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元田永孚の「弗

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(1)

産大法学 43巻3・4号(2010. 2)

元 田永孚の ﹁ 弗

十 二徳﹂補註と漢詩

所功

はじめに

田永孚

一八一八

九一

といえば

︑﹁明治天皇の側

にあっ て儒学を講じ

儒教主義による国民教化に尽力

︑教学大旨・幼学綱要を執筆︑明治二︵一八九〇︶教育勅語の草案を作成し ことなどが︑主な事として

げらる︒

だ︑明治維新前後に欧米の文物が流布したことは申すまでもないが︑それを活用した一として﹁ ざね

后にフランクリンの自を進講し ことは︑必ずしも広く知られていない︒この記述は少し正確である︵注9参

︶が︑元田により﹁フランクリンの自﹂の一部が﹁明治皇后﹂︵昭憲皇太后︶にえられたことは間違いない︒

は︑儒学担当の侍講であった元田が︑どうしてベンジャミン・フランクリンの﹃自伝﹄を知り︑どのように受

たのか︑またどんな内容をどのようにして皇后にえたのか︑その真相は未だ必ずしも明確になっていない︒

ころで私は︑全くの門外漢ながら︑百二十年前に渙された﹁教育勅語﹂について関心があり︑その成立前史を調

るうちに︑元田の功績のひとつとされる右の一件が気懸りとなった︒そこで昨年来︑関係のありそうな資料をし︑

(2)

かながら新知見をえた︒まだ解けない疑問も少なくないが︑今回とりあえず元田自筆の未刊資料と関資料を紹介し

︑博雅の御示教をぎたい︒

1︶日本歴史学会編﹃明治維新人名辞典﹄︵昭和五十六年︑吉川弘文館︶一〇〇一〜二頁︒詳伝は海後宗臣氏﹃元田永孚﹄︵昭

和十七年︑文書院︶など参照

2︶佐渡谷重信氏﹃アメリカ精神と日本文明﹄︵初版昭和五十一年︑潮新書︒平成二年︑講社学術文庫︶文庫二七頁︒

フランクリンの﹃自伝﹄と﹁十二徳

フランクリン

一七〇六

〇︶の﹃自

A utob iograph y

﹄ ︵

ただ本

の原稿

memor ie s

あまりにも有

なロング・セラーであるが︑その成立と普及には複雑な事情が絡まっている︒それを松本慎一・西川正身両氏の解

より︑ごく簡単にり返っておこう︒

著者の草稿は︑本書冒頭に記すとおり︑一七七一年︵六十五歳︶イギリス滞在中︑息子ウイリアム・フランクリンの

めに書き始められた︒しかし︑五年後のアメリカ独立に全力をくすため中断し︑一七八四年︵七十八歳︶フランス

在中に書き継ぎ︑その後再三中絶しながら書き続たが︑一七九〇年︵八十四歳︶未完のまま終わった︒

の間に原稿の写しがヨーロッパの友に送られており︑それに基づいて︑まずⓐ一七九一年︑パリでフランス語訳

自伝が出版された︵ビュイ版︒他ル・ヴェイヤール訳もある︶︒ついで一七九三年その英訳ロビン

ン版︶がロンドンで刊行されてから︑このⓑがアメリカでも普した︒

かしやがてⓒ一八一七年の孫ウイリアムテンプルフランクリンが祖父の原文によって全集を編

(3)

元田永孚の「弗蘭克林十二徳」補註と漢詩

ロンドンで出したウイリアム︶︒それを受け継いでⓓ一八四〇年︑ハーバード大学のジャレッド・スパーク

が全集を完成させ

そのなかに

自伝

﹄︵スパ

クス

を収めた

しかも

さらにⓔ一八六八

年︑ジョン・ピ

パリで入手したⓒとは別の原稿に基づいて全集を纂し直しその第一巻に自伝﹄︵ピグロ︶を

のうち︑最も普及したのはⓓスパークス版である︒とりわ明治時代の日本に輸入され︑同十年代から段々普及し

刊本は︑スパークス版を底本としてい 4︶

だ︑この﹃自﹄は︑そ文が日本へ入てくる前からその要点を紹介したり第六章の十三徳﹂︵むしろ

二徳︶部分だを抄出し編纂した書物が︑さまざまな形で伝来していた︒それが本稿では重要な意味をもつため︑そ

いきさつを少ししく見ておこう︒

渡谷重信氏

注2

の指摘されるとおり

文久年間

一八六一

〜四︶に ﹃玉林﹄に

合衆国ベンヤミンフランクリンの略伝が紹介されている︵﹃明治文化全集一六巻︿昭和三年日本評論社﹀所

七〜九頁︶︒ま

祐弘

よれば

応二年

一八六六

イギリスへ留学した中村正直は

同四年

明治元

国のさい入手したサミエルスマイルズ

“Self -Help ”

初版一八五九年改版一八六七年し︑明

年︵一八七〇︶﹃西国立志編﹄の題で出版した︒その第十二編﹁儀範︹又曰く典型︺を論ず﹂に︑﹁富蘭克の著述に

せる儀範﹂が後の人に与えた影響を評価している︵富山房百科文庫一八︿昭和十三年︑富山房﹀所収三六〇頁︶

かも︑その﹁儀範﹂内容を含む道徳科書を翻訳出版したのは︑箕作麟祥︵阮甫の養子省吾の長男︶である︒彼は

応三年︵一八六七︶二十二歳でフランスへ留学し︑翌年︵明治元年︶帰国して新府の翻訳官︵同六年︑翻訳局長︶

なり︑﹃万国体論﹄︵明治八年︶﹃仏国民法解釈﹄︵同十年︶などを著わし︑明六社の一員としても活躍す

(4)

の麟祥が︑留学中に入手した﹁法蘭西国学士ボンヌ氏の著述にして︑千八百六十七年︵応三年︶ て刊

小学校にて児童を教ふるが為め作りしもの訳し︑﹃泰西勧善訓蒙と題して出版し 本書は上中下三

ら成る︒その目は︑

一︑勧学の大旨二︑天に対する務三︑自己に対する務

四︑に対する務五︑族に対する務六︑国に対する務

られ︑六の末尾﹁徳に進むの法﹂の中に﹁フランクリンの教誨﹂として︑次のごとく記されている︒

ケンフランクリンと云へる エレ キー 等の大明を為したる学士にして初め かつ ばん

にんなりしが次に記する所の方法を用ひ其の過失を改めて勧の徳に進むを得終に メリ の高名なる長と

り︑其の名を世にはすに至れり︒

﹁フランクリン﹂は︑徳を分ちて二となし︑簡略なる註釈を加へて之を簿冊の巻首に記し︑日々其の簿冊を看る

に心を留め︑二徳中一として怠ることなく⁝⁝自から警めたり︒⁝⁝今の世にある少年も﹁フランク

慕ひ︑所謂二の徳を心に銘じ︑日々勉励して之を行ふ時は︑終に徳の習を得るに至る可し︒因て

十二の徳を左に記列す︒

○第して曰く︑昏迷するに至る迄 おのみくること勿れ

沈黙釈して曰く︑己に益あり︑又は人に益ある事に非れ︑云ふこと勿れ︒

して曰く︑事物に皆次第を定め︑事を行ふに各々順序を以てす可し︒

釈して曰く︑己の為す可き事は必ずを為すを決し︑一旦決したる所は必ずを遂ぐ可し︒

節倹釈して曰く︑己の為め人の為め︑財を有益の事のみに用ひ︑必ずを無益に費すこと勿れ︒

(5)

元田永孚の「弗蘭克林十二徳」補註と漢詩

第六釈して曰く︑光陰を無益に過すことなく︑常に必ず有益の事を勉む可し︒

第七釈して曰く︑人を欺くことなく︑意志・言詞共に誠を以てす可し︒

第八釈して曰く︑人に損害を加ふることなく︑人の恩は必ず之に報ゆ可し︒

釈して曰く︑性情の度に過ぐるを防ぎ︑を恨むの念を制止す可し︒

第十して曰く︑衣服・身体・家屋を潔になすこと勿れ︒

第十寧静して曰く︑小事を以て軽率に心を動すこと勿れ︒

第十謙遜釈して曰く︑に対し驕傲なること勿れ︒

れによれ︑箕作麟祥は留学中にフランクリンの﹃自伝﹄を見ているかもしれないが︑これはボンヌ著の児童用教

書を訳したものであり︑その棹尾に引されているのが﹁フランクリンの十二徳﹂にほかならない︒しかも︑それ

当時︵明治四年〜︶教育関係などに広まったものとみられる︒

3︶本慎一西川正身両氏訳フランクリン自伝﹄︵初版昭和十二年改訳同三十一年共に岩波文改訳解説三〇

一〜七頁︒西川氏の同﹁あとがき﹂三〇九〜三一四頁︒この初はビグロー改訳はアルバート・スマイズ﹃フランク

リン著作集﹄︵一九〇五七年刊所収自伝を底本としている他にマス・ファランド編フランクリンの自伝

一九四九︶もある︒

︵4︶注︵2︶︵3︶に

山田邦彦訳

仏蘭克林

金言言行録

﹄︵

明治十七年

︶︑

御手洗正和訳

名華之余薫

﹄︵

同二

︶︑望月與三郎訳勤勉立志富蘭克林自叙伝﹄︵同二十二年︶︑国木田独歩フランクリンの少年時代﹄︵同二十九年︶︑

間信訳注フランクリンの自伝﹄︵同三十一年︶︑笹山準一著立志成功新訳フランクリン﹄︵同四十三年︶︑竹村修訳

フランクリン自﹄︵大正初年︶︑百島フランクリン一代記﹄︵大正初年︶︑中里介山フランクリン言行録﹄︵昭和

十年︶︑金井朋和訳﹃フランクリン自叙﹄︵昭和︶などもある︒

(6)

5︶平川祐弘氏﹃東の橘西のオレンジ﹄︵昭和五十六年︑文藝春︶五三〜七四頁︒文中引用の中村正直﹃西国立志編﹄

講談社学術文︶に︑﹁サミュール・ドリフはその一生職事に勉強すること慣れて性となりたるはフランク

の著述自伝に遺せる範を師として学びしに由れりといへりかく範の将来に伝はること いたり まる

ころあらんや︒﹂と推奨している︒︵原文の片仮名を人名以外は平仮名に直した︒以下同︶

6︶注︵1︶﹃明治維新人名辞典﹄九六二頁︑詳しくは大文彦﹃箕作麟祥君伝﹄︵明治四〇年︶など参照︒

なお本稿の校正中十一月下旬︶︑本学文化学部の小倉恵美准教授と出会い初めて知たことであるが同氏は一橋

学大学院の平成九年度修士論文﹁〝文字の人フランクリン近代アメリカそして近代日本におるフランクリンの受

︱﹂︵複写受贈︶の中で︑つとに亀井俊介氏﹃ベンジャミン・フランクリン﹄︵研究社アメリカ古典文庫1︑昭和五十年︶

解説によれ箕作省吾麟祥の父が弘化二年一八四五︶﹃坤輿図識にフランクリンを簡略に紹介していること

今井輝子氏﹁日本におけるフランクリンの受容︱明治時代︱﹂︵﹃津田塾大学紀要﹄第一四号︶によれば︑小幡篤次郎が

元年一八六八︶﹃天変地異の中にフランクリンを科学者避雷針の明者として紹介していることさらに福沢

吉が訳したチェンバースの児童用道徳書﹃童蒙教草﹄︵明治五年刊︑日本教科書大系所収︶に︑﹁フランクリンの遺文

して﹁働と約とを守れ成らざる事なし﹂などを紹介していること︑などを指摘されている

7︶本書は何種類も版行されている︒私が見た版本は﹁明治四年辛未仲刊行﹂の﹁名古屋学校蔵版﹂本である︒

元田永孚と﹁弗蘭克林十二徳﹂

の﹃泰西

訓蒙

が出版された明治四年

一八七〇

︶︑宮内省に出仕したのが

熊本出身の元田永孚

五十三

︶である︒彼は肥後藩の時習館で居寮生となり︑居寮長の横井小楠から影響を受︑実学党の結成にも参加した︵注

参照︶︒しかしそれ以上に漢詩文儒学を究めていたので宮内省では明治年から天皇の侍講に任じられ長ら

講している︒

(7)

元田永孚の「弗蘭克林十二徳」補註と漢詩

の元田に関する資料の大部分は︑族から国立国会図書館に寄贈され︑マイクロフィルムでも閲覧することができ

それを通覧したところ

︑﹁上奏建言草稿

り合せた文書

マイクロフ

ルム第七巻一〇七

七︱チ︶の

︑次のような草稿が含まれている︒年次は記されていないが︑その前に明治七年八月付の﹁聖徳﹂をじた建言︑後

明治五六月付のが貼り継がれているからおそらくその間明治五〜七に書かれたもの

みて大過ないであろう︒ただ︑体に訂正箇所が多く︑初稿は五年以前に作られた可能性もある︒

下︑片仮名は平仮名に改めて刻する︒元田自身が原文を訂正して行の左右に記した文字は︑元字の下の︿﹀内

入れる草稿にある左の傍点は消された文字また右脇の・上位置の置きえを示すただ二ケ所の傍線と各

の右側算用字は筆者が加えた︒

蘭克二徳の註釈簡にしてせり︒然れども初︵

0 ︶学之を習ふ︑或は

0 手に難く︑或は位次

0

︿無くして要を得るに苦しむ故に今見を付して○︿位次を分ち之○︿が註釈を補し自省

0 ︿

0

0 0 ︿

0

0 ︿便す﹀と云﹀︑初学にすこと︑左の如し︒

原書を加ふ︒

むるは欲を節するより始まる

0 ︿

0 ︿過ぎ

0 ︿

0 ︿過ぎ

0 ︿

0 ︿過ぎ

0 ︿

0 ︿

0 0 ︒ ︿

其初

0 そ欲は分に過ぎず

0 0 0 0 0 0 0 0

0 分を過さず

0 0 0 0 0 0 0 0

0

を留むべし

0 0 0 0 0 0 ︿僅に一分の間

0

0

0 ︿のみ﹀○︵頭注﹁事は八分を過ず︑須らく餘地を残すべし﹂︶︒故に先づ

を定め初めに意念を制し○︿一食必ず八分を過さず一遊一楽必ず餘地を留む﹀︑己に克て礼に復らんこ

を要す

(8)

を整ふるは内をふ所以︒故に○︿常に﹀肌膚を清潔

0 0

0 ︿﹀し︑衣服を浄し︑閏房を○︿除﹀整

0

を洒し︑門庭を爽快にし○︿凡て﹀人の見ざる処に

0 0 0

0 ︿注意し︑務て﹀不を去れば︑

0 ︿正﹀気暢

て︑神常に剛健なり

0 0 0 0 ︿

0 ︿﹀︒

は勤を以て成り功は労に由て大なり安富尊栄は勤労の花実一日勤めざれ千日の効を

0 0 0 ︿失ひ﹀︑一

労せざれ︑百事の用に後

0

0 ︿を愆﹀る︒百年の事業は︑一寸の光陰より始まる︒勤めざるべんや︑労せざるべ

んや︒

語は栄辱の枢機︑慎まざるべからず︒第一︑朝廷の闕失を言はず︑○︿第二﹀悪を言はず︑○︿第三﹀己

労苦を言はず︑○︿第四﹀愉快に乗じて語らず︑○︿第﹀怒気に激して語らず︑一言を発する︑必○︿心の﹀

実を顧み︑一事を述る︑必○︿言の﹀到底を

0 ︿り﹀︑○︿多言にんよりは寧ろ沈黙するに如ず︒

右︑修養の要︒

道に志しては︑其志を堅守し︑富貴に淫せず貪賤に移らず︑威武に屈せず︑忍ぶべからざるを忍︑耐がた

に耐ゑ︑剛健強毅︑必共道を行ひ︑己が及ざる所は︑百世以て聖人を俟ち︑斃て息まず︒

は人心の宝︑万事の根︒誠無れ物なし︒故に迷暗独知の地も自欺くの念なく︑顕明稠人の中も︑己を飾るの意

をもみず

0 0 0 0 0 0 をも

0 0 0

0

とが

0

0 動静語黙︑唯神明と相対して愧ることなけれ︑○︿本心常に﹀惻怛懇到︑

(9)

元田永孚の「弗蘭克林十二徳」補註と漢詩

ことはず︒

愛なければ心自温に楽易なれば気自ら和す温和は天理人の至順温和なれば事皆悖らず物自然に混化

︒夫婦の︑父子の愛︑是天理自然の至

0 ︿情﹀なり︑但︑君上には

0

0 ︿過ぎ﹀易く︑

0 0 0

0

0 ︿過ぎ易し或は忩疾に

0 ︿激﹀し︑或は驕夸に奪はれて︑天然の温和を失ふ︒善く慈愛の本心を培養

充すれ︑自然に温和なり︒

小なれ心満つ︑心満れ気驕る︒善に伐り労を施にする︒皆志の小なるに基くなり︒只能く上帝の心を心とし

0 0 0 0

︿

﹀︑聖を以て自期する時は

心満つることな

く︑○︿賢ひ﹀

0 ︿業﹀のひ︑○︿益々

○︿楽で﹀悟の大なるに

0 0 0 0 0 0 0

0

0 用の限りなきを

0 0 0 0 0 0 0 0 0

0 ○︿其心﹀益々謙にし

︑自り人に傲るの念あることなし︒

右︑存心の要︒

︑本末あり︒事︑始あり︒を先にし始をにすべからず︒末を急にし︑本を緩にすべからず︒心に正してす

ことなく忘るることなく助長することなく泉の昼夜を捨ずに允て

0 0 0 0 ︿に盈て﹀進み︑遂 くぼみ

する

0 0

0 ︿放る﹀が如く︑鑿智を用ひず︑径に由らず︑○︿四運行するが如く﹀︑序に順て無為なり︒

10

財は天

0 ︿遍﹀用︑の資本は

0 0 0 0 0 0 0 ︑万

0 ︿の一部分なり

0 0 0 0 0

0 ○︿吾人の利益をず︒の財は﹀

0

(10)

益に費せ

0 0 0 0 0

0 ︿せざれば﹀︑亦無益に之を

0 0 0 0 0 0 0 0

0 ︿吾を益せず﹀︑

0 に与れば

0 0 0 0 0 0

0 不義に之を受

0 0 0 0 0 0 0 0 ︑︿吾を

する所以﹀︑天下は義と有益とのみ

0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

0 ○︿己ず︒但︑天の財は限り有て一人の欲は窮り

一人をすれば天下一分の用を利す︒﹀故に一出の

0 必人の益をり︑一

0 己のを思ふ

か吝み何をか奢らん︒節は只に従ふ

0 0 0

0 ︿礼に通ずるのみ

11

躁なれ心地定まらずして挙

0 ︿止︑に﹀中らず︒何を以て天下の理を究め︑天下の

0 ︿務﹀を慮らんや︒

○︿事に臨むの初﹀大事の処しきに遇ふと︑○︵頭注﹁理を以て

ち︑成敗かす□無かるべ

﹂︶先づ心を平にし気を鎮め安静にして理の当然を見るべし孔明陣に臨て○︿巾﹀羽

0

0 0 安車

乗りて意思安閑︑拿破軍に仕て︑学校の事を規画するが如

0 ︿

﹀ ︑ 是皆

0

0 ︿真に寧静の至るなり

12

児・寡婦のき易きもくことなく︑高祿・重爵の辞し難きも受

0

0 0

0

0 ︿ざることあり﹀︑

の恩も必酬

0 ︿﹀︑

0 ︿負か﹀ず︒に当ては匹婦をること傷めるが如く

0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

0 ︿も其沢を蒙らざれ

中に入るが如く﹀︑義の為めには○︿萬の﹀身

0 如くならんことを

0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

0 ︿よりも軽く﹀︑是を公義を

んずると云

事に処し人に接

0 0 0 0 るの要

蘭克二徳の註真に徳を好みを勉むる者と云べし︒古

子を始め

銘︑勧文︑

右の銘

等︑進徳の 至らるなし︒後の学を為す者︑豈效はるべからず︒今聖慮十二徳に於て︑必ず会する所あるべ

︒平生聖学の詣る︑臣請ふ︑面あたりを聞くことを希ふ︒

(11)

元田永孚の「弗蘭克林十二徳」補註と漢詩

の文中にいう二徳 前後の文意からフランクリン自身の原書原注﹂︵原注は各目の解説で

泰西勧善訓蒙﹄にも引用︶をさすとみられる︒それを見て元田は︑自分なりの﹁補註﹂を初学のために作ったので

ろうただ注目すべきは原書の徳目と元田の補註とを対比すると単に三徳が二徳となっているだけでな

︑その順序が殆ど入れ替わっていることである︒すなわち︑徳目の順番は︑前者を○︑後者を□で囲み示せ︑①節

はで変わりないが︑沈黙↓︑規律↓順序︑決断↓確志︑節約↓節倹︑⑥勤勉↓勤労︑⑦誠実↓

正義↓義︑⑨中庸↓静︑清潔↓︑平静↓温和︑謙譲↓に替っている︒これは︑元田が特に

清潔や温和︑謙遜などの徳目を︑原書よりも重したからではないかと思われる︒

8︶国立国会図書館憲資料室所蔵﹃元田永孚関係文書﹄は︑族の元田竹彦氏が大切に保管され︑昭和四十年代に海後宗臣

氏が全面協力して﹃元田永孚文書﹄三巻を出版された︒しかし︑予定の残り三巻は未刊にり︑同六十三年︵一九八八︶

括して同館に寄贈された由であるがその中に漢詩はまれていない巨勢進氏元田東野﹄︿昭和五十四年明徳出

﹀所の漢詩も一部抄録に留まる︶︒文書のなかにもまだ翻されていない貴重なものが多い︒

元田の﹁十二徳自註手﹂と漢

の元田永孚による﹁弗蘭克十二徳﹂への補注草稿は︑前述のごとく明治五年〜八年ころに作成し修訂されたもの

みられる︒その際︑彼が見た﹁原書原注﹂は︑おそらく同四年刊の箕作祥訳﹃秦西勧善訓蒙﹄所引﹁フランクリン

訓誨⁝⁝十二徳﹂︵各々﹁釈して曰く﹂の部分が原注︶と考えられる︒何となれ︑﹃訓蒙﹄の引く﹁十二徳﹂の訳語

元田の補註草稿と全く一致するからである︵ただし︑前述のごとく徳目の順番はる︶

(12)

かも︑元田はこの補注草稿を基にしたであろう自註手録を昭憲皇后︵のち正式には皇太后︶に上している︒その

次を︑かなりの人々が明治八とす ︑元田自身は﹁暦之記﹂︵同十一年稿︶に次のごとく明記している︒

年六月︑将に奥羽諸州に巡幸有らんとす︒因て帝王巡幸の大意を陳述す︒⁝⁝その ママ幸に先立ち/皇后

書をよせて宮中 和︵夫婦和合の徳︶を専らにして螽斯の繁栄あらんことをじ︑上杉鷹山の女訓を手写

之を たてまる︹上案︑別り︺︒亦︑蘭克の十二徳に自註を加へ手

0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

を上る/皇后 0

0

を賜 0

0 0 0 0

を賦してを和し奉る 0

0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

0

れによれ元田は侍講となってから一年半後の明治九年一八七六︶︑天皇が奥羽地方を巡幸された六月初めよ

り七月中旬までの 亜︶︑皇后の御役にたてと考え︑﹁上杉鷹山の女訓を手写﹂すると共に︑﹁弗蘭克林の十二徳に自註

加へ手録﹂したもの︵以下﹁自註手録﹂と仮称する︶を︑それぞれ上したのである︒それは︑前の﹁補註草稿﹂

修訂し清書したものと考えられる

徳目の順番

同一

︶︒ただ

その献上本はどこにあるのか

まだ確認でき

︑そのえも﹁元田永孚関係文書﹂中に見当たらない︒

れども

︑﹁

暦之記

前掲引用の末尾に

元田の

自註手録

を御覧になっ

た皇后から

御歌

わっ たとあ

しかもそこで元田が︑﹁詩を賦してを和し奉ると記す漢詩は幸い佐佐木信綱氏昭憲皇太后御集謹解

録されてい 唖︶同氏が﹁東野先生詩抄に十二徳詩あり︒皇后の御歌に元田侍講の和し奉れる作﹂として掲る十二の

詩は管見の今では他に見ることができな ︵娃から左に引いておこう︒︵漢詩に返点を付し参考まで

書き下し文を加え︑十二徳目の頭に番号①〜⑫をする︒

蘭克徳行︑嘗十二壁而自侍講︒皇︑親国詩︒臣

和奉︒︵フランクリン徳行を好み嘗て十二徳を択び壁に書きて自ら誡む侍講して

(13)

元田永孚の「弗蘭克林十二徳」補註と漢詩

ぶ︒皇︑之 でたまひ 詩︿和歌﹀をし︑以はる ち十二絶句を賦して

和しる︒

瓢飲余飲春在梅花猶未

多少間行楽事十分不分安︵一︑足り︒春

梅花猶未だ なわらざるに在り︒多少の間︑行楽の事︑十分なるは八分の安きに

︒ ︶

已清肌亦清更無人洗中情誰能一箒揮除去屋漏到頭旧棘荊衣袂已に清けれ肌亦清く更に人

して中情を洗滌すること無ん︒誰か能く一に箒揮して除去せんや︒屋漏れ到頭︑ 荊なり︒

禹労華氏為農伯氏工今古聖賢何事業畢生勤勉不︵舜畝に ︑禹む︒

氏は農を為し︑氏は り︒今古の賢︑何事か わざせん︒畢生勤勉にして功を言はず︒

文明沈潜季無言何光彩︵喋々と明を説くを聞くこと

を厭ふ︒ ず沈潜し先づ誠を養ふことを季は言ふこと無くとも何ぞ色を減ぜん満蹊の光彩人行に

むら

︒ ︶

豈被名移大丈夫心涅斯道縦当世更無此の身 あに利名の移をらん

大丈夫の心︑ くろ くろらず︒斯の 当世を塞ぐとも︑天を楽しみて ︑更に疑ふことし︒

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