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「神の証し」と日本人

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(1)

あか

「神の証し」と日本人

清 水 宏 子 Ⅰ は じ め に 神は "み ことば''を通 して 自らを人類に示 された。 しか し人 々は, その "み ことば"を ど の よ うに理解 しどの ように受け入れたか,又それを介 して どの よ うな神観を持つに至 ったか とい う段 になる と, それには各国各人の生活環境 ・文化 ・風土等のあ らゆるもの が 開 通 し て,その根本的な内容を保持 しなが らも,又各 自最 も受け入れ易い異なった方法でその真理を 把握 してゆ く。従 って, 日本人がキ リス ト教 の 「神」概念を理解するに当って も, その根本 をふ まえなが ら, 尚且つ同時に 自然にその肌に合 った把え方を してゆ く筈である。 ギ リシャ 哲学の流れを汲んだ分析的論理的方法に よる西洋の神概念は,理論 としては理解 し得てもそ れは度 々一般 の 日本人に とってほ一つの知識に留 ま り,意識す るとしないに拘 らずぴった り と肌にそ ぐわない何か しらが残 り,従 ってそれが一個人の中で宗教的対象なる神 として内的 に受容 され るまでにはかな りの時を要 しがちである。 それは 日本人が宗教性に乏 しいか らで はな く,む しろその昔景文化や伝統の差異,即 ち,物 の感 じ方,理性の働かせ方の原型等 の 相違に依 るところが大 きいか らである。 それを民族性 とい う語で表わす こともで きよ う。 この よ うな状況をふ まえなが ら, 日本人に とって,啓示 された神はそ して救いは どの よ う に理解 されつつあるのか,今回は遠藤周作氏の著書を通 してキ リス ト教文学 の領域で, その 日本人 としての努力 と業績を拾いなが ら,神理解における 日本人的なるものが どこにあるの かを探 ってみたい と思 う。 Ⅰ 遠 藤 氏 と同伴 思 想 一 無 力 な変 -1 同伴思想 の展開 キ リス ト教作家 としての遠藤周作氏の著作活動は, 日本人 としての神理解-の努力の一端 を代表す るもの として興味深い。 彼の著書を読んでゆ くと,彼がその神観を形成す るにあた って直面 した課題は,人間 の現ヽヽヽヽ 実 と愛の神 との矛盾 した関係を どの よ うに肯定で きるか, の問に答えることであった よ うでヽヽヽヽヽ ある。(1)

神は愛である (ヨ-ネ14の8)」とい う, そ して愛を語 ることは易 しい, しか し人間の 現実は度 々あま りに も苦難 と非惨にみちてお り, その苛酷 な現実のなかにいる人 々は ど うし あ かし た ら神 の本当の愛を見出だせ るのか,又彼等に神の愛を どの よ うに証す旦 ことがで きるのか --,彼はその課題の解決を試みてゆ く。 (2) 先ず彼は 『沈黙』の中で 日本のキ リシタ ン迫害時代 の人 々の極限的苦難における ``神 の沈

(2)

黙 "を問いかけ る

「あなたは何故黙 ってお られ る。この時で さえ黙 ってお られ るのですか

とい うロ ドリゴの問 いかけ も, フェレイ ラの 「-なぜ彼等があそ こまで苦 しまねばな らぬの か。 それ なのにお前は何 もしてやれぬ。 神 も何 もせぬではないか。」とい う言葉

,苛酷 な現 実 に対す る著者 自身 の疑問の表 明にはか な らない。 この時の著者がひ しひ しと感 じたのは人 の愛 の無力 さであ ったろ う。 (3) それ が後年 の 『死海 のほ と り』を読む と, そ こには,苦 しむ人間 の傍 らに何 もな し得ず唯 自 らも共 に苦 しみ,愛す るが故にその苦悩 の中に同伴 し続ける無力なイエスの姿 として浮 き 彫 りに されて くる。大勢 の民衆 が奇蹟 と病 の治癒 を期待 して集 まるのに, イエスはただ淋 し く首 をふ り, 自分にで きることはあなたたち と苦 しむ ことだ と咳 く。著者 に よれば, イエス にで きることは 「何 もで きぬ人」 と噂 され なが ら, 尚愛 そ うとしていつ も苦 しむ人 の傍にい てその者の苦 しみを共 に苦 しむ こだ った し, それ が苦 しむ者には必要だ ったのであ る。 この よ うな無力な変 の同伴に共感 し, そ こに何 か質実 な ものを見出そ うとす る遠藤氏の姿 勢 は,彼 の他の作品の中に もでて くる。 (4) 『蕎夜 の館』の中に登場す る修道士 ウ ッサ ンの愛深い しか し徹底的に無力な生 き方 と死 もそ の一例で,著者は 「その無力 さの故 に ウ ッサ ンは限 りな くイエスに接近 した」 と言い,又 そ の無 力な死か ら「<復活> とい う意味が少 しだけわか って きた よ うな気 がす る」 と作 中 人 物 に咳 かせている。 (5) しか し更に 『イエスの生涯』では,著者は, その愛 の同伴者イエスの無 力 さの神秘的 な意 味を明確に しなが ら, そ こか ら "愛 の神 "の肯定- と発展 し移行 してゆ く。 それは,人間に とっての最大 の不 幸は貧 しさで も病気で もな くそ こか らくる孤独 と絶 望であ り,必要 なのは 奇蹟 よ りも "餐 "だ とい うことを著者 が次第に悟 ったか らだ といえ よ う。 この,苦 しむ人を孤独 と諦 めの世界か ら引 き出 し希望 と喜びでみたすには彼等を愛す る者 が必要だ とい う悟 りは,結局著者を して,イエスの中に人間の永遠 の愛 の同伴者 としての姿 (6) を探 求 させ る。 「人間は永遠 の同伴者を必要 としていることをイエスは知 ってお られ た。 自分 の悲 しみ や苦 しみをわかち合 い,共 に渦 をなが して くれ る母 の よ うな同伴者 を必要 としているO 神 が父 の よ うに きび しい存在ではな く,母 の よ うに苦 しみをわかちあ う方だ と信 じてお られ たイエスはその神 の愛を証す るた削 こガ リラヤの湖畔で不幸 な人 々に会 うたびに, それ ら の人間 が 神の国では次の よ うになることを断われたのだ。 辛 なるかな 心貧 しき人 天国は彼 等の ものなればな り。 辛 なるかな 泣 く人 彼 等は慰 め られ るぺけ31ば な りO だが 人 々の永遠 の同伴者であ るには,ど うすれば よいのか

」(『イエスの生涯』第七章) こ うして苦 しむ者の永遠 の愛の同伴者 た らん と願 う作 中のイエスは己が道 を進 んでゆ く。 その道 とは徹底的な無 力さの中で唯愛す るがために人間 の苦痛 のすべ てを 自分 に背負 って人 間 のために 自分 の命をかけ ることであ った。 遠藤 氏の作品構想の中にみ られ る一 つの特徴 ともいえるこのイエスの愛 の無力 さと,完全

(3)

清水 :「神の証 し」と日本人 な敗北 ともみ える悲惨 な愛に よる死に,現実的効果 のみを求 めていた民衆 の期待は完全 に裏 切 られたO そ こにはか っての力あ るイエス,聖書 の中に も窺 える威厳 あ るイエスの姿は微 塵 もない。 2 無力な愛の効果 あか 遠藤氏の この よ うな無力な愛 の同伴 が,実際に人 々の心に愛 の神の証 しとして どん な効果 を もた らし得 るのか,現実のみを求める人 々の心 に永遠 なる ものを伝 えることがで きるので あろ うか。 『死海 のほ と り』 の中にアルパ ヨとい う男が出て くる。彼 はか って熱病 に うな され,身 内 か らさえ も見離 され なが ら,一人で死 なせ ないで くれ と叫び哀願 していた。 そ してある 日, あの人 (イエス) は一人で小屋にや って来て, アルパ ヨが必要 とす る身 の廻 りの世話 をすべ て し,彼 が眠 る まで じっ と横に坐 っていた。彼 が熱に うな され悲鳴 ともつかぬ声 を あ げ る と, あの人は小 さな声で 「そばにいる。 あなたは一人ではない。」と言 った。 その声 は昼 も夜 もアルパ ヨの頭 のなかで聞えていた。 こ うして 「体 が よ うや く快復す る と,彼はあの人に従 う男女の群 に加わ った。」 その後 イエスの生涯 が終 りに近づ き身 の危険が迫 った時, 多 く の●●●●●●●●●● 人 々は, この愛す るだけで何 もで きぬ無力な男に期待はずれ して彼を見捨 ててい ったC が, アルパ ヨほイエスを 「駄 目な男」 と知 りなが らそれで も彼を捨 て去 り得 ないで,恐怖 の うち に も,捕 え られたイエスのあ とを遠 くか ら隠れて, 力 な くどこ まで もついてゆ く。「一 度 あ の人を知 った者は, あの人を棄 てて も忘れ ることはで きぬ」 とい うことを アルパ ヨは よ く知 っていたのだ, と著者は言 う。 これ と同 じ 師イエスか らの離れ去 り難 い心情 について,『イエスの生涯』の中で も,弟子 達 はイエスに対す る期待を半ば失 っていなが ら,「しか し彼等はなぜか この無力な師 を 棄て られ なか 7たのである。」と記 している. 結局, アルパ ヨや弟子達 に代表 されて, この無 力な しか し愛深い同伴者 なるイエスに不思 議 な魅 力 と愛着を感 じていたのは,他 な らぬ著者 自身 であ った といえ よ う。 しか し,何故 イエスは作家遠藤 氏に とって無 力で なければ な らなか ったのか。彼 はイエス に よる永遠 の同伴者 としての愛 の神の証 明について

,

『イエスの生涯』 の中で更につづけて, 奇蹟 な しの徹底 した無 力 さの中に愛 の神 の最高 の存在証 明があ る といい,受難 との関 りにお●●●●●●●●●●●●●●■●■●●●●●●●●●●●● いて更に突込 んだ説 明を してい る。 彼は次 の よ うに言 ってい る。「それ らの人間 たちの苦 しみを分 ちあ うこと。-諸 に背負 うこ と。彼等の永遠 の同伴者になる こと。」そ して, それ は人 々のために命 をかけ ることだ った。 その死は永遠 に人間の愛 の同伴者 となるため,愛 の神 の存在証 明をす るためであ ったか ら,イ エスは最 も惨 めな死をえ らび,人間の味わ うすべ ての悲 しみ と苦 しみを味わわねは な らなか った し,又 それ が,人間 の悲 しみや苦 しみを分 ちあ うことであ り「そばにいる」と言え る道 で あったか らだ と説 いてい る。即 ち,苦 しむ者 に とっては苦 しみ の体験者 こそ最 もよき理解者 であ り同伴者であ り得 るのであ って,遠藤氏は,十字架で無力であ ることに よってイエスは (7) 愛 の シンボルに,愛 その ものにな ってい った, と,その愛を肯定す ることがで きたのであ る。

(4)

従 って著者に とって,愛の神の存在証明をす るた釧 こはイエスは無力でなければな らなか った し, この無力は偶然の無力ではな く,有意的必然的な無力であることが肯定 され るわけ である。 そして愛す るが故に無力であること,無力であるが故に苦 しむ こと, この共に苦 し む ことこそ愛の神の最高の証明の道であ り,愛そのものの最高の表現 とな り得 る と言お うと してお られる。 3 無力の背後にあるもの 実際に聖書を読む と,イエスはその生涯中無力ではな く,力ある者 として,神の権能を多 くの奇蹟を通 して示 した と記 されているし,遠藤氏 も受難以前のイエスについてそれを認め (8) (9) ている。ただ,イエスはその権能を無意味に乱用 しなか った し,む しろこの世を去って父の み もとに 行 くべ き自分の時が来た ことを悟 られた時 (ヨ-ネ

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3

の 1), その苦難に際 して徹 底 して無力の道を歩 まれた。「つ ま りイエスが 捕え られて息を引 きとる までイエスは 何一つ 行 えず,何一つ行わず,神 もまた彼に現実的な助力や救済をなされ なか った よ うに我 々には 見えるこ とだ

」 (『イエスの生涯』第十二章) と遠藤氏が書かれた通 り,結果的には全 く無 力な者 として群集に咽 られなが ら,遂に十字架上で聖なる死を遂げ られたのである。 しか し 聖書におけるイエスに とってほ,奇蹟が行えなかったのではな く行わなか ったのであるが, 遠藤氏は このイエスの無力な終末に注 目して, その無力さの結果である苦 しみ と惨めさを甘 受 した 神の子の現実の中に愛の神の証を見 ようとしたのである。故に彼に とって も,神の子 イエスの無力 さは神理解の結びではな く,更に深い神愛の探求の入 口であった といえる。何 故 な ら,神の権能を隠された無力 さの曹後にある神の意志の正確な把握に こそ,神観の形成 上最 も大切な要素がひそんでいるか らである。 『イエスの生涯』の終 りの方で,彼は次の よ うに述べている。 「我 々が生 きている問神を把え られぬ ように,弟子たちに とってイエスはふ しぎな人だ ったのである。彼の生涯は愛に生 きるだけ とい う単純 さを もち,愛だけに生 きたゆえに, 弟子たちの眼には無力な者 と うつ った。 だがその無力の背後に何 がか くされているかを彼 等が幕をあげて覗 くた削 こはその死が必要 だったのであるo」(『イエスの生涯』第十三章) しか し,十字架上で, 自分を見棄て裏切 った者たちを尚愛そ うと必死の努力を続けたイエ スが,その苦痛 と死において沈黙を守 りつづけている神に対 して も全面的信頼の言葉を咳 き なが ら息を引 きとった ことについて,弟子達 が受けた烈 しい驚博 と衝撃は

,

「まことに この人 は神の子な り

」 (マタイ27の54)とい う感歎の叫びをその 口か ら発 させ るが, ここに至 って 漸 く, イエスの中に人間を超えた永遠 なる者の力 と業が肯定 されは じめる。「無力だった師。 だが奇蹟や現実の効果な どよりも, もっと高 く, もっと永遠であるものが何であるかを, こ の時,彼等はおぼろげなが ら会得 したのである

」(

『イエスの生涯』第十三幸) とい う表現 の中に, この作中の弟子達 と共に, 日本人 としての著者 自身の神-の接近を窺い見ることが で きる。 即 ち著者がここで見出 した ことは,理論や説 明に よるのではな く,無力がもた らした極限 的弱 さの中のイエスか らあふれ出る,愛の同伴における一つの真実に触れた時の,直感的体

(5)

清水:「神の証 し」 と日本人 験 的 な悟 りであ った といえるのではなか ろ うか。

同伴 思 想 の聖 書 的 源 泉 永遠 の愛の同伴思想は,遠藤氏が聖書を源泉 とし,- 日本人 としての心 でそれを読 んで理 解 しなが ら自己 の中に形成 してい った神観に他 な らない。 どの箇所 が彼の心 に最 も深い印象 を与 えたかはわか らないが, その同伴思想 と相呼応す る記述は聖書 の中に見出だす ことがで きる。 ヨ-ネ福音書第十三章に, 己が生涯 の最後 の時が近づ いたのを予知 したイエスが, その前 (10) 晩弟子達 と過越 の食事を共に した時, そ こで弟子達 に 「限 りない愛を示 された。」 と記 さ れ てい る。 その晩饗 の席上,イエスは自分が去 った後 に残 され る弟子達 の上 を思 いや って,節 れ去 り難 い切 々たる心情 を吐露 されているが, そ こには, いつ まで も弟子達 と,又人 々と共 に盾 たい と願 うイエスの心, ひいては主 なる神の広 く奥深 い愛 が繰 り返 し表現 されてい る。 それ は,幾重に も深い意味を もってイエスに よって語 られ る,神 と人 々との永遠 の愛 の同伴 であ る。 1 「わた しのい る所 に-わた しとい っ し ょに=・」 「あなたがたのためにわた しは場所 を備 えに行 くのです。わた しが行 ってあなたがたに場■●●●●●●● 所 を備えた らまた来 てあなたがたをわた しの もとに迎 え ます。わた しのい る所 にあなたが●●●●●●■●●●●● たを もお らせ るためです

」 (ヨ-ネ

1

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2-3)

イエスの受難 の時が迫 ると, イエスは 自分 が近 い うちに この世 を去 ってゆ く筈 であ ること を弟子等に何 回か告げ る (ヨ-ネ

1

3

3

3

-3

6

,1

6

5- 7,1

6

1

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2

)

。上 の箇所 は, イ エスが弟子等の傍か ら去 るとい う言葉を聞いて不安 になる彼等に,娩 曲な表現で優 し く教 え さ としている所 である。 「場所 を備えに行 く」 とは,空間的物理的 な意味ではな く, イエス自身 の受難 と死に よる 救 いの業 の完成 のために天の父 の もと-行 く (ヨノ、ネ

1

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8

)

事である。「また くる」 とい う語は, ヨ-ネ福音書第十四章の中に三 回 (ヨ-ネ

1

4

3,1

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,2

8

)

使 われてい るが, イ エスが去 ることを告げ る と不安になる弟子達 を励 ます よ うに その都度 「また くる」 ことを も OlE 告げてお り, イエスの再臨 の出来事を指 してい る。 結局,すべての人の救 いの業が完成 した ら, イエスは再 び来て,永遠 に共 にいることがで (12) きる よ う彼等を ご自分 の もとに迎 えいれ よ うといわれ る。何故 な ら, イエスは受肉 され た地 上 の生涯 と特に十字架上 の購いの死において,人 々が神を知 り,神 のいのちにあずかれ る道 を開いたのであ り, イエス自身 の言葉通 り, イエス こそが遺 ・真理 ・命であ って, その道 を 通 る以外に救いの実現はあ り得 ないか らであ る (ヨ-ネ

1

4

6)

。 そ して, イ エスが 「行 っ て

「また来 る」 その 目的は「わた しのい る 所 にあなた方を もお らせ るため」で, 同書十七章 二十四節に もイエスは同 じことを祈 りの形 で再 び表現 している。 「父 よお願 い します。 あなたがわた しに下 さった ものをわた しのい る所 にわた しとい っし●●●●●●●■●●●●●●● よにお らせて下 さい 。」

(6)

この よ うなイエスの言葉 は,人 の死 が生命 の終 りではな く新 しい生命 の始 ま りであ り,刺 しい生命 とは神 と人 々の永遠 の愛 の同伴 を意味す る ものであるこ とを示 してい る といえる。

2

「助け主が・-あなたがた とともに

「あなたがたの うちに

イエスは又,終わ りの 日のイエスの再臨 の前に別 の形 の同伴 があることについて も語 って い る。 「わた しは父にお願 い します。 そ うすれば父は も うひ と りの助け主をあなたがたにお与え●●●●●●●●● にな ります。 その助け主がいつで もあなたがた とともにお られ るためにです。 その方は真 理 の御霊です。世 はその方を受 け入れ ることがで き ません。世 はその方を兄 もせず,知 りも しないか らです。 しか し,あなたがたはその方 を知 ってい ます。 その方はあなたがた とと もに住みあなたがたの うちにお られ るか らです●●■●●●●●●●●●●●●●● 。」(ヨ-ネ

1

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-1

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)

この「助け主」 の原語「パ ラク レ トス」 は元来受動態的意味で 「援助者 として呼ばれた者」 だが,法律的用法 の弁護人を意味す る ことは稀で,一般にはむ しろ 「人 のために語 る者,執 (13) 成者,慰め手,助け手 (主)」 を意味 し, ここでは聖霊について用 い られている。

霊 が遣 わ され ることは ヨノ、ネ福音書の他の所 に も約束 され ているが (ヨ/、ネ

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,1

5

2

6

,1

6

7-1

5

)

, これは聖父 と聖子が送 る真理 のみ霊で, イエスが地上を去 られた後, こ の 助け 手 なるパ ラクレ トスが この世 のつづ く限 り弟子達 と共に留 り, イエスに代 って弟子達 の地上 の生活での力 と光 と慰めの源泉 とな り,真理 の導 き手,愛 の同伴者 となることを意味 してい る。 しか し, このパ ラク レ トスは弟子達 を この世では全 く知 られぬ方法で導 く.何故 な ら

r

世 はその方を兄 もせず知 りもしないか ら」 であ る。イエスはつづけて言われ る

「しか し あ な たがたはその方を知 ってい ます。 その方はあなたがた とともに住みあなたがたの うちにお ら●●●●●●●●■ ●●●●●●●●● れ るか らです

」 (ヨ-ネ

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1

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ここに聖霊 の 神秘的な内在に よるイエス と 弟 子達 との 永遠 の親密な生 きた交 りとい う愛 の同伴形式 があることが示 されてい る。 又, この助け主 の派遣 は, イエスが弟子達 か ら完全に離れ て し まうことではな く,す く、、そ のあ とで 「わた しはあなたがたを捨 てて孤児には しません。わた しはあなたがたの ところに 戻 って来 るのです。」 (ヨ-ネ

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と言 うよ うに,真理の聖霊 の派遣 の前 に栄光 の復活 (14) 体 を もって弟 子達 の前 に姿を現 され, それ に よって彼等はイエスの復活 のいのちに与 ってい る ことを確信 させ られ るのである。 3 「わた したちは-その人 とともに」 前述 の内在的神の同伴は,更に奥深い真理を含む ことがあ とにつづ くイエスの語に よって 示 され る。 「い ましば らくで世 は も うわた しを見な くな ります。 しか しあなたがたはわた しを見ま す。 わた しが生 きるのであなたがた も生 きるか らです。 その 日には,わた しが父にお り あなたがたがわた しにお り わた しがあなたがたにおる●●●■●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●● ことが あなたがたにわか ります。」(ヨ-ネ

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0

)

この受難 が切迫 した最後 の晩に, イエスは弟子達に別れ の挨拶 ともとれ る言葉を残 しなが

(7)

清水 :「神の証し」 と日本人 ら,一皮 も "死 " とい う語を使 っていない。 その逆 に, イエスは この世 を去 ることに よって 生 きる と説 明 してい る。 これは,死 が新 しい生命 の開花であ り, この命はイエスに よって到 達 の道 が開かれたか らであ る。死んだ ラザ ロを よみがえ らせ よ うとした時イエスはその姉妹 マル タに言われた。 「わた しは よみがえ りです。 いのちです。わた しを信 じる者は死んで も生 きるのです。 また生 きていてわた しを信 じる者 は決 して死ぬ ことがあ りません。 この ことを 信 じ ま す か

」 (ヨ-ネ 11の25-26) この間に対 して彼女はイエスに答 えた。 (15) 「はい。主 よ。わた しはあなたが世に来 られ る神の子キ リス トである と信 じてお ります。」 (ヨノ、ネ 11の27) つ ま り,救 い主イエス ・キ リス トがその業を終 えて生 きる時は, そのイエス ・キ リス トに よってすべての者 が生 きる時であ る。 そ してその生 きた時には じめて, イエスは神 なる父 と 一体であ り,我 々は父の子 なるイエスに結 ばれた もので, その神 と一体であ るイエスが我 々 に留 まる とい うことは我 々人類 が神の生命 に入れ られていることで, その時私達 は,至聖三 位 の奥深い愛 と永遠 の生命 の交わ りの中に入れ られた至福なる自分達 を見出だす のであ る。 しか もイエスの言葉 に よれば, この よ うな至福 なる永遠 の愛 の生命 におけ る神 の同伴 は, 来世 だけの ことではな く,現世 において既には じま り得 ることがわか る。 「だれで もわた しを愛す る人はわた しの ことばを守 ります。 そ うすればわ た しの父はその 人を愛 し,わた したちはその人 の ところに来てその人 とともに住み ます。」(ヨ-ネ 14の 23) 即 ち, この世か らは じまる至聖 なる三位 の神の永遠 の愛 の同伴は愛に よっては じ ま る こ と,又愛は愛す るものの言葉 を実現す ることに示 され るのであ り, その時に三位 の神 (わた したち) はその人 の うちに愛 の庵 を結 んで永住す ることを意味す る。現世 には じまる三位 の 神の神秘的な内在に よる愛 の同伴である。 4 「いのちのパ ン」 イエスの人 々との同伴 の願 いは, この神秘的 な内在 に よる一致 に止 らず,更に具体的 な形 に よって多 くの人 々に近づ き共 に留 ることを望 まれた。 それ が同 じ最後 の晩饗 におけるイエ スに よる聖体 の制定 (コ リン ト前 書 11の23-26)であ った。遠藤 氏 も言われ た

,

「聖 体 の 制定 も, イエスが死後 も永遠に人間の同伴者であ りたい とい う願 いか らであ った

」(

『イエ スの生涯』第十章) と。「いのちのパ ン」 (ヨ-ネ

6

4

8

)

であ るキ リス トは, 自らを人 々 の食物 として与 えることに よって, それに与 る人 々を永遠 の生命 と三位 の神の親密な交わ り の中に招かれたのである (ヨ-ネ

6

5

4

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)

。 神 の人類に対す る真実の愛は,人 の 目には愚かな までに うつ り得 る この事実 に行 き着か ざ るを得 なか った, といえる出来事である。 以上簡単にではあるが,聖書 の中か ら汲み とれ る同伴思想をあげてみ たが,遠藤氏の著書 にみ られ る同伴思想は前述 の聖書 が示す奥深 い神秘的 な神の至福 内在 まで も意味 してはいな

(8)

い よ うである。む しろ遠藤氏のイエスは,現実の多 くの人間が必要 としている精神的な孤独 あ か し か らの救済を通 して神の愛を証 しよ うとしてお り, そこか ら永遠 の愛の同伴 とい う思想が生 まれて来ているか らである。故に

神の国』一人間の同伴者の存在に よる愛の世界一」とい ラ,一見人間の甘え とも受け取 り得 る定義が出て くるのであるが,遠藤氏 もこれですべて よ しとは してお られ なかったであろ う。何故な ら 『イエスの生涯』の最後の章では,大 きな謎 を残 したままで記述が終 っているか らである。

も う一 つ の 日本 的 神 観 『神 の痛 み の神 学 』 (16) 日本的神観の一つ として興味深い ものに,北森嘉蔵氏に よる 『神の痛みの神学』がある。 こjlは今か ら三十年以上を潮 る,昭和二十一年 (1946)頃に執筆 された ものであるが,西欧 の神学者の間では早 くか ら評価 され反響を よんでいたのが, 日本国内では最近になって漸 く 注 目され るよ うになった。遠藤氏の作品 とは全 く色彩 の異なる著書であるが, よく読んでゆ くと神観の形成途上で両者に何か通ず るところがある ように思われ る。 (17) 北森氏に よれば

,

「神の痛みの神学」 とは実は 「神の痛みに基礎づけ られ し愛の神学」を意 味す る。

神の痛み」 とは

,「

神の愛に一旦既に伴いている者-の愛」であ り

,

「神の怒の対象を愛 せん とし給 う神の御心」である。神は 「包むべか らざるものを包み給 うが故に」 ご白身傷つ き痛み給 うのであるO従 って神の痛みはゆるLであ り 「我 々罪人の政のために, その独子を 苦 しみ と死 との中に送 り給 うた」その神の御心 こそ神の痛みである, と述べ られ, - レミヤ とパ ウロの途を辿 って 「神の痛み」を探求 された。 この北森氏の説は "日本人に よる 日本的なるもの" とい う画か ら非常に興味深 く,今道友 (18) 信氏 もその著 『東西の哲学』の中で比較研究の一部に とりあげ られた。 「私が先ず注 目したい ことは,北森の この考-ほ啓示 としての聖書に基づいている点で は上 よりの恩寵を認める西洋型の宗教であるが, その恩寵の理解の仕方は,人間の愛憎の 倫理 の変容に よるものであ り,東洋型の宗教の特色ではないか, といふ ことである。断絶 の結合が人間心理 としての痛みを軸に営 まれ るところが面 白 く, それがキ リス ト教 の教義 的展開に 日本的宗教の倫理変容が役立 った証 しである。 また,次 ぎに注 目すべ きことは,北森が痛みに注 目した点である。 (中略)いかに よ く 読 んでいて も,特に印象に残 る言葉は,その人の個性 と関はるものがあ り,その個性は ま たその人の精神的風土 と関は り, その限 りでは地域的な文化の伝統 の影響を受ける可能性 もな しとしない。 キ リス ト教の深い限づげを宣教の 目的 とす る彼は,『日本の こころを探 求 して,先ずそれを庶民の心に求むべ きことを信 じ 次 ぎにその庶民の心を 日本の古典演 劇 の中に見 ようとした』 。」(『東西の哲学』192頁) か くて北森氏は

,

「国人のこころ」を代表す るのは 「庶民のこころ」であ り,その庶 民 の こころが最 もよく表現 されているもの として戯 曲文学を と りあげ られ, そこにある人間悲劇 の根本性格を人間関係の悲劇か ら生ず る 「つ らさ」 と捕え

,

「相対老なる人間の最 も深 い 姿

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清水 :「神の証し」と日本人 を 『痛み』において見た 日本のこころは,絶対者 なる神の最 も深い姿を 『痛み』において見 るであろ う

」 (『神の痛みの神学』209頁)と言われたのである。そ して 日本 と い う 「住 属 の (19) 界」に置かれた我 々が,その文化 と風土 と伝統の中で神の姿を把握 し神観を形成す るに当た って,痛み-の感覚 とい う民族的特性を最高に生か してゆ くことを試み られたのである。 結局,『神の痛みの神学』において著者が意図 された ことは, 人間 自身 の 痛みを通 して

あかし の痛みに基礎づけ られ し愛を証す ることであった。 そ して,人間の精神的経験 の中で痛み こ そが最 も尊 く深い ものであ り,一方福音 の内容たる神の痛みが人間の痛み と呼応す るもので あか し あったか ら,人間の痛みが 「敦の音ずれの証」 とな り得た (同書227頁) と述べ,か く て 北 森氏に よれば,人間の事柄を もって証 された 「神の痛み」は,更に我 々に十字架の愛を証す るもの となるのである。 Ⅴ 二 つ の神 観 の比較 さて,遠藤氏がその作品を通 して追求 された 「無力なイエスに よる永遠 の同伴者 としての あか し あか し 神の愛の証」 と,北森氏の 「神の痛みに基磯づけ られた十字架の愛の証」 とには, どの よ う な類似点を見出 し うるのか。 神の愛は北森氏に よれば 「神の痛み」であ り,それは直接的な 「神の愛」を否定的媒介契 機 として自己の中に止揚 しているもので 「神の愛」 よ り一段高次の ものである。だか らこそ●●●●●■●●●

神の痛み」は十字架の愛を証す るものであ り得るのであるが, この考 えは遠藤氏の,愛す るが故にイエスは無力 となって苦 しみを受けねばな らなか ったその必然性 と, "餐"の理解●●●●●●●●●●■●●●●●●●●●■●●●●●●● 及 び受容形式 とい う面で共通す る所があるように思われ る。 ここに も, 日本的民族性に よる 神理解-の過程の特徴 がおのずか ら表れているのではなかろ うか。「十字架で無力で あ るこ とに よって-愛その ものになっていった」 と遠藤氏に よって表現 されたイエスの無力 さは, 日本人たる彼に とって まさに必然的な無力さであった し, その必然的な受難をの りこえて示 された神の愛は,更に切実 さと透 明さを もって人の心に訴えて くるのである。更に,最壁の 聖子イエスを,人煩の愛のた削 こ苦難に送 った聖父 なる神のみ心 こそ,北森氏に よれば 「神 の痛み」すなわち神の愛の最高の表現であ り, ここに,痛み,苦 しみを軸 とした神愛の理解 様式が見 られる といえる。 これを更に考察 してゆ くと,両者の表現の仕方,言葉の使 い方は異 なるが,やは りその根 底には 日本の民族的な精神構造 よ りなる発想がその主流をな していることは否めない よ うで ある。 今道氏が 『東西の哲学』の中で言われ るように, 内在造化 しかない 日本に超越創造の宗教 が入 って来て生ず る接触の可能性が,多分に西洋の宗教 と日本の倫理の接触 とい う型 として 考え られ るとす るな ら,北森氏が 日本に於ける古典的演劇 の中に見 られ る人間関係の悲劇 の 中心的パ トスを 「つ らさ」 とし, トマス的な存在の類比ではな く,痛みの類比において神の 最 も深い姿を 「痛み」 と見た ように,遠藤氏の場合 も同 じく, 日本の倫理に見 られ る,苦難 を耐え忍ぶ ことに よって示 され る愛の証 しの類比の道を辿 っているよ うに思われ る。人間関

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係においては度 々,事 の結果 よ りもその過程におけ る犠牲的奉仕 の姿勢 が人の真実の愛 の証 しとなる よ うに,奇蹟で も病 の治癒 で もな く, た とえ何 をな し得 な くて も, その愛故にすべ ての苦 しみを甘受 しなが ら人 々に仕 え,必要 としているすべての人の愛の伴侶 とな り,遂に はそ こに命をかけ るイエスの姿に,愛の神 と神の愛 の証 しを見 よ うとしたのであ る。 両 氏が同 じ日本人 として,神学 と文学 とい う二つの異 った面か ら神観の探求 の歩を進めな が ら,意図せず して同 じ様 相に到達 してゆかれ る ところが興味深い。

日本 人 と神 理 解 以上 の ように, 日本人が宗教 としての神を把握 しよ うとすれば,一応西洋型 の思考形態に 基づ く宗教を受け入れたつ も りで も, ど うして もその民族性か らくる人間関係 の倫理 が 日本 人的神観 の中に反映 して くる し,従 って民族的な倫理 のあ り方か ら類 比的に神を理解 してゆ くことの方が,西洋的な論証 に よる よ りももっと日本人の心に身近に感 じられ るのか もしれ ない。 又,「百聞は一 見に しかず」 とい うが,優れた抽象的理論 よ りも一度 の体験 的悟 り の 方が 一般 の 日本人に とって造 かに効果的な理解 と受容の道であるか ら,超越創造 の世界の高度 な 現論 もさることなが ら, 内在的 な体験 のLtf一界に よる証 明の方 が, その よ うな精神構造 の地盤 の上には造かに受け入れ られ易いのではなかろ うか。 日本人の霊性には, かな り匿感的な面がある といわれ るが, そこには, 日本人の長 い歴史 と風土に よって養われた,分析 よ りも融合を,理論 よ りも経験 を,類推 よ りも匿感を好む傾 向にある民族的な精 神構造 があ ることを見落 としてほな らないであろ う。何故 な ら, 日本人 は多 くの場合, 神を知 らず して既に神を直感 しているか らであ る。

む す び 以上 の よ うに, 日本人 としての遠藤 氏の文学的領域 におけ る 日本人的 な神理解の努 力は, 北森氏の独 自な神学体系 と相供 って記録 され るべ き業績 といえるが, その神観は未だに我 々 に説 き明か されねばな らない大切 な部分を残 している よ うに思われる0 その一つは,彼 も述べ てい る通 り,何故あれほ ど惨めな死を遂げた一人の人 が,一度彼を 見棄てた弟子達 か ら救 い主 (キ リス ト) として考 え られ崇め られ る よ うにな ったか, とい う (20) 問であ る。永遠 の愛の同伴 の思想 は聖書の中か ら出て来 ることではあるが,遠藤氏 に よる永 遠 な る愛 の同伴者 の概念は,神観 とい う面か らその根本的 な所 で或 る足 りない ものを感ぜ ざ るを得ないO溺れ る者 と共に溺れ る同伴者ではな く,救 出す る使命を もってそれに愛 と命を かけ, その業を全 うしたのがキ リス トであ る。 現実にキ リス トを信 じる者に とって, イエスは単 なる愛 の同伴者ではな く, 人類 の罪に よ る神 との断絶 の淵か ら我 等を救 い出 した神 の子であ る。 イエスの弟子ペ トロが 「あなたは生 け る神の御子 キ リス トです(マタイ 16の16)。」と宣言 した "救 い主 なる神の子 イエス ・キ リ ス ト"の概念を, "愛 の同伴者 としての無力なるイエス" との係 り合 いにおいて, 日本人 と

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清水 : 「神の証 し」 と日本人 ll して の民族 的精 神構 造 の 中で どの よ うに解 明 して ゆ くか, これ が 今後 の遠 藤 氏 に, そ して我 我 す べ て の 日本 人 に残 され た課 題 で あ る とい え よ う。 註 (1)遠藤周作 『イエスの生涯』(新潮社,1973)P.60-P.61,p.80参照O表題 「神の証 し」の語は ここ か らとった. この書は,イタ リア語訳版 に よ り,国際 ダグ ・-マ-シ ョル ド賞受賞。 (2)遠藤周作 『沈黙』(新潮社,1966)。1976年,ポーラン ドの ピエ トロザ ク賞 を受賞。 (3)遠藤周作 『死海のほ と り』(新潮社,1973) (4)遠藤周作 『番夜の館』(新潮社,1969) (5)注(1)に同 じ。 (6) 『イエスの生涯』 P.112参照。 (7)同上, P.210参照。 (8)同上, P.215参照。 (9) 『堅福音書』の 「荒野の誘惑」 の項 (マタイ4の1-ll,ルカ4の1-13)参照。 (10 - プライ人が,エ ジプ トにおける強制労働か ら解放 されたエジプ ト脱出を記念す る過越 の 祭 りの 時,イエスの時代には,モーセの律法に忠実なユダヤ人が,過越 の小芋をほふ り食す るために,エル サ レムに集 まっている。 ㈹ ヨ-ネ福音書14の18では,復活体 のイエスの再臨を意味す るが, こ ゝで は終わ りの 日の再臨を指 し, これは初代教会に与えられ,現代教会 まで受けつがれた約束で,使徒′くウロもイェスが天か ら下 って来て人 々を集め,いつ まで も主 とともにお らせて くだ さることを 「主のみ ことばの とお りに」 テ サ pニケの教会に伝えている(Iテサ ロニケ4の15-17). (1う 肉体的存在,つ ま り人間になった ことを意味す る (≡-ネ 1の14, ピl)ピ 2の6- 8参照). 8う 聖書に 「もうひ とりの助け主」 とあるのは,同 じ語パ ラクレ トスが,キ 1)ス ト自身について も弁護 して くだ さる方の意味で用い うるか らで (Ⅰヨ-ネ 2の 1),聖霊 と聖子 との位格的区別を示すため であると思われ る。 (14 ヨ-ネ福音書20章,21章参照。 (19 「キ リス ト」はギ リシャ語で 「油注がれた者」 の意。 旧約時代に王位に着 く者 に油が注がれたが, こゝでは神なる王救い主を指す。 メシアはその- プライ語。 (16) 北森嘉蔵 『神 の痛みの神学』,1946年初版発行, その後再版を重ねたが, 1981年講談社版が発行 さ れた。尚, 対談 「愛の日本的構造」(雑誌 『国文学』第26巻5号)では, 北森氏の思想の重要点にふ れ られている。 は らわた (17) 北森氏の 「神の痛み」 とい う語は,- レミヤ書31の20のhamtlmeCaiの訳 「我が腸.・-.痛む」か ら とられた ものだが,原語h豆m豆hは 「鳴 りひび く」 とか うめ き悩む心の痛む ことを示す-プライ語 の動詞で,現在いろいろな異なった訳 し方がある。 「わた しのは らわたは彼 のためにわななき-」(聖書刊行会) 「わた しのこころは彼を思 ってふ るえる。」(パルバ ロ)

rsehanconmobidomisentra五as-」(BIBLIA DE JERUAL丘NIDDB)

住専 今道友信 『東西の哲学』(TBSブ リタニカ,1981)第五章第八節 「存在の煩比 と痛みの類比」参照0

89 使徒 行録17の26-27参照。パ ウロがアテネのア レオパ ゴス (大審院)に立 って説教 した中に出て く

る言 葉で,人間生活の環境的空間の限定を意味 している。

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〔その他の参考文献〕

新潮現代文学A

1

『遠藤周作』(1978)

いのちの ことば社 『新聖書注解』(1973)

山本書店 『希和対訳脚註つ き新約聖書4B』(1982)

参照

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