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富山大学薬学部時代

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わが薬学部はあとに述べられているように︑昭和二十四年戦後の新しい教育制度のもとにできたωであるが

わが富山の薬業家がいへ学を切望したのは非常に古く明治末期にさかのぼるのである︒

明治四十一年(一九O八)松原文部犬山が富山を視察したさい︑新聞江山者が富山の薬業家が薬利大学ω治山

を希望をしているととをつげたところ︑大町は﹁薬学の知識が不完全ならば︑川県

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薬業学校の程度を一川くすれ

ば足りるのではないか︑また金沢医学専門学校の薬学科を分離して富山に新設せんとの世みもあるとすれば︑

それも無煙なことだしと符えた︒

その後宮山県以薬業学校が富山県以薬川f専門学校に昇格し︑四十一二年十二月四刊に開校式が行なわれた時︑

東京市凶大学薬学科の教授長井博士は︑その祝貯のなかで将米大学への昇格を切喰せられ︑富山市長井上政克

‑251

もまた祝砕のなかで将来大学にまで︑もってゆきたいと希明をのべていた︒

大正五年七月十三日︒富山県完薬同業組合宮山支郎では︑役員会を聞き︑薬学専門学校を大学機椛組織にす

ることについて協議し︑代表として刈桑直助︑叫沢金広︑藤井諭一二︑中川久正の四氏をして木間瀬策三畑一引を

(2)

4 

訪問させ︑意見をのべ︑知事の意見をきいた︒知事は﹁同問題は多年県民の熱望しているところであり︑政府

もまた異議がないようであるが︑財政上の都合で実行にまで至らないしだいである︒先日も上京の折り︑わざ

わざ文部省に松浦専門学務局長を訪問︑意見を述べ急速に実行に移すよう希望しておいた︒このようにたえず

注意を怠らないのである︒今後も促成に努力する﹂と答えた︒代表等は知事の努力に期待して帰った︒

北陸薬報の薬界時言の中で︑広貫堂社長都沢金広は薬専の単科大学昇格に批判的で︑大学より︑薬専に製造

化学の学科併置がよいといっていることを見ても︑この頃においても︑大学昇格のことが薬業界及び県でも考

えられていたと推測できる︒

昭和五年六月二十二日

富山薬業同志会では︑第二回総会において沢田佐一郎の緊急動議で大学昇格を決議した︒

昭和八年

県下の業者によって母校の大学昇格の議願が常国議会に提出された︒

一一︑戦後の教育と新制大学

昭和二十年八月︑太平洋戦争は日本の敗北をもって終結した︒連合国総司令部は︑昭和二十年十二月十五日

﹁国家神道︑神社神道に関する政府の保証︑支援︑保全十︑監督ならびに弘布の廃止に関する指令﹂を出し︑さ

らに十二月三十一日に︑﹁修身︑日本歴史および地理停止に関する指令﹂を出した︒これにより校内における

(3)

御真影︑奉安殿︑英霊室︑神棚などの除去が指示され︑二十一年五月︑文部省の新教育指針は﹁人間性︑人格

﹁民主主義の徹底﹂をかかげ︑平和国家︑文化

﹁科学的水準及び哲学的︑宗教的教養の向上﹂

国家建設を高らかに歌ったものになった︒

新憲法は昭和二十一年十一月公布され︑教育面では︑昭和二十二年三月︑民主主義的教育の基本原理をおり

こんだ教育基本法と︑新しい六・三・三・四の教育組織の確立を規定する学校教育法とが制定公布され︑との

二つの法律は︑富山大学を含めた新制大学を規制して現在に及んでいる重要な法律である︒

三︑富山大学の発足と薬学部への転換

文部省は戦後の大学設立認可に関する基準を定めるため︑十名の専門家より成る﹁大学設立基準設定に関す

る協議会﹂を昭和二十一年十月という戦後の日なお浅い時期に発足させた︒同年十二月に六・三・三制の上に

設けらるべき大学は四年制の新しい制度によるべきことが決定され︑建議されるに至った︒昭和二十二年三月

協議会の性格もC

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の示唆により︑文部省の直接の運営を止め︑四十六名の大学の代表から成る自主的

‑253

昭和二十三年一月に大学設置審査委員会が作られ︑前記の協議会から半数の人が参加し︑計四十五名からな

るもので発足した︒C

I‑E

当局は大学設置に関する十一ケ条を示し︑文部省はこの原則に一部の修正を加

えて︑国立大学の実施計両を立てた︒この中には従来︑日本の大学が大都市にのみ集っている弊害を指摘して

とれを是正するために一つの府県に一つの大学の実現を図ることと︑各都道府県には必ず教養および教職に関

(4)

‑254‑

する学部を置くという原則も含まれていた︒

﹂のような情勢は︑中央においてのみならず︑地方に

おいても大学の設史の可能性を思わせるものであった︒

地方では新制中学や新制高校の問題が︑より大きく関心

をよんでいたが︑富山において大学を設いはしようという

官!lJ大学正門(左側3番目が薬学部)

声が漸く大きくなったのは昭和二十二年春ごろからであ

った︒六・三・一二の新学制では旧制の高等専門学校その

ままの存続を許さないことが明らかになってきたからで

戦災で消失した富山薬学専門学校は岩瀬の富山山等学

校に昭和二十二年三月まで間借りしており︑二十二年四

月に奥田に復旧した三一棟の校舎に移った︒この問︑横岡

校長を先頭に︑尽力した結果他の学校に先んじて︑復興

が進み︑伝統ある母校も︑かつてあった程度の校舎を建

て︑授業と研究が行なえる迄に復旧する事を念じた︒し

かも一方では︑ながらく願いつづけてきた大学昇格への

発展が望める場一山にたちむかつたわけである︒

昭和二十二年七月頃から富山薬学専門学校︑富山市等

(5)

学校︑富山師範学校︑富山青年師範学校︑高岡工 業専門学校の五人の校長からなる大学設置委員会 を結成した︒また各校から選ばれた教授一名と事 務長をあわせて︑大学設置委員会幹事会を︑また 各校から選ばれた二名の教授からなる人事内審委 員会も発足した︒これ等の委員の人達も伝統を異 にする各校の利益代表者たる立場を超えることは

ホ什易でなく長い間の意見の調整が必要であった︒

会合はしばしば聞かれ︑総合︑連合︑複合大学へ と変わったが︑昭和二十三年五月になって︑ょう ゃく四学部を有する複合大学としての富山大学と いう案に落着いた︒大学全体の設置申請書を二十 二年九月に本省に提出し︑それに対し早くも昭和 二十三年秋には大学資格審査委員会の一行を迎え る事になった︒書類審査と攻場視察により大学と

‑255

して適性が決定されるのでまととに心中複雑なも のがあった︒委員長は当時の一橋大学の上原教授 であり︑外数名の委員は国公私の大学教授をもっ

富 山 大 学 烏 敵 図

(6)

て編成され主に薬学担当は刈米博士であった︒各高専を隈なく視察され最後の講評が高岡市延対寺旅館の大広

‑256

間に於て行なわれた︒他学部は教官人事︑施設等についてかなり条件を附せられたが︑薬学部に関しては︑横

国校長の努力が認められ︑教官人事は難なくパスし︑只内部設備について至急整備するよう注意をうけたに止

まった︒それに思いがけず上原委員長より戦災復興の実の挙れる事を賞讃され大いに面目を施した︒

かくして昭和二十四年三月富山大学の設置が許可された︒早速学生募集要項を作り︑入学試験を実施するこ

とになり︑富山大学各学部共通で行なう事になった︒この際︑文部省は富山大学は二期に実施すべきょう指示

があった︒そして富山大学設立の日付は昭和二十四年五月三十一日と

決められた︒しかし︑実際上の関学とするには︑事務的な機構と人事

の決定があった︒青年師範学校は師範学校と合併し︑各校長は学部長

に任命された︒次に初代学長は第四高等学校長であった鳥山喜一氏に

決まり︑場所は︑横田薬学部長等の英断により︑母学本館二階全部が

本部事務局となった︒七月十五日に六百三十六名の最初の入学式が行

なわれ︑校長会︑幹事会は解散の意味と今迄の労苦をねぎろう意味で

ささやかな祝宴を持ち︑ここに富山大学は発足した︒

四︑記念の校庭と資料館

本館の前の植木︑第一号館と第二号館の問につくら一れた和風の巾庭

(7)

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またながく奥田の間十一にあった弘氏薬ヤ咋すべて明川の庭から移したものである︒

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山内川の門内近くにあった大鳶れも︑

同窓生になっかしい止を思い山

させるものとなることであろろ︒

また近く︑口以格管決定

vi ω山一!にで移管のために古川勺された一万一川恒京正市長の策になる門碑のついた門柱 も移されることになっ℃いる︒さらに十月に完成を予定されている同窓会の記念館である資料館の一心念宅には

L1 J校以米の写去︑A︑その仙の資料を飾ることになっている︒

薬学部の目標・組織・維持

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同和二十二年に制定された円J

校投与円法は︑その第五十二条において︑新制大学の目的について規定してい る︒それによれば﹁大学は乍仰

ω巾心として︑広く知識を授けるとともに︑深く専門の学芸を教技研究し︑知 向︑道徳的及び応用能汀を民間させることを目的とする

o﹂としている︒すなわち新制大学は︑日ら一専門の学

芸について︑研究開桁するとともに︑学生に対しては︑広く学術のすぐれた知識と方法とを授け︑かれらがや

‑257

がて社会の何みと発展に七分加すべき基礎を培う機関であるとした︒これは大学令に規定していた明治以来の︑

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かなり異なったものである︒旧制大学は﹁学術ノ菰奥ヲキハメ︑兼ネテ人格 スル﹂といソた叫に汁して︑新制大山一子の日的は︑はるかに具体的に学校教育法に一不されている︒呉 旧制大学が目的としたところと︑

(8)

体的ではあるがまた目的が拡大されていることも否定し難い︒昭和二十三年一月文部省が刊行した﹁日本にお ける高等教育の再編成﹂というパシブνツトにも新制大学の特徴は次の点に要約されるとしている︒すなわち

一般教育の尊重︑職業教育の重視︑大学院に連なる学問研究の推進の三つである︒

大学院の目的については︑学校教育法第六十五条に﹁大学院は学術の理論及び応用を教授研究し︑その深奥

をきわめて︑文化の進展に寄与することを目的とする﹂と規程し︑研究を通じて社会に寄与し︑貢献すること

を︑たからかにうたっている︒

初代学長︑鳥山喜一氏の学長夜任期間は︑昭和二十四年七月より昭和二十八年十二月迄であった︒学長就任

当初の重要な仕事の一つは︑学内の清規定を含めて︑大学の制度を整えることにあった︒現在では六十余の学

則︑諸規定があり︑内規は三一十余あるが︑重要な諸規定の多くは︑当時に制定されたものであった︒

則にとってみると︑昭和二十三年に文部省に提出した富山大学設立認可申請書には︑学則の案も記載されては

あったが︑鳥山学長はこの案に渦込することができなかったと見えて︑白から学則を起案して︑大学の最高の

審議機関である評議会に諮って検社し︑相当の時日を要したが審議決定した︒大学の評議会︑協議会規定も昭

和二十七年一月に制定された︒関学当時の学生生活は一般に食糧難︑住宅難︑衣料難等の困難な事情のなかに

あり︑学生の厚生補導は極めて慎重一を要する情況にあった︒学生が守るべき守則を制定することは︑学閣の秩

序を維持し︑大学における研究の白白を確保するためにも︑必要が痛感されたので︑学生守則が︑評議会や協

(9)

議会の規定にさきだって昭和二十四年十一月に制定された︒附属図書館も新たな部局として発足し︑いちはや

く昭和二十四年八月に規定され現在に及んでいる︒また薬学部規定は二十五年九月二十日に制定されている

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以上のほか︑学内における諸制度の整備について言及すべき事項は非常に多い︒たとえば学長や学部長その

他の部局長の選考に関する基準のこと︑また名誉教授や教授・助教授等の選考基準︑さらには各学部教授会の

規定︑その他事務組織規定︑一事務分掌規定︑文書処理規定等々多くの規定を︑大学運営の規範としている︒そ

れ等の諸規定による制度の整備についても︑さまざまな沿革と経過があるわけであるが︑しかしいまは︑これ

らの諸制度が附和二十四年の大学の発足から︑昭和二十八年ごろまでの聞に大体整備され終ったことを記すに

とどめる︒ただし時代の推移にともない︑諸規定の部分的修正が行なわれていまに及んでいるということがで

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富山大学には薬学部・文理学部・経済学部・工学部・教育学部の五学部があり︑薬学部には附属研究施設と

して和漢薬研究施設があり︑教育学部には附属学校として中学校︑小学校︑幼稚園がある︒別に夜間の経営短

期大学がある︒このうち経済学部は昭和二十八年︑経営短大は三十四年に︑他は開学と同時に発足している︒

‑259

学部とは別伺に事務系の事務局︑学生部︑附属図書館があり︑薬学部の事務部は︑これ等の所謂本部とは関

大学発足以来十六年経過しているが︑この間に薬学部に勤務していた人および現在の常勤者を︑教官の方は

(10)

講座別︑事務部は係別︑発令順にみると次のとおりである︒

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薬品物理化学講座

薬品合成化学講座

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助教授・講師

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大浦彦吉

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松瀬久仁子

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薬学部の前身である(目立富山薬学専問宇校は富山ぃ巾奥田五蕃地に充実した研究施設と内部設備および広大な

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(14)

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敷地と薬草園を有していたが︑昭和二十年八月一日深夜に戦災で全焼し︑残ったのはレシガ造りの二階建て書

庫一三二必と平屋建て薬品庫五十ぽに過ぎなかった︒当時の横田義右衛門校長は︑戦禍激しい中をただちに文

部省に報告と対策伺いに出向いた︒

しかし本省には文部次官他一名が登庁していたに過ぎず全く前途の見通しがたたなかった︒富山薬業会の主

要人と横田校長らは大阪︑東京方面の薬業界に母校復興促進への支援を依頼して歩いた︒昭和二十一年一月二

十八日同窓生有志が復興促進期成会を結成︑涙ぐましい努力がなされた︒その結果︑全国戦災校にさきがけて

昭和二十一年度より次表の通り着々と復興が進行した︒

このことは伝統ある歴史の力でもあり︑大学昇格や大学院設置の基礎をなしてきたものと恩われる︒

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敷地面積(ぽ)

昭和二十一年度

衛生化学(中井記念館)

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昭和二十四年度

薬品分析化学講座

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昭和二十五年度

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昭和二十七年度

生物薬品化学講座

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昭和二十八年度

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昭和二十一年度

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昭和二十二年度

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昭和二十三年度

電気︑給排水および寄宿舎施設費四八四︑四五国費および寄付

昭和二十四年度

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昭和二十八年度

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その問︑発足当時の建物のうち︑薬化学︑衛生化学︑薬剤学講座の内部改装を行ない︑昭和三十年に衛生化

学講座の西側八十二dを放射性同位元素研究室として改築︑薬剤学講座の一部に無菌製剤室︑天秤室︑有機微

量元素分析室を設け︑生物薬品化学講座の一室を赤外分光分析室として改装した︑また温室の一部を動物舎に

転用した︒このようにして昭和二十二年度以降︑薬学部の建物延坪数二四六回坪に達し︑戦前富山薬学専門学

校の三O五三坪に対して約八O%の復興を達成した︒

(18)

‑268‑

富山大学発足当初からの念願であった五福地区学部集中計画が次第に

再燃し︑遂に昭和一二十七年度および三十八年度の二カ年で五福地区に一

部四階建︑他は三階建︑H型の鉄筋コシクリlトの近代建築を総工費二

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円で施工し昭和三十九年度にはアイソトープ研究

室および温室が建てられた︒

更に昭和四十年度には薬系大学で初めての研究所である和漢薬研究施

設が鉄筋四階建てで二号館の後部に建てられる予定でこれと並んで七十

五周年記念事業による記念資料館八十八坪が建築予定である︒

その概要は別図および次表の通りである︒

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二号館および共通棟

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恒温恒湿内装など

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給排水ガス工事

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(24)

薬学部の経常費は別表の通りであるが︑戦後の復興と経済的に困難な時代であったために︑大学昇格以来十

数年は学部にとって運常はなかなか苦しい年月であった︒

そのために富山大学設置期成同盟会及大学後援会の設立は︑学部の経理に多大の援助をなしてきた︒

また︑県または地方の薬業会社から︑奨学研究費︑教育研究の助成の名で多額の研究費が援助され︑さらに

図書館後援会からの多数の図書雑誌が寄付され︑今日のごとき︑全国稀に見る充実振りを発揮してきた︒

富山大学設置期成同盟会は県知事を会長とし昭和二十三年発足以来︑今日なお継続せられ︑薬学部では奥田

校舎の薬草閑の中にあった医薬資源研究室即ち薬物教室を始め︑経済学部︑図書本館︑本部建物︑体育館新築

工事︑各種備品および図書費を毎年供与され︑との援助費は大学発足以来二億二千万円の巨額に達しているこ

とは日本の国史大学のなかで極めて珍しい事実であり︑大学の歴史の中に特記さるべきであろう︒

さらに富山大学後援会は昭和二十五年八月に発足して今日におよんでいる︒本会の目的は︑富山大学の運営

に対する助成・教授の研究奨励ならぴに補助・学外講師の招璃費補助・学生の奨学・公開講座の開設などであ

って︑会員は夜学生の父兄を含む一般有志のほか法人や団体などであって︑県知事を会長としている︒

富山大学設置期成同盟会が︑大学発展の援助者であるとすれば︑大学後援会は大学運営の援助者たる役割を

果しつつ今日に宅ったということができる︒

参照

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