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近代日本の国際法受容をめぐる一考察(一) : 日韓 の比較を交えて

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(1)

近代日本の国際法受容をめぐる一考察(一) : 日韓 の比較を交えて

その他のタイトル A Study on Reception of International Law in Modern Japan : On Comparison between Japan and Korea (1)

著者 坂元 茂樹

雑誌名 關西大學法學論集

54

1

ページ 50‑81

発行年 2004‑05‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/12176

(2)

三日本による近代国際法の理解

周知のように︑日本の近代化は明治維新によって開始された︒この明治維新による政治・社会制度の変革は︑日本 の近代化を促進させる大きな効果を有した︒なぜなら︑かかる政治・社会変革によって︑西欧における近代認識の一 部を形成している︑前近代との鋭利な﹁切断﹂という感覚と﹁新しい価値の時代﹂という近代認識を︑日本がもちえ たからである︒すなわち︑明治維新による封建体制の崩壊と近代国家体制の建設は︑当時の日本人をして︑こうした

﹁切断の歴史意識﹂を持つことを容易にしたと思われる︒他方︑思想的には福沢諭吉の﹁脱亜入欧﹂に代表される︑

日韓の比較を交えて

近代日本の国際法受容をめぐる一考察

0)

(3)

近代日本の国際法受容をめぐる一考察(‑) 形成されていったといえる︒ 明論之概略﹄(‑八七五なるとの認識が潜んでいた︒福沢は︑﹃文明論之概略﹄

ある種の未来像としての﹁西欧型国家体制﹂の希求が行われたことも︑促進要因の︱つであった︒福沢は︑その﹃文

︵明治八︶年︶が示すように︑欧米を﹁最上の文明国﹂︑日本や中国などアジアの国を﹁半開

の国﹂︑アフリカなどを﹁野蛮の国﹂とみなし︑かかる後進性の意識を媒介として︑非西洋が西洋に発展する道を模

(2 ) 

索した︒明治国家は︑国民国家体制の確立を目指し︑プロシアにならった立憲君主制度を採用するとともに︑官僚制

(3 ) 

度の導入や国民への教育の普及をはかった︒そこには︑当然︑国家主義は国民意識を前提としてこそ確固たるものに

の第二章において︑﹁西洋の文明を目的とする事﹂を説くと同

時に︑他方で﹁日本にては開闘の初より國骰を改むることなし﹂とした上で﹁日本人の義務は唯この園骰を保つの一

( 4 )

5

箇條のみ﹂と述べている︒同時に︑﹃通俗国権論﹄の中で﹁国権を重んずる事﹂を論じ︑﹁園の勢を作り又これを愛ず

一朝一夕の能す可きに非ず︒政府たる者にて之に注意す可きは固より論を侯たずと雖ども︑人民も亦決して傍

観す可らず︒菅に学者士君子の流のみならず︑百姓も町人も婦人も小兒も常に独立國の大義を忘れずして︑外國人に

封しては格別に心を用ひ︑一声宅の櫂利をも等閑にすることなかる可し︒これを園櫂︵ナショナリチ︶を重んずるの人

(6 ) 

と云ふなり﹂と啓蒙し︑かかる国体を維持し国権の伸張をはかるにふさわしい﹁国民﹂の創出に尽力したのである︒

( 8 )  

こうして︑西欧の国民国家間の関係を規律していた近代国際法を﹁受容﹂する社会的基盤が︑日本においても徐々に

ただ︑そうした﹁国家意識﹂の受容を可能にした要因として︑近世日本の儒教が︑本来のそれとは異なり︑文化意

識よりも国家意識が強かった点を忘れてはならない︒丸山填男の研究にあるように︑政治的思惟の優位とその﹁道の

(9 ) 

本質が治國平天下といふ政治性に存し﹂ていた祖株学の影響を見過ごすことができないように思われる︒近代日本に

(4)

たという意味で

おける国家主義の強靭性は︑実はこのように︑前近代において強く観念されていた国家意識を基盤としていたのであ

( 1 0 )  

る︒もちろん︑﹁国民意識とそれを背景とした国民主義の生誕には明治維新を侯たねばならなかった﹂が︑かかる前

( 1 2 )  

期的国家意識の存在ゆえに︑日本は西洋列強が強要する国民国家体制にスムーズに移行しえたともいえる︒朝鮮半島

においても︑金玉均に対する回想︑すなわち︑﹁彼はいつも我々に︑日本が東洋のイギリスとなるならば︑我々はわ

が国をアジアのフランスにしなければならないといった﹂という回想に端的に現れているように︑西欧近代国家がそ

( 1 3 )  

のモデルとして提示されていた︒彼が目指したのは︑清国との間にある伝統的な朝貢体制を打破して︑近代的な条約

( 1 4 )  

︵国際法︶体制に一元的に移行することであったとされるが︑ここでは朝鮮を呪縛していた旧来の制度︵中国とその

周辺の蕃属国との位階的な東アジア秩序︶を打破する道具として国際法が認識されていたことに注目したい︒すなわ

ち︑朝貢システムから条約システムヘの移行が志向されているのである︒東アジアの国際システムの近代化は︑まさ

しくこうしたシステムの変更に他ならなかった︒しかし︑不幸にして︑日本と異なり︑趙景達教授によれば︑﹁強固

( 1 6 )  

な朱子学的伝統と小中華的世界観の中で思惟していた朝鮮の場合は︑文字どおりの儒教的文化主義が貰徹していた﹂

とされる︒換言すれば︑日本と異なり︑国家主義の基盤に欠けていたといえる︒申采浩による︑﹁愛国する者は必ず

国粋を重く知り︑国粋を重く知る者は必ずその国を愛するものだ﹂という啓蒙活動が展開されるのは︑後年のことな

( 1 7 )  

のである︒また︑もう︱つの要因として考えられるのは︑華夷秩序における日本の地位の特殊性である︒近世日本の

政権であった徳川幕府もまた︑七世紀以来の自主的意識︵独自の年号を建て︑中国を対等な国とみなす︶を持ってい

︵例外は古代日本や足利幕府政権︶︑東アジアの伝統的な国際秩序であった︑

不整合を抱えていた︒逆に︑このことが幸いし︑中国が華夷秩序を清算することなく︑西洋列強となしくずしに条約

いわゆる華夷秩序との

(5)

近代日本の国際法受容をめぐる一考察(‑)

容とその適用過程を振り返ってみたい︒

関係︵国際公法的秩序︶に入っていく状況の中で︑朝鮮とは異なり︑独自の立場から迅速に対応しうる国際環境を

( 1 8 )  

もっていたともいえる︒

ところで︑姜尚中教授が指摘するように︑福沢にみられる東洋と西洋との認識論的な区別に基礎を置く先の思考様 式は︑﹁文明の魁を為した﹂日本と︑﹁未開﹂の﹁固栖なる隣国﹂朝鮮という境界設定にも︑その後活用されることに

( 1 9 )  

なる︒明治維新により近代化をなしとげた日本にあって︑福沢は︑﹁西洋の文明国と進退を共にし︑其支那朝鮮に接

( 2 0 )  

するの法も︑隣国なるが故にとて会釈に及ばず︑正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ﹂ことを主張し

( 2 1 )  

た︒その後の日本の隣国朝鮮に対する対応が︑国際法を媒介として︑この通りに行われたことはいうまでもない︒福

( 2 2 )  

沢の啓蒙書たる﹃掌中万国一覧﹄に示された文明観及び人種観は︑西洋人のそれを引き写したものに他ならないが︑

( 2 3 )  

そこでも︑ヨーロッパの﹁進歩﹂に対するアジアの﹁停滞﹂という認識が示されている︒文化的に多様な国家が並存 する社会こそが望ましいと考える現代からみれば︑評価できる認識ではないが︑それをあえて好意的に解するとした ら︑かかる後進性の認識こそが日本の変革を促し︑近代化に導いた原動力といえるかもしれない︒それこそが︑中国 が清に支配されている状況で︑伝統的な東アジア秩序観の下で︑儒教の正統な承継者を自認していた李氏朝鮮との決

( 2 4 )  

定的な相違︵換言すれば︑朝鮮における後進性認識の欠如︶を生み出したともいえるかもしれない︒他方︑西欧の近 代化と日本のそれを比較したとき︑西欧近代がもちえたもう︱つの時代的個性︑自立した個人を構成単位とする社会 への移行という部分が捨象されたことを指摘しておく必要がある︒

いずれにしろ︑本稿では︑明治前期︑とりわけ日清戦争前後の日韓関係を視野に入れながら︑近代日本の国際法受

(6)

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米国大統領の日本国﹁皇帝﹂

日本による近代国際法との出会いは︑

近代国際法との遅追

一七世紀前半︑徳川幕府はローマカトリック教会の政治的支配の可能性を恐れて︑鎖国政策を採用し︑長崎におけ

( 2 5 )  

るオランダと中国との交易を除いて︑外国との通交を禁じた︒

この鎖国政策は完成するのであるが︑この後︑

和条約の締結により︑中世の解体が確認されるとともに︑主権国家を基軸とするヨーロッパ国家系が形成され︑それ とともにヨーロッパ公法︵後に地理的な外延拡大により︑近代国際法と呼称されるようになる︶が生まれ発展してい

( 2 6 )  

くことになる。当然のことながら、この間、日本はこうした近代国際法の生成•発展の埒外に置かれることとなった。

一八五三年七月八日︵嘉永六年六月三日︶︑米国東インド艦隊司令官ペリー

( 2 7 )  

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が四隻の黒船を率いて浦賀に来航した時である︒この時︑

領の︑﹁余が強力なる艦隊をもってペリー提督を派遣し︑陛下の有名なる江戸市を訪問せしめたる唯一の目的は次の

( 2 8 )  

如し︒即ち︑友好︑通商︑石炭と食糧との供給及びわが難破民の保護これなり﹂との意図が記載されていた︒メキシ コとの戦争によって一八四八年にカリフォルニアの領有を成功させた米国は︑はれて太平洋国家となり︑中国市場へ

( 2 9 )  

の進出の寄港地として︑また捕鯨船の補給︑避難港として日本の港を開港させる必要があったのである︒この時︑戸 田伊豆守︑井戸石見守の両名が︑将軍の代理人として浦賀の久里浜において︑護衛四

0

人を率いて上陸したペリー0

から同国書を受け取っている︒翌年︑

ペリーは︑今度は七隻の黒船を率いて再び日本を訪れ︑米国船舶に対する日本

への国書を捧呈することをその来航の目的としていた︒同国書には︑同大統

ヨーロッパでは三0

年戦争が終結し︑

フィルモア

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一六四八年ウェストファリア講

一六三九︵寛永一六︶年ポルトガル船に来航を禁じ︑

(7)

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の港の開港を要求した︒もっとも︑米国の政権はフィルモアからピアース に温和な対日外交政策に転換していた︒その結果︑ペリーに香港で与えられるべき訓令は平和的交渉を促すもので

( 3 0 )  

あった︒ところが︑当時︑米国本土とペリーとの通信連絡は海上輸送によるしかなく︑片道に三ヶ月前後を要してお り︵その結果︑

れもあり︑

ペリーの政府宛て請訓に対する政府の回訓にはおよそ六ヶ月前後を要していた︶︑かかる時間的なず

( 3 1 )  

ペリーは当初の訓令どおりに行動したものと思われる︒すなわち︑米国国務長官代理コンラッド

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がペリーに与えた当初の訓令とは︑①日本列島沿岸で遭難︑あるいは台風避難した米国船員 の生命財産を保護するための恒久的な条約を締結すること︑②米国船舶に対して薪水食糧を供給させるとともに︑

船舶の修理のために一港または数港を開港させること︑③米国船舶が積荷を売却または交換のため一港または数港 に出入できるようにすること︑の三点であった︒同時に︑かかる交渉にあたって︑艦隊をもって威圧を加えることも

( 3 2 )  

承認されていた︒こうした状況の下で︑徳川幕府は︑このペリーの要求に屈し︑﹁祖法﹂である鎖国政策を放棄し︑

一八五四年三月三一日︵安政元年一二月三日︶︑米国との間に日米和親条約︵神奈川条約ともいう︶を締結し︑下田︑

( 3 3 )  

函館の二港を避難港として開港することを約束した︵第二条︶︒この交渉過程で︑ペリーは︑

米清修好通商条約とほぼ同一の条約内容を示し︑日本との通商を要求したが︑応接した林大学頭はこれを断っている︒

林は︑米国船員の避難や救助︑さらには欠乏物資の提供は人道的観点からこれを受け入れるが︑﹁交易は国之利益に は候え共︑人命に相拘り候と申すは無之﹂として︑これを拒否したとされる︒結局︑

ペリーは林のこの主張を受け入

れた︒その背景には︑前述の訓令のうち︑前半の山︑②が至上命題とされ︑③の通商の開設のプライオリティはもっ

( 3 4 )  

とも低かったからだとされる︒興味深いのは︑条約締結手続に関する双方のやり取りである︒ペリーが︑条約の締結

一八四四年に締結した

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に交代しており︑すで

(8)

勅許が得られないままに︑ た︒日米修好通商条約及び貿易章程は︑幕府側の井上清直︑岩瀬忠震の両応接掛との一三回に及ぶ会談を経て︑同年

( 3 9 )  

︱一月二五日の第一四回目の会談によりようやく妥結した︒もっとも︑本条約の署名は勅許問題で遅れ︑結局︑条約の

( 4 0 )  

一八五八年七月二九日︵安政五年六月一九日︶に署名が行われた︒この交渉の間︑国際法

これを受けて︑通商条約の交渉が開始されたのは︑ は条約に署名することで誠実にこれを遵守するので︑批准は不要であるとの主張を譲らなかった︒その結果︑同条約 にあたっては︑大統領の批准や両国による批准書の交換という手続が必要であると説明したにもかかわらず︑日本側

( 3 5 )  

の最終条項︵第︱二条︶は︑批准の必要性についてやや弱い表現を採用している︒

いずれにしろ︑本条約第︱一条により一八ヶ月後の米国領事の駐在が認められ︑それを受けて︑

の交渉がただちに開始されたわけではない︒というのは︑米国大統領の親書を﹁皇帝︵将軍︶﹂に手交したいとのハ リスの申し出に対する回答が幕府から引き延ばされたからである︒この江戸出府の問題はその決着に時間を要したが︑

0月一日︵安政四年八月一四日︶に﹁万国普通常例之趣﹂として︑

( 3 6 )  

告された︒その間においても︑ハリスは下田奉行と交渉し︑

の締結に成功している︒本協約は先の神奈川条約を補足する性格をもち︑新たに長崎の開港︵第一

( 3 7 )  

条︶が認められるとともに領事裁判権制度︵第四条︶が定められた︒

日 ︶

ハリスは江戸城に登城し︑将軍徳川家定に謁見し︑ピアース大統領の親書を捧呈した︒さらに︑同月︱二日

( 3 8 )  

︵同月二六日︶に老中堀田正睦を訪ね︑世界情勢を論ずるとともに︑米国と通商条約を締結すべきことを勧告した︒ 一日︵安政三年七月ニ︱日︶︑米駐日総領事ハリス

一八五七年六月一七日︵安政四年五月二六日︶︑日米協

( T o w n s e n d   H a r r i s )

が下田に来航した︒しかし︑通商航海条約

ハリスの登城及び謁見を許す旨が布

一八五七年︱二月七日︵安政四年一

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一八五八年一月二五日︵安政四年︱二月︱一日︶

のことであっ

一八五六年八月

(9)

(

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に精通していない日本側は︑交渉相手のハリスに対し︑外交公使の派遣目的とその根拠︑接受国が公使を首都に駐在 させる理由︑公使と領事の職務の異同︑外交官の特権免除︑さらには任務終了の事由など基本的な事柄について質問 している︒万国公法の知識の習得に努めようとする幕府側の真摯な姿勢も手伝ってか︑

内容になってい紐︒この時︑

のコベット

ハリスは米国における日本国民及び

ハリスが参考にしたのは︑日本への途中ロンドンで購入したマルテンス

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による英語版

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であると思われる︒

ハリスは一八六二年の離日に際して︑幕府側に同書を寄贈している︒現在︑葵文庫に保存されている

( 4 2 )  

とされる︒興味深いのは︑日本側が接受国における公使の処遇について質問した際のやり取りである︒幕府側の質問

ハリスは﹁万国普通之法に随い取扱申し候﹂と答えたのであるが︑それに対し︑幕府側は﹁万国の法と申し 候は如何様之儀に候哉﹂と再質問している︒この質問は︑﹁万国公法﹂そのものについての説明を求めたように思わ

ハリスはその説明には大部の書が必要であるとして︑さしあたり︑﹁万国普通之法に従った取扱い﹂の内容 について述べるとして︑公使の治外法権や公使館の不可侵について説明してい知︒ところで︑貿易章程の交渉におい て︑先の日米和親条約第九条にあった片務的最恵国条項の改正を意図したのか︑

日本船舶に対して最恵国待遇を与えることを提案している︒しかし︑驚くべきことに日本側は︑渡米する日本人は少

( 4 4 )  

ないし︑幕府の好まないところであるとして︑これを断っている︒当時の日本側交渉者には︑日本人が米国への貿易 に携わるということはおよそ想像できなかったのである︒かくして︑鎖国政策による国際貿易に関する無知も手伝っ

( 4 5 )  

て︑片務的最恵国待遇がこの条約においても維持されることになったのである︒ r i

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ハリスの説明は懇切を極めた

(10)

神と神の永遠の正義を認めさせることにある︒そして

( 5 2 )  

らかを与えうるだろう﹂と述べたとされる︒実際︑彼は︑﹃万国公法﹄

面を添えて︑その説明の末尾に︑﹁天下ノ邦園萬ヲ以テ計フト雖モ︑而モ人民ハ︷貫ニ︱脈二本ケリ︑唯一ノ大主宰ア

( 5 3 )  

リテ其端ヲ作リ︑其生ヲ佑ケ其事ヲ理ム﹂と記述している︒佐藤慎一教授の表現を借りれば︑﹁マーティンにとって︑ があるとされる︒この点について︑

法﹄と云ふ観念は可なり深くしみ込んだ︒内容はまだ分らない︒法規としての性質も無論分らない︒けれども兎に角

( 4 7 )  

この萬園公法といふものの智識なしに西洋との駈引の出来ぬといふことだけは能く分った﹂というのが実情であった︒

古徴堂重刊版︵六0

巻本︶︶三部が長崎に輸入され︑この中に﹁滑達爾︵中国語でヴァッテルと発音︶各国律例﹂が

8 ) ( 4  

含まれていた︒極めて断片的なものであるが︑国際法の漢訳が日本に輸入された最初の事例である︒しかし︑本書そ

( 4 9 )  

れ自体が海防論や外国事情書として読まれたこともあり︑日本人による国際法認識にまで至らなかったと思われる︒

日本に同じく漠訳の形で国際法の知識が輸入され注目を浴びたのは︑米国人宣教師ウィリアム・マーティン

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,   中国名は丁題良︶がホイートンの({

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  (初版一八三六年︶を

﹃万国公法﹄と訳して清国で出版した(‑八六四年︵清国同治三年︶︶翌年すなわち一八六五︵慶応元︶年のこと

( 5 1 )  

である︒なお︑住吉良人教授が指摘されているように︑本書は﹁原典よりも自然法学的色彩が強調されている部分﹂

マーティンは友人に宛てた手紙の中で﹁私の仕事は︑この無神論的政府をして︑

実はかかる交渉以前︑すなわち一八五

前述したように︑交渉の過程で︑

ハリスは何度も何度も国際法に言及した︒その結果︑幕府の役人も﹁万国公法﹂

( 4 6 )  

の修得の必要性を痛感したものと思われる︒吉野作造の表現を借りれば︑﹁幕府の役人の頭には﹃萬國公

嘉永四︶年に中国より魏源の﹁海国図志﹂︵清国道光己酉年(‑八四九年︶

︵この翻訳を通して︶︑おそらく彼等にキリスト教精神のいく

の冒頭に︑原書にはない東西両半球の色刷図

(11)

によってもたらされた︒

の教育が︑実質的な布教活動に他ならなかったからである︒即ち︑﹃キリスト教文明の最良の成果﹄で ある﹃万国公法﹄を中国人に教育し︑彼らの迷信ないし先入見を打破することが︑布教の前提条件をつくり出す︑と

( 5 4 )  

彼は考えていた﹂のである︒こうした彼の手による漢訳が︑日本による当初の国際法理解にかなりの影響を与えたこ いずれにしろ︑早くも同年︑返り点︑送り仮名を付した和刻本である﹃官版万国公法﹄が幕府の開成所により出版

( 5 5 )  

されている︒本書のインパクトは強く︑その書名に用いられた﹁万国公法﹂は︑明治一

0年代に至るまで国際法を指

( 5 6 )  

す言葉として一般に用いられた︒なお︑日米修好通商条約の締結後も︑幕府は︑一八五八年八月一八日︵安政五年七

( 5 7 )  

0日︶にオランダと︑同月一九日︵同月︱一日︶にロシア︑同月二六日︵同月一八日︶に英国︑そして同年一〇

︵同年九月三日︶にフランスとの間に同様の修好通商条約を締結した

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︵安政五カ国条約︶︒こうした外交実務

の経験を通じて︑幕府の役人が︑多少の関連する国際法の知識を習得しえたとしても︑国際法一般の知識の修得には ほど遠かったと思われる︒また︑これらの不平等条約︵領事裁判権制度︑関税自主権の放棄︑片務的最恵国待遇の承 認︶の締結は︑当時の排外主義︵攘夷思想︶も手伝い︑反幕府勢力によって厳しく非難された︒

ところで︑日本への学問としての国際法の導入は︑幕府によりオランダに派遣された西周や津田真一郎らの留学生

V i s s e r i n g )  

一八六三年七月︵文久一二年六月︶︑両名はライデン大学法学部教授フィセリング

( 5 8 )  

の下に留学し︑その自宅で国際法など五科目を習っている︒一八六六年四月︵慶応二年二月︶に婦国後︑

( 5 9 )  

西は幕府開成所の教授となり︑﹁万国公法﹂を講ずることになる︒こうした背景もあってか︑鳥羽・伏見の戦いが始

まる前日︑すなわち一八六八年一月二六日︵慶応四年一月一一日︶に発生した︑幕府の蝠龍丸による薩摩藩の平運丸ヘ 月九日

近代日本の国際法受容をめぐる一考察(‑)

とはたしかである︒

(12)

一八六八年二月四日︵慶応四年

の砲撃事件の際︑幕府側が維新側よりもはるかに国際法に精通していることが実証された︒たとえば︑翌二七日︵三 日︶の幕府と薩摩藩との交渉で︑警告なしの砲撃に抗議する薩摩の使者に対し︑榎本武揚は︑幕府と薩摩藩はすでに 実質的な交戦状態にあり︑﹁出港之敵船相留るは海軍の公法﹂であるとして︑砲撃は戦時封鎖に基づく行為であると 説明したといわれる︒また︑幕府は各国公使に文書を送付し︑万国公法を援用しながら︑各国に内政不干渉を要請し たとされる︒これに比較すると︑この当時︑維新側は必ずしも﹁万国公法﹂に対する正確な知識を有していなかった

( 6 0 )  

その後︑次第に維新側にも万国公法への言及がみられるようになる︒たとえば︑

( 6 1 )  

日に発生した神戸事件の処理にあたって︑こうした姿勢がみられた︒同事件は︑外国兵が備前藩の行列を横 切ったことから備前藩兵と英米仏の部隊との戦闘が発生し︑連合部隊が神戸を一時占領し︑日本船舶を抑留するとい

( 6 2 )  

う事件に発展したものである︒この処理にあたって︑三条実美と伊達宗城との間で万国公法を用いることへの言及が みられる︒伊達宗城は︑その後の山階宮晃との会談で︑﹁万国公法﹂が﹁至当公平之法﹂であることを強調したとさ

一八六八年二月七日︵慶応四年一月︱四日︶付の伊達宗城の日記には︑﹁備と英之御処置︑万国公法

( 6 3 )  

ヲ以被決候他無之﹂との記述が見られる︒最終的には︑砲術隊を率いていた瀧善三郎が切腹することで本事件は決着 するのであるが︑万国公法の知識が次第に共有されつつあることがわかる︒

0日︵慶応四年一月一五日︶︑維新政府は王政復古を各国公使に通告したが︑その中に︑

( 6 4 )  

﹁猶外国交際之儀ハ宇内之公法ヲ以取扱可有之候間︑此段相心得可申候事﹂との記述がみられる︒﹁万国公法﹂に代

5 ) ( 6  

わり︑﹁宇内之公法﹂という表現が用いられているものの︑要は︑維新政府によって︑万国公法を基礎に外国との外

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(13)

( 6 6 )  

交関係を処理するとの意思表明が行われたのである︒安政五カ国条約に反対した反幕府勢力によって設立された維新 政府であるが︑当時︑外交の選択肢は限られていたように思われる︒実際︑かかる条約に基づく外国公使と天皇の謁 見問題につき︑同年二月一七日︑新たに職制として定められた太政官代三職より︑長文の弁明書が布告されるが︑そ の中で万国公法が釈明理由として二度用いられている︒すなわち︑﹁外國御應接の儀は上代崇紳仲哀御雨朝の頃より 年を遂て盛に成来り︑︵一部省略︶然るに近代に至りては萬民所知の如く︑船艦の利航海の術其妙を極め︑萬里の波

一時幕府の失錯とは乍申︑皇幽の政府に於て誓約有之候事は時の得失に因て其條目は可被改 候得共︑大龍に至候ては不可動事︑萬園普通之公法にして︑今更朝廷に於て之を編各革せられ候時は︑却て信義を海外 各國に失はせられ︑賓以不容易大事に付︑不被得止於幕府相定置候條約を以て御和親御取結に相成候︒現に先般御布 令被為在候上は︑皇圃固有の御國憫と萬國之公法とを御魁酌御採用に相成候者︑是又不被為得止御事に候﹂というの

( 6 7 )  

である︒この背景には︑吉野の表現を借りれば︑﹁鎖港攘夷を一枚看板にして見んごと徳川幕府の倒滅に成功した京 都政府は︑自分達には最早固より攘夷断行の決心なく︑四園の状勢は却って諸外園との親交締結に急ぐを要求するの

( 6 8 )  

で︑今更ながらその態度の豹愛をば天下に向って何と説明したものかと︑はたと嘗惑した﹂という事情があった︒そ の解決策として︑このように万国公法が用いられたというのが真相である︒

これに先立ち︑同年一月二

0

日︑新政府は幕府が締結した条約の遵守を各国に通告した︒当該通告が︑国際法上︑

承継政府として承認されるために必要な措置であったことはいうまでもない︒しかし︑未だ日本全土に対し実効的支 配を確立していないことを理由に︑政府承認までには至らなかったけれども︑同月二五日に英米仏伊蘭及びプロシア

( 6 9 )  

は局外中立を宣言した︒このように︑明治政府はいかに不慣れで精通していなくても︑国際法と国際政治の現実をあ 濤比郡の如く相往来し︑

(14)

( 7 0 )  

るがままに受け入れざるを得なかったのである︒その後︑

号を明治と改元した︒明治政府は︑幕府と同様に︑同年︵明治元年︶九月二七日には新たにスウェーデン

1 1 ウェーと修好通商•航海条約と貿易章程を、同月二八日にはスペインと修好通商•航海条約を締結した。こうした条 約締結行為を通して︑彼らにとってもまた︑国際法の知識の修得の必要性は焦眉の課題となり︑その後の数十年間は 国際法の受容にその努力が傾注されることになったのである︒実際︑幕末から明治初期(‑八六五年ー一八八

0年 ︶

(T he od or

D .  

 

00 

e y l s

)   やヘフター

( C h a r l e s e  d   Ma r t e n s )

︑ウールジー

( 7 1 )  

Wi lh ei m  H e f f t e r )

らの著作が次々と翻訳され︑日本の官僚や知識人はこれらの翻訳を通じて国際法の知識の修得に

努めることになった︒

(A ug us t  それでは、当時、日本あるいは日本人は、万国公法をどのようなものと捉えていたのであろうか。次に、幕末•明

治期における万国公法︑すなわち国際法の理解について検討してみよう︒

吉野によると︑当時︑﹁万国公法﹂なるものは相当広く識者の間に知られていたが︑その頃の認識は次のようなも のだったという︒﹁万国公法といへば今日の国際法だが︑此頃の人の頭に映じた万国公法は︑固より今日我々の有す る観念とは余程趣を異にする︒後にも説くが如く︑天地自然の大道位に之を解してゐたのである﹂︑とりわけ﹁﹃公

( 7 3 )

7 4 )

 

法﹄が動もすれば単純な公理公道と解せられていた﹂というのである︒この吉野の説明は︑尾佐竹猛による﹁この頃

の公法といふ語の用例は︑国際法の意味では無く︒当時の有識者でも万国公法とは︑万国に通ずる純理︒といふ意味 マルテンスの時期︑日本では︑

一八六八年九月八日︵慶応四年八月九日︶︑維新政府は元

̲̲̲L. 

(15)

近代日本の国際法受容をめぐる一考察(‑) に解して居ったのも甚少くは無かったのであるから﹃宇内の公法﹄といふのも﹃天地の公道﹄と︑いふも︑帰する処

( 7 5 )  

は同一である﹂との評価を下敷きにしている︒換言すれば︑﹃万国公法﹄がともすれば法律書というより思想書とし

て読まれていたといえるのである︒また︑仮に思想書ではなく︑国際社会を規律する法の体系として読まれていたと

しても︑自然法理解︵マーティンの漠訳の影響も見逃せない︶

の色彩が強かったのである︒太寿堂鼎教授の表現を借

りれば︑﹁日本の知識人及び政治家の大半は︑欧米の国際法学者が自らの著作の序論で触れる自然法によって︑国家

は実際に規律されていると考えていた︒儒教の知識と西欧の自然法の概念を結びつけて︑彼らは︑万国公法を︑強国

と弱国の区別なく︑あるいは欧州とアジアの区別なく︑すべての国家に対して実質的に平等な待遇をもたらす正義公

( 7 6 )  

道の体系と捉えていた﹂というのである︒実際︑長州藩士で後に参議となった広沢真臣は︑

万国公法によって︑﹁小国頼て以て保存するを得︑大国敢て暴威凌虐を恣にするを得ず﹂︵広沢真臣日記︶との言葉を

( 7 7 )

7 8 )

 

残している︒西周が︑﹁萬國公法ハ法學ノ一部ニシテ﹂と書き出す﹃畢酒林氏萬國公法第一巻﹄が公刊され︑実定法

( 7 9 )  

としての国際法認識を得るまでには多くの時間を費やしたのである︒

たしかに︑住吉教授の指摘にあるように︑当時の朱子学は︑﹁人間の本性は太極の理︵誠意︶が徳となって現れる

から人間の性は善である︒従って性に従うことが道となるという自然法的な思想を保持していた︒この朱子学の理論

( 8 0 )  

は︑国際法を継受するにとってきわめて都合がよかった﹂と思われる︒実際︑

類に共通する法の普遍性﹂という自然法的世界観を前提に︑国際法を非ヨーロッパ圏にまで拡大しようとした︒とこ

ろが︑日本が近代国際法に遭遇した一九世紀の国際法は︑こうした﹁自然国際法﹂に代わり︑﹁意思国際法﹂が唱え

られ︑文明国相互間の合意による実定国際法の成立︵黙示の合意たる慣習国際法と明示の合意たる条約︶が唱えられ︑ 一八世紀以前の自然法学者は︑﹁全人

(16)

( 8 1 )  

国際法の妥当範囲が文明国概念によって制限される時代に移行していた︒逆に言えば︑東洋諸国にとっては︑﹁文明

国﹂にならなければ︑完全な国際法主体の地位を獲得することができないという構造が成立していたことになる︒さ

らに︑日本が国際法に避遁したとき︑近代国際法は慣習法の時代から条約国際法の時代に移行していた︒田畑茂二郎

( 8 2 )  

教授の表現を借りれば︑﹁国際関係を規律するために条約を締結する例が目にみえてふえてきた﹂時代に突入してい

た︒しかも︑﹁意思国際法﹂のいう﹁意思﹂なるものが︑国家の真正な意思であることは要求されなかった時代であ

る︒すなわち︑当時の条約法は︑極端な形式主義を採用しており︑条約の効力を論ずる際に問題とされたのは︑合意

の形式的適法性のみであった︒合意の内容や合意に至る当事国の意思の形成過程はまったく無視されていた︒ハイド

( C .   C .  

H yd e)

が指摘するところの︑﹁条約による干渉は︑国際社会の残酷で悲劇的な特徴である︒なぜなら︑独立国

とみなされる国家から強制的に得られた技術的な同意は国家の意思の表明とみなされ︑政治的な独立を損なうような

( 8 3 )  

ものは何もなかったとの主張を維持するためにフィクションが用いられる﹂状況下にあったといえよう︒

いずれにしろ︑幕末及び明治初期にみられた︑いわば﹁至当公平の法﹂あるいは﹁正義公道の法﹂という万国公法

に対する理解は︑その後︑大きく転換することになる︒たとえば︑われわれは︑その実例を木戸孝允にみることがで

きる︒木戸は︑一八六八年三月一八日︵慶応四年二月二0日︶付の伊藤博文宛の書簡で︑神戸事件以降も相次いで生

じている外国人との衝突事件への対応として︑﹁御交際之道も新に相立候上は︹⁝⁝︺各国之公使へ御熟談判之上︑

( 8 4 )  

泄間普通之公法を以刑法等も迅速に被相定﹂と述べ︑﹁世間普通之公法﹂たる﹁万国公法﹂への信頼を明らかにして

一八六八︵明治元︶年︱一月一三日付の野村素介宛の書簡の中で︑﹁万国公法などヽ申候而も︑是

又人之国を奪ひ候道具に而︑吉字も池断不相成︹⁝⁝︺弱国は此法を以奪ひ︑強国此法に而未奪れ候を不聞︑安心不相

(17)

(

)

( 8 5 )  

成世界に御座候﹂と述べて︑万国公法への不信感を露にしている︒こうした国際法認識は同じ頃に書かれた日記にお いてもみられ︑﹁兵力不調ときは万国公法も元より不可信︑向弱に候ては大に公法を名として利を謀るもの不少︑故

( 8 6 )

8 7 )

 

に余万国公法は弱国を奪ふ道具と云﹂うべきものとの考えが吐露されている︒

木戸のこの感想にもみられるように︑日本がその近代化にあたって遭遇した近代国際法は︑二つの顔をもっていた︒

正義公道と感じた部分︑すなわち国家の主権平等の原則という理想を掲げながらも︑同時にパワーポリティクスの存 在を是認していた︒換言すれば︑近代国際法は︑国際紛争解決の最後の手段として戦争を容認することによって︑強 国に有利に働く体系であった︒近代国際法は︑公平な部分︵弱国に有利な主権平等や内政不干渉︶

と不公平な部分

︵強国に有利な戦争の法認︶という相矛盾する二つの概念を包摂していた︒こうした体系であったからこそ︑強国は︑

征服あるいは条約の締結を通して︑自らの植民地を拡大することができたのである︒すなわち︑強国は︑弱国に対し て︑武力の威嚇又は武力の行使によって︑自らの意思を押しつけることができたのである︒実際︑ある英国の外交官 は︑﹁コンスタンチノープルから江戸にいたる東洋の諸政府とかつて結ばれたすべての条約は︑武力ないしそれに相

( 8 8 )  

当するものによって強要された﹂との述懐を残している︒ペリーの砲艦外交も︑こうした近代国際法の﹁強者の法﹂

在が︑国際関係における﹃力﹄ としての側面によって初めて可能であったといえる︒逆に︑これらの砲艦外交によって締結された﹁不平等条約の存

( 8 9 )  

の支配の優越というイメージを強化する根拠となった﹂とも考えられる︒

近代日本の悲劇は︑この近代国際法がもつ﹁強者の法﹂あるいは﹁帝国主義的側面﹂を︑その本質的特徴として強 調しすぎたところにあるように思われる︒朝鮮半島との関係で︑日本は明治の初期においてこの観点からアプローチ

一八六九︵明治二︶年二月ニ︱日付の岩倉具視宛の書簡において︑木戸は︑﹁征韓之一条︹⁝⁝︺今

(18)

国権ヲ損セサルヲ以テ大眼目﹂とすべきであるとの国権論を前面に出し︑万国公法についても︑﹁万国公法ノ如キハ 畢党各国合議シテ立テシト云フニモ非ス万国共二守ル所卜云フニモ非ス唯某ハ是ノ例アリ某ハ是ノ例アリト云ゥ而己

( 9 2 )

9 3 )

 

モ記セシ書籍ニテ侍二足ラス守ルニモ足ラサルナリ﹂とのシニカルな見方に変わっていた︒その後︑不平等条約改正 のために必要な国内改革とはいかなるものであるかを探るべく︑

( 9 4 )  

使節団での経験は︑彼の国際法観を大きく転換させることとなった︒岩倉使節団は︑最初の訪問国米国での好意的な 態度に触発され︑使節団に与えられた全権委任状の範囲を超えて具体的な条約改正の交渉にとりかかったが︑米国と の主張との隔たりは大きかった︒しかも︑米国は︑日本側が交渉の最重要課題としていた関税自主権や領事裁判権の 廃止をまったく取り合わなかった︒米国は︑関税自主権については︑外国人に内国民待遇を与え︑﹁政府ノ威カアル コトノ証﹂を世界に示せばこれを認めようといい︑領事裁判権については︑日本に﹁充分二整理シタル裁判所﹂が設

( 9 5 )  

置され︑それが﹁実二充分ナリトノ証ヲ得ル﹂までの時間を経れば廃止に応じるという態度に終始したのであった︒

その後の岩倉使節団に示された西欧列強の態度も︑彼らを失望させるに充分であった︒その結果︑出発の当初には︑

日皇国御国是と相定り候処を以︑宇内之条理を被為推候御儀︑是に相戻り候ときは直に以干文御征伐被為遊候而至当

( 9 0 )  

至極之事と奉存候﹂と記し︑﹁万国公法﹂は﹁弱国を奪う道具﹂として用いられているというみずからの認識を︑い

( 9 1 )  

わゆる征韓論の中で生かそうとしている︒

興味深いのは︑書簡の名宛人である岩倉もまた︑木戸と同様に︑﹁万国公法﹂︵国際法︶に対する認識を転換した人 物であることである︒岩倉は︑当初︑外国との交際に際し︑正義公道の法たる万国公法を用いることを提案していた︒

一八六九︵明治一︱)年四月九日︑不平等条約問題に対する建議においては︑外国との交際は﹁皇威ヲ堕サス

︵明治四︶年ご一月に日本を出発した岩倉

(19)

(

)

一方で︑その経験に倣ってか︑隣国朝鮮に対しては︑

︵明治八︶年︑江華島事件を引き起こし︑日韓修好条

( 9 6 )  

万国公法を強国の道具と考える者は使節団の少数派であったにもかかわらず︑次第に多数派になっていったとされる︒

こうして︑岩倉使節団が学んだことは︑松井芳郎教授の表現を借りれば︑﹁弱肉強食の権力政治が支配する国際社会 にあって列国と並立するためには︑まず国内において生命財産を保護するにたる法体制の整備を含めて︑絶対主義的 な国家権力と強大な軍隊を確立し

( 9 7 )  

とだった﹂のである︒こうして︑懸命に国際法受容を行ってきた日本がたどり着いた明治期の国際法認識は︑尾佐竹 の言葉を借りれば︑当初︑﹁何かしら絶大の権威を有するものの如く︑彼は説き︑我は感じた﹂国際法も︑﹁結局は理

( 9 8 )  

論では無くて国力であるといふ方へ考が飛ぶ﹂ことになったのである︒そして︑その後︑隣国朝鮮を︑この﹁帝国主 義的﹂国際法の実践の場とするのである︒

松井教授は︑日韓修好条規の締結に材をとりながら︑﹁先進資本主義諸国にたいしては平等の国際的地位を要求し

( 9 9 )  

アジアの後進国にたいしては従属を強いていく﹂という明治期(‑八六八年ー一九︱一年︶の日本の帝国主 義的外交の矛盾を鋭く指摘されている︒たしかに︑安政五カ国条約などを︑日本が﹁不平等であるが故に問題化した

( 1 0 0 )  

ということ自体︑そもそも︑平等という価値が︑既に規範的前提として受けいれられていることを意味する﹂わけで︑

西洋列強への要求と対置して朝鮮との関係を見た場合︑日本による国際法規範の恣意的な使い分けが見てとれる︒し かし︑こうした矛盾は︑松井教授自身が指摘するように︑近代国際法それ自体が乃子む矛盾にすぎなかった︒

ひるがえって考えてみると︑日本は︑国際法の実践者として他に例をみない特異な地位を占めてきた︒﹁強者の法﹂

たる近代国際法によって︑その開国に際して︑ペリーの砲艦外交に屈し鎖国政策の放棄を余儀なくされた経験をもつ

( I I 富国強兵︶︑資本主義経済の育成をはかる

( I I 殖産興業︶必要があるというこ

(20)

の点について︑検討してみよう︒

第五四巻一号

( 1 0 1 )  

規を締結し開国を強要した経験をもつ︒近代国際法がもつ負の部分に異議を申し立てるかわりに︑逆にきわめて優秀

( 1 0 2 )  

な実践者としてふるまうことになった︒一八七六︵明治九︶年の日牌修好条規から一九一

0

(明治四三︶年の日韓併

( 1 0 3 )  

合条約までの五三の条約の締結を通じて︑日本は隣国朝鮮を植民地化することに成功した︒しかし︑そのためには︑

朝鮮を﹁文明国﹂として見ず︑それによって同国に対する差別的取扱いを可能とする近代国際法の法主体︑すなわち︑

日本自らが﹁文明国﹂になる必要があった︒日本による不平等条約改正の作業は︑日本が﹁文明国﹂として認知され

るために避けて通れない課題であった︒すでに︑この当時の日本の国際法認識は︑福沢の

(

︵明治︱四︶年︶にみられるように︑﹁萬薗の字も︑世界萬厩の義に非ずして︑唯耶蘇宗派の諸園に通用するのみ︑荀

( 1 0 4 )  

も此宗派外の殿に至ては會て万國公法の行はれたるものを見ず﹂との認識に転換していた︒また︑不平等条約の改正

の中で︑陸翔南は︑﹁國際法なるものは賓に 欧洲諸國の家法にして冊界の公道にはあらず﹂とし︑﹁基督教園︑白哲人種︑獣羅巴洲﹂という﹁特権掌握的國民﹂

が﹁彼等の交際間に例もなき領事裁判権をば獨り我等に適用すること︑恰も士族が斬棄御免権を平民に適用するが如

( 1 0 5 )

1 0 6 )

 

し﹂と讐えていた︒近代国際法の本質に対する理解は︑その当初に比較し数段高まっていたのである︒

それでは︑日本は︑みずからに課せられた栓桔︑不平等条約の改正をいかにして達成したのであろうか︒次に︑こ

( 1

) ここで用いている近代像は︑小谷注之﹁序論ー﹃近代﹂を人はどう考えてきたか﹂歴史学研究会編﹃講座冊界史七﹁近 代﹂を人はどう考えてきたか﹄東京大学出版会(‑九九六年︶︱│七頁の記述に負っている︒

( 2

)

慶應義熱編纂﹃福澤諭吉全集第四巻﹄岩波書店(‑九五九年︶一六頁︒もっとも︑福沢は︑﹁文明には限なきものにて︑ 関法

参照

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