勧修寺文書に見る観世小次郎元頼の領地安堵 : 観 世新九郎家文庫蔵織田信長朱印状に至るまでとその 後
著者 江口 文恵
出版者 法政大学能楽研究所
雑誌名 能楽研究
巻 34
ページ 33‑51
発行年 2010‑03‑31
URL http://doi.org/10.15002/00007500
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大がかりで斬新な作品を数多く作った能作者で、役者としても活動した観世弥次郎長俊(一四八八~一五四一?)の没後以降、新しい能の作品はほとんど作られなくなる。わずかながらも、豊臣秀吉を主人公にした能(太閤能)や江戸
時代に作られた能のほか、近・現代には新作能が作られてもいるが、役者が物数(レパートリー)を増やすために自身で能を作るような自作自演の時代は長俊で終わったと言える。現存する能の作品は全部で約五百番ほどだが、そのほ
とんどが室町時代の成立である。番数が揃ったこと、歌舞伎などのほかの芸能が台頭してきたことなど、理由はいろ
いろ考えられよう。長俊以降は新作がほとんど作られず、能役者たちは能を演じることのほかに、謡本を作ること、弟子に謡を教えることなどが主たる活動となっていく。
観世長俊の子息である観世小次郎元頼(一五一八~一五七三?)は、父と同じくワキ方の役者(シテを演じることもあ
る)で、鴻山文庫蔵『能口伝之聞書」(能楽資料集成2「細川五部伝書』所収)には「観世小次郎元頼ワキ、父ノ弥次郎二
勧修寺文書に見る観世小次郎元頼の領地安堵 l観世新九郎家文庫蔵織田信長朱印状に至るまでとその後I
はじめに江口文恵
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カチタル所アルョシ、ミタル衆云タルト也。」(笛役者備中屋一噌の談話)とある。この記事から長俊・元頼父子のどちらが優れていたかの判断に直結させることは無理であるが、元頼の役者としての実力を垣間見ることができよう。元
頼は多くの素人弟子に謡を教えたことが知られており、能作を行った形跡は残ってはいないが、多くの謡本を書き残している。代表的な謡本に東京大学史料編墓所や永青文庫、早稲田大学演劇博物館などが所蔵する観世元頼節付本が
ある。元頼が節付を施した謡本(謡の文句は別筆)で、約八十冊が現存する。観世流系統の謡本のまとまったものとしては同本が現存最古のものである。また、同本の奥書には「此御本以信光丸本之青表紙被写書之」「此御本以長俊丸
本青表紙被害写之」などとあり、祖父信光や父長俊の謡本を写していることがわかる。また、信光・長俊作品の中には、元頼節付本が最古本かつ最善本に該当するものも多く、後世の謡本には元頼本の写しである旨や校合に使用した
旨などを奥書に記したものも見受けられる。本稿で取り上げる記録は、元頼の能役者としての活動とは異なるものだが、新たな資料を提示することで彼の事蹟
に新たな見地を加えるものである。
野上記念法政大学能楽研究所の観世新九郎家文庫には、小鼓方観世家伝来文書が所蔵されている。能楽研究所紀要
『能楽研究」第二~四号二九七五~一九七八年、法政大学能楽研究所)に目録及び解題が掲載されており、詳細がわかる。同文庫には、観世小次郎元頼にまつわる文書もいくつか残されている。これは、元頼の妹が小鼓役者の観世彦右衛門(1) 豊次の妻であったため、舅である一兀頼に関連する文壼曰も収められたものと考えられている。その中でも特に貴重な資料に、織田信長が永禄十一年(一五六八)十月、観世彦右衛門・元頼のそれぞれに宛てた朱
観世新九郎家文庫に見える観世元頼所領関連文書について
35勧修寺文書に見る観世小次郎元頼の領地安堵
観世新九郎家文庫蔵織田信長朱印状に関しては、表章氏の『観世流史参究』一七七~一七九頁「織田信長と観世座」にも詳述されている。先学の成果を参考にしながら、『能楽研究』第二号(一九七六年二月発行)所収「観世新九郎家文庫目録(上)」に載る「’一一慶長以前の古文書」より、元頼関係の文書五点の書名を、簡単な解説を添えて以下に
列挙する冒頭の数字は同文庫の資料番号)。・三6永禄十一年十月廿四日付、観世小次郎あて信長朱印状領地安堵の朱印状。
・三7永禄十一年十一月十六日付、観世小次郎あて下知状---6の内容を幕府が追認。・三9五月十三日付、観世元頼書状案文領地拝領後の紛争に関する元頼書状の下書き。津田金左衛門・坊喜三郎 印状がある。これは」(2) ある。後に能役者が全言えるものであろう。
まず、観世元頼が将軍宣下祝賀の能に出演した永禄十一年十月二十四日に、織田信長から拝領した朱印状(観世新
九郎家文庫三6)の文面は以下の通りである。 ’--6永禄十一年」三7永禄十一年L三9五月十三日」宛。元亀元年頃か。三10七月十一一一m返信。元亀二年か。一一一11元亀三年〒一一一11元亀三年正月廿八日付、観世小次郎あて信長朱印状旧領主との争いを収めるための朱印状。一一一10の結果発行されたもの。 ある。これは信長が二人に領地を安堵したものである。能役者が領地を拝領した例としては比較的早いもので後に能役者が武家に雇われて、お抱えの役者となり、扶持米や屋敷を拝領するようになるが、その先駆けとも
七月十三日付、観世小次郎あて木下藤吉郎秀吉書状旧領主との紛争の調停を依頼した小次郎の書状への
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(「観世新九郎家文庫目録(上こより)
引用した元頼宛の朱印状には「勧修寺村」とある。京都府京都市山科区には、現在も勧修寺という地名が残っている。その地名の由来となった寺院、勧修寺に伝わる文書「勧修寺文書」(公家の勧修寺家の文書今勧修寺家文書完勧修
寺氏文書とも)とは異なる)にも、「観世小次郎」なる人物名や当該朱印状所載の地名が見える文書が管見に入った。次
項ではそれを紹介する。
管見の勧修寺文書のうち、「観世小次郎」の名の見えるものが三点現存する。以下に列記する。
(東京大学史料編纂所デジタル写真、および同ホームページ内データベース「日本古文書ユニオンカタログ」により調査、文
書名も同データベースに拠る。冒頭の口内の記号は史料編纂所の整理番号。末尾の(A)~(C)は私に付した。以降は便宜上
このアルファベットで称すこととする。)
[Ⅵ119]一一一好長逸・一一一好政康連署書状(永禄九年三月十五日付、観世小次郎宛)(A)[坊][Ⅵ123]一一一好長逸書状(永禄九年三月十五日付、柳本法服御房宛)(B)
[Ⅶ-18]和田惟政書状(年不明(安土桃山期)四月二十九日付、勧修寺両院名主百姓中)(C)
永禄頃~安土桃山期の「観世小次郎」は、観世元頼以外に該当者がいないので、元頼に関係する文書と考えてよか 観世小次郎扶助之事/|勧修寺村所々散在之事附醍醐分/一密乗院分/|西林院分/|薬師寺新介分/一泉蔵主分/|甚二郎分/右前々以筋目被仰付之間年貢/諸公事物等無異儀可令収納之状/如件/永禄十一年十月廿四日信長(朱印)
二勧修寺文書中の「観世小次郎」と所領安堵
37勧修寺文書に見る観世小次郎元頼の領地安堵
ろう。また(A)と(B)が永禄九年のものなので、信長の朱印状よりも二年早い文書である。また(C)は年不明だが差出人和田惟政は観世元頼の活動時期と時代を同じくする武士である。以下、順を追ってこの文書三点を紹介していく。(A)の「一一一好長逸・’一一好政康連署書状」は、観世小次郎に宛てたもので、端裏に「永禄九」とあり(デジタル写真(影写本)によるもの)、日付が「三月十五日」とある。その全文を引用する。(翻刻の改行は影写本写真に従うが、適宜私に句読点を補った。「日本古文書ユニオンカタログ」所掲の【書出]【書止】項にある部分的な翻刻を参考にした。以下、勧修寺文書については同様)
ダーヘ
、-〆A
(端裏「永禄九」)
態以折紙申侯。佃
密乗院・西林院・
薬師寺新介分
哉之間、先々催促有
問敷候。追而相究、 事、先度折紙進之候虚、重々申分候。此方者無案内候。前々次第、可相糺
有
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連署状の内容は、領地(密乗院・西林院・薬師寺新介分)について、当方(三好)ではよくわからない、催促しないように、事の次第が判明したら状況を知らせるとある。「先度折紙進之候虞、重々申分候。」(折紙(公式の消息)を前に送ったが、もう一度伝えるものである)とあるので、以前にも三好が小次郎に書状を送っていることがわかる。管見には入らないが、文書に見える領地に関して、三好が観世小次郎宛にしたためた書状がもう一通存在したと考えられる。
差出人に名を連ねる三好長逸と一一一好宗渭(政康)は、’一人ともに戦国時代の武将で、「一一一好一一一人衆」と称される三人
(もう一人は石成友通。石成の書状も勧修寺文書に現存する)のうちの一一人である。三好一一一人衆は、阿波国の豪族三好氏の 様可申付侯。恐々謹言。*史料編纂所の影写本デジタル写真、差出人署名の横に以下の如きメモ書あり。裏書を記したもの。日向守長逸「ウラ書三好日向守従四位下源長逸」(3) 下野入道宗渭「同一二好下野守従五位下源政康入道宗渭号釣閑斎」 三月十五日日向守長逸(花押)
下野入道宗渭(花押)
観世小次郎殿
進之候
**
39勧修寺文書に見る観世小次郎元頼の領地安堵
当するものである。 当主三好長慶(一五一一一一~一五六四)没後に、家臣であったこの一一一人が実権を握り、一時期畿内を中心に権勢を誇った。将軍足利義輝の殺害にも関与し、長慶生前の三好氏全盛期を受け継いでいこうとしたが、永禄十一年に足利義昭を擁した織田信長が入京すると、その勢力を失い、信長の軍門に下った。三好一一一人衆が畿内の所領に関して実権を握っていたのは長慶没後から信長入京頃まで、永禄七年~十一年の四年間という短い期間であったが、(A)はその期間に該
(A)連署状には所領名「密乗院・西林院・薬師寺新介分」を挙げているが、これらは観世新九郎家文庫蔵永禄十一年十月二十四日付織田信長朱印状にある所領名と部分的に一致する。朱印状の文面に、「観世小次郎扶助之事/|勧修寺村所々散在之事附醍醐分/|密乗院分/|西林院分/|薬師寺新介分/|泉蔵主分/一甚二郎分/右前々以筋目被仰付之間…」(一致した所領名に私に傍線を付した)とある通りである。傍線部のうち、「密乗院」と「西林院」は勧修寺文書内では「城州勧修寺内西林院井密乗院」などと並んで記載されることが多い。また、全く同じ文面の書状が両院にそれぞれに送られていることもある。残り一箇所の「薬師寺新介分」は、「新介(しんすけとが前国主(大介〈おお
すけ〉)の子である当任の国主のことなので、領主の名前で記載されていることになる。傍線を付していない「泉蔵主分」「甚二郎分」も恐らく領主名であろう(朱印状所載の地名で勧修寺文書(A)にはその名が見えない二所領については後分」「甚二
に述べる)。
差出人三好は、調べるので子細がはっきりするまでは催促しないようにと、(A)連署状で小次郎に伝えているわけだが、同日一一一月十五日付で差出人に長逸のみの署名が見える別の書状(B)「三好長逸書状」は、(A)で小次郎に約束した通り、ことの子細を問い合わせるものである。年紀はないが、史料編纂所データベース「日本古文書ユニオンカ
タログ」が永禄九年としているので、それに従い、(A)と同日のものと考えたい。では(B)の全文を引用する。
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〆 ̄へ
、‐〆B
御折紙令拝見候。
領儀付而、観世小次郎 価西林院・密乗院 事繁侯故、加判 遣折紙候事、承候。
申侯。晴元御代二も
儀具承度候。 無相違候哉、左様
晴元御代二落候て、
氏綱御代二御安堵候
哉、但干今何之御代二も
御気遣察申候。 追而可為有様候。 小次郎かたへ遣折紙候。 落不申候哉、具可
恐々謹言。 不給候。只今先々
堵筋ネドj弓
鰔室町期全体』
領鯏多い。冒頭』 院考えられる。
目帆「事繁候故
世観ろう。また、る現かを確認すっ 鰭五一四~|宥 鵬一五六一一一)は・ 勧任したが、庁
1 4 「事繁候故、加判申候」(忙しいので判を押した)とあるので、三好長逸は元頼に安堵状を発行したことになるのであろう。また、「晴元御代二落候て、氏綱御代二御安堵候哉」などからは、当該所領がいつ頃安堵されていたものなのかを確認するため、柳本に問い合わせていることがわかる。「晴元」と「氏綱」はともに細川氏である。細川晴元(一五一四~一五六三)は管領職には就かなかったが、天文年間の前半に幕府政治を主導した人物である。細川氏綱(?~一五六一一一)は室町幕府最後の管領である。晴元に背いた一一一好長慶がこの氏綱を擁して晴元を追放し、氏綱は管領に就任したが、氏綱に実権はなく、実質は三好長慶の偲偲政権であった。氏綱没後に管領職は廃絶した。勧修寺文書には細川氏綱の書状案(Ⅵ‐28.年不明十月付)も現存する。元頼について書かれているものではないが、(A)(B)に見 宛名にある「柳本法服御房」については、詳細は不明だが勧修寺文書には「柳本法印」「柳本法橋」「柳法」などが室町期全体にわたり散見する。また、その中の何名かが「栄芸」「栄賀」など、歴代「栄」の字を含む名を持つ僧が多い。冒頭に「御折紙令拝見候」、末尾に「御返報」とあるので、(B)は柳本法服からの書状(折紙)に対する返答と *史料編纂所デジタル写真、「ウラ書三好日向守長逸」と裏書に関する傍書メモあり。 三月十五日三好長逸(花押)柳本法眼御房
御返報
*
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える密乗院・西林院に宛てた書状の案文である。文面は「当院之事、如三友院之時、領地不可有相違候、猶斎藤長門守可申候、恐々謹言」(日本古文書ユニオンカタログより全文引用)とあり、「一一一友院」(氏網の養父細川高国。享禄四年(一
五三一)没)の治世の頃の通りにするように、とある。書状(B)の問い合わせ内容から、恐らく観世元頼は勧修寺領について、細川氏が管領として実権を握っていた時期に、一度は領地安堵されていたものなのだから、また安堵してほしいと三好長逸らに主張してきたと推測できよう。
(A)(B)から推察すると、観世元頼は前々から当該所領のために時の権力者にはたらきかけており、信長朱印状以前にも何度か領地安堵されているようである。だとすると、従来考えられていたよりもかなり早い段階から、領地を拝領していたことになる。足利幕府が傾き、将軍が実権を失っていき、細川↓三好↓織田と、戦国時代に入って政権がめまぐるしく変っていく中で、元頼は権力者が変わるたびに領地安堵を依頼したのであろう。
では、元頼はいつの頃から勧修寺郷の所領を得るための行動を開始したのであろうか。足利将軍に仕え、幕府の内
談衆でもあった大館尚氏(常興)の日記「大館常興日記』天文十年(一五四二十二月八日条に以下の如くある(史料大成
による。
|、
私に句読点を付した)。晴光方より各へ折紙在之、如此。
勧修寺御門跡雑掌申趣、具彼申状相見候、先年難及訴訟、秋岡證文相引候、此段御法有之事二候、殊主令死
去候、観山
恐々謹言。十二月八日
御内談衆御中 観世小次郎可競望段、以外不可然候、妾以被任御法井證文旨、彼御門跡へ被成御下知、無別儀候哉、
大館左衛門佐晴光判
43勧修寺文書に見る観世小次郎元頼の領地安堵
『能楽史年表古代・中世編』(鈴木正人編、一一○○七年三月、東京堂出版)にも立項されているこの記事では、永禄九
年~十一年頃よりも二十年以上前の天文十年に観世小次郎(元頼)が、領主が死去した土地についてすでに「競望」(強く望むこと)しているとある。それに対し勧修寺門跡は競望を止めてほしいと幕府に依頼している。当該記事に地
名が見えないため、小次郎が競望した領地が密乗院や西林院などの信長朱印状にその名が見える所領であったか否かは不明だが、元頼と勧修寺領との関係は恐らくこの記事が発端となるのではないだろうか。中世後期の勧修寺文書の
中には「競望族」という語が散見する。当時応仁の乱や戦国期に散在した所領を競望する者が続出したようで、勧修寺側はそれを「言語道断」としている。もっとも『大館常興日記」でも、傍線部の如く「以外不可然」「前代未聞次
第、驚入存候」とあり、幕府側は観世小次郎の競望をやめさせようとしている。もとは門跡領だった土地を競望しているので、先祖代々の土地ではないこともわかる。祖父信光や父長俊ら、元頼の先祖が領地を拝領した記録は今のといるので、先祖代々のL
ころ管見には入らない。
この天文十年時、元頼は二十一一一歳で、かつ『四座役者目録」で父観世長俊の没年とする年である。 右御事書同前候、猶々可為御衆議候。尤同前可為御衆議候。御門跡證文御下知八通正文在之。 勧修寺御門跡雑掌申状井折紙委曲令拝見候、観世小次郎競望前代未聞次第、驚入存侯、可被成御下知之段尤候、勿論事と存置候、但猶可為御衆議候。
常高元興久造
長俊、五十三四ニテ、天文十年二、カクヲ煩上、果ラル。含校本四座役者目録』より)必(4) ちなみに『四座役者目録』に見』える長俊の天文十年没年説に関しては、近年表章氏が疑問を呈しておられる。天文
年間の長俊の活動記録が少ない(「実隆公記』天文三年正月十一百条が長俊の最晩年の記録)ことから、天文十年以前に死去していた、もしくは天文三年以降引退していた可能性を示唆されている。いずれにせよ、天文十年にはすでに元頼
は家を継いで独り立ちしていたであろう。よって「大館常興日記』の記事の頃は家の当主として活動しており、その活動の一環に土地の所望・競望も含まれていたことになる。所領を拝領すれば納められる年貢が収入にもなる。元頼
が土地を競望せざるを得ないほど困窮していたという記録は特に見られないが、能の出演や謡の稽古以外にも収入源
を求めていたことが窺える。邪推に過ぎないが、元頼の父である観世長俊の作品には多数の役者や大がかりな作り物を出す作品が多く、一度の演能にかなりの金銭を要したのではないかと思われる。もしかすると、そのことが家を継
いだ息子の財政を圧迫していたのかもしれない。
さて、(A)(B)の書状から二年後の永禄十一年に、元頼は織田信長から朱印状を拝領し、所領を安堵されるわけであるが、勧修寺文書には朱印状拝領以後のものと思われる関連書状が一通現存する。(C)の和田惟政書状(年不明(安土桃山期)四月二十九日付)を引用したい。
〆=、
、="C
当所密乗院・
西林院分事、対
御下知朱印、観世
45勧修寺文書に見る観世小次郎元頼の領地安堵
(C)の文面には密乗院及び西林院領について、朱印状が発行され、観世小次郎が拝領したので、名主や百姓たちは年貢など税の類については必ず納めるように、もし納めない場合は「讃責」する(厳しく答める)とある。差出人である室町末期の武将和田惟政(?~’五七二は、室町幕府奉公衆及び近江守護の六角氏の被官で、織田信長にも仕えていた。ここでは信長の朱印状の内容を百姓たちに知らしめる役を担っている。惟政の死没が元亀二年(一五七一)八月であるので、四月二十九日付の書状(C)は新九郎家文庫---6朱印状発行の永禄十一年十月以降、つまり永禄十二年~元亀一一年の一二年間のうちに書かれたものと推定できる。観世新九郎家文庫三9「観世小次郎元頼案文」や三10「木下藤吉郎秀吉書状」などによると、朱印状拝領後、もとの領主らとの間に紛争が起こっており、そ 小次郎拝領候虚、貢諸公事物等子今難催候事由、曲事度可有納所候。尚無沙汰者、可鑓責謹言。
勧修寺両院分名主百姓中 卯月廿九日和田惟政 、曲事候。候。尚於可鑓責候。
年 急
46
の仲介を秀吉が行ってもいる。書状(C)は拝領直後のお達しとも考えられるが、その後起こった紛争に関連するものの可能性も考えられよう。天文年間の領地競望からかなり年月は経過しているが、元頼ともとの領主や百姓たちとの
関係は朱印状拝領以前からあまりよくなかったのかもしれない。
以上、元頼と》
下の通りになる。[観世小次郎元頼の所領安堵関連事項年表】(年不明の文書については、推定年次で並べ、その年次は九括弧Cで括る。山括弧〈〉は西暦。)・天文十年〈一五四二(もしくは十年以前か)観世弥次郎長俊死去。この頃元頼が家督を継いだと思われる。・天文十年十二月八日観世小次郎元頼が勧修寺村の領地を競望するが、幕府内談衆はそれを阻止することを決議す
る。S大館常興日記巴
.(この間)元頼、細川管領時代に勧修寺村の領地を安堵されたか。(勧修寺文書(B)より推測)・永禄九年〈一五六六〉三月十五日三好一一一人衆の三好長逸・政康、観世小次郎に連署状を送る。法眼の折紙に対する返事として、過去の詳細を問い合わせる書状を送る。(勧修寺文書(A)右・永禄十一年十月二十四日織田信長、観世元頼に領地安堵の朱印状を発行。(観世新九郎家文崖
・永禄十一年十一月十六日幕府沙汰人の左兵衛尉神より観世小次郎に下知状が下る。信長の」追認。(観世新九郎家文庫三7)
三信長朱印状発行に至るまでの流れ
元頼と勧修寺村の領地との出来事について、年次不明のものも含むがほぼ時系列順に並べると、おおよそ以
に連署状を送る。長逸は同日付で柳本
》修寺文書(A)(Bご
(観世新九郎家文庫三6)が下る。信長の朱印状の内容を幕府が
47勧修寺文書に見る観世小次郎元頼の領地安堵
』ハノ○ 元頼が織田信長の所領安堵の朱印状を拝領する以前に、三好や細川に勧修寺領を安堵されていたとすると、永禄十一年時の信長朱印状による所領安堵は旧領安堵であることが確実となろう。そして、(B)にあるごとく三好長逸が「加判」した安堵状があったとすれば、それが信長の朱印状発行を後押しした可能性も考えられる。長逸の安堵状が三好の失墜で効力を失ったため、信長に朱印状を発行してもらい、旧領を安堵されたのであろう。これらを考慮に入れると、信長が元頼や彦右衛門を単に後援していたからだけの理由で朱印状を発行したのではないのではなかろうか、との推測も可能である。気性の激しいことで知られる信長であるから、嫌いな人物に所領安堵をすることは恐らくないであろうが、縁のある晶屑役者というだけで領地を与えたのではないのであろう。先の為政者による安堵状があった上での朱印状発行ではなかったのだろうか。以上の如く考えると、信長と元頼の関係についても再考の必要がある .(元亀元年〈一五七○〉頃か)五月十一一一日勧修寺村領地の紛争について観世一兀頼が津田金左衛門・坊喜三郎に書状を
送る。(観世新九郎家文庫三9観世小次郎元頼書状案文)
.(永禄十二年以降元亀二年以前)四月二十九日和田惟政、勧修寺密乗院・西林院の名主・百姓たちに観世元頼が朱印状を拝領し、領地を安堵されたので、年貢などを必ず納めるようにとの旨の書状を出す。(勧修寺文書(C)。※前項
目の元頼書状と順序が逆の可能性もあり)
.(元亀二年か)七月十一一一日木下藤吉郎秀吉、観世小次郎からの勧修寺郷領地の旧主との調停依頼に返答の書状を送
る。(観世新九郎家文庫三10)
・元亀三年正月一一十八日織田信長、観世小次郎元頼に領有権を確認する朱印状を発行。(観世新九郎家文庫一一一11)
一兀頼宛朱印状(一一一6)と同時期に発行された永禄十一年十月一一十日付の観世彦右衛門宛下知状(観世新九郎家文庫三蛆4)も、その文面に「城州西岡最福寺落来分事割分/彼在所内百石被仰付詑除寺社本所井諸/奉公方領知年貢諸
公事物如先々可致/観世彦右衛門知行所被仰下也…」とあり、文面は旧領安堵の形である。小鼓方観世家の永禄十一年以前の知行についての記録は管見に入らないが、荘園資料を細見すればその根拠となる文書が見つかるかもしれな
紹介した勧修寺文書のうち(A)(B)は三好氏が畿内における権力基盤を築いて政治の実権を握っていた時期に該(5) 当する。戦国期の一二好氏の畿内支配の状況や構造については、歴史研究の分野でも近年注目されつつあるようである。
歴史学における研究が進めば能役者の領地拝領・安堵の実態もより明らかになるであろう。後考に俟ちたい。
さて、観世小次郎元頼宛の織田信長朱印状(観世新九郎家文庫三6)の内容をもう一度確認してみたい。「観世小次郎扶助之事/一勧修寺村所々散在之事附醍醐分/|密乗院分/|西林院分/|薬師寺新介分/|泉蔵主分/一甚二郎分(6) .:」とあり、割注に「附醍醐分」と見える。「醍醐分」とは醍醐寺領のことであろうと思われる。新九郎家文庫一一一9の観世小次郎元頼書状案文にも「上醍醐寺戒光院寺領之内/勧修寺二在之所ハクリッホト申田地同…」とあり、上醍
醐寺の名が見える。三6朱印状に挙げられている所領のうち、勧修寺文書にその名が見える密乗院・西林院・薬師寺新介分が勧修寺村の領地であると考えると、残りの「泉蔵主分」「甚二郎分」が醍醐寺領なのであろうか。人名で記されているため、現段階では場所を特定することは不可能だが、醍醐寺関連の文書を細見すれば、当該所領と元頼に関する新情報も出てくるかもしれない。以上の如く考えて、醍醐寺文書(大日本古文書家わけ十九)で確認したところ、
しn
おわりにl醍醐寺領とのかかわりI
o49勧修寺文書に見る観世小次郎元頼の領地安堵
「泉蔵主」「甚二郎(甚次郎このどちらの名前も同時代の醍醐寺文書に散見するのだが、信長の朱印状や観世元頼との関係につながるまでの資料にはたどりつけなかった。この点については後考に俟ちたい。しかし、同文書九三七「清瀧宮定燈料田年貢算用状」(「醍醐寺文書之五』所収)に興味深い記録が見える。同算用状には天文十年~十三年の年貢の詳細が書かれており、その末尾近くに「又天文十一年分平田ノ反銭廿三文出之、同平田二百冊五文、観世小二郎方へ一一重成ノ分卜云々、此内五十文引之、残テ百九文算用ノ外ノ御引替ナリ」(遷十屋m-mCⅡごmなので算用状の計算「百九文」は誤りであろう)とあり、「観世小二郎」の名が見える。「天文十一年」との記述から、これも観世元頼のことと考えて間違いなかろう。先に掲げた『大館常興日記』天文十年十二月八日条と時代を同じくするもので、独立して間もない頃であろうか。引用文に見える「平田」は同算用状の天文十年分に「平田御供田二反五石七斗代作職ナリ、/今ハ三石八斗五舛二作之、勧修寺舛ノ事ナリ/勧修寺一一郎兵衛」とあるほか、当該年の天文十一年分にも「平田武
石八斗塗重分勧修寺二郎兵衛」とあるなど、恐らく勧修寺とも関連があるだろうと思われる。信長の朱印状に見え
る地名とは異なるので永禄十一年の領地安堵と関わるのか否かは不明だが、天文年間に元頼が醍醐寺関連の所領から年貢を受け取っていた形跡は窺える。管見の醍醐寺文書中で元頼に関連しそうな文書は当該算用状のみであるが、別の記録が出てくる可能性も十分にあり得よう。以上、問題点や再考の余地を残したままではあるが、本稿では勧修寺文書に見える、観世小次郎元頼の経歴にまつわる新資料の紹介と内容考察にとどめることにしたい。なお、勧修寺文書を使用するにあたり、勧修寺及び勧修寺聖教文書調査団、東京大学史料編墓所の御助力を得た。末筆ながら御礼申し上げる。50
…江州建部之事。自一一去年一観世大夫白賜返付事督二汲古一。々々云。寺家領之故可レ白二蔭涼一云々。如何。寺家目安文言云。 (2)室町期に能役者が所領を拝領する記録の早い例としては、以下のものが知られている。 (1)表章「観世流史参究』(二○○八年二月、桧書店)。 注
佛法者劣一一千猿楽一之文有し之云々。愚云。汲古逆鱗尤理也云々。…(「蔭涼軒日録」延徳元年二四八九)十二月十一日条)一、観世四郎左衛門如已前越前江御給之事、被仰付、価国へ御奉書一通、同身宛一通頂戴、…
(「親孝日記」大永二年(一五一三)七月一日条)以上の二例については、前掲注(1)「観世流史参究」にも紹介されているが、「名目だけの知行と解されるのに対し、信長の朱印状は実行を伴った」(同書一七八頁)と、元頼や彦右衛門が拝領した信長の朱印状とは質の異なるものと位置付けられている。そのほか、元頼らの拝領より後の時代になるが、川島将生・中ノ堂一信「上賀茂神社社家岩佐文書に見る観世史料
について」(『芸能史研究』一一一十号、一九七○年七月、芸能史研究会)で紹介された、天正十九年(一五九一)五月三日付の土地台帳に、「観世又二郎」(小鼓役者の観世又次郎重次。信長から朱印状を拝領した彦右衛門豊次の子)や手猿楽虎屋などの
能役者の名が見えることが知られている。(3)宗渭の別名「釣閑斎」、釣竿斎が本来か。但し勧修寺文書には両様見える。(4)表章「室町期の観世座の「脇之為手」(下)I観世長俊・観世元頼・観世四郎左衛門」(「観世』二○○○年二月号、槍書店。前掲注(1)同氏著書「観世流史参究』に収録)。(5)三好氏の畿内支配や所領安堵の実態については、主に今谷明『戦国期の室町幕府」(一一○○六年六月、講談社学術文庫。一九七五年九月に角川書店から刊行された同名著書の文庫版)、及び天野忠幸「三好氏の畿内支配とその構造」(「ヒストリ
51勧修寺文書に見る観世小次郎元頼の領地安堵
[付記]|本稿は、二○○九年七月に法政大学能楽研究所において発足した、若手研究者による研究会(仮称)第一回での口頭発表に基づいている。席上では出席者の方々から、多くの貴重なご意見を賜った。記して御礼申し上げる。 ァ」第一九八号、二○○六年一月、大阪歴史学会)を参考にした。(6)宮本圭造氏の御教示による。