課程博士学位請求論文『河上肇研究―日中経済思想交流史からの考察』概要
早稲田大学大学院経済学研究科博士後期課程2003年3月退学
日本学術振興会特別研究員
三田剛史
序章では、先行研究を検討し本研究の意義と方向性を打ち出した。総じて従来の河上肇 研究は、日本における先駆的なマルクス経済学者として、あるいは実践に敗れ志半ばで倒 れた求道者として、一人の人間を描くことにほぼ終始しており、河上肇の思想的脊梁を描 出するとともに中国への影響まで含めて歴史的位置付けを行うような研究はまだ現れてい ない。序章で打ち出した本稿に於ける河上肇研究の方向性は、次の二つである。一つは、
河上肇の全生涯にわたる著作を読み解くことによって、河上肇の思想的基底とその思想・
学問の独創性を見抜くことである。もう一つは、河上肇が中国に如何なる影響を与えてい たのかを検討し、日本近代だけでなく日中経済思想交流史ひいては東アジアの観点から河 上肇を再考することである。前者は第Ⅰ部(第一〜四章)、後者は第Ⅱ部(第五、六章)
と終章に具体化した。
第一章では、河上肇の経済学探究について考察した。河上肇の経済学探究の道程は、東 大で講じられていた国家学の摂取と、徳川期の経済思想研究から始まった。徳川期経済思 想研究では、日本近世の思想家が近代的ともいうべき経済把握や政策提言を行っていたこ とを明らかにする反面、逆井孝仁の指摘する通り「道徳と経済の調和」ないし道徳のため の経済という経世家の基本的視角を学んでいったと考えられる。また、徳川期の経済思想 が中国古典を重視していることに鑑み、自身も中国古典から経済思想を読み取っていった。
イギリスの古典派を中心とする自由主義経済学については、克服すべき個人主義の経済学 という見方をとり、人道主義と社会主義の経済学を志向した。さらに、マルクス主義から 学びつつ中国古典からも見出した唯物史観にのっとって社会組織の改造を重視するため、
河上肇は社会主義の経済学を主張するようになっていった。
第二章では、河上肇のマルクス主義受容の過程を検証した。河上肇のマルクス主義との 接触は、1904年にセーリグマンの『新史観―歴史の経済的説明』を翻訳上梓したことに始 まる。同書によって河上肇は、「経済的条件が倫理的観念を左右する」という唯物史観を 見出し、マルクスが提唱したものであることを認識しつつも社会主義とは切り離して理解 していた。以後河上肇は、唯物史観ないし経済史観に基づく論説を発表していくが、河上
肇が唯物史観を受容した背景には、中国古典で「恒産なくんば拠って恒心なし」などと表 現される道徳のために経済を確保するという思想への傾倒があった。唯物史観と社会主義 は、河上肇の知的営為の中で長らく別々に扱われてきた。しかし、レーニンの『国家と革 命』などを通じてマルクス=レーニン主義とロシア革命の研究を進めていくと、いわば先 覚者が先導する社会組織の改造としての社会主義革命を志向するようになり、河上肇はマ ルクス=レーニン主義に傾斜していった。また、弁証法的唯物論の習得を契機に実践者へ の道を歩み始めた。
第三章では、河上肇の思想的営為を貫く脊梁、ないし思想的基底を明らかにするため、
河上肇のいう「道学」について探究した。青年時代から晩年に至るまで、河上肇の学的・
思想的営為において一貫しているのは、科学ないし社会科学によって抽象化することので きない人間の精神的範疇を、学的体系に取り込む姿勢である。このような人間の精神的範 疇を追究することを、河上肇は「真個の心学」ないし「道学」と表現した。「道学」によ って河上肇が追究しようとしたのが、「道」ないし「宗教的真理」である。「道」とは結 局、理想社会を形成しようとする人間に必要な道徳や信念であったといえよう。
第四章では、マルクス=レーニン主義に傾斜してからの河上肇の思想にも含まれていた 独創性を抽出するため、その労働観に着目した。河上肇の労働観の特徴が「労働の遊戯化」
にあることは、杉原四郎によって早くから指摘されていた。本稿では、杉原の所説よりさ らに踏み込んで、マルクス=レーニン主義への傾斜の前後で河上肇のいう「労働の遊戯化」
概念の内容に変化があったことを指摘し、疎外からの解放、社会のための剰余価値生産と 消費の享受という観点から共産主義社会における遊戯化された労働を展望していたことを 論じた。
第五章では、書誌的観点から河上肇の著作の中国語訳の実態を究明した。河上肇のどの 著作がいつ中国語訳されたかということに関しては、一海知義と米浜泰英の研究蓄積があ り、本稿もこれを全面的に参照した。本稿においては、先行研究で見落とされていた中国 語訳を新たに見出しただけでなく、翻訳者が如何なる人物であったのかについても調査を 行い、日本留学歴や河上肇との関係をできるだけ明らかにした。また、同時代の中国での 出版物に於ける河上肇の翻訳書の位置付けを確認するため、清末から人民共和国成立まで に中国で出版された社会科学書で、河上肇の著作が占める割合を検証した。これは日中両 国を通じてもおそらく初の試みである。
第六章では、第五章で明らかにした河上肇の中国への影響の書誌的検証を基礎に、主に
河上肇と中国知識人との人的関係と、学的・思想的影響関係について一定の考察を行った。
河上肇の近代中国知識人への影響については、後藤延子、楊奎松らによる李大釗への影響 の研究以外、具体的言及が全く為されてこなかったが、本稿では漆樹芬、毛沢東、王学文 のマルクス主義摂取と河上肇との関わりについて、初歩的ながら論及した。李大釗につい ても、新村運動やラスキンへの関心という新たな観点から、河上肇との共通性を論じた。
終章においては、河上肇の歴史的位置付けを行った。20世紀初頭の日本において、官学 としての国家学的経済学と経世家の視角を出発点として経済学探究を開始し、社会問題顕 在化の中で自由主義経済学を克服すべき個人主義の経済学として退け、社会主義への志向 を明確にした。ロシア革命とコミンテルンの圧倒的影響の下で、マルクス=レーニン主義 に傾斜していった河上肇は、思想的伝統を背負った知識人がマルクス主義者へと転化して いく過程を中国の知識人に対しても示した。
河上肇の思想的基底を「道学」と規定し、中国古典に由来する思想的伝統の影響を受け つつ、逆に近代中国に影響を与えたという河上肇の全体像を描出したのは、本稿(ないし 本稿の基礎となった拙著『甦る河上肇―近代中国の知の源泉』〈藤原書店、2003年1月〉)
が初めてであると考えられる。本稿ではさらに、河上肇はなぜマルクス=レーニン主義を 受容したのか、河上肇はなぜ中国知識人のマルクス=レーニン主義受容の媒介となり得た のかという問題の思想的原因を、中国古典に由来する思想的伝統に求めた。またそれが革 命やプロレタリアート独裁を、河上肇がほとんど無批判に支持することになった理由でも あったことに触れた。そして、河上肇の思想的営為とその影響が日中経済思想交流史に明 確に位置づけられることを明らかにした。