知 安(比 羅 夫)コ ー ス だ った とさ れ る(村 瀬)。
2‑4温 泉 つ づ き
多 喜 二 は東 京 を出 る前,昆 布 温 泉 に こ も っ て,「 工 場 細 胞 」 な どを執 筆 した。
そ れ は ど こか 。当 時 存 在 した この あ た りの 旅 館 は,鯉 川 温 泉 と青 山温 泉 で あ る。
薬 師温 泉 も近 くに あ っ た が,地 元 の 人 は ち ょっ と考 え られ な い と。(1)村瀬 氏 は 鯉 川 温 泉 は違 う よ うだ とす る 。 青 山温 泉 か も しれ な い と,氏 は 推 定 す る 。
(1)村 瀬 喜 文 「多 喜 二 とニ セ コ文 学 案 内 」
2‑5『 党 生 活 者 』 削 除 問 題
『党 生 活 者 』 は,初 出が 『中 央 公 論 』 で 「転 換 時 代 」 と して 出 た。 こ の 際, 削 除 部 分 が 五 分 の1あ っ た。 これ らは,当 時,危 険 と され る言 葉 が,も ち ろ ん 削 除 さ れ た 。 そ れ 以 外 に,運 動 に関 係 す る も の も削 除 され た 。 そ れ らは 当 時 危 険 と され た もの とは 思 え な い。(以 上,島 田 真 吾)し か し運 動 に とっ て 知 られ る とマ ズ イ と考 え られ る もの で あ る。 双 方 と も編 集 部 が 自 ら削 除 し た もの で あ ろ う。 後 者 につ い て は 運 動 の 同 調 者 が 削 除 した の で は ない か 。
2‑6『 母 』
三 浦 綾 子 の 『母 』 は,小 説 で あ りなが ら,2つ を 除 い て フ ィ ッ ク シ ョ ンで は な い と さ れ た し,小 生 もそ う書 い た こ とが あ る。 しか しや は り,小 説 な の で 事 実 と実 際 に は合 わ な い と こ ろ が あ る,と い う こ とが わ か っ た。 これ ら を調 べ る の も重 要 で あ る。
12商 学 討 究 第56巻 第4号 2‑7北 海 製 罐
北 海 製 罐 は,大 正10年 創 業 で,昭 和46年 に本 州 に 進 出 した 。 した が っ て,多 喜 二 の 時代 は北 海 道 の み で あ る。
北 海 道 製 罐 につ い て,文 献 に は,『50年 の歩 み 』 『70年の あ ゆ み 』 が あ る 。 同 社 が 作 っ た 。
北 海 製 罐 は 釧 路 に もあ っ た が 売 却 した 。 函 館 工 場 が あ っ た が,今 は倉 庫 の み で あ る。戦 後 の200海 里 問 題 で,函 館,釧 路 が ダ ウ ン し た。今 の ホ テ ル ・ク ラ シ ッ ク が 寮 だ っ た 。 蟹 缶 だ け は小 樽 で作 っ て い る。 会 社 に は缶 友 ク ラブ が あ る が, 多 喜 二 の小 樽 時 代 に は ま だ な か っ た 。
北 海 製罐 の工 場 ・会 社 略 図
[コ[互]巨][]匡]
匡][■[郵 匝]
10
港 説 明
10 1 2 3 4 5 6 7 8 9
大 正13年 第3倉 庫
金 属 印刷 大正13年 倉庫 新 し くなった 昭 和6年 工場
倉 庫 大正10年 新 し くなった 他 の会 社 昭和 製器 印刷工 場 壊 した
昭 和10年 事務 所
大 正11年,大 正14年 改 築。倉 庫 か ら工場 へ 大 正14年
水 上警 察詰所 が あ った。
2‑8森 良玄
森 良 玄 は,福 島 生 ま れ,あ い ぬ な い高 小 を出,野 付 牛 中学 の 第1期 。長 兵 衛, シ ュ ウ が 両 親 。祖 父 は西 光 寺 住 職 だ っ た が,父 が 寺 を継 ぐの を嫌 っ て,や め た 。
多 喜二 書 き込 み,お よび小林 多喜 二伝 補5ヱ3
兄 弟 は,長 女 テ ウ 明 治30年 生 まれ,次 女 ヒサ 明 治35年 生 ま れ,鈴 木 家 に 嫁 ぐ,良 玄 明 治40年 生 ま れ,次 男 久(キ ュ ウ),3男 辰,3女 芳 子,で あ る 。 千 恵 子 と結 婚 し,離 婚,中 神 克 子 と結 婚 し た。(鈴 木 稔 氏 よ り)
2‑9村 山
村 山 知 義(1901‑1877)は,1924年 に,高 松 の 千 金 丹 岡 内 家 の長 女,童 話 作 家 ・詩 人 の簿 子 と結 婚 した 。1930年 後 半,半 年,豊 多 摩 刑 務 所 に収 監 さ れ た 。 そ れ ゆ え,多 喜 二 と ほ とん ど 同 じ時代 で あ る。 簿 子 は夫 と共 に多 喜 二 を救 援 し た わ け で あ る 。1946年8月,簿 子 は死 去 した。
2‑10浜 林 講 演 か ら
2005年5月,浜 林 正 夫 先 生 の 小 樽 で の 講 演 か ら。
多 喜 二 は,蟹 工 船 そ の も の を書 こ う と思 っ た の で は な い 。 『蟹 工 船 』で の キ ー ワ ー ドは4つ あ る 。 国 際 関係,軍 隊,財 閥,労 働 者 で あ る 。 蟹 工 船 は,ソ 連 領 海 侵 犯 を して い る 。 だ か ら駆 逐 艦 が 来 て い る。 そ れ に,ソ 連 が 置 い て あ る網 を 取 っ て く る。
殖 民 地 的 搾 取 を した 。 「内地 」 とい う言 葉 が あ る。 北 海 道 は殖 民 地 で あ る 。 夏 目漱 石 は,送 籍 と椰 楡 され た こ とが る。沖 縄 と北 海 道 で徴 兵 が 遅 れ た の で, 夏 目は,岩 内 へ 籍 を移 した。
多 喜 二 は,乗 冨 の 影 響 が 大 きか っ た 。 彼 の 父 は 町 長 で,弟 の 息 子 が 東 京 に い る。
卒 論 は,警 察 に押 収 さ れ た?の で は な い か 。 参 考(『 特 高 月 報 』) 乗 冨 は,産 労 の函 館 支 部 長 と な り,札 幌 は三 浦 強 太 で あ っ た 。
「産 業 労 働 時 報 」 を多 喜 二 が 読 ん で い た か ,の 問題が ある。多喜二 の蔵 書が あ っ た 。 同26号 で あ る。 だ か ら読 ん で い た だ ろ う。 こ の号 は,浜 林 先 生 は,商 大 図 書 館 に寄 贈 した 。こ こ に は,野 呂 が書 い た と考 え られ る論 説 が 入 っ て い る。
無 著 名 で あ る。
ヱ4 商 学 討 究 第56巻 第4号 2‑11雑
2‑11‑1生 前
多 喜 二 の作 っ た 小 林 家 の 墓(小 樽 市 奥 沢)に 戒 名 が あ る が,そ れ は 多 喜 二 の 父 の そ れ で あ る 。 宗 派 は 浄 土 真 宗 ら しい 。
義 兄 ・佐 藤 藤 吉 は ク リス チ ャ ンだ っ た 。 姉 チ マ さ ん は 子 供 時 代 に 日曜 学 校 へ 通 っ た 。 ち ま さん の 娘 は,か ず え さ ん で あ る。
佐 藤 さ ん に は 妹 が お り,そ の 息 子(甥 に あ た る)に,原 斉 とい う 人 が い る。
母 セ キ は親 切 な 人 だ っ た 。 一 度 会 っ た 人 を忘 れ な い。
多 喜 二 の 最 後 の 隠 れ 家 は,村 山簿 子 が 世 話 を した 。(山 崎 怜)
中野 重 治 の 「い わ ゆ る芸 術 の 大 衆 化 論 の 誤 り」 が 昭 和3年6月 に 出 た 。 繰 り上 げ卒 業 は 勅 令 で あ っ た 。
林 芙 美 子 は1933年 の9月4日 か ら12日 にか け て,共 産 党 に 資 金 寄 付 を 約 束 し た こ とで,中 野 署 に勾 留 され た 。
谷 崎 源 氏 物 語 の 口 語 訳 は,検 閲 さ れ た 。 三 浦 強 太 は札 幌 の 産 業 労 働 調 査 所 で働 い た 。 青 山温 泉 の 創 始 者 は井 伊 。
「独 房 」 は ,「 中央公 論」 に1931年 に出た。作 品の多 様化 が この ころ提起 さ れ た 。
川 端 康 成 「浅 草 紅 団 」 は プ ロ レ タ リア 文 学 に対 抗 し た。
ベ ー トー ヴ ェ ンの 交 響 曲 第9番 二短 調 合 唱 は,1824年 ウ ィー ン で初 演 され た 。
小 樽 で タキ が 病 院 で 朝6時 か ら夜10時 まで 働 い て,月 給5円 で あ っ た。
志 賀 は,あ る本 の 中 に多 喜 二 の 手 紙 を い れ る,志 賀 「灰 色 の 月 」。
小 林 多 喜 二 は 自分 で は,「 人 を殺 す 犬 」 を,つ ま ら な い と感 じて い た,だ か ら改 作 した と,学 生 ・永 坂 さ ん 。
女 工 さん と の話 あ い を,太 宰 の 下 宿 で や っ た?と い う説 が,最 近 出 た 。 し か し不 明 で あ る。
多 喜 二 は拓 銀 を や め て か ら作 風 が か わ っ た,地 下 に も ぐっ て,思 想 家 に な っ
多喜 二書 き込 み,お よび小 林多 喜二 伝 補5 た,と 学 生 ・和 泉 田 。
山本 厚 三 は,土 地 改 革 した 。
多 喜 二 は 余 市 講 演 で,ア リス トフ ァネ ス を使 っ た と思 わ れ る 。
ヱ5
『新 機i械派 』 は1930年3月 に で た。 編 集 発 行 人 は 勝 見 茂 。 多 喜 二 の 「『機i械 の 階 級 性』 につ い て 」 が 所 載 され た 。
小 樽 映 画 鑑 賞 会 発 行 『シ ネ マ』 昭 和2年12月1日 発 行 幸 田露 伴 は 明 治20年 の 夏 ま で い た 。
古 賀 政 男 作 詞 作 曲 「影 を慕 い て」 は1931年 こ ろ大 ヒ ッ ト した。(琴 坂) コ ッ プ は,11の 団体 を含 ん だ。 これ で プ ロ レ タ リア作 品 の発 行 部 数 が 急 増 し た 。(琴 坂)
い ま 「藤 倉 」に,の 意 味 は,多 喜 二 は 藤 倉 電 線 に,宮 本 百 合 子 は 下 諏 訪 へ 言 っ た こ とで あ る 。
小 樽 の三 馬 ゴ ム は,今 の 貯 金 セ ン タ ー に あ っ た 。(琴 坂)
小 樽 コ ップ は,花 園 西3丁 目つ ま り 「消 防 番 屋 」の 向 い小 路 に あ っ た 。(琴坂) 囚 人 服(=囚 衣)に は,青(刑 が 短 い)と 榿(刑 が 長 い)が あ っ た 。 模 範 囚 は私 的和 服 を着 れ た 。
中野 重 治 は こ う書 い た 。
彼 は 随 分 の勉 強 家 で … … す が,そ れ で も,た と え ば 日本 文 学 の古 典 にか んす る教 養 な ど で は,も っ と余 裕 の あ る 境 涯 で 育 っ た 人 に 比 べ て 劣 っ た と こ ろが あ っ た ろ う ・… ・・多 分,た とえ ば そ の点 で は彼 の教 養 が そ う豊 富 で な か っ た と私 は思 い ます 。 そ れ は た とえ ば,彼 が 志 賀 直 哉 に 送 っ た手 紙 の 文 面 な どに も あ ら わ れ て い ますQ… …
治 安 維 持 法 で,最 高 刑 が死 刑 と決 まっ た の は,緊 急 勅 令 で ら しい。
多 喜 二 は,餅 を毎 朝1臼 つ く必 要 が あ っ た。終 わ る と汗 を ぬ ぐい,背 広 を ひ っ か け て 出 か け た 。
母 は,多 喜 二 が 銀 行 を辞 め る と き,飯 が 食 え ず,夜 眠 れ な か っ た。
多 喜 二 の妹 が,「 通 学 す る と き下 駄 の歯 に雪 が 入 る と,い つ も肩 に つ か ま ら
16 商 学 討 究 第56巻 第4号 せ て 雪 を と っ て くれ るや さ しい 多 喜 二 兄 さん で あ っ た 。」
多 喜 二 は マ ン ドリ ンが 上 手 で,「時 に は音 頭 を とっ て 家 ぢ ゅ う歌 っ た り した 」。
「三 吾 さ ん と 日常 生 活 の会 話 を 日本 語 を使 わず ,英 語でや った」こともある。(石 井 。56‑7ペ ー ジ)
2‑11‑2没 後
三 吾 さ ん は,二 〇 〇 三 年 に亡 く な っ た 。
圧 倒 的 多 数 の 女 性 が 「蟹 工 船 」 に惹 か れ な い 。(フ ィー ル ド)
多 喜 二 文 学 碑 が で きた 時,伊 藤 整,蔵 原,瀬 沼 茂 樹 が,講 演 を した 。 寺 田 節 子 は,多 喜 二 の 分 骨 を持 っ て い た 。
伊 藤 整 は戦 後,新 日本 文 学 会 の会 員 に な っ た 。
「党 生 活 者 」 は,わ ざ と意 識 の低 い 笠 原 を 出 した の で は な い か。
ハ ウス ・キ ー パ ー制 度 が,政 治 の 手 段 だ か ら悪 い,と 言 わ れ た 。 共 産 党 は よ い は ず の もの とい う前 提 が あ っ て非 難 した の だ ろ う,と フ ィ ー ル ドさん 。
熊 沢 光 子 に つ い て,手 塚 が 小 説 を書 い た 。
西 田 信 春 は,橋 木 町 の新 十 津 川 村 の 生 ま れ で あ り,村 長 の 息 子 で,札 幌 一 中 へ 行 き,新 聞記 者 に な る 。 新 十 津 川 に彼 の碑 が あ る。
森 熊 は二 〇 〇 四 年 に な くな っ た。
壷 井 栄 の 「種 」 は,多 喜 二 が テ ー マ だ 。 小 林 多 喜 二 の小 牧 近 江 あ て 葉 書 が で た 。
志 賀 直 哉 あ て 手 紙 多 数 が 近 代 日本 文 学 館 に 寄 贈 さ れ,将 来 紹 介 され る ら しい 。 そ の 中 に多 喜 二 の 手 紙 が あ るか も しれ な い 。
東 京 芸 術 座 は,蟹 工 船 を,1968年11月,1972年9月,1976年1月,1987年2 月,1983年9月,に 公 演 して い る 。
小 林 多 喜 二 の 蔵 書 が あ っ て,か な り現 存 して い る。 死 後,あ る い は 戦 後,あ る い は 多 喜 二 の 母 の死 後,共 産 党 小 樽 事 務 所 に 保 管 さ れ た 。 そ の後,小 樽 市 立 文 学 館 に,そ の 半 分(?)が 移 管 され た 。 残 りの 半 分 が 同事 務 所 に あ っ て,そ の 目録 は琴 坂 氏 が 作 成 した 。 そ の 目録 を最 近,村 瀬 氏 が 補 完 した。
多喜 二書 き込み,お よび小 林多 喜 二伝 補5 ヱ7
伊 藤 整 は い う。啄 木 は 「悲 し き は小 樽 の 町 よ歌 ふ こ とな き人 々 の 声 の 荒 さ よ」
と い う歌 を作 っ て小 樽 を あ ざけ っ た 。(「伊 藤 整 全 集 」23巻 昭 和51年)
3不 在 地 主
富 良 野 に は,不 在 地 主 の 争 議 の 「碑 文 」が北 大 沼 に あ る。下 記 の よ う で あ る 。 /は 改 行 。
「郷 土 の 先 達 者 不 擁 不 屈 の 開 拓 者 魂 を揮 起 して 七 十 年 ,こ こに先達者 の/
汗 と涙 の 幾 星 霜 を 回顧 せ ん とす 。 経 け ば 命 じ三 十 三 年,百 九 十 余 町 歩/貸 下 げ 同 四 十 二 年 付 与,斉 藤 農 場 創 設 さ る。 極 度 の湿 地 と泥 炭,酷 寒 と豪 雪,天 を塞 ぐ葭,ハ ン,タ モ な どの 巨木 と埋 木,負 け じと/開 拓 に挑 む も初 志 貫 けず 幾 多 先 人 こ の 地 を去 る 。 農 場 も大 野 農 場 亦 同 四 十 四年 磯 野 農 場 へ と移 る。 日本 農 政 史 に残 る磯 野 農 場 小 作 争 議 は/労 農 提 携 と相 挨 っ て 特 筆 す べ き苦 闘 の 歴 史 を秘 む,作 家 小 林 多 喜 二 の 名 作 「不 在 地 主 」 を生 ん だ争 議 な り,大 将 十 一 年 小 作 料 畑 年 貢 か ら/物 納(米)へ 加 え て,同 十 五 年 の大 凶 作 に よ り生 活 は惨 烈 を極 め 小 作 料 を/巡 り遂 に 大 争 議 に発 展,伴 利 八 を代 表 と し菅 原 清 六,奥 野 善 造 の/
諸 氏 ら十 七 名 の 代 表 団,農 場 主磯 野 進 氏 と接 渉 の為 小 樽 へ,労 働 組 合 事 務 所 を 自炊 転 寝 の 宿 所 と し,同 志 の厚 い 支 援 と婦 人 代 表 も小 樽 に/向 か う な ど長 く苦 しい 四十 四 日 間 を 闘 い抜 く。/昭 和 二 年 四 月 両 者 合 意 調 停 成 立 す 。 同 時 期 町 有 地(風 防林)の 小 作 料 も/酷 し く交 渉 委 員 会 設 置 対 応 す 。 調 停 後 円 満 に推 移 す る も 自作 農創 設 へ の/気 運 昂 ま り促 進 既 成 会 設 立,連 動 して 町 有 地 解 放 交 渉 委 員 会 発 足,/高 松 竹 次 氏 ら努 力 され,昭 和 四 十 六 年 難 交 渉 の末 悲 願 の 農 地 解 放 実 現/一 同 感 泣 す 。 荘 漠 た る 原 野 も河 川 改 修 と 開拓 以 来 心 血 注 ぐ土 地 改 良 と/
弛 まぬ 開拓 者 魂 が 結 晶 し,北 の 大 地 に豊 沃 な郷 土 を 築 く,過 ぎに し/七 十 年 の 幾 月 を偲 び 「壮 年 会 」 創 立 二 十 年 を記 念 し本 事 業 を推 進,/先 達 者 を顕 彰,幾
末 永 く郷 土 の 糧 とな る を願 い 菰 に農 魂 の碑 を建 立 す 。/
磯 野 農 場 争 議 六 十 周 年
磯 野 農 場 昭 和 六 十 年 九 月 三 日/
18 商 学 討 究 第56巻 第4号 町有地 解 放四十五周 年 「記念 協賛会」
こ こ は初 め斉 藤 農 場 で あ っ た。そ れ は,下 富 良 野 停 車 場 に北 接 して,面 積193 町余 の 農 場 で あ った 。 明 治33年11月 に 斉 藤 三 郎 右 衛 門が 貸 下 を受 け,明 治42年 11月 に 成 功 付 与 を受 け た 。43年5月 に 大 野 安 吉 氏 の 所 有 とな り,明 治44年8月 に磯 野 進 氏 の 所 有 と な っ た。 そ の 時,小 作 数37戸,水 田55町 歩 余,畑 地120町 歩 余 で あ っ た。 元 来 こ の 農 場 は概 して 湿 地 な の で,排 水 溝 掘 削 に は多 大 の 費 用 を投 じて 改 良 を して い た 。
斉 藤 農 場 は,空 知 郡 下 富 良 野 村 フ ラ ヌ 原 野 に あ っ た。 土 地 面 積 は,田,畑 以 外 に,そ の 他 が18町 余 あ り,計193町 余 で あ っ た 。
こ こ は 小 作 経 営 で,放 資 額2万7千 円 だ っ た 。小 作 経 営 の 年 限 は5年 以 上 と し,土 地 開 墾 の 難易 に よ り数 程 度 に分 か ち,反 当 た り3円 な い し4円 の 開 墾 料 を給 し,3ヶ 年 な い し4ヶ 年 の 鍬 下 年 限,な お畑 を 田 に変 更 の 場 合 は 実 費 を給 す,小 作 料 は各 数 等 に 区別 す,田 の最 高4円,最 低2円,畑 の 最 高2円,最 低
1円 で あ る。
主 要 農 作 物 の種 類 と最 近1ヶ 年 の各 生 産 額 は,米2百 石,小 麦270石,菜 豆185 石 で あ る 。
農 場 在 住 者 の郷 里 別 お よび 宗 教 別 戸 数 は,山 形 県16戸,福 島 県11戸,宮 城 県 7戸,徳 島 県3戸,真 宗35戸,曹 洞 宗2戸 で あ っ た。
そ の他 特 殊 の施 設 お よ び そ の 規 約 に は,こ うあ る。 小 作 者 の 生 活 状 態 を調 査 し,疾 病 死 亡 出 産 そ の 他 罹 災 の場 合 に は,1戸40円 以 内 の 救 助 金 を給 す 。
農 場 付 近 の 交 通 の 状 況 は こ うだ 。 下 富 良 野 停 車 場 に近 い の で,産 物 の輸 送 に つ い て は き わ め て便 利 で あ る が,農 場 な い し停 車 場 に い た る道 路 が 充 分 で な い, ま た湿 地 な の で,秋 期 雨 天 永 く続 く時 は,泥 淳 で脛 が 没 し,困 難 で あ る 。
こ こ は 大 野 安 吉,磯 野 進 と地 主 が 代 わ っ た 。 しか し大 野 農 場 とい う名 は 表 面 に 出 た こ とが な い 。 同 氏 は 富 良 野 村 の 総 代 人 だ っ た 。
多喜 二書 き込 み,お よび小 林多 喜 二伝 補5 ヱ9 斉 藤 農 場 は 一 旦 大 野 安 吉 の 所 有 と な っ た が,明 治44年8月 磯野 進 の 所 有 に な っ た。 これ が 磯 野 農 場 で あ る。 彼 は小 作 争 議 の 時,小 樽 商 工 会 の 会 頭 を して い た 有 力 者 で あ っ た 。 小 樽 で倉 庫 業,海 産 物 問屋 を経 営 した 。 農 場 に管 理 人 を お くだ け の 典 型 的 な 不 在 地 主 で あ っ た 。 農 場 は管 理 者 に よ っ て 支 配 さ れ た が, 初 代 管 理 者 は 但 木 雄 尾 と い う農 学 校 の 先 生 で,そ の 養 女 の 婿 は食 糧 検 査 員 で あ っ た。
こ こ は 見 渡 す 限 り荘 々 た る葦 原 の泥 炭 湿 地 帯 で あ った 。 平 坦 地 で あ っ て ベ ベ ル イ 川 の ほ と りに あ り,富 良 野 川 合 流 点 に 近 い の で 湿 地 で あ っ た 。 開拓 時代 鍬 下 期 間 は な か っ た とい うが,畑 作 を 中心 と した時 代 は不 振 地 帯 で あ っ た 。 荘 々 た る草 原 に火 をつ け て 焼 き,畦 をつ け て水 田 に し,反 当2俵 半 か ら3俵 とっ た 。
この 水 田 は 大 正10年 に約20町 あ った とい う。 そ れ で も1戸 分5町 歩 の小 作 株 が 3百 円か ら5百 円 も した の は,ベ ベ ル イ 川,そ の他 排 水 を利 用 して 灌 概 し,水 田 にす る見 込 み が あ っ た か らで あ る。
と こ ろ が 地 主 は この 造 田 に よ る米 作 の 将 来 を見 越 して,反 当1円50銭 か ら3 円 だ っ た小 作 料(い わ ゆ る畑 年 貢)を,水 田年 貢 に切 り替 え る とい う要 求 を し て き た。 磯 野 争 議 の 原 因 が こ こ に あ る 。 大 正12年 に 最 高3俵 か ら4俵 半 の 生 産 力 に 対 して,1等 地,2等 地,3等 地 の 区 別 を して 本 田 年 貢 で取 り立 て た か ら, 相 当 深 刻 な 問 題 に な っ た 。
大 正15年 は 不 作 に な って,1俵 半 か ら2俵 の 収 穫iなの に,最 高3斗 の小 作 料 を 要 求 して きた 。管 理 者 の 但 木 雄 尾 も地 主 側 一 辺 倒 の と ころ か ら,大 争 議 に な っ た 。小 作 調 停 に は津 田 泰 政(町 長),杉 本 松 次 郎,平 賀 音 蔵,小 竹 森 槌 五 郎(委 員),松 崎 品 次 郎(農 会 長),警 察 署 長 な どが 入 っ た 。
小 作 人55名 の 代 表 と して 小 樽 に出,小 樽 労 働 会 館 の2階 に 陣 どっ て,四 〇 日 か か っ て直 接 談 判 した の は28名 とい う大 勢 で あ っ た が,次 の諸 氏 で あ る。 阿 部 長 次 郎 水 戸 長 次 郎 伴 利 八 山 出 森 一 奥 野 善 造 菅 原 清 六 小 森 善 次 郎 菊 池 力 雄 成 田兼 十 郎 松 本 与 十 八 。
20 商 学 討 究 第56巻 第4号 奥 野 善 造 の 場 合
彼 は,小 学 校 を 卒 業 し,大 正15年3月,22才 で,同 じ開拓 農 家 ・加 藤 の 次 女 シ ゲ ノ と結 婚 した 。 結 婚 は 分 家 の た め の 重 要 な 条件 で あ っ た 。 彼 は独 立 し,大 正15年4月 初 旬,富 良 野 町東 学 田 二 区 の 顔 役 小 林 か ら富 良 野 町磯 野 農 場 の小 作 株(4町8反 歩)を 三 〇 〇 円 で 譲 っ て も らい 入 植 した 。 現 在 の 富 良 野 市 北 大 沼 東 三 線 北 二 号 で あ る 。
兄 の 支i援で 草 葦 の 掘 立 て小 屋 を建 て て も らい,カ マ ドを持 っ た 。 入 地 した 土 地 は造 田 した 形 跡 は あ る もの の,草 ぼ うぼ う の荒 れ 地 に な っ て い た 。 身 の 丈 あ ま りの葦 原 を鎌 で な ぎ払 い,ひ と鍬 ひ と鍬 手 で 起 こ し,泥 炭 の 畑 を拓 い て い っ た 。 着 物 は 盲 縞 の絆 天 に荒 縄 の 帯 を しめ,来 た き り雀 で 年 中過 ご した。
住 宅 の 入 りロ は 雨 戸 が わ りに ム シ ロ を吊 した が,吹 雪 に は行 きが 容 赦 な く吹 き込 ん だ 。 居 間 も土 間 同然 で,カ ンナ を か け な い板 張 りの 床 に 荒 ム シ ロ を 敷 い た 。冬 は 毎 朝 ふ とん の 襟 が 息 で 真 白 く凍 っ た。一 番 困 っ た の は飲 料 水 で あ っ た 。 泥 炭 地 な の で,井 戸 を掘 っ て も水 は 出 な い 。 キ ラ ラの 浮 い た金 気 の 強 い排 水 溝 の 水 をバ ケ ツ で汲 ん で,ご 飯 を炊 き,湯 を沸 か して 飲 ん だ。 燃 料 は 開墾 の 際, 泥 炭 層 の 中 か ら掘 り起 こ さ れ た ハ ンノ キ,ヤ ダ モ チ な どの 根 っ こで,乾 燥 して 囲 炉 裏 に くべ て 暖 を と っ た 。
農 場 の小 作 は まず 地 主 と小 作 料 の契 約 を しな け れ ば な らず,善 造 も管 理 人 但 木 雄 尾 宅 を尋 ね て,口 約 束 で 年 貢 を五 斗 と し た。
とこ ろ が,七 月 に 入 っ て 二 ・番草 を と り,や れ や れ と思 っ て い た と こ ろ,管 理 人 か ら本 契 約 をす る の で,印 鑑 を持 参 して くる よ う に と の通 知 が あ っ た 。 事 務 所 に入 る と,い きな り管 理 人 は,「 あ ん た の 年 貢 米 は 七 斗 に 決 め た か ら,こ の 契 約 書 に 直 ぐハ ン コ をつ け1」 とぶ っ き ら ぼ う に 言 っ た 。
善 造 は驚 い て,「 ま え の話 で は五 斗 とい う こ とで は な か っ た で し ょ う か 」 と 問 い 直 した 。
「い や,前 に 五 斗 と言 っ た が,い ろ い ろ経 費 が あ が っ て い る し,磯 野 親 方 に
『七 斗 で 決 め ろ』 と言 わ れ て い る ん だ 。 ど う に もな ら ん ね1」 と管 理 人 は 吐 き 捨 て る よ う に言 い 切 り,ハ ン コ を押 す よ う に 強 要 した 。
多 喜 二書 き込 み,お よび小 林多 喜二伝 補5 2ヱ
「約 束 が ち が う。 ま え に 決 め た とお り五 斗 に して ほ しい 」 「い や,ダ メ だ 」 と押 し問答 をす る うち に,ロ 論 に な り,善 造 は管 理 人 の 要 求 を つ っ ぱ ね てハ ン コ を押 さ ず に貴 宅 した 。
入 月 の お 盆 が 過 ぎて 間 もな く,再 度 事 務 所 に 出 頭 す る よ う呼 び 出 し を う け た。
但 木 管 理 人 は 険 しい 表 情 で ま く し た て た 。 「七 斗 の 年 貢 に不 満 な ら,さ っ さ と 出 て い っ て くれ1」 こ う して管 理 人 か ら立 ち 退 きを言 い 渡 さ れ て し ま っ た 。
困 惑 した 善 造 は兄 忠 治 に相 談 した 。「と もか く,契 約 だ け は し な くて は ダ メ だ。
契 約 を しな い で 放 っ て お け ば法 律 を楯 に 立 ち 退 き命 令 を く ら うか も しれ な い 。 年 貢 米 の交 渉 は ボ ツ ボ ツや る と して,と に か く契 約 だ け は済 ませ た ら ど うか 」 と,兄 は今 の と こ ろ慎 重 に対 応 す る のが 得 策 で あ る と説 得 した 。 善 造 は不 満 な が ら も,仕 方 な く七 斗 の 小 作 料 に契 約 した 。
磯 野 農 場 の水 田 は客 土 も さ れ て い な い底 な しの 泥 炭 で あ っ た の で,農 耕 馬 に は 藁 で 編 ん だ 大 き な ボ ッ コ靴 を履 か せ て耕 した 。 代 か きの 時 な どは 馬 が ぬ か っ て足 が 脱 げ な くな る こ と も多 く,そ の労 苦 は 筆 舌 に尽 く し難 か っ た 。 東 七 線 の あ る 農 家 で,ぬ か っ た 馬 の 足 が 木 の 切 り株 と根 の 間 に挟 ま っ て,ど う して も脱 け な か っ た 。倒 れ た 馬 が あ ま り暴 れ る の で,そ の 根 を切 った が,馬 の 後 脚 も切 っ て し ま っ た。 また 葦 原 を焼 く と,泥 炭 の表 面 が 乾 燥 して,い く 日 も地 面 が 燃 え 拡 が り,あ や う く家 屋 を焼 失 す る よ う な こ と もた び た び 起 こ っ た 。 一 反 当 た り の収 量 も悪 く,扇 山 の 一 等 地 の半 分 以 下 で あ った 。
善 造 夫 婦 は 高 い 小 作 料 を課 せ られ て い た の で,馬 車 馬 の よ う に汗 み ど ろ に な っ て 働 い た 。 と こ ろ が 大 正15年 は空 前 の 大 凶 作 に な り,す べ て の 労 苦 が 水 泡 に 帰 して し まっ た 。善 造 の 水 田 は4町8反 歩 あ っ た が,82俵(反 当 た り約 七 斗)
しか な く,そ れ もす べ て 等 外 米 とい う惨 憺 た る結 果 で あ っ た。 当 時,上 川 外 四 部 会 の 農 業 技 術 員 の大 槌 淳 氏(後 の 町 長)の 立 ち会 い で作 況 調 査 を して も らっ た と こ ろ,実 習 三 分 作 の 査 定 で あ っ た。 しか し,大 凶作 に も か か わ らず,但 木 管 理 人 は 四分 作 に見 積 も り,反 当 た り七 斗 の 小 作 料 の 四 分 作 で算 出 し て,33俵
2斗4升 を 定 め て 納 入 を迫 っ た 。他 の 小 作 人 も同 様 に,過 酷 な年 貢 を取 り立 て られ た 。 こ の 凶 作 で は小 作 料 の減 免 が 当然 で あ る の に,少 し も減 免 し な い の は
22 商 学 討 究 第56巻 第4号
血 も涙 もな い あ ま り に ひ どい仕 打 ち で は な い か と異 ロ 同 音 に 嘆 願 し た が,管 理 人 は頑 と して 聞 き入 れ なか っ た 。 そ れ ば か りか,先 頭 に立 っ て小 作 料 の減 免 要 求 の 運 動 を 進 め て い た 伴 利 入,山 出 盛 一,奥 野 善 造 は,立 ち退 き要 求 を受 け, 他 の 八 名 の小 作 も差 し押 さ え処 分 に な っ た 。
そ こ で,小 作 人 総 会 を何 度 も開 催 して協 議 し た末,こ の よ うな 高 額 の年 貢 を 納 め る と,来 年 の作 付 け も 困難 で,飲 まず 食 わ ず で暮 ら さ な け れ ば な らな い 死 活 問 題 で あ り,悪代 官 に等 しい 管 理 人 と こ れ以 上 折 衝 して も将 が あ か な い の で, 今 を時 め く小 樽 商 工 会 会 頭 で あ る 地 主 の磯 野 親 方 に 直接 面 会 して 嘆 願 す る しか な い と の結 論 に達 した 。 具 体 的 な 戦 術 と して,小 作 人 た ち の精 一杯 の 誠 意 を示 す た め に小 作 料 の 三 分 の 一 の 数 量 を小 作 人 代 表 伴 利 八 の 名 義 で 倉 庫 に積 み 上 げ,そ の 倉 庫 権 を磯 野i親方 に提 示 して 窮 状 を訴 え る こ と に した。
この こ と を知 っ た管 理 人 は全 員 の 立 ち退 き を命 じ,そ の 倉 庫 を差 し押 さ え す る 強 硬 手 段 を と っ た 。
昭 和2年3月3日,小 作 人58名 の 中 か ら選 出 さ れ た28名 で 争 議 団 を結 成 し, 富 良 野 駅 か ら汽 車 で小 樽 に向 か っ た 。 小 樽 の磯 野 親 方 に 直 接 談 判 す るた め だ っ た 。 善 造 も争 議 団 の一 員 に加 わ っ た 。 窮 状 を 訴 えれ ば 直 ぐ解 決 の め どが つ くは ず だ と思 っ た 。磯 野 の ダ ン ナ に会 っ た 小 作 人 は1人 もい な か っ た 。
争 議 団 が 乗 り込 ん だ鈍 行 列 車 は,夜 九 時 す ぎ に よ うや く,小 樽 駅 に 到 着 した 。 あ らか じめ 日本 農 民 組 合 北 海 道 執 行 委 員 長 荒 岡 庄 太 郎 か ら連 絡 して い た の で, 駅 頭 に は小 樽 市 労 農 党 執 行 委 員 長 鈴 木 源 重 を は じめ,若 手 の 活 動 家 三 十 余 名 が 出迎 え て くれ た 。 駅 前 広 場 で は 「ヒゲ の 厳 重 」 こ と,鈴 木 源 重 が 長 髭 を寒 風 に な び か せ な が ら,激 励 演 説 を酒 々 とぶ ち あ げ た 。 善 造 た ち は,こ の と き世 の 中 に こ ん な に弁 舌 の 達 者 な 人 が い る の か と肝 っ 玉 が で ん ぐ り返 る ぐ らい に驚 嘆 し た。 ヒゲ の 源 重 の 嵐 の よ う な演 説 が 終 わ る と,今 度 は こ ち らの 小 作 の代 表 が 答 礼 の挨 拶 を述 な けれ ば な ら な い が,争 議 団長 の 伴 利 入 は 無 類 の 訥 弁 な の で,善 造 た ち は 固唾 を呑 ん で見 守 っ て い た 。 と こ ろ が,伴 利 入 は い き な り土 下 座 す る
と,凍 っ た 雪 の 上 に両 手 を つ い て ひ れ 伏 し額 を す りつ け て,た っ た 一 言,「 よ
多喜 二書 き込み,お よび小 林多 喜 二伝 補5 23 う し く」 頼 み ま す と叫 ん だ き り,あ とは 絶 句 して し ま っ た 。
争 議 団 一 行 は 労 農 党 の 人 々 の 先 導 で,駅 前 か ら隊 列 を整 え,ス ロ ー ガ ン を書 い た五 本 の 旗 を た て て,色 内 町 の磯 野 事 務 所 へ 押 しか け た 。 す で に深 夜 で あ っ た た め,鎧 戸 が 下 ろ さ れ て お り,事 務 所 の 周 りに は,警 官 が 一 五,六 名,も の もの し い 警 戒 に 当 た っ て い た 。 労 農 党 の 人 々 が,「 磯 野 出 て こ い11戸 を 開 け ろ!!」 と大 声 で 叫 ん で も何 ら応 答 が な か った 。 そ の 晩 は,安 宿 二 軒 に分 宿 した が,心 配 で 一 睡 もで き な い う ち に夜 が 明 け た。 翌4日9時 ころ,磯 野 事 務 所 に 全 員 で 押 しか け る と,「 親 方 が 留 守 な の で 私 が」 と,支 配 人 の 吉 村 直 吉 が 親 方
に代 わ っ て 話 を 聞 くこ とに な っ た。
伴 団 長 は,早 速 持 参 した 倉 庫 権 を 出 して,「 これ を 直 接 親 方 に渡 し た い の で 会 わせ て 下 さい 」 と 申 し入 れ た が,吉 村 は厳 しい 表 情 で,「 磯 野 農 場 主 が 帰 宅 しだ い連 絡 します 。」と応 酬 す る だ け で あ った 。支 配 人 相 手 で は博 が あ か な い と, そ の 日は そ の ま ま 引 き揚 げ た 。
翌 日訪 れ る と,吉 村 管 理 人 の 態 度 は ガ ラ リ と変 わ り,毅 然 と し て,「 農 場 に は但 木 管 理 人 が い て,小 作 料 を取 り立 て の はず だ 。 不 作 で 困 っ て い る とい い な が ら,君 た ち は大 勢 汽 車 に乗 って 小 樽 見 物 にで か け て くる の は,不 見 識 も甚 だ しい の で は な い か 。 一 刻 も早 く返 っ て,小 作 料 全 納 し な け れ ば,親 方 は お 前 達 に会 っ て 下 さ らな い だ ろ う11」 と,血 も涙 も な い挨 拶 だ っ た 。
「但 木 管 理 人 で は 話 に な らん の で,わ ざ わ ざ 出 向 い て きた ん だ 。 親 方 に 会 わ せ な け れ ば 帰 らん11」 と小 作 人 達 も口 々 に叫 ん だ 。
す る と支 配 人 は,「 お ま え た ち は さ っ さ と帰 れ11会 わ ん と言 っ た ら あ わ ん の だ11」 と応 酬 して 交 渉 は決 裂 し て し まっ た 。
これ で争 議 は長 期 戦 の 様 相 を呈 して きた 。 宿 屋 住 まい は金 が か か る の で,労 働 組 合 の 二 階 に 引 っ 越 した。 飯 場 長 は水 戸 長 二 郎(長 次 郎)が 引 き受 け,飯 米 は 富 良 野 か ら応 援二して も ら う手 はず を 整 えた 。
こ の争 議 の 反 響 は 大 き く,道 内 各 地 か ら応 援 米21俵 と逃 走 資 金 百 円 が届 け ら れ て,小 作 た ち は全 員 感 激 して 泣 い た 。夜 具 は貸 しふ と ん屋 か ら借 りて,着 の 身 着 の ま まで 雑 魚 寝 した が,20日 く らい た つ と シ ラ ミが 湧 い て,痒 くて た ま ら