早稲田大学審査学位論文(博士)の要旨
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(2) 博士(社会科学)学位申請論文審査要旨 孫倩著『清国人留学生の思想と行動― 早稲田大学出身者を中心に―』 一、本論文の主題 本論文は、表題の通り、早稲田大学で学んだ清国人留学生の思想と行動とを研究したも のである。周知のとおり、早稲田大学は早くから清国人留学生を受け入れており、統計に よれば、明治 36(1903)年に 27 名、明治 37(1904)年に 26 名、明治 38(1905)年に 16 名、明治 39(1906)年に 518 名、明治 41(1907)年に 889 名、明治 42(1908)年に 810 名 の在学生がいた。 明治 39(1906)年から急増するのは、清国政府が長年続けてきた官吏登用試験の科挙を 1905 年に廃止し、海外留学を勧めたからであり、またそれに呼応して早稲田大学が同年、 清国留学生部を設置して、留学生を多数受け入れるようになったからでもある。 この清国留学生部は明治 42(1908)年に閉鎖されたが、その間の卒業生数は、予科(1 年制)775 名、師範科(2 年制)280 名、研究科(1 年制)80 名であった。 早稲田大学で学んだ留学生たちが母国に帰り、各界各方面で活躍し、革命を引き起こす 有力な原動力の一つになったことはよく知られており、すでに専門の研究論文、研究書が 多数存在する。ただし先行研究の多くは、情報収集が困難な時代の産物であり、しかも著 名な人物に焦点を絞って、総論的に論じたものが多かった。 幸い、早稲田大学には、清国留学生部に学んだ留学生たちが、帰国するにあたって作成 した『鴻跡帖』と題する揮毫帳 7 冊が残っており、総勢 278 名(来賓 47 名を含む)が詩文 や書画を書き残している。 この『鴻跡帖』は、清朝末期の清国人留学生たち 230 名余の思想と行動を窺うことので きるものであって、早稲田大学史の研究にとってのみならず、清朝末期の留学生の思想と 行動を知ることのできる貴重な史料と言わねばならない。 従って、この『鴻跡帖』に論及した研究は早くから数多く存在するが、清朝時代特有の 文語体と個性のある読みづらい筆跡とが障害となって、 『鴻跡帖』全体を丹念に分析したも のはなく、また留学生たちが卒業後どのような進路を選び、どのような活動をしたのか、 これを追求した研究もほとんどなかった。 茲に見る所あり、本論文著者は只管『鴻跡帖』の解読に取り組み、また中国の地方志類 を精査して、卒業生の進路を追跡、彼らの思想と行動を分析した。それが本論の骨子であ る。 二、論文の構成 本論文は全体を、第一部「清末における日本留学」、第二部「清国人留学生の思想」、第 三部「清国人留学生の帰国後の行動と役割」の三部に分け、第一部には第一章「日本留学 概説」と第二章「清国人留学生の教育機関」の 2 章、第二部には第三章「清国人留学生と 1.
(3) 雑誌『河南』」と第四章「史料『鴻跡帖』から見る清国人留学生」の 2 章、第三部には第五 章「清国人留学生たちの帰国後の行動」と第六章「清国人留学生の役割」の 2 章を配し、 これに序章「近代中国人留学生研究の現状と本論の目的・構成」と終章「本論の総括と今 後の課題」を付している(全 430 頁)。各章の細目を掲げれば、以下の通りである。 序章 近代中国人留学生研究の現状と本論の目的・構成 第一節 近代中国人留学生研究の現状 第一項 近代中国人留学生に関する先行研究 第二項 早稲田大学出身の近代中国人留学生に関する先行研究 第二節 本論の目的とその構成 第一項 本論の目的 第二項 本論の構成 第一部 清末における日本留学 第一章 日本留学概説 はじめに 第一節 日本留学の背景 第一項 アメリカへの留学生派遣 第二項 ヨーロッパ諸国への留学生派遣 第二節 日本留学の経緯 第一項 日本側の働きかけ 第二項 中国側の動き 第三項 清国人留学生数の推移 おわりに 第二章 清国人留学生の教育機関 はじめに 第一節 清国人留学生教育の諸学校 第一項 教育機関の種類 第二項 創立形態 第三項 創立時期 第四項 各学校の紹介 第五項 小括 第二節 早稲田大学清国留学生部 第一項 清国留学生部の開設と教育方針の確立 第二項 清国留学生部の講師陣と生徒による評価 第三項 清国留学生部の閉鎖 第三節 法政大学清国留学生法政速成科と早稲田大学清国留学生部の比較 2.
(4) 第一項 教育方針 第二項 設置科目 第三項 人材養成 第四項 入学者・卒業生数 おわりに 第二部 清国人留学生の思想―雑誌『河南』と史料『鴻跡帖』から見る― 第三章 清国人留学生と雑誌『河南』 はじめに 第一節 雑誌『河南』について 第一項 『河南』の位置づけ 第二項 『河南』の創刊者たち 第三項 『河南』の中身 第四項 『河南』の投稿者たち 第五項 投稿論文の紹介 第二節 投稿論文から窺う清国人留学生の思想 第一項 政治論文について 第二項 文学論文について 第三項 河南省の諸問題にかかわった論文 第四項 その他 第五項 『河南』から見る留学生の思想 おわりに 第四章 史料『鴻跡帖』から見る清国人留学生 はじめに 第一節 『鴻跡帖』の由来 第一項 書名の由来 第二項 原稿募集の記事 第三項 銭恂による解説 第四項 楊枢による解説 第二節 『鴻跡帖』の揮毫者と揮毫 第一項 第一冊について 第二項 第二冊について 第三項 第三冊について 第四項 第四冊について 第五項 第五冊について 第六項 第六冊について 第七項 第七冊について 3.
(5) 第八項 小括 第三節 『鴻跡帖』から見る清国留学生部の開設目的と存立意義 第四節 『鴻跡帖』の中の清国人留学生揮毫者 第一項 留学生揮毫者に関する調査 第二項 留学生揮毫者調査に対する分析 第五節 『鴻跡帖』から見る清国人留学生の思想 第一項 第二冊の代表的揮毫者 第二項 第四冊の代表的揮毫者 第三項 第五冊の代表的揮毫者 第四項 第七冊の代表的揮毫者 第五項 小括 おわりに 第三部 清国人留学生の帰国後の行動と役割―早稲田大学出身者を中心に― 第五章 清国人留学生たちの帰国後の行動 はじめに 第一節 早稲田大学における清国人留学生 第二節 清国留学生部出身の留学生たち 第一項 清国留学生部予科第一回卒業式 第二項 清国留学生部予科第二回卒業式 第三項 清国留学生部師範本科第一回卒業式 第四項 清国留学生部師範科・研究科卒業式 第五項 調査対象 第六項 卒業生の出身地 第七項 卒業生の専攻 第八項 帰国後の進路 第三節 大学部や専門部出身の留学生たち 第一項 『学報』に掲載された大学部・専門部出身の清国校友の行動 第二項 大学部・専門部出身の留学生と中国近現代史上の著名人 おわりに 第六章 清国人留学生の役割 はじめに 第一節 中国社会変革の主役 第一項 教育者・政治家・革命家 第二項 その他(各分野の学者) 第二節 日中両国の架け橋 第一項 早稲田大学出身者と母校 4.
(6) 第二項 早稲田大学と中国 第三項 日本と中国 おわりに 終章 本論の総括と今後の課題 第一節 本論の総括 第二節 今後の課題 参考文献 付録 表①辛亥革命前、国内・海外で発行した雑誌一覧(1898-1911) 表②一九〇六(明治三九)年清国留学生部予科第一回卒業生調査表 表③一九〇七(明治四〇)年清国留学生部予科第二回卒業生調査表 表④一九〇八(明治四一)年清国留学生部師範本科卒業生調査表 表⑤一九〇九(明治四二)年清国留学生部卒業生に関する調査表 三、本論文の概要 第一章「日本留学概説」では、外務省外交史料館所蔵の『在本邦清国留学生関係雑纂』 や留学生たちの全集・伝記など、先行研究でもまだ十分利用されていない史料を利用しつ つ、清末における日本留学の経緯と清国人留学生の社会活動を概観する。 清国はすでにアメリカやヨーロッパへ留学生を送っていたが、日清戦争での惨敗を契機 に、西洋より東洋の日本を第一モデルとして各分野の知識を習得し始める。日本側では近 衛文麿が東亜保全のために清国の教育に貢献すべきことを主張し、上田万年が日清提携の 必要を訴え、清国駐在公使矢野文雄が具体的な受け入れ策を外務大臣西徳二郎に提言し、 他方清国側では、張之洞が『勧学篇』で中体西用を前提とした教育制度の具体策を詳述、 日本を留学先とする利点を列挙し、康有為も日本留学の必要性を力説して上奏した。 こうして日本留学が始まり、留学生数は明治 35(1902)年頃から明治 41(1908)年頃ま でが最も多く、7000 人を超えることもあった。留学生たちの中には、学問習得以外に、新 知識や近代文明を清国の国民に伝えることを目指した漢訳活動や諸雑誌の発行などを行な ったり、中国同盟会へ入会して政治活動に従事したりする者もいた。彼らは中国の政治、 文化などの諸方面に貢献し、日清両国の交流にも尽力した。 第二章「清国人留学生の教育機関」では、留学生教育に当たった東京の主な 21 校につい て、各学校の設立経緯、授業科目、講師陣などを紹介する。その上で、早稲田大学清国留 学生部の開設、ユニークな教育方針、講師陣、生徒による評価、そして閉鎖について詳述 し、最後に、清国留学生受け入れの双璧であった早稲田大学清国留学生部と法政大学清国 留学生法政速成科とを、教育方針、設置科目、人材養成、入学者・卒業生数の観点から比 較している。 法政大学の法政速成科は、梅謙次郎が清国公使楊枢の賛同を得て、早稲田大学清国留学 5.
(7) 生部よりも 1 年半早く開始、その名の通り、法律・政治に関する須要の学術を、1 年を期し て修得せしめることを目的とした。 法政速成科では梅謙次郎(法学通論及び民法)・志田鉀太郎(商法)・筧克彦(国法学) ・ 清水澄(行政法)・岡田朝太郎(刑法)・中村進午(国際公法)・山田三良(国際私法)・岩 田一郎(裁判所構成法)・板倉松太郎(民刑訴訟法)・金井延(経済学)・岡実(財政学)・ 小河滋次郎(監獄学)ら、錚々たる人物が講義をし、明治 38(1905)年から明治 40(1908) 年までに間に 986 名の卒業生を送り出した。 他方、早稲田大学清国留学生部は、長期教育を目的とし、1 年制予科、2 年制本科(師範 科)、1 年制の研究科(補修科)を設置して、師範教育・実業教育に重点をおいた。講師数 は予科だけで 23 名を配置、津田左右吉も日本語担当の講師であった。『早稲田学報』によ ると、明治 42(1909)年の時点で、予科・師範科・研究科の卒業生は合計 1135 人であった (同一人物で予科そして師範科を卒業した者もそれぞれ数えられている) 。 早稲田大学清国留学生部と法政大学清国留学生法政速成科は、ともに清国の国情に応え るよう、相互補完しながら人材養成を行ない、法政速成科からは湯化竜(教育総長、内務 総長) ・沈鈞儒(中華人民共和国最高人民法院長) ・汪兆銘(南京国民政府主席)・居正(中 華民国司法院院長) ・陳叔通(中華民国大総統秘書長、国務院秘書長)などが出、革命派の 宋教仁・胡漢民・陳天華なども籍を置いた。 早稲田大学清国留学生部出身者は、帰国後教育界で活躍した人物が多く、北洋師範学堂 校長李士偉・同教務長梁志宸・京師法政学堂教務長江庸・北京法律学堂教習張孝移・北洋 法政学堂教務長籍忠寅・北京宗室覚羅八旗高等学堂監学永元・広東高等工業学堂校長王邁 常・浙江全浙師範学堂教習朱宗呂などが出た。そのほか、『自修適用日語漢訳読本』の著者 葛祖蘭・北京大学歴史系主任朱希祖などの研究者も清国留学生部で学んだ。法政速成科で 学んだ宗教仁は、早稲田の清国留学生部予科にも在籍し、後に『民報』の論説委員として 健筆を揮った。 第三章「清国人留学生と雑誌『河南』」では、河南籍の清国人留学生が創刊した雑誌『河 南』を例に、留学生の思想を考察している。『河南』は、法政大学、宏文学院、東京大学、 早稲田大学、振武大学などに在籍した 13 名の留学生が、1907 年 12 月から 1908 年 12 月ま で発行した月刊誌であるが、魯迅や周作人も寄稿して、文章が素晴らしく、論説も優れて いたので、瞬く間に読者を増やし、毎年数千冊あるいは 1 万冊にも上る販売部数であった という。 『河南』は同盟会河南支部の機関誌で、学校では教材として、講演会、閲覧室などでは テキストとしても用いられ、革命思想を庶民に伝播する役割を担った。 『河南』はその名の通り、河南省の民衆を対象とした雑誌であって、亡国の危機に瀕し た清国を救済するため、政治革命を起こし、新政府を樹立して憲法を制定し、国会を開設 することを目指した。魯迅も数編の論文を寄稿し、進化論を紹介して封建思想に固執する 人々を批判し、精神革命も必要だと強調、西洋の個人主義思想、科学発展の歴史を紹介し 6.
(8) て、清朝政府を打倒し、漢民族による中国再興を願っていた。辛亥革命のとき、河南省の 独立運動は失敗したが、革命者や民衆の意思は河南蜂起として表明された。 第四章「史料『鴻跡帖』から見る清国人留学生」では、早稲田大学清国留学生部の卒業 生たちが残した揮毫『鴻跡帖』 (全 7 冊)を題材として、 「『鴻跡帖』の由来」 、「同史料の揮 毫者と揮毫」、「同史料による清国留学生部の開設目的と存立意義」、「留学生揮毫者」につ いて詳述し、「留学生揮毫者の思想」を考察する。 『鴻跡帖』の名は、当初、清国の外交官銭恂の主張によって、蘇軾の詩にある「雪泥鴻 爪」を参考にして「稲泥鴻爪」となっていた。駐日公使楊枢も「凡そ帰国の学生、必ず一 詩を賦し、或いは一画を作り、冊中に存し、以て紀念と為す。而して此冊を名づけて稲泥 鴻爪と曰ふ」と言っている。 『鴻跡帖』全 7 冊は 278 名の揮毫を収録しているが、清国留学生部卒業生の揮毫は第 2・ 4・5・7 冊で、第 1 冊は外交官・教育行政官、第 3 冊は進士、第 6 冊は清朝の皇族・将軍・ 憲政大臣の揮毫である。本論文では留学生の書いた詩文を丹念に分析し、留学生たちが、 早稲田で新知識を学んだことを喜び、旧来の体制を変革すべきことを悟り、そして西洋に 対抗する必要性を自覚していたこと、多くの学生が、日中両国の友好、欧米との対抗を説 く大隈重信を称賛していたことを明らかにした。 多くの揮毫者は、戦国時代の強国秦や楚、広大な領域を支配した漢・隋・唐の時代、偉 人などを取り上げ、かつての中華文明の優秀さを振り返るとともに、衰微した清末の国勢 を回復するため、強国となった日本を参考にし、日本と連合して欧米に打ち勝とうと主張 している。留学生たちにとって、日本と中国は、 「同文同種」、 「唇歯相依」の隣国同士であ った。 第五章「清国人留学生たちの帰国後の行動」では、早稲田大学の清国人留学生が帰国後 にどのような行動をとったのかを考察している。清国留学生部卒業生のうち、本論文著者 は 230 名余を追跡調査した。この中で出身地が判明した者は 118 名で、南方出身者が 91 名 に上る。地域別に見ると、浙江省 37 名、江西省 16 名、湖南省 8 名、四川省 8 名、江蘇省 6 名、河南省 6 名、湖北省 5 名、安徽省 5 名、広西省 3 名、直隷省 3 名、河北省 2 名、山東 省 2 名などとなっている。 南方出身者が多いのは、留学を主唱した張之洞は湖広総督であり、湖北省や湖南省を権 力基盤としたからである。とりわけ浙江省からの留学生が多いのは、すでに先行研究で指 摘されているように、浙江省では民族資本の発展とともに維新運動を促進し、自由な社会 の雰囲気を形成し、さらには杭州府知事林啓などが教育を重視し、新学を提唱し、学生を 日本へ派遣することに取り組んだからである。 清国留学生部卒業生のうち 132 名の職業が判明し、教育者となった者が一番多く 83 名、 政治家 51 名、革命家 23 名、法律家 11 名、学者 7 名、起業家 5 名、経営者 4 名、医学者 3 名、記者 1 名、作家 1 名、詩人 1 名などであった(複数の職業を兼ねている者もいる)。 清国留学生部は教員養成を目的として創設されたのであるから、卒業後に教育者となっ 7.
(9) た者が多いことは当然であるが、それ以外に政治家や革命家が多数出たことも特徴の一つ である。なお、清国留学生部以外に、大学部や専門部を卒業した清国人もおり、彼らは政 治・教育・法律などの業種に従事し、国会開設・法律の制定・教育改革などに取り組んで いた。 第六章「清国人留学生の役割」では、早稲田大学で学んだ中国人がその後どのような役 割を果たしたのか、それを「中国社会変革の主役」、「日中両国の架け橋」という点から検 討している。まずは、「中国社会変革の主役」の節では、教育者として陳時(清国留学生部 物理化学研究科 1909 年卒)、政治家として宋教仁(清国留学生部予科 1906 年卒)、湯増璧 (清国留学生部予科 1907 年卒)の 3 人を取り上げる。 陳時は、父親が創立した中国最初の私立大学武昌中華大学の 2 代目校長となったが、武 昌中華大学の教育方針「成徳、適材、独立、進取」が早稲田大学校歌の「進取の精神」「学 の独立」に倣ったものであることは明らかであろう。私立武昌中華大学は、中華人民共和 国成立後、華中師範大学及び武漢大学と合併したが、その精神は今も両大学に受け継がれ ている。 宋教仁は 1903 年に黄興らと華興会を結成して副会長となったが、蜂起計画が露見して日 本に亡命、法政大学そして早稲田大学に入った。1910 年に帰国後、日本で学んだ知識を活 かして、議会政治の開始に備えて国民党を組織した。しかし、議会制民主主義の実現を恐 れた袁世凱により暗殺された。 湯増璧は、在日中に中国同盟会に加入し、機関誌『民報』編集長章太炎の下で副編集長 となった。1914 年、湖南省立第一師範学校の国文教師となったとき、毛沢東が生徒として 在学していた。毛沢東は「湯という先生は常に古い『民報』を見せてくれた。私は興味深 く読んだ。それを通じて同盟会の活動と綱領がわかった」と述べている。 次に、「日中両国の架け橋」の節では、『早稲田大学学報』に掲載されている校友会、送 別会、謝恩会などの記事から、卒業生と母校、卒業生と恩師、そして卒業生同志の絆が非 常に強固に結ばれていることを読み取り、中国で早稲田大学が有名なのは、中国各地に早 稲田大学校友会が存在し、頻繁に交流を行なって来ているからであり、また大隈重信の「東 西文明の調和」のほか、早稲田大学での独特な中国研究、中国語教育などもその要因とな っているという。 そして終章「本論の総括と今後の課題」では、全体を総括した上で、今後の研究に残さ れた課題として、第一、本論文では清国人留学生教育機関として法政大学と早稲田大学と だけを比較したが、他の私立大学や国立大学との比較が必要であること、第二、早稲田大 学清国留学生部の講師陣の中には、中国各地の学堂で教員を務めた者もいるので、彼らが 中国の近代化や日中関係にどのような役割を果たしたのかを検討すべきこと、第三、本論 文では雑誌『河南』を例に留学生投稿者の思想を考察したが、留学生が創刊した雑誌は 10 種類以上あって、 『河南』はその中の一つに過ぎないので、他の雑誌との比較をすべきこと、 第四、早稲田大学で学んだ者たちの中には、対日協力者(漢奸)として非難された者もい 8.
(10) るので、留学生の中の親日派を今後研究すべきこと、そして第五に、今後は、清末の留学 生だけではなく、民国時代や中華人民共和国成立後の中国人留学生についても研究したい こと、等々を挙げている。 四、本論文に対する評価 早稲田大学は中国人留学生を多く受け入れた大学として著名であり、さねとうけいしゅ う(実藤恵秀)氏以来、留学生研究の伝統もあるので、早稲田大学には留学生関連史料及 び研究論文も豊富にある。そのような環境の下で「清国人留学生の思想と行動―早稲田大 学出身者を中心にー」と題する研究を行なうことは、きわめて妥当なことである。 本論文で取り上げた『鴻跡帖』は、1906 年から 1910 年までの清国人留学生 200 余名の感 想が纏めて収録されている。これによって、特定の著名な人物の意見だけではなく、一般 の青年知識人の生の声を知ることが出来るのであって、 『鴻跡帖』はまさに宝物とも言うべ き貴重な史料である。当然ながら多くの先行研究でも触れてはいるが、正面から取り組ん だものはなかった。本論文著者は 10 年近く本史料研究に取り組んでおり、その努力は高く 評価すべきである。 本研究は、特に第 4 章において人物研究に力を入れ、また新史料の発掘にも尽力してい る。従来の留学生研究は制度の研究が中心であったが、本研究は留学生の思想、考えを抽 出しようとしており、高く評価できる。従来の中国人留学生の研究が総論とすれば、本論 文は各論の領域に入っていると言えるであろう。しかも、歴史学の王道を歩んで史料を丹 念に読み込んでおり、大学史研究にも大きく貢献している。 ただし、本研究においてここまで清国人留学生の様子がわかってくると、今度はさらに いくつかの疑問点あるいは要望も出てくる。 本研究で『鴻跡帖』を丹念に読み込んだことは高く評価すべきであるが、さらに視野を 広げて、当時の政治状況や社会状況、知識人の精神構造、教養のレベルなどについても論 じれば、本研究の価値も一層高まったであろう。 たとえば、卒業生たちが『鴻跡帖』に自分の「履歴書」を書き、しかも先祖や家属の名 も列挙しているものが散見されるが、その意味は一体どこにあるのだろうか。本論文では そこまで踏み込んでいないが、実は、中国の伝統的な官吏登用試験である科挙においても、 答案に履歴を書く風習があった。伝統中国においては、家属や一族の地位が高く、個人は 家属や一族の庇護のもと、家属や一族のために存在するものと考えられていたからである。 そうとすれば、留学生たちが『鴻跡帖』に自分の履歴を書いたのは、科挙の最後の名残で あると捉えることもできよう。 早稲田大学に清国留学生部が設けられたのは、清国で科挙制が廃止されたことを受けて のものであった。早稲田に留学した学生たちは、科挙制廃止後の一期生であった。このよ うな歴史的状況を踏まえるならば、伝統的儒教教育を受けた清末青年たちが、日本で近代 的学問と出会った時の「戸惑い」「驚き」などがもっと深く追求されねばならない。 9.
(11) しかし、これらはいずれも望蜀の言であって、本論文著者が本研究で達成した功績をい ささかも減じるものではない。よって我々審査員一同は、本論文は、 【社会科学研究科博士 学位論文審査基準】 (2014 年 5 月 28 日)の各項目に照らしても、博士(社会科学)を与え るに十分な水準に達しているものと判断した。 審 査 員 主査審査員 早稲田大学社会科学総合学術院. 教授. 島善高 博士(法学)京都大学. 審. 査 員 早稲田大学社会科学総合学術院. 教授. 劉 傑 博士(文学)東京大学. 審. 査 員 二松学舎大学文学部. 教授. 王宝平 文学博士. 10. 関西大学.
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